2026年6月16日火曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(12) 最後にいくつか補足

   (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

 

12.         最後にいくつか補足

ペターセンについて言えることは、信念を持っているが、態度は常に謙虚でつましいということである。これは幼い頃にノルドランドという自然が厳しい環境で育ったためだろうか?彼は母方の祖父の影響なのか自然の厳しさや人知を越えた何かを熟知していた。

彼はなんども周囲から「あなたの影響力はあなたが思っているより大きいのです」と説得されている。しかしその大きな影響力をむやみに振り回すことなく、周囲から説得されてやむを得ずか、自分の強い信念に基づいてのみ行動を起こした。そして、その結果については「あなたの功績はあなたが思っているより大きいのです」と言えるのかもしれない。しかし、後述するように人命を救えなかったことなどがあったことからなのか、自身のつましさを後悔することもあったのだろう。最後はニクソン大統領へ手紙で直接抗議して米国籍を返上した。

気象学ではしばしばプログノ(予後)などの医学用語が使われることがある。彼は自分が行っていることを「臨床研究」と呼んでいる。彼は気象の臨床研究に興味があり、基礎研究と応用の間にある境界のはっきりしない影の領域での仕事を望んでいた。彼が日々自分が行っている予報の実践から研究の種を見つけて研究することを、臨床研究と呼んでいることは、確かに言い得て妙である。

気象の臨床研究に興味があった彼は、「物事をありのままに見るためには、大量の残滓から数粒の金を分離することを学ばなければならない」と述べている[1]。彼はまさに日々の膨大な気象の臨床研究から数粒の金を分離し、それを気象学の進歩につなげてきた。純粋な理論研究を目指さなかった彼には、確かに「ペターセンの法則」のようなものはない。しかしこのブログで述べてきたように、彼が集めて蒔いた金の粒は、現代の気象学において確実に花開き、欠くことのできないものになっている。

最後に彼に関するこれまでのブログでは書き漏らした彼に関するいくつかのイベントについて補足しておきたい。

ソ連によるラップランド占領の抑止

戦争末期、ドイツ軍がノルウェーのラップランドから撤退し始めた。それに呼応してソ連がそこに進出する気配を示した。これをイギリスに亡命していたノルウェー代表団が懸念した。この件に関してはノルウェーの外交官は無力のようだった。ノルウェー代表団はペターセンと彼が持つ人脈を頼った。ペターセンは友人の科学産業研究省のエドワード・アップルトン卿と接触し、ペターセンとアップルトンはチャーチルの友人で科学顧問を務めるフレデリック・リンデマン(チャーウェル卿)とお茶をする約束をとりつけた。しかし政治絡みの話は微妙であり、そこではチャーウェル卿がラップランドの問題に興味を持っていたとしか記されていない[1]。結果として、ラップランドはドイツ軍の撤退だけで済んだ。 

 チャーウェル卿の写真
https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Lindemann,_1st_Viscount_Cherwell

空電観測への貢献

ダンスタブルの上層大気部門にいた際に、ペターセンは空電(スフェリックス)に興味を持ち、オクスフォード大学のエドワード・アップルトン教授の門下生たちと協力して、北大西洋全域、ほぼ北米に至るまでの観測データを収集するための空電の観測網を構築に協力した。これは、戦時下で船舶からの気象通報が制限されている中で、大規模な総観気象の解析のための不可欠な観測データとなった。現在日本の気象庁ではライデン(LIDEN)と呼ばれる同じような雷観測網を運用している。

電子航法装置の実用化への貢献

ペターセンはイギリス空軍の夜間爆撃の予報を担当した。航空機の発達と戦争によって大型爆撃機が高空(高度3000m以上)を常時飛ぶようになったのは、開戦のほんの数年前からである。そのため、この高度の気象解析と予報というのは全く新しい分野だった。そして、この予報と電子航法装置によって夜間に爆撃機が精度良く飛行できるようになった。これらによって単一目標への夜間の大規模爆撃が初めて可能となった。電子航法装置については、「(6) ドイツ爆撃のための予報」で解説したとおりである。

彼が電子航法装置を開発したわけではないが、上層大気の予報と電子航法装置は車の両輪のようなもので、その利用には綿密な検証や組み合わせが必要である。そう考えると、第二次世界大戦でのペターセンのこの分野での功績は大きいと言えるだろう。

電子航法とは関係ないが、彼は1944年夏にハワイで講演した際に、ドイツ爆撃の際の教訓から将来の日本への爆撃における上層のジェット気流が及ぼす影響についても注意を喚起していた。しかしそれは当時ほとんど顧みられなかった。米軍が1944年末にB-29による日本爆撃を開始した際には上層での強い西風に驚かされ、この風により高空からの爆撃精度が落ちたとされている。

フレッシュマン作戦への関わり

ペターセンは、フレッシュマン作戦にも参加している。これは194211月に行われたグライダーを用いて工作員を送り込んでのノルウェーの重水工場破壊工作である。しかし破壊工作員34名が乗ったグライダーは、雲に突っ込んで行方不明となり、作戦は失敗した。グライダーは海上に墜落したとも、搭乗員はゲシュタポに捕らえられて処刑されたとも言われている。

 

 「フレッシュマン作戦」のターゲットなったノルウェーのリューカンにあった重水工場
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vemork_Hydroelectric_Plant_1935.jpg

 ペターセンはこの作戦の予報にも関与していた。しかし彼この作戦で使用するグライダーの特性を知ったのは決行の直前だった。しかも気流から判断して天候が悪いことはわかっていた。ペターセンは気象状況が不適であることを提言したが、隊長は現地から来た「晴れている」という情報をもとに作戦を決行した。

