2024年3月31日日曜日

グローバルとは?

グローバルという言葉

グローバル経済やグローバル社会など、現代ではグローバルという言葉が使われることが多い。意味は概ね世界規模ということになる。しかし、我々がグローバルという言葉の真の意味を、突き詰めて考えているだろうか?

我々の日常生活で、グローバルであることを直接実感することは、あまりないと思う。もちろん、ニュースやインターネットはグローバルな情報を提供しているが、それは世界各地の点や一部の情報がほとんどで、グローバルとしてきちんと一つにまとめたものは少ない。ましてや身の回りのものでグローバルであることを感じることができるものは多くない。

われわれの帰属意識は、通常は身近なものから構築されていく。それは家族だったり、友人だったり、職場や団体だったり、ご近所だったりする。それが拡大していくと、住んでいる市町村や県、あるいは国となる。江戸時代までは出身の国を問うことは、ほぼ藩を指していた。それは、その後国家という概念に置き換わっていった。

それでも、現在一人一人が地球人というグローバルな帰属意識を持っているとは言いがたいと思っている。しかし、概念としてはグローバルという考えは広く共有されて使われているようである。特に地球温暖化のような気候変動問題では、この考えや意識が重要になる。ここでいうグローバルとは、何をあるいはどういう状態を指しているのだろうか?

       我々はグローバルというまとまった意識を持っているだろうか?

 気候の場合

例えば、地球温暖化で問題になっているグローバルな気候を考える。しかし、我々が住んでいるのはその地の気象なり気候であり、「グローバルな気候」に住んでいる人は一人もいない。つまり個人が実感や経験で「グローバルな気候」を理解することは出来ない。科学的に処理した情報を使って、グローバルな気候の議論が行われているのである。

しかも、現在地球温暖化で問題となっているのは、例えば気象庁ホームページによると、この30年間の世界平均気温で0.54℃の上昇である。ところが、我々は毎年季節によって30~40℃という気温の年較差(冬の最低気温と夏の最高気温の差)にさらされている。それにもかかわらず、我々は30年間で0.54℃という平均気温の上昇を議論し、それを懸念している。

では、我々はどうやってこの過去のグローバルな気温の上昇に関する情報を得ているのだろうか?これは、実はなかなか深い問題である。スタンフォード大学教授のエドワーズは、[1]において我々がグローバルな気候情報をどうやって知っているのかについて、根源的かつ詳しい説明を提供している。

グローバルな気象観測網

近代なって気象観測網が世界各地に張り巡らされて、それによって気象が観測されている。では、その過去の気温などの気象データを集めて合計して、地点数で割れば、過去を含めて平均気温が出るだろうか?残念ながらそれは正確なやり方ではない。

最初の問題として、気象観測網の観測所は世界各地に等間隔で設置されているわけではない上に、海上など観測の広い空白域もある。つまり、観測値の地域代表性が問題となる。これは気象予報にも影響するため、気象予報者は、長い年月をかけて客観解析、あるいは再解析という手法で、この問題を克服してきた(これについては、本書の10-5「数値予報の現業運用化」で解説している)。

しかも第2の問題として、長期間の観測の間に、厄介なことに観測環境の変化や観測所の改廃や移転、観測機器や観測基準の変更などが起こっていて、これらは気象観測結果を通して気候値に影響を与える(固有の偏差を含めて、実際の気候の変化ではないものを示すことがある)。また観測は正しくても、初期のうちはそれを伝える通信・通報の際にエラーや間違いが起こり、それをそのまま記録として残したこともあった。

気象観測は、長い間気象予報を目的とした観測所が多かった。第2の問題については、気象予報の場合は影響が小さいか、人間が見てデータを取捨することで解決できた。しかし、長期的な気候目的で観測結果を使おうとすると、第2の問題は大きな障害となる。

そのため、メタデータと呼ばれる観測環境や手法に関する過去のデータを掘り起こして、観測データの信頼性を確認して、場合によっては補正することが行われている。これをインフラストラクチャの遡及と呼んでいる[1](これは現在でも過去データについて行われている)。

世界平均気温については、この値を用いて、地域代表性を加味した加重平均を行って平均気温の算出が行われている。具体的な手法については、気象庁ホームページの世界の平均気温偏差の算出方法を見ていただきたい。

なお現在、多くのグローバルなインフラストラクチャが社会を支えているが、[1]は気象観測網が100年以上かけて、悪戦苦闘しながら世界的な規模で発展をしてきた結果、社会制度を含む技術史的な観点で、気象観測網がグローバルなインフラストラクチャの先駆けの一つとなったと述べている。

また、気温の長期トレンドにはまだ用いられていないが、近年ではもっと数理学的なコンピューターモデルを用いて、物理学的に一貫した手法(再解析)で過去を含めた全世界の気象の計算が行われている。

グローバルな統計とは

世界平均気温を例にとって話をしたが、例えばグローバルである世界平均気温は、過去100年以上にわたって、系統的なデータを用いて一貫した手法で算出されている(インフラストラクチャの遡及の余地はまだあるかもしれないが)。

現在「グローバル経済」などの言葉は普通に使われているが、それらが本当にグローバルになったのは、東西冷戦の終結以降である。それ以前にも、経済統計などはあったが、国が限られていたり、国ごとに算出方法が異なっていたり、包含分野が限られていたりしていた。

例えば過去の長期的なグローバル経済統計については、空白域がなく、メタデータを遡ることが出来て、長期にわたって真の意味で一貫したグローバルなものになっているのだろうか?かつて「100年に一度」と言われた経済危機は、本当にグローバルな統計上で100年に一度だったのだろうか?

比較的しっかりしたインフラストラクチャの上で観測された気象と気候のデータは、おそらくあらゆる物の中で、信頼できるグローバルな統計を長期にわたって行えるものの一つであるということが出来る。そして、それが地球温暖化などのグローバルな気候変動問題の基礎となっている。グローバルな気象観測網というインフラストラクチャは、現代では人類の存続のための重要な基盤になっているといえるかもしれない。

参照文献

[1]エドワーズ、気候変動社会の技術史(原題:A Vast Machine、訳:堤 之智)、日本評論社、2024.




2023年12月17日日曜日

元寇と神風(3)弘安の役

 4. 弘安の役

4-1 軍の構成

フビライは、1279年2月に南宋を下すと、南宋に艦船600隻の建造を命じ、6月には高麗にも900隻の船の建造を命じた [4]。そして、征東行省の左丞相(総司令官)として忠烈王を、右丞相にモンゴル人のアラハン(阿剌罕)を、そしてその下に、南宋の范文虎、ヒンドゥ、洪茶丘、金方慶を配して日本への遠征を命じた。この時は、ヒンドゥと洪茶丘はどちらも征東都元帥という同格の肩書きだった [1]。

日本で弘安の役として知られる第2回目の侵攻は、1281年に行われた。元軍は東路軍と江南軍の2つの軍団から成った。東路軍は、蒙・漢・女真を主力とする兵士15000名と高麗軍兵士10000名の合わせて25000名、それに水手17000名、軍船900隻からなった。これを蒙・漢・女真軍をヒンドゥと洪茶丘が、高麗軍を金方慶が率いた。

江南軍は旧南宋の軍を主力とする約10万名と水手42000名と軍船3500隻から成った [4]。これをアラハンと范文虎が率いた。これは当時史上最大の艦隊と言われている。両軍は陰暦の6月15日に壱岐で合流することになっていた [4]。しかし、出撃の直前にアラハンが病気となり、司令官はアタハイ(阿塔海)に替わった。これが江南軍が寧波を出港するのが遅れた原因の一つとなった。

