2020年7月25日土曜日

台風による第4艦隊事件 (4), The Fourth fleet incident (4)

船体の工法の問題とその後(The issue of method of construction of hulls and aftermath)

 台風に遭遇して船体が切断された 2 隻の特型駆逐艦は、その船体が全溶接工法で作られていた。船体の建造時に溶接を採用すると艦艇の船体重量が10~15%も軽減化されるため、海軍の軍縮条約後、各国は溶接技術を飛躍的に向上させて軍艦などの工法に溶接を取り入れた。これは世界的な趨勢であり、日本海軍も艦船の建造手法に溶接を積極的に取り入れていた。しかし当時の鋼材の材質と溶接技術から見て、強引に溶接化を進めた面もあった。そのため、この事故は建造に溶接工法を採用した日本海軍艦艇の強度に対して疑念を生じさせた。

 実は根本的な原因は船体に対する過大な性能要求にあったのだが,この疑念により、海軍は艦船の建造の際の溶接の採用を制限した。艦政本部(The Navy Technical Department)は事故調査後に、溶接工法(welding methodを鋲接工法(rivet joint)に戻す溶接工法の制限を発令した[6]。[6]は溶接工法が第4艦隊事件の原因のスケープゴートにされたと述べている。この海軍の艦艇建造方針の大転換のため、その後建造された軍艦の船体は、溶接と鋲接混用で建造された。しかし、鋲接は溶接に比べてその接合箇所が衝撃に対して弱点になる可能性があった。欧米の最新の建造艦の多くは全溶接工法で建造されており、アメリカ海軍などの艦船に比べて、日本の軍艦は耐衝撃性能が劣ることとなった。[6]

 ちなみに溶接か鋲接かは戦車を見るとわかりやすい。日本軍の97式戦車は一部鋲接を用いているため表面がでこぼこしているが、ドイツ軍の戦車やアメリカ軍のM4戦車は、ほとんど溶接工法で作られているため表面が滑らかになっている。戦車でも、鋲接は砲弾などを受けた際の衝撃により鋲が跳んで中の乗員を殺傷する可能性があるため、危険視されていた。

日本軍の97式戦車
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2d/Battle_of_Bukit_Timah.jpg
アメリカ軍のM4型戦車
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:M4A1_to_M4A3_tank_animation.gif

 戦艦「大和」(Battle ship Yamato)と同型艦の「武蔵」(Musashi)は、艦内の要所がアメリカ戦艦の主砲でも破壊できない分厚い装甲板に覆われているため、不沈艦と謳われていた。しかし、実はその装甲板は鋲接工法で建造されていた。戦艦「大和」は、1943年12月25日に潜水艦から魚雷1本を受けた際に装甲板の鋲接部分が緩んで内部の火薬庫に浸水したことが判明していた。戦艦「武蔵」もフィリピンのレイテ沖の戦いに向かう際に、1944年10月24日の航空攻撃によってシブヤン海で沈没したのも、航空魚雷によって装甲板の鋲が緩んでそこから海水が内部に大量に流入したためと推測されている[7]。同型艦である空母「信濃」(Carrier Shinano)も 1944年11月29日に潜水艦から魚雷を受けた際に、武蔵同様に装甲板の鋲接部分が破断して海水が流入し、縦隔壁の破損によって海水が片舷だけに片寄ったために転覆した[8]装甲空母「大鳳」(Carrier Taiho)もマリアナ沖海戦において、1944年6月19日に潜水艦から魚雷1本を受けて、装甲板の鋲継ぎ手に隙間が生じたことが装甲板内部の前部軽質油庫からガソリンが漏洩して爆発した原因となった[9]。台風による遭難から始まった第4艦隊事件は、その後の日本海軍に大きな影響を与えたということができる。
1944年10月24日にシブヤン海でアメリカ軍艦載機の攻撃後、沈みつつある武蔵。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_battleship_Musashi_on_24_October_1944,
_down_at_the_bow_and_sinking_(NH_63434).jpg

