2019年9月30日月曜日

気候学の歴史(5) 気候データの保管 (History of Climatology (5): Climate observations archives)

 気候図とは別に、整理した気象観測値の保管も始まった。1873年のウィーンでの第1回国際気象会議で、アメリカ代表は気候や気象変化の研究のために、世界規模での同時気象観測結果を収集して発表するという提案を行って賛同を得た。そのためアメリカの陸軍信号部(Army Signal Office)では、1875年から各国からの報告をまとめて「国際同時観測報告(Bulletin of International Simultaneous Observations)」を出版した。その後、各国で観測された観測データの流通・交換を促進するため、1879年の第2回国際気象会議で国際気象機関(International Meteorological Organization: IMO)が設立された。ただし、当時は単に観測データを交換してもほとんど使えなかった。それは観測手法や時刻、単位が異なっていたからで、そのままでは他国と自国とのデータとの比較は困難だった。本の11-1「国際気象機関(IMO)の設立」で述べているように、IMOはその後この問題と長年格闘していくことになる。

 1905年に、フランスの気象学者テスラン・ド・ボール(彼については、このブログのレオン・テスラン・ド・ボールで紹介)は、全世界を代表する気象観測地点から観測データを組織的に電報で集めることを主唱した。これはレゾー・モンディアル(Reseau Mondial:世界規模観測網)と呼ばれた。これは賛同を集めて、IMOにレゾー・モンディアル委員会ができた。ところが、当初の壮大な計画は、既存の気象観測所から郵送等で集められた観測データを統計してその気候値を発表することに縮小された。しかし、あちらこちらに散在している気象データを1か所に集めて、整理する仕組みが整えられたことは画期的なことだった。

 各々の地点は統計値(例えば月平均値)を計算して、その結果を担当機関に送った。この整理作業は賛同する機関の協力の下でIMOのレゾー・モンディアル委員会が担当した。IMO1923年の会議で世界気象記録(World Weather Records: WWR)を発行することを決めた。これは1800年代初頭からの世界の観測所での月平均での気温、降水量、気圧の観測データをとりまとめるものだった。しかし、この作業は委員会では荷が重すぎたため、本の6-2-2「ヘンリーによる電報を使った気象観測網の誕生」で詳しく説明しているアメリカのスミソニアン協会(Smithsonian Institution)が、この作業を引き受けた。1927年にはWWRの第1巻が発行され、それ以来約10年毎に発行された。WWR 1959年に米国気象局に引き継がれ、現在は米国海洋大気局(NOAA)が担当している。このデータは今日ではデジタル化されて地球温暖化による気温の歴史的上昇を評価するための貴重な基礎データの一部となっている。

 近年では地球温暖化の関心の高まりを受けて、アメリカの国立大気研究センター(Center for Atmospheric Research : NCAR)と二酸化炭素情報分析センター(the Carbon Dioxide Information Analysis Center : CDIAC)が、気候変動の解析のために1992年から、6039地点の品質評価された地上気温観測データを用いたthe Global Historical Climatology NetworkGHCN)というデータベースを発行しており、WWRとあわせて多くの気候研究に使われている[1]。

つづく

参照文献

[1] Peterson and Vose-1997-An Overview of the Global Historical Climatology Network Temperature Database, Bulletin of the American Meteorological Society, 78, 12, 2837-2849

2019年9月28日土曜日

気候学の歴史(4) 気候統計とデータ処理 (History of Climatology (4): Climate statistics and data processing)


 18世紀後期と19世紀初期には革命などを経て一定の領域を統一的に統治する「国家」という理念が明確になってきた。国家はその維持や繁栄のために、国家の基礎となる国家人口、農業種の構成、課税対象物の生産量、国民の健康状態、人種構成、国民の富の分布のような新しい情報を必要としたため、そのような基礎統計の作成と提供を熱心に行うようになった。そして、そのような統計の対象に気象(気候)データも含まれていた。[1]

 このようなデータの統計作業には膨大な手間がかかる。そのためにそれを軽減する工夫が行われた。アメリカの発明家ハーマン・ホレリス(Herman Hollerith, 1860-1929)は、固い紙上のあらかじめ定義された位置の穴の有無で情報を保管、処理するパンチカード(punch card)とその集計機(Tabulating machine)を発明し、1890年の米国の国勢調査で初めて使用された。彼はそれをもとに後にIBM社となる会社を興した[2]
パンチカード

 毎日定時観測される多数地点の気象データを人手で統計処理するにも膨大な手間がかかる。そのためにやはり処理の機械化が考えられるようになり、20世紀に入ると大量の気象データの統計処理(つまり気候データ化)にパンチカード・システムが使われるようになった。

