2020年11月29日日曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(2)アメリカ気象局への留学

アメリカ気象局への留学

 1925年に修士号を取ると、彼はスウェーデン・アメリカ基金(American-Scandinavian Foundation)によるアメリカ留学生制度に申し込み、90名の中の6名の合格者の一人となった。アメリカへの留学の目的は、ベルゲン学派の寒帯前線論のアメリカの気象での応用研究だけでなく、気象力学の問題を研究することも含まれていた [1]。1926年に彼はワシントンにあるアメリカ気象局(U.S. Weather Bureau)へ渡った。

 ベルゲン学派の論文はアメリカ気象局が発行するMonthly Weather Review誌にも発表されており、アメリカ気象局のルロイ・メイジンガー(Leroy Meisinger)などはベルゲン学派の手法を用いた研究を行っていた。しかし不幸なことに、1924年にメイジンガーは気球に乗っての観測中に雷に打たれて墜死していた [3] 。ロスビーは、アメリカ気象局でわずかに残っていたベルゲン学派気象学への興味を持つ気象学者リチャード・ウェイトマン(Richard. H. Weightman)とアメリカでのベルゲン学派気象学の有用性を示す論文を出したが、ほとんど顧みられなかった [3]。アメリカ気象局ではベルゲン学派の手法を用いた研究は衰退していた。当時のアメリカ気象局では気圧分布などを用いた経験的な予報手法が墨守されており、前線などを用いたベルゲン学派の手法は歓迎されなかった。

 ロスビーはベルゲン学派気象学の普及だけでなく、アメリカ気象局の地下室で地球規模の大気循環を模した回転水槽を用いた実験を手がけたり、乱流の研究などを行ったりしたが、アメリカ気象局には大気の力学的な取り扱いに興味を持つ人はほとんどいなかった [2]。しかし、アメリカの科学技術の歴史家であるフレミング(Rodger Fleming)は、この回転水槽実験が後にロスビーが大気を二次元で順圧的に扱う鍵になったと述べている [4]。アメリカ気象局において、ロスビーは図書館の片隅に席を与えられただけで冷遇された [3]。

 ところがそういう状況の中で、ロスビーはアメリカ海軍の気象士官ライケルデルファー(Francis Reichelderfer)と知り合いになった。ライケルデルファーは、海軍の高層気象の担当で、予報のためのデータを集めに、毎日気象局を訪れていた。これはロスビーにとって運命的な出会いとなった。ライケルデルファーは独学でベルゲン学派の手法を学んだが、もっと詳しく知りたいと思っており、彼にとってもロスビーはまさに意中の人だった。そこからロスビーの人生は急展開することになった。

ライケルデルファーの写真(後年)https://en.wikipedia.org/wiki/Francis_Reichelderfer#/media/File:Francis_W._Reichelderfer,_1940.jpg


Reference(このシリーズ共通)
[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.
[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. National Academy of Sciences.
[3] John D. Cox, (訳)堤 之智 -2013- 嵐の正体にせまった科学者たち-気象予報が現代のかたちになるまで, 丸善出版, 978-4-621-08749-7.
[4] Fleming Rodger James-2016-Inventing Atmospheric Science: Bjerknes, Rossby, Wexler, and the Foundations of Modern Meteorology. The MIT Press, 978-0262536318. 

2020年11月26日木曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(1)観測への従事

 カール=グスタフ・ロスビー(Carl-Gustaf Rossby, 1898-1957)は、20世紀半ばに気象学、大気力学、海洋学において傑出した業績を上げた気象学者である。彼の名前はロスビー波、ロスビー数、ロスビー半径などいろいろな所に残っている。カール=グスタフ・ロスビー研究賞という彼の名を冠した賞もある。彼については、本の「9-5高層の波と気象予測」「9-6 ロスビーの業績」のところで、気象学の発達の流れの中に位置づけてかなり詳しく述べた。また、拙訳の「嵐の正体にせまった科学者たち」でも一つの章を使って彼について紹介している。しかし、彼の気象学に関する業績は極めて幅広いため、改めて補足して概説しておきたい。