 第4艦隊事件のような大きな事故というのは、いきなり起こることはあまりない。大事故の前にそれにつながる小さな事故というものが起きているものである。実は海軍の演習が行われた年の7月に、数隻の特型駆逐艦が東京湾外で高いうねりの中で高速航行の試運転を行った。その際にその中の1隻の駆逐艦「叢雲」では、その艦橋とその前方の一番砲塔との中間に座屈(過加重によるたわみ)によると思われる変形が生じていることが発見されていた[4]。

 艦政本部の設計部署は直ちに調査して、特型駆逐艦の強度に問題がある可能性を突き止めていた。特型駆逐艦の9月の演習への参加に不安が持ち上がった。直ちにその旨の報告を艦政本部へ上げたが、艦政本部は問題になることを恐れて不問に付した。そのまま、特型駆逐艦は演習において嵐の中を航行することになったのである[3]。事件発生後、海軍による艦政本部への処分が行われた。しかし、百名以上が死傷するという大事故の割には、責任者数名の軽度の謹慎という甘い処分で終わった。

台風による第4艦隊事件 (完)

Reference (このシリーズ共通)
[1] 海上保安庁水路部、航海参考資料、その2(台風編(昭和10年9月の三陸沖台風))、海上保安庁、1953.
[2] 吉村昭、艦首切断、空白の戦記、新潮文庫、1981.
[3] 第四艦隊事件、失敗知識データベース、http://www.shippai.org/fkd/en/hfen/HB1011022.pdf
[4] 山本善之、角洋一、鈴木和夫、鈴木政直、鈴木隆男、第4艦隊事件の事故原因に関する研究、日本造船学会論文集第158号、社団法人 日本船舶海洋工学会、185, 291-300, 1985.
[5] 気象庁、気象百年史 Ⅰ_通史_第08章_大正期より昭和期の気象事業, 1975.
[6] 一般社団法人 日本溶接協会 溶接情報センター、社団法人日本溶接協会50年史、第1編 総論、3 日本溶接協会の設立、3.1 協会設立以前の我が国の溶接事情、1999、http://www-it.jwes.or.jp/jwes_50th/jwes_50th.jsp
[7] NHK、NHKスペシャル戦艦武蔵の最期~映像解析 知られざる“真実”~、2016.
[8] NHK、NHKスペシャル「幻の巨大空母“信濃”~乗組員が語る 大和型“不沈艦”の悲劇~」、2019.
[9]山本善之、航空母艦大鳳の大爆発1、らん、関西造船協会、46、58-65、2000.



2020年7月19日日曜日

台風による第4艦隊事件 (3), The Fourth fleet incident (3)

被害と調査委員会 (Sufferings and the investigation committee)

被害の状況 

 後日の調査で、この台風による大波で、合計19隻が鋲(リベット)の緩みや船体のねじれなど何らかの被害を受けていたことがわかった。特に夕霧と初雪の最新の特型駆逐艦(the latest Fubuki-class destroyer)2隻は、艦首部分が波浪によりもぎ取られるように同じような位置で切断された。これらによる死亡者の数は57名、負傷者は約70名に達した。この台風による多くの艦の破損は、軍艦の設計そのものに問題がある可能性を示した。波が高い台風時とはいえ、困難な環境で戦闘を担う軍艦の船体が波で破損することは、その性能上許されることではなかった。これは国防上の重大な問題と見なされた。

 ワシントン軍縮会議とロンドン軍縮会議による軍艦数の建造制限を強いられた日本海軍は、単艦の威力の増大を意図して、艦の規模を超えた無理な性能要求を新たな軍艦に要求していた。特に最新の特型駆逐艦24隻は、わずか排水量1700トンの船体に世界初の5インチ砲6門や9門の魚雷発射管を装備しながら38ノットの高速を出すという、船体強度に対して過大な性能を要求に盛り込んでいた。

