2023年12月17日日曜日

元寇と神風(3)弘安の役

 4. 弘安の役

4-1 軍の構成

フビライは、1279年2月に南宋を下すと、南宋に艦船600隻の建造を命じ、6月には高麗にも900隻の船の建造を命じた [4]。そして、征東行省の左丞相(総司令官)として忠烈王を、右丞相にモンゴル人のアラハン(阿剌罕)を、そしてその下に、南宋の范文虎、ヒンドゥ、洪茶丘、金方慶を配して日本への遠征を命じた。この時は、ヒンドゥと洪茶丘はどちらも征東都元帥という同格の肩書きだった [1]。

日本で弘安の役として知られる第2回目の侵攻は、1281年に行われた。元軍は東路軍と江南軍の2つの軍団から成った。東路軍は、蒙・漢・女真を主力とする兵士15000名と高麗軍兵士10000名の合わせて25000名、それに水手17000名、軍船900隻からなった。これを蒙・漢・女真軍をヒンドゥと洪茶丘が、高麗軍を金方慶が率いた。

江南軍は旧南宋の軍を主力とする約10万名と水手42000名と軍船3500隻から成った [4]。これをアラハンと范文虎が率いた。これは当時史上最大の艦隊と言われている。両軍は陰暦の6月15日に壱岐で合流することになっていた [4]。しかし、出撃の直前にアラハンが病気となり、司令官はアタハイ(阿塔海)に替わった。これが江南軍が寧波を出港するのが遅れた原因の一つとなった。

4-2 日本への侵攻

東路軍は陰暦の1281年5月3日に朝鮮半島の合浦を発ち、「新元史」によると5月26日以前に世界大明浦へ到達した。この地点はどこかわかっていないが、一応対馬のどこかではないかとされている。対馬では、激戦となったが多勢に無勢で占領された。5月26日には壱岐に到達した [3]。ここでも武士団は善戦したが、全滅した。そこでヒンドゥが陽動作戦を提案し、100隻からなる小部隊が、6月4日に以前使節が上陸した長門沖に姿を現した [4]。しかし、彼らは日本側の強固な構えを見て上陸をあきらめて引き返した。

江南軍の到着が遅れることを知った東路軍は、単独で博多へ向かい、6月6日に到着した。しかし、湾内の海岸の石築地や河口の逆茂木(川に入れなくするくい)を見て、防備の薄い志賀島(しかのしま)と湾内の能古島(のこのしま)に上陸した。志賀島は博多湾の北に位置する海の中道と呼ばれる砂州とつながった陸繋島である。

 [3]は、それを迎え撃った日本武士団を約3万名と推定している。志賀島では武士団が小舟で夜襲を繰り返した。そのため東路軍は壱岐に撤退し、7月2日には武士団が壱岐まで攻めて合戦が起こった。7月3~4日頃に、東路軍は平戸に撤退して江南軍と合同した [4]。

一方、江南軍は、上記の理由の遅れで6月18日に寧波(舟山)を出発し、6月末に平戸に着いた。そこで1か月滞在している間に壱岐の東路軍と合流し、7月27日には全軍で鷹島を占領した。平戸には20万名近い大軍が1か月滞在したことになる。その理由は不明だが、 [4]は元軍の偉容を見せつけて、日本側が軟化するのを期待したのではないかとしている。

4-3 台風との遭遇

鷹島で軍を進める準備をしている最中の、閏7月1日(陰暦では7月の次に閏7月が来る。この日は太陽暦の8月23日)に嵐が襲った。これは時期や規模からして、明らかに台風である。元軍は海が荒れ始めると、鷹島の北方や西方の玄界灘に面した海に停泊させていた船を、鷹島の南西の湾内に避難させた [4]。波は風が海上を吹く距離(これを吹走距離という)に応じて高くなる。そのため、玄界灘に開けた島の北岸を避けて、外海からの波が直接は来ない島の南方に船を避難させたことは妥当である。

この台風は九州に南西から近づき、鷹島の西側を通って北東に進んだと考えられている。この台風に関する記述は、「一代要記」の「甚雨大風」、「勘仲記」の「終夜風雨太(はなはだ)し」など日本各地で見つかっている。またマルコポーロも「日本国といふ島の・・・彼れ兵を起こして此島を取らんと思へり。・・・北風強く起こりて吹くこと甚だ烈しく彼の島に大害為せり。」 [6]と記述している。これらの記録から見て、これは相当に強い台風だった。この台風により鷹島の江南軍は大きな被害を出した。

