2026年5月22日金曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン (5)  米国のMITへ

 (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

 

5.         米国のMITへ

 

アメリカへの一時訪問

ペターセンはベルゲンへ戻った後、気象予報のために嵐の動きと発達の速度を計算する方法を開発することにした。しかしそれは物理学の式に基づいたものではなく、前線や等圧線の動きを微分して、気象システムの動きや強度の変化を決定するものだった。しかし彼は、数値予報の前に初めて気象予報を実用的な定量的計算へと発展させるための重要な一歩を押し進めた。

ペターセンは、1931年にヤコブ・ビヤクネスの後を継いでベルゲン予報センターの所長になった。1933年2月1日にアイスランド付近に低気圧があった。ペターセンは、今後その低気圧の進路上で周囲の気圧勾配が狭まり、低気圧がハリケーン並に発達すると予測した。北海には多数の漁船が出漁していた。また停泊していた船も風向によっては被害を受ける恐れがあった。さらに強風による火災のまん延も心配された。

ペターセンは直ちに暴風警報を発表した。果たして2月3日にはハリケーン並の北西の強風が吹き荒れた。多少の被害は出たが、それは陸上施設のものだった。漁師、港湾局など海に関するすべての人は警報に従って可能な限りの予防措置をとっており、被害はなかった[1]。

この暴風雨の様子と警報の発令、被害の状況は、多くの新聞で報道された。北欧でこれほど強く発達する低気圧は珍しかったが、それによる被害が少なかったことはもっと珍しかった。この時の気象状況をペターセンは、1933年に論文にして発表した。この論文がペターセンの評価が世界的に広がるきっかけとなった。

1933年2月3日12:00GMTの天気図。強力に発達した低気圧がノルウェー北部に接近していることがわかる。天気図はNOAAの再解析による。https://www.wetterzentrale.de/en/#google_vignette


ベルゲン学派では極前線理論を提唱しており、この理解とベルゲン学派の気象予報を習得するために多くの外国人がベルゲンを訪れていた。ペターセンは、これらの多くの外国人気象学者たちと交流があった。1933年にベルゲン学派を訪ねてきた。一人は、カナダ気象局のアンドリュー・トムソンである。彼は後にカナダ気象局の長官となって、北米の気象学の近代化に貢献した。

もう一人は、アメリカ海軍のライケルデルファー中佐だった。彼はアメリカに留学したロスビーの友人である(このブログ「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(2)」を参照)。それには航空機の操縦経験があった当時の海軍航空局長アーネスト・キング少将の影響があった。キング提督は、アメリカ海軍で早くから気象学の普及に努めてきた一人だった。

キングは、ライケルデルファーやロスビーを通じて、航空機運用の際のベルゲン学派気象学の重要性に気づいていた。後に第二次世界大戦が始まると、キングは米国の統合参謀本部の海軍作戦部長として、ドイツ打倒ファーストという周囲の抵抗に屈せず日本軍への早期反攻を強硬に推進し、日本軍が油断していたガダルカナル島への上陸を指図することとなる。彼のようにかつてのパイロットとして気象を重視した航空戦に通暁した人物が、米国海軍のトップとして戦争を指導していたことは注目しておく必要がある。

また、米国海軍大学校大学院で気象学の教官となるピート・ヘイルは、ヨーロッパの気象学者を米国に招聘するという役目を担ってベルゲンに留学してきた。彼はペターセンに白羽の矢を立て、ノーフォーク海軍基地とサンディエゴで2か月間の気象学の講義を行うように要請した。

1935年にペターセンは講義を行うために米国へ一時的に渡った。ノーフォークで行った講義ノートは整理されて、キング提督の序文入りで本にまとめられて、非公式に広く配布された。これはさらに手を入れた形で1940年に「Weather Analysis and Forecasting: A textbook on synoptic meteorology」という予報の教科書としてまとめられて出版された。これは戦後に改訂されて多くの国々で出版された。

