2021年7月17日土曜日

キスカ島撤収-「ケ」号作戦(4)

 4. 気象予測の作戦への利用

天候は西から変わることが多い。日本はアメリカから見てアリューシャン列島よりさらに西に位置している。また日本軍は北方や西方に位置しているソビエト連邦の気象観測所からの気象暗号電報を解読していた [6, p53]。気象予測という観点では西方の気象データを利用できる日本軍の方が有利であり、アメリカ軍は日本軍がその利点を活かした戦術をとっていると思っていた [9, p19]。キスカ島撤収作戦においては、日本軍は霧が継続することを予測して撤収を成功させた。しかし、それは最後になって霧に特化した例外的かつ集中的な研究を行ったからだと思われる。「アリューシャンでの戦い」でも述べているように、アッツ島、キスカ島への輸送が天候の変化によるさまざまな影響によってたびたび失敗していることから、きめ細かな気象予測が作戦に活用されていたとは言いがたい。

気象予測を作戦に利用しようとすると、少なくとも日頃から気象観測結果を利用した分析を蓄積して、当該方面の気象的特徴を把握する必要がある。気象予測を十分に活用できなかったのは、当時の気象部隊が用いていた気象学のレベルの問題と、それを利用する運用側の意識の問題があったと思われる。当時最新のベルゲン学派(ノルウェー学派)気象学による前線解析は、風向風速の変化や天候の急変をある程度予測できた(ベルゲン学派より前の天気図に前線はない)。そのため、その発祥の地の緯度に近いアリューシャンでそれを活用していれば気象の予測精度がもう少し向上していた可能性がある。そうすれば、キスカ島より東に位置するアメリカ軍基地での天候回復のわずかな時差を利用した輸送などのきめの細かい作戦が行えたかもしれない。

アリューシャン付近の天気の例。2021年7月9日の天気図(上)と気象衛星赤外画像(下)
北太平洋のアッツ島とキスカ島の間に前線がある。気象衛星画像からは前線に沿って雲が連なり、千島から西部アリューシャン列島付近の海上では、薄い灰色から霧が出ていることがわかる。前線はベーリング海でTボーンと呼ばれる形を採っているようである(「前線のその後」参照)。
出典:気象庁ホームページ。
天気図(https://www.jma.go.jp/bosai/weather_map/)
気象衛星画像(https://www.jma.go.jp/bosai/map.html#5/34.5/137/&elem=ir&contents=himawari)


第五艦隊気象長竹永一雄少尉は、実はベルゲン学派の気象学を研究していた。ノルウェー出身のスベール・ペターセンというベルゲン学派気象学の新進気鋭の研究者が1940年に書いた「気象解析と予報(Weather analysis and forecasting)」という気象学の教科書を読んで前線解析を会得していた。彼は1943年2月に第五艦隊に赴任すると、それを用いた天気図を描いたが敵性天気図と叱責されてしまう。ところが、彼が乗った軽巡洋艦「多摩」は千島で時化に遭い、その時の天候の急変は竹永少尉が描いた天気図通りとなった。これを契機に彼はペターセンの本の解説書を作って海軍内に配布した [6, p14-25]。

なお、本書「9-2-4ベルゲンへの留学生」では、第五艦隊の気象長を前川利正少尉としたが、竹永一雄少尉の誤りである。前川氏は竹永氏と同様に中央気象台技術官養成所出身であるが、戦時中は樺太庁気象台や前橋測候所に勤務し、海軍に所属したことはない。

スベール・ペターセン
https://en.wikipedia.org/wiki/Sverre_Petterssen#/media/File:Sverre_Petterssen.png

ベルゲン学派気象学を用いた体系的な気象の研究がなされていれば、気象予測をもっと作戦に用いることが出来たかもしれない。ただし、この解析が当てはまるのは中高緯度なので、熱帯や亜熱帯の中部太平洋では利用できなかった。日本の中央気象台(気象庁の前身)が前線を用いたベルゲン学派気象学を利用し始めたのは戦後だったが、本書「9-6ロスビーの業績」で述べたように、アメリカ気象局でベルゲン学派気象学を導入したのは1930年代後半からだった。