ペターセンに技術的な落ち度はなかったが、これによって多くの人名が失われたことは、ペターセンに助言のあり方についての大きな影響を与えた。これがノルマンディー上陸作戦の予報の議論の際に教訓となっていたようである。

 

ノルマンディー上陸作戦時の気象予測に関する電話会議の補足

電話会議での流れは、基本的は「10)ノルマンディー上陸作戦」で述べた通りなのだが、電話会議での白熱したやりとりになったと思われる下地を補足しておきたい。

まず最高司令部のチーフ気象士官はイギリスから出すことになっていた。ネルソン卿はスタッグは予報官ではなかったが、当時の英国気象局の幹部の一人であり、上陸作戦の責任と重圧に耐えられると判断してチーフ気象士官に任命した。スタッグは海軍本部の予報に満足していなかったが、自分用の気象解析チームを与えられなかったので、天気図を見る際にはポーツマスの最高司令部の近くにあった海軍本部を頼った。彼はチームのいずれか、あるいは合意された予報に基づいて、アイゼンハワーに提言するしかなかった。副気象士官のイェーツ大佐は気象の専門知識を持ち、外向的で冷静かつ強靱な精神を持った米国陸軍航空隊の軍人だった。

ペターセンは論理的で冷静沈着だったが信念を持っており、それを曲げる気はなかった。同僚のダグラスは優秀だったが、精神的にやや脆いところがあって興奮しやすかった。ワイドウィングのホルツマンは、クリックと同じカリフォルニア工科大学出身でわりと柔軟な態度であった[6]。しかしクリックは、アーノルド司令長官やカルテックのフォン・カルマンらのバックアップを受けて、自分のアナログ手法にかなりの自信を持っていた。

ペターセンはアナログ手法を否定しているわけではなかった。ただ使えるかどうかは状況次第なので、その時々でその手法がどこまで使えそうかをクリックらと顔を合わせて、詳細に協議したかったと思われる。そのためネルソン卿から予報の議論を電話会議で行うと聞いて、合意にはかなり困難を伴うという考えを持っていた。それは当然の考えだと思われる。

こういったバックグランドと性格を持った予報の専門家が電話会議で意見を一致させるのは、一般的にはたしかにかなり困難だっただろう。かなり白熱したやりとりもあったようである。チーフ気象士官スタッグはかなり苦しい立場に立たされた。しかし、強靱な精神を持ち冷静だった副官の軍人イェーツがそれをうまくカバーしたという意見もある。

なお、上陸作戦の諸々や電話会議でのやりとりは戦後かなり経ってから機密解除された。そのため、関係者が作戦の全体像や経緯を知ったのは、戦後かなり経ってからだった。関係者の回顧録の多くはその前に出版されている。なお、戦後この電話会議の一部がドイツのテレフンケン社の電話記録機に保管されていたことがわかっている[3]。暗号戦の深遠さを垣間見ることが出来る。

最後に、ペターセンがノルマンディー上陸作戦を救ったというつもりはないが、もし彼らがワイドウィングの予報に安易に妥協して、65日に作戦が決行されていれば、大惨事になっていただろう。5日は風力56(風速10m/s以上)の風が吹き、低い雲がノルマンディー地方を覆っていた。そうなれば、上陸前の重要な爆撃も、パラシュートやグライダーによる降下も不可能であり、上陸を強行すれば途中で上陸用舟艇が多数転覆し、海岸にたどり着いたとしても部隊や装備がバラバラで作戦の体をなさなかったかもしれない。

65日の当初の作戦予定日は強風による高波と低雲で、作戦の実施は実質的に不可能だった。月齢上適した2週間後の61922日は嵐だった。しかもその予報に失敗した上に、揚陸作業中の多くの船・桟橋などが転覆・破壊された。そう考えると、66日の決行がいかに奇跡的な判断だったかがわかるだろう。

 

619-22日の嵐で破壊されたノルマンディー海岸の人工埠頭
https://ww2db.com/image.php?image_id=5267

 

 参照文献

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.
[2] J. Cox , (訳)堤 之智, 2013, 嵐の正体にせまった科学者たち, 丸善出版
[3] Anders Persson, 2020, Right for the Wrong Reason?A New Look at the 6 June 1944 D-Day Forecast by a Neutral Swede, AMERICAN METEOROLOGICAL SOCIETY, Bulletin of the American Meteorological Society, July 2020, 993-1006.
[4] John Ross, 2014, THE FORECAST FORD-DAY, And the Weatherman behind Ike's Greatest Gamble, LYONS PRESS.
[5] Robert C. Bundgaard, 1979, Sverre Petterssen, weather Forecaster, Bulletin American Meteorological Society, Vol. 60, No. 3, March 1979.
[6] Orden, R.J., 2001, METEOROLOGICAL SERVICES LEADING TO D-DAY, Occasional Papers On Meteorological History No.3, The Royal Meteorological Society

2026年6月12日金曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(11) 戦後の気象学の再構築

  (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

 

戦後の気象学の再構築

ドイツとの戦争が終わった19455月に、ペターセンはノルウェーへと戻った。ノルウェーでは占領下でドイツ軍が、高層気象観測や空港予報官などに独自に優れた気象情報網を構築していた。戦争が終わった今、それらをノルウェー人によるシステムに新たに置き換えなければならなかった。それはペターセンらの指導により順調に達成された。

気象学は国際的なものである。戦後はノルウェーだけでなくヨーロッパ各国を含めた気象観測の国際秩序を再建しなければならなかった。戦前に気象学を国際的に束ねていた国際気象機関(IMO)は国際的なさまざまな課題を円滑に解決できる体制を持っていなかった上に、戦争中は機能を停止していた。その再開だけでも容易ではなかった。