このブログ「キスカ島撤収-「ケ」号作戦(4)気象予測の作戦への利用」で私が述べた竹永少尉による前線解析は、ペターセンの1940年の教科書を読んで会得したものと考えられる。戦時中の日本では、ベルゲン学派気象学の使用は例外的だった。米海軍でのペターセンの講義は好評で、この講義が終わった後もペターセンは米国に引き続き滞在し、カリフォルニア工科大学と米国気象局などで数か月間講義した。ペターセンはもっと簡単な啓蒙書の必要を感じたのか、この頃「天気予報入門」という別な本も書いている。

一つ面白いエピソードを記しておく。カリフォルニア工科大学(カルテック)滞在中にペターセンは、学長でノーベル賞受賞者のロバート・ミリカンに会った。宇宙線の研究のために長く高層気象観測を行っていたミリカンは、とある軍曹と賭けをした。ミリカンは高層では地球自転の影響で常に西風が吹くとしたのだが、その軍曹は東風になることがあると述べたのが賭けの内容だった。ところが実際に東風が吹いてその軍曹が賭けに勝ったのだった。ミリカンはその理由をペターセンに問うた。ペターセンもその理由はわからず、亜熱帯高気圧が北上したためではないかと答えるのが精一杯だった。現在ではこの現象は成層圏風の準二年振動としてよく知られている(このブログ「成層圏準二年振動の発見(1)~(4)」を参照)。

ペターセンは、カルテック滞在中に同校教授のフォン・カルマンと知り合いになった。カルマンは流体力学や航空工学の権威である。1933年に米海軍飛行船「アクロン」の墜落によって73名の飛行士が死亡するという大事故が起こった。カルテック学長のミリカンとカルマンは航空機の安全性に対する実用的な意義からカルテックに気象学科を設立した。

カルテック滞在中にペターセンは、カルテック気象学科の教授であるアーヴィン・クリック博士と会った。ペターセンは1934年にベルゲンを訪ねてきたクリックに会ったことがあった。ペターセンはクリックのことを愉快な人物であり、非常に有能で直感的な予報官と評している。またクリックは映画産業に顔が利いたため、ペターセンは彼を通して映画産業にも多くの知己を得たと述べている[1]。

アーヴィング・クリックのこと

後にイギリス空軍にいたペターセンと米国陸軍航空隊のアーヴィン・クリックとは、ノルマンディー上陸作戦時の予報で議論を戦わせることになるので、ここで彼の紹介を行っておく。

クリックはカルフォルニア大学物理学科出身だったが、彼はまずピアニストとしてデビューした。しかし思ったほど売れなかったらしい。彼は1929年の大恐慌までは、ラジオ局と証券会社で仕事をしていた。その後義兄の気象学者ホレス・バイヤースの影響で気象学に関心を向けた[2]。

彼はカルテックで大気の構造を教えていた地震学者ベノ・グーテンベルクと航空工学者であったフォン・カルマンの下で勉強した。彼は1934年に学位を受けた。クリックは利口で、説得上手で、楽観的で、自信家で、人を虜にすることが得意な性格だったようである[2]。学長のミリカン、グーテンベルク、カルマンはクリックを気に入り、カルテックに設立した気象学部の教授にクリックを据えた。それまで米国ではMITにロスビーが開設した気象学科があったが、これによって米国で2つ目の気象学科が誕生した。

クリックは地上天気図から新しいアナログ手法による予報手法を開発していた。アナログ手法とは、現在の天気図に似た過去の天気図を探し出して、それを参考に予報するやり方である(本来アナログとは類似物という意味である)。クリックはカルテックではカリフォルニアの映画産業に撮影用の天気予報を売り込んでいため、映画界にも広く顔が利いた[2]。

また、気象に造詣の深いミリカンを介してか、クリックは近くの基地に勤務していた陸軍航空隊のヘンリー・アーノルド大佐にも自分の予報技術を売り込んだようである。アーノルドは彼を気に入り、自分が陸軍航空隊司令長官に就任した後も彼を重用した。アーノルドは米国陸軍の航空界に絶大な権力を有していたため、ワシントンの陸軍航空隊気象局ではアナログ手法による予報が主流となった。

