(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)
英国へ
1940年4月、ノルウェーはヒトラーの軍勢に侵攻され、ペターセンにとってノルウェーへの帰国は不可能となった。ノルウェーのハーコン国王はロンドンに亡命政府を樹立し、英国国内にノルウェー陸軍航空隊およびノルウェー気象局が編成された。
北極探検時に気象情報を提供したノルウェーの士官ライザ=ラーセンも、1940年にドイツ軍のノルウェー侵攻とともにイギリスに亡命し、ロンドンでノルウェー空軍司令官を務めていた。そのラーセンから、1941年8月にMITにいたペターセンに、イギリスに来て欲しいという至急電報が来た。ノルウェー空軍はロンドンに司令部を置いて、英国空軍の協力を得てノルウェーの地下運動に必要な物資を空中投下していた。当然その空輸には気象予報が必須だった。
ただ、状況は複雑である。ノルウェー空軍の立場でイギリスに行っても、英国気象局は受け入れてくれないかもしれない。そうなれば何が出来るのかという疑問がペターセンにはあった。また、MITで親切にしてくれた同僚などの人々への恩義をどうするかという問題もあった。
ライザ=ラーセンの写真
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Portrait_of_Hjalmar_Riiser-Larsen.jpg(CC BY-SA 4.0)
しかし、再びラーセンから至急電報が来て、ペターセンには選択の余地がなかったようである。またMITのムーアランド学部長やコンプトン博士は、MITでの無期限の休職と経済的損失の補償に同意した。これでペターセンのイギリス行きが決まった。
しかし海軍から、行く前に上級気象士官向けの海上気象の解析の講義を行って欲しいという要請を受け、10月初めからこの講義と実習を約1か月海上において行った[1]。これは数か月後に太平洋で直ちに役に立ったのではないかと思われる。
ペターセンは講義が終わった11月8日にアメリカを出発することになった。彼は軍が用意したイギリスへ輸送される爆撃機に搭乗した。同乗者には数学者・哲学者で有名なアルフレッド・ホワイトヘッド教授が同乗していることに気づいた。ペターセンはホワイトヘッドに刺激を受けたらしく、会話している間に、彼が師匠に見えてきたと述べている[1]。
イギリスに到着したペターセンには、ノルウェー空軍が行っている空輸の支援のための気象情報をどうするかという課題があった。輸送ルートを拡大する必要があったし、頻度も増やす必要があった。スカンジナビアと北極圏の経験を持つ予報官の増員が不可欠だった。ペターセンはイギリスに逃れてきているノルウェーの優秀な予報官を知っていた。また中立国スウェーデンにいるノルウェーの予報官も知っていたので、彼をイギリスへ優先的に脱出されるとともに、ノルウェーに残っている予報官数名をスウェーデンに脱出させてイギリスへ向かわせることにした。これでノルウェー空軍支援の問題は一段落した。
その上で、ペターセン自身の立場についても、ラーセンからノルウェー政府に雇われた上で、英国空軍下の英国気象局に貸し出されるという説明を受けた。これで英国気象局の中で働けることになった。これにペターセンは全く異存がなかった。
ペターセンは英国気象局長官であるネルソン・ジョンソン卿と面会した。最初は互いの意向がわからずに慎重だった。ペターセンが気象学の技術的な奉仕にしか興味がなく、階級や地位にこだわらないことを伝えると、ネルソン卿の態度は和らいだ。その上でネルソン卿はペターセンにどのような仕事をしたいか尋ねてきた。ペターセンは、上層の気象観測を用いた予報はこれまで誰もやっていない上に、イギリスはこの観測でリードしているので、これに関する仕事を要望した。
実は彼には、統計学を使っていた延長予報(2~3日先以降の予報)を改革したいという考えもあったのだが、その分野の状況や自分の力量を見てそちらは断念した。そのため、彼は戦争中は延長予報に関わらないというスタンスを固めていたようである。
ペターセンが要望した上層の気象観測を用いた予報は、戦争の状況を勘案した英国気象局の考えとも合致していたようである。ただ上層気象を使った気象予報の分野は確立されておらず、従来の地上天気図を用いたやり方ではなく、新たな手法の開発が必要だった。そのためにはペターセン自らがチームを作ってその開発に数か月間取り組むことになった。
ペターセンは、従来の大量のルーチン的な気象業務に慣れた経験者よりは、潜在能力を持った「少し変わった人」の方が相応しいと考えたようである。ちょうどヨーロッパ各国の予報官が難民としてイギリスに流入していた。彼らをかき集めて非常に有望な多国籍のグループができあがった。このグループはすぐにダンスタブルにある英国気象局の上層気象部門となった。
さらに戦争の進捗に応じて優秀な人々が各国から集まった。戦争が終わるとこのグループは解散して、メンバーは各国へと散っていった。このため、上層気象部門で開発した上層大気のデータ処理方法とシステム解析手法は、世界的に戦後の標準的な手法となった[1]。
ドイツ爆撃のための予報
英国気象局では、ペターセンの上層気象部門は航空作戦のための上層風の予報に大きく関わることになった。当時イギリスが行なおうとしていたのはドイツへの夜間爆撃である(当初はドイツ軍の防空体制が強力なため昼間爆撃は困難だった)。そのため、航空機(爆撃)と気象情報との関係を少し詳しく述べておきたい。