 ロスビーは1898年にスウェーデンに生まれ、ストックホルム大学で数学、天文学、物理学を専攻して優秀な成績で卒業した。その際にストックホルム大学へ人材捜しに来ていたヴィルヘルム・ビヤクネスの目に止まった。彼は1919年にノルウェーのベルゲン地球物理学研究所へ招かれ、約1年半気象学と冬に向けての予報作業に携わった。ちょうどヤコブ・ビヤクネス(ヴィルヘルム・ビヤクネスの息子)が寒冷前線・温暖前線を伴った低気圧の構造(ベルゲン学派の気象学の特徴の一つ)を明らかにした頃で、そこで前線などを用いたベルゲン学派(ノルウェー学派)の予報手法を学んだ [1]。

観測への従事

 ドイツのライプチッヒ大学地球物理学研究所は、第一世界大戦の途中までヴィルヘルム・ビヤクネスが所長を務めた所だった。ヴィルヘルム・ビヤクネスがノルウェーの戻った後も、人事交流などの密接な関係は続いていた。その一環で1921年にロスビーもライプチッヒへ行くことになった。ベルゲン学派は、雲の観察によって直ちに判断できる間接的な高層気象観測を重視していたが、ライプチッヒ大学地球物理学研究所では探測気球などの観測に基づいて高層気象天気図作成し、それを用いた解析を行っていた。当時の高層気象とは主に対流圏中層の気象のことである。ロスビーはこれに興味を持ち、実際に高層気象観測を行っているリンデンベルグ高層気象台へ行き、約1年間気球や凧を用いて観測しながら高層大気を解析した [2]。

 高層大気の風は、地上付近と比べると比較的規則的な振る舞いをする。彼は高層大気を理解するのに、理論的な分析が必要であることを感じた。1921年に故郷スウェーデンのストックホルム大学に戻って数理物理学を学んだ [2]。その間、学費を稼ぐ目的もあってスウェーデン気象水文研究所(Swedish Meteorological and Hydrological Institute)でも働いた。1924年にはそこで初めての論文を発表している。1923年にはノルウェーの小さな観測船に乗り組んで、グリーンランド東岸で気象学と海洋学の研究を手伝った。ところが船は海氷に閉じ込められ、2か月後に危うく沈没する寸前に救出された [1]。

 翌年にはスウェーデン海軍の気象士官として、帆船を用いたスウェーデン海軍の士官候補生のための訓練航海を担当した。この航海の目的はイギリスを1周して、海洋での気象予報の必要性と有用さを確かめることだった。彼は航海中に探測気球を上げて観測し、他からの気象観測報告を受け取り、天気図を描き、予報を準備して船長に提出するのが仕事だった。しかし船は嵐に巻き込まれ、アイルランド沖を漂流した。船は座礁しないように岸に近づきすぎないようにする必要があった。しかし、彼は出した予報に自信がなくなかなか寝付けなかったが、予想通りに風向が変わると安堵して眠りについたこともあった [1]。おかげで、航海は無事に終了した。 

ロスビーが乗り組んだスウェーデン海軍の帆船 af Chapman号。船名はG.D. Kennedyから改名したものである。https://en.wikipedia.org/wiki/Af_Chapman_(ship)#/media/File:GD_Kennedy_SLV_AllanGreen.jpg

 1925年にストックホルム大学から数理物理学の修士号を得たが、彼の正規の学歴はそこで終わった。彼はこの後、さまざまな傑出した業績を残したが、博士号を取ることはなかった。

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(2)アメリカ気象局への留学つづく)

Reference(このシリーズ共通)

[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.

[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. Biographical Memoir, National Academy of Sciences.


2020年11月15日日曜日

雲形の発見 ルーク・ハワード

 人類が発生するはるか以前から大空に漂っている雲だが、その時々で特殊な雲に独自の名前が付けられることはあったようである。しかしながら、有史以来長い間、その時々刻々と千変万化する雲に体系的に分類した名前を付けようとした人はいなかった。それを19世紀初めに初めて行ったのは、イギリスのルーク・ハワード(Luke Howard, 1772-1864)である。彼はイギリスの薬品製造者であり、科学に幅広い関心を持つアマチュア気象学者だった。

ルーク・ワードの肖像
https://en.wikipedia.org/wiki/Luke_Howard#/media/File:Luke_Howard.jpg

 
本の「4-9雲形の定義」で述べたように、ハワードは1772 年に、ロンドンで信心深いクエーカー教徒の両親との間の最初の子供として生まれた。彼は父の石油ランプ事業を継ぐことになり、化学薬品の製造業者として成功したが、常に気象学の研究に心を奪われていた。彼は11歳の頃の1783 年とその翌年に起こった火山噴火による濃い煙霧「グレート・フォッグ」(このブログの「1783年のラキ火山噴火の大気への影響」参照)と、その時の北極オーロラ光に非常に興味を持ったと述べている[1]。

