2026年5月16日土曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン (4) 北極探検への関与

(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)  
 

4.  北極探検への関与

ペターセンはトロムソの地球物理学研究所に職を得たが、そこはノルウェー北部と隣接する漁場だけでなく、北極圏全体の気象業務を担っていた。ペターセンは早速ノルウェー北部の予報作業に携わらなければならなかった。漁師たちは早朝に出航して一日中漁を行うため、午後7時に電報局が閉まる前に翌日の気象予報を届けなければならなかった。ただ同僚が2人いて、北極圏での数年にわたる予報経験を既に持っていた。ペターセンは、ベルゲン学派が開発した科学的な手法に関する知識で、これを補った。最初の1925年のシーズンは、うまく乗り切ることが出来た。ところが、その後思わぬ事業に巻き込まれることになった。それは北極探検のための予報だった。

北極圏横断飛行(1926年)

北極・南極探検の大御所アムンゼンは北極を最初に訪れ、また南極点に最初に旗を立てた人物である。彼は1925年には飛行機を使って北極点に到達した。翌1926年に彼は、飛行船で北極点を経由してノルウェーとベーリング海峡の東にあるアラスカのノームに到達しようと考えた。その飛行は従来の飛行船では到達困難と考え、彼は新しい飛行船「ノルゲ」を製作した。そして、その船長を飛行船の権威で軍人であるウンベルト・ノビレ、副船長をノルウェーの海軍士官であるライザ=ラーセンが務めた。ラーセンは後にペターセンに何度も大きな影響を与えることになる。そして彼らの冒険を気象学者のフィン・マルムグリーンが飛行船に同乗して支援した。 

アムンゼンの写真
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Nlc_amundsen.jpg

 ペターセンは、トロムソの地球物理学研究所から彼らの冒険のために予報を提供することになった。1926410日にローマを出発した飛行船「ノルゲ」は、57日にスピッツベルゲン島のキングス・ベイに到着した。アムンゼンたちを乗せたノルゲ号は511日朝にノームに向けて出発した。数少ない極域の観測点の観測から、極域は高気圧に覆われて天候は良いが、緯度が下がるアラスカ付近では、東アジアからの低気圧の接近で天候が悪くなりそうなことがわかっていた。

  

北極点を経由したノームまでの地図 

この飛行は大々的に報道されていたこともあり、アラスカへの低気圧の接近がわかっていたにもかかわらず、アムンゼンはこの横断飛行を強行した。スピッツベルゲン島から北極点までの飛行は順調だった。飛行船「ノルゲ」は512日に北極点に到達し、上空から旗が投下され、飛行船は付近を周回した。この前にも北極点に最初に到達したという報告が何人かによってなされているが、このノルゲ号によるものがもっとも確からしいと考えている人も多い。

しかし、その後飛行船「ノルゲ」がベーリング海峡に近づくと、予報通り天候が悪化した。出発後70時間近く経っていた。ペターセンは当時これほど長い先を予報しようとしたことはなかったと述べている[1]。低気圧の中心はノームの南にあった。飛行船では、予報通り北東からの風が強くなり、悪天で船体が着氷し始めた。514日にノビレは巧みに飛行船を操り、ノームの北方のエスキモーの村にほとんど無傷で氷上着地させ、そこで横断飛行は終わった。その後の強風で損傷したため、ノルゲ号はその後の探検には使われなかった。また、アムンゼンとノビレの関係も徐々にこじれて悪化していったようである。

 北極点探検飛行(1928年)

北極点征服はいくつかの隊が成功を報告していたが、北極圏全体はまだ人類にとって未知の世界であり、世界中の人々が関心を抱いていた。そのためか、イタリアのムッソリーニが北極上空の征服を企んだ。当時イタリアは水上機レース(シュナイダー杯)で覇を競っており、世界の航空界をリードしていることを北極上空でも示したいという欲望もあった。

