2026年3月11日水曜日

第二次世界大戦における気象戦(3)レジスタンスによる気象観測網の構築

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)   

  戦争において気象情報、特に気象予報は、輸送や作戦に直接影響するため極めて重要な情報となる。連合国軍では、航空機による爆撃や作戦を進める上で、ヨーロッパ大陸の正確な気象予報が必要だった。

航空機の運用は天候と密接な関係がある。まず出撃しても、目標が雲や霧に覆われると攻撃できずに無駄足になる。また帰還する基地の天候が悪いと、代替基地までたどり着けなければ不時着することになる。さらに一度出撃すると、再度の出撃には搭乗員の休養やエンジンの整備、燃料の補給などが必要なるため、天候が回復してもすぐに出撃できるとは限らない。そのため、予め天候の良い日を予測して出撃しないと、攻撃頻度が大幅に減少する可能性があった。

正確な気象予報のためには、ドイツが占領している地域や広大な北大西洋にも気象観測網を展開する必要があった。特にドイツが占領している地域で気象観測網を構築するには、現地のレジスタンスなどの協力を得る必要があった。

これらの活動には暗号の解読も絡んでいた。気象観測結果は暗号で通信される。もし敵の気象観測地点の近くで観測を行うことが出来れば、観測結果は似たようなものになる。暗号化された敵の気象報告と近くの実際の気象観測結果がわかれば、それらを比較することで敵の暗号を解読するのに役立つ可能性があった。

ベルギーでの気象観測所網

ベルギーのブリュッセルにある王立気象研究所の職員だったアルベルト・トゥーサンは、ベルギーがドイツに降伏すると、もう一人の相棒と海峡を越えた160 km先のイギリスへ向けて、無謀にも小型ボートで出発した。しかし、幸運なことに途中でイギリス軍のダンケルクからの撤退を行っていたイギリス海軍の掃海艇に救助された。

当時イギリス特殊作戦局は、パラシュートで諜報員を送ってレジスタンスと共にイギリス空軍の爆撃機部隊に気象情報を送る観測網の構築を計画していた。イギリスに到着したトゥーサンの人柄や素性を審査した特殊作戦局は、気象学者である彼がベルギーにパラシュートで降下すれば、そこで気象情報を送るネットワークを組織するのに役に立つかもしれないと考えた。トゥーサンは特殊作戦局が計画する極秘の諜報活動に身を投じた。彼による気象観測網構築の作戦は、小型の狩猟猟犬にちなんで「ビーグル」というコードネームで呼ばれるようになった[1]。

トゥーサンと2人の無線技師はベルギーにパラシュート降下することになった。2人の無線技師はベルギーのレジスタンス組織「ゼロ」(Amicale Zero)と接触するのが目的だった。ちなみこのレジスタンス組織は、墜落した連合国軍航空機の搭乗員を多数救出したことでも知られる。1942年8月23日午後10時頃に、3人は特殊作戦局が用意した双発機に搭乗した。しかしパイロットは、降下予定投下地点リエンヌから約60kmも離れたフランスのヘスダン付近に誤って彼らを投下した。3人はパラシュートを埋めて装備を整えてから、ベルギーのリエンヌに徒歩で向かい、レジスタンス組織「ゼロ」に接触した。

リエンヌでは、トゥーサンは見習い時計技師を装って、時計技師の夫人が経営する宿屋に滞在した。トゥーサンは時計店で、秘密の気象観測網の構築の案を練った。時計技師の家族も彼に協力した。また物理学者マックス・コジンズの協力も仰いで気象観測網を構築した。

1942年11月1日、トゥーサンはイギリス空軍(Royal Air Force)のために最初の観測結果を送った。それは、ブレッチリー・パークで解読され、ダンスタブルのイギリス気象局に転送された。観測結果が他の場所で測定されたものと矛盾がなく、その有効性が評価されたため、トゥーサンの報告はイギリス空軍の爆撃機部隊が使用する天気図に組み込まれることになった[1]。

