2026年2月25日水曜日

第二次世界大戦における気象戦(1)グリーンランド周辺での戦い

 戦争において気象情報、特に気象予報は、輸送や作戦に直接影響するため極めて重要な情報となる。ヨーロッパでの戦争では、正確な気象予報のためは、広大な北大西洋にも気象観測網を展開する必要があった。連合国とドイツは、自軍の観測網の構築と相手の観測網の破壊のための戦闘を繰り広げた。第二次世界大戦で展開された気象情報の獲得を巡るこれらの熾烈な戦いについて、[1]を参考に簡単に記しておく。

1.気象観測の重要性

第二次世界大戦の前、デンマークはグリーンランドとアイスランドに、ノルウェーはスバールバル諸島とヤンマイエン島に気象観測者を配置していた。1939年に第二次世界大戦が始まり、1940年春にこの2国がドイツに征服されると、この北大西洋の重要な地域をカバーする気象報告は途絶えた。連合国もドイツも、相手の支配下にある地域の気象情報を獲得しようと躍起になった。北大西洋の気象観測は、観測船と気象偵察機によって行われたが、陸上の定常観測点からの観測結果の方が信頼性が高い上に使いやすかった。つまりグリーンランド周辺の気象観測地点を巡って、北大西洋の気象戦争が始まろうとしていた。

第二次世界大戦勃発時の米国の懸念は、米国が戦争のための物資動員体制が整う前、または戦争態勢に入る前にイギリスがドイツに屈服してしまうことだった。そうすればドイツ打倒のための欧州の強力な拠点が失われてしまう。それを避けるためには、イギリスがドイツに対抗できるように、まず航空機を大量にイギリスへと送る必要があった。

1941年3月に武器貸与法(レンドリース法)の成立で、アメリカからイギリスやソビエト連邦への大量の武器の輸送が始まった。イギリスへの最優先輸送は航空機だった。そのためには、アメリカ北東部からグリーンランドを経由してイギリスへ到達する安全な航空路を確立する必要があった。また、イギリスとソビエト連邦に向かう支援物資を積んだ輸送船団を安全に航行させるために、その航路付近の天候を予測する必要もあった。これらのために、北大西洋の気象観測が極めて重要となった。

2.グリーンランドの国際的位置け

16世紀以来、グリーンランドはデンマーク領だった。デンマークがナチスドイツに占領されると、その所属は微妙となった。1940年4月10日、ルーズベルト大統領はデンマーク公使ヘンリック・カウフマンを迎えた。デンマーク政府は既にナチスに協力しており、公使カウフマンは政府からグリーンランドをアメリカの保護領にすることに同意しないように命じられていた。しかし、公使は独断でモンロー・ドクトリンに基づいてアメリカがグリーンランドを保護領にするよう要請し、ルーズベルトとアメリカ国務省はグリーンランドをアメリカの保護領にすることに同意した。

これにはドイツ軍がグリーンランドに飛行場や港を建設することを阻止するだけでなく、アルミニウム精錬に不可欠な鉱石である氷晶石の産出地だったグリーンランドのイヴィグトゥット鉱山をドイツに渡さないための措置でもあった。しかし、外交上の理由からグリーンランドにアメリカ兵を置くわけにはいかず、アメリカは沿岸警備隊員を送り込んで、彼らは自主的に民間人となって、鉱山の警備員として雇用された。同時に鉱山防衛のため、アメリカは3インチ砲やライフル、弾薬を提供した。

グリーンランド南西部のイヴィグトゥット氷晶石鉱山、1940年
https://en.wikipedia.org/wiki/Greenland_in_World_War_II#/media/File:Cryolite_mine_ivgtut_greenland.jpg

1942年、陸軍航空隊のイェーツ中佐は、グリーンランド沿岸に気象観測所を設置するプロジェクトを指揮した。彼はカリフォルニア工科大学の気象学科を出ていた。これは広大なグリーンランドに潜在するドイツの気象観測所を探し出すとともに、連合国軍の観測を構築・維持するという困難なプロジェクトだった。

この下でドイツ軍とのいくつかの戦いが起こった。イェーツ中佐は、後に大佐に昇進して気象に大きな影響を受けるノルマンディ上陸作戦において、総司令官であるアイゼンハワーに気象情報を提供して補佐するという重要な役目も担うことになる。

3.グリーンランドでの気象戦1

ドイツ軍の方もグリーンランド東海岸沿いで気象を確実に掌握しようと狙いを定めていた。1940年半ば、ドイツ海軍は1940年9月、改造トロール船の気象観測船「ザクセン」を派遣し、同船はアイスランドの北東約600 kmにあるヤンマイエン島沖で3か月間、バルーンを使った高層気象観測を含む毎日の気象データを送信した。さらに翌年2月には部下を陸上へ派遣し、第2の観測点を開設した。