4-2 日本への侵攻

東路軍は陰暦の1281年5月3日に朝鮮半島の合浦を発ち、「新元史」によると5月26日以前に世界大明浦へ到達した。この地点はどこかわかっていないが、一応対馬のどこかではないかとされている。対馬では、激戦となったが多勢に無勢で占領された。5月26日には壱岐に到達した [3]。ここでも武士団は善戦したが、全滅した。そこでヒンドゥが陽動作戦を提案し、100隻からなる小部隊が、6月4日に以前使節が上陸した長門沖に姿を現した [4]。しかし、彼らは日本側の強固な構えを見て上陸をあきらめて引き返した。

江南軍の到着が遅れることを知った東路軍は、単独で博多へ向かい、6月6日に到着した。しかし、湾内の海岸の石築地や河口の逆茂木(川に入れなくするくい)を見て、防備の薄い志賀島(しかのしま)と湾内の能古島(のこのしま)に上陸した。志賀島は博多湾の北に位置する海の中道と呼ばれる砂州とつながった陸繋島である。

 [3]は、それを迎え撃った日本武士団を約3万名と推定している。志賀島では武士団が小舟で夜襲を繰り返した。そのため東路軍は壱岐に撤退し、7月2日には武士団が壱岐まで攻めて合戦が起こった。7月3~4日頃に、東路軍は平戸に撤退して江南軍と合同した [4]。

一方、江南軍は、上記の理由の遅れで6月18日に寧波(舟山)を出発し、6月末に平戸に着いた。そこで1か月滞在している間に壱岐の東路軍と合流し、7月27日には全軍で鷹島を占領した。平戸には20万名近い大軍が1か月滞在したことになる。その理由は不明だが、 [4]は元軍の偉容を見せつけて、日本側が軟化するのを期待したのではないかとしている。

4-3 台風との遭遇

鷹島で軍を進める準備をしている最中の、閏7月1日(陰暦では7月の次に閏7月が来る。この日は太陽暦の8月23日)に嵐が襲った。これは時期や規模からして、明らかに台風である。元軍は海が荒れ始めると、鷹島の北方や西方の玄界灘に面した海に停泊させていた船を、鷹島の南西の湾内に避難させた [4]。波は風が海上を吹く距離(これを吹走距離という)に応じて高くなる。そのため、玄界灘に開けた島の北岸を避けて、外海からの波が直接は来ない島の南方に船を避難させたことは妥当である。

この台風は九州に南西から近づき、鷹島の西側を通って北東に進んだと考えられている。この台風に関する記述は、「一代要記」の「甚雨大風」、「勘仲記」の「終夜風雨太(はなはだ)し」など日本各地で見つかっている。またマルコポーロも「日本国といふ島の・・・彼れ兵を起こして此島を取らんと思へり。・・・北風強く起こりて吹くこと甚だ烈しく彼の島に大害為せり。」 [6]と記述している。これらの記録から見て、これは相当に強い台風だった。この台風により鷹島の江南軍は大きな被害を出した。

おそらく台風が通過するまでは陸側から吹く東の風で、それほど波が高くなくても、通過後は強い北西風によって、開いた北西側から湾に高波が侵入し、それが島の南の海に伝搬したり反射したりした可能性がある。波だけでなく、強い風によって船が流されて海岸にぶつかったり、船同士がぶつかったりする可能性もある。台風によって江南軍の多数の船が沈没し、元軍は大損害を被った。一部の難破船は九州北岸を北西に漂流して、西日本の日本海沿岸一帯に漂着した [6]。八幡愚童記によれば、次のようになっている。

七月晦日(8月22日)夜半より乾風夥しく吹出でて閏七月朔日(8月23日)賊船悉く漂蕩して海に沈みぬ・・・残る所の船共は皆吹破られて磯に上げられ沖に漂ひ、海の面は草を散すに異らず。死人は岸に積み重ねたるが如し。鷹島に打ち上げられたる数千人 船なくして疲居たりしが、破船ども取り繕いて、蒙古高麗七八艘に打ち乗りて逃んとするを・・・ [6]。(注:晦日は末日で朔日は1日のことである)

元軍は大損害を受けたことがわかる。日本側も損害を被ったであろうが、日本は台風に慣れている上に、比較的小さな船が多く、台風の間は船の多くを陸に引き揚げていたかもしれない。

また、鷹島付近の海底から元軍の沈没船も発見されている。これら鷹島沖海底の沈没船2隻の様子から判断すると、風向が南から南東、そして東へと変わる時間帯に、次々に船が沈んでいったとされている [3]。とすれば鷹島の南~東はすぐ陸に面しているので、沈没原因は高波ではなく、強風そのものだったかもしれない。風向きから判断すれば、台風の鷹島の北、直近を通過したようである [3]。

この台風は2004年の18号台風(Songda)と、九州付近では似た経路を進行したと考えられている。そのため、1281年の台風もこの経路に沿って進んだと仮定して、台風のシミュレーションが行われた。それによると、九州北西部での最大風速は50m/sに達した。波高は鷹島で2~3.5 m、博多湾で1.5~2 mと計算されたが、実際はこの高さの2倍近い波が起こったと推測されている [7]。

台風200418号(Songda)の経路(黒線)。 [8]より

高麗史では、高麗軍の兵士と水手27000名の内、帰り着いたのは19397名となっている。また、元軍では、7月5日に范文虎らの諸将は残った船で逃走し、残された十数万名ともいわれる元軍は、鷹島で船を新造したり、修理したりして帰還しようとした。

しかし、7月7日に日本武士団は鷹島で掃討戦を開始した。これは日本武士団による鷹島への逆上陸戦となったはずである。江南軍は司令官が逃亡したとはいえ、残った将の中で司令官を立てて、頑強に抵抗して激戦となった。しかし、地形や潮の流れなどの知識による地の利は日本側にあった。最終的に日本武士団が江南軍を打ち破り、兵士2~3万名が捕虜となった [3]。捕虜の中で、蒙・漢・女真の兵士は処刑されたが、南宋の兵士は奴隷とされた。

しかし、 [3]は実際に処刑された兵士はそれほど多くなかったのではないかとしている。特に南宋出身の一部は、大陸の高度な軍事技術、兵器の用法を日本に教え、高給を得て経済的にも恵まれた生活をしたようである。また、高麗人もそれなりに保護されていたようである。11年後に高麗国王から、日本は戦役によって戻らなかった高麗人を聖徳に従って生かしているようで幸いなことである、という書状を受け取っている [3]。

4-4 東路軍は博多湾で台風と遭遇した?

東路軍が博多湾から撤退して鷹島で江南軍と合同した点について、 [3]は別の説を提唱している。それは、「高麗史節要」にある世界村大明浦は、対馬ではなく志賀島というものである(江戸時代から300年間、それは通説だったとしている)。つまり、東路軍は5月3日の出発当日に対馬に到着して5月8日頃までに制圧し、15日頃までには壱岐を制圧し、そして5月26日に志賀島に到着したとしている(ほぼ同時に能古島も占領されていたとみている)。そして、東路軍は志賀島を基点に戦い続けながら、一部は長門へ偵察に行った。博多の防備が堅いので、長門を探ったのかもしれない。しかし、長門も厳重に防備してあったため、そのまま引き揚げた。

生の松原の武士団本営の様子。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

日本武士団は、博多湾南岸の生の松原に本営を置いて、志賀島周辺の東路軍を攻めた。「蒙古襲来絵詞」にも志賀海神社横の陣地の蒙古兵や志賀島と思われる場所での武士の様子が描かれている。同じく描かれている船での海戦の状況も、この時の様子かも知れない。

そして6月8日に最大の戦いが起こった。武士団は東路軍をかなり不利な体勢まで追い込んだようだが、志賀島を奪還できなかった。この時の戦いと思われる記述が、日本の「歴代皇紀」や朝鮮の「高麗史」にも残っている [3]。これ以降の戦いでは、日本側はゲリラ戦や夜襲を多用したようである。

東路軍によって占領されていた志賀島とされている絵。浜辺に柵も見える。入江にいるのは蒙古兵とされていたが、 [3]では日本人による偵察とされている。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

