2026年3月2日月曜日

第二次世界大戦における気象戦(2)暗号書の争奪戦

     (このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)   

 第二次世界大戦における気象戦(1)
では北大西洋での気象予報のため、グリーンランドで気象観測所の争奪戦が行われたことを述べた。ここでは暗号解読について述べる。気象観測結果は暗号で通信されたため、それは暗号解読と大きな関連があった。

まず暗号について簡単に記しておきたい。通信文を暗号化するには、原理的には暗号化と復号化をある規則で行うことが基本である。しかし暗号化の手順は規則的なので、事例を重ねると暗号文から通信内容の推測が可能となることがある。そのため、送り手と受け手だけが使う特別なキーとなる数字(例えば乱数表などを使う)をさらに加えたりなどが行われる。それらは日によって変わったりするため、その使用方法は暗号書に記されている。

軍全体などの多数の送り手と受け手がある大規模な無線通信だと、ある規則に従って機械的に暗号化と復号化を行う方法が採用された。ドイツ軍では、暗号化にエニグマ暗号機と呼ばれる装置が使われた。

エニグマ暗号機
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8B%E3%82%B0%E3%83%9E_(%E6%9A%97%E5%8F%B7%E6%A9%9F)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:EnigmaMachineLabeled.jpg


 エニグマ暗号機は、アルファベットがならんだ回転円筒(ローター)を組みあわせて暗号化と復号化を行う複雑な機構を持っていた。そして暗号化する際には、ローターの選択やその最初のセット位置などは暗号書で規定されていた。そのため、復号化には同じエニグマ暗号機を持っているだけではだめで、暗号を復号化するための暗号書が必要だった。そのため、暗号書と暗号機が共に各部隊に配布された。

エニグマ暗号機のローター
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8B%E3%82%B0%E3%83%9E_(%E6%9A%97%E5%8F%B7%E6%A9%9F)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Enigma_rotor_set.png
 

第二次世界大戦が始まると、このエニグマ暗号機による暗号を解読する戦いが始まった。イギリスでエニグマ暗号の解読を行ったのは、ロンドンの約80km北にあるブレッチリー・パークにある暗号学校だった[1]。イギリスでは、暗号機を製造していたポーランド人などからの情報をもとに、エニグマ暗号機を模倣したものを製作した(盗んできたという説もある)。これによってエニグマ暗号機の原理は理解された。

しかし暗号書がないと暗号の復号化は出来なかった。また暗号機もプラグボードなどが付加されて改善された。そのため、ここに暗号機と暗号書の争奪戦が起こることになった。なおイギリスでは、アラン・チューリングが中心となって暗号全般の解読に対応できるような総当たり的な方式の暗号解読機の開発も行われた。

気象観測の通信は暗号で行われる。定期的に通信が行われるので発信位置を把握しやすい上に、観測所の武装もそれほど強固でないことが多い。つまり気象観測所や気象観測船を狙えば、襲撃しやすい上に暗号書が手に入る可能性が高かった。そのため、暗号装置や暗号書の争奪戦に、気象観測所や気象観測船などが狙われることが多かった。

暗号解読のための気象観測船の襲撃1

1941年3月、トロール船を改造したドイツの気象観測船「クレブス」は、ノルウェーがスカンジナビア半島東端のロフォーテン諸島で、パイロットや船員の視力維持に不可欠なビタミンAの供給源となるタラ油加工工場を襲撃した。しかし、逆にイギリスの駆逐艦「ソマリ」に砲撃され炎上した。

燃え残った船体に乗り込んだイギリスの水兵たちは、船長室にあった円盤が暗号機の一部ではないかと疑い、それが入った箱を持ち出した。この円盤は気象暗号を作成するために使われていたエニグマ暗号機のローターだった。これによって風速、風向、気温、湿度、気圧、雲量、降水量などの気象観測データとその位置を1文字に縮めて、通信時間を数分から数秒に短縮していた。しかも暗号は毎日変わるようになっていた。このローターはブレッチリー・パークに早速送られた。これによって、イギリスは気象観測結果がエニグマ暗号で通信されていることを知った[2]。