さらに同船は、1942年8月にグリーンランド東海岸のシャノン島の南のハンザ湾に進入した。船長であったリッター中尉は、気象観測船「ザクセン」が湾内で凍りつくと、すぐに半数の隊員をシャノン島に上陸させて小屋を建てさせた。氷上にケーブルを敷設して、船と小屋との間の電話回線と電気を確保した。船体の周囲には雪を積んで上空から見ると海氷の塊に見えるように偽装した。そして9月下旬には気象データの送信を開始した。

12月にアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、保護領になっていたグリーンランドも戦争に参加することになった。アメリカはグリーンランドのインフラを大幅に拡張しただけでなく、ニュース、食料、人道支援、娯楽を提供した。連合国軍はエスキモーネスにイヌイットやデンマーク人などからなる15名の「スレッジパトロール」を結成した。彼らの任務はドイツ軍の気象観測点を破壊することと自ら気象観測を行うことだった。北極圏での犬ぞりの経験が豊富なデンマーク人、イブ・ポールセンとマリウス・イェンセンがこのパトロール隊を率いた。ただし彼らの武器は猟銃だけだった。

1943年3月11日にこのスレッジパトロール隊はサビーネ島北東岸のハンザ湾にある猟師小屋を利用した気象観測所を発見した。すると同時に2人のドイツ人が小屋から逃走した。パトロール隊は後方に大規模なドイツ軍が控えている可能性を恐れて、いったんエスキモーネスへ戻った。

シャノン島のドイツ軍リッター中尉は、逃走した二人からパトロール隊の襲撃を聞くと、直ちに襲撃隊を率いてこのパトロール隊の捜索を開始した。一方で、イブ・ポールセン率いるパトロール隊もドイツ軍の居場所を突き止めるため、犬ぞりで北上した。ドイツ軍の襲撃隊はパトロール隊と遭遇した。優勢なドイツ軍は攻撃を一瞬ためらい、降伏を求めている間にパトロール隊は逃走した。3月23日にドイツ軍はエスキモーネスに到達し、同基地を焼き払ったため、パトロール隊はさらに約300 km南のエラ島の観測所まで退却した。

パトロール隊の隊長イェンセンともう一人は、ドイツ軍の拠点を突き止めようと犬ぞりで再度北上した。しかしドイツ軍の襲撃隊と再び遭遇して二人は捕虜となった。

 グリーンランド付近の地図

ドイツ軍のリッター中尉はイェンセンの犬ぞりについての豊富な知識を利用しようと考えた。中尉は新たな観測地点を探そうと、4月に探検隊を組織してイェンセンを連れて出発した。ところが温厚なリッター中尉は、地形もよくわからないままイェンセンの意に沿って動いたようである。5月初めにドイツ軍の探検隊は連合国軍の拠点があるスコレスビズンド(現イットコルトールミート)に到達し、そこでリッター中尉たちは逆に捕虜となってしまった。

捕虜が観測点の位置を自白したためか、1943年5月25日にアメリカ軍の長距離爆撃機がシャノン島の気象観測船「ザクセン」と陸上の気象観測所を爆撃した。ドイツ軍の観測隊員たちは丘の上の予備キャンプへ逃げ込み、この状況をトロムソへ無線連絡した。6月6日に隊員の半数はドルニエ26飛行艇で救出された。残りの隊員は気象観測船「ザクセン」を沈没させて気象観測所を破壊した後、6月17日に飛行艇によって救出された。

4.グリーンランドでの気象戦2

1943年8月下旬、トロンハイムを飛び立った4発のドイツのFW-200長距離爆撃機は、再度気象観測を再開するためシャノン島付近を偵察しようと飛来した。ところがスコレスビズンド上空を経由したため、その湾内で観測を行っていたアメリカ沿岸警備隊のカッター「ノースランド」から発砲を受けた。しかし爆撃機は被害を受けず、シャノン島付近を偵察して基地に帰還した。

フォッケウルフ FW200長距離爆撃機
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/af/Bundesarchiv_Bild_146-1978-043-02%2C_Focke-Wulf_Fw_200_C_Condor.jpg


8月末にトロール船を改造したドイツの気象観測船「コブルグ」は、8人の新しい気象隊員をシャノン島に運ぶために、ザッハー中尉を始めとする18人の乗組員とともに北極圏に到達した。しかし9月11日に同船は氷に閉じ込められた。乗組員が氷を爆破して脱出できるようにするために、物資と氷を破壊するための爆薬を積んだFW-200爆撃機が派遣された。1回目は「コブルグ」を発見することができなかったが、2回目の9月18日に「コブルグ」に爆薬を投下することに成功した。その結果船は氷から脱出し、シャノン島に向かってさらに数km進んだ。