この北極点探検の目的は、北極点への到達と広範囲な探査、そして一連の地球物理学的測定が名目だった。今度はノビレが隊長となり、新しく飛行船「イタリア」が製作され、探検の拠点であるスピッツベルゲン島のキングス・ベイには母船「チット・ディ・ミラノ」が配備された。しかし「チット・ディ・ミラノ」は老朽船で設備も不十分だった。飛行船「イタリア」は192856日にキングス・ベイに到着した。

しかし母船である「チット・ディ・ミラノ」の乗務員と「イタリア」とのコミュニケーションは円滑でなかった。これらをペターセンは独裁国家イタリアの官僚主義と個人的な確執によるものではないかと推測している[1] 

飛行船「イタリア」(Bundesarchiv, Bild 102-05738 / Georg Pahl / CC-BY-SA 3.0https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2_(%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E8%88%B9)#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bundesarchiv_Bild_102-05738,_Stolp,_Landung_des_Nordpol-Luftschiffes_%22Italia%22.jpg

 飛行船「イタリア」は511日と12日に北極圏に向けて離陸したものの、11日は船体着氷ですぐに引き返し、12日は北極圏近くまで到達したが、現地の吹雪と突風で何ら成果を上げることなく引き返した。

522日に再び探検飛行を行う予定だった。この日はスピッツベルゲン島の北方に低気圧があった。トロムソの地球物理学研究所のペターセンは、スピッツベルゲン島の北方の低気圧を避けて、往路も帰路も西方のグリーンランドを経由して北極点と往復することを勧めた[1]

飛行船「イタリア」は、522日朝4時半にキングス・ベイを出発し、いったん北方へ向かったが吹雪に遭遇したため、ペターセンらの助言に従って西のグリーンランドへ向かってから北極点を目指した。飛行船「イタリア」は524日に北極点に順調に到達し、上空で記念式典が開催された。

ところが帰路はペターセンが勧めていた航路をとらず、北極点からなぜか嵐を警告していた地域を通ってまっすぐスピッツベルゲン島へ向かった。飛行船「イタリア」は25日朝に、あと2時間でキングス・ベイへ到着するという無線を最後に連絡を絶った。

飛行船「イタリア」はキングス・ベイから300km北東に墜落していた。墜落時に飛行船は2つに分裂した。ノビレ、マルムグリーンら9名は飛行船片方の地上に落ちた部分に残された。残り6名は飛行船のもう片方に残されたまま再び吹き上げられて飛び去り、そのまま行方不明となった。吹き上げられた飛行船の片方は、飛び去る前に積んでいた多くの物資を地上に投下しため、地上に残された人々はそれで飢えと寒さを凌げることができた。地上に落ちた予備の無線機も正常なまま見つかり、ノビレたちは救助要請の無線を発信した。

 

飛行船「イタリア」の推定航路(灰色:512日、橙色:522日)

 母船「チット・ディ・ミラノ」では、当初遭難した飛行船「イタリア」の無線は破壊されて通信できないと思っていたようである。そのため母船では、飛行船からの救難要請に気づかなかった。ペターセンは母船からの無線を傍受して、日常会話ばかりだったと述懐している[1]。救助要請の無線にはソ連のアマチュア無線家が気づいた。それをもとに地上に残された9名の救出が始まった。

しかし複雑な事情が絡んで救助は錯綜した。フランス、イタリア、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、ソ連に加え、アムンゼンを含む多くの個人が、名声を競うようにバラバラに救出劇に参加した。ところがこれら救助隊の一部も遭難したため、二次救助隊が必要になったりして混乱を極めた。

生き残ったノビレ隊の一部であるマルムグリーンらの3名は、遭難地点のキャンプ地からスピッツベルゲンに向けて徒歩で移動を始めた。しかし、マルムグリーン隊3名はスピッツベルゲンに到達できずにキャンプ地へ戻ることにした。マルムグリーンは途中で衰弱し、本人の意思で置き去りにされた。一方母船「チット・ディ・ミラノ」にいたソラ大尉は、独断でノビレたちの捜索を開始した。ところが、この母船からのソラ隊も遭難した。他の救助隊の一部も遭難して、救助隊のための救助隊が必要になったりしたため、混乱を極めた。そのまま数週間が過ぎた。