暗号解読のための気象観測船の襲撃2

イギリスは位置を把握しやすい気象観測船の拿捕を推進した。ドイツの気象観測船を捜索していたイギリス巡洋艦「エジンバラ」と「ソマリア」は、1941年5月7日の午後に逃走しようとしていたドイツの気象観測船「ミュンヘン」を発見した。「ミュンヘン」はまもなく射程距離に入り、砲弾がこの気象観測船を夾叉した。生命の危険を感じた乗組員は、エニグマ暗号機とその暗号書を残したまま船を捨てた。イギリスの士官たちは船に乗り込んでエニグマ暗号機と暗号書を確保することに成功した[2]。

このように、イギリスは1941年7月までに拿捕したUボートや気象観測船から暗号書とエニグマ暗号機を押収した。それらはロンドン北のブレッチリー・パークの暗号解読センターを送られた。

暗号解読のための気象観測所の襲撃

1941年にグリーンランド付近の海上の警備を受け持つパトロール隊が組織され、グリーンランド・パトロール隊と呼ばれた。このパトロール隊は砕氷機能を持つカッター(小型船)「ノースランド」を旗艦とし、他の古い木造船と合わせて3隻で構成された。指揮はグリーンランド周辺の海を長年にわたって研究して熟知していたエドワード・アイスバーグ・スミスが執った。彼は1942年6月30日に少将となり、戦後はウッズホール海洋研究所の所長を務めることになる。

エドワード・アイスバーグ・スミス
https://en.wikipedia.org/wiki/Edward_H._Smith_(sailor)#/media/File:Edward_H._Smith_(2).jpg

1941年9月初旬に、スミスはドイツ軍がグリーンランド沿岸から気象情報を発信している無線に気付いた。彼は、スコレスビズンドから300km北のマッケンジー湾に、ドイツ人と思われる小集団が上陸したことをスレッジ・パトロール隊(第二次世界大戦における気象戦(1)を参照)から知らされた。彼は「ノースランド」とともに近くを目指した。

 

グリーンランド周辺の地図 

スミスはそこで、ノルウェー船籍のトロール船「ブスコエ」を発見した。そのトロール船を臨検すると、漁船にしては珍しい多数の無線機器があった。乗組員を尋問した結果、乗組員の上陸と無線発信を認めたため、この船は拿捕された。その夜、「ノースランド」からの12人の襲撃隊が、乗組員が上陸した海岸の気象観測小屋を包囲した。襲撃隊は観測小屋に踏み込み、中にいた気象観測員が燃やす前に暗号書を奪い取ることに成功した[2]。

カッター「ノースランド」
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/32/Northland_Color_1.jpg

このような戦いで解読されたドイツの暗号は、ウルトラ情報と呼ばれて秘匿された。そのウルトラ情報によってイギリスは、「イギリス上空の戦い」においてドイツ空軍による攻撃をくいとめ、ドイツのイギリス本土侵攻作戦のための準備状況を知って適切な対応を講じることができた。また北アフリカで、ロンメルのアフリカ軍団が予期していない所にイギリス軍が忽然と現れては攻撃を行い、また別の場所ですばやく攻撃をしかけることができた[1]。このように暗号を解読することによって、イギリスは第二次世界大戦中に、ドイツ軍の大規模な動きをほとんど手に取るように事前に察知できていた。

この暗号戦の影響は、決してヨーロッパだけではなかった。日本海軍はエニグマ暗号機を改良した暗号を使っていた。[1]はイギリスの助力により、ワシントンはウルトラ情報に相当する日本軍の暗号を本格的に解読できるようになった、と述べている(なお、アメリカは通信解析による暗号解読を独自に行っていた)。マッカーサーとニミッツの東南アジアと太平洋戦域における戦略においても、ウルトラ情報は主要な役割りを演じたようである。

参照文献

[1]ウィンターボーザム(平井イサク訳)、ウルトラ・シークレット、早川書房、1978
[2] John Ross, THE FORECAST FOR D-DAY, LYONS PRESS, 2014.

