2019年2月28日木曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(7) ヨーロッパでの組織的観測

ヘルケゼル
1896年に、国際気象機関(IMO)の中に「科学航空国際委員会(International Commission for Scientific Aeronautics)」が設置され、ドイツの気象学者ヘルケゼル(Hugo Hergesell)が委員長となった。高層気象観測に関する情報を共有・交換するこの委員会の存在とそれを先導するヘルケゼルの影響は大きかった。当時同じように気球による高層気象観測に挑んでいたパリのテスラン・ド・ボールとベルリンのアスマンの間には、フランスとドイツの国家の威信をかけた競争と誤解による確執があったようである。しかし、国際競争には組みしないという委員長のヘルケゼルの強い姿勢によって、高層気象観測に対する各国の協調姿勢が高まっていった(Hoinka, 1997)。

この国際委員会によって、いわゆる「国際高層気象観測日(International Aerological Days)」が設けられ、本の8-4-2「気球による高層気象観測」で述べたように、1896年11月13日の夜にその第1回が実施された。この中でストラスブルグ、サンクトペテルブルグ、パリ、ベルリンなどで同一の測定器を用いた探測気球による一斉観測が実施された。これが総観規模での高層気象観測の最初となった。この中でパリで放球された探測気球Aérophile」だけが高層での観測に成功した。上昇するにつれて順調に気温が下がり、高度12.7 kmで-54°Cを記録した。ところがさらに上った高度13.7 kmでは-52°Cに温度が上がり、降下時には再び高度11 kmで-59.8°Cに温度が下がった。この結果は国際委員会で議論を引き起こした。その結果、この記録は国際委員会によって日射などの影響を受けた値とされ、高度14 kmで観測した-53°Cは-68°Cのような形で修正された(Rochas, 2003)。

第2回目の国際的な一斉観測は1897年2月18日に行われ、やはりパリの「Aérophile」が最も高い高度10 km以上に上がったが、着地時に電柱にぶつかったため、高度10 km以上の記録は使えなくなった。第5回目の観測は1898年6月8日早朝に行われ、パリ、ブリュッセル、ベルリン、ワルシャワ、サンクトペテルブルグ、ストラスブルグ、ミュンヘン、ウィーンから有人気球13個、無人気球8個による大規模な一斉観測が行われた。これによって、初めてヨーロッパの高層気象の総観天気図を描くことができた。しかし、この観測では既に高層での気温の関心はそれほど高くなく、総観天気図の作成以外では、大気サンプルの採取による高度15 kmでの大気組成や太陽定数(日射量)の観測などが主な関心だった(Rotch, 1900)。

つづく

参照文献
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303.
  • J-P Pommereau-2003-OBSERVATION PLATFORMS, Balloons,1429-1438.
  • Rochas-2003-L'invention du ballon-sonde, La Meteorologie, n°43, 48-52.(Google翻訳を利用した)
  • Rotch-1900-Sounding the ocean of air. Six lectures delivered before the Lowell Institute of Boston in December 1898. - London: Soc. for Promoting Christian Knowledge, pp. 184.


2019年2月27日水曜日

時代と民族を超えて気象の解明に尽力した人々の記録

本書「気象学と気象予報の発達史」は日経サイエンス誌2019年4月号の書評に取り上げられました。上記の表題で、科学一般に興味を持っておられる方々に対する的確な書評を書いてくださった東京大学名誉教授の木村龍治先生には、心から御礼申し上げます。

2019年2月26日火曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(6) ドイツのアスマンによる観測

1892年のフランスのエルミートとブザンソンによる探測気球の最初の打ち上げの発表の直後に、王立プロシア気象研究所高層部門(Aeronautische Abteilung des Königlich Preußischen Meteorologischen Instituts)のアスマンは、自身が発明した通風式乾湿計を高層気象観測用に強い日射の影響を受けにくいように改造した(Assmann, 1902)。また、ニスを塗った絹製の探測気球「Cirrus」を製作した

気球「Cirrus」による最初の観測は、ベルリンで1894年5月11日にドイツ皇帝ヴィルヘルムII世の出席の下で行われたが、気球は高度700 mにしか達せず、観測は失敗に終わった。2回目の試みは、同年7月7日に行われ、最低温度-58℃を観測したが、気圧計は85 mmHgまでしか測定できなかったため、その高度は本の4-8「測高公式の発見」の説明したラプラスの測高公式を用いて高度16.3 kmと決定された。しかし、換気システムの異常により温度記録に10°C程度の振動が乗った。記録には高度15 km以上でわずかな温度上昇が見られたが、加わった温度の振動のため結果はあまり信用されなかった(Rochas, 2003)。

