2018年12月30日日曜日

ロバート・フックと気象観測

 気象は一か所で観測してもわかることは限られている。広域的な状況を把握するためには、気象観測網が必要となる。しかし、それは各地でただ観測すれば良いというものではない。統一された基準や時刻や手法、そして後に分析しやすいような記録様式などの統一が必要であり、そのためには観測のためのきちんとした指針が必要である。 上記のどれかが欠けても信頼性のある観測結果とはならない。それは現在でも同じである。

 学会が大規模な気象観測網を構築するようになったことは、「学会と気象観測」のところで述べた。イギリスの王立協会で行っていた気象観測網の結果を記録するということを最初に唱えたのは王立協会のウィルキンス(John Wilkins)だが[1]、本の3-3-3「イギリスの王立協会とフック」で述べたように、ロバート・フック(Robert Hooke)が1663年に気象観測網での具体的な観測様式や計画を「気象誌の作成方法(A method for making the history of the weather)」として作成した。フックとは、ばねの弾性の法則である「フックの法則」として有名なあのフックのことである。本の4-3「温度計の発達とその目盛りの変遷」で述べたように、フックは温度計の測定基準(calibrating thermometers to obtain consistent values)を確立しようともした。 そういう意味では、フックは組織的な気象観測網の意義を理解して確立しようとした一人と言える。

「気象誌の作成方法」に記載された様式。Sprat, T (1702) The history of the Royal Society of London, for the iproving of natural knwoledge, fourth edition, London


 


        






 本の4「気象測定器などの発展」で触れたように、フックはほとんどあらゆる気象測定器の改良にも尽力している。これらも考慮すると、フックによる気象観測の発展への貢献には、歴史的に欠くべからざるものがある。

 ところが、根本順吉氏が指摘しておられるように、気象学史の本にフックの業績について詳しく触れたものは少ない。この理由としてやはり同氏による指摘のように、気象学は応用物理学の一部門としてしか見られず、気象学が独自に発展した面が軽視されている[2]からなのかもしれない。

(次は「ケッペンについて1」)

参照文献

 [1]根本順吉 (1964) 気象学史物語XXV気象観測事始(1), 気象, No.8, 1
 [2]根本順吉 (1964) 気象学史物語XXVI気象観測事始(2), 気象, No.8, 2

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2018年12月28日金曜日

ムンクの「叫び」とクラカタウ火山

 火山の大規模噴火は気候変動と関係する。それは大量の二酸化硫黄ガスが成層圏へ注入され、そこでエーロゾル粒子となって滞在して日射を反射するからである。また、対流圏でも長期間対流することがあれば、当然反射が起こって日射は地面まで到達する量が減る。これらが長期かすれば寒冷化が起こる。1991年のフィリピンのピナトゥボ火山の噴火による冷夏を覚えておられる方も多かろう。本の3-6-2「ベンジャミン・フランクリン」で述べたように、1783年のグレート・ドライ・フォッグの際に、このことに初めて気付いたのはフランクリン(Benjamin Franklin)であった。

  もし成層圏にエーロゾルが大量に滞在すると、通常はクリーンな成層圏では起こらない散乱(ミー散乱)が起こって、赤色の日射の散乱が増える。そして、夕焼けや朝焼けの色が赤っぽく変わり、それが日没後もしばらく続く。ムンク(Edvard Munch)の「叫び(The Scream)」は有名な絵であるが、その背景はどぎつい赤い色の雲がうねっている。このムンクの「叫び」は1893年に書かれた(それ以降に書かれた版もある。ただし後で絵に手を入れることもあり、ムンクの日付はあまり正確でないとされている)。
 
ムンクの「叫び」

  1883年8月にインドネシアのクラカタウ火山(Mt. Krakatoa)が大噴火した。これによって成層圏に注入されたエーロゾルは世界中に広がった。その後、ヨーロッパでは異常に赤い夕焼けが見られたことが知られている。イギリスの画家ウィリアム・アシュクロフト(William Ascroft)が描いたその夕景のスケッチが王立協会の出版物に残されている。
1888年に出版されたアッシュクロフトが描いた夕景

 テキサス大学のオルソン(Donald Olson)らは、2004年に「叫び」の背景のどぎつい赤い色の雲はクラカタウ火山の噴火による空の色の記憶をもとに描かれているのではないかと主張した(絵が描かれたのはクラカタウ噴火の10年後である)[1]。

 しかし、一方でノルウェーの気象研究者はフィッケ(Svein M. Fikke)らは、2017年にムンクが描いた雲は通常の対流圏の雲ではなく、クラカタウ火山の噴火とは関係のない高緯度成層圏に現れる真珠母雲(nacreous clouds or mother-of-pearl clouds)という雲ではないかと主張している[2]。彼らは、できる限り科学的な根拠に基づいて議論しているが、当然のことながら最終的な結論はムンクしか知らない。
真珠母雲


 本の4-9「雲形の定義」で、イギリスの実業家ルーク・ハワード(Luke Howard)が雲形を定義して以来(このブログ「雲形の発見 ルーク・ハワード」も参照)、ターナー(Joseph Mallord William Turner)やコンスタブル(John Constable)などのロマン派の画家に影響を与えたことを述べた。気象による風景の変化は、意識的か無意識的かに関わらず、いろいろな芸術家たちに影響を与えているのかもしれない。

 (次は「ロバート・フックと気象観測」)

参照文献

 [1]Olson et al. (2004) When the Sky Ran Red: The Story Behind the "Scream", Sky & Telescope,29-35.
[2]Fikke et al. (2017) Screaming clouds, Whether, 72, 5,115-121.