2026年2月25日水曜日

第二次世界大戦における気象戦(1)グリーンランド周辺での戦い

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 戦争において気象情報、特に気象予報は、輸送や作戦に直接影響するため極めて重要な情報となる。第二次世界大戦のヨーロッパでは、正確な気象予報のために、広大な北大西洋にも気象観測網を展開する必要があった。連合国とドイツは、自軍の観測網の構築と相手の観測網の破壊のための戦闘を繰り広げた。第二次世界大戦で展開された気象情報の獲得を巡るこれらの熾烈な戦いについて、[1]を参考に簡単に記しておく。

1.気象観測の重要性

第二次世界大戦の前、デンマークはグリーンランドとアイスランドに、ノルウェーはスバールバル諸島とヤンマイエン島に気象観測者を配置していた。1939年に第二次世界大戦が始まり、1940年春にこの2国がドイツに征服されると、この北大西洋の重要な地域をカバーする気象報告は途絶えた。連合国もドイツも、相手の支配下にある地域の気象情報を獲得しようと躍起になった。北大西洋の気象観測は、観測船と気象偵察機によっても行われたが、陸上の定常観測点からの観測結果の方が信頼性が高い上に使いやすかった。つまりグリーンランド周辺の気象観測地点を巡って、北大西洋の気象戦争が始まろうとしていた。

第二次世界大戦勃発時の
アメリカの懸念は、アメリカが戦争のための物資動員体制が整う前、または戦争態勢に入る前にイギリスがドイツに屈服してしまうことだった。そうすればドイツ打倒のための欧州の強力な拠点が失われてしまう。それを避けるためには、イギリスがドイツに対抗できるように、まず航空機を大量にイギリスへと送る必要があった。

1941年3月に武器貸与法(レンドリース法)の成立で、アメリカからイギリスやソビエト連邦への大量の武器の輸送が始まった。イギリスへの最優先輸送は航空機だった。そのためには、アメリカ北東部からグリーンランドを経由してイギリスへ到達する安全な航空路を確立する必要があった。また、イギリスとソビエト連邦に向かう支援物資を積んだ輸送船団を安全に航行させるために、北大西洋航路の天候を予測する必要もあった。これらのために、北大西洋の気象観測が極めて重要となった。

2.グリーンランドの国際的位置け

16世紀以来、グリーンランドはデンマーク領だった。デンマークがナチスドイツに占領されると、その所属は微妙となった。1940年4月10日、ルーズベルト大統領はデンマーク公使ヘンリック・カウフマンを迎えた。デンマーク政府は既にナチスに協力しており、公使カウフマンは政府からグリーンランドをアメリカの保護領にすることに同意しないように命じられていた。しかし、公使は独断でモンロー・ドクトリンに基づいてアメリカがグリーンランドを保護領にするよう要請し、ルーズベルトとアメリカ国務省はグリーンランドをアメリカの保護領にすることに同意した。

これにはドイツ軍がグリーンランドに飛行場や港を建設することを阻止するだけでなく、アルミニウム精錬に不可欠な鉱石である氷晶石の産出地だったグリーンランドのイヴィグトゥット鉱山をドイツに渡さないための措置でもあった。しかし、外交上の理由からグリーンランドにアメリカ兵を置くわけにはいかず、アメリカは沿岸警備隊員を送り込んで、彼らは自主的に民間人となって、鉱山の警備員として雇用された。同時に鉱山防衛のため、アメリカは3インチ砲やライフル、弾薬を提供した。

グリーンランド南西部のイヴィグトゥット氷晶石鉱山、1940年
https://en.wikipedia.org/wiki/Greenland_in_World_War_II#/media/File:Cryolite_mine_ivgtut_greenland.jpg

1942年、陸軍航空隊のイェーツ中佐は、グリーンランド沿岸に気象観測所を設置するプロジェクトを指揮した。彼はカリフォルニア工科大学の気象学科を出ていた。これは広大なグリーンランドに潜在するドイツの気象観測所を探し出すとともに、連合国軍の観測を構築・維持するという困難なプロジェクトだった。

この下でドイツ軍とのいくつかの戦いが起こった。イェーツ中佐は、後に大佐に昇進して気象に大きな影響を受けるノルマンディ上陸作戦において、総司令官であるアイゼンハワーに気象情報を提供して補佐するという重要な役目も担うことになる。