しかし、戦中からこの状況を見据えて気象学の国際活動を活発に行っていた組織があった。それが暫定国際民間航空機関(PICAO)である。これは現在の国際民間航空機関(ICAO)で、Pは暫定の意味で平和時に条約が整備されればPは取れることになっていた。気象情報の整備は航空機の運用にとって極めて重要であり、戦後の気象学の国際的な活動に、まず航空界が乗り出したのは当然だった。

PICAOはモントリオールで会議を開催し、民間航空の取り決めを開始した。ところが、このPICAOの文書にIMOの活動が不活発であることが記載されていた。ある国際機関が姉妹機関の活動に否定的な言及をするのは異例のことである。この文言に英国気象局長官のネルソン卿が反応した。ペターセンは多忙で気乗りはしなかったが、ネルソン卿の依頼を受けてモントリオールでの会議に出席し、文言の撤回に成功した[1]

この会議では今後の航空法の問題についてさまざまな討論が行われることになっており、ペターセンはあまりこういう問題に関わりたくないため消極的な対応を行っていた。しかし、ペターセンの名声は自分が思っているよりもはるかに高かった。彼はPICAOでの選挙で気象学部門の委員長に選ばれてしまった。結局、彼は気象学に関する航空行政にも関わることとなった。彼はネルソン卿を通してPICAOIMOをつなぐ役割も担うことになり、これはIMOにとっても大きなメリットとなった。

ペターセンがPICAOでまず行ったのは、空路の安全を確保するための大西洋上の気象観測体制の整備である。ペターセンは他の委員と共同でこのためにラジオゾンデを用いた上層大気の観測船13隻を大西洋に配置する案を作成した。これは高額の資金と各国の支援を必要とする極めて野心的なものだった。これは母国ノルウェーを含む多くの関係国が、主に観測船の提供という形で支援した。また、他にも気象学、航法、捜索救助など、さまざまな手順について合意が必要だったが、ペターセンはこれらの合意を得ることにも成功した。

その後、この気象観測船を用いた観測網は、北大西洋での改善と北太平洋への拡張が行われた。これらによる観測は単に航空路上の気象の把握だけに留まらなかった。当時開発が始まりつつあった電子計算機を利用した数値予報には、世界の多くの場所での観測値が初期値として必要となる。特にこれらの洋上の観測がなければ、その後の電子計算機を利用した数値予報の発展は、大きな障害に直面していただろう。

この後、ペターセンはIMOでも名誉ある上層気象調査委員会の後継である高層大気委員会の委員長に就任した。彼はそこでイギリスで開発した上層大気解析手法の普及に努めた。 

ノルマンディー上陸作戦で最高司令部の副官を務めていたイェーツ大佐とペターセンは戦後に親交を深めていた。イェーツは将官に昇進し、1948年には陸軍航空隊気象局から発展した空軍航空気象局の局長となっていた。彼はペターセンに航空気象局の科学部門の部長になるように依頼した。ペターセンは中で小さな一つの研究グループを率いることでその役を引き受けた。しかし航空気象局に「研究」という言葉はなく、お役所らしく「評価」という言葉に変えられた。しかし、彼は大気循環に関する重要な論文や、ジェット気流波の伝播と成長に関する論文を執筆し、米国陸軍航空隊殊勲賞を受賞した。

ドン(ドナルド)・イェーツの写真
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lt._Gen._Donald_N._Yates.jpg

しかし、1950年には空軍に新たに研究開発司令部が置かれることになり、その補佐として4名の科学者が各プログラム分野を管理することになった。イェーツの後任の局長はペターセンにその役目の一つを要請した。ペターセンは管理職になる意思はなく、またシカゴ大学から教授の誘いを受けていた。ペターセンは丁寧に話をしてこの役目を断るとともに、シカゴ大学へ移った後の空軍の支援を仰いだ。ペターセンと空軍とは友好的な関係が続き、空軍はペターセンに資金援助をする代わりに、ペターセンは空軍のコンサルタントを務めた。

世界気象監視計画(World Weather Watch)などへの貢献

第二次世界大戦後、米国の科学界の再編に関してペターセンは、ロシア出身でハーバード大学の化学者として世界的に有名なジョージ・キスティアコフスキーの貢献を挙げている。彼は科学技術担当大統領特別補佐官となり、彼の努力と手法が米国の科学研究における長期的計画と国家目標の概要につながった。大統領がケネディになるとジェローム・ウィズナーが彼の後任となり、さらにこの活動は活発化した。

その一つが気象学の国際性のアピールだった。これは冷戦下の国際政治手法となった(詳しくは気候変動社会の技術史の公式解説ブログインフラとしての気候知識(2)インフラストラクチャのグローバル化」の「インフラストラクチャのグローバル化と東西冷戦」を参照)。ペターセンはウィズナーの指示で大気科学に関する10年計画(1961-1971年)を作成した[1]

この報告書の中には世界気象監視計画(World Weather Watch: WWW)設立の案が含まれていた。これは世界の国々が協力する気象予測と気象制御のための世界規模の通信衛星システムの構築だった。この計画は米国政府の国際政治方針とも合致していたのだろう。1961925日、ケネディ大統領は国連総会でこの計画について演説した。これは同年12月に国連総会で決議1721XVI)として可決された。ペターセンは1962年に大統領の大気科学諮問委員会の委員となった。

この決議をもとに、世界気象機関(WMO)主導の下で世界気象監視(WWW)プログラムの構築が開始された(WWWについては同じく「WMOによる世界気象監視(WWW)プログラムの構築」を参照)。このWWWが現在の天気予報、すなわち数値予報の基盤の一つとなっている。また彼の10年計画に含まれていた国際大気科学プログラム(International Atmospheric Science Program: IASP)は、その後地球大気研究計画(GARP)が始まる流れを作ったと考えられている(GARPについては同じく再解析データを参照)。

