2026年10月23日金曜日

航空気象の発展

航空気象というのは、航空機の飛行のための気象学のことである。飛行機に乗る人は必ずお世話になっているはずだが、お天気番組には出てこないし、一般の人にはあまり馴染みがないかもしれない。しかし歴史的に見ると、気象学全般の発展にも大きな役割を果たしている。それを見てみたい。

20世紀に入った頃から大型飛行船の実用化が進み、また飛行機が発明された。これらは第一次世界大戦で長足の進歩を遂げ、第一次世界大戦後はそれらは旅客飛行などの商用にも使われるようになった。しかしその運行には大きな問題があった。それは上空の気象変化である。航空機は視程の悪化や乱気流を含む雲などの気象の変化に弱い。

第一次世界大戦までの天気予報は、主に総観天気図による気圧や風の変化に基づいて、低気圧とその周辺で天候が悪いことを用いて漠然と地上での天候を推測したものだった。それには低気圧は強さや形を変えず、一定の速度と向きで動くことが仮定された。

19世紀までは気象観測は、ごく一部の山を除いて地上でしか行われなかった。そのため、わずか数百mといえども上空の気象がどうなっているのかはわからなかった。19世紀半ば頃からは有人気球や凧などを用いて調査が行われたことがあったが、それは未知の領域の探検調査のための冒険に近いものだった(「高層気象観測の始まりと成層圏の発見」参照)。

20世紀に入るとゴム気球が発明され、無人気球に自記記録器を搭載した観測が行われ、上記のような成層圏の発見などが行われた。しかし、気球に搭載した自記記録器は、落下したものが運良く見つかってもその回収に時間がかかった。そのため、気球による上層大気の観測は一部の研究に限られており、天気予報には使えなかった。 

このようにリアルタイムで上空の気象を観測する手段がなかったため、上空の気象は地上での気象変化で推測する以外のことはわからなかった。しかも雲や視程などそれまで地上ではあまり問題とならない気象も飛行機の安全と密接に関わった。

第一次世界大戦末頃には航空機の発達によって上空の気象に対する重要性が増し、各国軍隊に気象部隊が設立されるまでになった。第一次世界大戦での航空の発展を受けて、戦争が終了すると民間航空の時代が訪れた。1919年のパリ講和会議では気象を含む航空の安全の確保がテーマの一つとなった。各国間で国際航路の法的根拠などを定めたパリ国際航空条約が締結され、各国が有する上空の領空権はここで確立された。また政府間組織として国際航空航法委員会(ICAN)が設立され、航空のための気象観測法やその結果を無線で国際交換する方法が決定された。

地上から手の届かない上空の気象予報に革命が起こったのは、1918年頃のノルウェーのヴィルヘルム・ビャークネスが率いるベルゲン学派による前線を用いた気象学の発展である。彼は第一次世界大戦での海上封鎖による母国ノルウェーの飢饉を、天気予報の精度を上げて農業生産と漁業生産を増加させることで乗り切ろうとした。そして、そのために政府の支援を受けて、1918年にそれまでにない密な気象観測網を設置して、観測結果を電報で気象予報センターに一元的に集めてリアルタイムでの気象監視と予報を行った。

その密な観測網によりわかったことは、風や雨が強くなる狭い帯状の境界があり、その地域を境にして気温や風向・風向などが大きく変わるということだった。そして、それは低気圧とともに移動した。

この天候が悪くなる寒気と暖気がぶつかる境界を、彼らは暖気と寒気を戦争での敵と味方に見立てたアナロジーによって「前線(front)」と命名した。この名称には第一次世界大戦での特徴であった塹壕戦が影響していた。この戦争では、塹壕によって敵と味方が接近した前線が数百km以上も続いてせめぎ合ったのが特徴だった。

このベルゲン学派による前線を用いた気象学によって、数千キロメートルにもわたる構造を持つ大きな低気圧でも、この前線の位置と移動速度がわかれば、天候が悪化する場所と時刻がそれまでよりはるかに正確にわかるようになった。

また同時に、寒気と暖気の境界は立体的な構造を持っていることがわかり、その傾きと方向がわかれば、上空での境界(つまり上空の前線)を予測できた。ベルゲン学派の前線を用いた気象学によって、上空の気象の風向や風速、狭い地域での天候の急変の可能性を予測できるようになった。これは航空気象に大きな進歩をもたらした。