マサチューセッツ工科大学(MIT)のロスビーは力学を用いた正攻法で気象学に挑もうとしていた。しかし、カルテックのクリックが開発したアナログ手法は、力学とはかけ離れた統計的な概念をも用いたものであり、ロスビーはこれを嫌悪していた。ペターセンは当然力学を用いたロスビーに近い立場だった。ペターセンはビジネス関係者からクリックがアナログ手法としてペターセンの手法を用いているという噂を聞いた際は、それに嫌悪感を抱いている[1]。動きがゆっくりしている上層大気を用いた解析は、専門家外から見るとアナログ手法と区別がつかなかったのかもしれない。

第二次世界大戦後のノルマンディー上陸作戦での気象予報について、理論派のペターセンとアナログ手法のクリックとの対立として語られることがある。その方が物語としてはおもしろいのかもしれないが、クリック個人に対してペターセンは、それほど悪い感情を持っていなかったようである。ノルマンディー上陸については、別のところで解説する。

1936年にペターセンはようやくノルウェーへ戻った。1933年の論文が評価されて彼は国際気象機関(IMO)の予報、海上気象、高層気象の委員会に順次携わるようになった。戦争の足音が近づいてきていた。彼はIMOの委員として数多くの気象関係の会議に出席した。1939年夏には戦争直前のベルリンでのIMOの海上気象委員会の会議に出席した。

ここでペターセンは、ドイツの気象学者リヒャルト・ハーバーメールから、ドイツには2700人の気象学者がいて、そのほとんどが博士号を持っていることをこっそりと聞いた[1]。また散歩のついで、ヒトラーがいる首相官邸の見学にも成功し近くまで行ったようだが、ヒトラーには会っていない。この時参加した会議で、ペターセンはIMO海上気象委員会の委員長に選出された。
 

MITへの赴任

ペターセンは1935年に米国に渡った際に、米国気象局長官であるウィリス・グレッグから、米国気象局で副長官として働いてみないかと声をかけられた。ペターセンはこの話に興味を持ったようである。しかし、当時はさまざまな理由により、この話を断らざるを得なかった。

1938年にグレッグは亡くなり、後任の気象局長官に1933年にベルゲンを訪問したライケルデルファーが就任した。ライケルデルファーはマサチューセッツ工科大学(MIT)の教授だったロスビーを局内改革の副長官として招聘した。ロスビーは後任の教授にペターセンを推薦した。ペターセンは迷うことなくこれを引き受けた。もしペターセンが米国気象局の副長官を引き受けていたら、立場がロスビーとは逆になっていたかもしれない。しかし、両者は仲が良く、立場や地位に拘るような性格ではなかった。

1939年、ペターセンはマサチューセッツ工科大学(MIT)へ赴任し、そこの気象学の教授となった。ノルウェー気象局のベルゲン予報センター長は休職の扱いとなった。ペターセンにとって、MITの雰囲気やスタイルはアカデミックなヨーロッパの大学とはかなり違っていたようである。MITはその名の通り技術系の大学である。しかし、基礎学問やアカデミックな教育の最前線でもあった。研究室に籠もった教授はおらず、民間企業のコンサルタントなども自由に務めていた。ペターセンも風力発電の企業に助言を行っている。

一方で学生もヨーロッパのように学究的な知識を求めているとは限らなかった。学生の大学でのコース選択は、多くは就職の際の条件に関心があった。しかし、ペターセンは学生たちをいつも素直で気負いがなく、自分が何を求めているかを理解し、それを達成するために努力していると見ていた[1]。これはアメリカ人の多くが持っている典型的なプラグマティズム的な発想を示しているのかもしれない。

1939年に戦争が始まると、ペターセンは陸軍省からドイツ軍の気象学に関する情報提供を求められた。彼は戦前にドイツの気象学者ハーバーメールから聞いた「ドイツには2700人の気象学者がいて、そのほとんどが博士号を持っている」という話をした。陸軍ではこの話を深刻に受け止めたようである。間もなく陸軍航空隊から気象士官養成のための特別コース設置の打診が来て、MITにそのコースが設置されることになった。