志賀島の元軍の防備が強固であったため、武士団は作戦を変えた。6月29日から7月2日にかけて元の補給基地となっている壱岐を攻撃した。そのため、そのため志賀島の東路軍の一部は壱岐に移ったが、志賀島での戦いは続いた。高麗史にある6月26日の東路軍船の遭難は、志賀島から壱岐へ応援に向かった船としている。

閏7月1日には両軍とも博多湾で台風を迎えたが、外海への開口が狭い博多湾内ということもあって、波高は鷹島の6割程度だったと見積もられている。そのため波による被害によって使える船は多少減ったものの、戦いは続いた。閏7月5日に武士団は生の松原の本陣にいた記録があり、その日に総攻撃を行って博多湾の東路軍を打ち破った [3]。それにより、東路軍は博多湾から撤退した。上述したように、高麗軍の兵士・水手は約7割が帰還している。

閏7月5日の博多湾での海上合戦とされている図 [3]。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

一方、江南軍は、7月始めに平戸へ到着し、15日頃鷹島へ移動した。27日頃に壱岐にいた東路軍の一部と鷹島で合同したとしている。そして、江南軍は閏7月1日に鷹島で台風と遭遇して大被害を被った [3]。上述したように、7月5日に范文虎らは残った頑丈な船で逃走している。この鷹島の状況の報告を受けて、日本武士団が閏7月7日に鷹島に進軍して、残った江南軍に攻撃をかけた。

当初は互角の激戦となったようで、日本側にも多数の死傷者が出ていたようである [3]。最終的には日本武士団が勝利したが、范文虎らが逃走しなければ、もっときわどい戦いになっていたかもしれない。しかし、江南軍は全滅したわけではなく、台風で沈んだのは主に老朽船か過剰積載の船だったようで、そうでなかった何人かの将軍が率いた船、数百隻はほぼ全部が帰還したことが記録されている [3]。

4-5 弘安の役の謎

4-5-1 なぜ志賀島を拠点にしたのか?

志賀島は全長約4km、幅2kmの砂州でつながった陸繋島である。島は小山になっており、北側は玄界灘に、南側は博多湾に面している。砂浜もあるが、全体に海岸にはごつごつした岩が多いというのが私の印象である。少なくとも北側半分は兵士や物資の上陸には不向きだっただろう

砂州である海の中道とのつなぎ目の南あたりが砂浜で小さな湾になっており、現在博多港と結ぶ渡船の港がある(砂州には道路も通っている)。東路軍は砂浜で波が穏やかなその付近に船を停泊させたのではないかと思われる。

しかし、300隻の大船やそれに伴う補給船を停泊させるには、そこだけでは狭過ぎると思われる。砂州に沿ってか、湾内北側の広域に停泊したのかもしれない。その付近は博多湾岸から海の中道を辿って襲撃しやすいため、武士団は襲撃を繰り返したのかもしれない。

その点では、占領した湾内の能古島は、地形がもっと穏やかで陸とつながっておらず、そこを拠点にする選択肢もあったと思われる。刀伊の入寇の際は、刀伊は博多湾岸からいったん能古島に退いている。元軍の場合は、能古島では北方の博多湾口を塞がれるとまずいと思ったのか、それとも博多湾岸に近くて日本武士団の攻撃を受けやすいと思ったのか、志賀島に拠点を築いた。

4-5-2 なぜ鷹島へ移ったのか?

江南軍は6月末か7月初めに、日宋貿易の経路となっていた平戸へ到達し、そこに1か月近く滞在した。事前の予定では壱岐で東路軍と合同する予定となっていたが、江南軍の出発が遅れた。そのため、平戸に着いた際には東路軍は既に博多湾の志賀島で攻撃を開始していた。そういう状況では、直ちにそれと合同するか、それを支援する行動を起こすのが普通と思われる。平戸での長期滞在の理由は何だったのだろうか?

そして、江南軍は平戸で東路軍と合同し、7月27日にわずか20km先の鷹島を占領して、そこへ移動した。この占領の意図は何だったのだろうか?平戸から博多まで約80kmある。わずか20km先に兵を進める利点は何だったのだろうか?常識的には、もし志賀島を確保しているのであれば、そこを拠点とした方が有利だと思われる。10万の大軍の拠点にするには、志賀島は小さいと判断したのだろうか?

平戸に長期滞在した理由の一つとしては、平戸の対岸から陸路をとろうとして、1か月かけてその付近の地理を調査した可能性もあるかもしれない。平戸から唐津までは、高さは低いが複雑な山岳地形である。それで陸路による進撃を断念したのかもしれない。そして、その代わりに鷹島を拠点として、そこからすぐ海を渡って、陸路で進軍しようという考え方はあり得ないだろうか。鷹島から唐津まではなだらかな丘陵地帯で、距離は約10kmしかない。ただし、唐津と糸島半島の間には比較的高い山が海岸まで迫っており、博多まで進軍するにはその狭い海岸を突破しなければならない。

もし地理を知り抜いていたら、別ルートとして鷹島から佐賀まで南下して、南から太宰府を攻める選択肢もあったかもしれない。博多経由より距離は1.5倍程度延びるが、太宰府の南には水城のような防衛施設はなかった。

いずれにしても、東路軍だけでも日本武士団は苦戦しているように見えるので、志賀島と鷹島の2方向から攻められれば、日本武士団はお手上げだったかもしれない。


九州北部の地形

4-5-3 元軍がもし志賀島で合同していれば?

あるいは、江南軍はあくまで東路軍と合同して、博多湾から一気に太宰府まで攻め上りたかったのだろうか。もし平戸を早期に撤収して、7月中頃に鷹島ではなく志賀島で東路軍と合同していれば、どうなっていただろうか?

博多湾に大型船だけで1000隻を超える船団が入ってくれば、日本武士団はそれらを徹底的に攻撃する手段はなかっただろう。博多湾南岸は石築地があるので、元軍は湾岸からの上陸を避けたかもしれない。しかし、江南軍が拠点である志賀島に上陸し、そこから東路軍と合わせて十数万名からなる元軍が、海の中道を抜けて博多に入れば、3万+α程度の武士団では、太宰府を守る水城や大野城があっても元軍の進軍を防ぐ手段はなかっただろう。

あるいは、玄界灘に出れば、砂州である海の中道北岸から津屋崎海岸まで、20kmにわたる長大な砂浜が続いている。地理に詳しければ、天候を見計らって、そのどこかに大軍を一気に上陸させて、そこから太宰府に向けて進軍する手もあったかもしれない。

元軍は、鷹島から先どのような作戦をとる予定だったのかはわからないが、いずれにしても、台風が来なければ、その迎撃は困難で長期的なものになっていたかもしれない。

5. 弘安の役後

これだけ大敗した元軍だったが、その元での影響は大きくなかった。その理由を、もともと江南軍の大半は旧南宋の兵士たちで、中国大陸での置き場がないので日本に植民させようとしたとしている [4]。つまり、もともと兵士たちの帰還を想定していなかったというものである。事実、鍬・鋤などの農具や種籾などの植民のための物資が船に積まれていたとされている。

あるいは、日本侵攻は辺境の出来事の一つに過ぎず、フビライの関心は高くなかったという説もある [1]。そのため、フビライは敗戦に怒って罰したかもしれないが、帰国した司令官たちを処刑しておらず、元による日本侵攻の記録もそれほど多くない。そして [1]は、元による日本侵攻を、元の組織の一部である「征東行省」の官僚が、組織拡大や自分たちの利権のためにフビライを熱心に説得したプロジェクトだったとしている。

しかし、フビライは日本侵攻を諦めたわけではなかった。弘安の役の翌年に元は征東行省を廃止し、その役割を上部組織である遼陽行省に統合した。つまり、より上位の組織が日本侵攻に乗り出したともいえた。そして第三次日本遠征計画を企画し、高麗を当てにせず、1282年にはその省自ら艦船の建造にも乗り出した [1]。そして、1283年には再び征東行省を設置し、その右丞相にアタハイを再任した。

