2020年4月24日金曜日

気象予測の考え方の主な変遷(7)気象学の近代化

 天気図を見て主観に基づいて行う気象予測は科学とは言えず、アメリカの気象学者アッベなどは物理法則を用いた科学的な気象予測を唱えたが、当時の観測技術や未成熟な気象学では困難だった。

 20世紀に入ると、ノルウェーの物理学者ヴィルヘルム・ビヤクネスは気象を物理法則に基づいて定式化すれば、「観測データの整備によって客観的にかつ決定論的に気象予測ができる」という考え方を提唱した。彼は気象学者に転向して実際に気象予測のための物理方程式(プリミティブ方程式)を定式化し、高層気象観測データを用いた予測手法を構築しようとした。これは決定論的な手法だった。気象予測のための方程式は解析的には解けないため、彼は所長となったライプチッヒ地球物理学研究所において、解析天気図を組み合わせていく視覚的な手法を検討した[9-1ヴィルヘルム・ビヤクネスによる気象学の改革](このブログの「大気力学でのソレノイド」も参照)。

 一方で、イギリスの気象学者リチャードソンは、気象予測の物理方程式(プリミティブ方程式)を高層気象観測データと差分法を用いて、直接的に数値計算することを考えついた。そのためには膨大な計算が必要なるが、彼は第一次世界大戦中に志願して戦場で救急車を運転する役目を果たしながら、その試行的な予測計算を実践した。しかし、当時は気象を引き起こしている波と数学的な差分法の特性が十分理解されておらず、この野心的な挑戦は非現実的な予測結果となって失敗に終わった。しかし、この手法は原理的には現在の数値予報の考え方を先取りした革新的なものだった[9-3リチャードソンによる数値計算の試み]

 一方で、予測技術の行き詰まりの打開のために、高層の気象観測による新たな発見に期待が寄せられた。また第一次世界大戦において、高層を飛ぶ長射程砲弾のための軌道修正と発達し始めた航空機の運行に対して、地上天気図が役に立たないことがわかり、それらが高層気象観測の充実を加速した[9-1-7第一次世界大戦の気象学と収束線]

 さらに戦争中の食糧危機に対して、気象情報を使って農業、漁業の増産を図ろうとしたノルウェーでは、ヴィルヘルム・ビヤクネスがドイツから帰国して、高密度の気象観測網を展開した。このこれまでにない密な観測網から、寒帯前線論や気団という気象予測のための新しい概念が生まれた[9-2ベルゲン学派の気象学]。これらは決定論的な手法ではなかったが、それまで予測できなかった天候の急変などをある程度予測できるようになり、また高層雲の変化から悪天候の接近を予測するという新たな手法にも結びついた。

 1930年頃からは、ラジオゾンデの発明により高層気象観測はゾンデ回収の必要がなくなり、観測と同時に結果がわかるようになった。これによって高層気象観測の密度と頻度が向上した[9-4-3世界でのラジオゾンデ観測の発達]。この観測による高層大気の広域的な把握は、ロスビーによる高層の長波の発見につながった。またこの長波と地上の低気圧や前線との関係もわかってきた。そのため、地上の気象予測のために長波の動きを予測する手法が開発された[9-5高層の波と気象予測]。さらにアメリカのチャーニーにより大気の立体構造から低気圧が発達する原因に関する理論(傾圧不安定理論)が生まれ、高層の地球規模の大気循環と地上の天気が結びつけられた。これらにより気象予測は初めて科学に立脚するものとなっていった[10-3-2傾圧不安定理論の確立]
ラジオゾンデ

つづく

2020年4月19日日曜日

気象予測の考え方の主な変遷(6)近代の始まり(18~19世紀)

 18世紀後半から国家という概念が明確になってくると、産業、経済、健康、植民地経営のための地理情報という観点から、気象・気候が重要視されるようになってきた。気象データの蓄積だけでなく、気象観測網を各地に展開しての気候の把握が重要となった(このブログの気候学の歴史(1) (10)参照)。観測結果を用いた気候統計が行われて、各地の地誌学的な気候情報が整備された[5-1気候学の発展]。過去の観測値を用いた総観天気図も作られたが、それはまだ試験的なものだった。

 電信が発明されると、各地の気象状況をリアルタイムで把握しようという革新的な考えが起こった[6-2-1電信の発明]。気象観測所に電報が整備されるようになり、そこから中央の気象台などに電報で収集された気象状況は、「警報」という形で港湾などに伝えられ、船舶被害を嵐から未然に防止する実用技術となった。これは今でいうナウキャストのようなやり方である。一方でフランスなどではリアルタイムに近い形で総観天気図が作られるようになり[6-2-3ルヴェリエによるフランスでの天気図の発行]、イギリスなどでは気象予報も行われたが、気象予報は確固とした科学法則に裏打ちされたものではなかった(このブログの科学と技術参照)。そのため、イギリスでは混乱が起こって気象予報は一時中止された[6-2-4フィツロイによるイギリスでの暴風警報と天気予報]

