2026年6月9日火曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(10)ノルマンディー上陸作戦

  (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

 

この上陸作戦(オーバーロード作戦)は19446月にフランスのノルマンディー海岸で連合国軍によって行われたものである。当時ソ連軍はドイツの東で戦いを繰り広げていたが、英米軍はイタリアの北部で戦線が膠着していた。ソ連は早くからドイツの西での第二戦線の構築を要望していたが、連合国軍では準備が整わず、のびのびになっていた。

当時ドイツ軍は「大西洋の壁」と豪語する防衛線を大西洋沿岸に構築しており、フランスには強力なドイツ軍が布陣していた。上陸直後の軍隊は脆弱である。海上では丸裸に近く、上陸直後は海岸には防衛陣地がなく、主な補給は狙われやすい海上補給に頼るしかなかった。もし敵が十分に待ち構えている中を上陸しようとすると、それは自殺行為に等しかった。そのため、ドイツ軍が反撃に転じる前に連合国軍が海岸に橋頭堡(物資補給と防衛の拠点)を確保し、さらに大規模な軍勢の後続上陸を可能にするには、不意を突いて奇襲上陸するしかなかった。

上陸作戦と気象との関係

上陸作戦を成功させるにはいくつか条件があった。まず秘匿した上で上陸行動を起こすには夜明けでなければならなかった。次に上陸用舟艇が座礁するように設置された海中の障害施設を避ける必要があった。そのため上陸は潮が大きく引く大潮の日の干潮時とされた。月齢から作戦予定日は月2回の大潮付近の3日間の黎明に限定された。この条件からすると6月初めの作戦可能日は65日から7日だった。

部隊の上陸は海岸で一斉に奇襲を行わなければ各個撃破される可能性がある。上陸時に強風による高波が起こると、平底で波に弱い上陸用舟艇は転覆したり流されたりする。すると部隊が海没したり、混乱してバラバラになったりする恐れがあった。

また上陸作戦と言っても海岸付近だけで作戦を行うわけではない。上陸後の敵の増援を防ぐために、内陸の鉄道や交通の要衝を事前に精密な爆撃で破壊しておく必要があった。そのため精密な爆撃のための視程(晴天)が必要だった。

さらに、沿岸の砲台の無力化や橋などの交通要所の確保のために、内陸に落下傘部隊やグライダー部隊を降下させることになっていた。パイロットがその降下場所を視認して正確に着地させるためには、一定以上の雲量や強風を避けなければならなかった。着地が目的地から遠い場所だったり、兵士が迷子になったりして広く分散すると、やはり各個撃破される恐れがあった。

しかも100万人を超える人員、1000隻以上の大型艦船、18千機を超える航空機が参加するこの作戦は、爆撃、落下傘降下、上陸などの一連の作戦が全て連携して機能し始めるのに丸1日近くかかった(英国北部から移動する低速船も考慮すると36時間から72時間必要だった)。つまり作戦を決行するかどうかを24時間以上前に決定する必要があった。

そして一度作戦を開始して上陸地点が暴露してしまうと、敵はそこに防御を集中させる。そのため作戦を決行し始めると、奇襲を成功させるためにやり直しはきかなかった。またもし作戦が動き出した後に天候が急変すれば、風や波などの天候によって海岸や内陸で各部隊が大被害を受けることもあり得た。大潮の日の中で、夜明けに晴天で雲が少なく風が弱いという条件を満たす日を、24時間以上前に的確に予報するというのは、当時の予報技術を事実上超えていた。

ただし、だから予報が不可能というわけではなく、安定した天候が続けば数日前からの予報は可能だった。ただ、常にそのような状況になるとは限らず、むしろそうなることは例外に近いということである。大軍の命運を託された予報者たちにかかるプレッシャーは相当なものだっただろう。

仮に気象予報がうまくいったとしても、ドイツ軍も同様の予報を行っているかもしれず、そうなれば上陸時にドイツ軍が準備万端に待ち構えているかもしれなかった。これは連合国軍とドイツ軍の気象学者たちの戦いでもあった。

上陸作戦への気象情報の提供体制

その作戦を司令するのは、ドワイト・アイゼンハワーを総司令官とする連合国遠征軍最高司令部(SHAFE)であったが、護衛艦船を指揮する英国海軍、落下傘・グライダー部隊を指揮する英国空軍、爆撃を行う米国陸軍航空隊、そして上陸用舟艇で上陸する米国と英国の陸軍部隊が気象条件に依存する重要な作戦を担っていた。しかし、もし各部隊が独自の気象情報でバラバラに動くと作戦の成功はおぼつかなかった。そのために気象情報の一元化が図られた。英国海軍、英国空軍(英国気象局)、米国陸軍航空隊が、それぞれ気象チームを派遣して、連合国遠征軍司令部内に合同の気象予報体制が設立された。