アスマンは、翌1895年4月にも気球「Cirrus」で観測を行い、38 mmHg(高度22 km)で-45°Cとかなりの高温を観測した。しかし、彼は極端な低圧下であったためこの値は正しくないと考えていた(Rotch, 1900)。この他にも、彼は自身の指導の下で1888年から1899年にかけて有人気球で72回もの高層気象観測を試みていたが、有人観測では高度8 kmまで達したものでさえ5回だけだった(Ohring, 1964)。

つづく

参照文献
  • Assmann-1902-Über die Existenz eines wärmeren Luftstromes in der Höhe von 10 bis 15 km, Sitzber. Konigl. Preuss. Akad. Wiss, Berlin 24, 495-504.Thomas Birnerの英訳による)
  • Rochas-2003-L'invention du ballon-sonde, La Meteorologie, n°43, 48-52(Google翻訳を利用した)
  • Rotch-1900-Sounding the ocean of air. Six lectures delivered before the Lowell Institute of Boston in December 1898. - London: Soc. for Promoting Christian Knowledge.
  • Ohring-1964-a most surprising discovery, Bulletin of the American Meteorological Society, 45, 1, 12-14.

2019年2月24日日曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(5)初めての無人探測気球観測

グスタフ・エルミート
測定器を搭載した無人気球による観測は、フランスで始まった。天文学者のエルミート(Gustave Hermite)と操縦士でジャーナリストのブザンソン(Georges Besançon)は、まず1891年にパリで多数の小さな気球に手紙を付けて放球し、どこまで到達するか試した。1892年10月11日には直径90 cmの気球に測定器を搭載して放球し、それはパリから75 km離れて発見された。これが無人気球による気象観測の最初とされている。

彼らはこれ以降9個の気球を放球し、中には8.7 kmの高度にまで達したものもあった。エルミートは重さ260 gの自記気圧計と最低温度計を自作し、気球に搭載した(Rochas, 2003)。ちなみにエルミートは有名な数学者チャールズ・エルミートの甥である。気球と自記測定器を用いた無人の高層気象観測は、上層の気象を探るのに極めて有用な手段であることが直ちに認識され、探測気球(sounding balloonまたはballons-sonde)として広まった。

エルミートらは翌年3月21日にはゴールドビーター(牛の腸の外膜)製の「Aérophile」と名付けた探測気球で観測を行った。出発の際の突然の強い風で急いで放球したため、測定器に日よけを付け忘れてしまった。
気球「Aérophile」 の放球の様子
(Hermite, 1893)
しかし、この時の観測結果は驚くべきものだった。高度13.5 kmで最低温度-51℃を記録し、その後昇温し始めたが放球から1時間後にインキの凍結のために温度の記録ができなくなった。記録が回復した放球から4時間後の高度約15.5 kmは-21℃となっていた(これは長時間一定高度にあったため、日射による影響の可能性がある)。その後降下するにつれて気温は下がった。5時間15分後に今度は気圧計の記録が止まったため、その後推定された高度である約13 kmで2番目の最低気温-47℃を観測した(Hermite, 1893)。彼らは高度14~16 kmの温度を、上空の強い日射によって気球や測定器が暖まった結果の観測誤差と考えた(Rochas, 2003)。しかし、アメリカの気象学者ハゼン(H. A. Hazen)は、温度上昇の開始時はまだ気球は上昇中で換気が行われており、全てが日射による影響とは限らないことを指摘した(Rochas, 2003)。
  エルミートによる1893年3月21日の記録(Hermite, 1893)
縦軸が高度と気温。横軸は時間
  
エルミートらは1893年9月27日に2回目の観測を行おうとしたが、気球「Aérophile」は森に墜落したため、「Aérophile II」を製造して3回目の観測を1895年10月20日に行った。この時は性能が異なる2台の自記測定器を搭載した。エルミートは大気により露出した方の記録を用いた。その結果は高度13 kmで上昇中に最低温度である-70℃を記録したが、高度15.5 kmでは-50℃に上昇し、気球が降下し始めると再び温度が下がり始めたが、その時測定器の時計が止まって、それ以降の記録はとれなかった(Rochas, 2003)。彼らは1896年3月22日に4回目の観測に挑んだが、高度14 kmで上昇中に記録器の時計が止まってしまい、やはり観測は失敗に終わった。

当時の探測気球による高層気象観測では、気球が高高度まで上がり、測定器や記録器が順調に作動して、田園地帯に着陸して測定器を無事に回収することは容易ではなかったことがわかる。

つづく

参照文献
・Hermite-1893-L'exploration de la haute atmosphere. Ascension du ballon l'Aerophile. L'Aerophile, 1, 45-55.
・Rochas-2003-L'invention du ballon-sonde, La Meteorologie, n°43, 48-52(Google翻訳を利用した)

2019年2月23日土曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(4) 無人気球による観測の問題点