 イギリスでは船の航海日誌の風データを使って海洋上の風配図を作成するために、1920年頃からパンチカード・システムを用いた。するとオランダ、ノルウェー、フランス、ドイツなどが気候学のための気象統計にそのシステムを導入するようになった。1927年に、チェコの気象学者L. W.ポラック(L. W. Pollak)は、安価なカードパンチシステムを開発した。さらにチェコでは気象観測地点でパンチカードにデータを直接記録して中枢の表作成部門に送ることを可能にした[3]1930年代には、多くのヨーロッパの国家気象局は、気候統計のためにパンチカード・システムを導入した。このシステムは日本でも軍など一部では用いられたが、当時の中央気象台では金銭的な余裕がなく、少なくとも戦前は用いられなかった[4]

 パンチカード・システムを使った処理はそれまでの人手による計算によって起こっていた多くのエラーを無くし、それまでより多くのデータを誤りなく高速で処理することを可能にした。またパンチカード・システムは、パンチカードの高速での仕分けや作表、記録された欠落データや誤データの確認にも利用された。これによって大量の気象データが、迅速かつ正確に気候データへと整理できるようになった。このパンチカード・システムは気候値の作成だけでなく、後に数値予報の初期には気象データのコンピュータへの入力にも用いられた。

つづく

[1] Nebeker-2013-Calculating the Weather, Academic Press.
[2] Edwards-2013-A Vast Machine: Computer Models, Climate Data, and the Politics of Global Warming, MIT Press.
[3] Fleming-2005- Historical Perspectives on Climate Change, Oxford University Press.
[4] 荒川秀俊-1947-気象学発達史, 河出書房.

2019年9月26日木曜日

気候学の歴史(3)気候学研究の始まり (History of Climatology (3): Beginning of climate study)


 19世紀後半から増加した観測地点の結果を用いて、イギリスの気象学者アレキサンダー・バカン(Alexander Buchan, 1829-1907)は、18671869年に気圧についての初めての世界分布図「The Mean Pressure of the Atmosphere and the Prevailing Winds over the Globe for the Months and for the Year」を発表した。アメリカの数学者兼気象学者ジェームス・コフィン(James Coffin, 1806-1873)らは世界の3223地点の風のデータをまとめた「The Winds of the Globe」を1875年に出版した。

 1872年から1876年にかけてイギリスの軍艦チャレンジャー号は、ほぼ全世界を巡る有名な探検航海(Challenger expedition)を行った。その際に海洋学の調査だけでなく、気象や海流も同時に観測を行った。バカンは、チャレンジャー号の観測結果を整理して1889年に「Report on Atmospheric Circulation」を気候図として発表した。これは陸上だけでなく海洋上の観測データを含んだものとして大きな意義があった。

ユリウス・ハン
 オーストリアの気象学者ユリウス・ハン(Julius Ferdinand von Hann, 1839-1921)は1882年に「Handbuch der Klimatologie(気候学ハンドブック)」を発表した。これによって近代的な気候学が誕生した。彼はその本で気温の緯度などの惑星規模の物理学的特徴に重点を置き、気温が緯度によってどのように異なるべきかなどの研究を理論的に説明した。これは、今日の「地球のエネルギー収支」の考え方の元となるべきものである。それでもハンは、気候学の大半を統計的な研究とみなした[1]


 ドイツの気象学者ウラジミール・ケッペン(Wladimir Köppen, 1846-1940)は、本の5-1-2「気候図の発明」で述べているように、1884年に細かく気候区分を分類した世界気候図を作成した。これは植生分布と強く関連しており、何度も改訂されて有名な「ケッペンの気候区分」となって産業や農業などに広く利用されるようになった。

 気候学の内容はそれから50年間はほとんどハンの本の伝統のままで、言ってみれば地理学に近かった。1951年にはイギリスの気象学者C. S.ダーストは次のように述べている「現在行われているように、気候学は主に進展に重要である物理学的な理解の基礎を持たない統計研究である。」[2]

 20世紀に入ると、有用な気候図として1919年にはイギリス気象局から「Barometer Manual for the Use of Seaman」が発行され、アメリカの気象局や水路局(Hydrographic Office)は各海域の「Pilot Charts」を発行した。日本でも1931年に中央気象台が発行した「The Climate of Japan」の付図として「日本及隣邦気候図」が刊行された[3]

つづく

参照文献

[1] Edwards-2013-A Vast Machine: Computer Models, Climate Data, and the Politics of Global Warming, MIT Press.
[2] Durst-1951- Climate—The Synthesis of Weather. In: Malone T.F. (eds) Compendium of Meteorology. American Meteorological Society, Boston, MA.
[3] 中央気象台-1931-中央気象台欧文報告第4巻第2