つまり、ペターセンとダグラスからなる英国空軍英国気象局チーム(通称、ダンスタブル)、ウォフェとホグベンからなる英国海軍本部チーム(通称、海軍本部)、そしてイェーツ、ホルツマン、クリックならなる米国陸軍航空隊チーム(通称、ワイドウィング)の3チームで合同の気象予報体制が編成された。

これらのチームは一度に会することはなく、英国気象局チームはロンドン北西55kmのダンスタブルに、海軍本部チームはロンドンの海軍本部に、陸軍航空隊チームはロンドン西20kmのテディントンに置かれ、一同は暗号電話でやりとりすることになっていた。このやりとりには欧州連合国軍最高司令部のチーフ気象士官である英国気象局のスタッグ大佐と彼の副官である米国陸軍航空隊イェーツ大佐も加わった(イェーツ大佐はワイドウィングのチーフでもあった)。

チームが分散されて置かれたのは爆撃によるリスク分散も兼ねていた。電話会議でまとまった予報は、チーフ気象士官であるスタッグ大佐と彼の副官であるイェーツ大佐を通して、アイゼンハワー最高司令官に届けられることになっていた。これらのチームの通称は他の書籍でも広く使われている。

ダンスタブルではペターセンが上層気象を担当し、ダグラスが地上気象を担当した。ダグラスは過去数十年の天気図の多くを覚えているという有能な伝説的な予報官だった。彼らは当然ワイドウィングのアナログ手法に信を置いていなかった。ワイドウィングはワシントンの米国陸軍航空隊気象局(JWC)から提供されたアナログ手法を用いた気象情報を用いて分析・判断していた。ワイドウィングの中のバンガードは地上気象と上層気象との関係を統計的に解析していたが、それは確立された実績のある手法ではなかった。海軍本部は独自のアナログ手法のようなやり方を用いており、ダンスタブルと海軍本部の間にも確執があった。

チーフ気象士官であったスタッグ大佐は英国気象局のメンバーであるが、地磁気が専門であり予報の専門家ではなかった。副気象士官でもあったワイドウィングのイェーツ大佐については、第二次世界大戦における気象戦(1)グリーンランド周辺での戦い」で述べたとおりである。彼はワイドウィングのチーフだったがアナログ手法を信頼していなかった。とはいえ、米国陸軍航空隊で絶大な権力を持つアーノルドが公認しているアナログ手法を否定するわけにはいかなかった。各チームは互いに複雑な背景や関係を持っており、彼らが電話会議で予報を一本化するのはかなりの困難を抱えていた。

連合国遠征軍最高司令部(SHAFE)構成図(気象関係のみ)。ペターセンたちはあくまで民間人として活動していたため、階級はない[1]。(クリックすると拡大します)

気象と並んでもう一つ上陸作戦で重要なのは波やうねりの情報である。これはちょうどカルフォルニアにあるスクリプス海洋研究所のウォルター・ムンク博士とハラルド・スベルドラップ博士によって広域の風と波との関係が開発されたところだった。この手法は英国海軍本部がテストを行っていた。英国沿岸やドーバー海峡の海の状態、ノルマンディー海岸の波などの海洋関係の情報は、この海軍本部が適切に処理していたため、問題になるようなことはなかった。

 

 ペターセンの考え

さて、アンツィオ上陸作戦を終えて1月にバーリからロンドンに戻ったペターセンは、さっそく英国気象局長官ネルソン卿と副長官に呼び出された。彼らは5月か6月に行われると想定されるヨーロッパ大陸への上陸作戦の際に、連合国遠征軍最高司令官に気象予報を提供するために検討されている上記の体制を説明した。

しかも、これらのグループは顔を合わせることなく、暗号電話で議論することになっていた。それぞれ気象チームは上記のように歴史や慣習、手法が全く異なっていた。その結果をとりまとめる役割であるチーフ気象士官のスタッグは気象予報の専門家ではなかった。ペターセンにはこのような重大で議論が必要な予報を、電話による話し合いだけで良い結果が出せるとは到底思えなかった[1]

ペターセンはこの体制に疑念を抱いて代替案を出した。しかし、大きな組織ほどあるいは大きな作戦ほどさまざまな妥協によって決まっていることがある。いったんは関与に否定的な考えを持ったペターセンだったが、考え抜いた挙げ句に彼は結果がどうであれこの上陸作戦に関わることを決意した。