特型駆逐艦の一つ「吹雪」
The Fubuki-class destroyer with 6 5-inch gans and 9 torpedo launchers in the 1700 tons displacement with the ability of 38 knot maximum speed. https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d4/Fubuki-class.jpg

 1935年10月10日に海軍省に、野村吉三郎大将を委員長として、山本五十六中将、古賀峯一少将などを委員とする臨時の調査委員会が設置され、この事故の原因調査とその対策のための検討が行われた。まず艦の強度に関する調査も行われ、とくに駆逐艦初雪と夕霧の艦首が同じような所から切断した事故は、船の根本的な性能である「復元性」と「強度」に関する問題を提起した。

気象状況と船体強度との関係

 この台風の中では、演習参加艦の多くが気象観測を行っていたため、その観測結果は世界的にも稀な台風の中での気象と海象の記録となった。海軍はその観測結果を用いて台風の中での風と波の特徴を徹底的に研究した。その結果、主力部隊が遭遇した台風中心部の波の波長は100~150 m、波高は10~15 mで、特に水雷戦隊が所在した台風の南東部の海面では、波長200 mに対して波高が15 m以上になることがわかった[3]。

 水雷戦隊付近で異常に高い三角波が出現した原因として、次のように考えられた。水雷戦隊付近では台風の前面では南東の風、さらに前線の通過によって南東の風域と南の風域が発生した。この台風の移動速度は70 km/hと波浪の移動速度より速く、その後台風の通過によって風向は南~南西に変わった。台風前面の南東風による波やうねりが残っていた海域に、発生した前線による南の風域、さらに台風後面の南~南西の暴風による波が重なって、台風通過後に異常に高い三角波が出現した。

 駆逐艦夕霧が遭遇した三角波の3つの峰は、最初の右舷の三角波は南~南南西から、中央の三角波は南南東から、左舷のものは南東から押し寄せてきたと考えられている[1]。特に台風の進行方向の右側後方の第四象限では、台風の反時計回りの風で起こった波と台風の外側からくるうねりという進行方向が異なる二つの波の衝突によって、波高が異常に高い巨大な三角波を生み出されることがわかった。

1935926日の台風との相対位置による波浪と艦隊の関係図。直線の交点は台風の位置、実線は波浪階級、破線は艦隊の各時刻の位置を示す。[1]をもとに作成
The Sea scales (solid line) and the fleets positions (dashed line) relative to the typhoon on Sep. 26, 1935. The center indicate the location of the eye of the typhoon. The map is created based on [1]

 波長と波高の関係は波が船体にもたらす力(曲げモーメント)に大きく影響する。それまで通常の船体の強度設計では、波高に対する波長比は20程度が想定されていた。ところが水雷戦隊が遭遇した波は、波高に対する波長比が10~15であった。初雪と夕霧の場合は、台風の南東部の波長に対して想定外に波高が高い波によって何度もピッチングを繰り返すうちに、座屈によって生じたしわが亀裂となって船体が切断したと判断された[3]。またこれまでの想定より高い波とともに、過重な装備による船体の強度不足も問題視された。

 特型駆逐艦については過重な装備も問題であったが、実は凌波性を高めるために、船首上部が広がったフレアという形状をとっていた。これが船体前部船底が波によって衝撃を受けて船体が急激な振動を起こすスラミングという現象を引き起こしていた。初雪、夕霧の両艦は波浪の中でこの振動の衝撃により船体は過度の応力を受け、船首部船底に損傷を受けて艦首部を切断したことが戦後になって示唆されている[4]。