ペターセンは、アメリカのマサチューセッツ工科大学の気象学科でロスビーの後継として教鞭を執っていたが、ドイツのノルウェー侵攻以降イギリス気象局へ移って、さまざまな作戦の予報に参加した。「10-1-1戦争中の予報」で述べたように、ノルマンディ上陸作戦での気象予報にも参加した。そこでは上陸日を延期させて、一つ間違えば荒天で破綻していたかもしれない上陸作戦を、見事に成功に導いたことに貢献したことでも知られている。

(このシリーズおわり)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北方方面海軍作戦.  朝雲新聞社, 1969. 第 29 巻.
[2] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北東方面陸軍作戦<1>-アッツの玉砕-.  朝雲新聞社, 1969.
[3] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊<4>第三段作戦前期.  朝雲新聞社, 1970.
[4] 徳田 八郎衛. 間に合わなかった兵器.  光人社, 2001.
[5] 半澤 正男. 若き艦隊予報官の霧予報的中. 海の気象, 24, 5, 海洋気象学会, 1989.
[6] 阿川 弘之. 私記キスカ撤退.  株式会社文藝春秋, 1988.
[7] キスカ会. キスカ戦記.  原書房, 1980.
[8] Navy U.S. The Aleutians Campaign June 1942-August 1943.  Naval History and Heritage Command, U.S. Navy, 2018.
[9] Wilder A. Carol. Weather as the Decisive Factor of the Aleutian Campaign, June 1942-August 1943.  Drake University, 1983.


2021年7月11日日曜日

キスカ島撤収-「ケ」号作戦(3)

3. 第二期第二次キスカ島撤収作戦

3.1 第一次撤収作戦失敗の後

第五艦隊による撤収作戦の中止に、聯合艦隊司令部は強い不満を抱いた。そして督戦の意味をこめて7月20日に第五艦隊司令部に参謀副長小林謙五少将を派遣した [1, p627]。また、多少の犠牲はやむを得ないと考えていた第五艦隊司令部も、第一水雷戦隊の慎重な行動を非難した [1, p628]。一方で、第一水雷戦隊では駆逐艦を多数失えば今後の戦局に重大な影響があるため自分たちの慎重な行動を当然と思っており、第五艦隊司令部による非難を心外と捉えていた [1, p630-631]。

第五艦隊と第一水雷戦隊では立場、考え方に違いがあり、そのため次回は第五艦隊司令部が軽巡洋艦「多摩」で第一水雷戦隊に同行して、第五艦隊司令部が現場で突入の判断を行うことになった [1, p631]。なお突入の判断の後、「多摩」はキスカ島へ突入せずに幌筵へ戻ることになっていた。また特設巡洋艦「粟田丸」は撤収艦隊から外された。

軽巡洋艦「多摩」。北海用の迷彩塗装をしている。1942年撮影
https://ww2db.com/image.php?image_id=7643

次の霧はなかなか発生しそうになかった。通常ならば北緯30度付近にある太平洋高気圧の中心が、この年は北緯42度付近にあったため霧が出にくかった [6, p65]。8月になれば霧の出現は期待できないと考えられていた。また重油も幌筵には艦隊行動でキスカ島までの往復1回分しか残されていなかった。竹永気象長は霧が出にくい原因まで叱責され、ノイローゼ気味となった。

1943年7月23日の天気図。太平洋高気圧が例年より北の三陸沖に偏っている。
原典:気象庁「天気図」、加工:国立情報学研究所「デジタル台風」


3.2 第二次撤収作戦の発動

7月22日にオホーツク海に低気圧が発生して幌筵付近は霧となった。この低気圧が東進してベーリング海に入ると、プラス2セオリーから25日頃に南風によって霧がアリューシャン列島に発生することが期待された。7月26日のキスカ島突入を予定して第二期第二次撤収作戦が開始された。巡洋艦3隻、駆逐艦11隻と補給艦からなる艦隊は、22日夜に幌筵を出港した。

7月23日~24日

第一水雷戦隊では26日の予報を曇り時々霧で見通しは良いと考え、突入日の27日への延期を第五艦隊司令部に具申した。しかし第五艦隊司令部はこれを認めず、26日の突入を変えなかった [1, p633]。

ところが、この低気圧は予想より速く進み、24日にはキスカ島を通過してしまい、その後キスカ島付近は晴れてしまった。一方で艦隊付近は連日の濃霧で隊形が混乱し、7月24日にた補給隊の油槽船「日本丸」と海防艦「国後」が隊列からはぐれてしまった。このため「多摩」の第五艦隊司令部は突入日の27日への延期を認めた [1, p633]。