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2018年12月27日木曜日

インターネットの発展と文献

 インターネットの普及は過去の資料へのアクセスを劇的に改善している。古い文献に関して、蔵書を確認して図書館へ出かけなくても、デジタル化されてインターネット上で公開されているものがある。例えばイギリスの王立協会が1665年から出している学会誌「哲学紀要(The Philosophical Transactions of the Royal Society)」は大半がデジタル化されオンラインで公開されている(https://royalsocietypublishing.org/journal/rsta)。1735年のハドレーによる有名な大気循環の論文なども、机上のPCから読むことができる。
1735年のハドレーの論文
 また、学会誌だけでなくロバート・フック「顕微鏡図譜(Micrographia)」、ガスパール・ショット「珍奇学(Technica curiosa, sive mirabilia artis)」など、昔の貴重な書籍もデジタル化してインターネット上で公開されている。「気象学と気象予報の発達史」の中でも、図4-1~4-3、図4-11などそれらからいくつかの図を掲載させていただいた。

 欧米での過去文書の扱いの重視には驚かされる。昔から公文書館のようなものがきちんと整備されていることもあるが、古い大学の図書館などでも歴史文書のデジタル化が積極的に行われ、公開されているものも多い。そういったデジタル化にはGoogleなどの大企業もボランティアで貢献しているようである。この本はそういったデジタル化されて公開されている古い文献の恩恵を受けている。

 文献の知識を集約することによって新たな知識が生まれることもある。古い文献のインターネットでの公開が、今後もっと進むことを願っている。

(次は「ムンクの「叫び」とクラカタウ火山」)


2018年12月24日月曜日

嵐の構造についての発見

 6-1-5「嵐の構造についての発見」のところで書いたように、1821年にアメリカ東海岸をハリケーンが襲い、大きな被害が出た。これは後にグレート・セプテンバー・ゲール、またはノーフォーク・アンド・ロングアイランド・ハリケーンと呼ばれることとなり、これが気象学が発達するきっかけの一つとなった。
グレート・セプテンバー・ゲールの推定進路

 アメリカのコネチカット州ミドルタウンの近くで生まれたウィリアム・レッドフィールド(William Redfield, 1789 -1857)は、幼少期から貧しく初等教育しか受けられなかったが、独学で勉強しながら1821年当時船の機関士をしていた(後に船舶運航会社を興した)。彼はグレート・セプテンバー・ゲールの風による痕跡として、互いに100km以上離れた場所での倒木の方向を観察し、その方向に規則性があることを発見した。
 彼は研究者ではなかったためこの観察結果を発表する機会はなかったが、10年後の1831年に、彼はたまたまエール大学教授のデニソン・オルムステッド教授と同じ船に乗り合わせて、グレート・セプテンバー・ゲールの話をした。オルムステッド教授はレッドフィールドからその嵐に関する注意深い観察結果を聞き、それを論文として発表することを勧めた。レッドフィールドが1831年に発表した論文がハリケーンが回転する組織的な風系を持っていることの初めての論文となった。
ウィリアム・レッドフィールド
 このブログの「ペリーとレッドフィールド」のところで述べたように、これがきっかけで嵐の構造を研究して船舶の航行の安全を図ろうとする研究が広く始まった。研究熱心な実業家であったレッドフィールドがこの嵐の解明のためのきっかけを作ったことになる。

 なお、彼は後に古生物学の専門家にもなり、1848 年に現在サイエンス誌を発行しているアメリカ科学振興協会(American Association for the Advancement of Science; AAAS)の初代理事長にもなった。

(次は「インターネットの発展と文献」)



2018年12月22日土曜日

初めての風力計

 レオン・バッティスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberti, 1404-1472)は、ある分野の専門家と一言で言えないほど多方面で才能を発揮した人であり、ルネサンス初期の万能の天才と言われている。
アルベルティ

 彼は「建築論(De re aedificatoria)」を書いた建築家・芸術家としても知られ、フィレンツェで有名なサンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサードの上層部なども設計した。ここでいうファサードとは教会正面の入り口などの上部の装飾のことである。また数学などの科学一般にも通じていたようで、本の2-2-3「印刷技術などの発達とその影響」で述べたように、彼は著書「絵画論(Della pittura)」で「線遠近法」の投影面への座標の計算方法を数学的に理論化した。それによって絵画や設計図の描き方が変わった。また「家族論」や「市民生活論」などを書いた人文主義者でもあった。