米国気象局にいたロスビーもこの話に興味を持ち、陸軍や海軍と協力して他にもシカゴ大学、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にも同じようなコースが設置されることになった。これによって大戦中に陸海軍合わせて数千名の気象士官が急速養成されることになった。

ノルダール・グリーグの訪問

1941年には親友であるノルダール・グリーグの訪問を米国で受けている。ノルダール・グリーグは作家で詩人であり、作曲家エドヴァルド・グリーグの遠い親戚でもある。ノルダールの妻ゲルトは、女優でありノルウェーのハーコン国王とも親交があった。ドイツに占領されたノルウェーの外交戦略の一環として二人は米国を訪問していた。

ノルダールは自然科学に興味があり、かつてベルゲン学派を訪れた際に、ペターセンと知り合いになっていた。ノルダールはノルウェーの戦意高揚として映画製作を考えており、その主人公は嵐の解明に立ち向かうノルウェーの気象学者だった[1]。ひょっとしたらペターセンがモデルだったのかもしれない。しかし、ノルウェー的な純粋芸術に近いストーリーは商用主義のアメリカでは直ちに映画として実現するのは難しかった。

彼は1943年に戦争を取材する特派員としてベルリン爆撃に参加し、その際に搭乗機が撃墜されて亡くなった。その爆撃の気象予報を担当していたのはペターセンだったが、撃墜された爆撃機にノルダールが乗っていたことは後で知ったようである。

ノルダール・グリーグと妻のゲルト・グリーグの写真
https://en.wikipedia.org/wiki/Nordahl_Grieg#/media/File:Portrett_av_Gerd_(1895-1988)og_Nordahl_Grieg_(1902-1943).jpg


参照資料 (このテーマ共通)

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.
[2]J. Cox , (訳)堤 之智, 2013, 嵐の正体にせまった科学者たち, 丸善出版

2026年5月16日土曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン (4) 北極探検への関与

(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  
 

4.  北極探検への関与

ペターセンはトロムソの地球物理学研究所に職を得たが、そこはノルウェー北部と隣接する漁場だけでなく、北極圏全体の気象業務を担っていた。ペターセンは早速ノルウェー北部の予報作業に携わらなければならなかった。漁師たちは早朝に出航して一日中漁を行うため、午後7時に電報局が閉まる前に翌日の気象予報を届けなければならなかった。ただ同僚が2人いて、北極圏での数年にわたる予報経験を既に持っていた。ペターセンは、ベルゲン学派が開発した科学的な手法に関する知識で、これを補った。最初の1925年のシーズンは、うまく乗り切ることが出来た。ところが、その後思わぬ事業に巻き込まれることになった。それは北極探検のための予報だった。

北極圏横断飛行(1926年)

北極・南極探検の大御所アムンゼンは北極を最初に訪れ、また南極点に最初に旗を立てた人物である。彼は1925年には飛行機を使って北極点に到達した。翌1926年に彼は、飛行船でノルウェーから北極点を経由してベーリング海峡の東にあるアラスカのノームに到達しようと考えた。その飛行は従来の飛行船では到達困難と考え、彼は新しい飛行船「ノルゲ」を製作した。そして、その船長を飛行船の権威で軍人であるウンベルト・ノビレ、副船長をノルウェーの海軍士官であるライザ=ラーセンが務めた。ラーセンは後にペターセンに何度も大きな影響を与えることになる。そして彼らの冒険を気象学者のフィン・マルムグリーンが飛行船に同乗して支援した。 

アムンゼンの写真
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Nlc_amundsen.jpg

 ペターセンは、トロムソの地球物理学研究所から彼らの冒険のために予報を提供することになった。1926410日にローマを出発した飛行船「ノルゲ」は、57日にスピッツベルゲン島のキングス・ベイに到着した。アムンゼンたちを乗せたノルゲ号は511日朝にノームに向けて出発した。数少ない極域の観測点の観測から、極域は高気圧に覆われて天候は良いが、緯度が下がるアラスカ付近では、東アジアからの低気圧の接近で天候が悪くなりそうなことがわかっていた。

