2019年11月27日水曜日

フンボルトとコロンブス(Humbolt and Columbus)


フンボルトについては本の5-1-1アレクサンダー・フォン・フンボルトについて」でその生涯と業績、および気候図の作成についてまとめているが、少しその補足を行っておきたい。

フンボルト
ドイツの博物学者、探検家であるアレクサンダー・フォン・フンボルト(Alexander von Humboldt, 1769-1859)は、若い頃言語学、解剖学、地質学と天文学を含む幅広いさまざまな研究分野をハンブルグ、イェナとフライベルクの大学で勉強した。卒業の後、1792年にプロシア政府の鉱山の調査官となった。彼は鉱山の調査だけでなく植生の調査も行い、この仕事によって彼は自然研究者でもあった著名な詩人ヨーハン・ウォルフガンク・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の注目を受けた。

フンボルトはゲーテによって多くの科学者や知識人との知遇を得た。フンボルトの探検時以外の人生の多くはサロンなどでの知的議論に費やされることになった[1]。それにはドイツの詩人、歴史学者、思想家フリードリヒ・シラー(Friedrich von Schiller)とアメリカの海洋学者、地質学者、古生物学者ルイ・アガシ(Jean Louis Agassiz)、アメリカの作家・思想家・詩人・博物学者ヘンリ・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau)、イギリスの自然科学者、地質学者、生物学者チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin)など当時の主要な知識人の多くとの議論を含んだ。

フンボルトと親友の植物学者ボンプラン(Aimé  Bonpland)はスペインの首都マドリッドに行った際に、スペイン国王カルロスIV世からアメリカ大陸スペイン領の探検の許可を得た。この後、1799年から1804年まで中南米スペイン領とアメリカ合衆国を延べ1万キロメートルにわたって旅行した。そしてその結果を「Le voyage aux régions equinoxiales du Nouveau Continent, fait en 1799–18041799-1804年に行われた新大陸の回帰線地域への旅行)」に発表した。彼の探検は、ラテンアメリカに対する世界の一般的な見方が変わるほどの成果を得た。
フンボルトの探検ルート(https://es.wikipedia.org/wiki/
Archivo:Mapa_del_viaje_de_Alexander_Von_Humboldt
_en_el_Continente_Americano.png
より
フンボルトは探検時に高度、温度と磁場を測定し、地質を調査し、岩、植物と動物の標本を集めた。彼はデータや標本を取得する際に注意深く科学的に行い、特別な注意を払って測定場所や標本の取得場所をきちんと地理的に特定して記録した。これらのフンボルトによる探検のやり方はそれまでの一般的な探検の手法とは異なっており、科学的な資料収集と分析という点で探検のやり方に革命をもたらした。

それまでのように単にデータや標本を収集するだけなく、彼は収集したデータや標本の正確さやそれに付随する情報の正確さに重点を置いた[1]。彼は最初の全球の地磁気および気候地図を作成し、南米の地質学的断面図を描き、収集したサンプルをきちんと分類した。5-1-2「気候図の発明」に記した気候図をはじめとして、このような手法はその後新たな学問の手法を確立するための手法となっていった。
フンボルトが描いたチンボラソ火山の植物分布

これらをもとにフンボルトは「Relation historique du Voyage aux Régions équinoxiales du Nouveau Continent, etc. (1814–1825),(新大陸の回帰線地域への旅行の歴史との関係(1814-1825))」を出版し、これによってアンデス山脈の植物相と動物相を明瞭な気候学的で地形学的な背景を考慮しての社会の進化に潜在的に影響を及ぼす気候変動への人間の影響を説明した[1]

フンボルトとコロンブスとの比較

時代背景が異なるので同列に比較することは難しいが、探検によってアメリカ大陸を発見したコロンブス(Christopher Columbus, 1446-1506)と比較してみると時代の違いとフンボルトの立ち位置がよくわかるかもしれない。本の「2-3-1熱帯の横断と新世界」で紹介したように、コロンブスはアジア航路の開拓という名目で大西洋を西へ向かった。しかし彼には営利目的もあった。彼は探検前に巨額の探検費用の大半を負担するスペインのイサベル女王とサンタ・フェ契約を結んでおり、発見した土地の統治権とそこからの利益の1割を得ることになっていた。そのため、後述するように新大陸側から見ると彼は厄災を巻き起こすことになった。 
コロンブスの航路(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/38/Viajes_de_colon_en.svg