アルベルティの風力計

 さて本の4-4「風力計・風速計」で述べたように、アルベルティは初めて風力計を考案した。その図は1450年の頃に書かれた「数学的遊戯(Ludi matematici)」という本の中で収められている。それは風向計のような矢の下部に板をぶら下げて、その傾きで風力を測るものである。

建築家だった彼は、建築物の構造に風の影響を考慮する必要があり、そのためには風の力を数量的に測る必要があった可能性がある。彼は、風力計を風に揺れる板や洗濯物から着想したのかも知れない。原理としては極めて簡単な物だったが、風を数量的に測るという発想は当時としては画期的なものだった。

レオナルドによる風力計

レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)が15世紀後半から16世紀始めに描いたとされる「アトランティコ手稿(Codex Atlanticus)」の中にも同じような原理の風力計が描かれている。しかしアルベルティの「数学的遊戯」が発行されたのはレオナルドが生まれる前であり、またレオナルドはあいまいではあるが、アルベルティの風力計にも触れている[1]。そのため、この種の風力計がレオナルドによって発明されたとは言えないとされている。

(次は「嵐の構造についての発見」)

参照文献

[1]Middleton, 1969, Invention of Meteorological Instruments, The John Hoskins Press.

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2018年12月19日水曜日

ペリーとレッドフィールド

 本の6-1-5「嵐の構造についての発見」で、1831年にアメリカで船舶運行会社を経営していたレッドフィールドが、倒木の方向を使って初めて嵐の風のパターンについて分析を行い、エール大学のオルムステッド教授の勧めでそれを論文として発表したことを述べた。この論文は嵐に備える安全な船舶航行のための研究としても広く関心を呼んだ。
 アメリカ海軍の提督マシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)は、レッドフィールドの研究に大変興味を示し、その成果が船舶の航行安全の向上に貢献すると賞賛していた 。ペリーは嘉永6年(1853年)7月と嘉永7年(1854年)2月に日本の開国を促すために日本遠征(いわゆる黒船来航)を行ったが、その航海途中で1854年2月7日~12日の琉球から江戸湾に至る航路での風向・気圧、気温・水温、海流の流向流速を測定していた [1]。

ペリー提督

 後にペリーは、日本遠征時に幕府が見せた相撲の様子やペリーが贈った小型の蒸気機関車をデモンストレーションする様子など数多くの挿し絵を含んだ日本遠征の公式の報告書である「ペリー艦隊日本遠征記(Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan)」を出版したが、その報告書第2巻の中には日本遠征時の気象観測データを用いたレッドフィールドによる太平洋の嵐の研究が含まれている。例えばその中には1853年7月17日から28日まで日本を離れたサスケハナ号とミシシッピ号が遭遇した台風の位置記録と気圧計の記録、そして台風の特徴の分析もあった [1]。
 レッドフィールドによる嵐の研究は、ペリーによる日本遠征の際にも航海の安全のための知識として利用されていたかもしれない。

(次は「初めての風力計」)

参照文献

 [1]蘭学・地球温暖化・科学と帝国主義・歴史と気候、オランダ史料. 塚原東吾. 16, 東京大学史料編纂所, 2006年, 東京大学史料編纂所研究紀要

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歴史と新たな発想

 歴史の重要性について、少し補足しておきたい。啓蒙史観(進歩史観)という考え方がある。これは過去からの知識の積み重ねによって、現在は過去に優越するという考え方である。この考えが一面的に過ぎないことは明らかであり、この克服については長年にわたって既に数多くの議論が行われてきた。しかし今日でも我々はややもすると過去の人々が現在より劣っていたというような考えに囚われがちである。

 気象学に限らず、「古い考え方」イコール「間違ったもの」「役に立たないもの」とは限らない。例えば、フランスの社会人類学者で民俗学者のレヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss)と数学者アンドレ・ヴェイユ(André Weil)は、1949年にオーストラリアの先住民族アボリジニの親族構造を研究している最中に、有名な数学者であるフェリックス・クライン(Felix Christian Klein)が発見した
「クラインの四元群」の考えを、アボリジニが古くから使っていることを発見した。これは、時代が変わっても人間の発想のパターンを決める心の構造は新石器時代から変わっていないという「構造主義」という新しい考えへと発展していった。
レヴィ=ストロース
 
 我々はいつの時代もその時代の観念の中にどっぷり浸って暮らしており、その囚われから抜け出すことは容易ではない。いつの時代でも先人たちはそこから脱却して新しい発見を行うために知恵を絞って苦心してきた。そして「前書き」に書いたように、幾人かの先人たちは歴史を振り返ること、理解することが囚われた観念から脱却して、新しい発想を見いだす手法の一つとなると言っている。

 例えば、一般に研究には新規性が問われるが、それでも流行のようなものがあり、ある分野が開拓されるとそれと似たような手法を用いる研究が数多く出てくる。しかし、そうなるとそれとは異なる発想を持つ斬新な研究はなかなか出てこないものである。そのような新たな発想が必要な場合に、過去においてそれまでのパターンを破った新たな研究がどうやって出てきたかを知ることは、現在無意識のうちにはまり込んでいる思考パターンを打ち破る参考になるかも知れない。そういったことも歴史に取り組もうと思った動機の一つである。

