2020年1月9日木曜日

フォン・ノイマンについて(2) 育ちと性格

(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

 

 フォン・ノイマンはユダヤ系のハンガリー人である。銀行家であった父親のマックスは、フォン・ノイマンが幼い頃から彼の兄弟とともに家庭で「セミナー」を開いていた。マックスはそこで家族めいめいがその日おもしろいと思ったテーマを発表させて討論させた。このさまざまな観点からの意見をぶつけ合う機会はフォン・ノイマンの成長にかけがえのない役割を果たした[1]。

 父親のマックスは、フォン・ノイマンのための高校にラテン語やギリシャ語をみっちり教えるブタペストのルーテル・ギムナジウムを選んだ。そこの校長はフォン・ノイマンの数学の才能をたちまち見抜き、高度な数学を学べるように取り計らった[1]。しかし校長は、フォン・ノイマンに数学だけに特化した教育を行ったわけではない。幅広い教養が必要と考えていた校長は、ほかの学科の教育にも十分に配慮した。ちなみに学校の1年先輩に、後に原爆開発に一緒に携わるノーベル賞物理学者ウィグナーがいた。

 また、フォン・ノイマンは歴史にも強い関心を持っており、ドイツの名高い歴史家ウイルヘルム・オンケンの「世界史」全44巻を隅々まで読んで、一部は年老いてもそらんじることができたという[1]。彼の歴史好きは一生続いた。彼が持つ歴史や一般教養の深い知識は、彼自身の人格や発想の幅を広げるのに不可欠の役割を果たしたことは間違いない。

  フォン・ノイマンの能力の特徴の一つは、頭の回転の速さと深い集中力であろう。彼は会話などによって何かアイデアのヒントを感じると、それを一足飛びにはるかかなたの新しい理論や実現可能なものに結びつける能力があった。彼のアイデアは単なる想像ではなく数理学的な裏付けを持ったものだった。そのため、その後彼自身や関係者がそれに沿って理論の肉付けを行って発展したもの、実現したものが数多くある。


 それが他の人から見ると、フォン・ノイマンは「誰かがひとつ提案をしようものならひっつかんであっという間に5ブロック先まで行ってしまう」とか、「彼の膨らんだ発想を理解するのに自転車で特急を追いかける気分だった」という感想となった[1]。オリジナリティというものとは少し異なるのかもしれないが、彼の発想がなければ発展しなかった理論や、実現するのにはるかに時間がかかったものも多かったのではないかと思われる。その価値はオリジナリティにひけをとらない。

 ところで、古今東西の天才的な学者で、自尊心を満たすために他人に対して攻撃的な人や、人付き合いが嫌いで内向的な人は枚挙にいとまがない。しかし、フォン・ノイマンは数理学的な解析に天才的な才能を持っていたにもかかわらず全く異なった。

 フォン・ノイマンは他人の尊厳に気を遣い、子供のころから言い争うことで他人を傷つけまいと固く心に決めていた[1]。おそらく理屈や頭の回転の速さでは彼は誰にも負けなかっただろう。しかし言い負かせば相手の尊厳は傷つくし、そのために相手の感情を損ねてしまうことも知っていた。人間は理屈だけでは動かない。彼は論争の先を見越していたとも言える。人生何が起こるかわからない。相手の感情を損ねれば、将来得られるかもしれない協力をも失ってしまうかもしれないというリスクを若い頃から熟知していた。

 それだけでなく、
フォン・ノイマンは人なつっこさと快活さを生涯持ち続けた。人間の猜疑心や自尊心が作り上げる険悪な場の空気を、とっさの冗談で一瞬にして和ませ周囲を親密な雰囲気に変える名人だったらしい[1]。それもあって年を経るに連れて彼に好意的に協力する人々が増えていった。明晰な頭脳に加えて多くの人の協力を得られれば、鬼に金棒である。

 しかも
フォン・ノイマンは科学だけでなく実務能力にも長けていた。沈滞した数多くの委員会やプロジェクトを活性化・機能化させ、大きな成果に結びつけた。そのため後に大統領直属の政府委員会の委員にもなった。彼は「人間」というものを熟知していたともいえるかもしれない。