ペターセンは気象について次のように考えていた。通常5月はイギリス諸島やその西に背の高い高気圧が頻繁に発生することが多い。この高気圧は安定していて、ほとんど静止している。これは今でいうブロッキング高気圧である。この高気圧がイギリス付近に出現すれば、好天が続くことが多くなる。それなれば作戦決行日の問題は視程と雲量だけになり、負担は大きく軽減されるだろう[1]

ノルマンディー上陸作戦は、当初5月に予定されていたが、上陸用舟艇の準備が間に合わず、6月に延期された。ところが19445月は天候が安定しており、穏やかな晴天の日が多かった。5月に上陸が決行されていれば、天候は作戦上の大きな問題にはならなかっただろう。ところが皮肉にも1944年の6月は記録的に悪天候の日が多かった。これと同じくらい天候の悪い過去の6月を見つけるには、20世紀の初めまで遡る必要があったほどだった[1]。これが上陸日の決定を難しくした。 

作戦決行までの気象予報の経緯

6月前半での作戦可能日は、月齢から65日(日)~7日(火)だった。好天が続いた5月だったが、5月末になると北半球の気象状況に変化が現れ始めた。特に大西洋のアメリカ大陸高緯度で、大量の寒気が蓄積され始めた。これによって極域に巨大な高気圧が発達し、カナディアン・ロッキーからグリーンランド、スピッツベルゲン以東までを覆った。これは今でいう指数が負の「北極振動」の一部と捉えることが出来る。南北の温度差によって高気圧の縁辺では偏西風が強まり、その付近で強い嵐が発達する可能性が高まっていた。

一方で、大西洋中緯度にはアゾレス高気圧があった。これは気象学的には「センターズ・オブ・アクション(活動中心)」と呼ばれる気候の傾向を決定する要因の一つである。日本付近だと同様なものにシベリア高気圧や太平洋高気圧がある。このアゾレス高気圧が北方への伸長と退行を繰り返していた。上陸予定日の第1候補は6月5日(月)(この日を±0として何日前かを記すことにする)である。5月末からの電話会議は、このアゾレス高気圧と極域高気圧の位置と境目での嵐の発達の有無がポイントとなった。

528日(日)(候補日の-8日)

ペターセンはこの日の電話会談で、西風が強まっている上層の状況から612日には天候が悪化する恐れがあると報告した。しかしクリックを擁するワイドウィングのチームは、アナログ手法によりノルマンディー域は、65日頃までアゾレス高気圧に覆われて平穏であると発表していた。海軍本部はダンスタブルの見解に同意していた。作戦決行予定日は65日(月)である。これほど先の予報には不確定な要素も多く、誰もはっきりしたことは言えなかった。

530日(火)(候補日の-6日)

この日の電話会議では、再び会議は分裂した。ダンスタブルでは4日(土)か5日(日)頃に天候が悪化する可能性があると考えていた。ただ悪天をもたらす恐れのある低気圧はまだ影も形もなかった。一方、ワイドウィングはアゾレス高気圧はドーバー海峡に向かって張り出すため上陸地点の天候は平穏と相変わらず主張していた。SAHFEのチーフ気象士官スタッグは意見をまとめきれなかった。

531日(水)(候補日の-5日)

この日の電話会議では、上陸予定日である65日(月)の天候が主題となった。ダンスタブルは五大湖からバルト海にかけて強い西風が吹いており、週末にかけて天候が悪くなるという主張を繰り返し、それに海軍本部も同調するようになった。ワイドウィングは、アゾレス高気圧の尾根がドーバー海峡に向かって伸びると推測しており、低気圧が発生しても高気圧の尾根が伸びる前に足早にドーバー海峡を通過すると判断していた。61日(木)の電話会談でも互いの主張が繰り返されただけだった。

62日(金)(候補日の-3日)

観測は限られていたものの、62日になると低気圧が大西洋中部およびアメリカ東海岸で発生した。ダンスタブルは上層天気図から、これらの低気圧は今後発達すると予想した。彼らはドーバー海峡(ノルマンディー海岸はドーバー海峡のすぐそばにある)で予想される雲と強風と高波から作戦決行に反対した。ワイドウィングは高気圧の尾根の延伸により作戦可能と相変わらず判断していた。チーフ気象士官のスタッグは、ワイドウィングの「純粋な楽観主義」とダンスタブルの「完全な悲観主義」の間で意見を一つにまとめることは困難と考えたようである[3]5日(実際には4日の夜更けから作戦開始)に作戦を決行するか否かの判断のタイムリミット(決行の24時間前)は翌日に迫っていた。アイルランド西端ブラックソッド・ポイントの観測点では、大西洋にある低気圧によって気圧が低下し始めていた。これは会議の参加者に強い印象を与えた。