(つぎは、「ペリーとレッドフィールド」)

2018年12月17日月曜日

前線のその後

 本の9-2「ベルゲン学派の気象学」のところで、いまや当たり前になっている寒冷前線や温暖前線などの古典的な前線の発見の経緯を書いた。それは異なる性質を持った気流の接触や空気の対流という18世紀のドーフェやフェレルの考え方を踏まえながら、ベルゲン学派(ノルウェー学派)の研究者たちが綿密な観測をもとに構築した概念だった。

 その後のベルゲン学派による普及活動などにより、この考え方が一般に定着したのはご存じの通りである。しかし、近年の研究はさらにこれを発展させている。新しい考え方は、低気圧が発達するにつれて、低気圧中心付近で寒冷前線が温暖前線からだんだん離れて立って行き、ある時点で温暖前線は東西に、寒冷前線は南北に近い角度を保つ。この前線の配置はT字形の骨つきステーキに似ていることから「Tボーン」とよばれている。そして、さらに発達すると低気圧中心で暖気核の隔離が起こる。ここが閉塞という考え方をとっていた古典的な前線論と大きく異なる点である。これはシャピロ-カイザーモデルとも呼ばれる(http://www.met.reading.ac.uk/~storms 参照)。



シャピロ・カイザーモデルにおけるTボーン前線(右から2番目)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shapiro-Keyser_Cyclone.png

 ただ、観測が発達してくるにつれて、個々のケース毎に細かな違いが多くあることがわかってきており、低気圧や前線の形態を定型的な汎用モデルにまとめることは、難しくなっているようである。なお、前線のベルゲン学派以降の発展については、このブログの「シャピロ・カイザー低気圧モデル」でさらに補足している。
 
(つぎは「歴史と新たな発想」) 


2018年12月16日日曜日

大気力学でのソレノイド

 大気力学ではソレノイドという概念が出てくる。これは傾圧大気中の大気の運動の方向と速さを等圧面と等密度面の交差角度を使って規定する便利な物である。そのため大気の断面図があれば、ベクトル解析のような手法で視覚的に大気の運動を把握・理解することもできる。

 大気力学を学んだ当初、このソレノイドという言葉は通常は電磁気学で使われる言葉であったため、戸惑った覚えがある。どうして大気力学にソレノイドという言葉が使われるのかは、少なくとも当時の教科書では見ても全くわからなかった。しかし、本の9-1-3「ビヤクネスの気象学への転向」に書いたとおり、ソレノイドはもともと電磁気学者であった気象学者ヴィルヘルム・ビヤクネス(Vilhelm Bjerknes)が、等圧面と等密度面との交差よって囲まれた管の電磁気学との類似性から考案した概念である。

 本の9-1-4「天気予測の科学化という目標」で書いたように、気象予測を行う際に物理方程式を解析的に解くことは不可能なので、天気図上での幾何的な解析から物理学的な天気予報を行えないかと考えた。その際に自身が考案した循環定理とソレノイドを用いた視覚的な考え方が基本となったと考えられる。

 ヴィルヘルム・ビヤクネスは1913年にライプチッヒ大学地球物理学研究所の所長になると、実際に幾何学的な解析、つまり視覚による数理解析を用いた天気予報を試み始める。かつて私が気象学の歴史に関して読んだ本では、彼は気象予報のために「視覚的な解析」を行ったという言葉に引っかかっていた。

 この本ではその視覚的解析とは何かをある程度掘り下げて書いたつもりである。しかし、本には分量の関係で入れなかったが、この件に関してはヴィルヘルム・ビヤクネスが1904年に直接的にこの考えを語った部分が基本となっているので、参考のためにその部分を訳して引用しておく。

 "7つの方程式のうち、状態方程式だけは有限形を持っている。他の6つは偏微分方程式である。7つの未知数のうち、1つは状態方程式を用いて取り除くことができる。そのため、気象予測は6つの未知数と大気の初期状態の観測によって与えられる初期条件を持つ6つの偏微分方程式の積分からなる問題となる。
 方程式群の正確な解析的積分は論外である。ニュートンの法則と同じ単純な法則に従う3体問題の運動計算でさえ今日の数学的解析の限界を超えている。当然、大気のすべての点の運動を理解できる見込みはない。それらは互いの挙動を極めて複雑にする。さらに、たとえそれを書き下すことができたとしても、正確な解析的な解は必要とする結果を与えない。実用的で有用であるためには、その解は容易に理解できる総観的な形でなければならず、あらゆる正確な解に現れる膨大な細部をとり除かなければならない。したがって、その予測は手ごろな距離と時間間隔で平均処理される必要がある。例えば、それは子午線の間隔や1時間程度ではあっても、決してミリメートルや秒単位にはならない。
 したがって、我々は積分のいかなる解析的解法をも断念して、その代わりに次の実用的な形での気象予測の問題を提起する。つまり行われた観測に基づいて、大気の初期状態は7つの変数について大気各層での分布を与える多くの天気図によって示される。これらの図をその出発点として、新しい状態を示す同様の新しい天気図が刻々と描画されるようにする。
 この形での予測問題の解のためには、図か図と数値手法の混合が適している。その手法は偏微分方程式から、またはこれらの方程式を根拠とする物理学的な力学原理から導き出されなければならない。前もって、これらの手法が有効であることを疑う理由はない。すべては克服しがたい困難な問題全体を、適切な方法であまり困難でない多くの部分化された問題にうまく細分化できるかどうかにかかっている。"[1]

