航空気象への貢献
当時アメリカは民間航空の振興に力を入れており、それに必要な気象の知識を持った人物を探していた。ライケルデルファーは、ロスビーを当時アメリカで航空の振興に尽力していたグッゲンハイム(Harry Frank Guggenheim)に紹介した。ロスビーのスウェーデン・アメリカ基金による留学資金が尽きた後、グッゲンハイムはロスビーにアメリカ滞在のための奨学金を提供した [1]。ロスビーは、その頃航空界の発展に尽力していたチャールズ・リンドバーグを支援した。リンドバーグは、1927年にスピリット・オブ・セントルイス号でワシントンからメキシコシティまでの無着陸飛行に挑んだ際に、当たらない気象局の予報の代わりにロスビーに航空予報を依頼した。リンドバークは大成功を収め、新聞もロスビーの予報を賞賛した。しかしロスビーは気象局に無断で予報を行ったため、気象局長官の怒りを買ってワシントンの気象局から追い出された [3]。気象局の人々は、これでベルゲン学派気象学を奨励するロスビーの気象局での見納めになったと思ったに違いない。しかし後述するように、人生は何が起こるかわからない。
スピリット・オブ・セントルイス号の前でポーズをとるリンドバーグhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:LindberghStLouis.jpg
ちょうどその頃、アメリカに定期旅客航空路が開設されようとしていた。グッゲンハイムは、ロスビーを政府の航空気象委員会の常任の委員に任命した。ロスビーはロサンゼルスに移り、ロサンゼルスからサンフランシスコまでのアメリカ初の定期旅客航空路の試行のために、グッゲンハイムの支援で航空気象用の観測体制と予報体制を組織した。彼は後にシカゴ大学の教授となったホレス・バイヤース(Horace Byers)とともに、専任の観測員を持つ30の気象観測地点を新たに設立した [1]。なおバイヤースは、シカゴ大学で後に竜巻やダウンバーストの研究で有名になる藤田哲也を招聘した人である。
この定期旅客航空路の試行は、気象による事故がなく絶賛された [3]。ロスビーはこの試行での全く新しい予報のやり方を、1928年に国家安全協議会において「航空路での安全な飛行のための気象サービス組織」という報告書にまとめた。気象局は、この報告書の手法に基づいて旅客航空路のための航空予報を引き継がざるを得なくなり、この航空予報の体制は全米各地に拡大していった [1]。
(カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)MITでの業績へとつづく)
0 件のコメント:
コメントを投稿