有人気球による高層気象観測の危険性などから、1879年の国際気象委員会(IMC)においてオーストリアの気象学者ハン(Julius von Hann)は高山での観測を唱えた。これを受けてヨーロッパでは、ゼンティス(Säntis, 2500m)、ピク・デュィ・ミディ(Pic du Midi, 2859m)、ゾンブリック(Sonnblick, 3106m)、ツークスピッツェ(Zugspitze, 2962m)で観測が行われた。ヨーロッパ以外でもアメリカのワシントン山(Mount Washington , 1918m)、パイクス・ピーク(Pikes Peak, 4300m)、日本の富士山(3720m)などでも観測が行われた。しかし山岳での通年の観測は困難であり、さらに山岳は独自の気象条件から、山岳付近の大気は完全な自由大気(地表の影響を受けない大気)ではないことがわかってきた(Hoinka, 1997)。


気球「Phoenix」での飛行の様子
そのため、再び地上から有人気球を用いて高層気象観測が試みられるようになった。1891年にドイツではプロシア王立気象研究所(Königlich Preußischen Meteorologischen Instituts)やドイツ陸軍気球隊によって、有人気球観測が行われるようになり、それをドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(Wilhelm II)が支援した。1891年にはアスマンがアメリカの気象学者ロッチ(Lawrenc Rotch)やドイツの気象学者ベルソン(Arthur Berson)を乗せて、温度計の比較のためベルリンで気球観測を行った。1894年12月4日にはベルソンは気球「Phoenix」で当時最高の高度9 kmにまで達した(Rotch, 1900)。


有人気球による気温の観測例(Rotch, 1900)
横軸は気温(華氏)、縦軸は高度(フィート)。
低い方からハゼン(1887年)、グレーシャー(1862年)、
ベルソン(1898年)、ベルソン(1894年)
しかし、有人気球観測の費用や安全を考えると、もっと手軽に自由大気を観測できる手段が必要だった。そのため、自記測定器を搭載した無人気球が高層気象観測の有力な手段と考えられた。当時の気球はワックス紙やゴールドビーター(牛の腸の皮)、加工絹を使った開口式定積気球だった。これらの観測気球は重量と浮力との平衡高度で上昇を止め、気球内ガスの冷却や減少、結露による重量増加などにより風に流されながらゆっくりと下降した。着地点はしばしば放球地点から1000 km以上も離れた地点に達し、住民から連絡を受けた後、そこから自記測定器を回収する必要があった(Hoinka, 1997)。

有人観測も含めて初期の気球観測にはさまざまな問題に直面した。気温を測定するには日射や気球本体からの放射の影響を防がなければならなかった。また上昇・下降しながら観測するため、測定器の応答速度が遅いと異なる高度の気温を記録することになった。逆に気球の動きが遅いと、空気が測定器付近に滞留することもあった。そのため、気温や湿度の測定には感部の適切な換気が必要だった。観測データはそれらを考慮して、様々な補正が行われて使われた(Rotch, 1900)。

また、上空の寒気、強い日射、着陸時の衝撃から守る必要があるため、測定器類には単純で堅牢な構造とその適切な保護が必要だった。そのために本の4-7「メテオログラフ(気象自動記録装置)」で述べたように、1890年頃フランスのリシャール社が、時計で回転するドラム紙に気圧や気温などを同時にインクで記録するバロサーモグラフ(自記気圧・温度計)を開発すると、それが高層気象観測にも用いられた。ただし高空ではインクが凍ることがあるため、回転ドラムにすす紙をセットして針でひっかいて記録するなど工夫して使われることもあった(Rotch, 1900)。
リシャール社のバロサーモグラフ
Baro-thermograph of Richard. Rotch, 1900)

つづく

参照文献
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303.
  • Rotch-1900-Sounding the ocean of air. Six lectures delivered before the Lowell Institute of Boston in December 1898. - London: Soc. for Promoting Christian Knowledge.


2019年2月21日木曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(3) 本格的な観測の始まり

キュー観測所
19世紀の半ばに気球を用いた気象観測を行ったのはイギリスだった。イギリスのキュー観測所(Kew Observatory)のウェルシュ(John Welsh)は、1852年の8月から11月にかけてロンドンのボクソール(Vauxhall)で有人気球を使った気象観測4回行った(Hoinka, 1997)。フランスと同様にこれらの観測の目的は、種々の高度での気温と湿度の状態の決定だった。この時の気温観測には初めて換気装置付きの温度計が使われた(Rotch, 1902)。ウェルシュは高度3.7~7 kmまで到達し、気温が高度とともに単調に減少することを示した。この他に、種々の高度の大気サンプルが分析のために集められ、雲から反射される日射が偏光していないかも調べられた。そして、各高度の気温などの詳しいデータは1853年に「哲学紀要(Philosophical Transactions)」に発表された。本の8-1-1「気温減率の定式化の試み」で述べたように、この観測データからケルビン卿(ウィリアム・トムソン)の大気減率の理論が現実と合わないことがわかり、それが修正されるきっかけとなった