この日の1500時に「木曽」は仮装備した陸軍の野戦高射砲の試射を霧の中で行ったところ、たまたまこの音を聞きつけた「日本丸」と合同することが出来た [1, p634]。作戦の途中で「日本丸」から重油の補給ができなければ、艦隊は作戦を継続できないところだった。しかし、補給隊のもう1隻である「国後」はまだ行方不明のままだった。

軽巡洋艦「木曽」1942年アリューシャン方面で撮影されたもの。
https://ww2db.com/image.php?image_id=7759

7月25日

この日敵潜水艦のレーダーを艦隊のすぐ近くに逆探知したため韜晦行動を行った。この韜晦行動により、キスカ島への突入日は28日もしくは29日に変更された [1, p634]。第一水雷戦隊では東北沖にある低気圧が北東進すれば、29日以降にキスカ島付近の天候が悪くなると予想した [1, p635]。

この25日から突入日までの韜晦行動に関して、第五艦隊司令部と第一水雷戦隊では考え方に違いがあった。第一水雷戦隊ではいったん南下して敵潜水艦から離れ、突入日に間に合うように北上すれば良いと考えていた。しかし第五艦隊司令部の指示は、突入の即応体制を取るためその付近で待機(往復運動)するというものだった。第一水雷戦隊は敵潜水艦に接近したままの指示に釈然としなかったが、これに従った [1, p636]。

7月26日

早朝に水雷戦隊は突入日を29日に決定して、第五十一根拠地隊から了承を得た [1, p636]。艦隊付近は引き続き濃霧のため、はぐれた「国後」以外は単縦陣で航行していた。ところが1744時に「国後」が霧の中から突如艦隊付近に現れ、軽巡洋艦「阿武隈」の右舷中部に衝突した。このため隊形が混乱し、駆逐艦「初霜」は駆逐艦「若葉」と「長波」に接触した [1, p636]。「若葉」と「初霜」は最高速度が12ノットに低下したため、「若葉」は自力で幌筵へ回航、「初霜」は「国後」の護衛に回ることとなった [1, p64]。「若葉」に座乗していた第二十一駆逐隊司令は、「島風」に移乗した。

一方で、キスカ島付近では20日以降24日を除いて連日晴天が続いており、敵機や敵艦隊の活動が活発だった。キスカ島の第五十一根拠地隊は霧の季節が終わったのではないかと危惧したが、これを逃すと二度と撤収機会の見込みは無く、キスカ島への突入を要望した [1, p640]。

海防艦「国後」。アッツ島旭湾(マッサカル湾)にて
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_escort_ship_Kunashiri_1942.jpg

7月27日

この日にオホーツク海に低気圧が発生して幌筵は霧となった。これに基づいて、7月27日0600時に第一水雷戦隊ではプラス2セオリーからキスカ島付近の29日の天候を霧と判断した。しかし、第五艦隊司令部では薄霧で敵機の飛行は可能と判断した [1, p640]。なお後述するように、この日の夜にアメリカ艦隊はキスカ島南方海域においてレーダーで探知した幻の目標に夕方から砲撃を加えていた。

7月28日

キスカ島では昨日オホーツク海で発生した低気圧が近づいてきて、予想通り早朝から霧となった。第一水雷戦隊では29日の天候を「西の風で曇りときどき霧」と判断した。第五艦隊では「南西の風、曇りで淡霧だが敵機の飛行は困難」と予測した。しかし、軽巡洋艦「多摩」の第五艦隊司令部は突入するかどうかで迷った [1, p642]。第一次撤収作戦では第一水雷戦隊の行動を批判した第五艦隊司令部だったが、現場で当事者になってみると机上で考えていたようには行かなかった。迷った司令長官河瀬四郎中将は、座乗していた「多摩」艦長で積極果敢な神重徳大佐に意見を求めたところ、ぐずぐずしていたら突入の時期を失するという意見に押されて突入を決断した [1, p642]。

1600時には艦隊はキスカ島へとコースを向けた。なお、幸運なことにこの日1010時から30分間だけ霧が晴れて天測により艦隊の位置を確認するとともに艦隊の隊形を整えることが出来ていた。夜になると霧は一層深くなっていった。