その後、何度か氷結と砕氷を繰り返したが、シャノン島北端でとうとう船は氷のために身動きがとれなくなくなった。乗組員は船から3 km離れた島に資材を運んでキャンプを設置したが、さらに海岸近くに雪洞を掘って、そこで気象観測を行った。

11月初旬、気象観測隊を救出するため、巨大な6発のブローム・ウント・フォスBV222飛行艇が何度か派遣されたが、悪天候などのため気象観測船「コブルグ」を発見できなかった。11月18日には氷の圧力で「コブルグ」の船体が破損した。船体は30度の傾斜をつけ船尾が水没した。船長と6人の乗組員だけが船に留まり、他の乗組員と気象隊員は、キャンプ地に移って掘った雪洞で気象観測を続けた。

ブローム・ウント・フォス BV222飛行艇
https://ja.wikipedia.org/wiki/BV_222_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bundesarchiv_Bild_146-1978-061-09,_Gro%C3%9Fflugboot_BV_222_%22Wiking%22.jpg


1944年3月下旬になると、雪が緩んで雪洞が危険になった。隊員たちは、近くの岩場に小さな木造の小屋を建てて、そこに観測所を移した。イェンセンが率いる連合国軍のスレッジパトロール隊はグリーンランド沿岸から流れるドイツの気象無線を知って、気象観測所に対する襲撃行動を開始した。ところが1944年4月22日に
スレッジパトロール隊がドイツ軍の観測所に近づいたとき、逆にザッハー中尉率いるドイツ軍から奇襲を受けた。この時、ザッハー中尉はイェンセンに銃撃されて戦死したが、優勢なドイツ軍に襲われたパトロール隊は逃走した。

しかし、グリーンランドでは、じわじわと連合国軍の圧力が高まっていたようである。1944年6月3日、ユンカース Ju290が南フランスを飛び立ち、ノルウェーのトロンハイム経由で、シャノン島付近で「コブルグ」の残りのドイツ人乗組員と気象隊員を救出した。

その数日後の1944年6月6日、連合国軍は嵐の間隙を突いてノルマンディ上陸作戦を決行した。ドイツ軍は、
連合国軍が嵐の中で風に弱いパラシュート降下や高波に脆弱な上陸用舟艇を用いた上陸作戦を決行するはずがないと思っていた。ノルマンディ海岸を防衛していたロンメル司令官もこの嵐を利用してベルリンへ戻っていた。

ノルマンディ上陸作戦はドイツ軍にとって奇襲を受ける形となった。上陸作戦の成否は、連合国軍とドイツ軍の気象予報の差が明暗を分けた面がある。しかし、このグリーンランドでの戦いを見ると、ドイツ軍はノルマンディ上陸作戦の直前まで北大西洋の気象データの一部を掴んでいたのかもしれない。

参照文献

[1] John Ross, THE FORECAST FOR D-DAY, LYONS PRESS, 2014.

2026年2月19日木曜日

日本からのウィーン中央気象台への支援

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)   

これは日本気象学史の中では雑学に類するものかもしれない。

第一次世界大戦後、ドイツ側で戦ったオーストリア=ハンガリー帝国は、ドイツと同様に莫大な賠償金などにより経済が混乱し、記録的なインフレによって窮乏した。気象学において由緒あるウィーン中央気象台も同様だった。同気象台では観測どころか職員の衣食にも窮した。本書の8-7で述べたように、ウィーンでは有名な気象学者であったマルグレスが年金で暮らしていたが、戦後はその年金ではコーヒー1杯さえも飲めなくなって、1920年に栄養失調で亡くなった。同じく世界的な気候学者であったユリウス・ハンも翌年に窮乏の中で亡くなっている。

その窮状を知った日本の中央気象台は、1921年頃に大日本気象学会*を通して全国の測候仲間に義援金を募り、それは600円に達した。当時の600円が今日どの程度の価値があるかはわからない。そしてそれを救援金として送ってウィーン中央気象台を支援しようとした。

ところが、当時は今日のように国際送金など容易に出来る時代ではなかった。日本で集めた義援金をどうやってウィーンに届けるかが問題となったが、手段がなく途方に暮れていた。