グレーシャー
本の8-4-1「有人気球による大気観測」で述べた1862年9月5日のイギリスの気象学者グレーシャー(James Glaisher)らによる気球による高層気象観測時に起こった事件(詳しくは「嵐の正体にせまった科学者たち」(丸善出版)の第3章参照)などによって、高空では呼吸のために酸素が必要になることがわかった。それ以降も、彼は1862~1868年におよそ30回の飛行を行った。彼の観測目的は、大気の温度と湿度状態の決定、水銀気圧計とアネロイド気圧計の比較、大気電気の状態とオゾン試験紙による酸素状態の決定などだった。また研究の付随的な目的として、大気の構成、雲の形と厚さ、大気の気流、音響的な現象の観測などもあった(Rotch, 1900)。ただ、グレーシャーは換気装置付きの温度計があったにもかかわらず、実験の結果不要と考えて換気装置付きの温度計を使わなかった(Rotch, 1900)。

その後、フランスでは化学者で気象学者でもあったティサンディエ(Gaston Tissandier)や天文学者のフラマリオン(Camille Flammarion)などが有人気球で高層気象観測を行った。1875年4月15日にティサンディエらが行った高層気象観測は、高度8500 mに達したが酸素不足やひどい揺れなどにより、彼はかろうじて助かったものの同乗した2人が死亡した(Rotch, 1900)。当時は携帯できる酸素ボンベや調圧器はなく、酸素を持って行ってもそこで十分に機能するとは限らなかった。

この後、有人気球を使った高層気象観測はいくつかの例外を除いて、1890年代まであまり行われなくなった。また、高層気象観測(4)で述べるように、ゴンドラによる下層空気の持ち上げ、上昇速度に対する測定器応答の時間差、強い日射の影響などで、観測された値もあまり信頼できないものがあった。なお、グレーシャー、フラマリオン、ティサンディエは、有人気球による気象観測の状況などを「Travels in the Air」という本にスケッチ入りで残している。
フラマリオンが観測した月の暈
 (Night of 14-15 July, 1867)「Travels in the Air」より

また当時、無人の紙製の測風気球(pilot balloon)をつかって風向・風速を測ることも行われた。気球を複数のセオドライト(経緯儀)で三角測量を行って追跡することによって、高度と風向・風速を測定した。ただ、昼間の晴天時しか観測できなかった(ランプを搭載して夜間観測が行われることもあった)。また雲の上になったり、放球地点から離れ過ぎると追跡できなかった(Hoinka, 1997)。

1891年にはフランスのボンバレ(M. Bonvallet)がアミアンからはがき付きの測風気球を97個の放球し、気球60個の落下位置を調査したこともあった(Rotch, 1900)。また、ゆっくり燃える導火線に複数のはがきを結わえて、飛行の途中で一定時間毎に落下させて、拾った人に送ってもらうことによって、はがきの回収地点から気球の航跡をたどる方法も使われた。無人気球に自記測定器を搭載して、気温の鉛直分布の観測を行うことはまだできなかった。

つづく

参照文献
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303
  • Rotch-1900-The international aeronautical congress at Berlin. - Mon. Wea. Rev. 30, 356-362.

2019年2月19日火曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(2) 初期の気球観測

ソシュール
本の4-5-1「吸湿湿度計」のところで出てきたスイスの物理学者ソシュール(Horace-Benedict de Saussure)は、1787年に気圧計と温度計を持ってモンブラン(Mont Blanc, 4811m)に登頂し、気温が100 mについて0.7 K下がることを確認した。後年ドイツの生理学者、物理学者ヘルムホルツ(Hermann von Helmholtz)は、これを外挿して高度30 kmで気温はゼロ点に近づくに違いないと推測した(Hoinka, 1997)。

これは、大気の温度は気圧の低い上層との対流による断熱変化によって高度とともに低下し、高度30 kmあたりで絶対0度に近づいて大気は終わりになると考えられためである。この考えは、理論と観測が一致したため、19世紀の間は固く信じられた。ちなみに現在の考え方は逆で、まず放射平衡を考えて、その温度分布が下層で不安定となることから対流が起こり、対流平衡となって圏界面を境に大気が対流圏と成層圏に分かれるという説明が普通である(松野, 1982)。

本の8-4-1「有人気球による大気観測」で記したように、1783年モンゴルフィエ兄弟による気球の発明により、有人気球に測定器を搭載しての大気の鉛直方向の連続的な観測が可能となった。しかし19世紀後半に入っても、気球観測はまだ冒険、探検的な動機が主だった。しかし、気温減率などの上空の気象、あるいは電磁気がどうなっているのかなどの科学的な目的でも有人気球観測が行われた。

フランスでは2人の若い物理学者ゲイ=リュサック(Joseph Louis Gay-Lussac)とビオ(Jean-Baptiste Biot)が、上空の気象の調査飛行を行うために選ばれた。彼らは1804年8月24日にパリから出発したが、搭載したすべての測定器(と人)を持ち上げるには気球が小さすぎて、高度約4 kmを超えることはできなかった。
ゲイ=リュサック