当初は前述した高層気象観測の制限により、リアルタイムでの観測は雲の状態を使った地上からの目視で行われた。例えば温暖前線の接近は雲の高さと形態を見ればわかることが多かった。このため、気象台は今でも見晴らしの良い場所や高い場所に設置されていることが多い。

温暖前線の典型的な構造
 (J. BJERKNES and H. SOLBERG. (1921) METEOROLOGICAL CONDITIONS FOR THE FORMATION OF RAINの図13を一部日本語に改変)

さらに1930年頃からラジオゾンデによる無線を使ったリアルタイムでの高層気象観測が行われるようになった。上層大気は地上の地形による影響を受けにくく、規則的な変動をすることが多い。各地でのラジオゾンデを用いた観測によって、上層の偏西風の波としての振る舞いやその蛇行がわかるようになった。これは上層大気の構造解明に進展をもたらした。そして、この上層大気の変動が地上気象にも影響することがわかってきた。

さて航空気象に戻る。当初は、ベルゲン学派気象学の航空気象に対する利点はあまり理解されなかった。ベルゲン学派気象学者の一人、カール=グスタフ=ロスビーは、ベルゲン学派気象学の普及を兼ねて1926年にアメリカに留学し、米国気象局に入った(「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(2)」参照)。しかし当時の米国気象局は予報手法に対して保守的であり、ロスビーは「好ましくない人物(persona non grata)」と評されて米国気象局から追い出されてしまった。

しかし当時米国は民間航空路の開設に熱心な時代だった。航空路の安全のためには航空気象が不可欠である。ロスビーは民間航空財団に採用されて、アメリカの民間での航空気象の組織化に優れた手腕を発揮した(「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(3)航空気象への貢献」参照)。例えばロサンジェルスとサンフランシスコ間の航空路では、航空路の近くにいくつかの気象観測所を設置し、その情報を空港に定期的に集めて、航空路上の気象の要点をパイロットに伝えるなどの仕組みを作り上げた。これは気象による航空事故の防止に大成功を収めた。このため、米国気象局もこれを見習った仕組みを構築せざるを得なかった。ロスビーは1939年に米国気象局の長官補佐に就任し、米国気象局を改革した。

一方で第一次世界大戦後に、ドイツのウィーン学派ではベルゲン学派との間に学術上の確執が起こった。これはベルゲン学派の論文がドイツでの学術上の成果を十分に参照していないというものだった。これは一時期感情的な対立にまで発展した。しかし最終的には、1930年代半ばにドイツ空軍を統括したゲーリングがベルゲン学派気象学を採用したことにより対立は収まった。第一次世界大戦での敗戦によって一時期軍備を禁止されたドイツは、航空機の持つ利点を十分に理解しており、その運用のために気象学者を多数養成していた。第二次世界大戦前には学位を持った気象学者が2700名いたといわれている。ベルゲン学派気象学が発展したのは、航空気象にも対応できたためだった面がある。

 第二次世界大戦が始まると、航空機は武器として極めて重要な役割を果たすようになった。この運用には気象学の知識が不可欠だった。ロスビーは1941年にシカゴ大学に移って米国の4つの大学(シカゴ大学、マサチューセッツ工科大学(MIT)、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、カリフォルニア工科大学(CALTEC))で約8000人の気象士官の養成を主導した。彼らは卒業後に大西洋、太平洋方面に散って活躍した。

第二次世界大戦では、航空機の運用などを巡って気象の把握と予測が戦争の帰趨に影響した面があった。ノルマンディー上陸作戦での例は「実践の予報学者スベール・ペターセン(10)ノルマンディー上陸作戦」に書いたとおりである。

残念ながら戦前の日本では、ベルゲン学派気象学の採用には消極的だった。それはベルゲン学派気象学がヨーロッパ中・高緯度の温帯低気圧(Extra-tropical cyclone)を中心に発展してきたこととも関係があった。気象はある程度グローバルな現象であるにも関わらず、日本ではアジアでヨーロッパの理論を当てはめるのには慎重だった。

それには当時日本での研究の焦点であった台風や梅雨が関連しているようである。たしかにベルゲン学派気象学は台風や梅雨には当てはまらない。しかし、台風や梅雨のシーズン以外は温帯低気圧はしばしば日本を通過する。日本の中央気象台(気象庁の前身)では戦後にベルゲン学派気象学を採用し、それによる前線などはラジオやテレビの普及と共に瞬く間にお茶の間でもお馴染みになった。 