当時中央気象台には、長野県諏訪出身で後の中央気象台長となった藤原咲平がいた。彼は陸軍の永田鉄山と竹馬の友だった。たまたま永田鉄山が藤原咲平を訪ねてきた際に、中央気象台にいた岡田武松は永田鉄山が近々ウィーンへ視察へ行くという話を耳にした。岡田は永田鉄山に頼んで、行李に詰めた多くの見舞い品とともに義援金をウィーン中央気象台へ届けてもらったという[1]。

ウィーン中央気象台はこの支援に相当に感激したようである。高名な気象学者で、後にウィーン中央気象台長になったエクスナーは、副台長との連名で大日本気象学会頭であった中村精男宛に感謝状を出している。岡田武松は後に永田鉄山から、ウィーンでは気象台の方々が非常に喜んで歓待してくれたが彼らは誠に気の毒であった、という話を聞いている。また、岡田自身も後にウィーンへ行った際に、エクスナーから感謝の言葉を直接聞いている。

永田鉄山は陸軍軍務局長だった時にいわゆる相沢事件で暗殺された。彼は陸軍きっての秀才であり、企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」と語ったと言われている。その陸軍の永田鉄山がウィーン中央気象台の支援に一役買っていたというのは意外だったので、一言ここに残しておきたい。

大日本気象学会は現在の日本気象学会の前身の組織である。ただ当時は学術的な活動だけでなく、全国の気象技術者(その多くは地方の測候所職員)を結束させる面もあったようである。

(つぎは「第二次世界大戦における気象戦(1)グリーンランド周辺での戦い 」) 

参照文献 

[1]岡田武松、続測候瑣談、岩波書店、1937.

2025年12月20日土曜日

気象警報の伝達苦労の今昔

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)   

  気象学とは異なるが、気象情報の変化が激しい今日、警報伝達の難しさを述べておくのも良いかもしれない。日本での警報は、明治16年にクニッピングが始めた暴風警報に始まる(日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(4)参照)。しかし、危険な気象状況になりそうなことを、漁師などの多くの人々にわかってもらえるためにどう伝えればよいか、については当時から苦労があった。戦前は尋常小学校しか出ていない人々も多かった一方で、当時のいわゆる官吏は難しい漢語を使う傾向にあった。どうも警報に「海上不穏の虞(おそれ)あり」などの文言を用いたこともあったらしい。日露戦争の日本海海戦でその気象予報を行い、戦前に中央気象台台長を務めたことでも知られている岡田武松は、次のように述べている[1]

「虞れあり」なぞと云ふのは誠に六つかしい文字だ、大衆を相手とするものに、こんな途方もない六づかしい文字を用ひるのは決して策の得たものではない。

彼は気象情報をわかりやすく改善しようとしたが、それに対して、論語などの教育を受けた旧来の識者から抵抗を受けたようである。一方で警報に「風強かるべし」のような中途半端な文言を入れていたため、今度は風が強い地域では警報がしょっちゅう出ることになり、「狼来たれり」の二の舞をやってしまったとも述べている[1]

昭和9年の室戸台風の被害を受けて、昭和1091日から気象特報というものが設けられ、「風強かるべし」のような文言はそちらに移されることになった。これは今でいう注意報である。なぜ「注意報」にならずに「特報」という名称にした理由について、岡田は「注意報と云ふのは語路も悪いし、少しく驚かす意味も含んでゐて、面白ろくないと云ふ向きもあり」と述べている[1]。注意報という名称に、当時は抵抗があったことがわかる。これで当時の気象関する情報は、天気予報、気象特報、気象警報の3段構えとなった。

その後、幾多の変遷があったが、2004年(平成16年)の「新潟福島豪雨、福井豪雨」を受けて、防災気象情報の改善が加速した。2006年から指定河川洪水予報の改善が始まり、2008年には土砂災害警戒情報が全国的に発表されるようになった。2010年には各種警報も全国の市町村単位で発表されるように変わり、2013年から特別警報が新設された。2019年には防災行動としての警戒レベルの運用が開始され、2021年にはそれによる住民が取るべき行動が明確化され、各種気象情報などとリンクされるようになった。

防災情報は日進月歩の状態だが、その理解に追いつくのが大変になっている。しかもこれらは防災気象情報のメインストリームの部分であり、他にも記録的短時間大雨情報、竜巻注意情報、高温注意情報(熱中症警戒アラート)など、あまたの気象情報が出されている。他にも地震・津波や火山に関する情報もある。

岡田武松が述べているように、昔から気象関係者は気象に関する危険を誤解なく人々にわかってもらうことに苦心してきた。かつては異常乾燥注意報や異常天候早期警戒情報など強いニュアンス持つ名称の気象情報もあったが、今ではそれらの名称は変更されている。気象情報について名称の変更、情報のレベル化など幾多の改善がなされてきたが、人々の意識や行動も変わっていく。今後もこういった改善は続いていくのかもしれない。

 (次は「日本からのウィーン中央気象台への支援」

  参照文献

[1]岡田武松、続測候瑣談、岩波書店、1937

2025年12月1日月曜日

降水量の測定は容易か?