ゲイ=リュサックは同年9月16日に水素を詰めた気球によって単独で高度約7 kmまでのぼった。彼とビオが行った観測から磁力の変化がなかったことと集めた大気サンプルから、大気組成が変わらないことが確認された。しかし、かれらの観測での気象学における成果は、高度が90m高くなる毎に約1度温度が下がることを確認したことだった(Rotch, 1900)。この観測結果は、その後しばらくは大気の気温減率(lapse rate)の代表となった。

つづく

参照文献

  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303
  • Rotch-1900-The international aeronautical congress at Berlin. - Mon. Wea. Rev. 30, 356-362.
  • 松野-1982-成層圏と大気波動の研究をめぐって, 天気, 29, 12,3-22.


2019年2月18日月曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1) 概要

気象学において、地上気象観測と同じように重要な位置を占める観測が高層気象観測である。これからわかった高層気象の規則性は大気力学の発展を後押しし、数値予報の発達などにも大きな影響を与えた。現在においても、高層天気図は天気予報に必須となっている。本において地上気象観測については、測定器の発達から各国の観測網、気象予報体制の整備までかなり詳しく説明した。しかし、分量の制限などで高層気象観測の始まりと成層圏の発見については、まだ説明が十分とはいえない部分があるので、いくつかに分けてまとめて補足したい。

ここ(1)では、まず概要だけ記しておく。本の8-4-1「有人気球に大気観測」に書いたように、18世紀末の気球の発明の後、しばらくは上層大気の探検的な意味合いで気球が使われて発達した。19世紀後半になると、気球などは空中での移動や偵察の手段として考えられるようになり、各国で飛行船や人力を含むグライダー・軽飛行機の開発が熱心に始まった。それは1900年の大型硬式のツェッペリン飛行船と1903年のライト兄弟による飛行機の発明につながっていった。しかし、それらは大気の低層で人などをいかに多く搭載して安全になるべく速く移動できるかが焦点だった。 

高層気象観測の気球はそれらとは少し目的が異なった。高層気象観測ではなるべく高い高度まで上がるという要請と、その途中のさまざまな高度で連続的に気象観測の記録を取りながら飛行する必要性があった。そのため、気象観測用の気球は、一般の飛行船とは異なる独自の道を歩むこととなった。当初気球観測には人が乗って結果を記録・確認する必要があった。そのため気球観測用のゴンドラは「若い気象学者を育てるゆりかご」といわれた時代もあった。 

しかし、高層では乗っている人間が酸素不足に陥って命に関わるという危険性がわかった。当時高空で人間に安定して酸素を供給するのは簡単ではなく、重い人間を乗せる気球の浮揚力と人間の安全性を考慮すると、高度10 km程度が有人気球が上れる限界と考えられた。そのため、軽くて手軽な自記測定器が発明されると、軽い無人気球による観測が主流となった。しかし、自記測定器は強い日射や低温の影響など気球観測ならではの特殊な環境のため、常に正しく動作・観測するとは限らなかった。そのため、安全性やコストからはなるべく無人気球による観測を行うが、測定の信頼性の確認は有人気球で行うことも19世紀末まで残った。

20世紀に入ると、高層気象観測はリヒャルト・アスマン(2)で述べたゴム製の気球と信頼性の高い自記測定器によって、専ら無人気球で行われるようになった。それでも観測結果を得るためには、住民らの協力によって自記測定器を回収する必要があった。しかし1930年前後のラジオゾンデの発明により、回収の必要がなくなり、観測と同時にリアルタイムで結果がわかるようになった。

その後戦争などの影響もあって、本の10-1-2「高層気象観測の拡大」で述べたように、高層気象観測の場所と頻度は劇的に増えて、本の9-5「高層の波と気象予測」で述べたように、上層の観測結果から大気力学に関する重要な発見が起こり、それは地上の気象に影響を及ぼしていることがわかった。また高層気象を使った考え方は数値予報などを通して、日常の気象予報を変えていった。

ここで、参考文献について述べておきたい。本の「気象学と気象予報の発達史」もそうだが、歴史上のことなので基本的に過去の文献をもとに、なるべく原典を確認して記述するようにしている。しかし手に入らない、あるいは翻訳できないものもある。原典を参考にした文章の2次引用を行う場合は、その内容についてなるべく複数の文献を確認しながら記述している。しかし同じ事象について書かれた複数の文献の内容が一貫しているとは限らない。信頼性を絞りきれない場合は、その項目の記述を止める場合もある。

一つ例を挙げる。「高層気象観測の始まりと成層圏の発見(5)」で述べることになると思うが、1893年3月21日のエルミートらによる高層気象観測結果について、Rochas(2003)には、「13,500mで最低温度-51℃を記録した」と書かれていた。一方、松野(1882)では「気圧103mmHg(高度16km)で気温は-21℃であった」と書かれていた。そのまま無条件に採用することも可能だが、この高度において2500 mの高度差で30℃も気温が変わるだろうか?という疑問が湧いた。著者の思い込みや印刷時の誤植の場合も結構あるからである。

