2019年1月16日水曜日

古代中国での気象(4)二十四節気

 中国の気象の考え方で重要なものは、今でも時候の挨拶などで使われることが多い二十四節気である。二十四節気は太陽暦に基づいているが、その必要性には太陰暦(太陽太陰暦)が関連している。その基本には、もともと暦がなくともある日数を勘定するにはどうしたらよいか?ということがある。もちろん昼間(日出・日没)の回数を数えるという手段があるが、古代の人々にとってわかりやすいのは月の満ち欠けを利用する方法だっただろう。月は約30日周期(29日になる場合もある)で形を変えるので、例えば満月を見れば、新月から15日経ったことがわかる。このため、主に中国や日本では暦に太陽太陰暦が使われた。

 ところが大きな問題として、月の公転周期は地球の公転周期とは同期していないので、月の満ち欠けを使った太陽太陰暦は、太陽の公転に基づく1年とは規則的な関係がない。太陰太陽暦では12か月が約354日となり、太陽暦の1年とは合わないため、月(moon)を基本とする「月」と太陽を基本とする「年」を合わせるために、太陽太陰暦では不定期に閏月を入れるなど工夫がなされることになった(紀元前432年頃発見された「19年はほぼ235太陰月」というメトン周期を暦にしてもあまり実用的とは言い難い)。これは言い換えると、太陽太陰暦の日付は太陽によって決まる季節と一定の関係にないということである。季節の進行は生活だけでなく農業などにも重要な情報である。そのため、太陽太陰暦のもとで季節の進行を手軽に知る別な情報が必要となった。そこで使われるようになったのが二十四節気である。

 二十四節気は地球上から空の太陽の通り道である黄道を15度ずつ24等分(約15日間に相当)し、その分点に名前を付けたものである(定気法)。そのため二十四節気は実際の太陽の動き(夏至、冬至など)、つまりおよそであるが季節に基づいたものになる。二十四節気は、少なくとも紀元前239年頃の本「呂氏春秋」には、立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至の8つの節気が既に記されている。「古代中国での気象(1)初期の考え方」で挙げた「淮南子」にも既に二十四節気が記されている。
 
 これは季節の到来についてのおおまかな季節予報と考えることもできる。二十四節気は今日でも天気予報などで季節の進みを伝えるのにしばしば使われている。ただし中国の大陸的な気候に基づいているので、海洋の影響を受けやすい日本の気候とは必ずしもぴったり合わない部分がある。

2019年1月12日土曜日

古代中国での気象(3)気象観察

 古代中国では、気象の原因として陰陽思想に基づくものが多かったが、中には観察に基づいたと思われるものもあった。後漢の下級役人であった王充(27年~97年頃)は、陰陽思想や災異説などの迷信を批判し、合理的な考えを尊んだ。自然についても合理的な観察に基づいて、例えば雲の発生と雨との関係を「論衡」の中の「説日」において次のように述べている。
 
王充
「見雨從上集,則謂從天下矣,其實地上也。然其出地起於山。(中略)雨之出山,或謂雲載而行,雲散水墜,名為雨矣。夫雲則雨,雨則雲矣。初出為雲,雲繁為雨。」[1]

日本語訳では、「雨の上より集るを見れば則ち天より下ると謂はんも、其の実は地より上るなり。然も其れ地より出でて山より起るなり。(中略)雨の山を出づるには、或ひは謂へらく、雲、載せて行き、雲、水を散じて墜る、名づけて雨と為す、と。夫れ雲は則ち雨、雨は則ち雲なり。初めに出づるを雲と為し、雲繁くして雨と為る」[2]となる。

 これは、地から水が上って山にぶつかって雲となり、雲が集まって雨となるという今日から見ても合理的な考えであった。

[1]https://ctext.org/lunheng/shuo-ri/zh
[2] 小林春樹. 古代中国の気象観・気候観の変遷と特色. 大東文化大学. 出版地不明 : 東洋研究所, 2002. 「東洋研究」第143号.

2019年1月10日木曜日

古代中国での気象(2)天人相関思想

 儒学者の董仲舒(紀元前176年-紀元前104年?)は、君主の専制的権力を意義づけるために、「天人相関思想」に基づく災異説という新しい統治のイデオロギーを提示した。これは君主によって政治が悪化すれば、天はそれを咎めて災害を起こすというものである。天変はその前兆とされたため、統治者は常に天を観察して、天に何か異常があると前兆としての意味を読み取って、厄災を免れるために謹慎や読経、厄払い儀式など政治にそれを反映させる必要があった。そのため、天の意思である天体の動きを観測してその位置や食などの異常の有無の確認と、異常の際のその解釈は為政者にとって重要な仕事となった。これは一種の占星術であった。君主は何かあると神官や占星術者に相談してその意見にしたがって政治的決断を下した。天文学者や占星術者は、極めて力を持つ政治顧問となった [1]。


董仲舒

 前漢の武帝の時代に仕官、太史令となった司馬遷は、紀元前91年に史記「天官書」を編纂した。天官書には、雲の色、風向、雨、気温などの状態、月、惑星の運行を使って干ばつや作物の豊凶占う方法 [2]とともに、天の異常の際にそれがもつ意味が詳細に記述されている。もし天体に異常があると、それに対応する職位や地域に影響があると考えられ、それを特定して回避するための祈祷や祭祀が行われた。そのようにして気象を含む自然の動向の解釈や占いは、現実の政治と深く関わっていった。そのような祭司は政府の中で天文や気象を司る担当者の大切な仕事となった [2]。また、天人相関思想によると、天が人に影響するだけでなく人の気も天の気に影響すると考えられ、それが雨乞いなどの原理となった [3]。


