(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)
はじめに
17世紀から、嵐などの暴風雨は気圧が下がることと関係していそうだということは良く知られていたが、19世紀中頃までその現象がどういう仕組みを持っていて、どのように振る舞うのかは謎だった。嵐に今でいうハリケーンや低気圧などの違いがあることさえもわからなかった。そのため、嵐については、ストーム以外にも、ゲール(強風)やハリケーンなど、さまざまな呼び名があった。
このブログの「嵐の構造についての発見」のところで述べたように、当時ニューヨークの実業家だったウィリアム・レッドフィールド(1789-1857)は、1821年にアメリカ東海岸を襲ったグレート・セプテンバー・ゲールの際に、ニューイングランド一帯を広く歩く機会があった。彼はその際に見た倒木の方向に、場所によって異なる大規模なパターンがあることに気づいた[1]。彼は、嵐の風が回転している、つまり大規模な旋風なのではないかという考えを持った。彼は科学者ではなかったが、気象学者にその話をしたことがきっかけで、1831年に「嵐の風が大規模に回転している」という論文を発表した。当時広域にわたる嵐の形態は知られておらず、嵐が組織的な風系を持っているという考えは画期的だった。彼は蒸気船を運航する実業家であったが、まじめで向学心に富んだ人物だった。彼は1848年にアメリカ科学振興協会(AAAS:サイエンス誌の出版などで知られる)の初代会長となることとなる。
ところが、このレッドフィールドが主張する嵐の構造についてアメリカで大きな論争が起きた。1841年に嵐に関して異なる説を発表したのは、フィラデルフィアにあったフランクリン研究所のジェームス・エスピー(1785-1860)だった。彼は、水蒸気が凝結して雨になる際に潜熱を放出することによって上昇流が起きて、それが周囲から大気を集めて嵐(低気圧)が発達すると唱えた。当時熱力学理論は完全には確立されておらず、熱力学を用いたエスピーの考えは画期的だった。ただ彼は、嵐の風は低気圧の中心の回りに回転するのではなく、中心に向かってあらゆる方向から直線的に吹き込むのだと主張した。
エスピーによる熱力学的収束説(左)とレッドフィールドによる回転説(右)
エスピーが低気圧の中心部に向かって風が直線的に吹き込むと考えた理由は、風が回転する必然性が知られていなかったからだった。嵐の風が回転するのは「コリオリ力」によるものだが、コリオリの論文は1835年に出版されていたものの、フランス科学アカデミーによる有名なフーコーの振り子実験をきっかけにそれが再発見されたのは、1859年だった。論争当時、コリオリ力はほとんど知られていなかった。
パリのパンテオンにあるフーコーの振り子
この暴風雨に関する二つの説は、本書の「6-1-6 アメリカ暴風論争」で述べたように、レッドフィールドが本拠地としているニューヨークの学者たちとエスピーが本拠地としているフィラデルフィアの学者たちの間で大論争に発展し、暴風雨論争(The Storm Controversy)と呼ばれた。この論争において、レッドフィールドは、嵐の風は回転による遠心力で中心部から外側に引き出され、下降した上層の冷たい大気が暖かい大気と混じって雲や雨になると反論した。
レッドフィールドの説は、倒木などを実際に観察した結果による帰納的な考えをもとにしていたが、エスピーの説は力学や熱力学理論を用いた演繹的な考察に基づいていた。この論争の背景には、科学は観測に基づく帰納的にあるべきか思考に基づく演繹的であるべきかという当時の思想的論争も絡んでいた。
ヨーロッパでの暴風雨論争
この論争はヨーロッパに飛び火した。イギリスでは天文学者のジョン・ハーシェルや物理学者で数学者のブリュースター卿らはレッドフィールドの帰納説を推した。一方でフランスでは、天文学者フランソワ・アラゴや物理学者で数学者のジャック・バビネらがエスピーの演繹説を支持した。大西洋を挟んだ世界をまたにかけた論争に発展した。
ハーシェルによる大気波の観測
気象に関心があったイギリス天文学者ジョン・ハーシェル(天王星を発見したウィリアム・ハーシェルの息子)は、この論争に啓発されて1836年にロンドンを襲った嵐の時の気圧変化は、嵐が大気の波が交差することによって引き起こされるのではないかと考えた。帰納的な観測によってその波を検出できれば、暴風雨論争に決着をつけて嵐を予測できるかもしれないと考えた。それには天文学からの類推もあった。
ハーシェルは、それまで行われていたように観測結果をやみくもに蓄積するのではなく、波の検出という目的を絞った観測する必要性を感じた。彼は気象観測者たちに、夏冬至点と春秋分点の前後に限って毎時観測を集中して行うように提案した。
この観測結果は、アメリカの気象学者ルーミスによって、初めての詳細な天気図のデータとなった[1]。ハーシェルは政府に気象観測所を多数設置するようにも要望した。これは受け入れられなかったが、後にフィッツロイによる電信を用いた気象観測網の下地となった。