一方フンボルトの探検費用は自前であり、探検によって発見された資源の所有権は全てスペインに帰することになっていた。つまりフンボルトは世俗的な利益には興味がなかったことがわかる。おそらく科学的な発見やそれに基づいた人々との交流に悦楽を見出していたのではないだろうか。フンボルトが発見した知見は世界に科学的な恩恵をもたらした。

話は脱線するが、当時の多くの地理学者や探検家は、探検に政治的な境界(つまり国家利益の分岐線)を定めることにも興味を持っていた。つまり発見した土地とその資源は発見者の国の所有となるためである。当然その度合いに伴って発見者にもたらされる恩恵も多かっただろう。1494年にポルトガルとスペインとの間に結ばれたトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)でヨーロッパより西側世界の領有権の境界が子午線に従って定められた(西側がスペインで東側がポルトガル)[2]

 1500年にポルトガル人カブラル(Pedro Cabral)が率いるポルトガル遠征隊が南アメリカ大陸(ブラジル)東端に漂着した。そこがトルデシリャス条約境界の東側であることがわかったため、それがきっかけで旧ブラジルはポルトガル領となった。これが南アメリカに(広大だが)ぽつねんとブラジルというポルトガル語圏がある理由である。

 スペイン領ではなかったため、フンボルトはポルトガル領ブラジルには行っていない。ただし、当時の「南北アメリカ大陸」は、ポルトガル領ブラジルと独立したばかりの北アメリカ東部のアメリカ合衆国を除いて、大半がスペイン領であったことには注意する必要がある。フンボルトはその広大なスペイン領を自由に探検する許可を得ていた。

ちなみに1529年にポルトガルとスペインとの間に結ばれたもう一つのサラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)は、西太平洋の分割境界線(子午線)を定めており、これはヨーロッパ諸国が日本を含むアジアに進出するきっかけの一つとなった。大航海時代はヨーロッパにとって新たに発見した土地の自由な切り取り合戦をも意味した。これはデマルカシオン(世界領土分割体制)とも呼ばれる[2]。日本の戦国時代に送られた宣教師たちはそのための偵察・情報収集であった面もあった。ただし正確な経度測定の困難さとその後のヨーロッパ諸国の力関係の変化により、アジア各地域の領有は複雑な経緯を辿った。その影響は第二次世界大戦前までアジアの植民地や宗主国という形で残った。

閑話休題。フンボルトは、取得したデータやサンプルを自ら分析するだけでなく、データとサンプルの多くを共有にして、科学者間の国際的でオープンな議論を確立しようとした。彼の業績は科学的に高く評価されている。そのためかフンボルト大学、フンボルト海流、フンボルトペンギンだけでなく、地形や自然では湾、川、林、野生保護区、沼地、湖、山脈、山や山脈、森林、国立公園、滝、動物ではイカ、コウモリ、サル、スカンク、カタツムリ、甲虫、川イルカ、植物では顕花植物、マメ科植物、肉食植物、サボテン、樫、ラン、 ユリ、キノコ、宇宙にも月の海、二つの小惑星にフンボルトの名が冠されている[3]。さらに彼は自由と平等を唱え、奴隷制と搾取による植民地主義を非難し続けてもいた。

一方でコロンブスは新大陸発見では有名であるが、彼は金や植民地を得るためにアメリカインディアンを虐殺しアメリカインディアンに免疫のない伝染病をまき散らした面も大きい)、またアフリカ人を植民したことでも知られている。コロンブスの行った政策はその後の南米での植民地統治のモデルともなった。その後の厳しい植民地政策と伝染病により、南米・中米のマヤ、アステカ、インカ文明などは次々と滅んでいった。コロンブスは新大陸をアジアと主張したこともあってか、新大陸は後に探検したアメリゴ・ベスビッチにちなんで、アメリカ大陸と名付けられた。コロンブスの名前は南米のコロンビア共和国に残っているだけである。

ちなみにフンボルトの兄の言語学者ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Wilhelm von Humboldt)は、大学を改革して近代的な大学のモデルとなったベルリン大学(Humboldt-Universität zu Berlin)を創設しただけでなく、後にプロイセンの教育相、内相まで務めている。

なお、フンボルトについては、その生涯や膨大な業績について多数の著書が出ているので、詳しくはそちらを参照していただきたい。

[1]Becker, T. W., and C. Faccenna (2019), The scientist who connected it all, Eos, 100, https://doi.org/10.1029/2019EO132583. Published on 11 September 2019.
[2]平川 新-2018-戦国日本と大航海時代, 中公新書, 中央公論新社.
[3]http://vincentdamiangabrielle.com/uncategorized/why-is-everything-named-humboldt-our-city-forest/