 後の原爆開発プロジェクトでの爆縮レンズの研究、電子コンピュータや核戦争抑止のための戦略ミサイルの開発は、
フォン・ノイマンが確固たる理念を持ち、築き上げた広い人脈によって様々な分野の多くの研究者の協力を仰いで、彼らをうまくまとめ上げたからこそできた。私は数理学的な解析の天才でありながら、このように人間的に豊かな魅力を併せ持った人を他に知らない。


つづく

参照文献

[1]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書

2019年12月31日火曜日

フォン・ノイマンについて(1)イントロダクション

(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。) 

 
 ジョン・フォン・ノイマン(John von Neumann, 1903-1957)は20世紀の天才である。彼は世界的に有名な科学者であり、さまざまな学問分野で第一級の業績を上げ、現在彼の業績をもとに発展している科学分野も多い。人類始まって以来の天才の一人と言えるのかもしれない。

 彼の業績の中で気象学への貢献は、彼の中ではわずかでしかないと思う。しかし、数値予報の歴史から見ると彼の業績は絶大である。現在の人々は、コンピュータを用いた数値予報という形で彼の恩恵を蒙っている。元気象庁長官である新田尚が気象学会誌で「コンピューター・サイドからの数値予報の歴史を明らかにすることも重要であることを特に強調しておきたい。」と述べている[1]が、本の「10-2 数値予報の試み」で触れているように、その黎明期はまさにフォン・ノイマンの独壇場であった。

 フォン・ノイマンの業績に触れた書は多いが、ある専門分野での業績に絞ったものが多く、彼の業績全体を網羅したものはそれほど多くないと思われる。その理由は、彼の業績の広さと深さにある。彼はいろいろな分野で最先端の業績を残した。それぞれの専門家が自分の専門分野での彼の業績を評価することは容易であろうが、あまりに幅広い分野での彼の奥深い業績を、あまねく評価できる人は多くないのではないか。

 そういう中でアメリカのノーマン・マクレイが書いた「フォン・ノイマンの生涯」(朝日選書、渡辺正、芦田みどり訳)は、フォン・ノイマンの業績を広く総括していると思う。これはマクレイが経済学を専門としたジャーナリストで、多くの人々に取材したからできたのだろうか?ここでは数回に分けて、この本を参考に他の文献なども合わせて、気象学だけでなくそれに影響を与えたと思われる彼の業績を広くまとめてみたい。

 まずフォン・ノイマンの業績の流れだけ記しておくと、彼は1920年代の純粋数学界に新風を吹きこんだあと、できたばかりの量子力学、理論物理学、応用物理学、意思決定理論、気象学、経済学にそれぞれの発展の方向性を決めるような大きな業績を残し、原子爆弾開発などの軍のプロジェクトにも参加し、また学問だけでなく第二次世界大戦後はアメリカ政府の核戦争抑止ための政策にも大きく関与した[2]。

 フォン・ノイマンが関わった学問分野としては、集合論、代数学、機能の理論、測度論、トポロジー、連続群、ヒルベルト空間論、作用素論、束論、連続幾何学、理論物理学、量子論、統計力学、流体力学、一次方程式と逆解行列、ゲーム理論、経済学、電子計算機の理論と動作、モンテカルロ法、ロボットの理論、確率理論、核エネルギーと核兵器の確立などがある[2]。彼には150編を超える論文がある。それらのうちの約60編は純粋数学(集合論、論理、位相群、測度論、エルゴード理論、作用素論と連続幾何学)に関して、約20編は物理学に関して、約60編は応用数学(統計、ゲームの理論とコンピュータ論を含む)に関するものである[3]。おそらくこれらのどれか一つの分野でも彼は一流の専門家として十分通用したであろう。そう考えると彼は鬼才だったとしか言いようがない。

 なお、1940年代に原子爆弾の開発に大きく貢献した4名のほぼ同年代のハンガリー人がいる。レオ・シラード(1898–1964)、ユージン・ウィグナー(1902-1995)、フォン・ノイマン(1903-1957)、エドワード・テラー(1908-2003)である。彼らは、19世紀末から20世紀初めにブダペストの同じ地区に生まれ、同じ学校に通ってアメリカで活躍した[4]。当時のハンガリーの教育システムが卓抜していたのだろうか?ノイマンはその一人でもある。また偶然かもしれないが、この時代はハンガリーがやはり世界的に有名になった同年代の指揮者を続々と輩出した(フリッツ・ライナー、ジョージ・セル、ユージン・オーマンディ、アンタル・ドラティ、ゲオルク・ショルティ、フェレンツ・フリッチャイ)ことでも知られている。