  

北極点を経由したノームまでの地図 

この飛行は大々的に報道されていたこともあり、アラスカへの低気圧の接近がわかっていたにもかかわらず、アムンゼンはこの横断飛行を強行した。スピッツベルゲン島から北極点までの飛行は順調だった。飛行船「ノルゲ」は512日に北極点に到達し、上空から旗が投下され、飛行船は付近を周回した。この前にも北極点に最初に到達したという報告が何人かによってなされているが、このノルゲ号によるものがもっとも確からしいと考えている人も多い。

しかし、その後飛行船「ノルゲ」がベーリング海峡に近づくと、予報通り天候が悪化した。出発後70時間近く経っていた。ペターセンは当時これほど長い先を予報しようとしたことはなかったと述べている[1]。低気圧の中心はノームの南にあった。飛行船では、予報通り北東からの風が強くなり、悪天で船体が着氷し始めた。514日にノビレは巧みに飛行船を操り、ノームの北方のエスキモーの村にほとんど無傷で氷上着地させ、そこで横断飛行は終わった。その後の強風で損傷したため、ノルゲ号はその後の探検には使われなかった。また、アムンゼンとノビレの関係も徐々にこじれて悪化していったようである。

 北極点探検飛行(1928年)

北極点征服はいくつかの隊が成功を報告していたが、北極圏全体はまだ人類にとって未知の世界であり、世界中の人々が関心を抱いていた。そのためか、イタリアのムッソリーニが北極上空の征服を企んだ。当時イタリアは水上機レース(シュナイダー杯)で覇を競っており、世界の航空界をリードしていることを北極上空でも示したいという欲望もあった。

この北極点探検の目的は、北極点への到達と広範囲な探査、そして一連の地球物理学的測定が名目だった。今度はノビレが隊長となり、新しく飛行船「イタリア」が製作され、探検の拠点であるスピッツベルゲン島のキングス・ベイには母船「チット・ディ・ミラノ」が配備された。しかし「チット・ディ・ミラノ」は老朽船で設備も不十分だった。飛行船「イタリア」は192856日にキングス・ベイに到着した。

しかし母船である「チット・ディ・ミラノ」の乗務員と「イタリア」とのコミュニケーションは円滑でなかった。これらをペターセンは独裁国家イタリアの官僚主義と個人的な確執によるものではないかと推測している[1] 

飛行船「イタリア」(Bundesarchiv, Bild 102-05738 / Georg Pahl / CC-BY-SA 3.0https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2_(%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E8%88%B9)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bundesarchiv_Bild_102-05738,_Stolp,_Landung_des_Nordpol-Luftschiffes_%22Italia%22.jpg

 飛行船「イタリア」は511日と12日に北極圏に向けて離陸したものの、11日は船体着氷ですぐに引き返し、12日は北極圏近くまで到達したが、現地の吹雪と突風で何ら成果を上げることなく引き返した。

522日に再び探検飛行を行う予定だった。この日はスピッツベルゲン島の北方に低気圧があった。トロムソの地球物理学研究所のペターセンは、スピッツベルゲン島の北方の低気圧を避けて、往路も帰路も西方のグリーンランドを経由して北極点と往復することを勧めた[1]

飛行船「イタリア」は、522日朝4時半にキングス・ベイを出発し、いったん北方へ向かったが吹雪に遭遇したため、ペターセンらの助言に従って西のグリーンランドへ向かってから北極点を目指した。飛行船「イタリア」は524日に北極点に順調に到達し、上空で記念式典が開催された。

ところが帰路はペターセンが勧めていた航路をとらず、北極点からなぜか嵐を警告していた地域を通ってまっすぐスピッツベルゲン島へ向かった。飛行船「イタリア」は25日朝に、あと2時間でキングス・ベイへ到着するという無線を最後に連絡を絶った。