また戦前の日本では、航空気象という実用的な面での気象情報の利用は進んでいなかった。第二次世界大戦時にヨーロッパでは、ベルゲン学派気象学を用いた気象予報を用いていた。また爆撃機などを利用した気象観測機に気象測定器を搭載して気象学の専門家が搭乗し、地上観測地点がない大西洋上や敵の占領地域などを補う気象観測が行われた。さらに敵国の気象暗号通信を解読することによっても天気図が作成されていた(「第二次世界大戦における気象戦(2)暗号書の争奪戦 」参照)。それらによる気象情報に基づいて航空作戦が計画されていたことは想像に難くない。

しかし日本軍では、出発地と到着地の気象状況の観測による現状把握だけで、飛行途中の気象の予測はなかったようである。また、ヨーロッパのような広域での航空機を用いた気象観測体制もなかった(1942年9月から攻撃ルートに対して操縦者の目視による天候偵察は行われるようになった)。

その結果、太平洋戦争開戦時には、陸軍の飛行第27戦隊の襲撃機や飛行第12戦隊の双発爆撃機などが南シナでの悪天候によって、戦隊長機を含む20機が一度に大量遭難した。また海軍でも1944年3月には台風によって海軍乙事件(古賀連合艦隊司令長官などの遭難)などが起こった。何れも事前に悪天候の場所がわかっていれば、回避できた出来事だった。このように上空の気象情報の不足は航空機の移動を妨げ、稼働率を下げた。

第二次世界大戦後は、第一次世界大戦後にも増して民間航空の発展が顕著になった。大戦末期には今の国際民間航空機関(ICAO)の前身となる組織(PICAO)が組織され、まず大西洋航空路の安全性の整備が議論された。これには国際気象機関(IMO:WMOの前身)を代表してノルウェーの気象学者ペターセンが加わった(「実践の予報学者スベール・ペターセン(11) 戦後の気象学の再構築」参照)。

民間による大西洋横断航空路の開設には、航空路に対する効率的な予報と信頼できる支援サービスが必要だった。そのためPICAOの支援のもと、大西洋上での13隻の気象観測船の配備や遭難の際の厳密な手順が関係者によって定められた。これらの観測船による観測は、後の数値予報を開始する際には貴重なデータにもなった。PICAOは1947年に正式にICAOとして発足した。現在ではICAOは世界気象機関(WMO)とも協力して世界中での安全な航空航行サービスに関する基準と手順を定めている。

また1970年頃から米国では空港近くで航空機事故が多発した。この原因究明と対策に奔走したのが日本の藤田哲也である。彼の航空気象への貢献については「ミスター・トルネード 藤田哲也(6) 航空機の事故とダウンバーストの観測 」で述べたので、興味ある方は参照して欲しい。

彼の研究と貢献によって、米国では空港にドップラーレーダーを設置して、航空機への脅威となるダウンバーストを監視することが進んだ。日本の気象庁でも主な空港の航空地方気象台にドップラーレーダーを設置している。また空港にある航空気象観測所と合わせて、出発前のパイロットなどに航空路上の気象状況についての情報提供や助言を行って航空の安全に寄与している。





2026年6月16日火曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(12) 最後にいくつか補足

   (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

 

12.         最後にいくつか補足

ペターセンについて言えることは、信念を持っているが、態度は常に謙虚でつましいということである。これは幼い頃にノルドランドという自然が厳しい環境で育ったためだろうか?彼は母方の祖父の影響なのか自然の厳しさや人知を越えた何かを熟知していた。

彼はなんども周囲から「あなたの影響力はあなたが思っているより大きいのです」と説得されている。しかしその大きな影響力をむやみに振り回すことなく、周囲から説得されてやむを得ずか、自分の強い信念に基づいてのみ行動を起こした。そして、その結果については「あなたの功績はあなたが思っているより大きいのです」と言えるのかもしれない。しかし、後述するように人命を救えなかったことなどがあったことからなのか、自身のつましさを後悔することもあったのだろう。最後はニクソン大統領へ手紙で直接抗議して米国籍を返上した。

気象学ではしばしばプログノ(予後)などの医学用語が使われることがある。彼は自分が行っていることを「臨床研究」と呼んでいる。彼は気象の臨床研究に興味があり、基礎研究と応用の間にある境界のはっきりしない影の領域での仕事を望んでいた。彼が日々自分が行っている予報の実践から研究の種を見つけて研究することを、臨床研究と呼んでいることは、確かに言い得て妙である。