 63日(土)(第1候補日の-2日)

早朝に行われた会議では、この日になっても意見が分裂したままだった。大西洋にはいくつかの観測しかなく、全容を知るには全く足りなかった。しかし、ワイドウィングの説を裏付ける高気圧が強まっているという観測もあった。一方で、アメリカの五大湖付近では新たに別の低気圧が発生していた。ワイドウィングとダンスタブルの意見は、相変わらず乖離していた。海軍本部がワイドウィングの気象予報に味方し始めた。海軍本部は、アゾレス高気圧の尾根がドーバー海峡を北東に張り出して、多少の曇りをもたらすものの風は穏やかと考えた。ワイドウィングを率いていたイェーツは、会議では黙り込んだままだったが、その後でクリックとホルツマンに次の会議の前にダンスタブルに電話をして、彼らとの意見の相違を解決するように促した。

夕方の天気図が出来ると、低気圧が強まって高気圧の峰が南にわずかに退行しているように見えた。夕方の会議ではワイドウィングの主張は変わらなかったが、海軍本部の意見はダンスタブル寄りに変わった。

 64日(日)(第1候補日の-1日:決断日)

上陸決行か否かは24時間前には決定しなければならない。最終判断のための電話会議は、この日の早朝午前3時から行われた。ダンスタブルと海軍本部は天候が悪化することで合意していた。しかし、ワイドウィングは改めて過去50年分の天気図を調べ直して、高気圧の尾根が再び強まって、これがドーバー海峡への風と雲を伴った低気圧の接近を拒むために静穏であると反論した。しかし、前日にイェーツからの圧力を感じていたクリックは、最終的にダンスタブルと海軍本部による天候悪化の予報に不本意ながら合意した [4]。ぎりぎりの所で合意が成立した。

午前414分に、チーフ気象士官のスタッグは最高司令部での会議で、気象状況のブリーフィングを行った。その結果、上陸作戦(オーバーロード作戦)を24時間延期することが決定され、既に動き出している部隊については停止させることになった。最高司令部の外の天候は穏やかな好天だった。

65日(月)(第1候補日の0日:決行前日)

ところが、64日に大西洋上空の気象システムが大きく変わり始めた。それまで優越していた東西循環が衰えはじめ、南北の子午面循環が卓越し始めた。「北極振動」の指数が正に変わり始めたのである。そうなると上層の偏西風が蛇行しやすくなる。これは大西洋西部にある低気圧の欧州への襲来が遅くなることを意味した。ワイドウィングが主張するアゾレス高気圧の北への伸長も予想され、これによってイギリス北方にある低気圧もノルウェーに向けて遠ざかると予想された。

64日(日)午後7時半から開始された電話会議では、大西洋西部にある低気圧の到来までには時間があると判断された。これらによってノルウェーに向かって北東進するイギリス北方の低気圧と東進する大西洋西部の低気圧との間に間隙が生まれて、ノルマンディー海岸はアゾレス高気圧の尾根に覆われるだろう。66日(火)の夜明けにノルマンディー上陸作戦は可能であるという意見で全員が一致した。それを受けて65日(月)午前415分から行われたSHAFEでの最高司令官会議で、66日(火)早朝の作戦実施が決定された。外は激しい雨風が襲っていた。

66日(火)(第1候補日の+1日:決行当日)

さて作戦の決行当日になった。イギリスの北にあってノルウェーに向けて北東進すると予想していた低気圧は、北東ではなくゆっくりと南東進し、ノルマンディーに近づいた。一方で、ワイドウィングが予想したアゾレス高気圧の尾根が延伸したのは、予想より南のスペインと南フランス上空だった。これは逆にノルマンディー地方に波を高める西寄りの風をもたらすことになった。これらによってノルマンディー地方は、予測したよりも悪天候と強風とになった[3]

作戦当日の天候は予想通りではなかったものの、天候は作戦に致命的な影響を与えるほどには悪化せず、なんとか作戦は決行できた。しかし当時の天気予報の精度から見ると、作戦可能の限界条件を超えた天候になった可能性も十分にあったと考えている。もしそうなっておれば、既に動き始めた作戦を止めることは容易でなく、大惨事に陥ったかもしれない。

 