空からの捜索と救助も行われた。フィンランドとノルウェーは618日から飛行機による救助隊を出した。これにペターセンらが気象情報を提供した。その捜索に、新たにアムンゼンらも加わった。ただしアムンゼンは、ノビレとの関係修復を期待するマスコミなどの周囲の騒音を嫌ったためか、その目的を秘密にしていた[1]

アムンゼンは新型の飛行艇「ラサム」に乗り込み、619日に離陸した。しかし、アムンゼンの乗った飛行艇は行方不明となった。後日ラサム号の残骸がノルウェー北岸に打ち寄せられているのが見つかり、アムンゼン隊の遭難がはっきりした。ペターセンによると、当日の天候は良く、エンジンの故障と推測された[1]。アムンゼン遭難のニュースは、一時期ノビレたちの遭難より世間を賑わせた。

623日にノルウェー隊の飛行機がノビレたちのキャンプを発見し、ノビレと愛犬を真っ先に救出した。しかし、負傷者を救助するためにキングス・ベイからキャンプに戻った際に着陸に失敗し、ノルウェー隊のパイロットも要救助者となってしまった。パイロットは後日ノルウェーの別働隊の飛行機に救出された。

712日になってソ連の砕氷艦「クラシン」がマルムグリーン隊の残りを発見収容した。その後キャンプ地に到達して、ようやく飛行船「イタリア」の遭難者を収容した。また「クラシン」は「チット・ディ・ミラノ」からのソラ隊も発見していたが、「イタリア」の遭難者の救出を優先している間に、ソラ隊はフィンランドとスウェーデンの飛行機によって救出された。しかし、飛び去った飛行船の方に残された6名は行方不明のままだった。

救助作業のための予報を提供していたペターセンは、救助隊のあり方にさまざまな問題を感じていたが、これで飛行船「イタリア」の救助作業は幕を閉じた。

ペターセンは、ベルゲングループに空きが出来たため、この年の終わりにトロムソの地球物理学研究所からベルゲンへと戻った。

 (次は「実践の予報学者スベール・ペターセン(5) アメリカ訪問」)

参照資料 

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.

なお、北極圏横断飛行と北極点探検飛行については、wikipediaの記述を一部参考にした。

2026年5月13日水曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(3) ベルゲン学派との出会い

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3. ベルゲン学派との出会い 

1920年頃、ノルウェーではヴィルヘルム・ビャークネスを中心とする小さな気象学グループ(ベルゲン学派)が新しい手法による気象予報を行っていた。その新しい手法とは、低気圧周辺の気団の境目である前線という狭い構造を立体的に捉える手法である。それまでの気象予報は、低気圧の周辺は天候が悪くなるという漠然としたものだった。ベルゲン学派による新しい手法は、気象解析によって天候が変わる場所と時刻とその内容をそれまでより正確に予測できるものだった。

その初期のグループにはヤコブ・ビャークネス、ハルバー・ソルベルグ、トル・ベルジェロン、カール・グスタフ=ロスビーなどがいた。彼らがノルウェーで行っていた予報は、第一次世界大戦での物資不足による飢饉を救うため、農業・漁業生産を上げるためだった。漁船の被害軽減や牧畜用干し草の生産に、この手法の有用性が確認されたため、政府からその拡大を求められていた。またベルゲン学派も自分たちの低気圧モデルを発展させた極前線という新しい概念を広めようとしていた。それは低気圧の生成消滅過程を地球規模で議論しようとするものだった。資金は政府の協力によってなんとか目途がついたが、当時の気象学はマイナーで目立たない分野であり、優秀な人材の確保に困難を極めていた。

ペターセンはオスロ大学で地球物理学の専攻を希望していたが、その希望分野に気象学は入っていなかった。当時の伝統的な気象学は専門分野として確立しておらず、地球物理学の一部として物理法則を使わずに叙述的に教えられていた。しかしヴィルヘルム・ビャークネスは、その気象学を改革して、科学化された分野として確立しようと奮闘していた(「気象予測の科学化とノーベル賞」を参照)。オスロ大学の一部の教授はそのことを知っており、ペターセンに将来有望だからと気象学を勧めた。