日本にもまたまた使節を送ろうとした。1284年に国書を持った使者が対馬まで到着した。しかし、随行者の一員によって使節の一人が対馬で殺されたため、残りの使節は帰った(ただし、そのときの国書の写しは日本に残っている)。

1283年に広東と福建で反乱が起き、翌年にはベトナムで反乱が起きた。この鎮圧に日本侵攻用の軍勢を投入せざるを得なかった。しかも、ベトナムでは台風の影響もあって鎮圧に失敗した上に、元の皇室内の内紛もあった。1286年8月に、日本侵攻軍は朝鮮半島の合浦に結集することになっていた [4]が、日本侵攻は中断された。そして同年に家来の漢人である劉宣が進言し、フビライはこれを受け入れて最終的に日本侵攻は中止された [1]。

6. おわりに

人間は不安を抱えた弱い生き物である。何か心の支えを必要とする。神頼みをしたり、誰かを英雄視したりすることで、それを払拭しようとしているのではないだろうか?それが集団で行われるようになると、国によっては、選民思想になったり、多くの英雄を祭り上げたり、人間を超えるスーパーパワーを想像で生み出したりという願望になるのかもしれない。

文永の役はともかく、江南の役では、確かにたまたまやってきた台風によって日本が救われた面がある。しかし、それをどう解釈するかは、その民族の心持ち次第であろう。

元寇に際して、武士たちは実際に戦い、当然それを自分たちの手柄にしたいので、天候に関する記述をあまり残さなかった。

一方で、武士団による準備と戦いと並行して、神社、仏閣、陰陽師による加持祈祷も盛んに行われた。神官や僧侶は、台風という人知を越える力を自分たちが引き出したと、ことあるごとに主張した。弘安の役では、実際に台風が元軍を追い払うきっかけとなった。神仏を信じる力や恐れる心は現代の比ではなかったろう。これが偶然と重なって神風になったと思われる。

神風を受け入れる、あるいは受け入れたいという心的要素が、大勢の日本人の中にあったということだろう。すくなくともそう願った人々が少なくなかったということである。それは日本人の心の支えに利用され、また、徐々にそれを強化するような言い伝えがなされた面もある。それがだんだん発展していって、一時期日本は神国ということにまでなってしまった。人間が自国の優越を信じたいのは自然の感情であり、その発露の仕方がさまざまな経緯を経て、日本の場合はそうなったのだろうと思っている。

(このシリーズおわり。次は「グローバルとは?」)


参照文献(このシリーズ共通)

1. 宮脇淳子. 世界史のなかの蒙古襲来. 出版地不明 : 扶桑社, 2022.
2. 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(2)-.  132, 水路, 日本水路協会, 2005.
3. 服部英雄. 蒙古襲来と神風. 中央公論新社, 2017.
4. 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(5)-.  135, 水路, 日本水路協会, 2005.
5. 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(3)-.  133, 水路, 日本水路協会, 2005.
6. 藤原咲平. 日本気象学史. 岩波書店, 1951.
7. Byung, Ho, Choi,, ほか. Tide and Storm Surge Simulation for Ryo-mong Invasion to Hakata Bay.  Procedia Engineering, 116, 486-493, 2015.
8. Niimi and Kimura, Verification of the guidance during the period of Typhoon Songda (0418). Technical Review RSMC Tokyo - Typhoon Center, Japan Meteorological Agency, 8, 2005.


2023年12月11日月曜日

元寇と神風(2)戦いは1日ではなかった?

 2-3 戦いは1日ではなかった?

これまで最初の侵攻での戦闘は、11月26日の1日だけと思われていたが、近年あらたな説が出てきた。 [3]は九州から京都への報告の日付から、戦いは10日間ほど続いて、元軍が退却したのは12月6日頃としている。また「関東評定伝」に、11月30日に元軍が太宰府近くまで攻めてきたが撃退したという記録が残っていることも、この理由に挙げている。

確かに、26日に今津に上陸して、20km先の博多で夕方まで戦って、また当日のうちに今津へ退却するのは、暗くなることもあってほぼ不可能である。 [3]は、元軍は日本側の拠点となっていた警固山(今の福岡城趾)を落とすことができず、夕方には陣を構えていた西新のすぐ南の祖原山(麁原山)に引き揚げたとしている。元軍の行動として、これは十分に考えられる。そしてしばらくそこを拠点として博多で戦い続けた。

なお、祖原山は現在祖原公園となっており、元寇古戦場跡という碑が残っている。また同書は、別に箱崎付近に上陸した部隊があった可能性も指摘している。これも十分に考えられる。

警固山付近での合戦推定図(燈線は元軍の進路)。合戦は、警固山の北側だったかもしれない。なお、点線は昭和40年頃の海岸線を示している。クリックすると拡大。(国土地理院電子国土webに地名や経路を追記して使用)

[3]が指摘しているように、上陸戦では海岸に近い山に海岸堡を確保することが重要である。海岸堡は海からの補給の拠点になり、また攻撃や防衛の拠点にもなる。元軍が拠点とした祖原山(標高33m)は海岸や川から離れた内陸にあり、しかも狭い丘で大規模な軍勢が恒久的な陣を敷くには向かない(祖原山から百道浜までの一帯に布陣していた可能性はある)。

もし本格的に海岸堡を築くならば、もっと大きな小山で、かつ船との往来が容易な川沿いの海岸にある、西公園(荒津山:標高40m)や愛宕山(標高70m)の方がよかったのではないかという疑問は残る。ただ、西公園は日本軍の拠点である警固山に近すぎ(距離約1km)、愛宕山は出撃のたびに大きな室見川を渡らなければならず、それで避けたのかもしれない。

2-4 嵐は起こったのか?

上記の八幡愚童記の記述だけでなく、高麗史(東国通鑑)の記録によると、「たまたま夜大風雨。戦艦巌崖に触れて多く敗る」となっている。さらに元史によると、朝鮮半島にたどり着いたのは400隻で、兵士の損害は、合戦での死者2000名を除くと、13500名が溺死したとされている [5]。

八幡愚童記には合戦当時の夜に雨が降った記述があるが、嵐そのものやその痕跡に関する記述はない。もし嵐に遭遇したとすると、それは博多湾から朝鮮半島へ戻る途中の出来事である可能性が高い。八幡愚童記にあるように、一部の船は難破して志賀島近くまで漂流したのかもしれない。

11月末なので、嵐が台風とは考えにくいが、発達した低気圧と遭遇した可能性は十分にある。この時期は冬季季節風が始まる時期であり、通常西風が卓越する。すると東に戻れないので、たまたま南を通り過ぎようとした低気圧による東風を中国や朝鮮半島へ引き揚げるために利用しようとしたのかもしれない。結果、帰還途中の海上で低気圧に遭遇した可能性はある。

本当に夜間に嵐が起こったのならば、数多くの避難民が松明を利用したり、それに遠くから気づいたりするのは困難である。元史には文永の役の記事に風雨に関するものはない [6]。少なくとも博多での戦いの帰結に、嵐のような気象が関係したとは考えにくい。

いずれにしても武士団は善戦し、元軍は簡単には勝てそうにないことを悟った。冬の北西季節風が卓越するようになると、朝鮮半島との間には簡単には船を回せなくなり、元軍は補給が難しくなる。そのため [3]は、嵐に遭遇したことを、戦闘を中止して撤退するための理由として挙げたとしている。しかし、元史にあるように、帰途時に実際に低気圧に遭遇して、多くの船が難破した可能性がある。その漂流した船を日本側が発見して、嵐による撤退という記述になったのかもしれない(もちろん、元史そのものの信憑性の問題もある)。