 ハワードはオックスフォードの近くのクエーカー学校を卒業の後、薬剤師となった。彼は、マンチェスター近くの薬屋に7 年間勤めた後。ロンドンに戻って、1796 年にウィリアム・アレン(William Allen)と一緒に製薬会社を始めた。この事業は後にハワーズ・アンド・サンズとして知られる工業薬品・医薬品会社として成功した。彼らは、アスケジアン学会と呼ばれた小さな哲学グループを作った。

 ハワードは1802 年12 月のアスケジアン学会の会合で、「雲の変形に関する試論」という題で講演し、雲形の体系的な分類法を提案した。彼はその雲形を区別するのに巧妙にも伝統的なラテン語を用いることにした。それらの基本はシーラス(巻雲)、キュムラス(積雲)、ストレイタス(層雲)、ニンバス(雨雲*)である。

 この分類法は、18 世紀のスウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネによる植物界と動物界の秩序立った命名法を参考にしており、雲の構造に応じた分類を意図していた。各々の雲形の名前は雲の様態によって注意深く定められており、植物界と動物界の分類方法と同様にその永続性を意識して作られていた。この雲の分類法に関する彼の論文は、1803年にThe Philosophical Magazine 誌にも発表された[2]。

 ハワードは、自身の雲の分類が翻訳しなくても相互に伝達することができる世界共通となって、世界中の大気現象についての知識がより早く発達することを望んだ。そして、彼の分類法は科学に関する当時の共通語であるラテン語をベースにしていたため、世界中に広まった。その分類法は単なる雲形の名前のリストではなく、その構造に応じた雲の分類は新しく自然を研究する手法の提案でもあった。

 ハワードによる雲形の基本的な定義は以下の通りである[1]。

  • 「巻雲(cirrus)」はラテン語の「髪の房」に由来し、平行な、あるいは曲がった、あるいは拡散している繊維状のもので、あらゆる方向、あるいは全ての方向に伸長可能である。

ハワードが描いた巻雲[2]

  • 「積雲(cumulus)」はラテン語の「積み重なった塊」に由来し、凸状や円錐形の塊で水平な基礎から盛り上がっている。

ハワードが描いた積雲[2]

  • 「層雲(stratus)」は「層」に由来し、広く伸びた、連続した水平な薄板状のもので、下から上に向かって盛り上がっている。

ハワードが描いた層雲[2]

  • 「雨雲(nimbus)」は「雨」に由来し、雨を降らせる単独の雲、もしくは複数の雲の集合。それは、水平な薄板状であり、積雲が側面や下から入ってくるが、その上に巻雲が拡がる。

               ハワードが描いた雨雲[2]

 ハワードは、絶えず変わる形のない水蒸気からなる雲を、物理過程によって作られた整合性のある特徴を持った対象に変えた。雲形は気象学のための重要な概念となった。ハワードはこう書いている[3]

(雲は)大気の全ての変動に影響を及ぼしている普遍的な要因に従っています。人の心や体の状態が表情に表れるように、雲はそれらの要因が作用したことが見えるよい指標なのです。 

特に高層気象観測においては、気球などを用いた観測が充実する20世紀半ばまで、雲形を用いた観測が実質的な観測手段となった。

 雲の分類法については、その後に1828 年にはドイツの気象学者ハインリッヒ・ドーフェが、1841 年にはアメリカの気象学者エリアス・ルーミスが、別の雲分類法を提案した。しかしハワードによる構造によって雲を定義するという体系的な命名手法とラテン語による名前は、1887年にイギリスの気象学者ラルフ・アバークロンビーとスウェーデンの気象学者ヒューゴ・ヒルデブランソンによって採用され、拡張されて国際的な標準になった。この雲形の基づいて国際雲図帳が作成された(本の「4-9雲形の定義」参照)。そして1929 年に国際気象委員会が最終的に採用した雲の分類法の基礎となった。