2019年9月25日水曜日

気候学の歴史(2)当初の気候観測と人間生活の関わり(History of Climatology (2): The relationships between initial climate observation and human life)


 18世紀以降、イギリスの哲学者フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561-1626)による「人間による自然の解明と利用」という考えが広まってくると、本の3-2「科学的な考え方への転換」に記したように各地の気象観測には、普遍的な自然法則を帰納的に導き出すためのデータの収集と蓄積という面が加わった。アメリカの政治家トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson, 1743-1826)など当時の大勢の人々は、法則性がわかれば土地の開拓が局所あるいは地域の気候を人間に有利に変えることができると思っていた[1]

 そういった蓄積された気象データに目を向けることによって、フランスの歴史家ジャン=バティスト・デュボス(Jean-Baptiste Dubos, 1670-1742)や思想家シャルル・ド・モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu, 1689 -1755)は、本の3-3-4「医学や農業への気象データの利用」に記したように気候と人類文明発達との関係を考察した。またアメリカの自然科学者ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin, 1706-1790)は、本の3-6-2「ベンジャミン・フランクリン」に記したように大規模な火山噴火が、その後の冷夏と厳冬という人間生活に大きな影響を与える気候変動を引き起こしているかもしれない、という画期的な考えを初めて示した。

 19世紀に入ると、それまでの地域的な気候と異なり、系統的に世界の気候を調べることが始まった。その代表的な研究者はドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルト(Alexander, von Humboldt, 1769-1859)で、本の5-1-1「アレクサンダー・フォン・フンボルトについて」に記したように、彼は58か所の地点の気象データを用いて1817年に北半球の緯度・経度上に等温線を示した有名な気候図を作成した。1823年にアメリカの聴覚障害者の学校教師だったウィリアム・ウッドブリッジ(William Woodbridge, 1794 -1845))がフンボルトの協力を得て、それを海岸線を含めた全世界の図に拡張した。ドイツの気象学者でフンボルトとも親交のあったハインリッヒ・ドーフェ(Heinrich Dove, 1803-1879)は、1852年に900か所の観測所データを使って気候図を年平均値ではなく月平均気温の図にして発表した。

 また18世紀頃から人々は健康と気候との関係に注目し始めた。これはギリシア時代の医師ヒポクラテスの生気象の考えを復活させて、観測データを使って発展させようとする面があった。本の3-3-4「医学や農業への気象データの利用」に記したように、18世紀後半からドイツの医師カノルドやイギリスの医師アバースノットは気候と健康の知識の普及を図ったし、フランスの財務総監デュルゴーやアメリカ陸軍は、健康と気象との関係を調べるために気象観測網を作って観測を行った。また19世紀に正規分布という数学を使って平均的な人間像とそのばらつきを示して自然科学の統一を推進した「近代統計学の父」アドルフ・ケトレー(Adolphe Quetelet, 1796-1874)は、統計学を気候学に適用して、気候がどのように人間の健康に影響を及ぼすかを調べた。

 アメリカの海軍士官マシュー・モーリー(Matthew Maury, 1806-1873)は1852年に各海洋上で平均的な風向や海流を示した「Wind and Current Chart」を発表した。この情報は船の航海日数を格段に短縮することに貢献した。本の11-1「国際気象機関(IMO)の設立」で記したように、彼は1853年に海洋上の気象観測を共通の手法にするための国際会議をブリュッセルで開催した。これには10か国から代表が出席したが、ベルギーのケトレーを除いて他の出席者は海軍士官だったため観測手法の適用対象は軍艦と自発的に賛同する船に限られた。しかも各国で実際に行われた手法は必ずしも合意した手法とは限らなかったが、とにかくも海上で気象観測を行って結果を残すことが国際的に決められた意義は大きかった。

 19世紀後半になると気象観測結果を電報を使って集めて、嵐に備える警報が発表されるようになった。すると、従来の気候観測のための気象観測網に加えて、警報のための気象観測網が整備されるようになった。両者の観測内容は基本的に同じであるが、警報のためのデータは即時的に必要部分だけ使われたのに対して、気候のための気象データは手間と時間はかかったが各地の結果がきちんと整理され記録として残された。気候観測網は、気象観測網の発達の影響で一時期整理されかけたこともあったが、結局は多くの国で重複しながらも別々に維持された。気候学のための観測ネットワークは、1908年までに世界で2000以上の観測地点から成り、そのほとんどボランティアによって維持された[2]。