つづく

参照文献

[1] 新田尚-2009-1 数値予報の歴史―数値予報開始50周年を迎えて―, 天気, 56, 11, 894-900.
[2]Gass S. I. (2006) IFORS' Operational Research Hall of Fame: John von Neumann. International Transactions in Operations Research, 13 (1): 85-90.
[3] P. R. Halmos, (1973) The Legend of John Von Neumann, The American Mathematical Monthly, 80, 4, 382-394.
[4]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書

2019年12月17日火曜日

これまでのタイトル(1~60)の整理

これまで書いたブログ(1~60)の目次を一度整理しておきます。
俯瞰してタイトルを見て、目的のブログにアクセスすることができます。

1 いまさら歴史?
2 数学者オイラー
3 地球環境の長期監視の重要性
4 科学と技術
5 学会と気象観測
6 「天気の子」と気象改変
7 大気力学でのソレノイド
8 前線のその後
9 歴史と新たな発想
10 ペリーとレッドフィールド
11 初めての風力計
12 嵐の構造についての発見
13 インターネットの発展と文献
14 ムンクの「叫び」とクラカタウ火山
15 ロバート・フックと気象観測
16 ケッペンについて1
17 ケッペンについて2
18 古代中国での気象学(1)初期の考え方
19 古代中国での気象学(2)天人相関思想
20 古代中国での気象学(3)気象観察
21 古代中国での気象学(4)二十四節気
22 リヒャルト・アスマン(その1)
23 リヒャルト・アスマン(その2)
24 テスラン・ド・ボール
25 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1) 概要
26 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(2) 初期の気球観測 
27 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(3) 本格的な観測の始まり
28 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(4) 無人気球による観測の問題点
29 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(5)初めての無人探測気球観測
30 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(6) ドイツのアスマンによる観測
31 時代と民族を超えて気象の解明に尽力した人々の記録
32 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(7) ヨーロッパでの組織的観測
33 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(8) テスラン・ド・ボールによる発見
34 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(9) ドイツのアスマンによる発見
35 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(10) 成層圏存在の認知
36 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(11)成層圏の存在と原因の広がり
37 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(12)成層圏発見の意義
38 ウィリアム・ダインス(1)家系と彼の若い頃
39 ウィリアム・ダインス(2)テイ鉄道橋大惨事について
40 ウィリアム・ダインス(3)風速計の調査
41 ウィリアム・ダインス(4)新たな風速計の開発
42 ウィリアム・ダインス(5)高層気象学への貢献
43 ヨーロッパでの竜巻研究についての補記
44 気象観測と時刻体系
45 雪の観察
46 「気象学はこうして生まれ発展してきた」
47 気候学の歴史(1) 気候(気象)観測の始まり
48 気候学の歴史(2) 当初の気候観測と人間生活の関わり
49 気候学の歴史(3) 気候学研究の始まり
50 気候学の歴史(4) 気候統計とデータ処理
51 気候学の歴史(5) 気候データの保管
52 気候学の歴史(6):気候学の変革
53 気候学の歴史(7):気候モデルの登場
54 気候学の歴史(8): 気候モデルと日本人研究者
55 気候学の歴史(9): 気候モデルとコンピュータ
56 気候学の歴史(10): モデル技術を用いた気候再解析
57 世界規模観測網(レゾー・モンディアル)と国際政治
58 気温測定の難しさ
59 気温のトレンド(長期変化傾向)把握のためのデータセットについて
60 フンボルトとコロンブス

2019年11月27日水曜日

フンボルトとコロンブス(Humbolt and Columbus)


フンボルトについては本の5-1-1アレクサンダー・フォン・フンボルトについて」でその生涯と業績、および気候図の作成についてまとめているが、少しその補足を行っておきたい。