ベルゲン学派は自分たちの気象学を広めるべく手広く活動しており、その一環で1923年春にオスロ大学で資金援助がついた採用のためのセミナーを開催する予定だった。ベターセンはセミナー開催のためにやってきたベルシェロンの面接を受けて、セミナー参加者として選ばれた(ベルシェロンはのちに雨が降るメカニズムの解明などを行うことになる)。ペターセンはこのセミナーに必ずしも感銘を受けたわけではなかったが、典型的なボヘミア的な芸術家肌を持ったベルシェロンには惹かれたようである。それでもペターセンは迷っていた。彼は気象学へ進むべきかどうかを正直にベルシェロンに相談した。 

トル・ベルシェロンの写真
https://en.wikipedia.org/wiki/Tor_Bergeron#/media/File:Tor_Bergeron.jpg

 ベルシェロンは192210月に北ヨーロッパを襲った有名な嵐の解説をペターセンに行った。従来の気象学者たちはこの嵐に対する警報の発表に失敗したが、ベルゲン学派はこの嵐の事前警報に成功していた。ベルシェロンは、なぜベルゲン学派がこの警報に成功したのかということを夢中になって熱い思いで語ったようである。これがペターセンが気象学への道に進む決め手となった。

その際にペターセンは、気象学を祖父のような耳で吹雪の中を進むことができるような漠然とした「技術」ではなく、「科学」として気象を定式化・数値化することに努めなければならないと決意した。そして気象予報とその予測可能性を集中して勉強することにした[1]。

オスロ大学の学生でありながらベルゲン学派グループに属することになったペターセンは、学資の心配から解放されて、軍籍から離脱した。彼は氷河の調査やベルゲン学派での一時的な予報官助手を務めた後、オスロ大学の修士課程を修了した。そして彼は、ベルゲン学派の新進気鋭の気象研究者としてトロムソの地球物理学研究所に職を得た。そこでアムンゼンなどによる北極探検と関わることになる。

(次は「実践の予報学者スベール・ペターセン(4) 北極探検への関与」) 

参照資料 

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.

 

2026年5月10日日曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(2)出身地北欧ノルドランドのこと

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 2.出身地北欧ノルドランドのこと

ペターセンはノルウェー北部のノルドランド(Nordland:ヌールラン県)ロフォーテン諸島の中にあるハッセル島の貧しい行商人の家で幼少期を過ごした。彼の父は漁師だったが、途中で病気のために漁師を諦め、行商を営んだ。父は行商に出ることが多かったため、彼は父と一緒に過ごすことは少なかったようである。ペターセン家は、1906年にベルゲンの北東ヴィークに土地を買って移住し、農業を営んだ。さらに1910年にはトロンヘイムへと移った。 

ノルウェー付近の地図(クリックすると拡大します。[Alt+◀]で戻ります)

 しかし、ペターセンの先祖は代々ロフォーテン諸島の漁師だった。彼の伝記[1]によると、彼の父方の祖父は、ロフォーテン諸島では有名な漁師であり、その捕った魚を取引する商人でもあった。そこの漁師たちは嵐に見舞われた際の勇敢な行為を大きな名誉としていた。ペターセンの祖父は船長として嵐で難破した船から人命を救う勇気と技術によって、大勢から尊敬されていた。

ある時激しい嵐に見舞われ、ある船が転覆した。近くのどの船も乗組員の救助を試みることができなかった。その時、彼の祖父が船で駆けつけ、押し寄せる波を利用して何度も救助を続け、結局転覆した船の17人全員を無事救助したもあった。しかし、ペターセンが生まれる遙か前の1870年に遭遇した嵐の中で、祖父は冷たい荒波を被りながらも船長として舵を離さなかったため内臓に凍傷を負い、しばらくした後に亡くなった。