結論から言うとどちらの記述も正しかった(記録値が大気の実際の状態を反映しているかは別問題である)。それはこの場合は原典を見ることができて、そのエルミートの論文にグラフが付いており、このグラフから両者の記述に矛盾がないことがはっきりした。このグラフはエルミートの観測結果を述べる際にブログに掲載する予定なので、確認していただきたい。

本やブログでの記述は、不十分な部分もまだあるだろうが、中身についてそういう吟味を行っていることを理解していいただければ幸いである。

つづく
 

参照文献

  • 松野-1982-成層圏と大気波動の研究をめぐって, 天気, 29, 12,3-22.
  • Rochas-2003-L’invention du ballon-sonde, La Meteorologie, n°43, 48-52(Google翻訳を利用した)

2019年2月16日土曜日

テスラン・ド・ボール

フランスの気象学者テスラン・ド・ボール(Teisserenc de Bort)は、農務大臣を父に持つ資産家の家に生まれた。彼は病弱だったため、南フランスのカンヌに滞在した際に気象学に興味を持った。本の6-2-3「ルヴェリエによるフランスでの天気図の発行」に書いたように、1878年にマスカール(Eleuthère Mascart)を長官とするフランス中央気象台(Bureau Central Météorologique)ができると、彼は直ちにそれに参加し、一般気象サービスの責任者となった。そこで彼は地球物理学の全球規模での理解を得るために、フランスの植民地や船などで気象観測を行った(Fonton, 2004)。
テスラン・ド・ボール

彼は大気循環や総観規模気象に興味を持ち、数々の解析を行って1886年に気象の活動中心(centers of action)という概念を生み出した。これは年平均気圧からの月偏差などを調べることによって、海陸分布や地形などによる長期間持続する特徴的な気圧分布を示したものである。例えばアゾレス高気圧やシベリア高気圧、アイスランド低気圧などがこれに相当する。これは、後年アメリカで活躍したスウェーデンの気象学者ロスビー(Carl-Gustaf Rossby)などによる長期予報のための考え方に影響を与えた。

地球規模の高層風を調べるため、国際気象機関(International Meteorological Organization: IMO)が、1896年から2年間の国際雲観測年(International Cloud Year: ICY)を開始すると、テスラン・ド・ボールは私財を投じて、パリ郊外の丘陵トラペス(Trappes)に3ヘクタールの広大な敷地を持つ気象力学を解明するための観測所(Observatoire de météorologie dynamique)を設立した。彼は構内に写真機付きの経緯儀2台を離して配置し、電話線で結んで雲の高度や動く速度・方角を観測したりした。さらにIMOICYの観測結果を出版する際に、資金がなかったためその経費を負担した(Encyclopedia.com, 2008)。この高層風の観測結果は、本の8-3「地球規模の大気循環」に記したように、それまで知られていた大気循環による地球の熱収支に大きな問題を投げかけることになった。

1898年にテスラン・ド・ボールはそこで高層気象観測を開始した。当初は自記記録装置の回収が容易な凧を用いたが、フランス中が結果を知りたがった有名な「ドレフュス大尉のスパイ事件」の裁判の日に、凧のピアノ線が電信線を切る事故を起こした(Ohring, 1964)ためか、途中から探測気球による観測に変わった。彼は高層気象観測にさまざまな工夫を凝らした。

当時ドイツのアスマンらが気球の材質に重いゴールドビーター皮や加工絹を使ったのに対して、テスラン・ド・ボールはワックスなどを塗った軽くて安価な紙を用いた。彼はファンによって換気を行う洋銀製のきわめて敏感な温度計を造った。それは温度の変化にとても敏感ではあるが、衝撃には強く、急速に温度が換わる層を通過する探測気球に十分に適応した(Rotch, 1900)。
 
それまで他の観測所では屋外で気球にガスを充填して放球していたため、少しでも強い風が吹くと高層気象観測ができなかった。彼は敷地内に大きな回転する充填庫を作って、屋内で気球に水素を充填できるようにした上で、風向に応じて充填庫から屋外に気球を出す向きを変えることができるようにした。
 
トラペスでの気球放球の様子
(http://www.meteo.fr/interdso/Implantation/Trappes/Historique/ima-Hist/ballon1nb.jpg)

 
それと安価な紙製の気球によって、他の観測所に比べて観測頻度が格段に向上した。また、気球が遠くに風で流されないように、一定時間後に下部の気球からガスを抜いて上部の気球をパラシュート代わりにして落下させる装置なども考案した(Fonton, 2004)。