2-5 文永の役の考察

2-5-1 上陸に博多湾を選んだ謎

当時、船は軍隊の移動にとって大きな利点があった。大量の兵士や物資を陸上より速く輸送できた。そして、防衛側はあらゆる所を防衛することはできないので、船上の軍は敵の防備の薄いところを見つけて上陸できる。ちょうど同じ頃、ヨーロッパ各地でバイキングが猛威を振るったのは、そういった利点を活かしたからだと考えられる。

しかし、船を使った上陸には欠点もある。海岸は、陸という固体と海という液体と大気という気体が混ざり合う所で、それらがぶつかると大きな衝撃が発生する。船は脆弱であり、そうなるとそれらによる影響をまともに受ける。立派な港湾施設などない時代では、上陸は波が凪いだ砂浜にしかできなかっただろう。

また、大型船は直接陸につけることができないので、上陸は少人数ごとに小舟にわけて行う必要があった。これには時間もかかる。もし上陸場所が事前に知られてしまい、そこで迎撃されれば、少人数にわかれた上陸軍は個別撃破されてしまう。そのため上陸戦の要諦の一つは、敵の意表を突いた奇襲である。

元軍は大きな間違いを犯した。事前に対馬と壱岐を征服して襲来を太宰府に予告した。対馬と壱岐の征服には、九州上陸と同時に小部隊を送れば十分だったのではないか?また、迎撃する武士団が待ち構えている本拠地に近い博多湾に上陸した。

確かに博多湾は太宰府に近く、通商の要衝で砂浜を持った大きな湾である。湾は穏やかで、船の停泊にも都合が良いだろう。そこに上陸しようと考えるのは当然ではあるが、防衛側も当然そこを重点に守ることを考える。上陸地点に博多湾を選んだことから、元軍は奇襲上陸をあまり重視していなかったことがわかる。

2万名以上の兵士を沖合の大船から岸へ小舟で上陸させるのは、容易なことではなく、また時間がかかる。本当に11月25日の夕方に到着して、26日の早い時間から進軍を開始したのならば、船にいた兵士や物資の全てが上陸できたわけではなかったかもしれない。元軍は、兵士や馬や物資を十分に上陸させて、その上で戦う準備を整えてから進軍するための時間を稼げなかったのではないか?

一方で日本武士団も、上陸直後の元軍を迎え撃とうと考えていたようには見えない。日本武士団は、進軍する元軍を、今津を含めたあちこちで小勢ではあるが迎え撃っている。しかし、上陸場所が早めにわかれば、逆に日本武士団は上陸中で数が揃わない元軍に対して、先に本格的な攻撃をかけるという考え方もあったはずである。文永の役では、両軍は博多の中心部で、あたかも内陸での対峙戦のように戦ったように見える。両軍ともそういう戦い方しかないと思っていたのかもしれない。

ところで、5回目と6回目の使節であった超良弼は、数か月間博多に留め置かれた間に、付近を偵察していたという説がある。本人にそういう意図があったかどうかはわからないが、帰国後に博多の地理について、いろいろ尋ねられたことは想像に難くない。

 [3]は、博多湾の浅い水深から、元の大船は岸から2kmほど沖合に停泊したのではないかとしている。手漕ぎ船で2kmを何度も往復するのには時間がかかるだろう。上陸場所については、砂浜だけみれば博多湾内だけでなく、博多より北部には津屋崎や神湊付近にも大規模な砂浜がある。唐津湾には虹ノ松原という砂浜がある。

これらの砂浜の沖は水深が深いので、大型船が博多湾より岸近くに投錨できたかもしれない。そうすれば、より速やかな上陸が行えただろう。また、日本は襲来に気づいてからそこまで武士団を派遣するのには時間がかかるので、元軍は海岸で十分に体勢を整える時間が稼げたかもしれない。

もちろん、当時と今とでは戦闘の常識や考え方が異なるので、今の考えをそのまま当てはめることはできない。しかし、ひょっとすると日本は危なかったのかもしれない。もし元軍が周到に準備して、どこかの海岸を奇襲し、拠点となる強力な海岸堡を築き上げてから、太宰府に向けて全軍で一斉に進撃していたら、その撃退は容易ではなかったろう。

2-5-2 撤退時の謎

ところで、別な大きな疑問の一つは、元軍の浜からの撤退時の記録がないことである。八幡愚童記では、元軍は夕方退却を開始して、翌朝には博多湾から姿を消したことになっている。一夜にして元軍が撤退したと読めるような書きぶりとなっている。

今津に上陸したとすれば、夕方に博多から今津にまで撤退することは困難であることは既に述べた。元軍は、事前に祖原山に近い百道浜まで小舟を回して、そこから撤退したのだろうか?それだけでなく、夜間に大勢の兵士を海岸で小舟に乗せ、沖合の大船まで撤収して出航しなければならない。しかも捕らえた住民も連れて行ったようである。当時の状況では、夜間に短時間でしかも隠密裏にこれを行うことは事実上無理があると思われる。

[3]の説のように、博多周辺で10日程度戦ったとしても、元軍の撤退時の記述がないのは不思議である。元軍は不利だったために退却したのだろう。すると、日本武士団は、徐々に浜へ向けて元軍を追い詰めていったとしても不思議ではない。軍事常識では撤退戦は難しい。しかも、最後に兵士を船に収容するとなれば、なおさらである。通常ならば、浜に元軍を追い詰めて、一部の兵士は船に逃れたかもしれないが、日本武士団は多くの兵士を討ち取って大勝となるはずである。そうなれば、日本側はなにがしかの記録を残さないはずがない。

今まで書いた上陸方法は、元軍は沖合の大船から兵士や物資を小舟に積み替え、岸まで漕いで降ろし、また大船に戻ってこれを繰り返すことを前提にしている。しかし、元軍は上陸用に持ってきたパートル軽疾舟300隻に1回で乗れる数の兵士だけを上陸させた可能性もある。

その場合、1隻に漕ぎ手とは別に兵士20名が乗れるとすると [3]、上陸した兵士は多くても6000名程度となる(馬や当座の食糧の輸送を考えれば、実際はこれよりはるかに少ないだろう。 [3]は第1波を約3000名とみている)。それらの船は海岸で待機しており、戻ってきた兵士を乗せてすぐに沖合の大船に戻るというやり方である。しかし、このやり方は後続の兵士や物資をほとんど揚陸できないので、上陸戦というよりは威力偵察に近くなる。

いずれにしても、日本武士団が元軍の撤退を、去る者は追わずとじっと眺めていなかったとすれば、元軍がどうやってほとんど混乱なく陸上から撤退できたのかは謎である。


3. 文永の役の後

3-1 その後の使節

1275年4月、杜世忠を正使とする5名が元使として日本にやってきた。彼ら一行十数人は、博多ではなく長門の室津に到着した。鎌倉幕府は急いで長門の警備を固め、使節全員を鎌倉で斬首した。現在彼らの墓は鎌倉の常立寺にある。この時難を逃れた使節一行の一部が逃げ帰ったが、フビライが使節が斬首されたことを知ったのは5年後だった。

1279年に南宋を滅ぼした元は、前の使節が斬首されたことを知らずに、再び使節を送った。彼らも太宰府で斬首された。

3-2 防衛の強化

翌1275年、執権北条時宗は防衛を強化した。2月に異国警固番役を制度化した。異国警固番役とは、九州の御家人が交替で一定期間、要所の警護をするものである。

一方で異国征伐として、元の日本侵略の基地となっている高麗を、先制攻撃しようという計画が持ち上がった。いわゆる防衛のための敵基地攻撃である。実際に西国の水夫を集めたが、国内の争乱に疲弊していたためかこの計画は実現しなかった。一方で、元は1276年に南宋の首都臨安を陥落させた。

同年に幕府は、九州各国の守護、地頭などを集めて防衛協議を行ない、その結果、石築地の造築が決まった。石築地とは現在元寇防塁と呼ばれているものである。これは高さ約2m、幅3mの石垣で、海岸から50mほど内陸に作った。範囲は博多湾内の東は香椎から西は今津浜まで約20kmにわたった。約半年で作ったとされている。ただ博多湾は全てが砂浜ではなく、岩場もあるので、石築地が範囲内の全てに連続してあったわけではない。