気象の臨床研究に興味があった彼は、「物事をありのままに見るためには、大量の残滓から数粒の金を分離することを学ばなければならない」と述べている[1]。彼はまさに日々の膨大な気象の臨床研究から数粒の金を分離し、それを気象学の進歩につなげてきた。純粋な理論研究を目指さなかった彼には、確かに「ペターセンの法則」のようなものはない。しかしこのブログで述べてきたように、彼が集めて蒔いた金の粒は、現代の気象学において確実に花開き、欠くことのできないものになっている。

最後に彼に関するこれまでのブログでは書き漏らした彼に関するいくつかのイベントについて補足しておきたい。

ソ連によるラップランド占領の抑止

戦争末期、ドイツ軍がノルウェーのラップランドから撤退し始めた。それに呼応してソ連がそこに進出する気配を示した。これをイギリスに亡命していたノルウェー代表団が懸念した。この件に関してはノルウェーの外交官は無力のようだった。ノルウェー代表団はペターセンと彼が持つ人脈を頼った。ペターセンは友人の科学産業研究省のエドワード・アップルトン卿と接触し、ペターセンとアップルトンはチャーチルの友人で科学顧問を務めるフレデリック・リンデマン(チャーウェル卿)とお茶をする約束をとりつけた。しかし政治絡みの話は微妙であり、そこではチャーウェル卿がラップランドの問題に興味を持っていたとしか記されていない[1]。結果として、ラップランドはドイツ軍の撤退だけで済んだ。 

 チャーウェル卿の写真
https://en.wikipedia.org/wiki/Frederick_Lindemann,_1st_Viscount_Cherwell

空電観測への貢献

ダンスタブルの上層大気部門にいた際に、ペターセンは空電(スフェリックス)に興味を持ち、オクスフォード大学のエドワード・アップルトン教授の門下生たちと協力して、北大西洋全域、ほぼ北米に至るまでの観測データを収集するための空電の観測網を構築に協力した。これは、戦時下で船舶からの気象通報が制限されている中で、大規模な総観気象の解析のための不可欠な観測データとなった。現在日本の気象庁ではライデン(LIDEN)と呼ばれる同じような雷観測網を運用している。

電子航法装置の実用化への貢献

ペターセンはイギリス空軍の夜間爆撃の予報を担当した。航空機の発達と戦争によって大型爆撃機が高空(高度3000m以上)を常時飛ぶようになったのは、開戦のほんの数年前からである。そのため、この高度の気象解析と予報というのは全く新しい分野だった。そして、この予報と電子航法装置によって夜間に爆撃機が精度良く飛行できるようになった。これらによって単一目標への夜間の大規模爆撃が初めて可能となった。電子航法装置については、「(6) ドイツ爆撃のための予報」で解説したとおりである。

彼が電子航法装置を開発したわけではないが、上層大気の予報と電子航法装置は車の両輪のようなもので、その利用には綿密な検証や組み合わせが必要である。そう考えると、第二次世界大戦でのペターセンのこの分野での功績は大きいと言えるだろう。

電子航法とは関係ないが、彼は1944年夏にハワイで講演した際に、ドイツ爆撃の際の教訓から将来の日本への爆撃における上層のジェット気流が及ぼす影響についても注意を喚起していた。しかしそれは当時ほとんど顧みられなかった。米軍が1944年末にB-29による日本爆撃を開始した際には上層での強い西風に驚かされ、この風により高空からの爆撃精度が落ちたとされている。

フレッシュマン作戦への関わり

ペターセンは、フレッシュマン作戦にも参加している。これは1942年11月に行われたグライダーを用いて工作員を送り込んでのノルウェーの重水工場破壊工作である。しかし破壊工作員34名が乗ったグライダーは、雲に突っ込んで行方不明となり、作戦は失敗した。グライダーは海上に墜落したとも、搭乗員はゲシュタポに捕らえられて処刑されたとも言われている。

 

 「フレッシュマン作戦」のターゲットなったノルウェーのリューカンにあった重水工場
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Vemork_Hydroelectric_Plant_1935.jpg

 ペターセンはこの作戦の予報にも関与していた。しかし彼この作戦で使用するグライダーの特性を知ったのは決行の直前だった。しかも気流から判断して天候が悪いことはわかっていた。ペターセンは気象状況が不適であることを提言したが、隊長は現地から来た「晴れている」という情報をもとに作戦を決行した。

