2023年12月17日日曜日

元寇と神風(3)弘安の役

 4. 弘安の役

4-1 軍の構成

フビライは、1279年2月に南宋を下すと、南宋に艦船600隻の建造を命じ、6月には高麗にも900隻の船の建造を命じた [4]。そして、征東行省の左丞相(総司令官)として忠烈王を、右丞相にモンゴル人のアラハン(阿剌罕)を、そしてその下に、南宋の范文虎、ヒンドゥ、洪茶丘、金方慶を配して日本への遠征を命じた。この時は、ヒンドゥと洪茶丘はどちらも征東都元帥という同格の肩書きだった [1]。

日本で弘安の役として知られる第2回目の侵攻は、1281年に行われた。元軍は東路軍と江南軍の2つの軍団から成った。東路軍は、蒙・漢・女真を主力とする兵士15000名と高麗軍兵士10000名の合わせて25000名、それに水手17000名、軍船900隻からなった。これを蒙・漢・女真軍をヒンドゥと洪茶丘が、高麗軍を金方慶が率いた。

江南軍は旧南宋の軍を主力とする約10万名と水手42000名と軍船3500隻から成った [4]。これをアラハンと范文虎が率いた。これは当時史上最大の艦隊と言われている。両軍は陰暦の6月15日に壱岐で合流することになっていた [4]。しかし、出撃の直前にアラハンが病気となり、司令官はアタハイ(阿塔海)に替わった。これが江南軍が寧波を出港するのが遅れた原因の一つとなった。

4-2 日本への侵攻

東路軍は陰暦の1281年5月3日に朝鮮半島の合浦を発ち、「新元史」によると5月26日以前に世界大明浦へ到達した。この地点はどこかわかっていないが、一応対馬のどこかではないかとされている。対馬では、激戦となったが多勢に無勢で占領された。5月26日には壱岐に到達した [3]。ここでも武士団は善戦したが、全滅した。そこでヒンドゥが陽動作戦を提案し、100隻からなる小部隊が、6月4日に以前使節が上陸した長門沖に姿を現した [4]。しかし、彼らは日本側の強固な構えを見て上陸をあきらめて引き返した。

江南軍の到着が遅れることを知った東路軍は、単独で博多へ向かい、6月6日に到着した。しかし、湾内の海岸の石築地や河口の逆茂木(川に入れなくするくい)を見て、防備の薄い志賀島(しかのしま)と湾内の能古島(のこのしま)に上陸した。志賀島は博多湾の北に位置する海の中道と呼ばれる砂州とつながった陸繋島である。

 [3]は、それを迎え撃った日本武士団を約3万名と推定している。志賀島では武士団が小舟で夜襲を繰り返した。そのため東路軍は壱岐に撤退し、7月2日には武士団が壱岐まで攻めて合戦が起こった。7月3~4日頃に、東路軍は平戸に撤退して江南軍と合同した [4]。

一方、江南軍は、上記の理由の遅れで6月18日に寧波(舟山)を出発し、6月末に平戸に着いた。そこで1か月滞在している間に壱岐の東路軍と合流し、7月27日には全軍で鷹島を占領した。平戸には20万名近い大軍が1か月滞在したことになる。その理由は不明だが、 [4]は元軍の偉容を見せつけて、日本側が軟化するのを期待したのではないかとしている。

4-3 台風との遭遇

鷹島で軍を進める準備をしている最中の、閏7月1日(陰暦では7月の次に閏7月が来る。この日は太陽暦の8月23日)に嵐が襲った。これは時期や規模からして、明らかに台風である。元軍は海が荒れ始めると、鷹島の北方や西方の玄界灘に面した海に停泊させていた船を、鷹島の南西の湾内に避難させた [4]。波は風が海上を吹く距離(これを吹走距離という)に応じて高くなる。そのため、玄界灘に開けた島の北岸を避けて、外海からの波が直接は来ない島の南方に船を避難させたことは妥当である。

この台風は九州に南西から近づき、鷹島の西側を通って北東に進んだと考えられている。この台風に関する記述は、「一代要記」の「甚雨大風」、「勘仲記」の「終夜風雨太(はなはだ)し」など日本各地で見つかっている。またマルコポーロも「日本国といふ島の・・・彼れ兵を起こして此島を取らんと思へり。・・・北風強く起こりて吹くこと甚だ烈しく彼の島に大害為せり。」 [6]と記述している。これらの記録から見て、これは相当に強い台風だった。この台風により鷹島の江南軍は大きな被害を出した。

おそらく台風が通過するまでは陸側から吹く東の風で、それほど波が高くなくても、通過後は強い北西風によって、開いた北西側から湾に高波が侵入し、それが島の南の海に伝搬したり反射したりした可能性がある。波だけでなく、強い風によって船が流されて海岸にぶつかったり、船同士がぶつかったりする可能性もある。台風によって江南軍の多数の船が沈没し、元軍は大損害を被った。一部の難破船は九州北岸を北西に漂流して、西日本の日本海沿岸一帯に漂着した [6]。八幡愚童記によれば、次のようになっている。

七月晦日(8月22日)夜半より乾風夥しく吹出でて閏七月朔日(8月23日)賊船悉く漂蕩して海に沈みぬ・・・残る所の船共は皆吹破られて磯に上げられ沖に漂ひ、海の面は草を散すに異らず。死人は岸に積み重ねたるが如し。鷹島に打ち上げられたる数千人 船なくして疲居たりしが、破船ども取り繕いて、蒙古高麗七八艘に打ち乗りて逃んとするを・・・ [6]。(注:晦日は末日で朔日は1日のことである)

元軍は大損害を受けたことがわかる。日本側も損害を被ったであろうが、日本は台風に慣れている上に、比較的小さな船が多く、台風の間は船の多くを陸に引き揚げていたかもしれない。

また、鷹島付近の海底から元軍の沈没船も発見されている。これら鷹島沖海底の沈没船2隻の様子から判断すると、風向が南から南東、そして東へと変わる時間帯に、次々に船が沈んでいったとされている [3]。とすれば鷹島の南~東はすぐ陸に面しているので、沈没原因は高波ではなく、強風そのものだったかもしれない。風向きから判断すれば、台風の鷹島の北、直近を通過したようである [3]。

この台風は2004年の18号台風(Songda)と、九州付近では似た経路を進行したと考えられている。そのため、1281年の台風もこの経路に沿って進んだと仮定して、台風のシミュレーションが行われた。それによると、九州北西部での最大風速は50m/sに達した。波高は鷹島で2~3.5 m、博多湾で1.5~2 mと計算されたが、実際はこの高さの2倍近い波が起こったと推測されている [7]。

台風200418号(Songda)の経路(黒線)。 [8]より

高麗史では、高麗軍の兵士と水手27000名の内、帰り着いたのは19397名となっている。また、元軍では、7月5日に范文虎らの諸将は残った船で逃走し、残された十数万名ともいわれる元軍は、鷹島で船を新造したり、修理したりして帰還しようとした。

しかし、7月7日に日本武士団は鷹島で掃討戦を開始した。これは日本武士団による鷹島への逆上陸戦となったはずである。江南軍は司令官が逃亡したとはいえ、残った将の中で司令官を立てて、頑強に抵抗して激戦となった。しかし、地形や潮の流れなどの知識による地の利は日本側にあった。最終的に日本武士団が江南軍を打ち破り、兵士2~3万名が捕虜となった [3]。捕虜の中で、蒙・漢・女真の兵士は処刑されたが、南宋の兵士は奴隷とされた。

しかし、 [3]は実際に処刑された兵士はそれほど多くなかったのではないかとしている。特に南宋出身の一部は、大陸の高度な軍事技術、兵器の用法を日本に教え、高給を得て経済的にも恵まれた生活をしたようである。また、高麗人もそれなりに保護されていたようである。11年後に高麗国王から、日本は戦役によって戻らなかった高麗人を聖徳に従って生かしているようで幸いなことである、という書状を受け取っている [3]。

4-4 東路軍は博多湾で台風と遭遇した?

東路軍が博多湾から撤退して鷹島で江南軍と合同した点について、 [3]は別の説を提唱している。それは、「高麗史節要」にある世界村大明浦は、対馬ではなく志賀島というものである(江戸時代から300年間、それは通説だったとしている)。つまり、東路軍は5月3日の出発当日に対馬に到着して5月8日頃までに制圧し、15日頃までには壱岐を制圧し、そして5月26日に志賀島に到着したとしている(ほぼ同時に能古島も占領されていたとみている)。そして、東路軍は志賀島を基点に戦い続けながら、一部は長門へ偵察に行った。博多の防備が堅いので、長門を探ったのかもしれない。しかし、長門も厳重に防備してあったため、そのまま引き揚げた。

生の松原の武士団本営の様子。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

日本武士団は、博多湾南岸の生の松原に本営を置いて、志賀島周辺の東路軍を攻めた。「蒙古襲来絵詞」にも志賀海神社横の陣地の蒙古兵や志賀島と思われる場所での武士の様子が描かれている。同じく描かれている船での海戦の状況も、この時の様子かも知れない。

そして6月8日に最大の戦いが起こった。武士団は東路軍をかなり不利な体勢まで追い込んだようだが、志賀島を奪還できなかった。この時の戦いと思われる記述が、日本の「歴代皇紀」や朝鮮の「高麗史」にも残っている [3]。これ以降の戦いでは、日本側はゲリラ戦や夜襲を多用したようである。

東路軍によって占領されていた志賀島とされている絵。浜辺に柵も見える。入江にいるのは蒙古兵とされていたが、 [3]では日本人による偵察とされている。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

志賀島の元軍の防備が強固であったため、武士団は作戦を変えた。6月29日から7月2日にかけて元の補給基地となっている壱岐を攻撃した。そのため、そのため志賀島の東路軍の一部は壱岐に移ったが、志賀島での戦いは続いた。高麗史にある6月26日の東路軍船の遭難は、志賀島から壱岐へ応援に向かった船としている。

閏7月1日には両軍とも博多湾で台風を迎えたが、外海への開口が狭い博多湾内ということもあって、波高は鷹島の6割程度だったと見積もられている。そのため波による被害によって使える船は多少減ったものの、戦いは続いた。閏7月5日に武士団は生の松原の本陣にいた記録があり、その日に総攻撃を行って博多湾の東路軍を打ち破った [3]。それにより、東路軍は博多湾から撤退した。上述したように、高麗軍の兵士・水手は約7割が帰還している。

閏7月5日の博多湾での海上合戦とされている図 [3]。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

一方、江南軍は、7月始めに平戸へ到着し、15日頃鷹島へ移動した。27日頃に壱岐にいた東路軍の一部と鷹島で合同したとしている。そして、江南軍は閏7月1日に鷹島で台風と遭遇して大被害を被った [3]。上述したように、7月5日に范文虎らは残った頑丈な船で逃走している。この鷹島の状況の報告を受けて、日本武士団が閏7月7日に鷹島に進軍して、残った江南軍に攻撃をかけた。

当初は互角の激戦となったようで、日本側にも多数の死傷者が出ていたようである [3]。最終的には日本武士団が勝利したが、范文虎らが逃走しなければ、もっときわどい戦いになっていたかもしれない。しかし、江南軍は全滅したわけではなく、台風で沈んだのは主に老朽船か過剰積載の船だったようで、そうでなかった何人かの将軍が率いた船、数百隻はほぼ全部が帰還したことが記録されている [3]。

4-5 弘安の役の謎

4-5-1 なぜ志賀島を拠点にしたのか?

志賀島は全長約4km、幅2kmの砂州でつながった陸繋島である。島は小山になっており、北側は玄界灘に、南側は博多湾に面している。砂浜もあるが、全体に海岸にはごつごつした岩が多いというのが私の印象である。少なくとも北側半分は兵士や物資の上陸には不向きだっただろう

砂州である海の中道とのつなぎ目の南あたりが砂浜で小さな湾になっており、現在博多港と結ぶ渡船の港がある(砂州には道路も通っている)。東路軍は砂浜で波が穏やかなその付近に船を停泊させたのではないかと思われる。

しかし、300隻の大船やそれに伴う補給船を停泊させるには、そこだけでは狭過ぎると思われる。砂州に沿ってか、湾内北側の広域に停泊したのかもしれない。その付近は博多湾岸から海の中道を辿って襲撃しやすいため、武士団は襲撃を繰り返したのかもしれない。

その点では、占領した湾内の能古島は、地形がもっと穏やかで陸とつながっておらず、そこを拠点にする選択肢もあったと思われる。刀伊の入寇の際は、刀伊は博多湾岸からいったん能古島に退いている。元軍の場合は、能古島では北方の博多湾口を塞がれるとまずいと思ったのか、それとも博多湾岸に近くて日本武士団の攻撃を受けやすいと思ったのか、志賀島に拠点を築いた。

4-5-2 なぜ鷹島へ移ったのか?

江南軍は6月末か7月初めに、日宋貿易の経路となっていた平戸へ到達し、そこに1か月近く滞在した。事前の予定では壱岐で東路軍と合同する予定となっていたが、江南軍の出発が遅れた。そのため、平戸に着いた際には東路軍は既に博多湾の志賀島で攻撃を開始していた。そういう状況では、直ちにそれと合同するか、それを支援する行動を起こすのが普通と思われる。平戸での長期滞在の理由は何だったのだろうか?