(つぎは「前線のその後」)

参照文献

[1] Bjerknes, Vilhelm. The Problem of Weather Forecasting as a Problem in Mechanics and Physics. (編) ShapiroA.Melvyn , Sigbjom Gronas. (訳) MintzY. The Life Cycles of Extratropical Cyclones. Boston : American Meteorological Society, 1999, 1-4.


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2018年12月15日土曜日

「天気の子」と気象改変

 「君の名は」などの映画で有名な新海誠監督が「天気の子」という新しい映画を作るという発表があった。この映画には天気を変えることができる能力を持つ子が出てくるらしい。この気象を操作するということは、昔から人間の願望だった。現在では気象改変として、人工降雨や気候制御などが真面目に研究されている分野である。


フランシス・ベーコン

 科学的な発想による気象を制御するという考えの発祥は、本の3-2-1「フランシス・ベーコンの自然科学に対する考え方」に書いたように、イギリスの哲学者フランシス・ベーコンが源になっている。自然を彼は利用するものと捉えただけでなく、そのために組織的、継続的な実験で収集した事実に基づく帰納的な科学的手法を主張した。この考え方は、組織的に科学を追究するイギリスの王立協会結成のきっかけの一つとなった。

 また、1627年に出版されたフランシス・ベーコンの「ニューアトランティス」という小説では、「ソロモンの館」の科学者たちが気象を観測してさらに操作する。現在アメリカのコロラド州にある国立大気研究センター(NCAR)は、このソロモンの館による気象研究をモデルにして作られたそうである。

 ただ、気象の研究者は気象を操作することには慎重な人が多いと思っている。本の10-8「カオスの発見」で書いたが、気象を司っている物理学は非線形である。これは、ある時のわずかな差が、時間とともに大きく変わっていくことがあるということである。気象予報に用いられる非線形のプリミティブ方程式では、観測での誤差などのわずかの差が時間とともにどのように発達していくかを正確に(つまり決定論的に)予測することは難しい。現在はアンサンブル手法などでその変動幅を把握しようとしているものの、この気象物理の非線形性が天気予報が当たりにくい原因の一つとなっている。

 さらに気候には、大気や海洋の物理学だけでなく自然界のさまざまな大気化学成分、大気中の微粒子、それらの生物とのやりとりが関わっており、まだよくわかっていない反応過程や応答過程も数多くある。成層圏のオゾン層破壊の問題を見てもわかるように、不用意に気象改変を試みると、想定していないところに大きな変化が起こる可能性がある。気象を司るメカニズムの非線形性だけでなく、それら未知の反応や応答も気候変化に関連する可能性がある。
 気象の操作は夢としてはよいが、近代気象学の大御所であったカール・グスタフ=ロスビーがかつて述べているように、私も自然を「むやみにいじると危険」[1]だと思う。

(次は「大気力学でのソレノイド」)

参照文献

[1]「嵐の正体にせまった科学者たち ―気象予報が現代のかたちになるまで」(Cox著、堤 之智訳)




2018年12月13日木曜日

学会と気象観測

 ルネサンス期に科学が大きく進展するが、その一因に学会が組織されたことがある。当時の学会とは、実験や観測などの研究家や愛好家が集まって情報を交換する場であった。さらに発展して学会自ら観測や実験を主宰したり、学会誌の発行などを行った。
フェルディナンドII世・デ・メディチ

 最初の自然科学の学会の一つは、本の3-3-2 「ヨーロッパ大陸での学会」で取り上げた1657年にトスカーナ大公フェルディナンドⅡ世・デ・メディチが作り、トリチェリなどが参加した「実験アカデミー(Accademia del Cimento)」である。この学会は、さまざまな実験道具の製作や実験を行ったことで知られている。しかし、気象の分野でも先駆的な活動を行った。3-3-2 「ヨーロッパ大陸での学会」で述べたように、学会自ら温度計、気圧計、湿度計を作り、ヨーロッパなどの各地に気象観測網を展開した。

実験アカデミーの会議の様子フィレンツェのガペロマルテリーニによるフレスコ画)