ペターセンに技術的な落ち度はなかったが、これによって多くの人名が失われたことは、ペターセンに助言のあり方についての大きな影響を与えた。これがノルマンディー上陸作戦の予報の議論の際に教訓となっていたようである。

 

ノルマンディー上陸作戦時の気象予測に関する電話会議の補足

電話会議での流れは、基本的は「(10)ノルマンディー上陸作戦」で述べた通りなのだが、電話会議での白熱したやりとりになったと思われる下地を補足しておきたい。

まず最高司令部のチーフ気象士官はイギリスから出すことになっていた。ネルソン卿はスタッグは予報官ではなかったが、当時の英国気象局の幹部の一人であり、上陸作戦の責任と重圧に耐えられると判断してチーフ気象士官に任命した。スタッグは海軍本部の予報に満足していなかったが、自分用の気象解析チームを与えられなかったので、天気図を見る際にはポーツマスの最高司令部の近くにあった海軍本部を頼った。彼はチームのいずれか、あるいは合意された予報に基づいて、アイゼンハワーに提言するしかなかった。副気象士官のイェーツ大佐は気象の専門知識を持ち、外向的で冷静かつ強靱な精神を持った米国陸軍航空隊の軍人だった。

ペターセンは論理的で冷静沈着だったが信念を持っており、それを曲げる気はなかった。同僚のダグラスは優秀だったが、精神的にやや脆いところがあって興奮しやすかった。ワイドウィングのホルツマンは、クリックと同じカリフォルニア工科大学出身でわりと柔軟な態度であった[6]。しかしクリックは、陸軍航空隊アーノルド司令長官やカルテックのフォン・カルマンらのバックアップを受けて、自分のアナログ手法にかなりの自信を持っていた。

ペターセンはアナログ手法を否定しているわけではなかった。ただ使えるかどうかは状況次第なので、その時々でその手法がどこまで使えそうかをクリックらと顔をつき合わせて、詳細に協議したかったと思われる。そのためネルソン卿から予報の議論を電話会議で行うと聞いて、合意にはかなり困難を伴うという考えを持っていた。それは当然の考えだと思われる。

こういったバックグランドと性格を持った予報の専門家が電話会議で意見を一致させるのは、一般的にはたしかにかなり困難だっただろう。かなり白熱したやりとりもあったようである。チーフ気象士官スタッグはかなり苦しい立場に立たされた。しかし、強靱な精神を持ち冷静だった副官の軍人イェーツがそれをうまくカバーしたという意見もある。

なお、上陸作戦の諸々や電話会議でのやりとりは戦後かなり経ってから機密解除された。そのため、関係者が作戦の全体像や経緯を知ったのは、戦後かなり経ってからだった。関係者の回顧録のほとんどはその前の全体像がわからない段階で出版されている。なお、戦後この電話会議の一部がドイツのテレフンケン社の電話記録機に保管されていたことがわかっている[3]。暗号戦の深遠さを垣間見ることが出来る。

最後に、ペターセンがノルマンディー上陸作戦を救ったというつもりはないが、もし彼らがワイドウィングの予報に安易に妥協して、6月5日に作戦が決行されていれば、大惨事になっていただろう。5日は風力5~6(風速10m/s以上)の風が吹き、低い雲がノルマンディー地方を覆っていた。そうなれば、上陸前の重要な爆撃も、パラシュートやグライダーによる降下も不可能であり、上陸を強行すれば途中で上陸用舟艇が多数転覆し、海岸にたどり着いたとしても部隊や装備がバラバラで作戦の体をなさなかったかもしれない。

6月5日の当初の作戦予定日は強風による高波と低雲で、作戦の実施は実質的に不可能だった。月齢の適した2週間後の6月19~22日は嵐だった。しかもその悪天候の予報に失敗し、揚陸作業中の多くの船・桟橋などが転覆・破壊された。そう考えると、6月6日の決行がいかに奇跡的な幸運による成功だったかがわかるだろう。

 

6月19-22日の嵐で破壊されたノルマンディー海岸の人工埠頭
https://ww2db.com/image.php?image_id=5267

 (次は「航空気象の発展」)