3.グリーンランドでの気象戦1

ドイツ軍の方もグリーンランド東海岸沿いで気象を確実に掌握しようと狙いを定めていた。1940年半ば、ドイツ海軍は1941年9月、改造トロール船の気象観測船「ザクセン」を派遣し、同船はアイスランドの北東約600 kmにあるヤンマイエン島沖で3か月間、バルーンを使った高層気象観測を含む毎日の気象データを送信した。さらに翌年2月には部下を陸上へ派遣し、第2の観測点を開設した。

さらに同船は、1941年8月にグリーンランド東海岸のシャノン島の南のハンザ湾に進入した。船長であったリッター中尉は、気象観測船「ザクセン」が湾内で凍りつくと、すぐに半数の隊員をシャノン島に上陸させて小屋を建てさせた。氷上にケーブルを敷設して、船と小屋との間の電話回線と電気を確保した。船体の周囲には雪を積んで上空から見ると海氷の塊に見えるように偽装した。そして9月下旬には気象データの送信を開始した。

12月にアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、保護領になっていたグリーンランドも戦争に参加することになった。アメリカはグリーンランドのインフラを大幅に拡張しただけでなく、ニュース、食料、人道支援、娯楽を提供した。連合国軍はグリーンランドのエスキモーネスに、イヌイットやデンマーク人などからなる15名の「スレッジパトロール」を設立した。彼らの任務はドイツ軍の気象観測点を破壊することと自ら気象観測を行うことだった。北極圏での犬ぞりの経験が豊富なデンマーク人、イブ・ポールセンとマリウス・イェンセンがこのパトロール隊を率いた。ただし彼らの武器は猟銃だけだった。

1943年3月11日にこのスレッジパトロール隊はサビーネ島北東岸のハンザ湾にある猟師小屋を利用した気象観測所を発見した。すると同時に2人のドイツ人が小屋から逃走した。パトロール隊は後方に大規模なドイツ軍が控えている可能性を恐れて、いったんエスキモーネスへ戻った。

シャノン島のドイツ軍リッター中尉は、逃走した二人からパトロール隊の襲撃を聞くと、直ちに襲撃隊を率いてこのパトロール隊の捜索を開始した。一方で、イブ・ポールセン率いるパトロール隊もドイツ軍の居場所を突き止めるため、犬ぞりで北上した。ドイツ軍の襲撃隊はパトロール隊と遭遇した。優れた武器を持つ優勢なドイツ軍は攻撃を一瞬ためらい、降伏を求めている間にパトロール隊は逃走した。3月23日にドイツ軍の襲撃隊はエスキモーネスに到達し、同基地を焼き払ったため、パトロール隊はさらに約300 km南のエラ島の観測所まで退却した。

 グリーンランド付近の地図

パトロール隊の隊長イェンセンともう一人は、ドイツ軍の拠点を突き止めようと犬ぞりで再度北上した。しかしドイツ軍の襲撃隊と再び遭遇して二人は捕虜となった。ドイツ軍のリッター中尉はイェンセンの犬ぞりについての豊富な知識を利用しようと考えた。

中尉は新たな観測地点を探そうと、4月に探検隊を組織してイェンセンを連れて出発した。ところが温厚なリッター中尉は、地形もよくわからないままイェンセンの意に沿って動いたようである。5月初めにドイツ軍の探検隊は連合国軍の拠点があるスコレスビズンド(現イットコルトールミート)に到達し、そこでリッター中尉たちは逆に捕虜となってしまった。

捕虜が観測点の位置を自白したためか、1943年5月25日にアメリカ軍の長距離爆撃機がシャノン島の気象観測船「ザクセン」と陸上の気象観測所を爆撃した。ドイツ軍の観測隊員たちは丘の上の予備キャンプへ逃げ込み、この状況をトロムソへ無線連絡した。6月6日に隊員の半数はドルニエ26飛行艇で救出された。残りの隊員は気象観測船「ザクセン」を沈没させて気象観測所を破壊した後、6月17日に飛行艇によって救出された。

4.グリーンランドでの気象戦2

1943年8月下旬、トロンハイムを飛び立った4発のドイツのFW-200長距離爆撃機は、再度気象観測を再開するためシャノン島付近を偵察しようと飛来した。ところがスコレスビズンド上空を経由したため、その湾内で観測を行っていたアメリカ沿岸警備隊のカッター「ノースランド」から発砲を受けた。しかし爆撃機は被害を受けず、シャノン島付近を偵察して基地に帰還した。

