2020年4月19日日曜日

気象予測の考え方の主な変遷(6)近代の始まり(18~19世紀)

 18世紀後半から国家という概念が明確になってくると、産業、経済、健康、植民地経営のための地理情報という観点から、気象・気候が重要視されるようになってきた。気象データの蓄積だけでなく、気象観測網を各地に展開しての気候の把握が重要となった(このブログの気候学の歴史(1) (10)参照)。観測結果を用いた気候統計が行われて、各地の地誌学的な気候情報が整備された[5-1気候学の発展]。過去の観測値を用いた総観天気図も作られたが、それはまだ試験的なものだった。

 電信が発明されると、各地の気象状況をリアルタイムで把握しようという革新的な考えが起こった[6-2-1電信の発明]。気象観測所に電報が整備されるようになり、そこから中央の気象台などに電報で収集された気象状況は、「警報」という形で港湾などに伝えられ、船舶被害を嵐から未然に防止する実用技術となった。これは今でいうナウキャストのようなやり方である。一方でフランスなどではリアルタイムに近い形で総観天気図が作られるようになり[6-2-3ルヴェリエによるフランスでの天気図の発行]、イギリスなどでは気象予報も行われたが、気象予報は確固とした科学法則に裏打ちされたものではなかった(このブログの科学と技術参照)。そのため、イギリスでは混乱が起こって気象予報は一時中止された[6-2-4フィツロイによるイギリスでの暴風警報と天気予報]

 しかし、天気図を用いた気象予報は各国に広がっていった。天候は広域を移動するため、自国の気象観測網だけでは天候をカバーしきれず、観測データの交換を可能にするために国際気象機関(International Meteorological Organization)が作られた。観測様式(例えば単位)の統一化の交渉が始まったが、国際気象機関は政府間組織にならなかったため、決定事項に拘束力がなく、統一化の進展は遅々としたものだった[11-1国際気象機関の設立]

 また、19世紀を通して各地で気象観測結果の蓄積が行われ、多くの気象学者が分析を行ったが、他の科学分野と異なって気象予報のためのめぼしい法則性は見つからなかった。天気図(気圧分布)を用いた気象の予測技術は、各自の経験や主観に基づいた職人芸となり、同じ天気図を用いても気象予測結果は予報者の数だけ異なった[8-8気象予測技術の行き詰まり]。20世紀に入ると、気象学の主な研究は一時的に気候統計や気象の周期性や相関へとシフトした。ただ、19世紀末に気象熱力学[8-1気象熱力学の定式化]や低気圧の熱構造に関する気象学に関する発見[8-2低気圧の研究]が相次いだ。
イギリスの気象学者アーバークロンビーによる7種の気圧分布の分類。
彼の著書「Weather (1887)」より。

 また19世紀末から気球を用いた高層気象観測が行われるようになり、ゴム気球の発明(このブログのリヒャルト・アスマン(その2)参照)や成層圏の発見(このブログの高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1(12)参照)などが起こった。しかし高層気象観測は、気球による大気の持ち上げや日射の測定器への影響の問題に加えて測定記録の回収が必要であったため、20世紀に入ってもまだ定常的な広域観測は困難だった[8-4高層大気の気象観測]

つづく

0 件のコメント:

コメントを投稿