対策

 海軍はこの調査結果を受けて、軍縮条約下で建造された全艦艇の強度検査を行い、ほぼ全艦に船体強度の補強と軽量化のための武装の一部撤去を施した。大多数の艦では改良工事は1936年度末までに終了し、残りの艦も1938年度末には改良工事を完了した[3]。この調査による事故の原因、対策と遭難時の気象については極秘にされた(戦後に公開された)。この改良工事により艦の重量は増加し、最高速度は若干低下したものの、その後日本海軍では第二次世界大戦中に台風などによって被害を受けた艦はなかった。

 この事件の原因は日本海軍の艦艇の構造の欠陥だけでなく、特有の特徴を持つ日本近海の波浪に関する理解不足にもあることがわかった。この事件以降海象に対する認識が改められ、海軍水路部の気象課が新たに海象に関することも担当することになった。これは1941年6月に海軍水路部内の気象部となった [5]。

Reference (このシリーズ共通)
[1] 海上保安庁水路部、航海参考資料、その2(台風編(昭和10年9月の三陸沖台風))、海上保安庁、1953.
[2] 吉村昭、艦首切断、空白の戦記、新潮文庫、1981.
[3] 第四艦隊事件、失敗知識データベース、http://www.shippai.org/fkd/en/hfen/HB1011022.pdf
[4] 山本善之、角洋一、鈴木和夫、鈴木政直、鈴木隆男、第4艦隊事件の事故原因に関する研究、日本造船学会論文集第158号、社団法人 日本船舶海洋工学会、185, 291-300, 1985.
[5] 気象庁、気象百年史 Ⅰ_通史_第08章_大正期より昭和期の気象事業, 1975.

2020年7月17日金曜日

台風による第4艦隊事件 (2), The Fourth Fleet incident (2)

水雷戦隊の台風との遭遇 (Encounter of destroyer squadron with the typhoon)

 水雷戦隊(destroyer squadron)は、台風の中心が通過した本隊より東南東、つまり台風の危険半円内(dangerous semicircle)を航行しており、本隊とは若干状況が異なった。水雷戦隊は1200時頃から暴風雨となり、1400時頃には台風中心の東約200 kmと最も接近して風速は35 m/s近くに達した。1445時には風波が激しいだけでなく視程が悪化したため各艦は各隊ごとまたは単艦行動をとらざるを得なくなった。最大風速(maximum wind speed)は1500時に36 m/sを記録し、最大瞬間風速(wind gust)は45~50 m/sに達した[1]。

駆逐艦「夕霧」(Destroyer Yugiri)
駆逐艦「夕霧」(Destroyer Yugiri)

 1600時頃から風向が南東から南西の間で頻繁に変わるようになり、風速の変化も激しくなった。これは緯度が高くなるに従って台風周辺に前線が発生し、それが水雷戦隊付近を通過したためと考えられている。これが後述する三角波(Pyramidal wave)の原因の一つとなった。1602時頃には駆逐艦夕霧(Destroyer Yugiri)が3つの峰を持つ三角波に遭遇した。最初のものが右舷艦首に当たると次に中央最大のものが艦首から襲い、さらに左側のものが左舷艦首に衝突した。波高(wave height)は20mを超え、波長(wave length)は150~200m程度だった[1]。駆逐艦夕霧の艦首が破断され、艦の先端部3分の1がなくなった(a one-third leader of the ship was truncated)。艦首部分は漂流を続けていたが、翌朝に28名の乗員とともに沈没した。


 1620時には駆逐艦望月(Destroyer Mochizuki)の艦橋が波で破壊された(the bridge deck was wrecked)[1]。さらに1630時頃には駆逐艦睦月(destroyer Mutsuki)の艦橋が潰れて(the bridge deck was crushed)、艦長ら大勢が死傷した。水雷戦隊は、1700時頃には台風から300 km以上離れていたにもかかわらず、1729時に駆逐艦初雪(destroyer Hatsuyuki)は大波にぶつかって雷鳴のような音を立てて、船の艦橋より前の部分が切断された(the surge cut off the front part than the bridge deck of the ship with 24 crews)。切断された艦首部分は、24名の乗組員を乗せたまま転覆したがそのまま漂流した。旗艦である巡洋艦那智は、翌日艦首部分を何度か曳航しようとしたがワイヤが切れて失敗した。この艦首部分には通信室があり、その中には暗号書(code book)があった。このまま艦首がどこかに流れ着いて、暗号書が他国の手に入ることは避けねばならなかった。艦首部分は27日の夜に那智の砲撃によって沈められた。駆逐艦2隻が台風によって被害を受けたことは後に発表されたが、切断された艦首部分が那智によって沈められたことは秘匿された[2]。