つづく

参照文献

[1] Fleming-1998-Historical Perspectives on Climate Change, Oxford University Press.
[2] Edwards-2013-A Vast Machine: Computer Models, Climate Data, and the Politics of Global Warming, MIT Press

2019年9月24日火曜日

気候学の歴史 (1)気候(気象)観測の始まり (History of Climatology (1): Beginning of meteorological observations)

 「気象学と気象予報の発達史」(以下「」)では、近代以降は主に天気予報に焦点を当てたため、気候に関する事項は、断片的になっている。そのため、ここで気候学の歴史を概要ながらまとめて説明しておきたい。

 もともと気象を観測する目的は、湖の水位や川の流量などの水文学と関連することもあったが、その地域の平均的な気象(気温や風、雨量)つまり気候を得ることにあった。平均的な気温や雨量などを示す気候から、その土地に向いた農作物などを知ることができた。本の3-3「学会の誕生と気象観測」に記したように、17世紀のイタリア、トスカーナの「実験アカデミー(Accademia del Cimento)」やイギリス、ロンドンの「王立協会(Royal Society)」は、気象測器を開発して、各地の気候を知るための国際規模の気象観測網を構築した(各気象要素の測定器の開発は本の4章「気象測定器などの発展」に詳しい。これは後の物理や化学の発展の礎を築いた)。後の様々な組織による気象観測網を含めて、各地の気候を知る目的には気象の法則を知ろうとしただけでなく、その地域の気候を知る目的も含まれていたと思われる。

 観測された気象データは本の中で表にして刊行されたが、日々蓄積している膨大な数値を目で見て理解して利用することは容易ではなかった。そのため17世紀頃から観測結果をグラフ化することが始められた。オックスフォード大学の自然研究者ロバート・プロット(Robert Plot, 1640-1696)は,1684年に気圧値を線グラフ化して王立協会の「哲学紀要(The Philosophical Transactions of the Royal Society)」に発表した。オランダの科学者ペトルス・ファン・ミュッセンブルーク(Pieter van Musschenbroek, 1692-1761)は1729年に出版した『実験物理学・幾何学論考(Dissertationes physicae experimentalis et geometricae de magnete)』の中でやはり気圧のグラフを示した。これは気象学におけるグラフの普及に影響をおよぼした[1]。その前後から観測結果を各地でグラフ化して分析することが行われるようになったようである。


「実験物理学・幾何学論考」中のウルトラジェクティナ州の気圧の変化(1月)。
Dissertationes physicae experimentalis et geometricae de magneteより

 また本の3-4-1「広域で定常的に吹く風の発見に記したように、16世紀頃からの大航海時代に積み重ねられた大西洋や太平洋、インド洋上の風の知識から、17世紀頃には恒常風と呼ばれるほぼ年間を通して向きが変わらない風があることもわかってきた。これらの風の情報は帆船での航海を安全かつ効率的にすることに貢献した。

 この地球規模の風が持つ規則性に注目した人々がいた。ハレー彗星で有名なイギリスの天文学者エドモンド・ハレー(Edmond Halley, 1656-1742)はセントヘレナ島へ行った際の経験などから、17世紀に貿易風やモンスーンの原因を考察した。彼は、本の3-4-2「ハレーによる貿易風の説明」に記したように赤道域の太陽によって熱せられた空気が上昇する領域が、時刻が移ると太陽とともに西に動くため、低層で東風が吹くと考えた。これは今日から見ると間違っているが、多くの書物に取り上げられて、19世紀まで広く信じられた。なお彼は赤道域の卓越風の風向図も1688年に哲学紀要に発表した。彼は磁気の等偏角線の図も発表しており、これが等値線を地図にするという考え方の始まりとなった。この等値線を描いた地図はフンボルトの気候図などに引き継がれていった。

 王立協会の気象観測網からのデータ整理を担当していたイギリスのジョージ・ハドレー(George Hadley, 1685-1768)は18世紀にハレーの説を否定して、本の3-4-3「ハドレーによる大気循環の説明」に記したように、熱帯域で上昇した空気は上層で高緯度へ向かい、やがて下降して赤道に戻る。その際に低緯度の方が地球自転による速度がより速いため、低緯度に向かう空気は赤道域で東風になることを示した。彼はこの大気の流れを「循環(circulation)」という言葉で表した。それ以降、今日に至るまで地球規模の大気の流れは「循環」という言葉を使って表されている。彼の説は19世紀になってから、ハレーの説に変わって取り上げられるようになった。

つづく

参照文献

[1] 濱中 春-2017-面と線の意味論 : ゲーテと1820年頃の気象学のダイアグラム, 社会志林, 64-, 3, 41-67, http://hdl.handle.net/10114/13821