そして、江南軍は平戸で東路軍と合同し、7月27日にわずか20km先の鷹島を占領して、そこへ移動した。この占領の意図は何だったのだろうか?平戸から博多まで約80kmある。わずか20km先に兵を進める利点は何だったのだろうか?常識的には、もし志賀島を確保しているのであれば、そこを拠点とした方が有利だと思われる。10万の大軍の拠点にするには、志賀島は小さいと判断したのだろうか?

平戸に長期滞在した理由の一つとしては、平戸の対岸から陸路をとろうとして、1か月かけてその付近の地理を調査した可能性もあるかもしれない。平戸から唐津までは、高さは低いが複雑な山岳地形である。それで陸路による進撃を断念したのかもしれない。そして、その代わりに鷹島を拠点として、そこからすぐ海を渡って、陸路で進軍しようという考え方はあり得ないだろうか。鷹島から唐津まではなだらかな丘陵地帯で、距離は約10kmしかない。ただし、唐津と糸島半島の間には比較的高い山が海岸まで迫っており、博多まで進軍するにはその狭い海岸を突破しなければならない。

もし地理を知り抜いていたら、別ルートとして鷹島から佐賀まで南下して、南から太宰府を攻める選択肢もあったかもしれない。博多経由より距離は1.5倍程度延びるが、太宰府の南には水城のような防衛施設はなかった。

いずれにしても、東路軍だけでも日本武士団は苦戦しているように見えるので、志賀島と鷹島の2方向から攻められれば、日本武士団はお手上げだったかもしれない。


九州北部の地形

4-5-3 元軍がもし志賀島で合同していれば?

あるいは、江南軍はあくまで東路軍と合同して、博多湾から一気に太宰府まで攻め上りたかったのだろうか。もし平戸を早期に撤収して、7月中頃に鷹島ではなく志賀島で東路軍と合同していれば、どうなっていただろうか?

博多湾に大型船だけで1000隻を超える船団が入ってくれば、日本武士団はそれらを徹底的に攻撃する手段はなかっただろう。博多湾南岸は石築地があるので、元軍は湾岸からの上陸を避けたかもしれない。しかし、江南軍が拠点である志賀島に上陸し、そこから東路軍と合わせて十数万名からなる元軍が、海の中道を抜けて博多に入れば、3万+α程度の武士団では、太宰府を守る水城や大野城があっても元軍の進軍を防ぐ手段はなかっただろう。

あるいは、玄界灘に出れば、砂州である海の中道北岸から津屋崎海岸まで、20kmにわたる長大な砂浜が続いている。地理に詳しければ、天候を見計らって、そのどこかに大軍を一気に上陸させて、そこから太宰府に向けて進軍する手もあったかもしれない。

元軍は、鷹島から先どのような作戦をとる予定だったのかはわからないが、いずれにしても、台風が来なければ、その迎撃は困難で長期的なものになっていたかもしれない。

5. 弘安の役後

これだけ大敗した元軍だったが、その元での影響は大きくなかった。その理由を、もともと江南軍の大半は旧南宋の兵士たちで、中国大陸での置き場がないので日本に植民させようとしたとしている [4]。つまり、もともと兵士たちの帰還を想定していなかったというものである。事実、鍬・鋤などの農具や種籾などの植民のための物資が船に積まれていたとされている。

あるいは、日本侵攻は辺境の出来事の一つに過ぎず、フビライの関心は高くなかったという説もある [1]。そのため、フビライは敗戦に怒って罰したかもしれないが、帰国した司令官たちを処刑しておらず、元による日本侵攻の記録もそれほど多くない。そして [1]は、元による日本侵攻を、元の組織の一部である「征東行省」の官僚が、組織拡大や自分たちの利権のためにフビライを熱心に説得したプロジェクトだったとしている。

しかし、フビライは日本侵攻を諦めたわけではなかった。弘安の役の翌年に元は征東行省を廃止し、その役割を上部組織である遼陽行省に統合した。つまり、より上位の組織が日本侵攻に乗り出したともいえた。そして第三次日本遠征計画を企画し、高麗を当てにせず、1282年にはその省自ら艦船の建造にも乗り出した [1]。そして、1283年には再び征東行省を設置し、その右丞相にアタハイを再任した。

日本にもまたまた使節を送ろうとした。1284年に国書を持った使者が対馬まで到着した。しかし、随行者の一員によって使節の一人が対馬で殺されたため、残りの使節は帰った(ただし、そのときの国書の写しは日本に残っている)。

1283年に広東と福建で反乱が起き、翌年にはベトナムで反乱が起きた。この鎮圧に日本侵攻用の軍勢を投入せざるを得なかった。しかも、ベトナムでは台風の影響もあって鎮圧に失敗した上に、元の皇室内の内紛もあった。1286年8月に、日本侵攻軍は朝鮮半島の合浦に結集することになっていた [4]が、日本侵攻は中断された。そして同年に家来の漢人である劉宣が進言し、フビライはこれを受け入れて最終的に日本侵攻は中止された [1]。

6. おわりに

人間は不安を抱えた弱い生き物である。何か心の支えを必要とする。神頼みをしたり、誰かを英雄視したりすることで、それを払拭しようとしているのではないだろうか?それが集団で行われるようになると、国によっては、選民思想になったり、多くの英雄を祭り上げたり、人間を超えるスーパーパワーを想像で生み出したりという願望になるのかもしれない。

文永の役はともかく、江南の役では、確かにたまたまやってきた台風によって日本が救われた面がある。しかし、それをどう解釈するかは、その民族の心持ち次第であろう。

元寇に際して、武士たちは実際に戦い、当然それを自分たちの手柄にしたいので、天候に関する記述をあまり残さなかった。

一方で、武士団による準備と戦いと並行して、神社、仏閣、陰陽師による加持祈祷も盛んに行われた。神官や僧侶は、台風という人知を越える力を自分たちが引き出したと、ことあるごとに主張した。弘安の役では、実際に台風が元軍を追い払うきっかけとなった。神仏を信じる力や恐れる心は現代の比ではなかったろう。これが偶然と重なって神風になったと思われる。

神風を受け入れる、あるいは受け入れたいという心的要素が、大勢の日本人の中にあったということだろう。すくなくともそう願った人々が少なくなかったということである。それは日本人の心の支えに利用され、また、徐々にそれを強化するような言い伝えがなされた面もある。それがだんだん発展していって、一時期日本は神国ということにまでなってしまった。人間が自国の優越を信じたいのは自然の感情であり、その発露の仕方がさまざまな経緯を経て、日本の場合はそうなったのだろうと思っている。

(このシリーズおわり。次は「グローバルとは?」)


参照文献(このシリーズ共通)

1. 宮脇淳子. 世界史のなかの蒙古襲来. 出版地不明 : 扶桑社, 2022.
2. 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(2)-.  132, 水路, 日本水路協会, 2005.
3. 服部英雄. 蒙古襲来と神風. 中央公論新社, 2017.
4. 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(5)-.  135, 水路, 日本水路協会, 2005.
5. 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(3)-.  133, 水路, 日本水路協会, 2005.
6. 藤原咲平. 日本気象学史. 岩波書店, 1951.
7. Byung, Ho, Choi,, ほか. Tide and Storm Surge Simulation for Ryo-mong Invasion to Hakata Bay.  Procedia Engineering, 116, 486-493, 2015.
8. Niimi and Kimura, Verification of the guidance during the period of Typhoon Songda (0418). Technical Review RSMC Tokyo - Typhoon Center, Japan Meteorological Agency, 8, 2005.


2023年12月11日月曜日

元寇と神風(2)戦いは1日ではなかった?

 2-3 戦いは1日ではなかった?

これまで最初の侵攻での戦闘は、11月26日の1日だけと思われていたが、近年あらたな説が出てきた。 [3]は九州から京都への報告の日付から、戦いは10日間ほど続いて、元軍が退却したのは12月6日頃としている。また「関東評定伝」に、11月30日に元軍が太宰府近くまで攻めてきたが撃退したという記録が残っていることも、この理由に挙げている。

確かに、26日に今津に上陸して、20km先の博多で夕方まで戦って、また当日のうちに今津へ退却するのは、暗くなることもあってほぼ不可能である。 [3]は、元軍は日本側の拠点となっていた警固山(今の福岡城趾)を落とすことができず、夕方には陣を構えていた西新のすぐ南の祖原山(麁原山)に引き揚げたとしている。元軍の行動として、これは十分に考えられる。そしてしばらくそこを拠点として博多で戦い続けた。

なお、祖原山は現在祖原公園となっており、元寇古戦場跡という碑が残っている。また同書は、別に箱崎付近に上陸した部隊があった可能性も指摘している。これも十分に考えられる。

警固山付近での合戦推定図(燈線は元軍の進路)。合戦は、警固山の北側だったかもしれない。なお、点線は昭和40年頃の海岸線を示している。クリックすると拡大。(国土地理院電子国土webに地名や経路を追記して使用)

[3]が指摘しているように、上陸戦では海岸に近い山に海岸堡を確保することが重要である。海岸堡は海からの補給の拠点になり、また攻撃や防衛の拠点にもなる。元軍が拠点とした祖原山(標高33m)は海岸や川から離れた内陸にあり、しかも狭い丘で大規模な軍勢が恒久的な陣を敷くには向かない(祖原山から百道浜までの一帯に布陣していた可能性はある)。

もし本格的に海岸堡を築くならば、もっと大きな小山で、かつ船との往来が容易な川沿いの海岸にある、西公園(荒津山:標高40m)や愛宕山(標高70m)の方がよかったのではないかという疑問は残る。ただ、西公園は日本軍の拠点である警固山に近すぎ(距離約1km)、愛宕山は出撃のたびに大きな室見川を渡らなければならず、それで避けたのかもしれない。

2-4 嵐は起こったのか?

上記の八幡愚童記の記述だけでなく、高麗史(東国通鑑)の記録によると、「たまたま夜大風雨。戦艦巌崖に触れて多く敗る」となっている。さらに元史によると、朝鮮半島にたどり着いたのは400隻で、兵士の損害は、合戦での死者2000名を除くと、13500名が溺死したとされている [5]。

八幡愚童記には合戦当時の夜に雨が降った記述があるが、嵐そのものやその痕跡に関する記述はない。もし嵐に遭遇したとすると、それは博多湾から朝鮮半島へ戻る途中の出来事である可能性が高い。八幡愚童記にあるように、一部の船は難破して志賀島近くまで漂流したのかもしれない。

11月末なので、嵐が台風とは考えにくいが、発達した低気圧と遭遇した可能性は十分にある。この時期は冬季季節風が始まる時期であり、通常西風が卓越する。すると東に戻れないので、たまたま南を通り過ぎようとした低気圧による東風を中国や朝鮮半島へ引き揚げるために利用しようとしたのかもしれない。結果、帰還途中の海上で低気圧に遭遇した可能性はある。

本当に夜間に嵐が起こったのならば、数多くの避難民が松明を利用したり、それに遠くから気づいたりするのは困難である。元史には文永の役の記事に風雨に関するものはない [6]。少なくとも博多での戦いの帰結に、嵐のような気象が関係したとは考えにくい。

いずれにしても武士団は善戦し、元軍は簡単には勝てそうにないことを悟った。冬の北西季節風が卓越するようになると、朝鮮半島との間には簡単には船を回せなくなり、元軍は補給が難しくなる。そのため [3]は、嵐に遭遇したことを、戦闘を中止して撤退するための理由として挙げたとしている。しかし、元史にあるように、帰途時に実際に低気圧に遭遇して、多くの船が難破した可能性がある。その漂流した船を日本側が発見して、嵐による撤退という記述になったのかもしれない(もちろん、元史そのものの信憑性の問題もある)。

2-5 文永の役の考察

2-5-1 上陸に博多湾を選んだ謎

当時、船は軍隊の移動にとって大きな利点があった。大量の兵士や物資を陸上より速く輸送できた。そして、防衛側はあらゆる所を防衛することはできないので、船上の軍は敵の防備の薄いところを見つけて上陸できる。ちょうど同じ頃、ヨーロッパ各地でバイキングが猛威を振るったのは、そういった利点を活かしたからだと考えられる。

しかし、船を使った上陸には欠点もある。海岸は、陸という固体と海という液体と大気という気体が混ざり合う所で、それらがぶつかると大きな衝撃が発生する。船は脆弱であり、そうなるとそれらによる影響をまともに受ける。立派な港湾施設などない時代では、上陸は波が凪いだ砂浜にしかできなかっただろう。

また、大型船は直接陸につけることができないので、上陸は少人数ごとに小舟にわけて行う必要があった。これには時間もかかる。もし上陸場所が事前に知られてしまい、そこで迎撃されれば、少人数にわかれた上陸軍は個別撃破されてしまう。そのため上陸戦の要諦の一つは、敵の意表を突いた奇襲である。

元軍は大きな間違いを犯した。事前に対馬と壱岐を征服して襲来を太宰府に予告した。対馬と壱岐の征服には、九州上陸と同時に小部隊を送れば十分だったのではないか?また、迎撃する武士団が待ち構えている本拠地に近い博多湾に上陸した。

確かに博多湾は太宰府に近く、通商の要衝で砂浜を持った大きな湾である。湾は穏やかで、船の停泊にも都合が良いだろう。そこに上陸しようと考えるのは当然ではあるが、防衛側も当然そこを重点に守ることを考える。上陸地点に博多湾を選んだことから、元軍は奇襲上陸をあまり重視していなかったことがわかる。

2万名以上の兵士を沖合の大船から岸へ小舟で上陸させるのは、容易なことではなく、また時間がかかる。本当に11月25日の夕方に到着して、26日の早い時間から進軍を開始したのならば、船にいた兵士や物資の全てが上陸できたわけではなかったかもしれない。元軍は、兵士や馬や物資を十分に上陸させて、その上で戦う準備を整えてから進軍するための時間を稼げなかったのではないか?