夜間爆撃を行うに当たって、大陸は広く目標はその中のほとんど点に等しかった。イギリスは1942年2月にGee Boxという無線航法支援システムを開発した。これは、マスター局とスレーブ局が発信する電波のタイムラグによって乗機の位置を測定するシステムだった。ただ電波の到達範囲はまだ短く、誤差も大きかった。
爆撃機はかなりの広さに分散し、距離をとって飛行しなければならないので、風をよく予測しなければ望ましい編隊を組むことはできない。風向や風速予測に大きな誤差が生じると、飛行や攻撃が乱れ、爆撃精度と部隊の安全性や防御に悪影響を及ぼした。そのため、爆撃機司令部は、予報精度に対する最も厳しい顧客となった。
またペターセンたちにとって、大陸での風向きの予報に加えて、帰投時の飛行場の夜霧の予報も重要となった。さらに飛行のための雲の予報に必要な大気の沈降速度も必要だったが、これは難易度が高かった。
1942年3月3日から4月28日までの間に、18回の夜間空襲が行われた。例えば1942年3月28日夜のリューベック爆撃では4発爆撃機234機が、4月5日のケルン爆撃では、同じく263機が参加している。ペターセンらはこれらの爆撃に対して気象予報を提供したが、これらの爆撃成果に対して予報の質との関係はあまりないことがわかった。気象予報の質以外の要因(特に地上目標の判別)の影響がまだ大きかった。1942年5月にはさらに爆撃規模が拡大した。5月30日の夜、ミレニアム作戦と名付けた1050機の爆撃機がケルンに向かい、約100分にわたって爆撃を行った。このような大編隊による短時間での夜間爆撃という組織的な爆撃実施には、正確な風向・風速の予報が不可欠だった。
1942年後半には、英国空軍爆撃機司令部は爆撃精度を上げるためパスファインダーを導入し始めた。これは熟練した搭乗員が乗った爆撃機によって目標を焼夷弾などで正確に爆撃して、発生した火災を後続する主力爆撃部隊の目印にする方法である。しかしパスファインダーの到着が早すぎると、爆撃の予告となるため十分な迎撃態勢が取られる上に、目印となる火災は消される可能性がある。遅すぎると主力部隊は目標を見つけられずに、うろうろしている間に迎撃機の餌食になる恐れがあった。パスファインダーが計画通りに正確に目標に到着するためには、飛行高度での正確な風向・風速の予測が重要だった。
パスファインダーに対する航法の精度を上げるために「オーボエ」と呼ばれる電子航法支援装置も開発された。これは原理はGee Boxに似ているが、こちらは多数機ではなくパスファインダーのみを追いかけて情報を提供するので、目標への到達誤差は数百メートルと精度が高かった。
さらに「H2S(Home Sweet Home)」という装置が開発された。これは航空機から真下にレーダー波を発射して、その反射波を平画位置表示機(PPI、現在のレーダー画面に近いもの。それまではオシロスコープの画面のようなものだった)で表示されることにより、下方の地形がわかるという装置である。一定時間後の地形の動きと飛行機の向きと対気速度を照合すれば、飛行中の風向・風速がわかるという原理だった。しかし、爆撃機がまっすぐで水平な飛行を維持し、目的の地形上で厳密に垂直なビームを発射できるとは限らず、誤差を伴うこともあった。
イギリス空軍のハリファックス爆撃機に搭載されたH2S。胴体下部の膨らみ。
https://en.wikipedia.org/wiki/H2S_(radar)#/media/File:Halifax_V9977.jpg
これらの装置は気象予報の作業を緩和するどころかより厳しくした。まず海上は地形がないので、陸地に達するまでは正確な航法のための風予測が必要だった。その後は、爆撃機に搭載されたH2Sで測定された風は、英国気象局中枢に無線によってリアルタイムで報告され、解析された風向・風速の情報は1時間に6回、正確な航法のために飛行中の各爆撃隊へ提供された。ペターセンは、これらによって風予報以外の誤差要因は徐々に排除され、風予報の精度と爆撃部隊損失との関係が明らかになったと述べている[1]。その結果、損失が増強した戦力を上回らないように、予報に細心の注意が払われた。
これらによって航空機の運用だけでなく、大規模爆撃を成功させるには気象予報がいかに重要であり、イギリスがそれに苦心していたかがわかったと思う。ある爆撃機部隊司令が「自分の仕事は気象学が90%で、戦略は10%しかない」と言ったそうである。ペターセンは、これは誇大であるが真実を多く含んでいると言っている[1]。このような爆撃隊が信頼を置ける予報は、ペターセンがいてこそできたことだった。
また、これらの爆撃のためにペターセンらが上層大気(高度約9 km)の気流を解析した結果、比較的狭い幅を持った強い偏西風がロッキー山脈からソ連にかけて存在していることが確認された。この気流は日本を含めてこれまでも断片的に観測されており、地球を周回していると考えられた。これは今日でいうジェット気流である。しかし、英国気象局はすべての気象資料を機密扱いにしたため、ペターセンらはこの結果を公開することが出来なかった。
ペターセンは、日々の予報を元に気づいた点を技術資料や研究資料として準備した。これらはラフノートであったが、戦後彼が研究生活に戻った後にこれらを整理した。これは「5. 米国のMITへ」で述べた1940年に出版した天気予報の教科書の改訂版となり、1952年に「天気解析と天気予報」という題で出版された。「(1) 紹介理由」の所でも記したように、この本は日本を含めた世界中で標準的な気象予報のための教科書の一つとなった。



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