 ハワードがイギリスで雲の分類に取り組んでいた時、同じ考えがフランスの進化生物学者であるジャン=バティスト・ラマルクによっても進められていた。ラマルクも様々な雲形を観測し、彼はそれらを高度によって3 層に分けた。彼の雲形のいくつかはハワードの雲形と極めて類似していた。しかし、ハワードが全世界で受け入れ可能なラテン語という広く共通な語を選んだのに対し、ラマルクはフランス語を選んだ。またラマルクはその分類法を占星気象学を扱う雑誌に発表した。それらがラマルクの手法が広く受け入れられる障害となった。最終的には、ナポレオンによるラマルクは博物学を守るべきであるという指摘によってラマルクは気象学の研究を止めた[1]。

 1818 年と1819 年に、ハワードはこの種の研究の最初となる「ロンドンの気候」という2 巻からなる本を発表した。この本でハワードは、都市大気汚染の気象に及ぼす影響を調査した。この調査で、後のヒートアイランド現象(産業と都市の構成物が熱放射によって局地的な気象変化を引き起こす現象)を初めて指摘した[1]。

 ハワードによる雲の分類は、それまでの画家の雲に対する見方を変えた。ロマン派画家の巨匠であるドイツのカスパール・ダビッド・フリードリヒ、イギリスのジョセフ・M・W・ターナージョン・コンスタブル、アメリカの風景画トーマス・コールフレデリック・チャーチジョージ・イネスの空の絵の描き方にも影響を与えたと言われている[1]。

nimbusは乱層雲と訳されることもある。これは個人的な経験だが、雨が降る前の低層雲は一方向に規則的に流れることが多い。ところが、雨が降り出すと同時に雲の動きはランダムに変わる。私はそれを見た時、ニンバスの訳に「乱」の字が充てられていることに納得した。

(次はカール=グスタフ・ロスビーの生涯(1)観測への従事

Reference

[1]John D. Cox, (訳)堤 之智-2013-嵐の正体にせまった科学者たち-気象予報が現代のかたちになるまで, 丸善出版, ISBN 978-4-621-08749-7

[2]Luke Howard-1803-On the modifications of clouds, and on the principles of their production, suspension, and destruction; being the substance of an essay read before the Askesian Society in the session 1802-3,Philosophical Magazine Series 1, 17

[3]Thornes, John-1999-John Constable's Skies. The University of Birmingham Press. ISBN 1-902459-02-4.

2020年11月11日水曜日

成層圏準二年振動の発見(4)QBOのメカニズム

  一般的には、波はエネルギーや運動量の輸送を伴っている。前回発見された混合ロスビー重力波と赤道ケルビン波も、成層圏下部で発生した際に水平方向だけではなく鉛直方向にも伝搬し、その際にエネルギーや運動量を輸送する。上層では大気密度が減少するので波の振幅は増大し、成層圏上部などで不安定になって壊れる。すると運動量を放出してそこで風を加速する。しかしそれらの波による運動量の輸送は、その途中の高度についてはほぼ通り抜けるだけで、ほとんど影響を与えない。鉛直方向に伝搬する波が途中の高度の風を正味で加速したり減速したりするためには、別なメカニズムが必要になる。

 1967年にアメリカのスクリプス海洋研究所のブッカー(Booker)とイギリスのケンブリッジ大学のブリザートン(Bretherton)は、中緯度で西風が山岳に当たって作られた重力波(山岳波)を調べた際に、重力波が上方へ伝搬して「クリティカル・レベル(critical level)」と呼ばれる波の位相速度が上空の風と同じ速度になる高度に達すると、重力波の持つ運動量が放出されて風の運動量に転化し、そこの風を加速することを発見した。そのためクリティカル・レベル付近では、わずかな高度差で風の風速が大きく異なることになる。このように風速が勾配をもつ場所をシアー領域(shear zone)と呼ぶ。1968年にハーバード大学のリンツェン(Lindzen)とワシントン大学のホルトン(Holton)は、このメカニズムを赤道上の波に応用して、以下のメカニズムによってQBOの説明を試みた。

 東向きの運動量を持った混合ロスビー重力波が西向きの風(図の水色)の中を上方で伝搬してシアー領域(図の白色)に達すると、そこで運動量を放出して風を東向き(図の橙色)に変える。すると図に示したようにシアー領域が下降する。つまり東向きの運動量を持った波が上方に伝搬すると、シアー領域の直前から風を東向きに加速し始めるためシアー領域をゆっくり下降させる。その上層が西向きの風であるシアー領域が成層圏下部の圏界面付近の高さにまで下降すると、成層圏全体がほぼ東向きの風になる。