また、母方の祖父もロフォーテン諸島で有名な漁師だった。嵐の天候の下での操船ではこの祖父にかなう者はいなかったそうである。祖父は「音の変化で岩礁を見分けることができる」という並外れた能力を持っており、吹雪の暗闇の中を耳を頼りに操船できたと語り継がれている。ペターセンはこの母方の祖父と一時期一緒に暮らしており、鳥や動物の行動と天候との関連などを含めて、自然に関するさまざまな知識を祖父から受け継いだようである。ペターセンの自然に対する鋭い感覚はこの時に養われたものかもしれない。

また[1]は、ノルドランド、エスキモー、ラップランドなどの自身の回りのさまざまな当時の文化などにも触れている。例えばエスキモーの「父親殺し(棄老)」の風習にも触れている。これは父親も名誉なことと理解しており、長男による敬意と慈愛のこもった厳粛な行為だったそうである。このように[1]は、20世紀前後の北欧の民族誌的な観点でも興味深いものとなっている。

トロンヘイムへ移った後に、ペターセンは15歳で電報局で働き始めた。トロンヘイムには陸軍下士官学校があり、中等教育も行っていた。家は貧しかったが向上心に富んだ彼には、有給で学べるこの学校が魅力に映った。しかも陸軍大学校入学の条件となるギムナジウム(大学へ進学するための高等教育機関)の卒業資格を得るために、この学校がギムナジウムへ通う奨学金を出す制度もあった。彼は陸軍下士官学校へ入った後、狭い枠を突破して奨学金の試験に合格して、ギムナジウムへと進学した。

ギムナジウムに進むと、陸軍大学校へ進学するというペターセンの考えは変わった。ただ奨学金を受けた際に、陸軍大学校入学がその条件となっていた。彼は高級将校に相談して、陸軍大学校への入学免除となるオスロ大学へ進むことにした。ただし、最低半年間は有給の見習い軍曹となるのが条件だった。そして、そのオスロ大学で気象学のベルゲン学派と出会うことになる。

参照資料 

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.

2026年5月9日土曜日

実践の予報学者スベール・ペターセン(1)紹介理由

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1.         紹介理由

スベール・ペターセン(18981974)はノルウェー出身で、ヴィルヘルム・ビヤクネスが創設したベルゲン学派の気象学者である。そのため同じベルゲン学派の気象学者ロスビーとは特に仲が良かった。彼は気象予報の有名な教科書を書いており(これはノウハウ本ではなく、物理学理論を用いた解析手法の解説である)、これは一時期世界の主要国で使われた。日本もその例外ではなく、この本の日本語版「天気解析と天気予報」(気象協会)は戦後に大勢の予報官に使われた。そのため一昔前(数値予報がメインになる前)までは、日本でも彼の名前を知らない予報官はほとんどいなかったのではないかと思っている。

しかし、彼は単なる予報の気象学者ではない。彼はマサチューセッツ工科大学(MIT)とシカゴ大学で教鞭を執ったが、研究者としての姿勢を超えて、戦争中の気象予報の実践、予報マニュアルの執筆・普及、そして戦後の世界規模の気象観測システムの確立と幅広く活動した。それを支えたのが、ここに出てくることになる大勢の弟子と多分野にわたる知己である。

また気象以外の身近な分野でいえば、北極圏に近い環境で育った彼は、大戦中に雪上車の開発にも大きく関与している。これはある作戦に投入される予定だったが、その作戦は中止された。しかし、このために開発された雪上車は現在の雪上車の原型となっており、これから発展したものは戦後に南極探検やスキー場など、現在世界中で活躍している。

そして、彼のことを書く時に外せないのは、連合国軍のノルマンディ上陸作戦での予報である。海と陸と空が接する海岸での敵前上陸作戦は、気象に大きな影響を受ける。10万人以上の兵士と数千隻の艦船、千機を超える航空機が関与するこの作戦日の気象予報は、重大な責任を伴っていた。しかも作戦予定日前後に嵐が襲来し、作戦を決行するかどうかの気象判断は微妙だった。