3.3 キスカ島での撤収

7月29日は、キスカ島では霧のため視程は1500 m程度と突入には絶好の天候となった。0700時に第五艦隊司令部が乗った軽巡洋艦「多摩」は、予定通り第一水雷戦隊から別れて幌筵に向かった。キスカ島の北側を時計周りに回っていた艦隊は、近くの岩礁などを避ける必要があったが、霧に閉ざされて正確な位置が不明だった。11時半頃に一瞬霧が晴れてキスカ富士を視認でき、これで艦隊の正確な位置を確認できた。キスカ島の東に回り込むとキスカ島から発信されるビーコンにより一挙に突入することが出来た [7, p404] 。

当日、キスカ島では朝から電探が敵機を上空に捕え、9時頃までに2回対空戦闘があった。ところが1000時頃から霧が深くなったためか敵機は戻っていった。同じく午前中にはキスカ島付近を哨戒する敵駆逐艦の音も聴音されていたが、同様に戻って行ったようだった [7, p358]。第一水雷戦隊では、入港直前の1150時にキスカ島から敵艦船の聴音の報告があり、また駆逐艦「島風」も高感度の目標を探知したため、会敵を予期していたところ、1300時に艦影を発見したため「阿武隈」が咄嗟に魚雷攻撃を行った。しかし、艦影に見えたものはキスカ島付近の小島だった [1, p644]。

第一水雷戦隊は1340時に無事キスカ湾に入った [1, p644]。キスカ島周辺は深い霧に包まれていたが、湾内の視界は良好だった。撤収作業は島内に残っていた大発と艦隊が搭載してきた大発を使って順調に行われた。全将兵は1時間以内に船に収容された。

1430時頃には撤収を終わり、艦隊は出港した。ところが1627時に「阿武隈」が距離わずか約2 kmでアメリカ軍の浮上潜水艦を発見してこれを回避した。艦隊は発見されたと思われたが、アメリカ艦隊と誤認したのか潜水艦から無線は発信されなかった [1, p646]。これは、アメリカ軍の巡洋艦に似せるために軽巡洋艦の煙突1本を白く塗った効果だったかも知れない。また、北方部隊では7月29日に艦隊が大湊に在泊しているような偽電を発信していた [3, p320]。

艦隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵へ無事に戻った。こうして5186名が無事にキスカ島から撤収され「ケ」号作戦は成功した。この作戦の間幌筵の重巡洋艦「那智」で気象予測を行った竹永気象長は、それまでとは打って変わってみんなから感謝された。古賀連合鑑隊司令長官は、31日に慰労電を発信した。8月2日には大元帥である天皇陛下から撤収作戦に関して御嘉賞のお言葉を賜った [2, p492]。

3.4 キスカ島沖での幻の海戦

キスカ島からの撤収作戦の成功には、アメリカ艦隊の行動が大きく関係していた。哨戒していたカタリナ飛行艇は、7月24日にアッツ島南西150 kmに7隻の船をレーダーで感知した [8, p91]。北太平洋軍はこれを日本軍の増援と判断し、阻止するためにキスカ島の南西でキスカ島を封鎖していた駆逐艦2隻を含めて、艦隊をキスカ島南西の該当海域に向かわせた。7月27日の深夜、この艦隊の戦艦「ミシシッピー」、「アイダホ」、重巡洋艦「ウィチタ」、「ポートランド」がキスカ島の南西150 km海域でレーダーの反応を認めた [9, p93]。艦隊は直ちに、この目標に22 kmまで接近して約30分間にわたって砲火を浴びせた。ただし星弾(照明弾)を用いてもその目標を視認できなかった。夜が明けた28日に偵察機を飛ばしたが、いかなる残骸や漂流物も認められなかった [9, p93]。


戦艦「ミシシッピー」。1943年3月ハワイにて
https://ww2db.com/image.php?image_id=30917

艦隊のレーダー担当士官は、後にそのレーダーの反応が異常な大気状態による約180 km離れたアムチトカ島からの電波反射が原因だったかも知れないと示唆している [8, p91]。この戦いはピップスの戦い(The Battle of the Pips)とも呼ばれている。