彼は1902年に高度10 km以上で等温層を発見したことを発表し、1908年にはそれを成層圏と名付けた。彼はその後もオランダに高層気象観測所を設置したり、1905~1906年にかけて大西洋上で貿易風の観測を行ったり、1907~1909年にかけては北極圏キルナ(Kiruna)での観測を精力的に主導したりした。1908年にはイギリス王立気象学会から成層圏の発見に対してサイモン・メダルを授与された(Shaw, 1913)。彼はフランスを高層気象観測の先端国に育てたが、1913年に亡くなった。

(次は、高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1)

参照文献

  • Fonton-2004-Clouds, sounding ballons and stratosphere; Teisserenc de Bort: a life in Meteorology, http://www.meteohistory.org/2004polling_preprints/docs/ abstracts/fonton_abstract.pdf
  • Encyclopedia.com-2008- Assmann, Richard, Complete Dictionary of Scientific Biography https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/assmann-richard Assmann.
  • Ohring-1964-Bulletin of the American Meteorological Society, 45, 1, 12-14.
  • Rotch-1900-Sounding the ocean of air. Six lectures delivered before the Lowell Institute of Boston in December 1898. - London: Soc. for Promoting Christian Knowledge.
  • Shaw-1913-LEON PHILIPPE TEISSERENC DE BORT, Nature, No.2254, Vol.90, 519-520.

2019年2月5日火曜日

リヒャルト・アスマン(その2)

 ドイツ気象局にいたアスマンは、1892年に「航空学推進のためのベルリンドイツ協会(Deutscher Verein zur Forderung der Luftschiffahrt zu Berlin)」によって進められていた科学目的のための気球観測の計画を引き継いだ。ドイツでの有人気球観測は、1893年3月1日に始まった。搭載した測定器は水銀気圧計、毛髪湿度計、通風式乾湿計と単純な放射測定装置から成った。彼は1895年3月1日にドイツ皇帝(ヴィルヘルム II世)の視察の下で有人気球フンボルトに搭乗して高層気象観測を行った[1]。その後アスマンの強い提案によって、王立気象研究所の第4番目の部門として高層気象観測所が1899年にベルリンに設立された。アスマンは、測定器を搭載した凧と係留気球による定期的な上層観測を推進した[2]。一方で、ヨーロッパでの気球観測は1890年代後半には無人の探測気球(sounding balloon)による観測へとなっていった
気球「フンボルト」

 当時使われていた気球は、ニスやワックスを塗った紙や皮製の開口式定積気球で、高度が増加するにつれて上昇速度が小さくなり、一定高度まで上昇した後に揚力を失ってゆっくり下降した。しかし着陸までに時間がかかるため、風で流されて放球場所から極めて遠くに運ばれることも珍しくなかった。1886年にドイツの気象学者パウル・シュライバー(Paul Schreiber)は気球にはゴム気球を使うべきとの提案を行っていたが、それは忘れ去られてしまっていた。アスマンは1900年頃にドイツのゴム会社コンチネンタルとともに、薄くて軽く良く伸びるゴム製の気球を開発した[3]。
 
 アスマンの密閉式ゴム製の探測気球の特徴は、安価で使い捨てできたこと、平衡高度になることがないため膨張して破裂するまで上昇できることと、そのため同じ高度に留まることによる日射や換気不足の影響を受けないことだった。また、短時間で上昇して破裂するため風に流される距離が少なく、パラシュートを使って観測地点からそれほど遠くない地点で自記測定器を回収できた。これら数多くの利点があったことから、高層気象観測は定積気球に換わってゴム製気球によって世界各地で広く行われるようになり、それは今でも続いている[3]。
気象庁で行われている気球を用いた高層気象観測
(気象庁提供)


 アスマンは1900年以降は、ベルリンでこのゴム気球を用いた高層気象観測を行い、6回の観測が高度11 km以上に達した。1902年5月1日にアスマンはベルリンの科学アカデミーに、自身が発明したゴム気球に通風式乾湿計を搭載して、高層で暖かい気流を観測した証拠を示した[4]。これはテスラン・ド・ボールがパリの科学アカデミーに高層での等温層の観測を報告した3日後だった[3]。
 
 当時ベルリンで行っていた凧観測では、時折失敗した凧観測の壊れたロープが、電線や電話線、路面電車のケーブルの上に落下した。そのため、観測所をベルリンの南東およそ100 kmのリンデンベルク村の近くの小さい丘に移転させることになった。本の8-4-2「気球による高層気象観測」で述べているように、リンデンベルクに独立した科学機関として王立プロシア高層気象台(Das Königlich-Preußische Aeronautische Observatorium)が建設された。1905年10月16日にドイツ皇帝自ら立ち会いの下で開所式が行われ、自由大気の風、温度、湿度の鉛直分布の系統的な観測が行われた。そのような上層の気象情報は、科学的な要請だけでなく急速に発達しつつあった航空学の進展のためにも必要だった。そのため、航空機パイロットに対する無線を使った気象警報サービスがアスマンによって組織された。リンデンベルクにその本部を持つこの観測網は、25の測風気球観測地点と郵便局と電報局の600の雷雨の報告地点を持ち、1911年にその活動を開始した[2]。