 参照文献

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.
[2] J. Cox , (訳)堤 之智, 2013, 嵐の正体にせまった科学者たち, 丸善出版
[3] Anders Persson, 2020, Right for the Wrong Reason?:A New Look at the 6 June 1944 D-Day Forecast by a Neutral Swede, AMERICAN METEOROLOGICAL SOCIETY, Bulletin of the American Meteorological Society, July 2020, 993-1006.
[4] John Ross, 2014, THE FORECAST FORD-DAY, And the Weatherman behind Ike's Greatest Gamble, LYONS PRESS.
[5] Robert C. Bundgaard, 1979, Sverre Petterssen, weather Forecaster, Bulletin American Meteorological Society, Vol. 60, No. 3, March 1979.
[6] Orden, R.J., 2001, METEOROLOGICAL SERVICES LEADING TO D-DAY, Occasional Papers On Meteorological History No.3, The Royal Meteorological Society

2026年6月12日金曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(11) 戦後の気象学の再構築

  (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

 

戦後の気象学の再構築

ドイツとの戦争が終わった1945年5月に、ペターセンはノルウェーへと戻った。ノルウェーでは占領下でドイツ軍が、高層気象観測や空港予報官などに独自に優れた気象情報網を構築していた。戦争が終わった今、それらをノルウェー人によるシステムに新たに置き換えなければならなかった。それはペターセンらの指導により順調に達成された。

気象学は国際的なものである。戦後はノルウェーだけでなくヨーロッパ各国を含めた気象観測の国際秩序を再建しなければならなかった。戦前に気象学を国際的に束ねていた国際気象機関(IMO)は国際的なさまざまな課題を円滑に解決できる体制を持っていなかった上に、戦争中は機能を停止していた。その再開だけでも容易ではなかった。

しかし、戦中からこの状況を見据えて気象学の国際活動を活発に行っていた組織があった。それが暫定国際民間航空機関(PICAO)である。これは現在の国際民間航空機関(ICAO)で、Pは暫定の意味で平和時に条約が整備されればPは取れることになっていた。気象情報の整備は航空機の運用にとって極めて重要であり、戦後の気象学の国際的な活動に、まず航空界が乗り出したのは当然だった。

PICAOはモントリオールで会議を開催し、民間航空の取り決めを開始した。ところが、このPICAOの文書にIMOの活動が不活発であることが記載されていた。ある国際機関が姉妹機関の活動に否定的な言及をするのは異例のことである。この文言に英国気象局長官のネルソン卿が反応した。ペターセンは多忙で気乗りはしなかったが、ネルソン卿の依頼を受けてモントリオールでの会議に出席し、文言の撤回に成功した[1]。

この会議では今後の航空法の問題についてさまざまな討論が行われることになっており、ペターセンはあまりこういう問題に関わりたくないため消極的な対応を行っていた。しかし、ペターセンの名声は自分が思っているよりもはるかに高かった。彼はPICAOでの選挙で気象学部門の委員長に選ばれてしまった。結局、彼は気象学に関する航空行政にも関わることとなった。彼はネルソン卿を通してPICAOとIMOをつなぐ役割も担うことになり、これはIMOにとっても大きなメリットとなった。

ペターセンがPICAOでまず行ったのは、空路の安全を確保するための大西洋上の気象観測体制の整備である。ペターセンは他の委員と共同でこのためにラジオゾンデを用いた上層大気の観測船13隻を大西洋に配置する案を作成した。これは高額の資金と各国の支援を必要とする極めて野心的なものだった。これは母国ノルウェーを含む多くの関係国が、主に観測船の提供という形で支援した。また、他にも気象学、航法、捜索救助など、さまざまな手順について合意が必要だったが、ペターセンはこれらの合意を得ることにも成功した。

その後、この気象観測船を用いた観測網は、北大西洋での改善と北太平洋への拡張が行われた。これらによる観測は単に航空路上の気象の把握だけに留まらなかった。当時開発が始まりつつあった電子計算機を利用した数値予報には、世界の多くの場所での観測値が初期値として必要となる。特にこれらの洋上の観測がなければ、その後の電子計算機を利用した数値予報の発展は、大きな障害に直面していただろう。

この後、ペターセンはIMOでも名誉ある上層気象調査委員会の後継である高層大気委員会の委員長に就任した。彼はそこでイギリスで開発した上層大気解析手法の普及に努めた。 