一方で日本武士団も、上陸直後の元軍を迎え撃とうと考えていたようには見えない。日本武士団は、進軍する元軍を、今津を含めたあちこちで小勢ではあるが迎え撃っている。しかし、上陸場所が早めにわかれば、逆に日本武士団は上陸中で数が揃わない元軍に対して、先に本格的な攻撃をかけるという考え方もあったはずである。文永の役では、両軍は博多の中心部で、あたかも内陸での対峙戦のように戦ったように見える。両軍ともそういう戦い方しかないと思っていたのかもしれない。

ところで、5回目と6回目の使節であった超良弼は、数か月間博多に留め置かれた間に、付近を偵察していたという説がある。本人にそういう意図があったかどうかはわからないが、帰国後に博多の地理について、いろいろ尋ねられたことは想像に難くない。

 [3]は、博多湾の浅い水深から、元の大船は岸から2kmほど沖合に停泊したのではないかとしている。手漕ぎ船で2kmを何度も往復するのには時間がかかるだろう。上陸場所については、砂浜だけみれば博多湾内だけでなく、博多より北部には津屋崎や神湊付近にも大規模な砂浜がある。唐津湾には虹ノ松原という砂浜がある。

これらの砂浜の沖は水深が深いので、大型船が博多湾より岸近くに投錨できたかもしれない。そうすれば、より速やかな上陸が行えただろう。また、日本は襲来に気づいてからそこまで武士団を派遣するのには時間がかかるので、元軍は海岸で十分に体勢を整える時間が稼げたかもしれない。

もちろん、当時と今とでは戦闘の常識や考え方が異なるので、今の考えをそのまま当てはめることはできない。しかし、ひょっとすると日本は危なかったのかもしれない。もし元軍が周到に準備して、どこかの海岸を奇襲し、拠点となる強力な海岸堡を築き上げてから、太宰府に向けて全軍で一斉に進撃していたら、その撃退は容易ではなかったろう。

2-5-2 撤退時の謎

ところで、別な大きな疑問の一つは、元軍の浜からの撤退時の記録がないことである。八幡愚童記では、元軍は夕方退却を開始して、翌朝には博多湾から姿を消したことになっている。一夜にして元軍が撤退したと読めるような書きぶりとなっている。

今津に上陸したとすれば、夕方に博多から今津にまで撤退することは困難であることは既に述べた。元軍は、事前に祖原山に近い百道浜まで小舟を回して、そこから撤退したのだろうか?それだけでなく、夜間に大勢の兵士を海岸で小舟に乗せ、沖合の大船まで撤収して出航しなければならない。しかも捕らえた住民も連れて行ったようである。当時の状況では、夜間に短時間でしかも隠密裏にこれを行うことは事実上無理があると思われる。

[3]の説のように、博多周辺で10日程度戦ったとしても、元軍の撤退時の記述がないのは不思議である。元軍は不利だったために退却したのだろう。すると、日本武士団は、徐々に浜へ向けて元軍を追い詰めていったとしても不思議ではない。軍事常識では撤退戦は難しい。しかも、最後に兵士を船に収容するとなれば、なおさらである。通常ならば、浜に元軍を追い詰めて、一部の兵士は船に逃れたかもしれないが、日本武士団は多くの兵士を討ち取って大勝となるはずである。そうなれば、日本側はなにがしかの記録を残さないはずがない。

今まで書いた上陸方法は、元軍は沖合の大船から兵士や物資を小舟に積み替え、岸まで漕いで降ろし、また大船に戻ってこれを繰り返すことを前提にしている。しかし、元軍は上陸用に持ってきたパートル軽疾舟300隻に1回で乗れる数の兵士だけを上陸させた可能性もある。

その場合、1隻に漕ぎ手とは別に兵士20名が乗れるとすると [3]、上陸した兵士は多くても6000名程度となる(馬や当座の食糧の輸送を考えれば、実際はこれよりはるかに少ないだろう。 [3]は第1波を約3000名とみている)。それらの船は海岸で待機しており、戻ってきた兵士を乗せてすぐに沖合の大船に戻るというやり方である。しかし、このやり方は後続の兵士や物資をほとんど揚陸できないので、上陸戦というよりは威力偵察に近くなる。

いずれにしても、日本武士団が元軍の撤退を、去る者は追わずとじっと眺めていなかったとすれば、元軍がどうやってほとんど混乱なく陸上から撤退できたのかは謎である。


3. 文永の役の後

3-1 その後の使節

1275年4月、杜世忠を正使とする5名が元使として日本にやってきた。彼ら一行十数人は、博多ではなく長門の室津に到着した。鎌倉幕府は急いで長門の警備を固め、使節全員を鎌倉で斬首した。現在彼らの墓は鎌倉の常立寺にある。この時難を逃れた使節一行の一部が逃げ帰ったが、フビライが使節が斬首されたことを知ったのは5年後だった。

1279年に南宋を滅ぼした元は、前の使節が斬首されたことを知らずに、再び使節を送った。彼らも太宰府で斬首された。

3-2 防衛の強化

翌1275年、執権北条時宗は防衛を強化した。2月に異国警固番役を制度化した。異国警固番役とは、九州の御家人が交替で一定期間、要所の警護をするものである。

一方で異国征伐として、元の日本侵略の基地となっている高麗を、先制攻撃しようという計画が持ち上がった。いわゆる防衛のための敵基地攻撃である。実際に西国の水夫を集めたが、国内の争乱に疲弊していたためかこの計画は実現しなかった。一方で、元は1276年に南宋の首都臨安を陥落させた。

同年に幕府は、九州各国の守護、地頭などを集めて防衛協議を行ない、その結果、石築地の造築が決まった。石築地とは現在元寇防塁と呼ばれているものである。これは高さ約2m、幅3mの石垣で、海岸から50mほど内陸に作った。範囲は博多湾内の東は香椎から西は今津浜まで約20kmにわたった。約半年で作ったとされている。ただ博多湾は全てが砂浜ではなく、岩場もあるので、石築地が範囲内の全てに連続してあったわけではない。

3-3 総司令官を巡る争い

1280年に再度の日本侵攻を決意したフビライは、そのための政府機関「征東行省」を朝鮮に近い満州に設置した。そして高麗に対して日本へ侵攻するために、兵士10000人、水夫15000人、米11万石を用意するように命じた。

高麗内では、高麗の忠烈王とモンゴルに帰順した高麗人である洪茶丘との間に、日本侵攻の主導権争いが起こった。洪茶丘は元の高官であり、高麗内で元寄りの政策をとっていた。一方で忠烈王はフビライの娘と結婚し、妃が王女を出産したことから、皇帝の娘婿を指す「駙馬」の印を得ていた。

忠烈王は、このままだと洪茶丘が総司令官になることを危惧し、自分を征東行省の長にしてほしいとの要望をフビライに出した。フビライはそれを認めて「征日本軍元佩虎符(げんばいこふ)」の割り符を与え、高麗の忠烈王が日本侵攻の総司令官となった [1]。

元寇と神風(3)弘安の役 につづく

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 宮脇淳子. 世界史のなかの蒙古襲来. 扶桑社, 2022.
[2] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(2)-.  132, 水路, 日本水路協会, 2005.
[3] 服部英雄. 蒙古襲来と神風. 中央公論新社, 2017.
[4] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(5)-.  135, 水路, 日本水路協会, 2005.
[5] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(3)-.  133, 水路, 日本水路協会, 2005.
[6] 藤原咲平. 日本気象学史. 岩波書店, 1951.
[7] Byung, Ho, Choi,, ほか. Tide and Storm Surge Simulation for Ryo-mong Invasion to Hakata Bay.  Procedia Engineering, 116, 486-493, 2015.
[8] Niimi and Kimura, Verification of the guidance during the period of Typhoon Songda (0418). Technical Review RSMC Tokyo - Typhoon Center, Japan Meteorological Agency, 8, 2005.



2023年12月9日土曜日

元寇と神風(1) 背景と文永の役

はじめに

日本は古から神に守られた国という信仰があった。元は13世紀に2度日本征服のために侵攻した。日本は2度とも撃退に成功したが、その際に起こった歴史上の偶然の幸いが、この考えを強化した。一部の人々は、祈祷によって起きた強風が大損害を与えたために、元軍の撃退に成功したと主張した。このエピソードは、多くの人々に神が日本を救うために強風を起こしたと信じさせ、日本の思想に影響を与えた。

しかし、元寇で実際に何が起こったのかを、現代において正確に説明することは容易ではない。それは限られた歴史的文献における記述のあやふやさや違い、および人によるそれらの解釈の違いによる。現在、鷹島では沈没した元軍の船の引き上げ調査が行われている。これによる新たな事実によって、これまでの解釈が今後変わる可能性もある。

私は福岡市で暮らしていたことがある。埋め立てなどで元寇の時代とは変わってしまった部分もあるだろうが、少なくとも上陸戦に重要な博多の地形・地理には馴染みがある。ここでは、まず近年まで信じられてきた説を説明しながら、私が知っている範囲で専門家による新たな説も補足して、元寇時に起こったことを、気象を中心に説明することにしたい。なお、文献によって暦の表記方法が異なることがあり、ここでは文永の役は太陽暦、弘安の役は日本の太陽太陰暦を使っている。

1. 背景

1-1 文永の役前の使節

モンゴルのフビライは、モンゴル帝国の中で中国北部を領土としていたが、1264年にハーンの座を争っていた弟のアリクブケを降し、単独のモンゴル皇帝(ハーン)となった。そして、文永の役(1274年)までに日本に6回の使者を送った。

  1. 1266年、1回目。使節は朝鮮から日本に渡らず、国書も日本に届かなかった。
  2. 1268年1月、2回目。使節が太宰府まで来る。国書を渡すが返書を得られず帰国。
  3. 1269年2月、3回目。使節は対馬に到着するが、九州本土に渡れず、そのまま対馬から島人2名を連れて帰国。
  4. 1269年9月、4回目。使節は対馬で国書を渡すだけで、島人2名を対馬で返還して帰国。
  5. 1271年9月、5回目。使節(超良弼)は博多湾の今津浜に到着。入京を望むも許可されず、そのまま帰国。
  6. 1272年3月、6回目。使節(超良弼)は太宰府に到着し、そのまま1年近く留めおかれた末に帰国。

最初の使節は、高麗まで着た後、日本への渡航を躊躇して引き返している。5回目と6回目の使節である超良弼は、帰国後フビライに、日本に侵攻しても利点はないのですべきでないと進言した [1]。もちろん、当時海を渡ることは命がけだっただろう。しかし、それだけではなかったかもしれない。鎌倉政権は発足当初から血で血を洗う闘争を繰り返しており、そのことはある程度高麗にも伝わっていたと思われる。そのような気性の荒い日本人に、モンゴルへの服従を説得するのは困難、と見ていたのかもしれない。

文永の役の前は、モンゴルからの何れの使節も帰国を許したが、執権や天皇に謁見させなかった。また国書は鎌倉政権や御所へ送られたが、返書はモンゴルへ送られなかった。

1-2 モンゴルの目的

モンゴルの他国の支配は、出先機関として徴税官(ダルガチ)を配置して税金を徴収するだけだった。その地の既存の政権や宗教には干渉しなかった [1]。そのため、日本を配下に置けば税金を徴収できるという期待はあったのだろう。しかし、それ以外の目的があったかどうかについては定説がない。

他の目的としては、当時モンゴルは南宋の征服の途上であり、南宋と通商している日本が、モンゴルが結ぶことによって南宋を孤立させるため [2]、軍事物資である硫黄の南宋への供給を止めて、逆にモンゴルがそれを手に入れるため [3]、征東行省という日本を攻略するための役所の官僚の出世欲のため [1]、弘安の役では、征服した南宋軍の始末のための植民のため [1] [4]などが挙げられている。

1-3 当時の日本の状況

1268年3月に北条時宗が第8代執権に就任した。北条時宗は、執権になる前から連署という立場で政治に関わっており、彼は元からの使者の意図を含めて、元と南宋との動向に詳しかったと思われる。2回目の使節(日本に来た最初の使節)を元に戻すと、すぐに西国の守護に異国の襲来に備えるように指示を出している。また、朝廷も「異国降伏」の祈祷を全国の神社に命じている。それらの対応を見ると、おそらく最初から元と結ぶ気はなかったと思われる。

1272年には二月騒動が起きて、時宗は異母弟である北条時輔とその一派を討伐した。とかく争乱が多い鎌倉時代だったが、これで時宗政権に反抗する大きな勢力はなくなり、元に対する挙国一致体制が築けたという説もある。そして、この北条時宗の政権下で元寇を迎えることとなる。

1-4 当時の朝鮮半島の状況

朝鮮半島の当時の状況にも触れておいた方が良いかもしれない。当時の朝鮮半島の政権である高麗は、1231年から1259年まで6回にわたってモンゴルの侵攻を受けていた。そのたびほぼ全土が蹂躙され、和議を結ぶことを繰り返していた。高麗内部も徹底抗戦派とモンゴル帰順派に分かれており、帰順派の高麗人の一部はモンゴルに逃れた上にモンゴル側に寝返った。また侵攻のたびに多数の住民がモンゴルに連れ去られた。