司馬遷

 時代が下ってくると、占星術の解釈の一部は天体の状態などの実体をも離れ、「暦注」などで予め決めておく簡便法がとられるようになった。そうすると天体を観測する必要もなくなり、もはや占星術からも離れて俗信や迷信となっていった部分もあった [1]。先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口を表す六曜もそういった暦注の一つである。これらの考えは近世になって西洋の科学的な考えが入ってくるまで長く続いた。今日でもこのような歴注を記しているカレンダーがあり、人によっては行動に影響を及ぼしている。

[1]中山茂. 占星術 その科学史上の位置. 東京 : 朝日新聞社, 1993. ASIN: 4022607602.
[2]田村専之助. 中国気象学史研究下巻. 三島市 : 三島科学史研究所, 1981.
[3]荒川紘. 天の思想史. 出版地不明 : Shizuoka University REpository, 2001. ページ: 22, 人文論集. 51(2), p. 1-22. doi.org/10.14945/00000405.

2019年1月8日火曜日

古代中国での気象(1)初期の考え方

 古代中国での気象の考え方は、分量の関係で本には入れなかった。そのため、いくつか簡単に補足しておきたい。

  中国古代の殷では「帝」は地上を支配する天の神であり、干ばつによる飢饉などを起こすことによって自然と人間に対して絶対的な権力をもつと考えられていた。山や川も降雨や収穫に影響する自然神として祭祀がおこなわれていたが、帝は自然神の中で別格の存在であり、殷の王はその直系の子孫であるとされていた [1]。 

 ところが、その自然神の中の「天」がだんだん特殊な存在となり、天そのものが「帝」より超自然的な力を有すると考えられるようになった。紀元前1027年に殷帝国を滅ぼした周王朝(紀元前1027年?~紀元前256年)は、帝の子孫である殷を滅ぼしたことで、その正当性を問われることとなった。殷を滅ぼした周王朝は、「天」の力が「帝」より勝るとすることによって、殷を滅ぼしたことを「天命」と唱えた。そして天には王朝の交替をも決定する役割を与え、「天命」によって徳ある者が「天子」として王位につき、徳を失った王は失脚すると唱えた[1]。 


劉安

 一方で、風や雨をもたらすものは「気」によると考えられていた。計倪子(紀元前4世紀ごろ)では"風は天の気であり、雨は地の気である。風は季節に従って吹き、雨は風に応じて降る。天の気は下降し、地の気は上昇する" [2]と記されている。前漢時代(紀元前206年~紀元8年)に、中国での天の科学と哲学は一つの絶頂期を迎えた。紀元前160年頃に、高祖の孫で淮南王となった劉安(紀元前179年-紀元前122年)は「淮南子」を編集した。その基本的な考え方は陰陽説に基づいており、「陰と陽に大別される2つの気が凝縮、分離、循環することで万物の生成・消滅などの変化がおこる」というものだった。雨、雷、雪などの気象、洪水や干ばつなどの災害も陰陽説に基づいた天と地の気に起因するとされた [1]。


 [1]荒川紘(2001)天の思想史. Shizuoka University REpository, 人文論集. 51(2), p. 1-22. doi.org/10.14945/00000405.
[2] 鈴木善次. 第24回天気現象研究の足跡. 科学の歩みところどころ. (オンライン) https://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/kori/science/ayumi/ayumi24.html.

2019年1月3日木曜日

ケッペンについて2

 ドイツのマールブルグ大学で天文学と物理学を教えていたアルフレート・ウェーゲナー(Alfred Lothar Wegener, 1880 -1930)は、気象学者でもある。彼は1911年に大気熱力学の本を書いた際にケッペンにその校閲を依頼した。依頼を受けたケッペンはウェーゲナーを自宅に招き、ウェーゲナーは本を校閲してもらう間、しばらくケッペン宅に滞在した。ウェーゲナーはそこで知り合ったケッペンの令嬢エルゼと結婚した。つまりケッペンはウェゲナーの義父となった。
アルフレート・ウェーゲナー

 ウェーゲナーは1915年に有名な「大陸移動説(theory of continental drift)」を発表した後、1919年にドイツ海洋気象台に入って、引退したケッペンの後を継いた。そこでウェーゲナーは古気候を研究し、ケッペンとともに有名な「地質時代の気候(Die Klimate der geologischen Vorzeit)」を出版した。これはウェーゲナーの大陸移動説を補強する基礎データになったともいわれている。

 ウェーゲナーは1925年にオーストリアのグラーツ大学の地球物理学と気象学の教授となったが、1930年に3度目のグリーンランド探検の途中で遭難し消息不明となった。

 本の7-3「暴風警報に向けた体制の確立」で述べたように、日本の測候所を組織化して警報発表体制を作ったのはお雇いドイツ人エルヴィン・クニッピング(Erwin Knipping, 1844-1922)だった。彼は日本の気象予報が独り立ちした後、1891年に帰国してケッペンがいるドイツ海洋気象台に就職した。クニッピングの令嬢はケッペンの令息に嫁いでいる[1]ので、ウェーゲナーとクニッピングは互いにケッペンの子供の義父ということになる。なおクニッピングは1922年にキールで79歳の生涯を閉じているので、1930年のウェーゲナーの遭難を知らないはずである。

[1]岡田武松(1949) 気象学の開拓者,岩波書店

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