WWWGARPは対となっており、多くの国々が参加したWWWでの現業観測とGARPによる調査・研究は相互に利用されることで、気象学の発展は加速した。現在では、WWWによって世界中から集められた気象観測値は、GARPが開発した再解析に用いられて、数値予報の際の初期値として用いられている(再解析についてはデータのグローバル化」と再解析データを参照)。それだけでなく、WWWの観測値は気候再解析として処理され、その全球3次元格子点値はIPCCなどでの気候問題を議論する上での欠くことの出来ない情報となっている(気候再解析については同じく「インフラとしての気候知識(3)気候知識を生み出すインフラストラクチャ」を参照)。

このように気象の世界が大きく変わるきっかけに、ペターセンは大きな貢献をした。だだ彼は1963年に引退したので、WWWの実際の構築にはあまり関わっていない。しかし、彼の功績に対してWMOは金メダルを授与した。

ペターセンは1973年にニクソン大統領に抗議して米国国籍を返上した。その後、1974年にニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任したことは多くの人がご存じの通りである。そしてペターセンは、19741231日に1965年から移り住んだロンドンで亡くなった。

 (次は「実践の予報学者スベール・ペターセン(12)最後にいくつか補足」)

参照文献

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.

2026年6月9日火曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(10)ノルマンディー上陸作戦

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この上陸作戦(オーバーロード作戦)は19446月にフランスのノルマンディー海岸で連合国軍によって行われたものである。当時ソ連軍はドイツの東で戦いを繰り広げていたが、英米軍はイタリアの北部で戦線が膠着していた。ソ連は早くからドイツの西での第二戦線の構築を要望していたが、連合国軍では準備が整わず、のびのびになっていた。

当時ドイツ軍は「大西洋の壁」と豪語する防衛線を大西洋沿岸に構築しており、フランスには強力なドイツ軍が布陣していた。上陸直後の軍隊は脆弱である。海上では丸裸に近く、上陸直後は海岸には防衛陣地がなく、主な補給は狙われやすい海上補給に頼るしかなかった。もし敵が十分に待ち構えている中を上陸しようとすると、それは自殺行為に等しかった。そのため、ドイツ軍が反撃に転じる前に連合国軍が海岸に橋頭堡(物資補給と防衛の拠点)を確保し、さらに大規模な軍勢の後続上陸を可能にするには、不意を突いて奇襲上陸するしかなかった。

上陸作戦と気象との関係

上陸作戦を成功させるにはいくつか条件があった。まず上陸行動を秘匿するには夜明けでなければならなかった。次に上陸用舟艇が座礁するように設置された海中の障害施設を避ける必要があった。そのため上陸は潮が大きく引く大潮の日の干潮時とされた。月齢から作戦予定日は月2回の大潮付近の3日間の黎明に限定された。この条件からすると6月初めの作戦可能日は65日から7日だった。 

ドイツ軍のロンメルによってノルマンディー海岸に敷設された海中の障害施設 
https://ww2db.com/image.php?image_id=21508

上陸部隊は一斉に上陸しなければ各個撃破される可能性がある。上陸時に強風による高波が起こると、平底で波に弱い上陸用舟艇は転覆したり流されたりする。すると部隊が海没したり、部隊や装備の到着がバラバラになって混乱する恐れがあった。

また上陸作戦と言っても海岸付近だけで作戦を行うわけではない。上陸後の敵の増援を防ぐために、内陸の鉄道や交通の要衝を直前に精密な爆撃で破壊する必要があった。そのため正確な爆撃のための視程(晴天)が必要だった。

さらに、沿岸の砲台の無力化や橋などの交通要所の確保のために、内陸に落下傘部隊やグライダー部隊を降下させることになっていた。パイロットがその降下場所を視認して正確に着地させるためには、一定以上の雲量や強風を避けなければならなかった。着地が目的地から遠い場所だったり、兵士が迷子になったりして広く分散すると、やはり各個撃破される恐れがあった。

しかも100万人を超える人員、1000隻以上の大型艦船、18千機を超える航空機が参加するこの作戦は、爆撃、落下傘降下、上陸などの一連の作戦が全て連携して機能し始めるのに丸1日近くかかった(英国北部から移動する低速船も考慮すると36時間から72時間必要だった)。つまり作戦を決行するかどうかを24時間以上前に決定する必要があった。

そして一度作戦を開始して上陸地点が暴露してしまうと、敵はそこに防御を集中させる。そのため作戦を決行し始めると、奇襲を成功させるためにやり直しはきかなかった。またもし作戦が動き出した後に天候が急変すれば、風や波などの天候によって海岸や内陸で各部隊が大被害を受けることもあり得た。大潮の日の中で、夜明けに晴天で雲が少なく風が弱いという条件を満たす日を、24時間以上前に的確に予報するというのは、当時の予報技術を事実上超えていた。

ただし、だから予報が不可能というわけではなく、安定した天候が続けば数日前からの予報は可能だった。ただ、常にそのような状況になるとは限らず、むしろそうなることは例外に近いということである。大軍の命運を託された予報者たちにかかるプレッシャーは相当なものだっただろう。

仮に気象予報がうまくいったとしても、ドイツ軍も同様の予報を行っているかもしれず、そうなれば上陸時にドイツ軍が準備万端に待ち構えているかもしれなかった。これは連合国軍とドイツ軍の気象学者たちの戦いでもあった。