そのためモンゴルには、モンゴルに帰属する高麗人も一定数いたようである。1260年にフビライがモンゴルのハーンに即位し、高麗も元宗が即位すると、高麗は元に降伏して、親元路線をとるようになった。1274年に元宗が亡くなり、息子が即位して忠烈王となると、その流れはより確かとなった。そして、文永の役を迎える。

2. 文永の役(1274年)

13世紀に東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国の皇帝フビライは、1271年には元と国名を改め、上記のようにその前後から使節を日本へ6回派遣した。 [1]は、他の地域への場合のようにいきなり侵攻せずに、モンゴルが8年間にわたって6回の使者を日本へ送り続けたのは異例と述べている。しかしモンゴルは、2回目の使節が戻る前の1268年に、高麗に対して日本侵攻のための船の建造を命じていた。和戦両構えだったことがわかる。

元と国名を改めていたモンゴルは、何度も送った国書に対する返書を行わない日本に対して、1274年にいよいよ侵攻を決意した。高麗は元はとともに侵攻するための軍を準備するように指示された。

一方、日本の鎌倉幕府の執権北条時宗は元の襲来を予想して、西国の防衛を固めた。しかし、それは幕府としての統一的な防衛軍を組織したのではなく、西日本の御家人たちにそれぞれの手勢を率いた防衛を指示したものだった。

2-1 元軍の構成

1274年の最初の侵攻では、日本征討都元帥にヒンドゥ(忻都)、征東右副元帥に洪茶丘、同じく左副元帥に劉復亨、そして都督使に金方慶が任命された。ヒンドゥのことは元の公式記録になく、彼のことはよくわかっていない。彼は1271年に高麗で起こった三別抄の乱の鎮圧にあたったモンゴル軍の将軍の一人だった。元の公式記録に記載がないことから、彼は服属したどこかの地域の異民族出身だったと考えられている。

 [1]は、彼を部族を率いた代表ではなく、能力を買われた軍人官僚として日本遠征の総司令官の地位に就いたとしている。洪茶丘は高麗人であるが、上述したモンゴルに帰順した高麗人の息子である。劉復亨は、漢人か女真人とみられている。金方慶は高麗人である。彼は高麗軍を束ねるのに必要だったのだろう。

侵攻軍の司令部にモンゴル人はいない。元が直属のモンゴル人部隊を異民族の配下に置くとは考えにくく、遠征軍は異民族からなる混成軍であっても、その中にモンゴル人部隊はいなかった可能性がある。その上、同じ高麗人でもモンゴルに帰順していた洪茶丘の方が金方慶より上位に位置している。司令部も複雑な混成軍であったことがわかる。モンゴル人はいなくても、馬の扱いに長けた民族の兵士はいたと思われる。

高麗史によると、元軍は高麗軍と合わせて兵士約2万6000人と船約900隻から成った [3]。元史からはもう少し詳しいことがわかる。それによると、侵攻軍は「千料舟」と呼ばれる大型の船が300隻、「バートル軽疾舟」という小型の船 が300隻、「汲水小舟」つまり補給船が300隻の合計900隻からなった [1]。兵士は、屯田軍・女直(女真) 軍・水軍で構成された元の遠征軍が15000名(元史日本伝)、そして高麗軍が8000名、操船に関係する者が6700名(東国通鑑)とされている [1]。

2-2 日本への上陸(11月26日)

2-2-1 対馬と壱岐での戦い

元軍は1274年11月11日(太陽暦)に対馬の佐須浦に姿を現して上陸した。対馬の守護代が数十名で迎え撃ったが、鎧袖一触というのだろうか、数で圧倒された。元軍は付近を蹂躙した。対馬は高麗から九州への補給基地となった。元軍は11月20日には壱岐の勝本に姿を現した。壱岐の守護代は、対馬から元軍の襲来の連絡を受けて防備を固めていた。しかし、元軍数百人が勝本に上陸して、その日のうちに城を破られて、守護代は自刃した。

27日には鷹島に元軍800名が上陸し、鷹島一族と松浦党など数十名が応戦したが、鷹島一族は全滅し、松浦党の一部は島を脱出した [5]。ただし、 [3]は鷹島に関する記述は、明治に編纂された八幡愚童記の伏敵編にのみ収録されて、それ以外の八幡愚童記にはないので、事実ではないとしている。

2-2-2 博多湾上陸

11月25日夕に元軍はいよいよ博多湾に姿を現した。翌26日朝元軍は博多湾内西端の今津浜に上陸した(夜半から未明に上陸したとの説もある [3])。今津浜は砂浜で大きな入江になっており、多数の船舶が停泊して上陸するには都合が良かったのだろう。 [5]は今津浜の日本側の防備は30名程度で薄かったとしている。

その日に元軍は、東に向けて長垂(ながたれ)海岸、生の松原、姪浜、百道浜、赤坂へと、今の福岡市の中心部に向けて筥崎宮付近まで、各地で戦闘しながら進軍した。そうだとすると、湾内の南岸はほぼ押さえられたことになる。今津浜から筥崎宮まで歩くと約22kmある。不可能ではないが、重装備の兵士が戦闘しながら歩くのは困難だろう。別働隊が、小型船でどこかに上陸したのかもしれない。

元軍の博多での侵攻想像図(文永の役)

元軍の博多での侵攻想像図(文永の役)。燈線は、元軍がたどったと思われる経路。クリックすると拡大。(国土地理院電子国土webに、地名や経路を追記して使用)

箱崎を出て博多の浜に向かう三井資長(前)と竹崎季長(後)

箱崎を出て博多の浜に向かう三井資長(前)と竹崎季長(後)。クリックすると拡大。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

[3]によると、最初(第1波)の元軍の上陸部隊の人数は3000名で、それを迎え撃った警固山の日本武士団は、馬上の武士1000騎を含む3000名程度だったとされている。元軍は他の場所にも上陸していたかもしれない。時間はかかると思われるが、第2波、第3波が順調に上陸していれば、数の上では日本勢を圧倒していたかもしれない。

竹崎季長奮戦図

竹崎季長奮戦図。蒙古襲来絵詞より。クリックすると拡大。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

ともかくも日本武士団はこれを迎え撃ち、激戦となった。相互の戦法は異なっていた。日本は伝統的に単騎で矢合わせしてから勝負を挑もうとしたが、元軍はいきなり太鼓を合図とする集団戦法をとった。また「てつはう」という鉄砲の原型となる火器を用いた。この戦いの日本での唯一の記述である八幡愚童記には、元軍は「鎧軽く、馬に良く乗り、力強く、命惜まず、豪勢勇猛自在極りなく、良く駆け引きせり」と記されている。

武士団は長射程の弓矢で対抗したものの、武士たちは不利となり水城までの退却を始めた(水城とは奈良時代に博多と太宰府の間に作られた、全長約1.2kmの土塁を持った水堀である)。ところが八幡愚童記によると、追撃してきた敵の副将劉復亨に対して、大将である少貳景資が放った矢が命中した。これに元軍は動揺した。このとき日没となり元軍は船へ戻った [6]。

白衣の蒙古兵の目に的中した矢。その矢羽の形から竹崎季長が射たとさている

白衣の蒙古兵の目に的中した矢。その矢羽の形から竹崎季長が射たとさている [3]。蒙古襲来絵詞より。クリックすると拡大。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

2-2-3 元軍の撤退

その夜元軍は日本から撤退し、翌朝に元軍の姿はなかった。八幡愚童記は次のように記している。

さる程に夜も明ぬれば廿一日(注:太陽暦の26日のこと)なり。あしたに松原を見ればさばかり屯せし敵もあらず。海のおもてを見渡すに、咋日のタベまで所せまし賊船一艘もなし。こはいかに、いづくへは隠れたる。・・・皆打たれたまたま沖に逃のびたるは、大風にふき沈められにけり。この事先に生捕れたる日本人のその夜帰り来て語ると、今朝生捕りたる蒙古が言と同じ事なりければ、更に誤りあるべからず。 [6]

座礁した船が1隻あり、約50名が捕虜となった。彼らの証言と船から逃れた日本人の言から、船は沖で大風で沈んだとなっている。これが元軍の撤退を神風のなせるわざとなった起源の一つとなったのだろう。

元軍が撤退した理由には、日本武士団の抵抗が激しいことや副将が負傷したことが挙げられている。また日本武士団は、付近の住民を放置して避難させていなかった。多数の住民が元軍に捕らえらたり、家から放逐されたりしたが、残った大勢の住民が、夜間に避難しようとして利用した松明を、元軍が日本の新たな援軍と見間違えたことも挙げられている [6]。

元寇と神風(2)へとつづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 宮脇淳子. 世界史のなかの蒙古襲来. 扶桑社, 2022.
[2] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(2)-.  132, 水路, 日本水路協会, 2005.
[3] 服部英雄. 蒙古襲来と神風. 中央公論新社, 2017.
[4] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(5)-.  135, 水路, 日本水路協会, 2005.
[5] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(3)-.  133, 水路, 日本水路協会, 2005.
[6] 藤原咲平. 日本気象学史. 岩波書店, 1951.
[7] Byung, Ho, Choi,, ほか. Tide and Storm Surge Simulation for Ryo-mong Invasion to Hakata Bay.  Procedia Engineering, 116, 486-493, 2015.
[8] Niimi and Kimura, Verification of the guidance during the period of Typhoon Songda (0418). Technical Review RSMC Tokyo - Typhoon Center, Japan Meteorological Agency, 8, 2005.





2023年10月10日火曜日

成層圏突然昇温の発見とその解明(2)

 4. 成層圏突然昇温のメカニズム

その後のさまざまな観測により、突然昇温が起こると極域の成層圏循環に大きな変動が起こっていることがわかった。極域のかなり上層での現象でもあり、当初は電離層の磁気嵐や、オーロラなどのように宇宙線などの太陽活動の変化に原因があるのではないかと推測された。

しかし、結論から言うと、この現象は地球外からの影響によるものではなく、地球の大気が持っている力学的な特徴によるものである。それを1971年に世界で初めて明らかにしたのは、「成層圏準二年振動の発見(3)赤道上空での波の発見」でも登場した日本の松野太郎博士である。同博士は、赤道上の大気力学の解明も含めて、1970年に日本気象学会賞、1997年に日本学士院賞、1999年には米国気象学会ロスビー研究メダルを受賞している。また2010年には日本人として初めて世界気象機関IMO賞を受賞している。

松野太郎博士(日本学士院より公開されている肖像写真)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%87%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Matsuno_taroh.jpg

ところで、突然昇温が起こると極域成層圏の大規模循環が変わると述べたが、実際のところは逆で、大気循環が変わったために大気の温度構造が変わって、観測された領域で気温が上昇する。そのメカニズムは基本的に「成層圏準二年振動の発見(4)QBOのメカニズム」で述べたことと似た部分がある。

そのメカニズムを理解するには、まず通常の成層圏での東西の大気循環を理解しておく必要がある。極域の夏季は太陽光が当たり続けるので、オゾン層による加熱によって成層圏上層では気温が高くなる。これは高気圧性循環を生み出し、極域成層圏では夏季に東風循環となる。反対に冬季は太陽光が当たらなくなるため冷却し、極域成層圏では冬季に低気圧性の西風循環となる(例えば、前回の30hPa高度図の(a)参照)。これが極域成層圏での基本となる循環の特徴である。

成層圏では対流が起こらないため状態が安定しているように見えるが、圏界面で対流圏と接しているため、対流圏で起こっているある特定の波の伝搬の影響を受けることがある。対流圏ではさまざまな波が起こっているが、その成層圏まで伝搬する特定の波とは、1万キロメートル以上という長い波長を持つプラネタリー波である。この波は西向き(東風)運動量を持っているのが特徴である。

この波は「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)MITでの業績」で述べたように、ロスビー波と呼ばれることもある。またこのプラネタリー波は、惑星波や超長波と呼ばれることもあるが、ここではプラネタリー波で統一する。そして、この波は西風中で上向きに伝搬する性質を持っている。プラネタリー波より波長の短い波は成層圏へ伝搬できない。

さて冬季極域成層圏では高気圧性循環になっているので西風となり、プラネタリー波は成層圏を上に向かって伝搬できるようになる。プラネタリー波の振幅が突然大きくなるなど、特定の条件が揃った場所でこの波が成層圏へ伝搬する。すると、上層に行くほど密度が低くなるため、エネルギー保存則から振幅が増大する。そして「成層圏準二年振動の発見(4)QBOのメカニズム」で述べたことと同様に、波の位相速度が上空の風と同じ速度になるクリティカル・レベルという高度に近くなると、プラネタリー波は砕波し、持っている東風運動量を放出して、そこで西風を弱めて東風に変える。

それまで極域の低気圧性循環(西風)を地衡風として、南向きのコリオリ力と北向きの気圧傾度力が平衡していたものが、西風が弱まることで気圧傾度力が勝り、大気が低圧の極域に向かって流れ込むため、行き場を失った大気は、その高度付近を境に上昇流と下降流を引き起こす。下に向かった流れは断熱圧縮を引き起こして加熱する。これが突然昇温で気温が増加する原因となる。