おそらく台風が通過するまでは陸側から吹く東の風で、それほど波が高くなくても、通過後は強い北西風によって、開いた北西側から湾に高波が侵入し、それが島の南の海に伝搬したり反射したりした可能性がある。波だけでなく、強い風によって船が流されて海岸にぶつかったり、船同士がぶつかったりする可能性もある。台風によって江南軍の多数の船が沈没し、元軍は大損害を被った。一部の難破船は九州北岸を北西に漂流して、西日本の日本海沿岸一帯に漂着した [6]。八幡愚童記によれば、次のようになっている。

七月晦日(8月22日)夜半より乾風夥しく吹出でて閏七月朔日(8月23日)賊船悉く漂蕩して海に沈みぬ・・・残る所の船共は皆吹破られて磯に上げられ沖に漂ひ、海の面は草を散すに異らず。死人は岸に積み重ねたるが如し。鷹島に打ち上げられたる数千人 船なくして疲居たりしが、破船ども取り繕いて、蒙古高麗七八艘に打ち乗りて逃んとするを・・・ [6]。(注:晦日は末日で朔日は1日のことである)

元軍は大損害を受けたことがわかる。日本側も損害を被ったであろうが、日本は台風に慣れている上に、比較的小さな船が多く、台風の間は船の多くを陸に引き揚げていたかもしれない。

また、鷹島付近の海底から元軍の沈没船も発見されている。これら鷹島沖海底の沈没船2隻の様子から判断すると、風向が南から南東、そして東へと変わる時間帯に、次々に船が沈んでいったとされている [3]。とすれば鷹島の南~東はすぐ陸に面しているので、沈没原因は高波ではなく、強風そのものだったかもしれない。風向きから判断すれば、台風の鷹島の北、直近を通過したようである [3]。

この台風は2004年の18号台風(Songda)と、九州付近では似た経路を進行したと考えられている。そのため、1281年の台風もこの経路に沿って進んだと仮定して、台風のシミュレーションが行われた。それによると、九州北西部での最大風速は50m/sに達した。波高は鷹島で2~3.5 m、博多湾で1.5~2 mと計算されたが、実際はこの高さの2倍近い波が起こったと推測されている [7]。

台風200418号(Songda)の経路(黒線)。 [8]より

高麗史では、高麗軍の兵士と水手27000名の内、帰り着いたのは19397名となっている。また、元軍では、7月5日に范文虎らの諸将は残った船で逃走し、残された十数万名ともいわれる元軍は、鷹島で船を新造したり、修理したりして帰還しようとした。

しかし、7月7日に日本武士団は鷹島で掃討戦を開始した。これは日本武士団による鷹島への逆上陸戦となったはずである。江南軍は司令官が逃亡したとはいえ、残った将の中で司令官を立てて、頑強に抵抗して激戦となった。しかし、地形や潮の流れなどの知識による地の利は日本側にあった。最終的に日本武士団が江南軍を打ち破り、兵士2~3万名が捕虜となった [3]。捕虜の中で、蒙・漢・女真の兵士は処刑されたが、南宋の兵士は奴隷とされた。

しかし、 [3]は実際に処刑された兵士はそれほど多くなかったのではないかとしている。特に南宋出身の一部は、大陸の高度な軍事技術、兵器の用法を日本に教え、高給を得て経済的にも恵まれた生活をしたようである。また、高麗人もそれなりに保護されていたようである。11年後に高麗国王から、日本は戦役によって戻らなかった高麗人を聖徳に従って生かしているようで幸いなことである、という書状を受け取っている [3]。

4-4 東路軍は博多湾で台風と遭遇した?