フォッケウルフ FW200長距離爆撃機
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/af/Bundesarchiv_Bild_146-1978-043-02%2C_Focke-Wulf_Fw_200_C_Condor.jpg


8月末にトロール船を改造したドイツの気象観測船「コブルグ」は、8人の新しい気象隊員をシャノン島に運ぶために、ザッハー中尉を始めとする18人の乗組員とともに北極圏に到達した。しかし9月11日に同船は氷に閉じ込められた。乗組員が氷を爆破して脱出できるようにするために、物資と氷を破壊するための爆薬を積んだFW-200爆撃機が派遣された。1回目は「コブルグ」を発見することができなかったが、2回目の9月18日に「コブルグ」に爆薬を投下することに成功した。その結果船は氷から脱出し、シャノン島に向かってさらに数km進んだ。

その後、何度か氷結と砕氷を繰り返したが、シャノン島北端でとうとう船は氷のために身動きがとれなくなくなった。乗組員は船から3 km離れた島に資材を運んでキャンプを設置したが、さらに海岸近くに雪洞を掘って、そこで気象観測を行った。

11月初旬、気象観測隊を救出するため、巨大な6発のブローム・ウント・フォスBV222飛行艇が何度か派遣されたが、悪天候などのため気象観測船「コブルグ」を発見できなかった。11月18日には氷の圧力で「コブルグ」の船体が破損した。船体は30度の傾斜をつけ船尾が水没した。船長と6人の乗組員だけが船に留まり、他の乗組員と気象隊員は、キャンプ地に移って掘った雪洞で気象観測を続けた。

ブローム・ウント・フォス BV222飛行艇
https://ja.wikipedia.org/wiki/BV_222_(%E8%88%AA%E7%A9%BA%E6%A9%9F)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bundesarchiv_Bild_146-1978-061-09,_Gro%C3%9Fflugboot_BV_222_%22Wiking%22.jpg


1944年3月下旬になると、雪が緩んで雪洞が危険になった。隊員たちは、近くの岩場に小さな木造の小屋を建てて、そこに観測所を移した。イェンセンが率いる連合国軍のスレッジパトロール隊は、グリーンランド沿岸から流れるドイツの気象無線を知って、気象観測所に対する襲撃行動を開始した。ところが1944年4月22日に
スレッジパトロール隊がドイツ軍の観測所に近づいたとき、逆にザッハー中尉率いるドイツ軍から奇襲を受けた。この時、ザッハー中尉はイェンセンに銃撃されて戦死したが、優勢なドイツ軍に襲われたパトロール隊は逃走した。

しかし、グリーンランドでは、じわじわと連合国軍の圧力が高まっていたようである。1944年6月3日、ユンカース Ju290が南フランスを飛び立ち、ノルウェーのトロンハイム経由で、シャノン島付近で気象観測船「コブルグ」の乗組員と気象隊員を救出した。

その数日後の1944年6月6日、嵐が小康状態になった間隙を突いて
連合国軍はノルマンディ上陸作戦を決行した。ドイツ軍は、連合国軍が嵐の中で風に弱いパラシュート降下や高波に脆弱な上陸用舟艇を用いた上陸作戦を決行するはずがないと思っていた。ノルマンディ海岸を防衛していたロンメル司令官もこの嵐を利用してベルリンへ戻っていた。

ノルマンディ上陸作戦はドイツ軍にとって奇襲を受ける形となった。上陸作戦の成否は、連合国軍とドイツ軍の気象予報の差が明暗を分けた面がある。しかし、このグリーンランドでの戦いを見ると、ドイツ軍はノルマンディ上陸作戦の直前まで北大西洋の気象データの一部を掴んでいたのかもしれない。

参照文献

[1] John Ross, THE FORECAST FOR D-DAY, LYONS PRESS, 2014.