トゥーサンらは、毎日午後2時に気象情報を送信した。彼らは通信機を宿屋の屋根裏に隠していたが、これは危険な仕事だった。ゲシュタポと無線探知車が常に巡回していた。もしゲシュタポが来たら、宿屋の夫人が棒で天上を叩いて知らせることになっていた。トゥーサンは気象観測網を拡大した。その観測結果はイギリスで傍受されたドイツ軍の気象観測と比較され、ドイツの暗号を解読するのにも役立ったようである。

トゥーサンは戦後にイギリスから殊勲賞を贈られた。なお気象観測活動「ビーグル」の存在は極秘となっており、連合国側の文書ではほとんど言及されていない[1]。

ポーランドでの気象観測所網

第二次世界大戦が始まると、ポーランドのレジスタンス組織は、1年以内にAK(Armia Krajowa)と呼ばれる国内軍に統合された。AKの最初の仕事は、ロンドンにあるポーランド亡命政府との信頼できる通信手段を確立することだった。

当初、イギリスのポーランド亡命政府との連絡は、ブダペストとブカレストにある大使館を通じて行うことができた。しかし、1940年にハンガリーとルーマニアが枢軸側に入ると、その連絡手段は閉ざされた。亡命政府とAKとの連絡や支援は、カルパチア山脈を越える危険な航空路に頼らざるを得なくなった。航空路の正確な気象情報が必要になったAKは、戦前のポーランド爆撃隊員で英国気象局員となっていたヴィクトール・ドブルザンスキー少佐を中心に、気象部門を設立することにした[1]。

ドブルザンスキーは、何人かの協力を得て、ポーランドに秘密裏に気象観測網を設立することに成功した。天文学者ヤン・ガドムスキがワルシャワ天文台から必要な観測機器を提供した。後には彼は移動観測所を配備し、必要な場所で観測結果を集めることも行った。そして主に女性が伝令役を務め、観測結果を隠された無線通信所まで運んだ。こうした活動は危険でもあり、捕まれば拷問を受けた後に恐ろしい強制収容所行きが待っていた。

この気象観測網の維持のためには、イギリスからの支援が不可欠だった。イギリス南東部の空軍基地からポーランドまでの距離は約1600kmある。イギリスは、武器、弾薬、無線機、諜報員をパラシュートで降下させてポーランドのレジスタンスを支援するために長距離爆撃機を用いた。しかしその支援機を会合地点に誘導するための航法支援システムがなかったため、月夜によく見える川や湖の近くが降下地点に選ばれた。

イギリスのBBC放送は、航空機による支援補給が予定される数日前に、あらかじめ決められた一連の曲をAKのために放送していた。気象学者を含む受領組織は無線・電話を持っており、支援の航空機が近づくと、気象学者が雲の高さ、風速、風向き、降水量などをパイロットに伝えた。1941年2月から1944年11月までに、補給のために858機が出撃し、345名の工作員と4143個のコンテナを届けることに成功した[1]。

またAKの通信部隊は、気象報告を含む暗号化されたドイツ軍の無線通信を傍受できた。1943年にはこの暗号通信はイギリスのブレッチリー・パークの暗号解読センターへ解読のために転送された。この情報はイギリス気象局がナチス支配下のヨーロッパの天気図を作成するのに役立ち、航空機を用いたAKへの支援だけでなく、ドイツ軍への爆撃などの作戦のために重要な情報となった。

まとめ 

同様な気象観測網はオランダにも設立された。開戦から2年程度で、ブレッチリー・パークにあるイギリス情報部の暗号解読センターは、イギリス気象局に非常に質の高い気象情報を迅速に提供できるようになった。枢軸国占領下のヨーロッパでの地表と上空の天気図が描かれ、その精度は1941年頃から戦争が起きる前とほぼ同じように良好だったという[1]。

第二次世界大戦における気象戦 (1)-(2)-(3)を通してみると、第二次世界大戦において、まず気象観測結果の無線による報告が、暗号解読に大きな役割を果たしたことがわかる。また、困難を排してのグリーンランドや占領下のヨーロッパ大陸などでの気象観測が、作戦やレジスタンス支援などのためのヨーロッパでの気象予報に重要な役割を果たした。戦争となると華々しい会戦に目を奪われがちだが、その裏では気象情報やそれを用いた暗号解読という地道な活動が戦争を支えていたことがわかる。

参照文献

[1] John Ross, THE FORECAST FOR D-DAY, LYONS PRESS, 2014.