3-3 総司令官を巡る争い

1280年に再度の日本侵攻を決意したフビライは、そのための政府機関「征東行省」を朝鮮に近い満州に設置した。そして高麗に対して日本へ侵攻するために、兵士10000人、水夫15000人、米11万石を用意するように命じた。

高麗内では、高麗の忠烈王とモンゴルに帰順した高麗人である洪茶丘との間に、日本侵攻の主導権争いが起こった。洪茶丘は元の高官であり、高麗内で元寄りの政策をとっていた。一方で忠烈王はフビライの娘と結婚し、妃が王女を出産したことから、皇帝の娘婿を指す「駙馬」の印を得ていた。

忠烈王は、このままだと洪茶丘が総司令官になることを危惧し、自分を征東行省の長にしてほしいとの要望をフビライに出した。フビライはそれを認めて「征日本軍元佩虎符(げんばいこふ)」の割り符を与え、高麗の忠烈王が日本侵攻の総司令官となった [1]。

元寇と神風(3)弘安の役 につづく

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 宮脇淳子. 世界史のなかの蒙古襲来. 扶桑社, 2022.
[2] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(2)-.  132, 水路, 日本水路協会, 2005.
[3] 服部英雄. 蒙古襲来と神風. 中央公論新社, 2017.
[4] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(5)-.  135, 水路, 日本水路協会, 2005.
[5] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(3)-.  133, 水路, 日本水路協会, 2005.
[6] 藤原咲平. 日本気象学史. 岩波書店, 1951.
[7] Byung, Ho, Choi,, ほか. Tide and Storm Surge Simulation for Ryo-mong Invasion to Hakata Bay.  Procedia Engineering, 116, 486-493, 2015.
[8] Niimi and Kimura, Verification of the guidance during the period of Typhoon Songda (0418). Technical Review RSMC Tokyo - Typhoon Center, Japan Meteorological Agency, 8, 2005.



2023年12月9日土曜日

元寇と神風(1) 背景と文永の役

はじめに

日本は古から神に守られた国という信仰があった。元は13世紀に2度日本征服のために侵攻した。日本は2度とも撃退に成功したが、その際に起こった歴史上の偶然の幸いが、この考えを強化した。一部の人々は、祈祷によって起きた強風が大損害を与えたために、元軍の撃退に成功したと主張した。このエピソードは、多くの人々に神が日本を救うために強風を起こしたと信じさせ、日本の思想に影響を与えた。

しかし、元寇で実際に何が起こったのかを、現代において正確に説明することは容易ではない。それは限られた歴史的文献における記述のあやふやさや違い、および人によるそれらの解釈の違いによる。現在、鷹島では沈没した元軍の船の引き上げ調査が行われている。これによる新たな事実によって、これまでの解釈が今後変わる可能性もある。

私は福岡市で暮らしていたことがある。埋め立てなどで元寇の時代とは変わってしまった部分もあるだろうが、少なくとも上陸戦に重要な博多の地形・地理には馴染みがある。ここでは、まず近年まで信じられてきた説を説明しながら、私が知っている範囲で専門家による新たな説も補足して、元寇時に起こったことを、気象を中心に説明することにしたい。なお、文献によって暦の表記方法が異なることがあり、ここでは文永の役は太陽暦、弘安の役は日本の太陽太陰暦を使っている。

1. 背景

1-1 文永の役前の使節

モンゴルのフビライは、モンゴル帝国の中で中国北部を領土としていたが、1264年にハーンの座を争っていた弟のアリクブケを降し、単独のモンゴル皇帝(ハーン)となった。そして、文永の役(1274年)までに日本に6回の使者を送った。

  1. 1266年、1回目。使節は朝鮮から日本に渡らず、国書も日本に届かなかった。
  2. 1268年1月、2回目。使節が太宰府まで来る。国書を渡すが返書を得られず帰国。
  3. 1269年2月、3回目。使節は対馬に到着するが、九州本土に渡れず、そのまま対馬から島人2名を連れて帰国。
  4. 1269年9月、4回目。使節は対馬で国書を渡すだけで、島人2名を対馬で返還して帰国。
  5. 1271年9月、5回目。使節(超良弼)は博多湾の今津浜に到着。入京を望むも許可されず、そのまま帰国。
  6. 1272年3月、6回目。使節(超良弼)は太宰府に到着し、そのまま1年近く留めおかれた末に帰国。

最初の使節は、高麗まで着た後、日本への渡航を躊躇して引き返している。5回目と6回目の使節である超良弼は、帰国後フビライに、日本に侵攻しても利点はないのですべきでないと進言した [1]。もちろん、当時海を渡ることは命がけだっただろう。しかし、それだけではなかったかもしれない。鎌倉政権は発足当初から血で血を洗う闘争を繰り返しており、そのことはある程度高麗にも伝わっていたと思われる。そのような気性の荒い日本人に、モンゴルへの服従を説得するのは困難、と見ていたのかもしれない。

文永の役の前は、モンゴルからの何れの使節も帰国を許したが、執権や天皇に謁見させなかった。また国書は鎌倉政権や御所へ送られたが、返書はモンゴルへ送られなかった。

1-2 モンゴルの目的

モンゴルの他国の支配は、出先機関として徴税官(ダルガチ)を配置して税金を徴収するだけだった。その地の既存の政権や宗教には干渉しなかった [1]。そのため、日本を配下に置けば税金を徴収できるという期待はあったのだろう。しかし、それ以外の目的があったかどうかについては定説がない。

他の目的としては、当時モンゴルは南宋の征服の途上であり、南宋と通商している日本が、モンゴルが結ぶことによって南宋を孤立させるため [2]、軍事物資である硫黄の南宋への供給を止めて、逆にモンゴルがそれを手に入れるため [3]、征東行省という日本を攻略するための役所の官僚の出世欲のため [1]、弘安の役では、征服した南宋軍の始末のための植民のため [1] [4]などが挙げられている。

1-3 当時の日本の状況

1268年3月に北条時宗が第8代執権に就任した。北条時宗は、執権になる前から連署という立場で政治に関わっており、彼は元からの使者の意図を含めて、元と南宋との動向に詳しかったと思われる。2回目の使節(日本に来た最初の使節)を元に戻すと、すぐに西国の守護に異国の襲来に備えるように指示を出している。また、朝廷も「異国降伏」の祈祷を全国の神社に命じている。それらの対応を見ると、おそらく最初から元と結ぶ気はなかったと思われる。

1272年には二月騒動が起きて、時宗は異母弟である北条時輔とその一派を討伐した。とかく争乱が多い鎌倉時代だったが、これで時宗政権に反抗する大きな勢力はなくなり、元に対する挙国一致体制が築けたという説もある。そして、この北条時宗の政権下で元寇を迎えることとなる。

1-4 当時の朝鮮半島の状況

朝鮮半島の当時の状況にも触れておいた方が良いかもしれない。当時の朝鮮半島の政権である高麗は、1231年から1259年まで6回にわたってモンゴルの侵攻を受けていた。そのたびほぼ全土が蹂躙され、和議を結ぶことを繰り返していた。高麗内部も徹底抗戦派とモンゴル帰順派に分かれており、帰順派の高麗人の一部はモンゴルに逃れた上にモンゴル側に寝返った。また侵攻のたびに多数の住民がモンゴルに連れ去られた。

そのためモンゴルには、モンゴルに帰属する高麗人も一定数いたようである。1260年にフビライがモンゴルのハーンに即位し、高麗も元宗が即位すると、高麗は元に降伏して、親元路線をとるようになった。1274年に元宗が亡くなり、息子が即位して忠烈王となると、その流れはより確かとなった。そして、文永の役を迎える。

2. 文永の役(1274年)