2026年2月19日木曜日

日本からのウィーン中央気象台への支援

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これは日本気象学史の中では雑学に類するものかもしれない。

第一次世界大戦後、ドイツ側で戦ったオーストリア=ハンガリー帝国は、ドイツと同様に莫大な賠償金などにより経済が混乱し、記録的なインフレによって窮乏した。気象学において由緒あるウィーン中央気象台も同様だった。同気象台では観測どころか職員の衣食にも窮した。本書の8-7で述べたように、ウィーンでは有名な気象学者であったマルグレスが年金で暮らしていたが、戦後はその年金ではコーヒー1杯さえも飲めなくなって、1920年に栄養失調で亡くなった。同じく世界的な気候学者であったユリウス・ハンも翌年に窮乏の中で亡くなっている。

その窮状を知った日本の中央気象台は、1921年頃に大日本気象学会*を通して全国の測候仲間に義援金を募り、それは600円に達した。当時の600円が今日どの程度の価値があるかはわからない。そしてそれを救援金として送ってウィーン中央気象台を支援しようとした。

ところが、当時は今日のように国際送金など容易に出来る時代ではなかった。日本で集めた義援金をどうやってウィーンに届けるかが問題となったが、手段がなく途方に暮れていた。

当時中央気象台には、長野県諏訪出身で後の中央気象台長となった藤原咲平がいた。彼は陸軍の永田鉄山と竹馬の友だった。たまたま永田鉄山が藤原咲平を訪ねてきた際に、中央気象台にいた岡田武松は永田鉄山が近々ウィーンへ視察へ行くという話を耳にした。岡田は永田鉄山に頼んで、行李に詰めた多くの見舞い品とともに義援金をウィーン中央気象台へ届けてもらったという[1]。

ウィーン中央気象台はこの支援に相当に感激したようである。高名な気象学者で、後にウィーン中央気象台長になったエクスナーは、副台長との連名で大日本気象学会頭であった中村精男宛に感謝状を出している。岡田武松は後に永田鉄山から、ウィーンでは気象台の方々が非常に喜んで歓待してくれたが彼らは誠に気の毒であった、という話を聞いている。また、岡田自身も後にウィーンへ行った際に、エクスナーから感謝の言葉を直接聞いている。

永田鉄山は陸軍軍務局長だった時にいわゆる相沢事件で暗殺された。彼は陸軍きっての秀才であり、企画院総裁だった鈴木貞一は戦後、「もし永田鉄山ありせば太平洋戦争は起きなかった」と語ったと言われている。その陸軍の永田鉄山がウィーン中央気象台の支援に一役買っていたというのは意外だったので、一言ここに残しておきたい。

大日本気象学会は現在の日本気象学会の前身の組織である。ただ当時は学術的な活動だけでなく、全国の気象技術者(その多くは地方の測候所職員)を結束させる面もあったようである。

(つぎは「第二次世界大戦における気象戦(1)グリーンランド周辺での戦い 」) 

参照文献 

[1]岡田武松、続測候瑣談、岩波書店、1937.

2025年12月20日土曜日

気象警報の伝達苦労の今昔

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  気象学とは異なるが、気象情報の変化が激しい今日、警報伝達の難しさを述べておくのも良いかもしれない。日本での警報は、明治16年にクニッピングが始めた暴風警報に始まる(日本の暴風警報と天気予報の生みの親クニッピング(4)参照)。しかし、危険な気象状況になりそうなことを、漁師などの多くの人々にわかってもらえるためにどう伝えればよいか、については当時から苦労があった。戦前は尋常小学校しか出ていない人々も多かった一方で、当時のいわゆる官吏は難しい漢語を使う傾向にあった。どうも警報に「海上不穏の虞(おそれ)あり」などの文言を用いたこともあったらしい。日露戦争の日本海海戦でその気象予報を行い、戦前に中央気象台台長を務めたことでも知られている岡田武松は、次のように述べている[1]

「虞れあり」なぞと云ふのは誠に六つかしい文字だ、大衆を相手とするものに、こんな途方もない六づかしい文字を用ひるのは決して策の得たものではない。

彼は気象情報をわかりやすく改善しようとしたが、それに対して、論語などの教育を受けた旧来の識者から抵抗を受けたようである。一方で警報に「風強かるべし」のような中途半端な文言を入れていたため、今度は風が強い地域では警報がしょっちゅう出ることになり、「狼来たれり」の二の舞をやってしまったとも述べている[1]