上陸作戦への気象情報の提供体制

その作戦を司令するのは、ドワイト・アイゼンハワーを総司令官とする連合国遠征軍最高司令部(SHAEF)であったが、護衛艦船を指揮する英国海軍、落下傘・グライダー部隊を指揮する英国空軍、爆撃を行う米国陸軍航空隊、そして上陸用舟艇で上陸する米国と英国の陸軍部隊が気象条件に依存する重要な作戦を担っていた。しかし、もし各部隊が独自の気象情報でバラバラに動くと作戦の成功はおぼつかなかった。そのために気象情報の一元化が図られた。英国海軍、英国空軍(英国気象局)、米国陸軍航空隊が、それぞれ気象チームを派遣して、連合国遠征軍司令部内に合同の気象予報体制が設立された。

すなわち、ペターセンとダグラスからなる英国空軍英国気象局チーム(通称、ダンスタブル)、ウォルフとホグベンからなる英国海軍本部チーム(通称、海軍本部)、そしてイェーツ、ホルツマン、クリックならなる米国陸軍航空隊チーム(通称、ワイドウィング)の3チームで合同の気象予報体制が編成された。これらのチームの通称は他の書籍でも広く使われている。

これらのチームは一度に会することはなく、英国気象局チームはロンドン北西55kmのダンスタブルに、海軍本部チームはロンドンの海軍本部に、陸軍航空隊チームはロンドン西20kmのテディントンに置かれ、一同は暗号電話でやりとりすることになっていた。このやりとりにはポーツマス近くにある欧州連合国軍最高司令部のチーフ気象士官である英国気象局のスタッグ大佐と彼の副官である米国陸軍航空隊イェーツ大佐も加わった(イェーツ大佐はワイドウィングのチーフでもあった)。

チームが分散されて置かれたのは爆撃によるリスク分散も兼ねていた。電話会議でまとまった予報は、チーフ気象士官であるスタッグ大佐と彼の副官であるイェーツ大佐を通して、アイゼンハワー最高司令官に届けられることになっていた。

ダンスタブルではペターセンが上層気象を担当し、ダグラスが地上気象を担当した。ダグラスは過去数十年の天気図の多くを覚えているという有能な伝説的な予報官だった。彼らは当然ワイドウィングのアナログ手法に信を置いていなかった。ワイドウィングはワシントンの米国陸軍航空隊気象局(JWC)から提供されたアナログ手法を用いた気象情報を用いて分析・判断していた。ワイドウィングの中のバンガードは地上気象と上層気象との関係を統計的に解析していたが、それは確立された実績のある手法ではなかった。海軍本部は独自のアナログ手法のようなやり方を用いており、ダンスタブルと海軍本部の間にも確執があった。

チーフ気象士官であったスタッグ大佐は英国気象局のメンバーであるが、地磁気が専門であり予報の専門家ではなかった。副気象士官でもあったワイドウィングのイェーツ大佐については、第二次世界大戦における気象戦(1)グリーンランド周辺での戦い」で述べたとおりである。彼はワイドウィングのチーフだったがアナログ手法を信頼していなかった。とはいえ、米国陸軍航空隊で絶大な権力を持つアーノルド司令長官が公認しているアナログ手法を否定するわけにはいかなかった。各チームは互いに複雑な背景や関係を持っており、彼らが電話会議で予報を一本化するのはかなりの困難を抱えていた。

連合国遠征軍最高司令部(SHAEF)構成図(気象関係のみ)。ペターセンたちはあくまで民間人として活動していたため、階級はない。(クリックすると拡大します)

気象と並んでもう一つ上陸作戦で重要なのは波やうねりの情報である。これはちょうどカルフォルニアにあるスクリプス海洋研究所のウォルター・ムンク博士とハラルド・スベルドラップ博士によって広域の風と波との関係が開発されたところだった。この手法は英国海軍本部がテストを行っていた。英国沿岸やドーバー海峡の海の状態、ノルマンディー海岸の波などの海洋関係の情報は、この海軍本部が適切に処理していたため、問題になるようなことはなかった。ただし、風に関する適切な情報が必要だった。 

 

 ペターセンの考え

さて、アンツィオ上陸作戦を終えて1月にバーリからロンドンに戻ったペターセンは、さっそく英国気象局長官ネルソン卿と副長官に呼び出された。彼らは5月か6月に行われると想定されるヨーロッパ大陸への上陸作戦の際に、連合国遠征軍最高司令官に気象予報を提供するために検討されている上記の体制を説明した。

しかも、これらのグループは顔を合わせることなく、暗号電話で議論することになっていた。それぞれ気象チームは上記のように歴史や慣習、手法が全く異なっていた。その結果をとりまとめる役割であるチーフ気象士官のスタッグは気象予報の専門家ではなかった。ペターセンにはこのような重大で議論が必要な予報を、電話による話し合いだけで良い結果が出せるとは到底思えなかった[1]

ペターセンはこの体制に疑念を抱いて代替案を出した。しかし、大きな組織ほどあるいは大きな作戦ほどさまざまな妥協によって決まっていることがある。いったんは関与に否定的な考えを持ったペターセンだったが、考え抜いた挙げ句に彼は結果がどうであれこの上陸作戦に関わることを決意した。

ペターセンは気象について次のように考えていた。通常5月はイギリス諸島やその西に背の高い高気圧が頻繁に発生することが多い。この高気圧は安定していて、ほとんど静止している。これは今でいうブロッキング高気圧である。この高気圧がイギリス付近に出現すれば、好天が続くことが多くなる。それなれば作戦決行日の問題は視程と雲量だけになり、負担は大きく軽減されるだろう[1]