飛行船「イタリア」はキングス・ベイから300km北東に墜落していた。墜落時に飛行船は2つに分裂した。ノビレ、マルムグリーンら9名は飛行船片方の地上に落ちた部分に残された。残り6名は飛行船のもう片方に残されたまま再び吹き上げられて飛び去り、そのまま行方不明となった。吹き上げられた飛行船の片方は、飛び去る前に積んでいた多くの物資を地上に投下しため、地上に残された人々はそれで飢えと寒さを凌げることができた。地上に落ちた予備の無線機も正常なまま見つかり、ノビレたちは救助要請の無線を発信した。

 

飛行船「イタリア」の推定航路(灰色:512日、橙色:522日)

 母船「チット・ディ・ミラノ」では、当初遭難した飛行船「イタリア」の無線は破壊されて通信できないと思っていたようである。そのため母船では、飛行船からの救難要請に気づかなかった。ペターセンは母船からの無線を傍受して、日常会話ばかりだったと述懐している[1]。救助要請の無線にはソ連のアマチュア無線家が気づいた。それをもとに地上に残された9名の救出が始まった。

しかし複雑な事情が絡んで救助は錯綜した。フランス、イタリア、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、ソ連に加え、アムンゼンを含む多くの個人が、名声を競うようにバラバラに救出劇に参加した。ところがこれら救助隊の一部も遭難したため、二次救助隊が必要になったりして混乱を極めた。

生き残ったノビレ隊の一部であるマルムグリーンらの3名は、遭難地点のキャンプ地からスピッツベルゲンに向けて徒歩で移動を始めた。しかし、マルムグリーン隊3名はスピッツベルゲンに到達できずにキャンプ地へ戻ることにした。マルムグリーンは途中で衰弱し、本人の意思で置き去りにされた。一方母船「チット・ディ・ミラノ」にいたソラ大尉は、独断でノビレたちの捜索を開始した。ところが、この母船からのソラ隊も遭難した。他の救助隊の一部も遭難して、救助隊のための救助隊が必要になった。混乱のまま数週間が過ぎた。

空からの捜索と救助も行われた。フィンランドとノルウェーは618日から飛行機による救助隊を出した。これにペターセンらが気象情報を提供した。その捜索に、新たにアムンゼンらも加わった。ただしアムンゼンは、ノビレとの関係修復を期待するマスコミなどの周囲の騒音を嫌ったためか、その目的を秘密にしていた[1]

アムンゼンは新型の飛行艇「ラサム」に乗り込み、619日に離陸した。しかし、アムンゼンの乗った飛行艇は行方不明となった。後日ラサム号の残骸がノルウェー北岸に打ち寄せられているのが見つかり、アムンゼン隊の遭難がはっきりした。ペターセンによると、当日の天候は良く、エンジンの故障と推測された[1]。アムンゼン遭難のニュースは、一時期ノビレたちの遭難より世間を賑わせた。

623日にノルウェー隊の飛行機がノビレたちのキャンプを発見し、ノビレと愛犬を真っ先に救出した。しかし、残した負傷者を救助するためにキングス・ベイからキャンプに戻った際に着陸に失敗し、ノルウェー隊のパイロットも要救助者となってしまった。パイロットは後日ノルウェーの別働隊の飛行機に救出された。

712日になってソ連の砕氷艦「クラシン」がマルムグリーン隊の残りを発見収容した。その後キャンプ地に到達して、ようやく飛行船「イタリア」の遭難者を収容した。また「クラシン」は「チット・ディ・ミラノ」からのソラ隊も発見していたが、「イタリア」の遭難者の救出を優先している間に、ソラ隊はフィンランドとスウェーデンの飛行機によって救出された。しかし、飛び去った飛行船の方に残された6名は行方不明のままだった。

救助作業のための予報を提供していたペターセンは、救助隊のあり方にさまざまな問題を感じていたが、これで飛行船「イタリア」の救助作業は幕を閉じた。

ペターセンは、ベルゲングループに空きが出来たため、この年の終わりにトロムソの地球物理学研究所からベルゲンへと戻った。

 (次は「実践の予報学者スベール・ペターセン(5) アメリカ訪問」)

参照資料 

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.