昭和9年の室戸台風の被害を受けて、昭和1091日から気象特報というものが設けられ、「風強かるべし」のような文言はそちらに移されることになった。これは今でいう注意報である。なぜ「注意報」にならずに「特報」という名称にした理由について、岡田は「注意報と云ふのは語路も悪いし、少しく驚かす意味も含んでゐて、面白ろくないと云ふ向きもあり」と述べている[1]。注意報という名称に、当時は抵抗があったことがわかる。これで当時の気象関する情報は、天気予報、気象特報、気象警報の3段構えとなった。

その後、幾多の変遷があったが、2004年(平成16年)の「新潟福島豪雨、福井豪雨」を受けて、防災気象情報の改善が加速した。2006年から指定河川洪水予報の改善が始まり、2008年には土砂災害警戒情報が全国的に発表されるようになった。2010年には各種警報も全国の市町村単位で発表されるように変わり、2013年から特別警報が新設された。2019年には防災行動としての警戒レベルの運用が開始され、2021年にはそれによる住民が取るべき行動が明確化され、各種気象情報などとリンクされるようになった。

防災情報は日進月歩の状態だが、その理解に追いつくのが大変になっている。しかもこれらは防災気象情報のメインストリームの部分であり、他にも記録的短時間大雨情報、竜巻注意情報、高温注意情報(熱中症警戒アラート)など、あまたの気象情報が出されている。他にも地震・津波や火山に関する情報もある。

岡田武松が述べているように、昔から気象関係者は気象に関する危険を誤解なく人々にわかってもらうことに苦心してきた。かつては異常乾燥注意報や異常天候早期警戒情報など強いニュアンス持つ名称の気象情報もあったが、今ではそれらの名称は変更されている。気象情報について名称の変更、情報のレベル化など幾多の改善がなされてきたが、人々の意識や行動も変わっていく。今後もこういった改善は続いていくのかもしれない。

 (次は「日本からのウィーン中央気象台への支援」

  参照文献

[1]岡田武松、続測候瑣談、岩波書店、1937

2025年12月1日月曜日

降水量の測定は容易か?

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レーダー降水量などを除くと、降水量(雨量)の測定は基本的には瞬間値ではなく、ある一定時間の積分値である。そのため、雨水を貯めれば何らかの量の測定は出来る。しかも蒸発などによる貯水後の変動は小さく、また工夫すればその影響を減らすこともそれほど困難ではない。そのためか、降水量の観測の歴史は古い(降水観測の歴史は本書の「4-6 雨量計」で述べたので、詳しくはそちらを見ていただい)。

 紀元前に既に降水量を観測した記録がある。また複数の雨量計を用いたネットワークでの気象観測を世界で最初に始めたのは15世紀の李氏朝鮮であり、そのことを1910年に発表したのは、当時の朝鮮総督府の気象観測所長だった中央気象台の和田雄治である[1]。なお「暴風警報の準備(2」で述べたように、日本での気象観測法を編纂した一人も和田雄治である。

こうやってみると、降水量の観測は順調に発達してきたように見えるが、実はそうではなかった。むしろ降水量の測定は、19世紀まで厄介な問題を抱えた観測の一つだった。

その問題のきっかけとなったのは、1769年頃のロンドンのヘバーデンの実験だった。彼は庭に雨量計を設置するとともに、自宅の煙突の上にもう一つ雨量計を設置した。さらに近くのウェストミンスター寺院の高い塔の上にも雨量計を設置した。彼は一年間測定を続け、煙突での降水量は庭の降水量の80%しかなく、さらに高い寺院の塔の降水量は、庭の降水量に比べて約50%しか示さなかったことを明らかにした。これによって、降水量は高度の関数であると思われた。

ヘバーデンはこの現象の原因を説明できず、雨粒が落下前の地上数百メートルで成長して降水量が多くなったのではないかと推測した。この実験結果を読んだベンジャミン・フランクリンも、同僚への手紙の中で、雨は大気中を落下する間にその冷たさで自ら結露しているかもしれない、と示唆した[1]

各地で同様の高度を変えた観測が行われた。結果は大きなばらつきを示したものの、概ね高度が高いほど降水量が減るという規則性を示した。そのため地上に落下する数百mの間にどうやって雨粒が成長するのか、が議論となった。