QBOのメカニズム
QBOが起こるメカニズムを単純化した模式図(Schematic diagram of simplified QBO mechanism in the case of easterly in the lower stratosphere)。
成層圏下部から上向きに伝搬する波が、シアー領域で東向き運動量(橙色)を放出するとシアー領域が下降することを示す。色は風向を表しており、東向きの風(westerly)を橙色(orange)、西向きの風(easterly)を水色(blue)で示す。ここでは単純化のために、シアー領域の風の色を白にしている(shear zone: white)。これによってシアー領域が下降することがわかる。下層まで東向きの風(橙色)になると、今度は西向き運動量を持った波が成層圏下部から上方へ伝搬することが可能になる(右図)。すると上層から西向きの風(水色)に変わって、上層が東向きの風の際と全く同様なメカニズムが働く。

 すると東向きの運動量を持った波は鉛直方向にはもはや伝搬できず、その代わり今度は西向きの運動量を持った波が成層圏上層まで伝搬することが可能になり、そこで西向きの風を作り出す。これによって、加速する方向が逆なだけの東向きの風と同じメカニズムが作用する。つまり、この西向きの運動量を持った波は、シアー領域で西向きの風を加速してシアー領域を圏界面の高さまでゆっくり下降させる。すると成層圏全体が西向きの風になって今度は東向きの運動量を持った波が上方に伝搬する [4]。この繰り返しが成層圏の風が準二年の周期で上層から東風になったり西風になったりする振動をもたらす。これがQBOのメカニズムである。

 リンツェンとホルトンが提案した当時は、東向きの運動量を持った混合ロスビー重力波だけが赤道大気で実際に発見されていた。それだけだと西向きの風は発生しないので、西向きの運動量を持った別な波があるはずだった。前回述べたように、1968年にウォーレスとカウスキーが発見した赤道ケルビン波が西向きの運動量を持っていることがわかり、1972年にリンツェンとホルトンは1968年に出した説を修正して、東向きの加速を引き起こす混合ロスビー重力波と西向き加速を引き起こすケルビン波という2つの波が鉛直に伝搬してQBOを引き起こすというメカニズムを確立した [5]。

 ところが1990年頃から、混合ロスビー重力波と赤道ケルビン波だけでは、QBOを作り出すほど十分に西風と東風を加速しないことがわかってきた。現在では、それらの波に加えて両方向の運動量を持つ重力波(gravity waves)によってQBOの西風加速と東風加速が起こると考えられている [4]。赤道慣性重力波が引き起こす振動のメカニズムは同じである。さらに一部の波は成層圏を通り抜けて下部熱圏でも準2年周期振動を引き起こすと考えられている。

 QBOは対流圏中緯度の波の特性を変化させ、極渦の強さや中・高緯度の気圧にも影響を及ぼしている。またQBOに伴う2次循環の変化は成層圏でのオゾン、水蒸気、メタン等の化学組成にも影響を与えると言われている。そういう意味では、QBOは我々の日々の気象ともつながっている。

(このシリーズおわり)

Reference(このシリーズ共通)
[1] Kevin-2012-Sereno Bishop, Rollo Russell, Bishop's Ring and the Discovery of the Krakatoa Easterlies, Atmosphere-Ocean, 50, 2, 169-175. 
[2] Bishop-1884-The remarkable sunsets, Nature, 29, 259-260. 
[3] Bishop-1884-The equatorial smoke stream from Krakatoa, Hawaiian Monthly, 1, 106-110. 
[4] Maruyama-1997-The Quasi-Biennial Oscillation (QBO) and Equatorial Waves - A Historical Review, Papers in Meteorology and Geophysics, 48, 1, 1-17. 
[5] Baldwin et al.-2001-THE QUASI-BIENNIAL OSCILLATION," Reviews of Geophysics, 39, 2, 179-229. 
[6] Simon Winchester, A Tale of Two Volcanos. New York Times, 15, 4, 2010. 
[7]廣田 勇, 地球をめぐる風, 中央公論社, 1983. 