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)   

レーダー降水量などを除くと、降水量(雨量)の測定は基本的には瞬間値ではなく、ある一定時間の積分値である。そのため、雨水を貯めれば何らかの量の測定は出来る。しかも蒸発などによる貯水後の変動は小さく、また工夫すればその影響を減らすこともそれほど困難ではない。そのためか、降水量の観測の歴史は古い(降水観測の歴史は本書の「4-6 雨量計」で述べたので、詳しくはそちらを見ていただい)。

 紀元前に既に降水量を観測した記録がある。また複数の雨量計を用いたネットワークでの気象観測を世界で最初に始めたのは15世紀の李氏朝鮮であり、そのことを1910年に発表したのは、当時の朝鮮総督府の気象観測所長だった中央気象台の和田雄治である[1]。なお「暴風警報の準備(2」で述べたように、日本での気象観測法を編纂した一人も和田雄治である。

こうやってみると、降水量の観測は順調に発達してきたように見えるが、実はそうではなかった。むしろ降水量の測定は、19世紀まで厄介な問題を抱えた観測の一つだった。

その問題のきっかけとなったのは、1769年頃のロンドンのヘバーデンの実験だった。彼は庭に雨量計を設置するとともに、自宅の煙突の上にもう一つ雨量計を設置した。さらに近くのウェストミンスター寺院の高い塔の上にも雨量計を設置した。彼は一年間測定を続け、煙突での降水量は庭の降水量の80%しかなく、さらに高い寺院の塔の降水量は、庭の降水量に比べて約50%しか示さなかったことを明らかにした。これによって、降水量は高度の関数であると思われた。

ヘバーデンはこの現象の原因を説明できず、雨粒が落下前の地上数百メートルで成長して降水量が多くなったのではないかと推測した。この実験結果を読んだベンジャミン・フランクリンも、同僚への手紙の中で、雨は大気中を落下する間にその冷たさで自ら結露しているかもしれない、と示唆した[1]

各地で同様の高度を変えた観測が行われた。結果は大きなばらつきを示したものの、概ね高度が高いほど降水量が減るという規則性を示した。そのため地上に落下する数百mの間にどうやって雨粒が成長するのか、が議論となった。

個々の雨粒が落下中にどのような挙動を示すのか(成長するのか)、という実験を行うことはほぼ不可能に等しい。19世紀頃から一部の学者は風の影響を指摘するようになったが、決定的な証拠はなかった。今から考えると信じられないかもしれないが、フランスのフランソア・アラゴやイギリスのジョン・ハーシェルなどの高名な科学者も加わって、雨粒が地上近くで成長する凝結条件などの議論が1世紀近く続いた。

この論争に決着をつけたのは、イギリスのウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ1835 - 1882)である。「えっ?」と思った方は経済学などにくわしい方に違いない。彼は「限界効用理論」という経済学で有名な基礎理論を唱えた一人である。また石炭枯渇などの資源問題、論理学においても大きな貢献を行った。 

ジェボンズの肖像写真
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Stanley_Jevons#/media/File:William_Stanley_Jevons_portrait_extract.jpg

  ジェヴォンズは自然科学にも深い関心を持っていた。この問題を解決するために、彼は模型を用いた障害物による風の実験を行い、その結果を1861年に論文で発表した。それは2枚のガラス板の間に煙を流して、障害物によって空気の流れがどのように変わるかを可視化したものだった。彼は、実験結果を次のように述べている[2]。

 空気の流れは、障害物にぶつかるとそれを飛び越える。そうすることで、隣接する平行な空気の流れに押し付けられる。これは直進方向から発散し、同様に次の流れに衝突する。しかし影響によって生じた圧力の上昇は、気流の速度を速めると同時にその厚みを減らす。・・・落下する雨粒は、重力と空気の運動の両方の影響を同時に受ける。それは長方形の対角線をたどる。この長方形の垂直な辺は雨粒の落下速度を表し、水平な辺は風によって与えられる速度を表す。言い換えれば、落下する雨粒の軌道の(鉛直方向からの)傾斜角の接線は、風の速度にほぼ比例して変化する。

簡単に言うと、この長方形の底辺は降水量に比例するが、風が強いとこの底辺が雨量計の間口よりどんどん長くなるということである。彼はこう結論している[2]