東路軍が博多湾から撤退して鷹島で江南軍と合同した点について、 [3]は別の説を提唱している。それは、「高麗史節要」にある世界村大明浦は、対馬ではなく志賀島というものである(江戸時代から300年間、それは通説だったとしている)。つまり、東路軍は5月3日の出発当日に対馬に到着して5月8日頃までに制圧し、15日頃までには壱岐を制圧し、そして5月26日に志賀島に到着したとしている(ほぼ同時に能古島も占領されていたとみている)。そして、東路軍は志賀島を基点に戦い続けながら、一部は長門へ偵察に行った。博多の防備が堅いので、長門を探ったのかもしれない。しかし、長門も厳重に防備してあったため、そのまま引き揚げた。

生の松原の武士団本営の様子。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

日本武士団は、博多湾南岸の生の松原に本営を置いて、志賀島周辺の東路軍を攻めた。「蒙古襲来絵詞」にも志賀海神社横の陣地の蒙古兵や志賀島と思われる場所での武士の様子が描かれている。同じく描かれている船での海戦の状況も、この時の様子かも知れない。

そして6月8日に最大の戦いが起こった。武士団は東路軍をかなり不利な体勢まで追い込んだようだが、志賀島を奪還できなかった。この時の戦いと思われる記述が、日本の「歴代皇紀」や朝鮮の「高麗史」にも残っている [3]。これ以降の戦いでは、日本側はゲリラ戦や夜襲を多用したようである。

東路軍によって占領されていた志賀島とされている絵。浜辺に柵も見える。入江にいるのは蒙古兵とされていたが、 [3]では日本人による偵察とされている。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

志賀島の元軍の防備が強固であったため、武士団は作戦を変えた。6月29日から7月2日にかけて元の補給基地となっている壱岐を攻撃した。そのため、そのため志賀島の東路軍の一部は壱岐に移ったが、志賀島での戦いは続いた。高麗史にある6月26日の東路軍船の遭難は、志賀島から壱岐へ応援に向かった船としている。

閏7月1日には両軍とも博多湾で台風を迎えたが、外海への開口が狭い博多湾内ということもあって、波高は鷹島の6割程度だったと見積もられている。そのため波による被害によって使える船は多少減ったものの、戦いは続いた。閏7月5日に武士団は生の松原の本陣にいた記録があり、その日に総攻撃を行って博多湾の東路軍を打ち破った [3]。それにより、東路軍は博多湾から撤退した。上述したように、高麗軍の兵士・水手は約7割が帰還している。

閏7月5日の博多湾での海上合戦とされている図 [3]。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

一方、江南軍は、7月始めに平戸へ到着し、15日頃鷹島へ移動した。27日頃に壱岐にいた東路軍の一部と鷹島で合同したとしている。そして、江南軍は閏7月1日に鷹島で台風と遭遇して大被害を被った [3]。上述したように、7月5日に范文虎らは残った頑丈な船で逃走している。この鷹島の状況の報告を受けて、日本武士団が閏7月7日に鷹島に進軍して、残った江南軍に攻撃をかけた。

当初は互角の激戦となったようで、日本側にも多数の死傷者が出ていたようである [3]。最終的には日本武士団が勝利したが、范文虎らが逃走しなければ、もっときわどい戦いになっていたかもしれない。しかし、江南軍は全滅したわけではなく、台風で沈んだのは主に老朽船か過剰積載の船だったようで、そうでなかった何人かの将軍が率いた船、数百隻はほぼ全部が帰還したことが記録されている [3]。

4-5 弘安の役の謎

4-5-1 なぜ志賀島を拠点にしたのか?

志賀島は全長約4km、幅2kmの砂州でつながった陸繋島である。島は小山になっており、北側は玄界灘に、南側は博多湾に面している。砂浜もあるが、全体に海岸にはごつごつした岩が多いというのが私の印象である。少なくとも北側半分は兵士や物資の上陸には不向きだっただろう

砂州である海の中道とのつなぎ目の南あたりが砂浜で小さな湾になっており、現在博多港と結ぶ渡船の港がある(砂州には道路も通っている)。東路軍は砂浜で波が穏やかなその付近に船を停泊させたのではないかと思われる。

しかし、300隻の大船やそれに伴う補給船を停泊させるには、そこだけでは狭過ぎると思われる。砂州に沿ってか、湾内北側の広域に停泊したのかもしれない。その付近は博多湾岸から海の中道を辿って襲撃しやすいため、武士団は襲撃を繰り返したのかもしれない。

その点では、占領した湾内の能古島は、地形がもっと穏やかで陸とつながっておらず、そこを拠点にする選択肢もあったと思われる。刀伊の入寇の際は、刀伊は博多湾岸からいったん能古島に退いている。元軍の場合は、能古島では北方の博多湾口を塞がれるとまずいと思ったのか、それとも博多湾岸に近くて日本武士団の攻撃を受けやすいと思ったのか、志賀島に拠点を築いた。

4-5-2 なぜ鷹島へ移ったのか?