 しかし、天気図を用いた気象予報は各国に広がっていった。天候は広域を移動するため、自国の気象観測網だけでは天候をカバーしきれず、観測データの交換を可能にするために国際気象機関(International Meteorological Organization)が作られた。観測様式(例えば単位)の統一化の交渉が始まったが、国際気象機関は政府間組織にならなかったため、決定事項に拘束力がなく、統一化の進展は遅々としたものだった[11-1国際気象機関の設立]

 また、19世紀を通して各地で気象観測結果の蓄積が行われ、多くの気象学者が分析を行ったが、他の科学分野と異なって気象予報のためのめぼしい法則性は見つからなかった。天気図(気圧分布)を用いた気象の予測技術は、各自の経験や主観に基づいた職人芸となり、同じ天気図を用いても気象予測結果は予報者の数だけ異なった[8-8気象予測技術の行き詰まり]。20世紀に入ると、気象学の主な研究は一時的に気候統計や気象の周期性や相関へとシフトした。ただ、19世紀末に気象熱力学[8-1気象熱力学の定式化]や低気圧の熱構造に関する気象学に関する発見[8-2低気圧の研究]が相次いだ。
イギリスの気象学者アーバークロンビーによる7種の気圧分布の分類。
彼の著書「Weather (1887)」より。

 また19世紀末から気球を用いた高層気象観測が行われるようになり、ゴム気球の発明(このブログのリヒャルト・アスマン(その2)参照)や成層圏の発見(このブログの高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1(12)参照)などが起こった。しかし高層気象観測は、気球による大気の持ち上げや日射の測定器への影響の問題に加えて測定記録の回収が必要であったため、20世紀に入ってもまだ定常的な広域観測は困難だった[8-4高層大気の気象観測]

つづく

2020年4月12日日曜日

気象予測の考え方の主な変遷(5)科学革命のその後

 フランスのデカルトらは、自然も分解していけば時計のように歯車のような機構から成っているという機械論哲学を唱えた。それに基づいて、あらゆるものの運動はニュートンの法則を用いた力学に従って記述でき、現在の状態がわかればその法則から将来を決定論的に予測できるという考え方が生また。またイギリスのフランシス・ベーコンは、自然の観測結果を広く蓄積し、その法則性を体系的・組織的に研究して、それを利用することを唱えた[3-2科学的な考え方への転換]
フランシス・ベーコンの肖像
 さまざまな加工技術が発展するにつれて、気圧や気温、湿度などの気象を定量的に観測する気象測定器が発明された[4. 気象測定器などの発達]。定量的な観測結果から決定論的な法則性を導こうと、いくつかの組織的な学会が中心となって気象観測網を構築し、各地で観測結果が記録され蓄積されるようになった(このブログの「学会と気象観測」を参照)。

 イタリアには実験アカデミー(Accademia del Cimento)、イギリスには王立協会(Royal Society)などの学会が作られ、それらは気象測定器の発明や開発も積極的に行った[3-3学会の誕生と気象観測]。特にイギリスではロバート・フックがさまざまな気象測定器の開発に大きな役割を果たした[3-3-3イギリスの王立協会とフック]

 組織的な気象観測網のために、離れた地点の観測値を比較可能(comparable)なものにすることに関心が払われるようになった。しかし、そのための温度計や湿度計などの測定器の測定基準の決定と較正方法の確立には、かなりの試行錯誤を要した。その較正方法の確立には、18世紀末までかかったものもあった[4. 気象測定器などの発達]

 18世紀末には初めてドイツのマンハイムに気象専門の学会であるパラティナ気象学会(Societas Meteorologica Palatina)が作られて、ヨーロッパなどに精密で統一的な観測網を展開した。約15年継続したが、ナポレオンによるマンハイム占領によりの活動は終わった。しかし、この気象観測網による正確な観測記録は、19世紀になって利用され、ブランデスによる天気図やフンボルトによる気候図が生まれるきっかけとなった[3-3-5気象を専門とする学会による気象観測網の誕生]

つづく

2020年4月8日水曜日

気象予測の考え方の主な変遷(4)大航海時代と科学革命

 15世紀、16世紀になって大西洋や太平洋へ乗り出す大航海時代が始まると、熱暑で赤道を越えられないとするアリストテレス気象学の気候帯は現実と合わないことがわかってきた。また精密な天文観測が行われるようになると、それまで地上界の現象とされていた彗星の発現が不生不滅であるはずの天上界で起こっていることなどが明らかになってきた。これは古代ギリシャ自然哲学全体への信奉や信頼を揺るがすきっかけとなった[2-3アリストテレスの気象論など古代ギリシャ自然哲学のほころび]