 第4水雷戦隊の旗艦である巡洋艦那珂は、26日夕方に同隊の夕霧と初雪の相次ぐ遭難を受けて色を失った。沈没を防ぐための指示をすぐに出したものの、激しい風浪でなすすべがなくただ見守るしかなかった。初雪は波との衝突を避けるため、航行を止めて漂流しながら破断面からの海水の流入を防ぐ処理を行った。と同時に転覆を防ぐため、初雪は魚雷や砲弾、燃料など艦上の重量物を海に投棄した。他の多くの艦でも何らかの損傷を受けていた。夜になって波は収まってきたものの、濃霧が発生したため損傷艦に対する本格的な救助活動は翌朝まで行えなかった[2]。

Reference (このシリーズ共通)
[1] 海上保安庁水路部、航海参考資料、その2(台風編(昭和10年9月の三陸沖台風))、海上保安庁、1953.
[2] 吉村昭、艦首切断、空白の戦記、新潮文庫、1981.

2020年7月11日土曜日

台風による第4艦隊事件 (1), The Fourth fleet incident (1)

背景と主隊の台風との遭遇 (Background and encounter of main body of the fleet with the typhoon) 

 1935年に台風によって、航行中の艦隊の多くの艦が損傷するという大事故が起きた。これは気象に関連する単なる海難事故では終わらずに、多くの軍艦の設計や工法に関わる大問題となった。またこれは台風による海象の解明にもつながった。これについて説明しておきたい。 

 1935年は海軍にとって特別な年だった。1922年のワシントン海軍軍縮条約と1930年のロンドン海軍軍縮条約により日本を含めて主要国の軍艦の建造は制限されていた。この前年に日本は条約を破棄していた(制限は1936年まで有効)。当然国際的な緊張が高まることが予想されたため、海軍は大規模な艦隊演習(Fleet great maneuvers)を行うことにした。常設の第1艦隊、第2艦隊(青軍: Blue force, consisting of existing 1st and 2nd Fleet)を相手に演習を行うために41隻からなる臨時の第4艦隊(赤軍: Red force, consisting of tentative 4th Fleet)が編成された。演習は9月下旬に東北地方沖の西太平洋で行われることに決まった。 

 第4艦隊(The 4th fleet)は9月25日に函館を出航した。朝0600時に第3、第4水雷戦隊と第5駆逐隊からなる水雷戦隊(Destroyer squadron of the 4th Fleet including light cruisers)が先に出発し、第2、第5、第7、第9戦隊と第1航空戦隊からなる本隊(Main body of the 4th Fleet)は、1600時に函館を出港した。水雷戦隊は本隊の東南東約200 kmに位置した。それ以外にも潜水隊や補給隊があったが、ここでは触れない。 

 9月25日の気象通報では小笠原諸島(Ogasawara Islands)付近に台風(Typhoon)があった(日本海にも別な台風があった)。2200時の観測に基づいた2330時の気象報によると、台風の予想進路(predicted course of typhoon)は北北西(NNW)で日本本土に向かっており、第4艦隊は演習予定海域に影響はないと結論していた。 安心した艦隊は0000時の観測結果に基づく26日0150時の中央気象台の「台風は北北東に転向せんとす」となっていた気象報に注意を払わなかった。台風付近の船舶からの報告に基づいて0450時には中央気象台から警報(warning)が出されたが、艦隊がこれに気づいた記録も残っていない。