江南軍は6月末か7月初めに、日宋貿易の経路となっていた平戸へ到達し、そこに1か月近く滞在した。事前の予定では壱岐で東路軍と合同する予定となっていたが、江南軍の出発が遅れた。そのため、平戸に着いた際には東路軍は既に博多湾の志賀島で攻撃を開始していた。そういう状況では、直ちにそれと合同するか、それを支援する行動を起こすのが普通と思われる。平戸での長期滞在の理由は何だったのだろうか?

そして、江南軍は平戸で東路軍と合同し、7月27日にわずか20km先の鷹島を占領して、そこへ移動した。この占領の意図は何だったのだろうか?平戸から博多まで約80kmある。わずか20km先に兵を進める利点は何だったのだろうか?常識的には、もし志賀島を確保しているのであれば、そこを拠点とした方が有利だと思われる。10万の大軍の拠点にするには、志賀島は小さいと判断したのだろうか?

平戸に長期滞在した理由の一つとしては、平戸の対岸から陸路をとろうとして、1か月かけてその付近の地理を調査した可能性もあるかもしれない。平戸から唐津までは、高さは低いが複雑な山岳地形である。それで陸路による進撃を断念したのかもしれない。そして、その代わりに鷹島を拠点として、そこからすぐ海を渡って、陸路で進軍しようという考え方はあり得ないだろうか。鷹島から唐津まではなだらかな丘陵地帯で、距離は約10kmしかない。ただし、唐津と糸島半島の間には比較的高い山が海岸まで迫っており、博多まで進軍するにはその狭い海岸を突破しなければならない。

もし地理を知り抜いていたら、別ルートとして鷹島から佐賀まで南下して、南から太宰府を攻める選択肢もあったかもしれない。博多経由より距離は1.5倍程度延びるが、太宰府の南には水城のような防衛施設はなかった。

いずれにしても、東路軍だけでも日本武士団は苦戦しているように見えるので、志賀島と鷹島の2方向から攻められれば、日本武士団はお手上げだったかもしれない。


九州北部の地形

4-5-3 元軍がもし志賀島で合同していれば?

あるいは、江南軍はあくまで東路軍と合同して、博多湾から一気に太宰府まで攻め上りたかったのだろうか。もし平戸を早期に撤収して、7月中頃に鷹島ではなく志賀島で東路軍と合同していれば、どうなっていただろうか?

博多湾に大型船だけで1000隻を超える船団が入ってくれば、日本武士団はそれらを徹底的に攻撃する手段はなかっただろう。博多湾南岸は石築地があるので、元軍は湾岸からの上陸を避けたかもしれない。しかし、江南軍が拠点である志賀島に上陸し、そこから東路軍と合わせて十数万名からなる元軍が、海の中道を抜けて博多に入れば、3万+α程度の武士団では、太宰府を守る水城や大野城があっても元軍の進軍を防ぐ手段はなかっただろう。

あるいは、玄界灘に出れば、砂州である海の中道北岸から津屋崎海岸まで、20kmにわたる長大な砂浜が続いている。地理に詳しければ、天候を見計らって、そのどこかに大軍を一気に上陸させて、そこから太宰府に向けて進軍する手もあったかもしれない。

元軍は、鷹島から先どのような作戦をとる予定だったのかはわからないが、いずれにしても、台風が来なければ、その迎撃は困難で長期的なものになっていたかもしれない。

5. 弘安の役後

これだけ大敗した元軍だったが、その元での影響は大きくなかった。その理由を、もともと江南軍の大半は旧南宋の兵士たちで、中国大陸での置き場がないので日本に植民させようとしたとしている [4]。つまり、もともと兵士たちの帰還を想定していなかったというものである。事実、鍬・鋤などの農具や種籾などの植民のための物資が船に積まれていたとされている。