障害物の頂上には他の場所よりも少ない雨しか降らず、余剰分は障害物の風下側に運ばれることが、かなり明確に示されていると私は思う。このメカニズムによって、高所における雨量の欠損現象が十分に説明されることに私は疑いを持っていない。
雨量計と風速との関係

雨量計周辺の風の流線の模式図。風の線の間隔が狭いほど風が強い。 

彼は実際の風を同時に観測した降水量の観測結果を引用して、「建物頂上に設置した雨量計と地表の雨量計で観測される降水量の差は風速に比例する」と明確に述べている。これによって、風が強い上空ほど雨量計で観測した降水量が減ることが明確になった。これは観測において、測定器が正確でもその観測手法によって測定結果が正しいとは限らないことと、その判断が如何に難しいかを示している。   

その後、19世紀末から王立気象学会のジョージ・J・サイモンズなどによって降水量の観測にどのような条件が適切なのかの実験が繰り返され、雨量計の設置条件が決定された。気象庁では雨量計を用いた観測に、例えば以下のような環境を推奨している[3]

降水の観測は,できるだけ風の影響がない場所とするのが理想である。これは雨滴や雪片が風の影響を受けて雨雪量計受水口に入らなくなるのを防ぐためである。・・・近くに建物がある場合は,建物による局地的な風の乱れの影響を防ぐため,その高さの少なくとも2倍以上,できれば4倍以上離れた位置に設置する。傾斜地や建物の屋上は観測場所としては,特殊な観測目的以外は,適当でない。雨雪量計そのものも風の影響を受けないようできるだけ低く設置する。

気象庁では基準に沿った場所に雨量計を設置するとともに、降水量の観測地点を見回って、周囲の樹木や建築物などの観測環境に変化がないかなどを定期的に確認している。

 (次は「気象警報の伝達苦労の今昔」)

参照文献

[1] Ian Strangeways, A history of rain gauges, Weather, Vol. 65, No. 5, 2010.

[2] W. S. Jevons, On the Deficiency of Rain in an elevated Rain-gauge, as caused by Wind, Philosophical Magazine and Journal of Science, Vol. XXI, 1861. 

[3]気象庁、気象観測の手引き、1998

2025年11月14日金曜日

別な科学で有名な気象学者-グレゴール・メンデル

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

 初めに

グレゴール・メンデル(1822-1884)は、現在のチェコのモラヴィア地方の科学者で、遺伝に関する「メンデルの法則」で世界的に有名である。しかしご存じの方も多いと思うが、メンデルの法則を記した論文は生前は評価されず、彼は生物学者とはほとんど見られていなかった。彼が行った遺伝に関する研究の価値が認識されたのは、死後16年以上経ってからである。

彼の人生の大半は気象を研究する修道士であり、その後修道院長になったものの、自分のことを気象学者だと名乗っていた(モラヴィア大学設立請願書に気象学者としてサインしている)。もしメンデルの遺伝の研究が有名にならなければ、チェコのローカルな気象学者として位置づけられていただろう。逆に「メンデルの法則」が後にあまりにも有名になったので、彼の気象学者としての業績はあまり知られることがなくなってしまったようである。

 グレゴール・メンデルの写真

メンデルの生涯

幼少期から学生時代

ヨハン・メンデル(「グレゴール」は司祭職に就いてから名乗った)は、1822年にオーストリア領シレジア地方(現在のチェコ共和国ヒニツェ)のハインツェンドルフの農家の家庭に生まれた。彼は父の傍らで農業(植物の栽培、樹木の接ぎ木、養蜂など)を学び、小学校で自然科学を修めた。彼は小学校で最高の成績を修めて優秀であったため、農家の少年としては異例なことに教育の継続を勧められて、中等教育機関であるギムナジウムに進学した[1]

ただ彼は、16歳の時からストレス、絶望感、圧倒感を感じ、集中力の欠如、食欲不振、睡眠障害などを伴う精神的な病をときおり発症した。一種の「適応障害」だったのではないかという説もある[2]。同年(1838年)に彼の父親が事故に遭い、経済的に苦しくなったことも関係していたかもしれない。

彼は1840年にギムナジウムをともかくも卒業し、オロモウツにある大学付属の高等教育機関である哲学研究所で2年間学んだ。ここでも優秀な成績を上げ、ほとんどすべての学問で優秀と評価された。ギムナジウムでの教師の一人と、哲学研究所での物理学教授2人は気象観測を行っており、それが彼が気象学に興味を持つきっかけとなった可能性がある[1]。哲学研究所では精神的な病が再発し、彼はいったん退学したが、翌年復学した。その際の学費は、妹のテレジアが相続した父の財産をメンデルに譲ることによって都合した[2]