東風への転換は極域全体で一斉に起こるわけではなく、ある地域から起こって、それが広域に波及する際に成層圏の大気循環が複雑に分裂したり、蛇行したりすることが多い。

運動量を放出した高度で東風に変わると、プラネタリー波はそれ以上は伝搬できないため、QBOの場合のように、波が砕波するクリティカル・レベルの高度も徐々に下がってくる。下層では大気密度が大きくなるため、相対的に突然昇温の程度も小さくなっていって、最後には消滅する。

このメカニズムのため突然昇温によって成層圏はいったんは昇温するが、そのメカニズムが終わると下降流の断熱圧縮による昇温もなくなるため、徐々に冷えて本来の冬季の極域の循環に戻っていく。しかし、突然昇温が晩冬や初春に起こると、そのまま夏の循環に移行してしまうこともある。

成層圏突然昇温のメカニズムの時系列的な概念図(特徴的な部分だけを抽出している)
クリティカル・レベル付近の高度での東風による地衡風の破れによって、極向きの流れによる収束が起こり、下降流が発生する。下降流は断熱圧縮を引き起こして大気を加熱する。その層は徐々に下がってくる。

なお、突然昇温は成層圏の現象であるが、対流圏の高緯度ジェット気流の蛇行に影響を及ぼす可能性も指摘されている。そうなれば冬型の気圧配置になりやすくなり、極域の寒気が中緯度付近に流出することによって地上付近で寒冬になる可能性もある。

突然昇温に限らないが、このように大規模な大気現象は、上空の手の届かない(つまり観察しづらい)ところで、場合によっては数千~数万キロメートルのスケールで力学や化学などのさまざまな要因が複雑に絡んでいることが特徴である。大気科学は屋内実験のようにいろんな条件を変えて試すことが出来ないため、物理学・化学的な理解をもとに、わずかな観測結果から1をもって10を洞察するような直感と想像力を必要とすることが多い。

(おわり:次は元寇と神風(1)


本文中には場所を示していないが、私の理解を確認するために用いた参考文献を以下に挙げる。

  • Matsuno: 1971, A Dynamical Model of the Stratospheric Sudden Warming, Journal of the Atmospheric Sciences, 28, 8.
  • Matsuno and Nakamura:1979, The Eulerian- and Lagrangian- Mean Meridional Circulations in the Stratosphere at the Time of a Sudden Warming, Journal of the Atmospheric Sciences,36, 4.
  • 木田秀次, 1983: 高層大気, 東京堂出版
  • 小倉義光, 1984: 一般気象学, 東京大学出版会
  • 山崎 孝治天気の科学(8) 成層圏突然昇温http://wwwoa.ees.hokudai.ac.jp/people/yamazaki/Lecture/tenki-all.pdf


2023年10月6日金曜日

成層圏突然昇温の発見とその解明(1)

 1.    成層圏突然昇温とは

人間が直接観察できない上空では、地上では想像できない思わぬことが起こっていることがある。その一つが成層圏突然昇温と呼ばれる現象である。成層圏の発見については、「高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1)~(12)」で解説した。成層圏は文字通り成層しており、それまでは成層圏の大気はほとんど変動せずに安定していると思われていた。ところが成層圏突然昇温は、この安定していると思われている成層圏で、冬季に極域上空で広範囲にわたって大気温度が急激に上昇する現象である。

これが起こると、単に気温が上昇するだけでなく、冬季に安定して流れていた極域上空の成層圏の東風が、南北に大きく蛇行したり、風向きが反対になったりして、大気循環が大きく変わる。そして、それにともなって成層圏のオゾン層の分布も大きく変わる。

オゾン層破壊は一般的に南極上空での現象である。しかし、南極ほど大規模ではないが、北極上空でも部分的に起こることがある。突然昇温は一般には成層圏でのオゾン層破壊を阻害する方向に働くが、突然昇温による北極大気の大気循環の蛇行によって、オゾン層が薄い極域成層圏大気が、北半球中高緯度付近(50-60°N)上空まで南下することもある。

今回は、この高緯度での全球規模(つまりあらゆる経度)で起こる大規模な成層圏突然昇温について解説する。

2.    成層圏突然昇温の発見

1950年頃、西ベルリンにあるベルリン自由大学の気象学研究室では、ヨーロッバ各地の高層気象観測値を集めて天気図を作製していた。そこのシェルハーク教授は、1952年2月23日に奇妙な気象観測値にとまどっていた。ラジオゾンデを用いた前日の2月22日までの高層気象観測によるベルリン上空高度30km付近(~10hPa)の気温は、約-50℃で冬としてはごく普通の値だった。ところが翌2月23日の報告では、同じ高度で気温が-12℃という信じられない報告が来た。

ベルリン自由大学のシェルハーク教授
https://de.wikipedia.org/wiki/Richard_Scherhag#/media/Datei:Richard_Scherhag.jpg

 成層圏は、その名が示すとおり大気が成層しており、その意味では通常は大気は安定している。この報告では、たった1日で成層圏の気温が約40℃も気温が上昇したことになる。

しかし、当時は温度計の故障、気球からの信号の復号ミス、通信時の文字化けなどがしばしば起こることがあり、この時も観測値が正しくないのではないかと考えられた。ところが翌日も-14℃という気温が報告された。このような値はその後1週間続いた。そして高温層はゆっくりと高度を下げてていくことがわかった。

1952年にベルリン上空で観測した突然昇温の推移(久保田効、菊地正武、新田尚、天気現象への成層圏の役割、天気、16、23-32、1969を元に作成)。気圧が高くなるほど高度は低くなる。高度10hPaの観測は気球到達高度の関係で間欠的であるため、星印で示す。

観測値は正しそうであるが、大気の上層で何が起こっているのかは全く不明だった。そして、それから数年間は、成層圏上部の冬季の気温は通常の低温のまま大きな変動はなかった

 3.    成層圏突然昇温による現象

その後、1958年と1963年に成層圏で大規模な昇温が起こった。1957年から始まった国際地球年(IGY)以降、高層気象観測網が広がったこともあり、この現象が局地的な現象ではなく、極域の広い範囲で数年に一回の割合で起こっていることがわかり、成層圏突然昇温と呼ばれるようになった。

2016年の2月20日~3月21日の5日平均30hPa高度(等値線)及び平年偏差(色)。気圧高度偏差は、赤色は高温、青色は低温と等価である。青色域は低気圧性循環(西風)、赤色域は高気圧性循環(東風)となる。図は気象庁気候系監視年報2016による。

この現象には大気循環が関係しているが、まず気温だけに注目してみる。上図には成層圏突然昇温が起こった2016年冬季~春季初めの2月20日から3月21日までの30hPaの気圧高度を示す。気圧高度はそれより下層の気温と関係しており、この場合は気圧高度が高い領域は気温が高いと思って良い。

  •  (a)では北極を中心とした低温部があり、北極を中心とした西風(極渦)が吹いている。これは通常年のパターンに比較的近い。
  • その後(b)ではアメリカ高緯度付近に高温部(高圧部)が現われた。
  •  (c)~(d)にかけてアメリカ北部の高温部(高圧部)が発達して、極域に向かって張り出した。
  •  (e)では張り出した高温域によって低温域の低気圧性の極渦は2つに分裂した。
  •  (f)では中緯度から侵入してきた高温域が、ほぼ極域全体にとって代わって北極付近に高温部(高圧部)の中心がある。それに対応して北極域縁辺では東風が吹いた。

成層圏突然昇温が起こると、成層圏上部の高温域と低温域の境は急な温度勾配になり、この境界が少し動いただけで、それまでの低温域がいきなり高温域に変わる場合がある。1か所の観測地点で見ると、その場所で突然大きく昇温したように見えるため、突然昇温と呼ばれている。

成層圏突然昇温の発見とその解明(2)へとつづく)





2023年9月5日火曜日

バルジの戦いの予報

 前回まで独ソ戦におけるドイツ軍の予報について述べたので、ついでに1944年12月のバルジの戦いにおけるドイツ軍の予報についても述べておく。この作戦の成否は天候が鍵を握っていた。

バルジの戦いは、アルデンヌ攻勢とも呼ばれることがある。これは、連合国軍にドイツ国境付近まで追い込まれたドイツ軍が、1944年12月に制空権がない中で航空機が飛べない曇天を利用して、アルデンヌの森を越えて、アントワープとリエージュ=アーへン方面に向けて起死回生の大攻勢を行ったものである。

ドイツ軍によるアルデンヌ攻勢(バルジの戦い)の作戦計画と実際の進出域の図。
https:/ww2db.com/images/battle_bulge48.jpgを日本語に改変
   

これは連合国軍にとっては、珍しく戦略的規模の奇襲を受けることとなった。この連合国軍が奇襲を受けたのには暗号解読が関係していた。イギリスはドイツ軍のエニグマ暗号を解読しており、それによってドイツ軍の戦略的な動きは、第二次世界大戦を通して概ね事前にわかっていた。

ところが、1944年7月にベルヒテスガーデンでヒトラー暗殺未遂事件が起こったことにより、ヒトラーは軍を信用しなくなっていた。そのため、軍の反対が予想されるバルジの戦いの準備の指示には、ヒトラーとその司令部はエニグマ暗号を用いた無線を使わず、有線電話や伝令を用いて指示を行っていた。一方で連合国軍はエニグマ暗号をすっかり信頼しており、他の情報からドイツ軍が動き出す兆候を感じていたものの、これに関する暗号通信がほとんどなかったため、大規模な攻勢とは考えていなかった[1]。

この作戦の成否は天候にかかっていた。当時ドイツ軍は制空権を失っており、この戦いで成功するためには、地上のドイツ軍が連合国軍航空機による空からの攻撃を受けないこと、つまり雲底の低い曇り空が長期間継続する期間に、迅速に作戦を実施できることが前提だった。

作戦開始の都合の良い日を探すため、ドイツのZWG(中央気象グループ)に、その予報が課された。彼らが軍から求められた条件は、アルデンヌを含むライン川の西方で作戦開始後5日間曇りになる期間を2日前に予報することだった。作戦の成功には最低でも1日前に向こう3日間の飛行が困難となる気象条件の期間を予見することが必要とされた。

これは、当時の気象学の水準からすると実質的に不可能に近い任務だった。1940年5月、当時のZWGのチーフだったディージングは、「特異期間(singularities)」という考え方を使って、同年5月10日から西部ヨーロッパが数日間晴天になることを予測し、ドイツ軍の電撃戦を成功させていた。しかし、1944年12月には、ケルンより西の気象観測所は、既に連合国軍に占領されて、高層気象や地上気象の観測データがなかった。実質的に1日より先の正確な予報は無理だった。

ディージングが亡くなった後、ZWGのチーフとなっていたシュベルトフェーガーと部下の気象学者フローンは、過去の12月の天気図を調べて、そういう曇天が続く条件にあう気象がどの程度起こったか調べた。その結果、5日間続いた例はなく、4日間も怪しく、3日間がわずかにあっただけだった[2]。

12月1日から、シュベルトフェーガーはドイツ空軍司令部とヴォルフスシャンツェ(狼の巣とも呼ばれたヒトラー司令部)に、毎日気象予測の状況を報告し続けていた。それは「まだ条件が揃う見込み無し」というものだったが、それには連合国軍がライン川を渡る前には、そういう状況が来るかもしれないという根拠のない希望を添えていた[2]

ところが12月14日になると、驚いたことに動きの鈍い北海の低気圧に向けて、南西からの湿った風が当該作戦地域に吹き続けるという、曇天の条件を満たす気象になる可能性が出てきた。翌日昼に改めて確認すると、西ヨーロッパが少なくとも16日から2日間は雲をもたらす湿った暖かい、風の弱い気団に覆われることが予見された[2]。

シュベルトフェーガーは15日の昼に、「16日から18日にかけて雲底の低い雲か霧によって当該地域の下層の視程が悪くなることが予想される」という予報を出した。この予報に基づいて12月16日からバルジの戦いの作戦が開始された。

NOAAの再解析による1944年12月16日18:00時の850hPa面の気温と地上気圧。ドイツ西部からベルギーにかけて暖気が南西から入っていることがわかる(www.wetterzentrale.deによる)。

予報は当たり、当日から曇天が続いた。ところが予想外なことに、曇りの天候はこの3日間だけでなく、4日目の午後にはやや雲に隙間が出来てわずかな航空機が活動できたものの、5日目も再び厚い雲に覆われて強風が吹いた。12月にこのような気象状況が5日間も続いたことは、それまでの記録にはなかったことだった[2]。連合国軍では、ドイツ軍と天候が共謀していると嘆いたとも言われている。

この曇天の継続は、この作戦にとってこれ以上ない理想的な条件となったと思われる。ドイツ軍は、この天候を利用して連合国軍を破って70km程度西のセル付近まで侵攻した。しかしそれが限界だった。

ベルギーでドイツ軍機甲部隊の迎撃に向かう連合国軍のM36対戦車自走砲。1944年12月20日。https://ww2db.com/image.php?image_id=6931

6日目には暖気が後退して天候が回復した。するとドイツ空軍は連合国軍の航空部隊に圧倒され、多数の機甲師団を含むドイツ軍は連合国軍の空からの攻撃によって壊滅していった。また、ドイツ軍は攻勢開始後にエニグマ暗号を使った無線による指示を再開したため、ドイツ軍の意図は連合国軍に筒抜けとなった[1]。そのため、この戦いはバストーニュという都市を巡る攻防という局所的な戦いに矮小化されていった。