NOAAによる194466日の地上天気図(部分)。赤枠はノルマンディー域の位置(クリックすると拡大します)。
https://library.noaa.gov/weather-climate/synoptic-map

 それでも当日の上陸の際には、オマハビーチで32台中27台の戦車が高波によって転覆し、干潮時に沖合で下ろされた兵士たちの中には高波で溺れる者もいた。上陸できた兵士たちも船酔い者が多かった。落下傘降下した部隊は、風に流されてロンメルが準備した内陸の沼に降下して水死したり、編隊がばらばらになって予定と異なった場所に着陸したりしたグライダーもあった。しかし、全体として作戦が成功したのは歴史が示しているとおりである。

  

ノルマンディー上陸作戦時の写真。「9. アンツィオ上陸作戦の予報」の写真と見比べると、海が荒れているのがよくわかる。https://ww2db.com/image.php?image_id=3405

 

ドイツ軍司令部での気象情報

上陸作戦は気象条件が重要な要因となるため、気象予測の重要さは迎え撃つドイツ軍にとっても同様だった。当時ドイツ軍は、航空機や潜水艦(浮上した気象観測が行えなくなっていた)によるものを含めて大西洋の気象観測点の多くを失っていた。しかし、米国陸軍航空隊気象局(JWC)は、ワイドウィングなどの米軍気象部隊だけでなく、英国軍やソ連軍にも暗号化した気象解析情報を流しており、ドイツ軍はその暗号を破って使っていたと考えられている[3]。またドイツ軍は、イギリスの飛行場での管制官と到着機との交信も傍受しており、それには視程や雲量などの情報も含まれていた。

第二次世界大戦における気象戦1)、(2)、(3)で連合国軍とドイツ軍による気象観測と暗号解読の攻防戦を述べた。連合国軍ほど気象情報は十分になかったかもしれないが、一般にはドイツ軍の予報はかなり正しかったことが分かっている。ドイツ軍の63日の天気予報では、「アゾレス諸島からフランスに達するこの高気圧の尾根の北側では、大西洋低気圧、または少なくともその一部が、今後数日間は中央ヨーロッパ北部に進み続けるだろう」と説明している[3]。そのため、ドイツ軍の主任気象学者レタウ少佐とそのスタッフは、64日以降の気象は、北大西洋からの新たな低気圧の影響で、侵攻を試みるにはあまりにも条件が悪いということで合意していた[1]。しかし、その根拠はあくまで地上天気図だった。

ノルマンディーを防衛する部隊の主任予報官は、それを見て64日にアゾレス高気圧尾根の張り出しは弱いと正しくみたのだろう。彼はノルマンディーを含むドーバー海峡の天候は悪く、連合国軍は610日頃まで上陸を試みることはできないだろうとノルマンディー地区防衛司令官ロンメルに報告した。64日、ロンメル司令官は休暇を取って、司令部のあるノルマンディー内陸のラ・ロシュ=ギヨンからベルリンへ出発した。ロンメルが休暇を取った以外にも、ドイツ軍ではこの時期に臨戦態勢を解いて視察や演習を行っていた。このため6日の連合国軍のノルマンディー上陸は、ドイツ軍にとっては奇襲となり、ドイツ軍部隊は混乱して反撃が遅れた。

上陸が行われた6日になると、ノルマンディーではワイドウィングが考えたほどアゾレス高気圧の張り出しは強くなく、気圧配置だけから見ると、むしろドイツ軍の予報の方が近かったのかもしれない。気象状況は微妙であり、予報を解釈する方の判断に依存していた面もあった。ドイツ軍最高司令部は、かなり正確な予報に基づいて誤った決断を下したようだという主張もある[3]

前述したように19445月は例年になく穏やかな好天が続いた。ドイツ軍から見ると、好天が続いた絶好の機会に連合国軍は上陸してこなかった。そのため、わざわざこの悪天候が続く期間に連合国軍の上陸はないとドイツ軍では考えた面もあったかもしれない。

 予報の功績論争

上陸日前後の総観気象の状況は異常に複雑だった。低気圧群は例年にない強さでの発達と移動を示し、これらの低気圧とそれに関連する前線の位置の不確実性が、この予報を極めて難しくした。いずれにしても作戦成功の要因の核心は、上陸日を65日から6日に延期したことだった。このことに対する異議はないだろう。

この上陸作戦の予報の成功に対して、連合国遠征軍最高司令官アイゼンハワーからと英国気象局長官ネルソン卿からチーフ気象士官だったスタッグを通してペターセンらに感謝状が贈られている。このことからペターセンらが大きな貢献をしたことは間違いない。