 
 パリでは1666年にルイ14世によって「王立科学アカデミー」が設立され、パリで気象観測を行った。3-3-3 「イギリスの王立学会とフック」で述べたように、イギリスでも1663年にロバート・フック(Robert Hooke, 1635-1703)が王立協会(Royal Society)での気象測定方法を定めた。王立協会の気象観測網は北欧、インド、北米などにも広がった。しかし、気象観測網での観測は測定の基準(尺度)や観測機器、測定手法の統一が欠かせないが、それらはまだ十分に確立していなかった。そのことは測定器間や観測地点間の測定値の比較が十分にできないことを意味する。また当時科学が拡大していくと、総合的な科学学会での気象観測は重荷になっていった。

 そういう中で、気象の専門的な学会として1780年に組織的な気象観測網を作ったのが今のドイツのパラティナ気象学会である。この学会の特徴や活動は本の3-3-5 「気象を専門とする学会による気象観測網の誕生」で述べた。その中でこの気象学会の設立の経緯、観測に際して尺度(基準)の一貫性などにどれほど注意を払ったかなどの特徴、活動範囲、そして気象学史の中での位置づけ、そしてこの学会の終焉までを詳しく述べたつもりである。この学会は観測に用いる精密な湿度計の公募まで行った(その部分は本の4-5-1「吸湿湿度計」で述べている)。この気象学会の気象観測網がその後の組織的観測網のモデルになったと思われる。そういう意味でこの学会による観測は、その後の気象観測に影響を与えた重要な気象観測網になった。

(つぎは「「天気の子」と気象改変」) 




2018年12月12日水曜日

科学と技術

 もともと科学(science)は、自然哲学のように知識全般を指す広い意味を持っていた。そして、科学という言葉のもととなった自然哲学は、古代ギリシャを発祥とし、12世紀ルネサンス期に西ヨーロッパに伝わって、ルネサンス期に大学の中で培われた。

 しかし19世紀前半頃から、知識全般という意味を持ったscienceという言葉は、特殊で個別の分野の研究を指す言葉へと変わっていった[1]。そのことに対応して本の6章「嵐の解明と気象警報の始まり」で述べているようにイギリスの哲学者、W・ヒューエルはそういう個別の学問に職業として取り組む人々に対して科学者(scientist)という造語を作った。

 そういう意味でscienceの和訳である科学と言う言葉は的を射ている。つまり文字通り科学は分科された学問である。そして自然哲学はルネサンス期には復古学に近かったものの、アカデミックな純粋学問として扱われるようになり、論文や学会誌などの強固な科学制度が確立されていった。これら科学は純粋学問の追究の場であった。

 一方で、いわゆる技術は、当初伝統的な職人集団の中で生まれて伝えられてきた。そして印刷技術の発明は、一般の技術の発達や普及に貢献した。そういう中で15世紀頃から鉱山、土木、冶金、航海術などの技術が発達していった。これらは国家の発展に不可欠になっていき、例えば18世紀末のフランスの「エコール・ポリテクニーク」のように技術専門の学校が出現して、技術者の養成が始まった。同様な動きは当時のドイツの「高等工業専門学校」やアメリカの州立工科大学に見られる。これらの学校は大学とは全く異なる別組織である[1]。

 ただ、皮肉なことに技術の発明や革命はこの技術教育学校から生まれたものだけでなく、市井の研究熱心なアマチュアから生まれたものも少なくない。19世紀末から20世紀初めに活躍した鉄鋼王のカーネギー、自動車会社を興したフォード、ベンツ、ダイムラー、発明王であるエディソン、化学工業を興したデュポンなどはきちんとした教育を受けていない[1]。しかし、彼らが発明したものや技術は、その後多くの技術者によって実用化、商用化されて広まっていった。

 ここでのポイントは、19世紀頃までは科学と技術のそれぞれは独立して別物であり、両者の交流は少なかったということである。西洋ではある意味この余波がまだ続いており、欧米での大学における工学の位置は決して高くない面がある。アメリカやイギリスの総合大学の多くにはアカデミズムの追求の場として工学部がなく、工科大学などが別にある。ただし、近年は「科学に基づいた技術」が一般化し、科学と技術の違いは曖昧になってきている。それでも欧米には日本語の「科学技術」に対応する言葉はない[2]ということには留意する必要がある。

 そして、本の8-8 「気象予測技術の行き詰まり」で述べている19世紀末気象予報の行き詰まりに、この科学と技術という考え方の違いが大きく影響した。当時の気象予報方法は科学というより技術に近く、気象に興味を持つ科学者はいても、余技か一時的な関わりだった。気象学も力学や熱力学などを導入して科学らしくなりつつあったが、正統な学問とは見なされず、気象予報との接点もほとんどなかった。本の6-2-4「フィッツロイによるイギリスでの暴風警報と天気予報」で述べているように、1861年にイギリスでフィッツロイが始めた気象予報は、学者が集まった委員会によって中止された。また、19世紀末になって行われた気象予報に使われた手法はほとんどが天気図(等圧線分布)の解釈に依存しており、その解釈は人によって異なっていた。気象予報は主観的な職人技となっていった。