包囲されたバストーニュに物資を空中から投下する連合国軍の輸送機(C-47)
https://ww2db.com/image.php?image_id=6937

連合国軍総司令官だったアイゼンハワーは、ドイツ軍に防備を固めた国境沿いに籠もって抵抗されるよりは、ドイツ軍が西方の開けた空間に出てきた方がむしろ叩きやすいと考えたようである[3]。最終的にドイツ軍は、戦車800台、飛行機約1000機を失い、死傷者10万近くを出して国境付近まで退却した[3]。これによって最後のまとまった戦力を失ったため、ドイツの崩壊が早まったとも言われている。

バルジの戦いで防戦したアメリカ軍第82空挺師団の装甲ジープ
https:/ww2db.com/images/vehicle_jeep31.jpg

この作戦の成否は別として、この長期にわたる曇天を予測できたことは、ドイツの気象学者にとっては栄誉になったと思われる。この予報の成功によってZWGのチーフだったシュベルトフェーガーは大佐に昇進している[2]。

(このシリーズ終わり。次は「成層圏突然昇温の発見とその解明(1)」)

参照文献

[1]ウィンター・ボーザム, 1978: ウルトラ・シークレット,早川書房
[2]Schwerdtfeger, W., 1986: The last two years of Z-W-G (Part 3). Weather, 41, pp. 187-191.
[3]アントニー・ビーバー, 2015:第二次世界大戦1939-1945(下), 白水社
[4]グリーンフィールド, 2004, 歴史的決断(下), 筑摩書房

2023年8月4日金曜日

独ソ戦における長期予報(5)

予報を巡る2つの出来事

このように、1941年のドイツ軍によるモスクワ侵攻の失敗は、補給に大きな問題を抱えており、厳寒を予測できなかった長期予報の外れだけが決定的要因とは言えない。しかし、長期予報が作戦に大きく影響していることは間違いない。当時の予報を巡る2つの出来事を見ていく。

「観測が間違っているに違いない」

12月8日頃、ZWGのチーフだったディージングは、軍の長期予報を担当していたバウアーに電話した。これは東部ヨーロッパで異常に低温になっていることについて、バウアーが以前に出した平年並みか暖冬という長期予報内容を継続するのかどうかについての問いだった。長期予報の内容を継続するかどうかは、その後の作戦に影響する可能性があった。

ディージングによるヨーロッパ東部で低温になっているという報告に対して、バウアーは「観測が間違っているに違いない」と答えたことになっている。これによって同僚らはバウアーに不信を抱くようになった [4]。

この件は、ディージングが予報の外れを責められたためか翌年体調を崩して死去し、後任としてZWGのチーフとなったシュヴェルトフェーガーが、フローンの話を元に戦後にこれを明らかにしたことで有名となった。この話は独善なバウアーが自己過信して事実でさえ受け入れなかった話としてわかりやすい。しかし、前後の文脈で話のニュアンスが大きく異なることもある。また気温の観測は局所的な観測環境にも大きく左右される場合がある。この種の話はそこだけ切り出して使わない方が良さそうである。

ソ連の予報

第二次世界大戦中にソ連水文気象予報センターは、3日後、「自然総観気象の期間」(7~10日後)、1か月後、3か月後までの予報を定期的に作成していた [4]。ただし、長期予報の精度は当時の世界的な気象学の水準から言って限界があったと思われる。しかし、数日後までの精度は良かったようである。

ドイツ軍がモスクワまで100kmの位置に迫っていた1941年11月初めに、ソ連は士気を鼓舞するためにモスクワで大規模な軍事パレードを計画した。しかしそのパレードは、ドイツ空軍がモスクワを空爆できないように上空に低層雲が広がる日を予測して、その日に実施する必要があった。予報当局は、11月7日は低い雲に覆われて雪が降ると予報した。実際にその予報は的中し、パレードはその日に行われた [4]。

1941年11月7日にモスクワで行われたパレード
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e9/Kuybyshev_battle_parade_1941_05.jpg

また、1941年12月の反攻開始の際も、反攻の計画段階と実行段階の両方において予報と実況が重要な役割を果たした。予報では、12月5~7日に寒冷前線の通過で気温が急速に低下して雲量が減少すると予報され、それによってソ連の航空隊による航空攻撃が可能になるこれらの期間が反攻開始日として決定された [4]。そして気象予報は当たり、この時期に反攻が開始された。

これからこの時点で、ソ連の気象当局が前線解析を行うベルゲン学派の気象学を既に採用していたことがわかる。日本の中央気象台がベルゲン学派の気象学を導入したのは戦後である。

攻撃するソ連軍兵士
https:/commons.wikimedia.org/wiki/Commons:RIA_Novosti/Battle_for_Moscow#/media/File:RIAN_archive_301_An_attack.jpg;

 まとめ

フランツ・バウアーは1941年10月に、ヨーロッパ東部の冬季は「平年並みか暖冬になる」とした長期予報をドイツ軍に提供した。それを信じたドイツ軍は十分な冬季の装備を整えずに侵攻を続けた。その結果、12月初めに厳冬にさらされたままソ連軍の反攻を受けて、多大な損害を受けて退却した。

バウアーは戦争中の自分の活動について、公には何も資料を残さなかった。しかし、彼の死後、彼が行った予報の開示と弟子であったフローンによる回顧録によってバウアーの予報は、人々に大きく批判されることになった。

そもそも泥濘期というヨーロッパ東部の気候をよく調べないままに侵攻を開始したドイツ軍は、補給についての甘い見通しもあってモスクワの早期の占領に成功する見込みは低かった。さらに、戦争が冬季まで長引きそうなことがわかっても、平年並みか暖冬を言う長期予報を信じて、冬季の備えを十分にしなかった。ドイツ軍首脳の意識は、最前線の戦力や作戦については重要視していたかもしれないが、補給や気候については、それほど重要視していない状態で独ソ戦を開始した。

ドイツ軍は長期予報を信じて、防寒対策を十分に施さない状態で異常寒波とソ連軍の反攻にさらされた。しかし「平年並みか暖冬になる」という長期予報は、[2]によるとバウアーが出した予報内容としては、正確ではないとしている。

バウアー自身の記録によると、「時間的にも空間的にも、平均して西・中枢ヨーロッパでも北・東ヨーロッパでも冬は厳しくはないだろう。特に北・東ヨーロッパでは、冬の平均気温が平年値を上回る確率の方が、寒すぎる冬になる確率よりも大きい。」という留保をつけていた [2]。 

バウアーは、確かに「平年並みか暖冬になる」という表現を使った。彼も人間である。寒い冬が続けば、次はそうではないだろうという思いがあったのかもしれない。彼がそういう表現を用いたのには、前回の冬が厳寒だったことも影響したようである。

バウアーが得意とした統計学からすると、気候の発現は独立事象なので前年の状況とは関係しない。サイコロで1が出たとしても、次に1が出る確率はやはり1/6である。彼は当然そのことを認識して統計的な留保もつけていた [2]。しかし、そういった留保は無視され、「平年並みか暖冬になる」という表現だけが一人歩きした観が強い。

また、仮にバウアーが10月末に冬季に厳冬になるという予報を出していたとしても、補給が逼迫していたドイツ軍では、前線に十分な冬装備を供給することは困難だっただろう。それでもそういう予報があれば、厳冬に対する兵士たちへの影響を少しは緩和できたもしれない。

しかし、いずれにしても長期予報の外れによるドイツ軍の敗退を、バウアーの責任にするのには無理がある。当時の長期予報は不確定なもので(今でもある程度そうだが)、そのことを十分に知っておれば、(補給を含めて)作戦計画を長期予報に全面的に依存するのは適切ではない。長期予報が使えないというわけではない。ただその利用方法としては外れた場合の備えも必ず必要となる。当時のドイツ軍が長期予報を信じて寒波に対する手を打たなかったとすれば、それは当時の気象学の水準を無視した長期予報への一種の過剰依存といえるだろう。

結局バウアーは、統計学を用いた心底からの中・長期予報研究者だったと言えるかもしれない。彼は生涯を通じて統計的手法を使った長期予報手法を一貫して追及し、一時的には世界的に注目されたが、その評価はまだ定まっていない。統計学は気候に有用な情報をもたらすことはあるが、その結果からは原因はわからず、また統計である以上当たらないこともある。彼はハンガリー気象学会からは賞を受けたが、母国からは業務に対する功労十字章を受けたのみで、科学的な栄誉は与えられなかった。

結局10日程度の中期予報は、現在では数値予報に完全に取って代わられているし、長期的な季節予報も確率を用いた慎重な表現が使われている。彼が行った長期予報は、統計的な部分が無視され、わかりやすい部分だけが使われたのかもしれない。それは彼の本意ではなかったろう。

当時長期予報を行える人は極めて限られていた。長期予報の学問的関心が短期予報に比べて相対的に低かったことや彼の性格から、彼は長期予報の中心的作業をほとんど一人で行っていたと思われる。そのため、その責任も結果的に一人で引き受けることになったのだろう。そういう意味では、彼は確かに「悲劇の一匹狼」だったのかもしれない。

(このシリーズ終わり。次はバルジの戦いの予報

参照文献(このシリーズ共通)

[1]  大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.
[2]  R. Wiuff, "Was Franz Baur's Infamous Long-Range Weather Forecast for the Winter of 1941/42 on the Eastern Front Really Wrong?," Bulletin of American Meteorological Society, 第 巻JANUARY 2023, pp. 107-125, 2023.
[3]  H. E. Landsberg, "Franz Baur, 1887-1977.", Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[4]  Neumann and Flohn, "Great Historical Events That Were Significantly Affected by the Weather: Part 8, Germany's War on the Soviet Union, 1941-45.1. Long -range Weather Forecasts for 1941-42 and Climatological Studies.," Bulletin of American Meteorological Society, 68,  6, pp. 620-630, 1987.
[5]  R. M. Friedman, APPROPRIATING THE WEATHER, Cornell University Press., 1993.
[6]  H. E. Landsberg, "Necrology Franz Baur 1887-1977," Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[7]  田家康, 世界史を変えた異常気象: エルニーニョから歴史を読み解く, 日本経済新聞出版, 2011.


 

 

 

2023年8月2日水曜日

独ソ戦における長期予報(4)

 ドイツ軍の1941/42冬季の長期予報

独ソ戦が始まった直後、ドイツの中央気象グループ(ZWG)では、ソ連の冬についての研究を始めた。ドイツ軍では驚くべきことに、それまでソ連の冬の状況についてきちんとした調査は行われていなかった。その調査にはナポレオンが冬将軍のためにロシアから敗退した1812年から13年のデータが含まれていた。それらを用いた調査の結果、日最低気温の単純な積算が寒さの指標となることがわかった。例えばソ連のレニングラードとZWGがあるドイツのポツダムでの指標を比べて、現状や今後の推移の状況が判断された [4]。

当初ヒトラーらは、ソ連を冬までに打倒できるから、ソ連で戦争に従事する全軍に冬装備は必要ないだろうと考えていた。しかし、秋になって泥濘期によって進軍が滞り始めると、ヒトラーとドイツ軍参謀本部は戦争が冬季にまで長引きそうなことに気づき、ソ連の冬の気候について関心を持ち始めた。そして、この冬の長期予報の提供をバウアーに要請した。バウアーは10月末に地域気候学的な要素と太陽黒点と気候の関係を考慮して冬季の予報を提出した。

その予報は次の冬を「平年並みか暖冬」とした。その主な根拠は、気候史上、厳しい冬が3回以上続いたことはないという理由だった。 1939/40年と1940/41年の冬は2年続いてヨーロッパでは厳冬だった。過去150年間遡っても3年連続の厳冬はなく、彼は1941/42の冬は厳冬にはならないと予想した [4]。これが作戦に大きな影響を与えたとされている。

一方で、ZWGの気象学者たちは、9月下旬から子午線面循環のブロッキング傾向の兆候を発見していた。この現象は1939/40年にかけても発生しており、その冬の厳冬の原因となっていた。

一匹狼のバウアーとZWGは必ずしも一枚岩ではなかったようである。ZWGはバウアーの予報を疑問視し、ソ連の戦域では再び寒い冬が予想される文書を作成して、10月下旬にドイツ空軍総司令官ゲーリングに提出した。しかしゲーリングはこれを見て、テーブルに拳を叩きつけて「ロシアでは-15℃より寒くなることはない。戦争は続くのだ!」と叫んだという [4]。この文書はこの時はヒトラーへ提出されなかったとされている。

ZWGの調査結果は、早ければ寒波が11月初めにはやってくると予想していたが、その通りとなった。11月初めに寒波が到来し、そのために泥濘が凍ったことによりドイツ軍は進軍を再開した。ZWGの調査結果は、ベルリンで真冬の気温が0℃前後となるとモスクワでは-7℃~-10℃になることを指摘していたが、ドイツ軍ではそのことをあまり真剣に受け取っていなかったようである。

1942年12月からの状況

中央軍集団に属していたラインハルトの第3装甲軍は、凍結により固まった道路を通って北西からモスクワに迫り、11月28日にはモスクワまで35 kmを切った。また、北方軍集団のヘプナー率いる第4装甲軍は、モスクワまで20 km余りに迫った。12月1日、中央軍集団の第4軍はモスクワに向けて東に進軍していた。しかし補給が限界に達していた。キーウから北上していた中央軍集団のグデーリアン率いる第2装甲軍は、進軍速度が1日に数kmに落ち、11月20日にはもう限界に達していた [7]。