聖トーマス修道院とのつながり

哲学研究所で物理学を教えていたフランツ教授が、メンデルの優秀さに目を付けて、シレジア地方中心都市ブルノにあるアウグスチノ会の聖トーマス修道院の修道士に推薦した。21歳の彼はアウグスチノ会の修道士修練生となり、「グレゴール」と名乗った[1]。ここから彼の聖トーマス修道院との一生涯となるつながりが始まる。修道士は修行専門の修道僧とは異なり、説教や奉仕、教育活動の役割を担っていた。

聖トーマス修道院の教会。https://en.wikipedia.org/wiki/St_Thomas%27s_Abbey,_Brno#/media/File:Bazilika_nanebevzet%C3%AD_panny_Marie.jpg

 聖トーマス修道院長ナップは彼を買っていたが、彼が宗教的な仕事に向いていないことに気づき、彼を近くの高校の臨時教師として派遣した。彼は教師の仕事には向いていたようである。生徒からは慕われ、校長からは賞賛された。メンデルは常勤の教師となるため、1850年に教員試験を受けた。物理学の問題は見事な答えを書いたが、口頭試験で精神的な問題により不合格になってしまった[1]

ところが、この時試験委員をしていた元ウィーン大学物理学教授が、メンデルをウィーン大学に送るように進言し、メンデルは1851年から2年間ウィーン大学で学んだ。この時、ウィーン大学には「ドップラー効果」で有名な物理学者ドップラー植物学者フランツ・ウンガーがおり、メンデルに大きな影響を与えた[1]。この時彼は、ウィーン動物植物学会の会員に選ばれ、後に終身会員となっている。

教師と研究者の時代

ウィーン大学を終えてブルノに戻った彼は、中等学校で物理学と自然史を教えた。ここでも彼は教員試験に挑戦したが、やはり精神的な問題から失敗した。しかし、教師の資格がなかったことは彼に大きな影響を与えなかった。彼は教師の仕事をそのまま11年間続けた。そして、彼はそこで本格的に科学研究に没頭した。

一つはエンドウ豆の実験である。メンデルは1854年にエンドウ豆の実験の第一段階を開始し、数百株を栽培してその形質が世代を超えて一定であることを確認した。1856年から1863年にかけて、メンデルは遺伝に関する先駆的な実験を行った。しかし、彼が書いた論文は、当時はほとんど評価されずに埋没した。

二つ目は上記と同じ1854年に、彼は聖アンナ大学病院の医師パヴェル・オレクシクと出会ったことである。オレクシクは町の気象観測者でもあった。彼はブルノ自然科学協会で1848年から行っていた気象観測結果を発表し、メンデルはそれに興味を持った。そしてメンデルは修道院で行っていた気象観測を改善した。後述するように、この観測はオレクシクの死後もメンデルによって継続されるとともに、彼のさまざまな気象研究の元となった。

聖トーマス修道院長時代

1867年にの聖トーマス修道院長のナップが死去すると、その後任の修道院長にメンデルが就任した。しかしこの職は多大な領地を管理する多忙を伴った。また修道院長は地元の名士でもあり、モラヴィア地方のさまざまな学会の会員になるとともに、当地の銀行の副頭取も務めなければならなかった[2]。彼は自分の科学的興味を徐々に放棄せざるを得なくなった。しかし、修道院での気象観測だけは継続した。

さらに、オーストリア帝国が修道院に課す税制を変更したため、メンデルはその反対運動にも身を投じた。当局との長い論争で多くの友人や同僚と疎遠となり、彼の健康状態は悪化した。1883年末には、彼は腎不全とうっ血性心疾患を患い、気象学的観測を行うことができなくなった。彼は188416日に61歳で息を引き取った。修道院長は要職でもあったので、その葬儀は政府の関係者も参列して盛大に行われた。葬儀の際に演奏されたオルガンは、有名な作曲家であるレオシュ・ヤナーチェクが弾いた[2] 

メンデルの気象学

気象観測

オレクシクの影響を受けて、メンデルは1857年に聖トーマス修道院で定期的な気象観測を開始した。それによって、オレクシクが行っていた観測網のデータを自身の観測で補完した。やがてメンデルの気象学者としての名声は高まった。1868年にメンデルが修道院長に選出されると、彼はオーストリア気象学会の会員となり、1878年には病になったオレクシクの代わりに、オーストリア帝国気象観測網のブルノ公式観測官の職務を引き継いだ。オレクシクとメンデルによるブルノの気象観測記録は、チェコ共和国で気温はプラハに次いで2番目、降水量は最も長いものとなっている[5]