ノルマンディー上陸作戦は、当初5月に予定されていたが、上陸用舟艇の準備が間に合わず、6月に延期された。ところが19445月は天候が安定しており、穏やかな晴天の日が多かった。5月に上陸が決行されていれば、天候は作戦上の大きな問題にはならなかっただろう。ところが皮肉にも1944年の6月は記録的に悪天候の日が多かった。これと同じくらい天候の悪い過去の6月を見つけるには、20世紀の初めまで遡る必要があったほどだった[1]。これが上陸日の決定を難しくした。 

作戦決行までの気象予報の経緯

6月前半での作戦可能日は、月齢から65日(日)~7日(火)だった。好天が続いた5月だったが、5月末になると北半球の気象状況に変化が現れ始めた。特に大西洋のアメリカ大陸高緯度で、大量の寒気が蓄積され始めた。これによって極域に巨大な高気圧が発達し、カナディアン・ロッキーからグリーンランド、スピッツベルゲン以東までを覆った。南北の温度差によって高気圧の縁辺では偏西風が強まり、その付近で強い嵐が発達する可能性が高まっていた。

一方で、大西洋中緯度にはアゾレス高気圧があった。これは気象学的には「センターズ・オブ・アクション(活動中心)」と呼ばれる気候の傾向を決定する要因の一つである。日本付近だと同様なものにシベリア高気圧や太平洋高気圧がある。このアゾレス高気圧が北方への伸長と退行を繰り返していた。上陸予定日の第1候補は6月5日(月)(この日を±0として何日前かを記すことにする)である。5月末からの電話会議は、このアゾレス高気圧と極域高気圧の位置とその境目で発達する嵐の有無がポイントとなった。

528日(日)(候補日の-8日)

ペターセンはこの日の電話会談で、西風が強まっている上層の状況から612日には天候が悪化する恐れがあると報告した。しかしクリックを擁するワイドウィングのチームは、アナログ手法によりノルマンディー域は、65日頃までアゾレス高気圧に覆われて平穏であると発表していた。海軍本部はダンスタブルの見解に同意していた。作戦決行予定日は65日(月)である。これほど先の予報には不確定な要素も多く、誰もはっきりしたことは言えなかった。

530日(火)(候補日の-6日)

この日の電話会議では、再び会議は分裂した。ダンスタブルでは4日(日)か5日(月)頃に天候が悪化する可能性があると考えていた。ただ悪天をもたらす恐れのある低気圧はまだ影も形もなかった。一方、ワイドウィングはアゾレス高気圧はドーバー海峡に向かって張り出すため上陸地点の天候は平穏と相変わらず主張していた。SAHFEのチーフ気象士官スタッグは意見をまとめきれなかった。

531日(水)(候補日の-5日)

この日の電話会議では、上陸予定日である65日(月)の天候が主題となった。ダンスタブルは五大湖からバルト海にかけて強い西風が吹いており、週末にかけて天候が悪くなるという主張を繰り返し、それに海軍本部も同調するようになった。ワイドウィングは、アゾレス高気圧の尾根がドーバー海峡に向かって伸びると推測しており、低気圧が発生しても高気圧の尾根が伸びる前に足早にドーバー海峡を通過すると判断していた。61日(木)の電話会談でも互いの異なる主張が繰り返されただけだった。

62日(金)(候補日の-3日)

観測は限られていたものの、62日になると低気圧が大西洋中部およびアメリカ東海岸で発生した。ダンスタブルは上層天気図から、これらの低気圧は今後発達すると予想した。彼らはドーバー海峡(ノルマンディー海岸はドーバー海峡のすぐそばにある)で予想される雲と強風と高波から作戦決行に反対した。ワイドウィングはアゾレス高気圧の尾根の延伸により作戦可能と相変わらず判断していた。チーフ気象士官のスタッグは、ワイドウィングの「純粋な楽観主義」とダンスタブルの「完全な悲観主義」の間で意見を一つにまとめることは困難と考えたようである[3]5日(実際には4日の夜更けから作戦開始)に作戦を決行するか否かの判断のタイムリミット(決行の24時間前)は翌日に迫っていた。アイルランド西端ブラックソッド・ポイントの観測点では、大西洋にある低気圧によって気圧が低下し始めていた。これは会議の参加者に強い印象を与えた。

 63日(土)(第1候補日の-2日)

早朝に行われた会議では、この日になっても意見が分裂したままだった。大西洋にはいくつかの観測しかなく、全容を知るには全く足りなかった。しかし、ワイドウィングの説を裏付けるアゾレス高気圧が強まっているという観測もあった。一方で、アメリカの五大湖付近では新たに別の低気圧が発生していた。ワイドウィングとダンスタブルの意見は、相変わらず乖離していた。海軍本部がワイドウィングの気象予報に味方し始めた。海軍本部は、アゾレス高気圧の尾根がドーバー海峡を北東に張り出して、多少の曇りをもたらすものの風は穏やかと考えた。ワイドウィングを率いていたイェーツは、会議では黙り込んだままだったが、その後でクリックとホルツマンに次の会議の前にダンスタブルに電話をして、彼らとの意見の相違を解決するように促した。

夕方の天気図が出来ると、低気圧が強まってアゾレス高気圧の峰が南にわずかに退行しているように見えた。夕方の会議ではワイドウィングの主張は変わらなかったが、海軍本部の意見はダンスタブル寄りに変わった。

 64日(日)(第1候補日の-1日:決断日)

上陸決行か否かは24時間前には決定しなければならない。最終判断のための電話会議は、この日の早朝午前3時から行われた。ダンスタブルと海軍本部は天候が悪化することで合意していた。しかし、ワイドウィングは改めて過去50年分の天気図を調べ直して、アゾレス高気圧の尾根が再び強まって、これがドーバー海峡への風と雲を伴った低気圧の接近を拒むために静穏であると反論した。しかし、前日にイェーツからの圧力を感じていたクリックは、最終的にダンスタブルと海軍本部による天候悪化の予報に不本意ながら合意した [4]。電話会議ではぎりぎりの所で合意が成立した。