なお、北極圏横断飛行と北極点探検飛行については、wikipediaの記述を一部参考にした。

2026年5月13日水曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(3) ベルゲン学派との出会い

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3. ベルゲン学派との出会い 

1920年頃、ノルウェーではヴィルヘルム・ビャークネスを中心とする小さな気象学グループ(ベルゲン学派)が新しい手法による気象予報を行っていた。その新しい手法とは、低気圧周辺の気団の境目である前線という狭い構造を立体的に捉える手法である。それまでの気象予報は、低気圧の周辺は天候が悪くなるという漠然としたものだった。ベルゲン学派による新しい手法は、気象解析によって天候が変わる場所と時刻とその内容をそれまでより正確に予測できるものだった。

その初期のグループにはヤコブ・ビャークネス、ハルバー・ソルベルグ、トル・ベルジェロン、カール・グスタフ=ロスビーなどがいた。彼らがノルウェーで行っていた予報は、第一次世界大戦での物資不足による飢饉を救うため、農業・漁業生産を上げるためだった。漁船の被害軽減や牧畜用干し草の生産に、この手法の有用性が確認されたため、政府からその拡大を求められていた。またベルゲン学派も自分たちの低気圧モデルを発展させた極前線という新しい概念を広めようとしていた。それは低気圧の生成消滅過程を地球規模で議論しようとするものだった。資金は政府の協力によってなんとか目途がついたが、当時の気象学はマイナーで目立たない分野であり、優秀な人材の確保に困難を極めていた。

ペターセンはオスロ大学で地球物理学の専攻を希望していたが、その希望分野に気象学は入っていなかった。当時の伝統的な気象学は専門分野として確立しておらず、地球物理学の一部として物理法則を使わずに叙述的に教えられていた。しかしヴィルヘルム・ビャークネスは、その気象学を改革して、科学化された分野として確立しようと奮闘していた(「気象予測の科学化とノーベル賞」を参照)。オスロ大学の一部の教授はそのことを知っており、ペターセンに将来有望だからと気象学を勧めた。

ベルゲン学派は自分たちの気象学を広めるべく手広く活動しており、その一環で1923年春にオスロ大学で資金援助がついた採用のためのセミナーを開催する予定だった。ベターセンはセミナー開催のためにやってきたベルシェロンの面接を受けて、セミナー参加者として選ばれた(ベルシェロンはのちに雨が降るメカニズムの解明などを行うことになる)。ペターセンはこのセミナーに必ずしも感銘を受けたわけではなかったが、典型的なボヘミア的な芸術家肌を持ったベルシェロンには惹かれたようである。それでもペターセンは迷っていた。彼は気象学へ進むべきかどうかを正直にベルシェロンに相談した。 

トル・ベルシェロンの写真
https://en.wikipedia.org/wiki/Tor_Bergeron#/media/File:Tor_Bergeron.jpg

 ベルシェロンは192210月に北ヨーロッパを襲った有名な嵐の解説をペターセンに行った。従来の気象学者たちはこの嵐に対する警報の発表に失敗したが、ベルゲン学派はこの嵐の事前警報に成功していた。ベルシェロンは、なぜベルゲン学派がこの警報に成功したのかということを夢中になって熱い思いで語ったようである。これがペターセンが気象学への道に進む決め手となった。

その際にペターセンは、気象学を祖父のような耳で吹雪の中を進むことができるような漠然とした「技術」ではなく、「科学」として気象を定式化・数値化することに努めなければならないと決意した。そして気象予報とその予測可能性を集中して勉強することにした[1]。

オスロ大学の学生でありながらベルゲン学派グループに属することになったペターセンは、学資の心配から解放されて、軍籍から離脱した。彼は氷河の調査やベルゲン学派での一時的な予報官助手を務めた後、オスロ大学の修士課程を修了した。そして彼は、ベルゲン学派の新進気鋭の気象研究者としてトロムソの地球物理学研究所に職を得た。そこでアムンゼンなどによる北極探検と関わることになる。

(次は「実践の予報学者スベール・ペターセン(4) 北極探検への関与」) 

参照資料 

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.