メンデルは修道院の敷地内の様々な場所に測器を設置し、ウィーンの中央気象研究所の公式要件に従い、気温、降雨量、風向、気圧、日照時間、地下水位、地上オゾン濃度を記録した [1]。オゾン測定には「シェーンバイン法」を用いた。これはヨウ化カリウムを染み込ませた紙片で、オゾン存在下で色が青色に変化することを利用したものである。日本でも気象観測の初期にはこの手法でオゾン観測が行われている。

嵐や竜巻の解析

メンデルは有名な1866年のエンドウ豆に関する論文より前に、気象学に関する論文をいくつか発表している。その最初の論文は、18578月に87日にブルノで発生し、大雨を伴った雷雨の観察について述べたものだった[3]

1863年には「ブルノにおける気象条件の図表による概観に関する所見」が、ブルノ自然科学協会の紀要に掲載された。これはオレクシクの観測による1848年から1862年までの気温、気圧、風向・風力、雲量、降水量、風向の記録とその解説を記載したものである。さらに郊外とブルノ市内の気温を比較して、ブルノの気温が都市開発による熱で高くなっていることを指摘した。これはオーストリア帝国において、ヒートアイランド現象を科学出版物で初めて発表したものとされている[1]

メンデルはブルノで起こった竜巻も分析した。18701013日の午後、竜巻が聖トーマス修道院の上空を通過した。メンデルは幸運にもその時に修道院の自室にいて、観測した。メンデルは竜巻の形状、進路、速度、そして特に注目すべきは回転方向を詳細に記録した。それによると竜巻は時計回りであり、北半球で通常見られるパターンとは逆だった。メンデルは竜巻の原因を二つの気流の衝突によると推測した。これは50年後の1917年にドイツの気象学者ウェゲナー(大陸移動説で有名である)が提唱した竜巻の成因と本質的に同じである[1](なお、ウェゲナーについてはケッペンについて2」を参照)

大気汚染の観測

また別の論文では修道院と郊外地域でのオゾン濃度を比較している。そしてブルノのオゾン濃度が低いのは、工場の煙などによる大気汚染による煙霧の影響だと結論している[1]。この時がどうであったかはわからないが、工場からの煙には一般にオゾンの発生源となる物質とオゾンを壊す粒子状物質の両方が含まれる。そのため、煙によってオゾンが減った可能性はある。

気象予報などへの関心

18771月にウィーンの中央研究所が電信による気象予報の発表を開始すると、メンデルはモラヴィアにおける農業のための気象予報の価値を熱心に推進するようになった。彼は農業協会を代表して州知事に提言書を提出したり、オーストリア農務省に同様の提言を送付した[1]。また自ら気象予報を行ってみたりしたが、これはあまり成功しなかった。彼は当時の知識では気象予報を出すには不十分であることを自覚していた[4]。そのほか、オーロラや太陽黒点の調査も行っている。

前述したように、晩年になると多忙や病気により科学的な活動は減っていった。その中で、気象観測だけは死ぬまでウィーンの中央研究所へ報告し続けた。

 

メンデルは農家出身であり、農業の振興を基本に考えていたと思われる。彼のエンドウ豆の遺伝実験も気象観測も、元をたどれば農業振興につながっていた。当時彼によるエンドウ豆実験の重要性は認識されなかった。しかし、彼は聖トーマス修道院長としてブルノでは優れた市民指導者であり、主要な気象学者として知られていた。今日では彼は遺伝学の父として世界的に知られるが、反対に気象に関する緻密な分析や記録はほとんど忘れ去られており、現在その再発見が続けられている。

 (次は「 降水量の測定は容易か?」)

参照文献

[1] Mark Alvey, Weatherman Gregor Mendel Plant hybridizing was something of a sideline for this polymathic priest. https://doi.org/10.11118/978-80-7509-904-4-0158

[2] Daniel L. Hartla, Gregor Johann Mendel: From peasant to priest, pedagogue, and prelate, PNAS Vol. 119 No. 30, 2022.

[3] MICHAEL MIELEWCZIK, JANINE MOLL-MIELEWCZIK, MICHAL V. SIMUNEK, UWE HOSSFELD, A previously unknown meteorological publication of Gregor J. Mendel from 1857, FOLIA MENDELIANA 58/2, Supplementum ad Acta Musei Moraviae CVII, 2022

[4] Rožnovský, J., G.J. Mendel´s meteorological observations, Mendel a bioklimatologie. Brno, 3. – 5. 9. 2014, ISBN 978-80-210-6983-1

[5] Jarmila Burianová Kevin Francis Roche, Gregor Johann Mendel Meteorologist, https://www.sci.muni.cz/en/current-news/gregor-johann-mendel-meteorologist