2019年11月10日日曜日

気温のトレンド(長期変化傾向)把握のためのデータセットについて(Data sets for temperature trend)

 気温のトレンド(temperature trend)は、地球温暖化の指標となるため、近年その重要度が増してきている。しかし、どの程度気温が上昇してきているのかを、きちんと算出することは難しい。それは、長い期間の間に測定器や測定環境が変化してしまう場合があるからである。特に観測初期の古い観測データについては、観測に関する情報(測定器の較正手法や頻度、観測場所の変遷、観測手法など)が十分に残されていない場合があり、そうなると気候変動を捉えるための1/10 ℃以下という観測精度を長期にわたって確保することは容易でない。

 標準化された温度体系を用いた定量的な気温観測は18世紀から始まっており、教養があり裕福な個人が残した気象日記(weather diary)の中には定量的なデータが含まれている場合がある。そのような初期のデータは気候変動の研究に利用できる場合がある。

 「気候学の歴史(5) 気候データの保管」では、世界気象記録(World Weather Records: WWR)に触れた。これは世界各地の気象観測データをまとめたものであるが、地点を限ればもっと古い系統的な気温データがある。

 そのような例として1600年代からイギリスで行われたいくつかの個人による測定値がある。それらによってブリストル、マンチェスターとロンドンに囲まれているほぼ三角形の地域の長い一連の気温データが残された。それらは観測に関するさまざまな情報を総合し、精度をクロスチェックした上で、Hadley Centre Central England Temperature (HadCET) datasetと呼ばれるデータセット[1]に編集された。この記録は月平均気温は1659年1月から始まっている。1722年からは日平均気温も整備されている[2]。

Hadley Centre Central England Temperature (HadCET) dataset

 単に残されたデータをデジタル化しただけでないことに注意していただきたい。測定手法や観測環境の変化もできるだけ考慮して、かなり手間をかけて科学的な品質評価を行った上で作成されている[3]。気温の長期トレンドの算定には、観測場所の移動や、測定器の交換、較正方法、観測頻度の変化などあらゆることを定量的に評価しなければならない。それでも、都市化などの周囲の観測環境の変化を厳密に考慮することは難しい。

 これらの影響を受けにくい気温トレンドの把握方法がある。それは高度が異なる2地点の気圧を利用するものである。それは本の4-8「測高公式の発見」で解説している層圧温度(thickness temperature)を用いる方法である。これは層圧温度なので、点ではなく層内の平均温度となる。これは逆に局地的な気温変化ではないというメリットにもなる。気圧計は、原理上温度計より較正を含む測定器の精度管理を行いやすく、観測誤差も一般に小さい。また気圧を見ているので、都市化や風通しの変化などの周囲の観測環境の変化の影響を受けにくいのでより正確な気温が算出できる。ただし、高度が異なる比較的近い2地点での観測結果が必要となる。


層圧温度の概念図(Concept of Thickness Temperature)
Tc<Tw
 世界で初めて層圧温度を用いた気温トレンドは、1965年から2016年までの富士山山頂とその近傍の地上観測所の気圧を用いたものである。地上の気温トレンドとも概ね整合しており、層圧温度を用いた気温トレンドの有用性が示されている[4]。

参照文献

[1]https://www.metoffice.gov.uk/hadobs/hadcet/
[2] D.E. Parker, T.P. Legg and C.K. Folland. 1992. A new daily Central England Temperature Series, 1772-1991. Int J Clim, 12, 317-342.
[3] G. Manley. 1974. Central England Temperatures: monthly means 1659 to 1973. Quart four Roy Meteor Soc, 100, 389-405.
[4]Tsutsumi,Y.-2018-Multidecadal Trends in Thickness Temperature, Surface Temperature, and 700 hPa Temperature in the Mount Fuji Region, Japan, 1965-2016, Journal of Climate, 31,20 , 8305-8312.