あるいは、日本侵攻は辺境の出来事の一つに過ぎず、フビライの関心は高くなかったという説もある [1]。そのため、フビライは敗戦に怒って罰したかもしれないが、帰国した司令官たちを処刑しておらず、元による日本侵攻の記録もそれほど多くない。そして [1]は、元による日本侵攻を、元の組織の一部である「征東行省」の官僚が、組織拡大や自分たちの利権のためにフビライを熱心に説得したプロジェクトだったとしている。

しかし、フビライは日本侵攻を諦めたわけではなかった。弘安の役の翌年に元は征東行省を廃止し、その役割を上部組織である遼陽行省に統合した。つまり、より上位の組織が日本侵攻に乗り出したともいえた。そして第三次日本遠征計画を企画し、高麗を当てにせず、1282年にはその省自ら艦船の建造にも乗り出した [1]。そして、1283年には再び征東行省を設置し、その右丞相にアタハイを再任した。

日本にもまたまた使節を送ろうとした。1284年に国書を持った使者が対馬まで到着した。しかし、随行者の一員によって使節の一人が対馬で殺されたため、残りの使節は帰った(ただし、そのときの国書の写しは日本に残っている)。

1283年に広東と福建で反乱が起き、翌年にはベトナムで反乱が起きた。この鎮圧に日本侵攻用の軍勢を投入せざるを得なかった。しかも、ベトナムでは台風の影響もあって鎮圧に失敗した上に、元の皇室内の内紛もあった。1286年8月に、日本侵攻軍は朝鮮半島の合浦に結集することになっていた [4]が、日本侵攻は中断された。そして同年に家来の漢人である劉宣が進言し、フビライはこれを受け入れて最終的に日本侵攻は中止された [1]。

6. おわりに

人間は不安を抱えた弱い生き物である。何か心の支えを必要とする。神頼みをしたり、誰かを英雄視したりすることで、それを払拭しようとしているのではないだろうか?それが集団で行われるようになると、国によっては、選民思想になったり、多くの英雄を祭り上げたり、人間を超えるスーパーパワーを想像で生み出したりという願望になるのかもしれない。

文永の役はともかく、江南の役では、確かにたまたまやってきた台風によって日本が救われた面がある。しかし、それをどう解釈するかは、その民族の心持ち次第であろう。

元寇に際して、武士たちは実際に戦い、当然それを自分たちの手柄にしたいので、天候に関する記述をあまり残さなかった。

一方で、武士団による準備と戦いと並行して、神社、仏閣、陰陽師による加持祈祷も盛んに行われた。神官や僧侶は、台風という人知を越える力を自分たちが引き出したと、ことあるごとに主張した。弘安の役では、実際に台風が元軍を追い払うきっかけとなった。神仏を信じる力や恐れる心は現代の比ではなかったろう。これが偶然と重なって神風になったと思われる。

神風を受け入れる、あるいは受け入れたいという心的要素が、大勢の日本人の中にあったということだろう。すくなくともそう願った人々が少なくなかったということである。それは日本人の心の支えに利用され、また、徐々にそれを強化するような言い伝えがなされた面もある。それがだんだん発展していって、一時期日本は神国ということにまでなってしまった。人間が自国の優越を信じたいのは自然の感情であり、その発露の仕方がさまざまな経緯を経て、日本の場合はそうなったのだろうと思っている。

(このシリーズおわり。次は「グローバルとは?」)


参照文献(このシリーズ共通)

1. 宮脇淳子. 世界史のなかの蒙古襲来. 出版地不明 : 扶桑社, 2022.
2. 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(2)-.  132, 水路, 日本水路協会, 2005.
3. 服部英雄. 蒙古襲来と神風. 中央公論新社, 2017.
4. 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(5)-.  135, 水路, 日本水路協会, 2005.
5. 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(3)-.  133, 水路, 日本水路協会, 2005.
6. 藤原咲平. 日本気象学史. 岩波書店, 1951.
7. Byung, Ho, Choi,, ほか. Tide and Storm Surge Simulation for Ryo-mong Invasion to Hakata Bay.  Procedia Engineering, 116, 486-493, 2015.
8. Niimi and Kimura, Verification of the guidance during the period of Typhoon Songda (0418). Technical Review RSMC Tokyo - Typhoon Center, Japan Meteorological Agency, 8, 2005.


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