ところが、作戦成功の直後から、ある噂が新聞や雑誌を通してワシントンから各地に広がっていった。それは、英国気象局チーム(ダンスタブル)は気象状況から6日の上陸に反対したが米国陸軍航空隊チーム(ワイドウィング)がクリックのアナログ手法で天候回復による決行を主張した。土壇場で英国海軍チーム(海軍本部)も米国陸軍航空隊チームに賛同したため、上陸作戦の再延期を米国陸軍航空隊チームが救って6日に決行されたのが勝利の原因、というものだった。そしてクリックは英雄扱いされた [1]

しかし、この予報の功績はイギリスを含めて議論となった。この噂の出所はわかっていないが、ペターセンはクリック周辺から出たものではないと推測している。それは、彼がそれまで築いて生きたクリックとの人間関係と、クリックが戦後上陸作戦の予報に関して出した本「Sun, Sea And Sky」で6日の予報について触れていないためだった[1]。ペターセンはある意味でこの論争の真ん中にいてもおかしくなかったのだが、彼は「無名の方針」を貫いて、論争には加わらなかった。

クリックは1947年にカルテックを辞任し、民間の予報分野に進出した。その際に上陸作戦を成功に導いたという噂は彼にプラスに作用したようである。彼は各種イベントのはるか先の天候を予測して評判を得た。しかし、1950年代後半に、米国気象学会がクリックの署名入りの長期予報に関する記述が倫理規定に違反しているとの疑問を呈し、彼は学会を辞任した[4]

まとめ

ノルマンディー上陸作戦での気象予報の経緯には、さまざまな議論がある。当事者による回顧録もいくつか出ている。戦後に機密が解除された情報もあり、それらを用いた研究者による調査論文も多数ある。近年は再解析データを用いた気象状況の再現も行われている。ここでは[1]を主に参考にしたので、いろんな情報を精査した上での内容にはなっていないことを断っておく。

このノルマンディー上陸作戦での予報の経過は、後世の教訓ともなり得るさまざまな問題をも抱えている。2026年にはノルマンディー上陸作戦での気象予報をテーマとした映画も作られており、この予報の経緯についての議論は、現在においても関心が高いものとなっている。

もし66日の上陸をさらに延期していれば、月齢の良い2週間後は大嵐だった。諸条件を考慮すると上陸は数か月後、あるいは1年後になっていたかもしれない。7月以降はドイツ軍がV型兵器を使い始めたため連合国軍はその対応にも追われた。ギリギリのタイミングでギリギリの気象条件で作戦は決行され、なんとか成功した。本書では上陸作戦の成功を「戦いの女神が連合国軍に微笑んだ」と書いたが、さまざまな幸運が重なって成功したと考えても不思議ではないと思う。

もし連合国軍の上陸作戦が延期されていれば、ドイツが戦争に勝つことはなかったにしてもソ連軍がどこまで進出するかによっては、例えばフランスも共産化するなど戦後の世界情勢は今とは大きく異なっていたかもしれないという指摘がある[4]。いずれにしても、この上陸作戦の成功は、気象が世界に最も影響を与えた出来事の一つということはできるだろう。

 

参照資料 (このテーマ共通)

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.
[2] J. Cox , (訳)堤 之智, 2013, 嵐の正体にせまった科学者たち, 丸善出版
[3] Anders Persson, 2020, Right for the Wrong Reason?A New Look at the 6 June 1944 D-Day Forecast by a Neutral Swede, AMERICAN METEOROLOGICAL SOCIETY, Bulletin of the American Meteorological Society, July 2020, 993-1006.
[4] John Ross, 2014, THE FORECAST FORD-DAY, And the Weatherman behind Ike's Greatest Gamble, LYONS PRESS.
[5] Robert C. Bundgaard, 1979, Sverre Petterssen, weather Forecaster, Bulletin American Meteorological Society, Vol. 60, No. 3, March 1979.