2019年11月5日火曜日

気温測定の難しさ (Difficulty of atmospheric temperature measurement)

 温度計の目盛りの較正と標準化は18世紀から始まった。本書の4-3 「温度計の発達とその目盛りの変遷」で述べているように、例えばその統一された目盛りには、摂氏、華氏、レオミュール温度計などが使われるようになった。しかし、気温の正確な測定はそれだけで十分なほど簡単ではない。測っている気温がその地域を十分に代表しているかという問題もあるが、測っている値そのものが大気の温度なのかということにも十分な注意を要する。

 例えば、テレビなどで屋外で温度計を持って気温を示していることがあるが、厳密には気温といえない場合がある(体感としては近いかもしれないが)。屋外で直接人間が気温を測定すると、温度計感部が人間の体温の伝導熱、太陽光の放射熱、付近のアスファルト・建造物などの輻射熱などいろんなものを感部自身やその周りで拾う可能性がある。それらが合わさった温度は少なくとも気温ではない。

 17~18世紀当時は、気温は室内で測定されているものも多かったようである。暖房のない部屋が選ばれたようだが、それでも外気温とは異なるし、部屋が南向きか北向きかでも温度は異なったであろう。

 大気温度の測定方法の標準化、つまり測定環境への配慮がきちんと行われるようになったのは、19世紀に入ってからである。それでも問題は山積していた。屋外で測定されるようになって大きな問題となったのは、まず昼間の太陽放射の影響をどう防ぐかだった。当時は気温の測定者が各自それぞれ独自の工夫をしていたようである。

 18世紀前半に特にイギリスで広く使われたのが、イギリスの気象学者グレーシャー(James Glaisher, 1809-1903)が開発したグレーシャー・スタンド(Glaisher stand)と呼ばれる日よけ用の屋根がついたオープン型スタンドである[1]。これは彼がグリニッジ天文台の気象部長の時に考案した物で、温度計はスタンドの遮光板の裏側につけられていた。

グレーシャー・スタンドは
 http://www.waclimate.net/temperature-screens.html
の下段図を参照 )

 ただし北側といえども太陽光が射す場合があるので、このスタンドを回転させて温度計を常に太陽と反対側にしておく必要があった。そのため、一定時間ごとに人手で回転させねばならず、それを忘れるとあるいは位置をセッティングして次の観測までの間隔が長すぎると、太陽光が回り込んで誤データを観測する可能性があった。また、屋根はあるものの温度計は大気に暴露しているので、雨、霧、露の影響を受け、また地面からの太陽光の反射や熱輻射を受ける恐れがあった。

 それで考えられたのが、1863年にスコットランドの灯台設計者トーマス・スティーブ
ソン(Thomas Stevenson, 1818-1887)が発明した、スティーブンソン・スクリーン(Stevenson Screen)である。これは一種の2重のよろい窓を持った木箱で、太陽光を遮蔽しながら風通しも考慮された。日本では百葉箱と呼ばれている。スティーブソン・スクリーンは窓や換気法が順次改良されていった。イギリス気象学会(Britain’s Meteorological Society)で1873年に各種の遮光板や気象観測箱が比較検討された結果、スティーブソン・スクリーンが気温観測のための使用が推奨された[2]。それ以来世界で長年使われている。

 ところが、スティーブ
ソン・スクリーンの測定値に疑問を持ったのがスコットランドの気象学者ジョン・エイトケン(John Aitken, 1839-1919)で、彼はティーブソン・スクリーンを綿密に調査して、箱が持つ熱慣性の影響に気づいた(論文は死後の1921年に出版された)[3] 。箱の内部では壁の熱から出る長波放射によって温度計感部が影響を受けるのである。

 現在ではティーブンソン・スクリーンの利用は減って来ている(気象庁では百葉箱を既に使っていない)が、世界各地ではまだ使われている所も多い。現在では、放射の影響を小さくするために、内外の放射の影響を与えにくいハウジング材の利用、ハウジング本体の小型化、センサーの小型化、通風量の増大などが図られている。本書の4-5-3「乾湿計」や「リヒャルト・アスマン(その1)」で述べたようにアスマンが開発した通風式乾湿計もその一つである。
 
ティーブンソン・スクリーン(百葉箱)の外観
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Stevenson_screen_exterior.JPG

 なお、昔の気象学者は本書でもしばしば出てくるように、多くの専門を持っていることが多く、ここで出てきたイギリスの気象学者グレーシャーは、イギリスの王立気象学会の会長で気球観測における瀕死の冒険でも有名である。トーマス・スティーブソンは有名な灯台設計者である。エイトケンは、エイトケン粒子にその名を留めるエアロゾルや雲物理の高名な気象学者でもある。

[1] J. Glaisher-1868- Description of thermometer stand. Symons's Meteorol Mag, 3, 155.

[2] S. NAYLOR-2018-THERMOMETER SCREENS AND THE GEOGRAPHIES OF UNIFORMITY IN NINETEENTH-CENTURY METEOROLOGY, Notes Rec. (2019) 73, 203-221.
[3] J. Aitken-1921-Thermometer screens. Proc Roy Soc Edinburgh, 40, 172-181.