 

1905年10月のリンデンベルクの高層気象台の開所式での気球室でのカイザー・ヴィルヘルム2世とアスマン教授(左上)。

 
 アスマンは1917年に夫人を亡くして非常に力を落としたが、ギーツェン大学はアスマンを名誉教授とした。彼は1918年5月28日にギーツェンで亡くなった。享年74歳だった。アスマンは、実用的な乾湿計、便利な高層観測用ゴム気球を発明し、それらは高層気象観測の信頼性や頻度を変えて、高層気象学の水準を向上させた。現在リンデンベルクの高層気象台はアスマンの功績を称えて、リヒャルト・アスマン気象台という名称になっている。

 また高層気象観測結果の解析を通して成層圏の発見にも大きな貢献を行った。本の9-4-1「日本の高層気象観測」で述べているように、日本の初代高層気象台長となった大石和三郎は、1912年からリンデンベルク高層気象台に留学してアスマンから親しく教えを受けた後、高層気象台を開設している。日本の高層気象観測はアスマンが元祖ともいえる。

(次はテスラン・ド・ボール

参照文献

[1]岡田武松-1948-気象学の開拓者、岩波書店、pp308
[2]Assmann, Richard, Complete Dictionary of Scientific Biography, https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/assmann-richard
[3]HOINKA, K. P.-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303
[4]Assmann-1902-Uber die Existenz eines warmeren Lufttromes in der Hohe von 10 bis 15 km. - Sitzber. Konigl. Preuss. Akad. Wiss. Berlin 24, 495-504.

2019年2月4日月曜日

リヒャルト・アスマン(その1)

 アスマンは気象の多分野で活躍したドイツの気象学者で、本の4-5-3「乾湿計」、8-4-2「気球による高層気象観測」、8-4-3「成層圏の発見」、9-1-5「航空の発展と気象学」など各所で出てくる。逆に一人の人物像として捉えにくくなっているので、ここで彼の経歴をまとめて補足しておきたい。
 
 リヒャルト・アスマン(Richart Assmann)は1845年4月14日にドイツのマグデブルグ市で生れ、1865年にブレスラウ大学で、医学を専攻した。初めはフライエンヴァルデ(Freienwalde)で医者を開業し、後に郷里のマグデブルグに移った。1869年にはベルリンのフリードリッヒ・ヴィルヘルム大学から医学博士の学位を受けた。しかしアスマンは気象学に興味を持っており、フライエンヴァルデで医者をやっていた頃から、そこの戦争記念塔の上に小さい観測所を設け、自記測定器で記録をとっていた[1]。その頃、アスマンはハンブルグのドイツ海洋気象台(Deutsche Seewarte)を含むドイツ気象局を訪問し、そこで有名な気象学者ウラジミール・ケッペンに紹介され、生涯連絡を取り合う仲となった。[2]

アスマンの写真
(http://www.wetterdrachen.de/images/assmann.jpg)

   1879年に、アスマンは故郷のマグデブルク市へ戻った。彼はそこで同級生で地元新聞「Magdeburgische Zeitung」の所有者で編集者だったアレキサンダー・フェーバー(Alexander Faber)と偶然出合った。フェーバーは自身の新聞に気象報告を提供するための測候所の設立を考えていた。アスマンは医者を止めて1881年にマグデブルグで農業気象のために協会を設立することとし、その協会は直ちに中部ドイツに250か所以上の観測点を持つネットワークを開設した。1884年には「天気」(Das Wetter)という気象学に対する人々の関心を向上させるための一般向け気象学誌も刊行し始めた。[2]


 
 

通風式乾湿計の外観(上図)と内部(下図)
気象庁の気象観測ガイドブックより

 1884年にアスマンはハルツ山地の最高峰ブロッケン山(Brocken, 1141m)で雲物理の観測を行い、顕微鏡を用いて雲粒子が液滴なのか泡なのかという疑問を完全に解決した。彼は、ハレ大学の無給の大学講師として講義を行ったりしたが、1885年にはハレ大学から中央ドイツの嵐に関するテーマで2個目の博士号を受けた[2]。1886年に、アスマンはベルリンの近くの王立気象研究所の職員となって、雷雨と極端現象に関する部門を率いた。本の4-5-3「乾湿計」で述べたように、ここでアスマンは、観測において放射や換気不足の影響を受けない通風式乾湿計(Aspirated psychrometer)を発明した[2]。これはその後地上観測や高層気象観測における乾湿計のスタンダードとなり、今でも使われている。

つづく

参照文献

[1]岡田武松-1948-気象学の開拓者、岩波書店、pp308
[2]Assmann, Richard, Complete Dictionary of Scientific Biography, https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/assmann-richard