 20世紀に入ってからは、その主観的な気象予報技術をどうやって客観的な科学にするかということが焦点となった。途中の経緯は本に書いたので省くが、現在では気象予報を含む気象学はコンピュータを使った最先端の科学の一つである。また、本の10-7「気候科学の発展」で述べているように、新たに気候モデルができて、気象学を含む科学は気候変動などの大気や海洋などの地球環境の研究などに不可欠な科学となっている。

 ただ注意していただきたいのは、科学とは進歩とともに最新のものに置き換わっていくことがある。つまり現在の科学の理論は、今後より良い異なった理論に変わっていく可能性がある。これはニュートン力学が量子力学に置き換わったのと同じである。現在発表されている気候科学などによる結果も、今後の科学の発展に伴って変わる可能性はある。これは確立された科学に基づいた技術と異なり、発展期の科学が持つ宿命でもある。

(次は「学会と気象観測」) 

参照文献

[1]科学者とは何か(村上陽一郎著) [2]科学論入門(佐々木力著)





2018年12月11日火曜日

地球環境の長期監視の重要性

 この本の11-6-2「世界気象監視プログラムと地球大気開発計画」で大気組成の監視にも触れた。これに少し補足する。今日の進んだ科学においても、自然界のことは十分わかっているわけではない。不用意に改変を加えると、自然がどう応答するのかわからない部分がある。近代的な気象学を構築した一人である有名な気象学者グスタフ・ロスビーは、1950年代に自然についてこう述べている。「むやみにいじると危険なのです。自然は復讐するかもしれません。」[1]

 その一つの典型的な例が成層圏のオゾン破壊問題である。フロンは1920年代に冷蔵庫などの冷媒や噴霧剤として人工的に開発された。フロンは極めて安定で生物に対して毒性はなく、利用が容易なため当時は「夢の化学物質」としてもてはやされた。

 ところが1982年(南半球の)春に日本の南極観測隊は、地上からのドブソン分光計による観測によって、昭和基地上空でオゾン全量(地上から大気上端までの気柱総量)が極端に減っていることを発見した。このことは1984年に国際学会で発表されたが、イギリスなどの一部の研究者を除いてあまり関心を呼ばなかった。


TOMS衛星による2000年9月のオゾンホール
 しかし、その後イギリスの研究者ファーマンはハレーベイなどの自国の南極基地の観測値のチェックを行い、成層圏でのフロンガスの増加と上空のオゾン減少が関係していることに気付いた。実は、1978年から米国NASAのTOMS衛星は、南極成層圏オゾンを宇宙から広域にわたって観測していた。ところが、その観測データは自動的に品質管理されており、あまりに低いオゾン全量の値は誤りとして無視されていた。観測データには品質管理は欠かせないが、この時は定型的に行っていた品質管理があだとなった。(これは通説である。NASAの関係者は、1984年には1983年春のTOMS衛星での異常に低い値に気づいて、翌年の学会に向けて発表原稿を提出していたが、その前にファーマンらの論文が出たと言っている[2]。)
 日本やイギリスの観測結果を知ったNASAは過去のTOMS衛星観測データの再吟味を行い、その結果、南極上空のオゾン全量は南極の春に南極大陸を中心として面的に大きな穴をあけたように減少していることを発表した。アメリカのジャーナリズムはこれを「オゾンホール」と名付けた。[3]

南極基地でのオゾンゾンデ
(気象庁提供:https://www.data.jma.go.jp/gmd/env/
ozonehp/3-15ozone_observe.html)
 日本の南極観測隊によるドブソン分光計によるオゾン全量観測はこのオゾンホール発見の端緒となった。しかし、日本の南極観測隊はこの問題にもう一つ大きな貢献をしていた。それは本の11-5-2「IGYと南極観測」で述べたように、IGY(国際地球観測年)を契機に始められたオゾンゾンデによるオゾン鉛直分布観測である。日本がオゾン減少に気付いた1982年当時、米国やイギリスも南極でオゾン観測を行っていたが、それは地上からの全量観測のみであり、オゾンゾンデによる鉛直分布観測は中断されていた。ところが日本の昭和基地だけがオゾンゾンデ観測を続けていた。これによるオゾン鉛直分布観測データによってオゾンが破壊されている高度がわかり、オゾン破壊のメカニズムの解明に大きな貢献を行った。アメリカはこれらのデータをもとに、南極成層圏上空で航空機観測を行い、オゾン破壊の反応メカニズムを特定した。これにより、オゾン破壊にフロンが関与していることが決定的になった。

 この結果を受けた世界各国の対応は速かった。1985年3月にはオゾン層の保護を宣言した「ウィーン条約」が締結され、実際の規制行う「モントリオール議定書」は1987年9月に締結された。さらにモントリオール議定書は年を追う毎に規制を強化していった。この迅速な規制によりオゾン層の破壊は1990年代後半には止まったと言われている。1年の対策の遅れは、回復のための数年~十数年の損失(長期化)を招いた恐れがあっただけでなく、さらなるオゾン層の減少は、紫外線の劇的な増加を招いたかも知れない。そうなったら皮膚癌の増加など人間への影響だけでなく、他の動物や植物(農業)にも影響を与えたかも知れない。