2026年3月2日月曜日

第二次世界大戦における気象戦(2)暗号書の争奪戦

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 第二次世界大戦における気象戦(1)
では北大西洋での気象予報のため、グリーンランドで気象観測所の争奪戦が行われたことを述べた。ここでは暗号解読について述べる。気象観測結果は暗号で通信されたため、それは暗号解読と大きな関連があった。

まず暗号について簡単に記しておきたい。通信文を暗号化するには、原理的には暗号化と復号化をある規則で行うことが基本である。しかし暗号化の手順は規則的なので、事例を重ねると暗号文から通信内容の推測が可能となることがある。そのため、送り手と受け手だけが使う特別なキーとなる数字や文字などの仕掛けをさらに加えたりなどが行われる。それらは日によって変わったりするため、その使用方法は暗号書に記されている。

軍全体などの多数の送り手と受け手がある大規模な無線通信だと、ある規則に従って機械的に暗号化と復号化を行う方法が採用された。ドイツ軍では、暗号化にエニグマ暗号機と呼ばれる装置が使われた。

エニグマ暗号機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8B%E3%82%B0%E3%83%9E_(%E6%9A%97%E5%8F%B7%E6%A9%9F)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:EnigmaMachineLabeled.jpg


 エニグマ暗号機は、アルファベットがならんだ回転円筒(ローター)を組みあわせて暗号化と復号化を行う複雑な機構を持っていた。そして暗号化する際には、ローターの選択やその最初のセット位置などは暗号書で規定されていた。そのため、復号化には同じエニグマ暗号機を持っているだけではだめで、暗号を復号化するための暗号書が必要だった。そのため、ドイツ軍では暗号書と暗号機が共に各部隊に配布された。

エニグマ暗号機のローター
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8B%E3%82%B0%E3%83%9E_(%E6%9A%97%E5%8F%B7%E6%A9%9F)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Enigma_rotor_set.png
 

第二次世界大戦が始まると、このエニグマ暗号機による暗号を解読する戦いが始まった。イギリスでエニグマ暗号の解読を行ったのは、ロンドンの約80km北にあるブレッチリー・パークにある暗号学校だった[1]。イギリスでは、暗号機を製造していたポーランド人などからの情報をもとに、エニグマ暗号機を模倣したものを製作した(盗んできたという説もある)。これによってエニグマ暗号機の原理は理解された。

しかし暗号書がないと暗号の復号化は出来なかった。また暗号機もプラグボードなどが付加されて改善された。そのため、ここに暗号機と暗号書の争奪戦が起こることになった。

なおイギリスでは、アラン・チューリングが中心となって暗号全般の解読に対応できるような総当たり的な方式の暗号解読機の開発も行われた。この開発の際には原文中にあることが推定される単語やフレーズである「クリブ」の解読が不可欠である。その解読のためにも気象通信が使われた。

気象観測の通信は暗号で行われる。定期的に通信が行われるので発信位置を把握しやすい上に、観測所の武装もそれほど強固でないことが多い。つまり気象観測所や気象観測船を狙えば、襲撃しやすい上に暗号機や暗号書が手に入る可能性が高かった。そのため、暗号装置や暗号書の争奪戦に、気象観測所や気象観測船などが狙われることが多かった。

暗号解読のための気象観測船の襲撃1

1941年3月、トロール船を改造したドイツの気象観測船「クレブス」は、ノルウェーがスカンジナビア半島東端のロフォーテン諸島で、パイロットや船員の視力維持に不可欠なビタミンAの供給源となるタラ油加工工場を襲撃した。しかし、逆にイギリスの駆逐艦「ソマリ」に砲撃され炎上した。

燃え残った船体に乗り込んだイギリスの水兵たちは、船長室にあった円盤が暗号機の一部ではないかと疑い、それが入った箱を持ち出した。この円盤は気象暗号を作成するために使われていたエニグマ暗号機のローターだった。これによって風速、風向、気温、湿度、気圧、雲量、降水量などの気象観測データとその位置を1文字に縮めて、通信時間を数分から数秒に短縮していた。しかも暗号は毎日変わるようになっていた。このローターはブレッチリー・パークに早速送られた。これによって、イギリスは気象観測結果がエニグマ暗号で通信されていることを知った[2]。