午前414分に、チーフ気象士官のスタッグは最高司令部での会議で、電話会議での気象予報のブリーフィングを行った。その結果、上陸作戦(オーバーロード作戦)を24時間延期することが決定され、既に動き出している部隊については停止させることになった。最高司令部の外の天候は穏やかな好天だった。

65日(月)(第1候補日の0日:決行前日)

ところが、64日に大西洋上空の気象システムが大きく変わり始めた。それまで優越していた東西循環が衰えはじめ、南北の子午面循環が卓越し始めた。そうなると上層の偏西風が蛇行しやすくなる。これは大西洋西部にある低気圧の欧州への襲来が遅くなることを意味した。ワイドウィングが主張するアゾレス高気圧のドーバー海峡への伸長も予想され、これによってイギリス北方にある低気圧もノルウェーに向けて遠ざかると予想された。

64日(日)午後7時半から開始された電話会議では、大西洋西部にある低気圧の到来までには時間があると判断された。これらによってノルウェーに向かって北東進するイギリス北方の低気圧と東進する大西洋西部の低気圧との間に間隙が生まれて、ノルマンディー海岸はアゾレス高気圧の尾根に覆われるだろう。66日(火)の夜明けにノルマンディー上陸作戦は可能であるという意見で全員が一致した。それを受けて65日(月)午前415分から行われたSHAEFでの最高司令部会議で、66日(火)早朝の作戦実施が決定された。最高司令部の外は激しい雨風が襲っていた。

66日(火)(第1候補日の+1日:決行当日)

さて作戦の決行当日になった。イギリスの北にあってノルウェーに向けて北東進すると予想していた低気圧は、北東ではなくゆっくりと南東進し、ノルマンディーに近づいた。一方で、ワイドウィングが予想したアゾレス高気圧の尾根が延伸したのは、予想より南のスペインと南フランス上空だった。これは逆にノルマンディー地方に波を高める西寄りの風をもたらすことになった。これらによってノルマンディー地方は、予測したよりも悪天候と強風とになった[3]

 

NOAAによる194466日の地上天気図(部分)。赤枠はノルマンディー域の位置(クリックすると拡大します)。
https://library.noaa.gov/weather-climate/synoptic-map

作戦当日の天候は予想通りではなかったものの、天候は作戦に致命的な影響を与えるほどには悪化せず、なんとか作戦は決行できた。しかし当時の天気予報の精度から見ると、作戦可能の限界条件を超えた天候になった可能性も十分にあったと考えている。もしそうなっておれば、既に動き始めた作戦を止めることは容易でなく、大惨事に陥ったかもしれない。  

それでも当日の上陸の際には、オマハビーチで32台中27台の戦車が高波によって転覆し、干潮時に沖合で下ろされた兵士たちの中には高波で溺れる者もいた。上陸できた兵士たちも船酔い者が多かった。落下傘降下した部隊は、風に流されてロンメルが準備した内陸の沼に降下して水死したり、編隊がばらばらになって予定と異なった場所に着陸したりしたグライダーもあった。しかし、全体として作戦が成功したのは歴史が示しているとおりである。

  

ノルマンディー上陸作戦時の写真。「9. アンツィオ上陸作戦の予報」の写真と見比べると、海が荒れているのがよくわかる。https://ww2db.com/image.php?image_id=3405

 

ドイツ軍司令部での気象情報

上陸作戦は気象条件が重要な要因となるため、気象予測の重要さは迎え撃つドイツ軍にとっても同様だった。当時ドイツ軍は、航空機や潜水艦(浮上した気象観測が行えなくなっていた)によるものを含めて大西洋の気象観測点の多くを失っていた。しかし、米国陸軍航空隊気象局(JWC)は、ワイドウィングなどの米軍気象部隊だけでなく、英国軍やソ連軍にも暗号化した気象解析情報を流していた。ドイツ軍はその暗号を破って使っていたと考えられている[3]。またドイツ軍は、イギリスの飛行場での管制官と到着機との交信も傍受しており、それには視程や雲量などの情報も含まれていた。

第二次世界大戦における気象戦1)、(2)、(3)で連合国軍とドイツ軍による気象観測と暗号解読の攻防戦を述べた。連合国軍ほど気象情報は十分になかったかもしれないが、一般にはドイツ軍の予報はかなり正しかったことが分かっている。ドイツ軍の63日の天気予報では、「アゾレス諸島からフランスに達するこの高気圧の尾根の北側では、大西洋低気圧、または少なくともその一部が、今後数日間は中央ヨーロッパ北部に進み続けるだろう」と説明している[3]。そのため、ドイツ軍の主任気象学者レタウ少佐とそのスタッフは、64日以降の気象は、北大西洋からの新たな低気圧の影響で、侵攻を試みるにはあまりにも条件が悪いということで合意していた[1]。しかし、その根拠はあくまで地上天気図だった。

ノルマンディーを防衛する部隊の主任予報官は、それを見て64日にアゾレス高気圧尾根の張り出しは弱いと正しくみたのだろう。彼はノルマンディーを含むドーバー海峡の天候は悪く、連合国軍は610日頃まで上陸を試みることはできないだろうとノルマンディー地区防衛司令官ロンメルに報告した。64日、ロンメル司令官は休暇を取って、司令部のあるノルマンディー内陸のラ・ロシュ=ギヨンからベルリンへ出発した。ロンメルが休暇を取った以外にも、ドイツ軍ではこの時期に臨戦態勢を解いて視察や演習を行っていた。このため6日の連合国軍のノルマンディー上陸は、ドイツ軍にとっては奇襲となり、ドイツ軍部隊は混乱して反撃が遅れた。