フンボルト
ドイツの博物学者、探検家であるアレクサンダー・フォン・フンボルト(Alexander von Humboldt, 1769-1859)は、若い頃言語学、解剖学、地質学と天文学を含む幅広いさまざまな研究分野をハンブルグ、イェナとフライベルクの大学で勉強した。卒業の後、1792年にプロシア政府の鉱山の調査官となった。彼は鉱山の調査だけでなく植生の調査も行い、この仕事によって彼は自然研究者でもあった著名な詩人ヨーハン・ウォルフガンク・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の注目を受けた。

フンボルトはゲーテによって多くの科学者や知識人との知遇を得た。フンボルトの探検時以外の人生の多くはサロンなどでの知的議論に費やされることになった[1]。それにはドイツの詩人、歴史学者、思想家フリードリヒ・シラー(Friedrich von Schiller)とアメリカの海洋学者、地質学者、古生物学者ルイ・アガシ(Jean Louis Agassiz)、アメリカの作家・思想家・詩人・博物学者ヘンリ・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau)、イギリスの自然科学者、地質学者、生物学者チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin)など当時の主要な知識人の多くとの議論を含んだ。

フンボルトと親友の植物学者ボンプラン(Aimé  Bonpland)はスペインの首都マドリッドに行った際に、スペイン国王カルロスIV世からアメリカ大陸スペイン領の探検の許可を得た。この後、1799年から1804年まで中南米スペイン領とアメリカ合衆国を延べ1万キロメートルにわたって旅行した。そしてその結果を「Le voyage aux régions equinoxiales du Nouveau Continent, fait en 1799–18041799-1804年に行われた新大陸の回帰線地域への旅行)」に発表した。彼の探検は、ラテンアメリカに対する世界の一般的な見方が変わるほどの成果を得た。
フンボルトの探検ルート(https://es.wikipedia.org/wiki/
Archivo:Mapa_del_viaje_de_Alexander_Von_Humboldt
_en_el_Continente_Americano.png
より
フンボルトは探検時に高度、温度と磁場を測定し、地質を調査し、岩、植物と動物の標本を集めた。彼はデータや標本を取得する際に注意深く科学的に行い、特別な注意を払って測定場所や標本の取得場所をきちんと地理的に特定して記録した。これらのフンボルトによる探検のやり方はそれまでの一般的な探検の手法とは異なっており、科学的な資料収集と分析という点で探検のやり方に革命をもたらした。

それまでのように単にデータや標本を収集するだけなく、彼は収集したデータや標本の正確さやそれに付随する情報の正確さに重点を置いた[1]。彼は最初の全球の地磁気および気候地図を作成し、南米の地質学的断面図を描き、収集したサンプルをきちんと分類した。5-1-2「気候図の発明」に記した気候図をはじめとして、このような手法はその後新たな学問の手法を確立するための手法となっていった。
フンボルトが描いたチンボラソ火山の植物分布

これらをもとにフンボルトは「Relation historique du Voyage aux Régions équinoxiales du Nouveau Continent, etc. (1814–1825),(新大陸の回帰線地域への旅行の歴史との関係(1814-1825))」を出版し、これによってアンデス山脈の植物相と動物相を明瞭な気候学的で地形学的な背景を考慮しての社会の進化に潜在的に影響を及ぼす気候変動への人間の影響を説明した[1]

フンボルトとコロンブスとの比較

時代背景が異なるので同列に比較することは難しいが、探検によってアメリカ大陸を発見したコロンブス(Christopher Columbus, 1446-1506)と比較してみると時代の違いとフンボルトの立ち位置がよくわかるかもしれない。本の「2-3-1熱帯の横断と新世界」で紹介したように、コロンブスはアジア航路の開拓という名目で大西洋を西へ向かった。しかし彼には営利目的もあった。彼は探検前に巨額の探検費用の大半を負担するスペインのイサベル女王とサンタ・フェ契約を結んでおり、発見した土地の統治権とそこからの利益の1割を得ることになっていた。そのため、後述するように新大陸側から見ると彼は厄災を巻き起こすことになった。 
コロンブスの航路(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/38/Viajes_de_colon_en.svg