1941年12月初めに、ZWGのソ連の冬季の気象の調査結果がヒトラーに提示された。 以前に述べたように、その結果にはナポレオンが退却した1812/13年のデータが含まれていた。しかし、ヒトラーはナポレオンが敗退した1812/13年の冬について言及することを許さなかった。そういう中で12月4日からモスクワ付近に異常寒波が襲った。4日にはモスクワでは気温が-17℃以下、郊外のトゥーラ付近では-35℃まで下がった。

NOAAの再解析による1941年12月4日の地上気圧と850hPa(高度約1500m)での気温(www.wetterzentrale.deによる)。モスクワ西方上空に、北西から南下した-24℃の寒気の核があることがわかる。

ドイツ軍は適切な防寒装備を持っていなかったため、凍傷や凍死が続出した。ドイツ軍の武器、戦車、機械化車両の多くは、耐寒装備がなかったため寒波の中で潤滑油が凍るなどして作動しなくなった。ドイツ軍の機関車の多くも-15℃以下では故障して動けなくなり、輸送量は半減した。さらに吹雪になると列車は全く停止した [4]。12月5日には、第2装甲軍と第3装甲軍がモスクワへの攻勢を中止した。

さらにドイツ軍が寒波のために攻勢から守勢に転向しようと配置を転換し始めた12月5日から6日にかけて、ソ連軍の将軍ジューコフが準備し指揮したソ連軍が新型のT-34戦車を含む大規模な反攻を開始した(ジューコフはノモンハン事件でも指揮したことで有名である)。ドイツ軍にとっては最も脆弱なタイミングとなった。

この年は11月下旬から天候が悪く、ソ連軍の攻勢のための兵力、戦車、装備、物資の集結を、ドイツ軍は空から偵察できていなかった。スターリンは日本にいたスパイであるゾルゲからの報告で日本がソ連を攻撃する意図がないことを知って、日本に備えていた防寒装備が整った東シベリアの師団も動員していた [4]。攻勢の限界点に来ていた上に寒波への供えがなかったドイツ軍は、全くの不意を突かれた形となり、各地で重装備や車両を捨てて退却した。

ドイツ軍が放置していった車両
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:RIAN_archive_697_Nazi_vehicles_abandoned_near_Moscow.jpg


12月7日にドイツ軍最高司令部は東プロイセンでヒトラーと会談した。ソ連領内の気象状況が会議の主題となり、ヒトラーは「(寒波の襲来を)もっと早く知っていれば」と繰り返したという [4]。

モスクワとスモレンスクの朝の気温(℃)、1941年11月15日~12月15日 [4]より。

ドイツ軍司令部はソ連軍の反攻を受けて、12月8日に「厳冬が驚くほど早めに到来したために、モスクワ攻略を中止して守勢に転じる」ことを指示した。ドイツの12月8日のラジオ放送は、ソ連軍の反攻には触れず、ソ連にいるドイツ軍に異常な寒波が襲来したことと、日本軍の真珠湾攻撃によりドイツも米国に対して宣戦布告したことを告げた [1]。

ソ連軍の反攻を受けて、ドイツ軍は約100 kmから250 km後退した。ドイツ軍は深刻な危機感を抱き、ヒトラーは1941年12月16日に、現在地を死守せよとの要求を発した。ドイツ軍司令官たちは、ヒトラーの許可なくして退却命令を出せなくなった。この方針に反対したグデ-リアン上級大将やルントシュテット元帥などの高級軍人たちは解任された。

一方で反攻を行ったソ連軍部隊は、十分な兵器や装備を持たなかった上に、新たに編成された経験の浅い部隊だった。1942年1月7日、スターリンは全戦線にわたって攻勢を命じたが、これは過大な要求となった。ソ連軍は突破口を開いたにもかかわらず、先鋒部隊に充分な兵力を後続させて、戦果を拡張することができなかった。モスクワ西方での攻勢は、竜頭蛇尾の結果に終わり、ドイツ軍は壊滅を免れた [1]。

しかし、当時それはヒトラーによるドイツ軍への死守命令が功を奏したためと考えられた [1]。陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥は辞任し、代わりにヒトラーがそのポジションに就任した。これによるヒトラーの軍内の権力強化によって、ドイツ軍は翌年の再攻勢へと進んでいった。

独ソ戦における長期予報(5)につづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1]  大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.
[2]  R. Wiuff, "Was Franz Baur's Infamous Long-Range Weather Forecast for the Winter of 1941/42 on the Eastern Front Really Wrong?," Bulletin of American Meteorological Society, 第 巻JANUARY 2023, pp. 107-125, 2023.
[3]  H. E. Landsberg, "Franz Baur, 1887-1977.", Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[4]  Neumann and Flohn, "Great Historical Events That Were Significantly Affected by the Weather: Part 8, Germany's War on the Soviet Union, 1941-45.1. Long -range Weather Forecasts for 1941-42 and Climatological Studies.," Bulletin of American Meteorological Society, 68,  6, pp. 620-630, 1987.
[5]  R. M. Friedman, APPROPRIATING THE WEATHER, Cornell University Press., 1993.
[6]  H. E. Landsberg, "Necrology Franz Baur 1887-1977," Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[7]  田家康, 世界史を変えた異常気象: エルニーニョから歴史を読み解く, 日本経済新聞出版, 2011.

2023年7月31日月曜日

独ソ戦における長期予報(3)

独ソ戦の開始と気候への理解

ヒトラーは1941年6月22日にソ連への侵攻を開始した。この開始は当初は5月の予定であったが、想定外のユーゴスラビア政変による侵攻によって、最初から遅れたものとなった。当初に立案された作戦計画は、初戦時の数回の会戦でソ連軍を圧倒し、長大な補給線を必要とするモスクワまで最大120日程度で一気に達するという甘い見通しに立ったものだった [1]。

これはフランスで行ったような電撃戦を想定していたものだったが、ソ連領内は道はほとんど舗装されておらず、当然ガソリンスタンドもほとんどなく、フランスでの電撃戦と同じように行かないことは明白だった。補給は主に列車に依るしかなかったが、ドイツ内とソ連内では軌道の幅が異なっており、列車による輸送も困難を抱えていた。ドイツ軍というと機械化部隊のイメージが強いが、後方の輸送は人馬が主体であり、駅からの補給の多くは人馬に依った。さらに、急速に進撃したドイツ軍の背後に取り残されたソ連軍による補給線への攻撃も補給を困難にした。

1941年6月に進撃するドイツ軍
https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Barbarossa#/media/File:Wehrmacht_Panzergruppe_3_%D0%BF%D0%B0%D0%B4_%D0%9F%D1%80%D1%83%D0%B6%D0%B0%D0%BD%D0%B0%D0%B9_1941.gif


ドイツではソ連領ヨーロッパ(東ヨーロッパ)の気候に関する研究はわずかしかなかった。その研究の一つには、融解期の土壌の湿潤に関するものがあった。この地域は春と秋に大地が泥と化し、この時期は「泥濘期」と呼ばれた。泥濘とは、文字通り一面が泥と化すもので、場合によっては人間の腰付近までぬかるんだ。そうなると、移動は著しく困難になる。しかし、この研究は泥濘期について不十分なもので、泥濘期を春季に限定し、秋季の泥濘期には言及していなかった [4]。

ロシアの泥濘
https:/commons.wikimedia.org/wiki/File:Bundesarchiv_Bild_101I-289-1091-26,_Russland,_Pferdegespann_im_Schlamm.jpgより

8月にドイツ陸軍戦況図調査部が作成した報告書によると、降雨によって道路の通行が不能に陥る可能性があることを指摘していたが、その最悪の時期は8月を予想していた。確かに降水量だけ見ると8月が最大だったが、蒸発量を加味すると、泥濘は春季と秋季に起こった。そのことをドイツ軍は知らなかった。しかも、ドイツ軍ではこの報告書さえ十分に注目していなかった。

ドイツ軍は中央軍集団の第2装甲軍を南下させ、9月に南北からキーウを挟み撃ちにしたキーウ会戦で、緒戦に引き続きソ連軍に大勝した。しかし、それは比較的補給が良好だった同装甲軍を、さらに補給が困難になる東進ではなく南下させることしか出来なかったためとされている [1]。戦いで勝利はしたものの、それによってモスクワ侵攻が遅れて泥濘期に入ってしまい、後で大きな代償を払うこととなった。

一方で、ソ連ではこの泥濘期を十分に理解していた。7月31日、米国のルーズベルト大統領の特使であったハリー・ホプキンスは、クレムリンでスターリンと会談した。 その会話の中でスターリンは、「大雨が降り始める9月1日以降、ドイツ軍が攻撃的に活動するのは困難であり、10月1日以降は地盤が非常に悪くなるため、守勢に回らざるを得なくなるだろう」という自信に満ちた意見を述べた [4]。

泥濘による作戦の遅滞

ドイツ軍は10月2日にモスクワへの突入のための「タイフーン作戦」を開始した。しかし、スターリンの予測は的中した。1941年の泥濘期は雪が降り始めた10月10日から始まった。雨・雪と蒸発率の低さによって、ソ連領内の道路や野原は泥沼と化した。

ドイツ軍の戦車、大砲、機械化部隊の大部分は泥濘のために動けず、補給トラックも積載量を減らしてゆっくりとしか進めなかった。タイヤの車両はキャタピラーを持った車両で牽引しないと進めなくなったが、牽引のためのチェーンが不足した。食糧運搬車は立ち往生し、歩兵は膝まで沈む中を徒歩で行軍した。最終的には、馬が引く車両だけがなんとか移動でき、軍幹部の乗る自動車でさえ沼地につかまると、軍馬や人力で引き上げるしかなかった [7]。

ドイツ軍は、大地が凍結する11月10日まで約4週間動けなかった。もともとか細かったドイツ軍の補給は泥濘でいっそう逼迫した。この遅れによってモスクワ侵攻が長引き、冬季にまでずれ込むことが明白となった。そのためドイツ軍司令部では冬季の長期予報に関心が起こった。

この泥濘期はソ連軍にも影響したが、この時期にソ連軍は主に防御戦を戦っており、輸送ルートも短く、高い機動力を必要としていなかった。 さらにソ連の戦車と輸送車はドイツ軍のものよりキャタピラの軌道幅と車輪幅が広く、接地圧力が低いため、ぬかるんだ地形により適応していた。

独ソ戦における長期予報(4)につづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1]  大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.
[2]  R. Wiuff, "Was Franz Baur's Infamous Long-Range Weather Forecast for the Winter of 1941/42 on the Eastern Front Really Wrong?," Bulletin of American Meteorological Society, 第 巻JANUARY 2023, pp. 107-125, 2023.
[3]  H. E. Landsberg, "Franz Baur, 1887-1977.",
Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[4]  Neumann and Flohn, "Great Historical Events That Were Significantly Affected by the Weather: Part 8, Germany's War on the Soviet Union, 1941-45.1. Long -range Weather Forecasts for 1941-42 and Climatological Studies.," Bulletin of American Meteorological Society, 68,  6, pp. 620-630, 1987.
[5]  R. M. Friedman, APPROPRIATING THE WEATHER, Cornell University Press., 1993.
[6]  H. E. Landsberg, "Necrology Franz Baur 1887-1977," Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[7]  田家康, 世界史を変えた異常気象: エルニーニョから歴史を読み解く, 日本経済新聞出版, 2011.



2023年7月29日土曜日

独ソ戦における長期予報(2)

 フランツ・バウアーについて

独ソ戦において長期予報を行った気象学者フランツ・バウアー(Franz Baur, 1887-1977)は、1887年にミュンヘンに生まれた。父親も軍人であったため、バウアーも高校卒業後にミュンヘン陸軍大学に入り、卒業後に野戦砲兵中尉に任官した。第一次世界大戦中に彼は乗馬事故に遭い、精神的な後遺症が残ったとされている。この後遺症がその後の彼の孤高な人格に影響を与えたのかもしれない。

1918年に第一次世界大戦が終わると、彼は他の多くの人たちと同じように軍を離れた。彼はミュンヘンとフライブルクの大学で物理学、数学、地理学、気象学を学んだ。彼は1921年にフライブルク大学で博士号を取得した。バウアーの最大の関心は長期予報だった。

この興味は、有名な気象学者アウグスト・シュマウス教授のミュンヘンでの講義の中で、「長期予報は、おそらく不可能だろう」と述べたことに対して、疑問を持ったことにあるようである [2]。シュマウス教授は気候の特異点(singularity)の研究で有名であり、ドイツ気象学界の重鎮だった。なお気候の特異点という考えは今ではほとんど顧みられないが、暦に縛られた気温の特殊性と言えようか。日本で強いていうならば、気温ではないが11月3日の晴れの特異日などがそれに近いかもしれない。

バウアーは在学中に、シュヴァルツヴァルト(黒い森地方)のサン・ブラジエンにある医学・気象学研究所の責任者になった。彼は1923年3月に気温の長期予報を発表し、その科学的根拠と説明を同年末にドイツの気象学会誌に掲載した。

気温の長期予報は農業(植物の生育)と関連するため、この予報は農業気象に大きな反響をもたらした。バウアーはドイツの正統な研究者であることを示す論文モノグラフを書く準備を進めたが、長期予報を本格的な気象学の対象外とみなす正統派気象学会の反対を受けた。彼はやむなく1926年に「ドイツの季節別気温予報の基礎」という本の形でそれを出版した。それ以来、長期予報(季節予報)は正統な気象学の対象外と考えていた気象学界において、彼は物議を醸す存在となった [3]。

