2019年6月26日水曜日

気象観測と時刻体系 (Meteorological observation network and time system)

今では時刻は生活とは切っても切れない重要な役割を果たしているが、産業や物流が発達する前は、その精度は今ほど重要ではなかった。正午とは文字通り太陽がその土地での子午線を通過する時刻だったので、正午は経度によって異なっていた(地方時)。時刻は教会や寺の鐘、あるいは大砲などで知らせており、ほとんどの人にとってはその聞こえる範囲が同じ時刻を共有している範囲と言えた。

人や物の移動速度が遅い時代には、それぞれの地域が地方時を使っていてもそれでほとんど問題は起きなかった。しかし、19世紀半ばからのヨーロッパやアメリカでの鉄道網の発達は、地方時の問題に焦点を当てることとなった。当時はほとんど単線であり、列車は予め
決まった時刻に決まった地点で脇線に待避してすれ違う必要があった。それぞれの列車が出発地点の地方時を用いると、単線上で衝突する恐れがあった。鉄道網の拡大にともなって事故が多発するようになると、これが大きな問題となった。各鉄道会社は線路に発明されたばかりの電信線を引いて、独自の統一した標準時刻体系を整備して衝突を回避するようになった。

一方で、瞬時に情報を伝達する電信の普及も各地の時刻の違いをクローズアップするようになった。電信を使った電報によって起こるようになった問題の一つは、広域で行われる気象観測の時刻だった。19世紀半ばまでの気象観測は気候を目的としており、気候は主に日射によって駆動されることを考えると、気候のための観測時刻はむしろ太陽高度角同期(つまり地方時)の一定時刻の方が都合が良かった。ところが警報のために各地の気象観測の結果が電報で収集されるようになると、それに基づいた天気図の作成は同時刻の観測である必要があった。そうでないと例えば同じ低気圧が天気図上であちこちに現れることとなる。そのため、気象観測(地上実況気象通報)は共通の時刻を用いて各観測所で一斉に行う必要があった。


この問題に最初に取り組んだのはアメリカだった。本の「6-2-5 アッベによるアメリカでの国家気象機関の設立」で書いたように、アメリカの国家気象局であった陸軍信号部の気象学者クリーブランド・アッベ(Cleveland Abbe, 1838-1916)は、全米各地の気象観測所の観測時刻を統一することを考えた。しかし、彼は気象観測網内の時刻の調整ではなく、この際にアメリカ国内の時刻体系を整備しようと考えた。彼は鉄道会社や電信会社の協力を得て報告書を出し、1883年にはアメリカの総合時刻会議が開催されて、子午線を基準に1時間の時差を定義する全米の時刻体系が決定された。


さらに1884年にワシントンで国際子午線会議(International Meridian Conference)が開催され、イギリスのグリニッジ子午線を標準時とする1時間単位の時刻体系を全世界で採用することが決まった(世界標準時)。この時のアメリカ代表は陸軍信号部のアッベだった。これで全世界の時刻が子午線に基づいておおむね1時間単位で揃うこととなった。気象観測は世界の時刻体系の決定に大きな役割を果たした。ただし、肝心の気象観測は、アメリカ以外では20世紀に入ってもなかなか世界標準時に統一されなかったようである。

気象観測時刻の同期の問題は日本でも起こった。本の「7-3-3警報のための諸準備」の所で述べたように、1883年に日本で電報による気象観測の収集が始まると、それまで地方時で行われてきた各地の測候所の観測時刻を統一する必要が出てきた。日本で気象観測体制を作って暴風警報を開始したドイツ人エルヴィン・クニッピング(Erwin Knipping, 1844-1922)は、統一した観測時刻に京都時を採用した。これは京都は経度的に見て日本の中央に近く、また江戸時代まで天皇が住んでいて日本人に馴染みがあったためのようである。


当時の気象観測は内務省が行っており、国際子午線会議に基づいて1886年に日本標準時の基準を明石市を通る東経135度に選んだのは、内務省の気象観測が京都時を採用していたことも一因となったようである。時刻制度は国の根幹となるインフラストラクチャーの一つである。気象観測は日本の時刻制度の構築にも影響を与えた。

 (次は「雪の観察」)