 一方で占星気象学を含む占星学が当たらないのは天体の観測精度が足らないためという考えから、ティコ・ブラーエはそれまでにない高精度の天文観測機器を開発するとともに、自ら気象も観測して法則性を求めようとした。 当時占星気象学者として有名だったケプラーは、ティコの結果を引き継いで天体の運動の研究を行った[3-1-2ティコ・ブラーエの占星気象学と天体観測]

 17世紀に入ると、ケプラーはティコの観測結果から火星の楕円軌道を発見した。ガリレイも精密な落体実験や木星の衛星の発見を行って、それらの結果からニュートンらによる科学の近代化が起こった。天上界と地上界に分け隔てなく作用するニュートンの一元的な「万有引力」の発見によって「高貴な天上界」と「通俗的な地上界」からなる二元的な古代ギリシャ自然哲学への信奉が終わった。

 アリストテレスの風の原因に代わる新たな風の原因も探られるようになった[3-1-4近代科学の父ガリレオ・ガリレイと風の考え方]。大航海時代には各地の風の観測結果から、貿易風などの地球規模の大気循環が論じられるようになった。ハレーは、1686年に東から西へ移動する日射熱による熱帯大気の収束発散から貿易風を説明した。この説明は百科事典の元となった「サイクロペディア」に記載されたため、19世紀まで広く使われた[3-4-2 ハレーによる貿易風の説明]

 一方でハドレーは、1735年に緯度の違いによる日射熱の違いと地球自転による運動量保存を考慮した、地球規模大気循環として貿易風の原因を発表した。これは地球自転の風に対する影響を考慮した革新的なものだったが、一部の研究者を除いてあまり一般には知られなかった[3-4-3ハドレーによる大気循環の説明]


ハドレー が考えた大気循環の模式図。
現在知られている大気循環とは異なる
 19世紀になって、ドイツの高名な気象学者であったドーフェが、一騒動あった後にハドレーの説を取り上げるようになって、ハドレーの説は有名になった。これ以降、ハドレーの説をベースに地球規模循環が力学的に議論されるようになった[5-3 地球規模の大気循環の解明への取り組み]

つづく

2020年4月5日日曜日

気象予測の考え方の主な変遷(3)ローマ時代と中世

 ローマ時代になるとキリスト教が全盛となった。当時のキリスト教の考え方では自然は神の領分であり、自然を解明することは神の領分を侵すことであり許されなかった。またキリスト教は人間の自由意思を尊重しており、神の関与を認めない運命決定論とは相容れなかった。そのため、キリスト教は占星術とそれを含むアリストテレスと古代ギリシャ哲学の書物を読むことを禁止した[1-3キリスト教による自然哲学の否定]。そのためイスラム圏を除くヨーロッパでは12世紀頃まで自然科学の研究は禁止され、自然の理解に見るべき発達はなかった。

 12世紀以降になると十字軍やレコンキスタにより古代ギリシャの書物がヨーロッパに流入し、その優れた考え方から自然哲学を含む古代ギリシャ哲学が復興した。これは12世紀ルネサンスとも呼ばれている。キリスト教も古代ギリシャ哲学の広まりを抑えられなくなり、神学者トーマス・アクィナスによって、キリスト教と古代ギリシャ哲学が両立できるように、キリスト教の教義と天体の地上界への影響との妥協が図られた[2-1-2古代ギリシャ哲学の復活]古代ギリシャの学問を研究するためにイタリアのボローニャなど各地に作られた学校は大学の始まりになった。アリストテレスの「気象論」も翻訳されて、その考え方は中世気象学のスタンダードとなった。

 12世紀以降、ヨーロッパに古代ギリシャ哲学が公に流入するようになると、その中にあった占星術は大流行し、婚礼や戴冠、開戦や手術などの数多くの物事が占星術によって決められた。

 占星気象学も当初は天体の運行と気象との間の因果法則を決定論的に解明しようという実証学的な学問だったが、明確な法則性が見つからないままに、干ばつ、洪水、猛暑や寒波などを予言する根拠のない星占いとなった。しかし農業などにとって天候の将来予測の需要は大きく、惑星軌道の予測などから1年先までの日々の天気予報が、印刷術の発明と相まって農事暦やアルマナックやエフェメリス(天文暦・天体暦)という形で広く普及した。その発行部数は聖書に次いで多かったという説もある[2-1-3占星気象学の普及]
エフェメリスの例(1688年1月)左ページの右列が天候

つづく