2026年6月4日木曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(9)アンツィオ上陸作戦の予報

   (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  

 

9.         アンツィオ上陸作戦の予報

194211月の北アフリカ上陸作戦と翌年のシチリア島上陸作戦の後、連合国軍の戦線が地中海域で拡大していた。雪上車の開発を終えて((8) 雪上車の開発参照)イギリスに戻ったペターセンに、194311月に英国気象局長のネルソン卿から、ペターセンが地中海戦域の米英共同予報サービスのチーフを務めるという提案があった話をした。そこでは英軍と米軍がそれぞれ独自の予報で動いており、それを一元化しよういう考えだったと思われる。しかし、ペターセンは一元化は容易ではないと感じ、ネルソン卿にもできればペターセンに英国気象局に留まって欲しいという希望があったため、ペターセンはこの話を断った。

しかし、この話はこれでは終わらなかった。翌年1月初めに再び別な話があり、今度は約1か月間、英米空軍の地中海での気象中枢があるイタリアのバーリへ行って欲しいということだった。これは上層部で政治的妥協として持ち上がった話のようだった。ネルソン卿を困らせたくないこともあり、ペターセンはこの話を引き受けた。

バーリにて 

ペターセンは早速アルジェ経由でバーリへ到着した。バーリはナポリとほぼ同緯度であるが、アドリア海に面した都市である。そこにある予報センターへ行くと、何か変わったことがあったことがすぐにわかった。前夜にブルガリアの首都ソフィアを爆撃した際に、その爆撃隊10機が未帰還になっていた。地上天気図によると、バルカン半島を東に向かって平坦に伸びる、風が弱い高気圧域があった。ペターセンにはイギリスで爆撃隊の予報を行っていた経験から、思い当たる節があった。

ペターセンは周囲に手伝ってもらって上層500hPaの天気図を描いた。この高度はほぼ爆撃隊の飛行高度と同じだった。大陸北側の大気と地中海沿岸の暖かく湿った空気の間には、明らかに大きな温度差が存在した。この気温分布では、この高度付近に強い偏西風が存在するはずだった。これは今でいう「温度風」の原理である。

ペターセンは、予報センターの人々に爆撃隊搭乗員に対して上空での強い西風が警告されていたのかどうかを尋ねた、しかし予報センターでは地上天気図だけ見て、上空の高気圧の立体構造を考慮していなかった。これからペターセンが得た結論は次のようなものだった。爆撃部隊は強い追い風を受けながらイタリアから東のソフィアに向かったため、目標をはるかに超えてしまった。乗組員はこれに気づいて積荷を下ろして機体を軽くして帰途についたが、向かい風での帰路のための十分な燃料が残っておらず、どこかに不時着した[1]というものだった。

ペターセンはバーリでは米国の気象センターでその時間の多くを過ごした。そして英国気象局の上層大気部門で既に標準的な手順となっている上層大気での技術をそこで教えた。

ナポリにて 

1944115日に、英国海軍地中海艦隊司令のジョン・カニンガム提督からナポリの司令部で会いたいというメッセージが届けられた。海軍から空軍の人間に会いたいという申し入れは珍しいものだったが、ペターセンはカニンガム提督とバーリに赴任する途中にアルジェで面会していた。その際に、1939年にオスロ大学で教えていた時に英国海軍から派遣されていたトレンデル中佐が参謀として気象関係の業務を統括していることがわかった。また、カニンガム提督は敬虔なカトリック信者だけでなく、科学にも興味を持ち、ペターセンが書いた著書の一つ「気象学入門」を読んでいることを知った。 

ジョン・カニンガム提督の肖像画
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Admiral_Sir_John_Cunningham_(1885%E2%80%931962),_GCB.jpg

 カニンガム提督は当然経験したさまざまな気象を熟知していた。ナポリの司令部に行くと、カニンガム提督はペターセンに彼の気象学理論が地中海で通用するかどうか質問した。彼は「物理学理論は普遍的でどこでも通用するものです。」と無難に答えた。しかしカニンガム提督は「いや、そうではない。地中海では、神がいろんなことに手出しするのだ。」と畳みかけてきた。相手は提督である。ペターセンは慎重に「神様は数学者や物理学者にはいつも優しいのです」と答えた。カニンガムはペターセンの答えによって彼に信を置いたようである。

カニンガム提督は1週間後に予定されているローマ南部のアンツィオ上陸作戦の話を切り出した。当時ローマの南で戦線が膠着していた。この事態を打開するために、ドイツ軍の背後に奇襲上陸しようというのがアンツィオ上陸作戦である。この作戦が成功するためには、海上からの部隊上陸と物資輸送、海岸での防衛線の確立のため、上陸時に4日間の凪が必要だった。さらにドイツ軍の増援を阻止するためにはアンツィオにつながる橋と鉄道を晴天時に爆撃する必要があった。これらの攻撃の要点は奇襲であり、それを可能にする天候が実現するかどうかが最大の懸案事項だった。そのためにわざわざイギリス空軍に属するペターセンをナポリに呼んだのだった。

当時のイタリア南部の連合国軍とドイツ軍の状況(クリックすると拡大します)