バウアーは農業分野におけるその人望を利用して農務省を説得し、1929 年にフランクフルトに小規模な長期予報研究センターを設立し、その所長となった。彼は1932年から戦争が始まるまで、定期的に5日および10日先までの中期予報を作成した。彼はその根拠を、統計と総観気象の組み合わせたものであることをアメリカの論文誌に発表している。しかし、他国と同様に10日予報の精度は必ずしも良くなかった。

また、彼はフランクフルト大学でも教鞭をとり、統計学を教えていた。彼の講義はレベルが高く、ほんの一握りの学生しかついて来れなかったようである。そのときの彼の弟子にH.フローンがいた。フローンは後にドイツの中央気象グループ(ZWG)で働くようになる。当時の師弟関係は良好だったが、フローンはバウアーの長期予報に対しては懐疑的だった [4]。フローンは戦後にバウアーが戦時中に行った長期予報の記事を書き、これがきっかけでバウアーが行った長期予報に対する議論が起こることとなる。

バウアーは、1937年に「大規模気象研究入門(Einfuhrung in die Grosswetterforschung)」という本を出版した(これは1944年に「長期天気予報法入門」という題で日本でも翻訳出版されている)。彼はグロスベッター・ラーゲ(大規模気象状況)という概念を持っており、気象を空間的・時間的に大規模に見ることで、長期間の気象の推移に統計的に有意なパターンを見出すことができると考えていた [5]。彼の手法は世界でも注目されていたようである。

彼の考え方はベルゲン学派が唱えた気象のセンターズ・オブ・アクション(活動中心)という概念に近いものだった。日本付近だと、シベリア高気圧が卓越する冬季の西高東低の気圧配置や太平洋高気圧が発達する夏型の気圧配置がこれに相当するかもしれない。これは持続するので、発現すればおおまかな中・長期予報をすることが出来る。

1938年に戦争の気配が濃厚となると、ドイツはポツダムに中央気象グループ(ZWG)を設立して、ドイツ国防軍最高司令部(Wolfsschanze)とドイツ空軍司令部(Kurfürst)に天気図と気象予報を提供するようになった。第二次世界大戦が勃発すると、バウアーの長期予報研究センターは、彼の抗議にもかかわらずZWGの気象局の下におかれて、軍に長期予報を提供するようになった [2]。独ソ戦で行ったバウアーの長期予報については後述する。

戦後、バウアーはわずかな研究費を元手に中・長期予報の研究を発表し続けた。1947年には「ヨーロッパの主な気象パターンの代表例」、1948年には「大規模気象知識入門」、1956-58年にかけて、「気象と天気予報の基礎としての物理統計法則」2巻を出版した(何れもドイツ語) [6]。

バウアーと長期予報はドイツの気象学界の中で、人格的にも学問的にも孤立していた。フローンは、具体的な記述をしてはいないものの、乗馬事故による心理的ダメージによるバウアーの病的な不信感に言及している。

バウアーは1977年に亡くなったが、フランクフルト大学でバウアーの講義を受けたことがあるアメリカ気象局長官、ヘルムート・ランズバーグは、彼の追悼文の中で「バウアーと気象学の仲間たちとの関係は一般に対立していた。ドイツの気象学の権威者たちは彼を敬遠していた」と述べて、彼を「悲劇の一匹狼」と呼んでいる [3]。

独ソ戦における長期予報(3)へ続く)


参照文献(このシリーズ共通)

[1] 大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.
[2] R. Wiuff, "Was Franz Baur's Infamous Long-Range Weather Forecast for the Winter of 1941/42 on the Eastern Front Really Wrong?," Bulletin of American Meteorological Society, JANUARY 2023, pp. 107-125, 2023.
[3] H. E. Landsberg, "Franz Baur, 1887-1977.," Bulletin of American Meteorological Society, 59, 310-311, 1978.
[4] Neumann and Flohn, "Great Historical Events That Were Signiticantly Affected by the Weather: Part 8, Germany's War on the Soviet Union, 1941-45.I. Long -range Weather Forecasts for 1941-42 and Climatological Studies.," Bulletin of American Meteorological Society, 68, 6, 620-630, 1987.
[5] R. M. Friedman, APPROPRIATING THE WEATHER, Cornell University Press., 1993. 
[6]  H. E. Landsberg, "Necrology Franz Baur 1887-1977," Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.



2023年7月27日木曜日

独ソ戦における長期予報(1)

 イントロダクション

気象は戦争に大きな影響を与える。それが明確に意識され始めたのは第一次世界大戦からである。当初は飛行船・航空機や毒ガスの運用のための低層の風と視程の予報に関心が集まった。しかし、大砲の射程が伸びるにつれて、命中精度を上げるための弾道計算に高層の風も重要になった。必要だったのは気象の現状把握か短期予報だった。そのため、第一次世界大戦から軍の気象部隊が大幅に拡充されるようになった。

第二次世界大戦になると、軍の近代化・機械化が進み、作戦も巧緻化した。しかし、最後に戦うのは人間である。そのため、短期予報だけでなく、作戦の準備段階から戦場において想定される気候がどうであるかも重要視されるようになった。

太平洋戦争時、1943年5月にアッツ島の上陸作戦を行った米軍は、気候の調査よりも作戦の秘匿を優先させたため、カリフォルニアで訓練していた兵士たちは気候にそぐわない装備のままで戦闘に臨むこととなった。5月のアリューシャン列島は曇天が多く、雪が残ってまだ寒い。米軍は凍傷などによって多数の負傷者を出し、その数は戦闘による死傷者を上回った(「アリューシャンでの戦い」)の7.4.3を参照)。

1941年6月から始まった独ソ戦(バルバロッサ作戦)においても、ドイツ軍は泥濘期というヨーロッパ東部の気候への注意が足らず、また冬季の気候予測が外れたため、大きな犠牲を払った。これまで1941年の独ソ戦は、ヒトラーの作戦への無理な介入と異常な寒波という天候が、勝敗を決定したような理解がされることもあった。これは独ソ戦開戦後、モスクワに向けて快進撃を続けていた軍に対して、ヒトラーが途中からコーカサスの油田とレニングラードの包囲・遮断を優先させたため、時間を浪費して異常な寒波に遭遇せざるを得なくなったというものである。

しかし、近年の研究によると、それ以前にドイツ軍には補給などに当初から多くの問題を抱えており、長大な補給線が必要となるモスクワへの急速な進撃は、そもそも無理だったともされている [1]。しかし、冬季の長期予報の外れによって多大な犠牲を出したことは間違いない。当時、ドイツ軍に長期予報を提供していたのはフランツ・バウアーという気象学者だった。ここでは、彼に焦点を当てながら、当時のドイツ軍の長期予報がどうであったのかを見ていきたい。

1941年の独ソ戦(バルバロッサ作戦)におけるドイツ軍の侵攻範囲(黄緑は1941年12月初めの範囲)

https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Moscow#/media/File:Eastern_Front_1941-06_to_1941-12.png

独ソ戦における長期予報(2)につづく)


参照文献

[1] 大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019. 

2023年7月9日日曜日

気象学の歴史から見た大気の川

大気の川とは

人間の手が届かない上空では、今日でも何が起こっているかを常時監視することは難しい。そのため、ほんの数百メートル上空でもあまり知られていないことが起こることがある。

近年、大気中の水蒸気輸送に「大気の川(atmospheric river)」という表現が使われることが多くなった。例えば2022年3月24日にNHKのコズミックフロントで「アマゾンの“空飛ぶ川” 見えてきた地球規模の水循環」という題のドキュメンタリーが放映された。これは大気の川を取り上げたものである。

この大気の川とは高度数百メートルから数キロメートル程度の大気の低層において大量の水蒸気が輸送されている状態を指している。この状態は世界的にいろんな呼ばれ方をすることがあり、日本では「湿舌」という表現が使われることもある。

そしてこの低層での大量の水蒸気の輸送は、集中豪雨や線状降水帯とも関連している。水は物質であり、突然湧いて出ることはない。大量の雨が降るためにはどこからかその分の水蒸気が輸送されてくる必要がある。2015年の関東・東北豪⾬や2020年の熊本県人吉の豪⾬でも大気の川による水蒸気の供給が関係していたのではないかと言われている。


左図。湿舌を示す水蒸気画像の概念モデル。黒横線域は暗域(乾燥域)、白抜き域は明域(湿潤域),黒矢印は上・中層の流れ、白矢印は暗域の動きを示す。右図。概念モデルと似た状況が起こった高知豪雨時の水蒸気画像(1998年9月23日12UTC). Ds, Dnは暗域を表す。 [1]


世界的に大気の川に関心が向いたきっかけの一つは、南米ブラジル中部での雨だった。本来赤道を挟んだ南北緯度20°付近の亜熱帯では雨が少ない。これは、この付近では地球規模のハドレー循環と関連して亜熱帯高圧帯が発達して下降気流が卓越するため、雨をもたらすような上昇流が起きにくいためである。そのため、南北アフリカやオーストラリアでは、その付近に砂漠が多い。

ところが、同様の緯度でも南米ブラジルは比較的雨が多い。これは気候学的に見ると通常のパターンとは異なる。ここで雨が多いのは赤道付近のアマゾン川上空の湿った東風が、アンデス山脈にぶつかって、南に向きを変えるためと考えられている。これによって長さ2000km以上にわたって幅数百km狭い範囲で強い水蒸気輸送が起こっていることがわかってきた。これはアマゾン川に匹敵する水を運んでいると考えられている。そしてこれを1990年代頃から、これを大気の川と呼ぶようになった [2]。

そして、このような現象が実は世界各地で起こっていることがわかってきた。日本付近の湿舌だけでなく、ハワイ周辺から北米にかけての水蒸気輸送帯は「パイナップル・エクスプレス」と呼ばれて、これが引き起こす大雨を「熱帯水蒸気輸出(tropical moisture export)」イベントと呼ぶこともあった。

そして2000年代に、そのメカニズムがわかるにつれて、「大気の川」という表現が徐々に世界的に使われるようになった。また、これはこのブログの「前線を伴った低気圧モデルの100周年」の「6. 前線に沿った地表大気の上昇」で説明したウォーム・コンベヤー・ベルトとも力学的、熱力学的な特性が共通している部分があることがわかっている。

大気の川の歴史

この大気低層の水蒸気輸送の発見は、それほど新しいものではない。実は「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(5)」で示したように、ロスビーが1937年に等温位面解析によって、このような水蒸気輸送があることを示しており、彼はそれを「湿舌(moist tongue )」と称した(合わせてdry tongueも示している) [3]。彼が当時解析したアメリカ大陸上の大規模な湿った空気の流入は、今日の「大気の川」を示していると考えられている [2]。



1936年9月11日の315Kの等温位面の例。実線は等比湿線で、2g/1kg間隔で描かれている。破線は等高線で0.5km間隔で描かれている。H、L、M、Dは高気圧、低気圧、湿潤、乾燥を表す。 [3]より。

温位とはその空気塊が持つ潜在的な熱エネルギーで、その空気塊を断熱的に高度1000hPaに持てきたと仮定した際の温度である。このため、エネルギー保存則により、断熱的な運動をする限り、空気塊はこの温位面上を動くことになる。上図では、メキシコから高い比湿を持った湿潤な大気がアメリカ中央部に向かって温位面に沿って流れ込んでいることがわかる。

ロスビーは等温位面解析(等エントロピー面解析と呼ばれることもある)という手法を編み出し、このような大規模な湿潤大気の流れ込みがあることを明らかにした。これは当然大雨などの予報に有用な情報だったが、電子コンピュータがなかった当時は面的に広域にわたって温位を計算するには時間がかかるため、この解析手法は予報の現業では主流にはならなかった。

前線を伴った低気圧モデルの100周年」で述べたように、1970年頃から前線付近のウォーム・コンベヤー・ベルトという概念が出てきた。そして、大気の川と湿舌とウォーム・コンベヤー・ベルトの3つの現象は、低層での強い水蒸気輸送という共通の特徴と相互に関連しており、特定の状況下では、それらはすべて同じものと考えられている [2]。

そして、大雨の原因となるこの大量の水蒸気輸送を事前に捉えようと、現在さまざまな取り組みが行われている。しかし、日本の場合は海上から高度数百メートルという低層で水蒸気が輸送されてくることが多い。海上に固定観測点を設置することはできず、衛星観測でも発見しにくいため、これを捉えることはまださまざまな困難が伴っている。

科学的新発見のようなものでも、部分的には過去の発見の再発見だったというようなことはよくあることである。大気の川の発見もロスビーによる湿舌の発見の再発見といえるかもしれない。しかし、湿舌の形成過程や特定の地域に大雨をもたらすメカニズムなどが完全に解明されたわけではない。この現象が注目されることによって、大雨に対する防災のためにこれのさらなる解明が進むことを期待したい。

参照文献

[1] 鈴水和史, “水蒸気画像で観測された湿舌の特徴,” 気象衛星センター, 2001.
[2] R. Mo, “Prequel to the Stories of Warm Conveyor Belts and Atmospheric Rivers,” BAMS, American Meteorological Society, 2021.
[3] Rosbby and Coauthors, “Aerological evidence of large-scale mixing in the atmosphere,” Eos, Trans. 18, 30, American Geophysical Union, 1937.