13世紀に東アジアと北アジアを支配していたモンゴル帝国の皇帝フビライは、1271年には元と国名を改め、上記のようにその前後から使節を日本へ6回派遣した。 [1]は、他の地域への場合のようにいきなり侵攻せずに、モンゴルが8年間にわたって6回の使者を日本へ送り続けたのは異例と述べている。しかしモンゴルは、2回目の使節が戻る前の1268年に、高麗に対して日本侵攻のための船の建造を命じていた。和戦両構えだったことがわかる。

元と国名を改めていたモンゴルは、何度も送った国書に対する返書を行わない日本に対して、1274年にいよいよ侵攻を決意した。高麗は元はとともに侵攻するための軍を準備するように指示された。

一方、日本の鎌倉幕府の執権北条時宗は元の襲来を予想して、西国の防衛を固めた。しかし、それは幕府としての統一的な防衛軍を組織したのではなく、西日本の御家人たちにそれぞれの手勢を率いた防衛を指示したものだった。

2-1 元軍の構成

1274年の最初の侵攻では、日本征討都元帥にヒンドゥ(忻都)、征東右副元帥に洪茶丘、同じく左副元帥に劉復亨、そして都督使に金方慶が任命された。ヒンドゥのことは元の公式記録になく、彼のことはよくわかっていない。彼は1271年に高麗で起こった三別抄の乱の鎮圧にあたったモンゴル軍の将軍の一人だった。元の公式記録に記載がないことから、彼は服属したどこかの地域の異民族出身だったと考えられている。

 [1]は、彼を部族を率いた代表ではなく、能力を買われた軍人官僚として日本遠征の総司令官の地位に就いたとしている。洪茶丘は高麗人であるが、上述したモンゴルに帰順した高麗人の息子である。劉復亨は、漢人か女真人とみられている。金方慶は高麗人である。彼は高麗軍を束ねるのに必要だったのだろう。

侵攻軍の司令部にモンゴル人はいない。元が直属のモンゴル人部隊を異民族の配下に置くとは考えにくく、遠征軍は異民族からなる混成軍であっても、その中にモンゴル人部隊はいなかった可能性がある。その上、同じ高麗人でもモンゴルに帰順していた洪茶丘の方が金方慶より上位に位置している。司令部も複雑な混成軍であったことがわかる。モンゴル人はいなくても、馬の扱いに長けた民族の兵士はいたと思われる。

高麗史によると、元軍は高麗軍と合わせて兵士約2万6000人と船約900隻から成った [3]。元史からはもう少し詳しいことがわかる。それによると、侵攻軍は「千料舟」と呼ばれる大型の船が300隻、「バートル軽疾舟」という小型の船 が300隻、「汲水小舟」つまり補給船が300隻の合計900隻からなった [1]。兵士は、屯田軍・女直(女真) 軍・水軍で構成された元の遠征軍が15000名(元史日本伝)、そして高麗軍が8000名、操船に関係する者が6700名(東国通鑑)とされている [1]。

2-2 日本への上陸(11月26日)

2-2-1 対馬と壱岐での戦い

元軍は1274年11月11日(太陽暦)に対馬の佐須浦に姿を現して上陸した。対馬の守護代が数十名で迎え撃ったが、鎧袖一触というのだろうか、数で圧倒された。元軍は付近を蹂躙した。対馬は高麗から九州への補給基地となった。元軍は11月20日には壱岐の勝本に姿を現した。壱岐の守護代は、対馬から元軍の襲来の連絡を受けて防備を固めていた。しかし、元軍数百人が勝本に上陸して、その日のうちに城を破られて、守護代は自刃した。

27日には鷹島に元軍800名が上陸し、鷹島一族と松浦党など数十名が応戦したが、鷹島一族は全滅し、松浦党の一部は島を脱出した [5]。ただし、 [3]は鷹島に関する記述は、明治に編纂された八幡愚童記の伏敵編にのみ収録されて、それ以外の八幡愚童記にはないので、事実ではないとしている。

2-2-2 博多湾上陸

11月25日夕に元軍はいよいよ博多湾に姿を現した。翌26日朝元軍は博多湾内西端の今津浜に上陸した(夜半から未明に上陸したとの説もある [3])。今津浜は砂浜で大きな入江になっており、多数の船舶が停泊して上陸するには都合が良かったのだろう。 [5]は今津浜の日本側の防備は30名程度で薄かったとしている。

その日に元軍は、東に向けて長垂(ながたれ)海岸、生の松原、姪浜、百道浜、赤坂へと、今の福岡市の中心部に向けて筥崎宮付近まで、各地で戦闘しながら進軍した。そうだとすると、湾内の南岸はほぼ押さえられたことになる。今津浜から筥崎宮まで歩くと約22kmある。不可能ではないが、重装備の兵士が戦闘しながら歩くのは困難だろう。別働隊が、小型船でどこかに上陸したのかもしれない。

元軍の博多での侵攻想像図(文永の役)

元軍の博多での侵攻想像図(文永の役)。燈線は、元軍がたどったと思われる経路。クリックすると拡大。(国土地理院電子国土webに、地名や経路を追記して使用)

箱崎を出て博多の浜に向かう三井資長(前)と竹崎季長(後)

箱崎を出て博多の浜に向かう三井資長(前)と竹崎季長(後)。クリックすると拡大。蒙古襲来絵詞より。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

[3]によると、最初(第1波)の元軍の上陸部隊の人数は3000名で、それを迎え撃った警固山の日本武士団は、馬上の武士1000騎を含む3000名程度だったとされている。元軍は他の場所にも上陸していたかもしれない。時間はかかると思われるが、第2波、第3波が順調に上陸していれば、数の上では日本勢を圧倒していたかもしれない。

竹崎季長奮戦図

竹崎季長奮戦図。蒙古襲来絵詞より。クリックすると拡大。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

ともかくも日本武士団はこれを迎え撃ち、激戦となった。相互の戦法は異なっていた。日本は伝統的に単騎で矢合わせしてから勝負を挑もうとしたが、元軍はいきなり太鼓を合図とする集団戦法をとった。また「てつはう」という鉄砲の原型となる火器を用いた。この戦いの日本での唯一の記述である八幡愚童記には、元軍は「鎧軽く、馬に良く乗り、力強く、命惜まず、豪勢勇猛自在極りなく、良く駆け引きせり」と記されている。

武士団は長射程の弓矢で対抗したものの、武士たちは不利となり水城までの退却を始めた(水城とは奈良時代に博多と太宰府の間に作られた、全長約1.2kmの土塁を持った水堀である)。ところが八幡愚童記によると、追撃してきた敵の副将劉復亨に対して、大将である少貳景資が放った矢が命中した。これに元軍は動揺した。このとき日没となり元軍は船へ戻った [6]。

白衣の蒙古兵の目に的中した矢。その矢羽の形から竹崎季長が射たとさている

白衣の蒙古兵の目に的中した矢。その矢羽の形から竹崎季長が射たとさている [3]。蒙古襲来絵詞より。クリックすると拡大。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%8F%A4%E8%A5%B2%E6%9D%A5%E7%B5%B5%E8%A9%9E)

2-2-3 元軍の撤退

その夜元軍は日本から撤退し、翌朝に元軍の姿はなかった。八幡愚童記は次のように記している。

さる程に夜も明ぬれば廿一日(注:太陽暦の26日のこと)なり。あしたに松原を見ればさばかり屯せし敵もあらず。海のおもてを見渡すに、咋日のタベまで所せまし賊船一艘もなし。こはいかに、いづくへは隠れたる。・・・皆打たれたまたま沖に逃のびたるは、大風にふき沈められにけり。この事先に生捕れたる日本人のその夜帰り来て語ると、今朝生捕りたる蒙古が言と同じ事なりければ、更に誤りあるべからず。 [6]

座礁した船が1隻あり、約50名が捕虜となった。彼らの証言と船から逃れた日本人の言から、船は沖で大風で沈んだとなっている。これが元軍の撤退を神風のなせるわざとなった起源の一つとなったのだろう。