ハーシェルは、同僚のバートに各地の観測結果の解析を続けさせたが、想定された大気の波は観測されなかった。彼は気圧変化の周期に解析を絞ったが、やはりそのような波は確認できなかった[2]。彼の帰納的な考えは、気象学の場合は結実しなかった。ハーシェルの研究は、その後防災などの実用を目指す気運が気象学に高まったこともあって、断念された。
ハーシェルの波の交差という考えは、ドイツの気象学者ドーフェが1831年に示唆していた大規模な気流の境目[3]として見れば全く見当外れなものではなかった。しかし、それは後にヤコブ・ビヤクネスが前線を発見するように、周期性のある気圧波のようなものではなかった。なおこの約100年後に、上層ではロスビー波という大気波が発見されることになる(「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)」参照)。この場合は、ロスビーによる演繹的な理論が先行し、その後に観測によって実際に波が確認されている。
暴風雨論争と光の波動説
暴風雨論争は当時イギリスなどで行われていた光の粒子説と波動説の議論にも影響を与えた。17世紀にホイヘンスが提唱し始めた波動説は、波動性そのものは実験で確認されたものの、波を媒介する物質として未確認のエーテルの存在という演繹的な仮説から出発していた。18世紀にはニュートンが主張した帰納的な粒子説が主流になったものの、19世紀に入るとイギリスの物理学者ヤングが光の波の干渉を示す実験を行い、その結果を約30年後にフランスの物理学者オーギュスト・フレネルが数学的に理論化した。そのため、エーテルを仮定する演繹的な波動説が有利となっていた。暴風雨論争が始まると、レッドフィールドの説は、帰納的な粒子説を力づけることとなった。
暴風雨論争の解決
レッドフィールドの説は観測結果に基づいた帰納的な考えに基づいていたが、観測によって回転する風が内側に収束しているのか外側に発散しているかを立証することは困難だった。一方で、エスピーの説は、熱力学理論を演繹的に正しく用いていたが、コリオリ力を考慮しなかったことと自身の頑迷で強引な性格が災いしてか、大勢の科学者を納得させることが出来なかった。この論争にさらにペンシルバニア大学のヘアによって当時最新の流行だった大気電気説が参入してきた。
暴風雨論争は結局論争者たちが生きている間には決着がつかなかった。約20年後にアメリカの大気力学の研究者ウィリアム・フェレルによる、「嵐の原因は、潜熱による熱力学的な上昇流であり、風は低気圧中心に吹き込む際にコリオリ力で回転する」という結論によって解決された。
人間が自分一人で取り扱うことが出来る現象の問題は解決しやすい。例えば繰り返し観察したり、実験したりすることが出来る場合もある。しかし嵐に関するこの論争は、人間が届く範囲を超えた広域の気象を正確に捉えることが、当時いかに困難だったかを示している。この論争は、こういった現象を捉えるには、広域の気象観測網による統一的な組織的観測が必要であることを、多くの人々に感じさせることになった。
暴風雨論争の余波
イギリス工兵隊のウィリアム・レイドは、赴任先のバルバドス島に大被害をもたらした1831年の嵐の経験から、イギリス海軍艦艇の航海日誌と嵐の報告を集めてレッドフィールドに提供した。これはレッドフィールドによるハリケーンの研究を推進するとともに、この研究成果は1848年のイギリスのピディングトンによる「水夫のための全世界での嵐の入門書」の一部となった。またレッドフィールドはさらに研究を進めて、その成果はペリー提督が日本遠征時の公式報告書の中に、「太平洋のサイクロン」という題で含まれている。
一方でエスピーの方は、熱力学を先取りした画期的な理論だったが、コリオリ力を考慮しなかったのと、彼の傲慢な態度が災いしてか、彼の説の価値自体が曖昧となってしまった。しかし、彼は自分の説を立証しようとアメリカ国内の気象観測網の設立に尽力した。当時アメリカ陸軍は兵士の健康問題などのため気象観測網を構築しつつあった。観測結果によって自説の立証はできなかったが、気象観測網構築に協力した彼は、アメリカ国家機関での初めての気象学者に任命された。
(次は「フィッツロイと天気予報(1)」)
参照文献
[1] J. D. Cox (2013), 嵐の正体にせまった科学者たち(訳:堤之智)、丸善出版
[2] V. Jankovic, (1998), "Ideological crests versus empirical troughs: John Herschel's and William Radcliffe Birt's research on atmospheric waves, 1843-1850.", Cambridge University Press.
[3] 斎藤直輔(1982), 天気図の歴史、東京堂出版
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