上陸が行われた6日になると、ノルマンディーではワイドウィングが考えたほどアゾレス高気圧の張り出しは強くなく、気圧配置だけから見ると、むしろドイツ軍の予報の方が近かったのかもしれない。気象状況は微妙であり、予報を解釈する方の判断に依存していた面もあった。ドイツ軍最高司令部は、かなり正確な予報に基づいて誤った決断を下したようだという主張もある[3]

前述したように19445月は例年になく穏やかな好天が続いた。ドイツ軍から見ると、好天が続いた絶好の機会に連合国軍は上陸してこなかった。そのため、わざわざこの悪天候が続く期間に連合国軍は上陸して来ないとドイツ軍では考えた面もあったかもしれない。

 予報の功績論争

上陸日前後の総観気象の状況は異常に複雑だった。低気圧群は例年にない強さでの発達と移動を示し、これらの低気圧とそれに関連する前線の位置の不確実性が、この予報を極めて難しくした。いずれにしても作戦成功の要因の核心は、上陸日を65日から6日に延期したことだった。このことに対する異議はないだろう。

この上陸作戦の予報の成功に対して、連合国遠征軍最高司令官アイゼンハワーからと英国気象局長官ネルソン卿からチーフ気象士官だったスタッグを通してペターセンらに感謝状が贈られている。このことからペターセンらが大きな貢献をしたことは間違いない。

ところが、作戦成功の直後から、ある噂が新聞や雑誌を通してワシントンから各地に広がっていった。それは、英国気象局チーム(ダンスタブル)は気象状況から6日の上陸に反対したが米国陸軍航空隊チーム(ワイドウィング)がクリックのアナログ手法で天候回復による決行を主張した。土壇場で英国海軍チーム(海軍本部)も米国陸軍航空隊チームに賛同したため、上陸作戦の再延期を米国陸軍航空隊チームが救って6日に決行されたのが勝利の原因、というものだった。そしてクリックは英雄扱いされた [1]

しかし、この予報の功績はイギリスを含めて議論となった。この噂の出所はわかっていないが、ペターセンはクリック周辺から出たものではないと推測している。それは、彼がそれまで築いて生きたクリックとの人間関係と、クリックが戦後上陸作戦の予報に関して出した本「Sun, Sea And Sky」で6日の予報について触れていないためだった[1]。ペターセンはある意味でこの論争の真ん中にいてもおかしくなかったのだが、彼は「無名の方針」を貫いて、論争には加わらなかった。

クリックは1947年にカルテックを辞任し、民間の予報分野に進出した。その際に上陸作戦を成功に導いたという噂は彼にプラスに作用したようである。彼は各種イベントのはるか先の天候を予測して評判を得た。しかし、1950年代後半に、米国気象学会がクリックの署名入りの長期予報に関する記述が倫理規定に違反しているとの疑問を呈し、彼は学会を辞任した[4]

まとめ

ノルマンディー上陸作戦での気象予報の経緯には、さまざまな議論がある。当事者による回顧録もいくつか出ている。戦後に機密が解除された情報もあり、それらを用いた研究者による調査論文も多数ある。近年は再解析データを用いた気象状況の再現も行われている。ここでは[1]を主に参考にしたので、いろんな情報を精査した上での内容にはなっていないことを断っておく。

このノルマンディー上陸作戦での予報の経過は、後世の教訓ともなり得るさまざまな問題をも抱えている。ワイドウィングがこの上陸作戦を救ったという噂もまだなくなったわけではない。2026年にはノルマンディー上陸作戦での気象予報をテーマとした映画も作られており、この予報の経緯についての議論は、現在においても関心が高いものとなっている。

もし66日の上陸をさらに延期していれば、月齢の良い2週間後は大嵐だった。諸条件を考慮すると上陸は数か月後、あるいは1年後になっていたかもしれない。7月以降はドイツ軍がV型兵器を使い始めたため連合国軍はその対応にも追われた。ギリギリのタイミングでギリギリの気象条件で作戦は決行され、なんとか成功した。本書では上陸作戦の成功を「戦いの女神が連合国軍に微笑んだ」と書いたが、さまざまな幸運が重なって成功したと考えても不思議ではないと思う。

もし連合国軍の上陸作戦が延期されていれば、ドイツが戦争に勝つことはなかったにしてもソ連軍がどこまで進出するかによっては、例えばフランスも共産化するなど戦後の世界情勢は今とは大きく異なっていたかもしれないという指摘がある[4]。いずれにしても、この上陸作戦の成功は、気象が世界に最も影響を与えた出来事の一つということはできるだろう。

 (次は「実践の予報学者スベール・ペターセン(11) 戦後の気象学の再構築」)

なお、「実践の予報学者スベール・ペターセン(12)最後にいくつか補足 」でこの作戦の予報について、少し補足した。 

参照資料 (このテーマ共通)

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.
[2] J. Cox , (訳)堤 之智, 2013, 嵐の正体にせまった科学者たち, 丸善出版
[3] Anders Persson, 2020, Right for the Wrong Reason?A New Look at the 6 June 1944 D-Day Forecast by a Neutral Swede, AMERICAN METEOROLOGICAL SOCIETY, Bulletin of the American Meteorological Society, July 2020, 993-1006.
[4] John Ross, 2014, THE FORECAST FORD-DAY, And the Weatherman behind Ike's Greatest Gamble, LYONS PRESS.
[5] Robert C. Bundgaard, 1979, Sverre Petterssen, weather Forecaster, Bulletin American Meteorological Society, Vol. 60, No. 3, March 1979.