暗号解読のための気象観測船の襲撃2

イギリスは位置を把握しやすい気象観測船の拿捕を推進した。ドイツの気象観測船を捜索していたイギリス巡洋艦「エジンバラ」と「ソマリア」は、1941年5月7日の午後に逃走しようとしていたドイツの気象観測船「ミュンヘン」を発見した。足の遅い「ミュンヘン」はまもなく巡洋艦の射程距離内に入り、砲弾がこの気象観測船を夾叉した。生命の危険を感じた乗組員は、エニグマ暗号機とその暗号書を残したまま船を捨てた。イギリスの士官たちは船に乗り込んでエニグマ暗号機と暗号書を確保することに成功した[2]。

このように、イギリスは1941年7月までに拿捕したUボートや気象観測船から暗号書とエニグマ暗号機を押収した。それらはロンドン北のブレッチリー・パークの暗号解読センターを送られた。

暗号解読のための気象観測所の襲撃

1941年にグリーンランド付近の海上の警備を受け持つパトロール隊が組織され、グリーンランド・パトロール隊と呼ばれた。このパトロール隊は砕氷機能を持つカッター(小型船)「ノースランド」を旗艦とし、他の古い木造船と合わせて3隻で構成された。指揮はグリーンランド周辺の海を長年にわたって研究して熟知していたエドワード・アイスバーグ・スミスが執った。彼は1942年6月30日に少将となり、戦後はウッズホール海洋研究所の所長を務めることになる。

エドワード・アイスバーグ・スミス
https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_H._Smith_(sailor)#/media/File:Edward_H._Smith_(2).jpg

1941年9月初旬に、スミスはドイツ軍がグリーンランド沿岸から気象情報を発信している無線に気付いた。彼は、スコレスビズンドから300km北のマッケンジー湾に、ドイツ人と思われる小集団が上陸したことをスレッジ・パトロール隊(第二次世界大戦における気象戦(1)を参照)から知らされた。彼は「ノースランド」とともに近くを目指した。

 

グリーンランド周辺の地図 

スミスはそこで、ノルウェー船籍のトロール船「ブスコエ」を発見した。そのトロール船を臨検すると、漁船にしては珍しい多数の無線機器があった。乗組員を尋問した結果、乗組員の上陸と無線発信を認めたため、この船は拿捕された。その夜、「ノースランド」からの12人の襲撃隊が、乗組員が上陸した海岸の気象観測小屋を包囲した。襲撃隊は観測小屋に踏み込み、中にいた気象観測員が燃やす前に暗号書を奪い取ることに成功した[2]。

カッター「ノースランド」
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/32/Northland_Color_1.jpg

このような戦いで解読されたドイツの暗号は、ウルトラ情報と呼ばれて秘匿された。そのウルトラ情報によってイギリスは、「イギリス上空の戦い」においてドイツ空軍による攻撃をくいとめ、ドイツのイギリス本土侵攻作戦のための準備状況を知って適切な対応を講じることができた。また北アフリカで、ロンメルのアフリカ軍団が予期していない所にイギリス軍が忽然と現れては攻撃を行い、また別の場所ですばやく攻撃をしかけることができた[1]。このように暗号を解読することによって、イギリスは第二次世界大戦中に、ドイツ軍の大規模な動きをほとんど手に取るように事前に察知できていた。

この暗号戦の影響は、決してヨーロッパだけではなかった。日本海軍はエニグマ暗号機を改良した暗号を使っていた。[1]はイギリスの助力により、ワシントンはウルトラ情報に相当する日本軍の暗号を本格的に解読できるようになった、と述べている(なお、アメリカは通信解析による暗号解読を独自に行っていた)。マッカーサーとニミッツの東南アジアと太平洋戦域における戦略においても、ウルトラ情報は主要な役割りを演じたようである。

(次は「第二次世界大戦における気象戦(3)レジスタンスによる気象観測網の構築」)

参照文献

[1]ウィンターボーザム(平井イサク訳)、ウルトラ・シークレット、早川書房、1978
[2] John Ross, THE FORECAST FOR D-DAY, LYONS PRESS, 2014.