しかし嵐に合間があると予報し、1日延期した上でギリギリに近い気象条件で上陸作戦は決行された。上陸作戦は成功しただけでなく、結果として荒天が続く中を上陸してくるはずがないと思っていたドイツ軍の裏をかくことにもなった。この気象予報は彼一人で行ったものではないが、後に述べるように彼はこの判断に大きな影響を与えたと考えている。

彼は軍服を着た写真が有名であり、そのため彼を軍人と思っている人も多いかもしれない。彼は若い頃に、下士官を養成する学校に一時期いたことがあるが、気象学のベルゲン学派に入るとともに軍籍を離脱し、それ以降は民間人である。彼の軍服姿の写真は、彼が戦争中に米国で連合国軍の仕事に携わる際に、周囲と円滑に仕事を進めるために便宜的に撮られたものである[1]。しかし、ノルウェー人として米国の大学(MIT)へ教員として赴き、そこから連合国軍のために英国空軍下の組織である英国気象局へ貸し出されるという彼の立場は微妙だった(その活動はドイツ占領下で家族が残された母国ノルウェーのためでもあった)。

 

ノルウェー王立陸軍航空隊の中佐としての制服姿のペターセンの写真
https://en.wikipedia.org/wiki/Sverre_Petterssen#/media/File:Sverre_Petterssen.png 

 戦前、彼は国際気象機関(IMO)の海上気象委員長を務めた。戦後は世界気象監視(ワールド・ウェザー・ウォッチ)や地球大気開発計画(GARP)などの世界規模の大気科学の国際プロジェクトにも関与した。これらのプロジェクトは今日の数値予報や気候再解析などの気候科学の基盤となっている。彼の業績は決して過去のものではない。

ノルウェー北部のノルドランドという厳しい自然の中で生まれ育ったためか、彼は常につましく謙虚である。彼は連合国軍によるドイツ爆撃のための気象予報をイギリスで担当した。それは、爆撃隊の遭難や不時着、目標への到達不能、敵の迎撃などによって一つ間違えば大きな犠牲を伴うかもしれない責任を負っていた。その上に派閥闘争や権力などによる理不尽さなどを受けたこともあった。それらに対して、彼の判断や対応は常に冷静で理知的である。

戦後にノルマンディ上陸作戦の予報の功績に関して議論が起こった。彼はその中心にいてもおかしくなかったが、「無名の方針」を貫き、その論争には加わらなかった。さらに彼は後にニクソン政権の腐敗した政治に抗議して、米国籍を返上するなど強い気骨を内に秘めた人間でもあった。彼の自伝[1]は、気象学にどう関与してきたかというだけでなく、戦争などのさまざまな世界的な出来事に関わった際に、自身がどのように考えて決断してきたのかを示す本となっている。

このように彼が自らの人生を冷静に切り開いて来たことが、最後は学術だけではない数多くの賞を受賞することにつながったのではないかと考えている。アカデミックだけでない彼の人柄や業績はもっと知られて良いと思っている。本書「気象学と気象予報の発達史」では彼について断片的にしか記述できなかったので、このブログでまとめて何回かに分けて彼を紹介することにしたい。

受賞歴

1944      ドワイト・アイゼンハワー将軍より表彰状
                  英国航空評議会より表彰状

1948年        大英帝国第3級勲功賞(コマンダー)
                  聖オラフ第
3級勲功賞(コマンダー)
                  ノルウェー解放十字勲章
                  オランダ科学アカデミーのボイス・バロット・ゴールド・メダル

1953     米国陸軍航空隊特別功労賞

1958     ニューヨーク貿易委員会より金賞
            
  ヘルシンキ大学のシルバー・メダル

1962     アメリカ気象学会のチャールズ・フランクリン・ブルックス賞

1965     世界気象機関のゴールド・メダル
                  アメリカ気象学会のクリーブランド・アッベ賞

1969     王立気象学会のシモンズ記念ゴールド・メダル

 

(次は、「実践の予報学者スベール・ペターセン(2)出身地北欧ノルドランドのこと」)

参照資料 

[1] Sverre Petterssen, 2001: Weathering the Storm: the D-Day Forecast, and the Rise of Modern Meteorology (Edited by James Rodger Fleming), American Meteorological Society.