 

2026年5月10日日曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(2)出身地北欧ノルドランドのこと

(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  


 2.出身地北欧ノルドランドのこと

ペターセンはノルウェー北部のノルドランド(Nordland:ヌールラン県)ロフォーテン諸島の中にあるハッセル島の貧しい行商人の家で幼少期を過ごした。彼の父は漁師だったが、途中で病気のために漁師を諦め、行商を営んだ。父は行商に出ることが多かったため、彼は父と一緒に過ごすことは少なかったようである。ペターセン家は、1906年にベルゲンの北東ヴィークに土地を買って移住し、農業を営んだ。さらに1910年にはトロンヘイムへと移った。 

ノルウェー付近の地図(クリックすると拡大します。[Alt+◀]で戻ります)

 しかし、ペターセンの先祖は代々ロフォーテン諸島の漁師だった。彼の伝記[1]によると、彼の父方の祖父は、ロフォーテン諸島では有名な漁師であり、その捕った魚を取引する商人でもあった。そこの漁師たちは嵐に見舞われた際の勇敢な行為を大きな名誉としていた。ペターセンの祖父は船長として嵐で難破した船から人命を救う勇気と技術によって、大勢から尊敬されていた。

ある時激しい嵐に見舞われ、ある船が転覆した。近くのどの船も乗組員の救助を試みることができなかった。その時、彼の祖父が船で駆けつけ、押し寄せる波を利用して何度も救助を続け、結局転覆した船の17人全員を無事救助したもあった。しかし、ペターセンが生まれる遙か前の1870年に遭遇した嵐の中で、祖父は冷たい荒波を被りながらも船長として舵を離さなかったため内臓に凍傷を負い、しばらくした後に亡くなった。

また、母方の祖父もロフォーテン諸島で有名な漁師だった。嵐の天候の下での操船ではこの祖父にかなう者はいなかったそうである。祖父は「音の変化で岩礁を見分けることができる」という並外れた能力を持っており、吹雪の暗闇の中を耳を頼りに操船できたと語り継がれている。ペターセンはこの母方の祖父と一時期一緒に暮らしており、鳥や動物の行動と天候との関連などを含めて、自然に関するさまざまな知識を祖父から受け継いだようである。ペターセンの自然に対する鋭い感覚はこの時に養われたものかもしれない。

また[1]は、ノルドランド、エスキモー、ラップランドなどの自身の回りのさまざまな当時の文化などにも触れている。例えばエスキモーの「父親殺し(棄老)」の風習にも触れている。これは父親も名誉なことと理解しており、長男による敬意と慈愛のこもった厳粛な行為だったそうである。このように[1]は、20世紀前後の北欧の民族誌的な観点でも興味深いものとなっている。

トロンヘイムへ移った後に、ペターセンは15歳で電報局で働き始めた。トロンヘイムには陸軍下士官学校があり、中等教育も行っていた。家は貧しかったが向上心に富んだ彼には、有給で学べるこの学校が魅力に映った。しかも陸軍大学校入学の条件となるギムナジウム(大学へ進学するための高等教育機関)の卒業資格を得るために、この学校がギムナジウムへ通う奨学金を出す制度もあった。彼は陸軍下士官学校へ入った後、狭い枠を突破して奨学金の試験に合格して、ギムナジウムへと進学した。

ギムナジウムに進むと、陸軍大学校へ進学するというペターセンの考えは変わった。ただ奨学金を受けた際に、陸軍大学校入学がその条件となっていた。彼は高級将校に相談して、陸軍大学校への入学免除となるオスロ大学へ進むことにした。ただし、最低半年間は有給の見習い軍曹となるのが条件だった。そして、そのオスロ大学で気象学のベルゲン学派と出会うことになる。

参照資料 

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.