 26日0600時の観測結果に基づく0800時の気象報で、中央気象台は「中心気圧約960 hPaの大型台風が銚子沖を進路を北北東(NNE)に変えて速度50~60 km/hで進んでいる」ことを報じた[1]。艦隊は、この気象報でこのまま東へ進むと午後に台風と遭遇することを初めて知った。既に海は荒れて始めていた。 
台風の進路図。[1]をもとに作成
(The track of the typhoon in September, 1935)

 第4艦隊は一旦西へ待避することにし、それを各艦船に連絡しようとしている間に天候がさらに悪化した。視程が低下したため、多くの船が一斉に進路を変更すると、衝突や転覆などの事故が起きることも考えられた。一方で艦隊司令部は、台風内の航行経験も艦隊の技術向上になるという考えを持っていた。結局、艦隊司令官は予定通り航行することを命令した[2]。

 台風はその後時速70 km/h という猛スピードで北北東(NNE)に進んでいた。主隊周辺は昼頃から風速(wind speed) 25 m/sを超える猛烈な風となり、海は高さ8 mを超えるしぶきを伴う白波(white wave with spray)となった。1400時には風速32.5 m/sを観測し、最大波高(maximum wave height)は18 mに達した。この波によって空母龍驤(Carrier Ryujo)の飛行甲板下の艦橋が圧壊した。1430時前後には台風の眼(the eye of typhoon)が主隊付近を通過し、風はやや衰え青空も見えた。このとき龍驤は最低気圧957 hPa(718.2 mmHg)を観測した。

 その後再び風が激しくなり、最大風速34.5 m/sを記録し、三角波も現れ始めた。1500時頃には波高15 m以上の大波によって駆逐艦朝風(Destroyer Asakaze)の艦橋(bridge deck)が破壊された。巡洋艦妙高(Cruiser Myoko)の船体鋲接が弛緩し、同じく巡洋艦最上(Cruiser Mogami)の艦首部に亀裂が生じた。大波の状態は1600時頃まで続き、その後主隊付近では風は収まってきた[1]。

Reference(このシリーズ共通)
[1] 海上保安庁水路部、航海参考資料、その2(台風編(昭和10年9月の三陸沖台風))、海上保安庁、1953.
[2] 吉村昭、艦首切断、空白の戦記、新潮文庫、1981.

2020年7月5日日曜日

富士山における気象観測(8)富士山レーダーの完成後

 富士山レーダーは1964年10月1日に電波検査に合格し、1965年4月1日から正式運用が開始された。世界最高地点にある気象レーダーだった。同年8月には早速台風6517を上陸の3日前から捉えることに成功した。この富士山レーダーの完成を記念して、記念切手が発行された。富士山レーダーは「地形エコー除去(A new automatic technique for ground clutter rejection)」などの技術が開発されて、台風などの監視に大きな役割を果たした。

富士山レーダー完成記念切手

 富士山頂のレーダー建設の気象庁責任者藤原寛人は、その後気象庁を辞めて、新田次郎というペンネームで作家となった。彼はこのプロジェクトの詳細をノンフィクション小説「富士山頂」として発表した。これはレーダー建設のプロジェクトの主人公が作家本人であるという異色の小説となっている。

 山頂への送電線はたびたび雪崩で損傷し、その補修のためには高額の費用が必要だった。また施設維持のために人の滞在が欠かせず、3週間交代で山頂勤務が行われた。特に冬季は硬氷に覆われた山への登山には危険が伴った。1987年に静止気象衛星(ひまわり)が打ち上げられると、徐々にその役割は減少していき、富士山レーダーは1999年に運用が停止された。しかしその技術は評価されて、2000年には米国のIEEE(米国電気電子学会)からマイルストーンに選ばれた。

富士山における気象観測(完)