個々の雨粒が落下中にどのような挙動を示すのか(成長するのか)、という実験を行うことはほぼ不可能に等しい。19世紀頃から一部の学者は風の影響を指摘するようになったが、決定的な証拠はなかった。今から考えると信じられないかもしれないが、フランスのフランソア・アラゴやイギリスのジョン・ハーシェルなどの高名な科学者も加わって、雨粒が地上近くで成長する凝結条件などの議論が1世紀近く続いた。

この論争に決着をつけたのは、イギリスのウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズ1835 - 1882)である。「えっ?」と思った方は経済学などにくわしい方に違いない。彼は「限界効用理論」という経済学で有名な基礎理論を唱えた一人である。また石炭枯渇などの資源問題、論理学においても大きな貢献を行った。 

ジェボンズの肖像写真
https://en.wikipedia.org/wiki/William_Stanley_Jevons#/media/File:William_Stanley_Jevons_portrait_extract.jpg

  ジェヴォンズは自然科学にも深い関心を持っていた。この問題を解決するために、彼は模型を用いた障害物による風の実験を行い、その結果を1861年に論文で発表した。それは2枚のガラス板の間に煙を流して、障害物によって空気の流れがどのように変わるかを可視化したものだった。彼は、実験結果を次のように述べている[2]。

 空気の流れは、障害物にぶつかるとそれを飛び越える。そうすることで、隣接する平行な空気の流れに押し付けられる。これは直進方向から発散し、同様に次の流れに衝突する。しかし影響によって生じた圧力の上昇は、気流の速度を速めると同時にその厚みを減らす。・・・落下する雨粒は、重力と空気の運動の両方の影響を同時に受ける。それは長方形の対角線をたどる。この長方形の垂直な辺は雨粒の落下速度を表し、水平な辺は風によって与えられる速度を表す。言い換えれば、落下する雨粒の軌道の(鉛直方向からの)傾斜角の接線は、風の速度にほぼ比例して変化する。

簡単に言うと、この長方形の底辺は降水量に比例するが、風が強いとこの底辺が雨量計の間口よりどんどん長くなるということである。彼はこう結論している[2]

障害物の頂上には他の場所よりも少ない雨しか降らず、余剰分は障害物の風下側に運ばれることが、かなり明確に示されていると私は思う。このメカニズムによって、高所における雨量の欠損現象が十分に説明されることに私は疑いを持っていない。
雨量計と風速との関係

雨量計周辺の風の流線の模式図。風の線の間隔が狭いほど風が強い。 

彼は実際の風を同時に観測した降水量の観測結果を引用して、「建物頂上に設置した雨量計と地表の雨量計で観測される降水量の差は風速に比例する」と明確に述べている。これによって、風が強い上空ほど雨量計で観測した降水量が減ることが明確になった。これは観測において、測定器が正確でもその観測手法によって測定結果が正しいとは限らないことと、その判断が如何に難しいかを示している。   

その後、19世紀末から王立気象学会のジョージ・J・サイモンズなどによって降水量の観測にどのような条件が適切なのかの実験が繰り返され、雨量計の設置条件が決定された。気象庁では雨量計を用いた観測に、例えば以下のような環境を推奨している[3]

降水の観測は,できるだけ風の影響がない場所とするのが理想である。これは雨滴や雪片が風の影響を受けて雨雪量計受水口に入らなくなるのを防ぐためである。・・・近くに建物がある場合は,建物による局地的な風の乱れの影響を防ぐため,その高さの少なくとも2倍以上,できれば4倍以上離れた位置に設置する。傾斜地や建物の屋上は観測場所としては,特殊な観測目的以外は,適当でない。雨雪量計そのものも風の影響を受けないようできるだけ低く設置する。

気象庁では基準に沿った場所に雨量計を設置するとともに、降水量の観測地点を見回って、周囲の樹木や建築物などの観測環境に変化がないかなどを定期的に確認している。

 (次は「気象警報の伝達苦労の今昔」)

参照文献

[1] Ian Strangeways, A history of rain gauges, Weather, Vol. 65, No. 5, 2010.

[2] W. S. Jevons, On the Deficiency of Rain in an elevated Rain-gauge, as caused by Wind, Philosophical Magazine and Journal of Science, Vol. XXI, 1861. 

[3]気象庁、気象観測の手引き、1998