ノルマンディー上陸作戦で最高司令部の副官を務めていたイェーツ大佐とペターセンは戦後に親交を深めていた。イェーツは将官に昇進し、1948年には陸軍航空隊気象局から発展した空軍航空気象局の局長となっていた。彼はペターセンに航空気象局の科学部門の部長になるように依頼した。ペターセンは中で小さな一つの研究グループを率いることでその役を引き受けた。しかし航空気象局に「研究」という言葉はなく、お役所らしく「評価」という言葉に変えられた。しかし、彼は大気循環に関する重要な論文や、ジェット気流波の伝播と成長に関する論文を執筆し、米国陸軍航空隊殊勲賞を受賞した。

ドン(ドナルド)・イェーツの写真
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lt._Gen._Donald_N._Yates.jpg

しかし、1950年には空軍に新たに研究開発司令部が置かれることになり、その補佐として4名の科学者が各プログラム分野を管理することになった。イェーツの後任の局長はペターセンにその役目の一つを要請した。ペターセンは管理職になる意思はなく、またシカゴ大学から教授の誘いを受けていた。ペターセンは丁寧に話をしてこの役目を断るとともに、シカゴ大学へ移った後の空軍の支援を仰いだ。ペターセンと空軍とは友好的な関係が続き、空軍はペターセンに資金援助をする代わりに、ペターセンは空軍のコンサルタントを務めた。

世界気象監視計画(World Weather Watch)などへの貢献

第二次世界大戦後、米国の科学界の再編に関してペターセンは、ロシア出身でハーバード大学の化学者として世界的に有名なジョージ・キスティアコフスキーの貢献を挙げている。彼は科学技術担当大統領特別補佐官となり、彼の努力と手法が米国の科学研究における長期的計画と国家目標の概要につながった。大統領がケネディになるとジェローム・ウィズナーが彼の後任となり、さらにこの活動は活発化した。

その一つが気象学の国際性のアピールだった。これは冷戦下の国際政治手法となった(詳しくは気候変動社会の技術史の公式解説ブログ「インフラとしての気候知識(2)インフラストラクチャのグローバル化」の「インフラストラクチャのグローバル化と東西冷戦」を参照)。ペターセンはウィズナーの指示で大気科学に関する10年計画(1961-1971年)を作成した[1]。

この報告書の中には世界気象監視計画(World Weather Watch: WWW)設立の案が含まれていた。これは世界の国々が協力する気象予測と気象制御のための世界規模の通信衛星システムの構築だった。この計画は米国政府の国際政治方針とも合致していたのだろう。1961年9月25日、ケネディ大統領は国連総会でこの計画について演説した。これは同年12月に国連総会で決議1721(XVI)として可決された。ペターセンは1962年に大統領の大気科学諮問委員会の委員となった。

この決議をもとに、世界気象機関(WMO)主導の下で世界気象監視(WWW)プログラムの構築が開始された(WWWについては同じく「WMOによる世界気象監視(WWW)プログラムの構築」を参照)。このWWWが現在の天気予報、すなわち数値予報の基盤の一つとなっている。また彼の10年計画に含まれていた国際大気科学プログラム(International Atmospheric Science Program: IASP)は、その後地球大気研究計画(GARP)が始まる流れを作ったと考えられている(GARPについては同じく「再解析データ」を参照)。

WWWとGARPは対となっており、多くの国々が参加したWWWでの現業観測とGARPによる調査・研究は相互に利用されることで、気象学の発展は加速した。現在では、WWWによって世界中から集められた気象観測値は、GARPが開発した再解析に用いられて、数値予報の際の初期値として用いられている(再解析については「データのグローバル化」と「再解析データ」を参照)。それだけでなく、WWWの観測値は気候再解析として処理され、その全球3次元格子点値はIPCCなどでの気候問題を議論する上での欠くことの出来ない情報となっている(気候再解析については同じく「インフラとしての気候知識(3)気候知識を生み出すインフラストラクチャ」を参照)。

このように気象の世界が大きく変わるきっかけに、ペターセンは大きな貢献をした。だだ彼は1963年に引退したので、WWWの実際の構築にはあまり関わっていない。しかし、彼の功績に対してWMOは金メダルを授与した。

ペターセンは1973年にニクソン大統領に抗議して米国国籍を返上した。その後、1974年にニクソン大統領がウォーターゲート事件で辞任したことは多くの人がご存じの通りである。そしてペターセンは、1974年12月31日に1965年から移り住んだロンドンで亡くなった。

 (次は「実践の予報学者スベール・ペターセン(12)最後にいくつか補足」)

参照文献

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.