一方フンボルトの探検費用は自前であり、探検によって発見された資源の所有権は全てスペインに帰することになっていた。つまりフンボルトは世俗的な利益には興味がなかったことがわかる。おそらく科学的な発見やそれに基づいた人々との交流に悦楽を見出していたのではないだろうか。フンボルトが発見した知見は世界に科学的な恩恵をもたらした。

話は脱線するが、当時の多くの地理学者や探検家は、探検に政治的な境界(つまり国家利益の分岐線)を定めることにも興味を持っていた。つまり発見した土地とその資源は発見者の国の所有となるためである。当然その度合いに伴って発見者にもたらされる恩恵も多かっただろう。1494年にポルトガルとスペインとの間に結ばれたトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)でヨーロッパより西側世界の領有権の境界が子午線に従って定められた(西側がスペインで東側がポルトガル)[2]

 1500年にポルトガル人カブラル(Pedro Cabral)が率いるポルトガル遠征隊が南アメリカ大陸(ブラジル)東端に漂着した。そこがトルデシリャス条約境界の東側であることがわかったため、それがきっかけで旧ブラジルはポルトガル領となった。これが南アメリカに(広大だが)ぽつねんとブラジルというポルトガル語圏がある理由である。

 スペイン領ではなかったため、フンボルトはポルトガル領ブラジルには行っていない。ただし、当時の「南北アメリカ大陸」は、ポルトガル領ブラジルと独立したばかりの北アメリカ東部のアメリカ合衆国を除いて、大半がスペイン領であったことには注意する必要がある。フンボルトはその広大なスペイン領を自由に探検する許可を得ていた。

ちなみに1529年にポルトガルとスペインとの間に結ばれたもう一つのサラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)は、西太平洋の分割境界線(子午線)を定めており、これはヨーロッパ諸国が日本を含むアジアに進出するきっかけの一つとなった。大航海時代はヨーロッパにとって新たに発見した土地の自由な切り取り合戦をも意味した。これはデマルカシオン(世界領土分割体制)とも呼ばれる[2]。日本の戦国時代に送られた宣教師たちはそのための偵察・情報収集であった面もあった。ただし正確な経度測定の困難さとその後のヨーロッパ諸国の力関係の変化により、アジア各地域の領有は複雑な経緯を辿った。その影響は第二次世界大戦前までアジアの植民地や宗主国という形で残った。

閑話休題。フンボルトは、取得したデータやサンプルを自ら分析するだけでなく、データとサンプルの多くを共有にして、科学者間の国際的でオープンな議論を確立しようとした。彼の業績は科学的に高く評価されている。そのためかフンボルト大学、フンボルト海流、フンボルトペンギンだけでなく、地形や自然では湾、川、林、野生保護区、沼地、湖、山脈、山や山脈、森林、国立公園、滝、動物ではイカ、コウモリ、サル、スカンク、カタツムリ、甲虫、川イルカ、植物では顕花植物、マメ科植物、肉食植物、サボテン、樫、ラン、 ユリ、キノコ、宇宙にも月の海、二つの小惑星にフンボルトの名が冠されている[3]。さらに彼は自由と平等を唱え、奴隷制と搾取による植民地主義を非難し続けてもいた。

一方でコロンブスは新大陸発見では有名であるが、彼は金や植民地を得るためにアメリカインディアンを虐殺しアメリカインディアンに免疫のない伝染病をまき散らした面も大きい)、またアフリカ人を植民したことでも知られている。コロンブスの行った政策はその後の南米での植民地統治のモデルともなった。その後の厳しい植民地政策と伝染病により、南米・中米のマヤ、アステカ、インカ文明などは次々と滅んでいった。コロンブスは新大陸をアジアと主張したこともあってか、新大陸は後に探検したアメリゴ・ベスビッチにちなんで、アメリカ大陸と名付けられた。コロンブスの名前は南米のコロンビア共和国に残っているだけである。

ちなみにフンボルトの兄の言語学者ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Wilhelm von Humboldt)は、大学を改革して近代的な大学のモデルとなったベルリン大学(Humboldt-Universität zu Berlin)を創設しただけでなく、後にプロイセンの教育相、内相まで務めている。