 ペターセンが行った気象解析による見立ては次のようなものだった。地上天気図を見ると、大西洋からノルウェーに向かって移動してくる一連の低気圧により、大西洋の高気圧は傾むいていた。このような状況では、極域の大気が西ヨーロッパに流入し、西地中海で大きな嵐の発生を引き起こす可能性があった。しかし、上層の300hPaの天気図では強い高気圧が対流圏の循環を支配しており、この高気圧は経験上1週間程度は続くと見込まれた。つまり上陸作戦は可能ということだった。

 1944122日アンツィオ上陸作戦の日の500hPa天気図。地中海上空に安定した高気圧があることがわかる。ECMWFERA)による再解析。https://www.wetterzentrale.de/en/reanalysis.php?model=era

 カニンガム提督は満足そうだったが、唐突に悪天の前兆となる上空での巻雲の発生と上陸作戦を危険にさらす西風の可能性を尋ねてきた。ペターセンは、なぜカニンガム提督がこのような質問をするのか心当たりがないために当惑した。やがてペターセンは、作戦の気象予報に別な所から非公式な情報が入ってきていることを知った。それは米国陸軍航空隊気象局(JWC)が出している5日予報だった(これをペターセンは「ワシントン情報」と呼んでいる)。

この気象予報を監督しているのは、カルテックで一緒だったクリックだろうと推測した(クリックについてはこのブログの「実践の予報学者スベール・ペターセン (5) 米国のMITへ 」を参照)。クリックは米国陸軍航空隊気象局に属し、そこで米国陸軍航空隊アーノルド司令長官の庇護を受けていた。アーノルドがクリックのアナログ手法による延長予報(およそ36時間先以降の予報)を承認していることは十分に考えられた。

気象情報にまつわる組織体制の複雑さは、地中海に来る前にペターセンが予想したとおりだった。作戦に関する気象情報は一元化されておらず、米国陸軍航空隊の気象予報はなぜか米国海軍に伝わっていた。そして、それはイギリス軍海軍主導下の作戦であるアンツィオ上陸作戦にも影響を及ぼしていた。この情報がカニンガム提督が懸念していた原因だと推測された。

ペターセンが予想していた作戦に理想的な気象条件とは異なり、「ワシントン情報」は、グリーンランドから寒気が流入して、海岸で高波を引き起こす低気圧の発生を予測していた。しかもクリックらはワシントンにいて、ペターセンが彼らと状況を議論することは不可能だった。

しかし、ペターセンは地中海上空を覆っている大規模な高気圧の持続を疑うことはなかった。もし寒気が流入してもこの高気圧が跳ね返してくれるだろう。この自信は、地中海の特性を知らずにクリックがアナログ手法という一種の統計に近い手法に定型的に依っていたことを知っていたためでもあった。このクリックとはノルマンディー上陸作戦でも対峙することになる。

120日の作戦の責任者である多くの将軍たちが集まった席で、ペターセンは気象のブリーフィングを行うことになった。カニンガム提督はブリーフィングの席で、シチリア上陸作戦では受けた気象予報が芳しくなかったので、今回は専門家の意見を聞くことにした、とペターセンを紹介した。ペターセンは今後3日間の作戦に理想的な気象予報とその理由を簡潔に説明した。作戦に必要な4日目については、一般的な理論に従って、まだわからないとだけ説明した。

ところが、この作戦のイギリス軍の最高司令官ハロルド・アレキサンダー将軍が、4日目の気象状況について敢えて個人的にと前置きして尋ねてきた。ペターセンは観念して自分の信念に基づいて、「かなり良いと思います」と答えた。多くの将軍たちは作戦の成功に自信を深めて解散した[1] 

アンツィオ上陸作戦の様子。凪の中を舟艇から歩いて上陸している様子がわかる。
https://www.history.navy.mil/content/history/nhhc/our-collections/photography/numerical-list-of-images/nhhc-series/nh-series/SC-185000/SC-185796.html

 1月22日に開始されたアンツィオ上陸作戦が成功したことは、歴史に記録されているとおりである。その一端はペターセンによるものかもしれない。イギリス空軍のペターセンは、海軍が主導するアンツィオ上陸作戦へ助言することを意図して派遣されたものではなかった(少なくとも事前に指示されてはいない)。しかし気象学への深い造詣と責任感の強さから、この複雑な状況の下でこの作戦に対して現地で重大な責任を負うことを自ら選択した。ここにもペターセンの誠実で実直な性格が表れているのではなかろうか。

 

参照資料  (このテーマ共通) 

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.