元軍が撤退した理由には、日本武士団の抵抗が激しいことや副将が負傷したことが挙げられている。また日本武士団は、付近の住民を放置して避難させていなかった。多数の住民が元軍に捕らえらたり、家から放逐されたりしたが、残った大勢の住民が、夜間に避難しようとして利用した松明を、元軍が日本の新たな援軍と見間違えたことも挙げられている [6]。

元寇と神風(2)へとつづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 宮脇淳子. 世界史のなかの蒙古襲来. 扶桑社, 2022.
[2] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(2)-.  132, 水路, 日本水路協会, 2005.
[3] 服部英雄. 蒙古襲来と神風. 中央公論新社, 2017.
[4] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(5)-.  135, 水路, 日本水路協会, 2005.
[5] 今村遼平.「元寇」の真相 -元軍はなぜ海を渡ったか(3)-.  133, 水路, 日本水路協会, 2005.
[6] 藤原咲平. 日本気象学史. 岩波書店, 1951.
[7] Byung, Ho, Choi,, ほか. Tide and Storm Surge Simulation for Ryo-mong Invasion to Hakata Bay.  Procedia Engineering, 116, 486-493, 2015.
[8] Niimi and Kimura, Verification of the guidance during the period of Typhoon Songda (0418). Technical Review RSMC Tokyo - Typhoon Center, Japan Meteorological Agency, 8, 2005.





2023年10月10日火曜日

成層圏突然昇温の発見とその解明(2)

 4. 成層圏突然昇温のメカニズム

その後のさまざまな観測により、突然昇温が起こると極域の成層圏循環に大きな変動が起こっていることがわかった。極域のかなり上層での現象でもあり、当初は電離層の磁気嵐や、オーロラなどのように宇宙線などの太陽活動の変化に原因があるのではないかと推測された。

しかし、結論から言うと、この現象は地球外からの影響によるものではなく、地球の大気が持っている力学的な特徴によるものである。それを1971年に世界で初めて明らかにしたのは、「成層圏準二年振動の発見(3)赤道上空での波の発見」でも登場した日本の松野太郎博士である。同博士は、赤道上の大気力学の解明も含めて、1970年に日本気象学会賞、1997年に日本学士院賞、1999年には米国気象学会ロスビー研究メダルを受賞している。また2010年には日本人として初めて世界気象機関IMO賞を受賞している。

松野太郎博士(日本学士院より公開されている肖像写真)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E9%87%8E%E5%A4%AA%E9%83%8E#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Matsuno_taroh.jpg

ところで、突然昇温が起こると極域成層圏の大規模循環が変わると述べたが、実際のところは逆で、大気循環が変わったために大気の温度構造が変わって、観測された領域で気温が上昇する。そのメカニズムは基本的に「成層圏準二年振動の発見(4)QBOのメカニズム」で述べたことと似た部分がある。

そのメカニズムを理解するには、まず通常の成層圏での東西の大気循環を理解しておく必要がある。極域の夏季は太陽光が当たり続けるので、オゾン層による加熱によって成層圏上層では気温が高くなる。これは高気圧性循環を生み出し、極域成層圏では夏季に東風循環となる。反対に冬季は太陽光が当たらなくなるため冷却し、極域成層圏では冬季に低気圧性の西風循環となる(例えば、前回の30hPa高度図の(a)参照)。これが極域成層圏での基本となる循環の特徴である。

成層圏では対流が起こらないため状態が安定しているように見えるが、圏界面で対流圏と接しているため、対流圏で起こっているある特定の波の伝搬の影響を受けることがある。対流圏ではさまざまな波が起こっているが、その成層圏まで伝搬する特定の波とは、1万キロメートル以上という長い波長を持つプラネタリー波である。この波は西向き(東風)運動量を持っているのが特徴である。

この波は「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)MITでの業績」で述べたように、ロスビー波と呼ばれることもある。またこのプラネタリー波は、惑星波や超長波と呼ばれることもあるが、ここではプラネタリー波で統一する。そして、この波は西風中で上向きに伝搬する性質を持っている。プラネタリー波より波長の短い波は成層圏へ伝搬できない。

さて冬季極域成層圏では高気圧性循環になっているので西風となり、プラネタリー波は成層圏を上に向かって伝搬できるようになる。プラネタリー波の振幅が突然大きくなるなど、特定の条件が揃った場所でこの波が成層圏へ伝搬する。すると、上層に行くほど密度が低くなるため、エネルギー保存則から振幅が増大する。そして「成層圏準二年振動の発見(4)QBOのメカニズム」で述べたことと同様に、波の位相速度が上空の風と同じ速度になるクリティカル・レベルという高度に近くなると、プラネタリー波は砕波し、持っている東風運動量を放出して、そこで西風を弱めて東風に変える。

それまで極域の低気圧性循環(西風)を地衡風として、南向きのコリオリ力と北向きの気圧傾度力が平衡していたものが、西風が弱まることで気圧傾度力が勝り、大気が低圧の極域に向かって流れ込むため、行き場を失った大気は、その高度付近を境に上昇流と下降流を引き起こす。下に向かった流れは断熱圧縮を引き起こして加熱する。これが突然昇温で気温が増加する原因となる。

東風への転換は極域全体で一斉に起こるわけではなく、ある地域から起こって、それが広域に波及する際に成層圏の大気循環が複雑に分裂したり、蛇行したりすることが多い。

運動量を放出した高度で東風に変わると、プラネタリー波はそれ以上は伝搬できないため、QBOの場合のように、波が砕波するクリティカル・レベルの高度も徐々に下がってくる。下層では大気密度が大きくなるため、相対的に突然昇温の程度も小さくなっていって、最後には消滅する。

このメカニズムのため突然昇温によって成層圏はいったんは昇温するが、そのメカニズムが終わると下降流の断熱圧縮による昇温もなくなるため、徐々に冷えて本来の冬季の極域の循環に戻っていく。しかし、突然昇温が晩冬や初春に起こると、そのまま夏の循環に移行してしまうこともある。

成層圏突然昇温のメカニズムの時系列的な概念図(特徴的な部分だけを抽出している)
クリティカル・レベル付近の高度での東風による地衡風の破れによって、極向きの流れによる収束が起こり、下降流が発生する。下降流は断熱圧縮を引き起こして大気を加熱する。その層は徐々に下がってくる。

なお、突然昇温は成層圏の現象であるが、対流圏の高緯度ジェット気流の蛇行に影響を及ぼす可能性も指摘されている。そうなれば冬型の気圧配置になりやすくなり、極域の寒気が中緯度付近に流出することによって地上付近で寒冬になる可能性もある。

突然昇温に限らないが、このように大規模な大気現象は、上空の手の届かない(つまり観察しづらい)ところで、場合によっては数千~数万キロメートルのスケールで力学や化学などのさまざまな要因が複雑に絡んでいることが特徴である。大気科学は屋内実験のようにいろんな条件を変えて試すことが出来ないため、物理学・化学的な理解をもとに、わずかな観測結果から1をもって10を洞察するような直感と想像力を必要とすることが多い。

(おわり:次は元寇と神風(1)


本文中には場所を示していないが、私の理解を確認するために用いた参考文献を以下に挙げる。

  • Matsuno: 1971, A Dynamical Model of the Stratospheric Sudden Warming, Journal of the Atmospheric Sciences, 28, 8.
  • Matsuno and Nakamura:1979, The Eulerian- and Lagrangian- Mean Meridional Circulations in the Stratosphere at the Time of a Sudden Warming, Journal of the Atmospheric Sciences,36, 4.
  • 木田秀次, 1983: 高層大気, 東京堂出版
  • 小倉義光, 1984: 一般気象学, 東京大学出版会
  • 山崎 孝治天気の科学(8) 成層圏突然昇温http://wwwoa.ees.hokudai.ac.jp/people/yamazaki/Lecture/tenki-all.pdf