なお、フンボルトについては、その生涯や膨大な業績について多数の著書が出ているので、詳しくはそちらを参照していただきたい。

[1]Becker, T. W., and C. Faccenna (2019), The scientist who connected it all, Eos, 100, https://doi.org/10.1029/2019EO132583. Published on 11 September 2019.
[2]平川 新-2018-戦国日本と大航海時代, 中公新書, 中央公論新社.
[3]http://vincentdamiangabrielle.com/uncategorized/why-is-everything-named-humboldt-our-city-forest/

2019年11月10日日曜日

気温のトレンド(長期変化傾向)把握のためのデータセットについて(Data sets for temperature trend)

 気温のトレンド(temperature trend)は、地球温暖化の指標となるため、近年その重要度が増してきている。しかし、どの程度気温が上昇してきているのかを、きちんと算出することは難しい。それは、長い期間の間に測定器や測定環境が変化してしまう場合があるからである。特に観測初期の古い観測データについては、観測に関する情報(測定器の較正手法や頻度、観測場所の変遷、観測手法など)が十分に残されていない場合があり、そうなると気候変動を捉えるための1/10 ℃以下という観測精度を長期にわたって確保することは容易でない。

 標準化された温度体系を用いた定量的な気温観測は18世紀から始まっており、教養があり裕福な個人が残した気象日記(weather diary)の中には定量的なデータが含まれている場合がある。そのような初期のデータは気候変動の研究に利用できる場合がある。

 「気候学の歴史(5) 気候データの保管」では、世界気象記録(World Weather Records: WWR)に触れた。これは世界各地の気象観測データをまとめたものであるが、地点を限ればもっと古い系統的な気温データがある。

 そのような例として1600年代からイギリスで行われたいくつかの個人による測定値がある。それらによってブリストル、マンチェスターとロンドンに囲まれているほぼ三角形の地域の長い一連の気温データが残された。それらは観測に関するさまざまな情報を総合し、精度をクロスチェックした上で、Hadley Centre Central England Temperature (HadCET) datasetと呼ばれるデータセット[1]に編集された。この記録は月平均気温は1659年1月から始まっている。1722年からは日平均気温も整備されている[2]。

Hadley Centre Central England Temperature (HadCET) dataset

 単に残されたデータをデジタル化しただけでないことに注意していただきたい。測定手法や観測環境の変化もできるだけ考慮して、かなり手間をかけて科学的な品質評価を行った上で作成されている[3]。気温の長期トレンドの算定には、観測場所の移動や、測定器の交換、較正方法、観測頻度の変化などあらゆることを定量的に評価しなければならない。それでも、都市化などの周囲の観測環境の変化を厳密に考慮することは難しい。

 これらの影響を受けにくい気温トレンドの把握方法がある。それは高度が異なる2地点の気圧を利用するものである。それは本の4-8「測高公式の発見」で解説している層圧温度(thickness temperature)を用いる方法である。これは層圧温度なので、点ではなく層内の平均温度となる。これは逆に局地的な気温変化ではないというメリットにもなる。気圧計は、原理上温度計より較正を含む測定器の精度管理を行いやすく、観測誤差も一般に小さい。また気圧を見ているので、都市化や風通しの変化などの周囲の観測環境の変化の影響を受けにくいのでより正確な気温が算出できる。ただし、高度が異なる比較的近い2地点での観測結果が必要となる。


層圧温度の概念図(Concept of Thickness Temperature)
Tc<Tw
 世界で初めて層圧温度を用いた気温トレンドは、1965年から2016年までの富士山山頂とその近傍の地上観測所の気圧を用いたものである。地上の気温トレンドとも概ね整合しており、層圧温度を用いた気温トレンドの有用性が示されている[4]。

参照文献

[1]https://www.metoffice.gov.uk/hadobs/hadcet/
[2] D.E. Parker, T.P. Legg and C.K. Folland. 1992. A new daily Central England Temperature Series, 1772-1991. Int J Clim, 12, 317-342.
[3] G. Manley. 1974. Central England Temperatures: monthly means 1659 to 1973. Quart four Roy Meteor Soc, 100, 389-405.
[4]Tsutsumi,Y.-2018-Multidecadal Trends in Thickness Temperature, Surface Temperature, and 700 hPa Temperature in the Mount Fuji Region, Japan, 1965-2016, Journal of Climate, 31,20 , 8305-8312.