 よく言われるように、人間にとって目の前に見えているもの、今わかっているとされていることが全てではない。自然の奥には広大な未知の分野がまだ残っている。地球の将来の潜在的可能性を含めて、成層圏のオゾン層問題は人間による自然界の監視や調査に対する考え方や重要性に対する貴重な教訓を含んでいると思われる。
 
(つぎは「科学と技術」) 
 

参照文献

[1]「嵐の正体にせまった科学者たち ―気象予報が現代のかたちになるまで」(Cox著、堤 之智訳)
[2] 「A Vast Machine」(Paul N. Edwards著、MIT Press,2013)
[3]「オゾン消失」(川平浩二、牧野行雄 著)






2018年12月7日金曜日

数学者オイラー

 主にロシアやドイツで活躍した数学者のレオンハルト・オイラー(Leonhard Euler, 1707-1783)は、1757年に流体の運動を、ニュートン力学を使って微分方程式で表現する「オイラー方程式」を発表した。この流体力学の基礎方程式の発明によって、大気を含むあらゆる流体を力学を使って普遍的に扱うことができるようになった。またオイラーはニュートンが発見した物体の力学法則を、今日「ニュートンの運動方程式」と呼ばれている3次元デカルト座標を用いた2階の微分方程式の形で初めて表したことでも知られている 。オイラーはパラティナ気象学会が行った気象観測の呼びかけた際に、それに応じた学者の一人でもある。

オイラー

  オイラーはサンクトペテルブルグで流体の講義を行っていたが、その最後の講義ではいつも講義ノートを破いて橋から紙片をネヴァ川に流し、生徒にその動きを観察させていたらしい。ある年に数学者ラグランジュ(Joseph-Louis Lagrange, 1736-1813)がオイラーを訪ねてきてその最後の講義を聴いていた。オイラーがいつものように最後の講義で紙片を川に流すと、ラグランジュは橋から川に飛び込んで川の流れに乗って紙片の動きを観察したという[1]。

 流体力学や気象学では、オイラー的な見方(Eulerian method)とラグランジュ的な見方(Lagrangian method)という2つの考え方がある。この逸話が流体運動をオイラー的に観察するかラグランジュ的に観察するかの違いのいわれとなったそうである。
ネヴァ川


 

 

 

 

 

(次は「地球環境の長期監視の重要性」)

[1] James Rodger Fleming 2016: Inventing Atmospheric Science: Bjerknes, Rossby, Wexler, and the Foundations of Modern Meteorology, The MIT Press.


2018年12月6日木曜日

いまさら歴史?

 「気象学と気象予報の発達史」(丸善出版)はアリストテレスなどの古代ギリシャ自然哲学における占星気象学から、いわゆる科学革命の前後に起こる各種気象測器の発明、19世紀の気象観測網の整備と天気予報の開始、現代の数値予報、気候モデルの開発に至るまでの気象学と天気予報の歴史の系統的な通史となっている。これまで日本ではあまり紹介されてこなかった気象学にまつわる様々なエピソードを含んでいる。本の目次を挙げておく。

1. 古代ギリシャ自然哲学における気象学
2. ルネサンスによる古代ギリシャ自然哲学のほころび
3. 科学革命の中での気象学
4. 気象測定器などの発展
5. 気候のための観測網の設立と力学の大気循環への適用
6. 嵐の解明と気象警報の始まり
7. 近代日本での気象観測と暴風警報
8. 19世紀末の気象学の発展と気象予測の行き詰まり
9. 気象予測の科学化と気象学のベルゲン学派
10. 数値予報と気候科学の発達
11. 国際協力による気象学の発展


 いまさら歴史など古くさいと思われる方もおられるだろうが、結局人間は歴史からしか学べない面がある。また、いろいろな発明発見は、その経緯を知ると理解が早まるし、その応用も利きやすくなる場合がある。例えば気象学の教科書に書かれている法則なども、証明などを辿ることはあっても、そういう法則が発見された経緯までは教えることは少ない。しかし、そこに理解のための重要な背景があることがある。

 ひとつだけ例を挙げる。大気力学の教科書には「スケールアナリシス(scale analysis)」という手法が解説してある。やり方としては、気象予報のプリミティブ方程式の中で現実大気の典型的な値を当てはめて、値が大きな項だけ残して小さな項を無視するのである。私はこれをアプリオリに習ったときに多少なりとも抵抗を感じた。なぜこんな近似をするのか?と。

 しかし、この本の10-3-4「準地衡風近似とその利点」で述べているように、これは大気力学の複雑な非線形方程式を解きやすくための深い知恵であって、理にかなっているだけでなく、これによって長波だけに焦点を当てる準地衡風近似という便利な手法が可能となった。これはまさにスケールアナリシスという発想のおかげであり、ジュール・チャーニーという天才による発見がこれを可能にした。これによって当時の気象学は大きく進歩することができた。

 このように紐解いていけば、気象学のいろいろな発見や考え方も身近に理解できるようになるかも知れない。そういうこともこの本を書いた動機の一つである。


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(次は数学者オイラー)