2020年11月7日土曜日

成層圏準二年振動の発見(3)赤道上空での波の発見

  QBOが発見された当時、その原因として、オゾンや太陽黒点など大気以外の原因が追及された。しかし、どれもこの現象を説明することは出来なかった。この成層圏の不思議な現象の解明に手を貸したのは、大気中での核実験だった。これによって強化された高層気象観測のデータを解析した結果、熱帯成層圏下部で発生している大気波がQBOに関係していることがわかってきた。

 ここから「風」と「波」と「振動」という言葉が出てくる。波も物理的には振動の一種である。さらに風も常に一定の向きと強さを持つ恒常風ならば混乱することはないが、ある領域内で特徴を持って変動する風があり、これを大気力学では(風の)波と称している(モードと呼ぶ場合もある)。これらの用語の棲み分けは専門家は慣れていると思うが、一般の方は混乱するかもしれない。ここでは、赤道上空の成層圏での風向が周期的に変わる現象を振動と呼び、数千キロメートル以上の領域で系統的に風向と風速が変動する風が持つ構造を波と呼ぶ。この特徴的な風の変動を持つ波は移動(伝搬)する。

 1957年7月から1958年12月まで国際地球観測年(IGY)が行われた。その間の1958年3月から7月まで行われた一連の核実験のために、中部太平洋上で特別な高層気象観測が行われた。これらの観測地点とカントン島などの赤道の他の観測地点のデータの解析から、1966年に東京大学の柳井迪夫と丸山健人によって、赤道太平洋上成層圏で西向きに伝搬している波長約10,000 kmの大規模な波が発見された [4]。これは日本では柳井・丸山波と呼ばれる場合がある。

 同じ1966年だが、その少し前に赤道付近上空で励起する波に関して、東京大学の松野太郎は、大気力学の理論式から2つの波の解を示していた。これらはあくまで理論上から導出された波である。示された解の一つは、赤道付近の成層圏下部で西向きに移動する重力波で、中緯度のコリオリ力によるロスビー波のような特徴も持っていた。そのため、この波は後に「混合ロスビー重力波(mixed-Rossby-gravity wave)」と呼ばれるようになった。なお、ここでは重力波とは浮力によって振動する大気波を意味する。大気力学では慣用的にこう呼ばれている。重力の波ではない。

 そして柳井と丸山が発見した波は、後にこの混合ロスビー重力波と同じものであることがわかったため、今では混合ロスビー重力波と呼ばれることが多い。なお、柳井と松野は同じ研究室に属しており、ふだんから親しく話す仲だった。しかし、それぞれの研究目的が異なっていたこともあり、彼らが理論と観測から追っていたものが結果として同じものだったことには当時気付かなかった [7]。

 そして松野が示したもう一つの解は、やはり成層圏下部を東向きに移動する重力波だった。この波は、松野によって「赤道ケルビン波(equatorial Kelvin wave)」と命名された [4]。そして、ワシントン大学のウォーレス(Wallace)とカウスキー(Kousky)は1968年に、西大西洋と中部太平洋赤道付近の観測結果を用いて、成層圏下部で東向きに進む波を発見した。彼らは、その波長を約40,000 kmと推定した。この波は松野が理論的に導出した赤道ケルビン波だった。この混合ロスビー重力波と赤道ケルビン波が成層圏を伝搬してQBOと関連していそうなことがだんだんわかってきた。

赤道ケルビン波の構造。赤点線は赤道、実線は等圧線、矢印は風向と風速。

 ちなみに赤道ケルビン波の名称は、19世紀から20世紀にかけてのイギリスの物理学者ケルビン卿(ウィリアム・トムソン)が発見したケルビン波にちなんでいる。

成層圏準二年振動の発見(4)QBOのメカニズム へとつづく)

Reference(このシリーズ共通)
[1] Kevin-2012-Sereno Bishop, Rollo Russell, Bishop's Ring and the Discovery of the Krakatoa Easterlies, Atmosphere-Ocean, 50, 2, 169-175. 
[2] Bishop-1884-The remarkable sunsets, Nature, 29, 259-260. 
[3] Bishop-1884-The equatorial smoke stream from Krakatoa, Hawaiian Monthly, 1, 106-110. 
[4] Maruyama-1997-The Quasi-Biennial Oscillation (QBO) and Equatorial Waves - A Historical Review, Papers in Meteorology and Geophysics, 48, 1, 1-17. 
[5] Baldwin et al.-2001-THE QUASI-BIENNIAL OSCILLATION," Reviews of Geophysics, 39, 2, 179-229. 
[6] Simon Winchester, A Tale of Two Volcanos. New York Times, 15, 4, 2010. 
[7]廣田 勇, 地球をめぐる風, 中央公論社, 1983.