このアメリカ艦隊の幻との戦いによって、日本艦隊がキスカ島からの撤収を行っていた29日頃、アメリカ艦隊はキスカ島付近には駆逐艦1隻だけを残して、キスカ島の南東200 kmの地点で消耗した砲弾や燃料の補給をしていた [2, p88]。これによって、この時だけアメリカ軍の封鎖網に隙が生じて、日本艦隊にキスカ島との航路が開けていた。もちろんアメリカ軍では、この一瞬の隙を突いて日本軍が撤収したことに全く気付かなかった。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北方方面海軍作戦.  朝雲新聞社, 1969. 第 29 巻.
[2] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北東方面陸軍作戦<1>-アッツの玉砕-.  朝雲新聞社, 1969.
[3] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊<4>第三段作戦前期.  朝雲新聞社, 1970.
[4] 徳田 八郎衛. 間に合わなかった兵器.  光人社, 2001.
[5] 半澤 正男. 若き艦隊予報官の霧予報的中. 海の気象, 24, 5, 海洋気象学会, 1989.
[6] 阿川 弘之. 私記キスカ撤退.  株式会社文藝春秋, 1988. 
[7] キスカ会. キスカ戦記.  原書房, 1980.
[8] Navy U.S. The Aleutians Campaign June 1942-August 1943.  Naval History and Heritage Command, U.S. Navy, 2018. 
[9] Wilder A. Carol. Weather as the Decisive Factor of the Aleutian Campaign, June 1942-August 1943.  Drake University, 1983.



2021年7月8日木曜日

キスカ島撤収-「ケ」号作戦(2)

2. 第二期第一次キスカ島撤収作戦

2.1 作戦計画

6月11日に第一水雷戦隊司令官として木村昌福少将が着任した。彼は温厚だが果断な人物であり、南洋ソロモン諸島での諸作戦に参加して実戦の経験は豊富だった。さまざまな検討が重ねられた結果、この任務には収容隊として軽巡洋艦「木曽」、「阿武隈」、駆逐艦「響」、「夕雲」、「風雲」、「秋雲」、「朝雲」、「薄雲」、警戒隊として駆逐艦「島風」、「五月雨」、「長波」、「若葉」、「初霜」、それに補給隊として油槽船「日本丸」と海防艦「国後」、応急収容隊として特設巡洋艦「粟田丸」が割り当てられた [1, p607]。その他に潜水艦11隻が偵察や哨戒、気象通報に参加した。

木村昌福少将
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kimura_Masatomi.jpg?uselang=ja

迅速な収容と万一の海戦に備えて、海軍は撤収する際に兵士は小銃を携行しないように要請した。また、アメリカ軍の巡洋艦に偽装するため、軽巡洋艦の3本煙突の一つを白塗りにして2本煙突に見えるようにした [1, p614]。また、軽巡洋艦「阿武隈」、「木曽」には効果的な対空兵器がないので、陸軍の7 cm野戦高射砲を仮設装備した [1, p614]。

この作戦は、敵に見つからないように霧を利用しながらも、霧が濃いと艦隊の航行に支障を来すという矛盾した側面を抱えていた。そのため、第一水雷戦隊に気象士官が配置された [1, p614]。軽巡洋艦の「阿武隈」と「木曽」には2号1型電探が装備されていたが、見張りの代わりに使えるだけで、射撃用の距離測定はできなかった [3, p315]。木村司令官の要望で距離測定ができる最新の2号2型電探を装備した新造の駆逐艦「島風」が、7月1日付けで第五艦隊の第一水雷戦隊に編入された [1, p614]。一方で、超短波用の逆探が全艦に装備されたが [1, p614]、アメリカ軍が1942年秋から装備していた極超短波を用いた新型SGレーダーには応答しない可能性が高かった [4, p97-98]。

駆逐艦「島風」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shimakaze.jpg


2.2 作戦のための霧予報

この作戦を成功させるためには3日以上先のキスカ島の霧の発生の予報が必要だった。この霧予報の重大な責任を負ったのは、中央気象台附属気象技術官養成所出身で、まだ22歳の第五艦隊気象長竹永一雄海軍少尉だった。

気象予報のためにはまず北太平洋高緯度での気象観測データが必要だった。また、幌筵に停泊している船舶にもアリューシャン列島の霧の特徴を尋ねた。

気象データを入手できても、霧の予報を出すには予報手法を新たに開発しなければならなかった。彼は艦隊旗艦「那智」がアッツ島沖海戦で損傷したため第五艦隊司令部が移された「摩耶」が、4月に横須賀に回航された際に、霧予報のための調査を命じられた。彼は過去に船舶によって行われた北太平洋の気象観測の結果や神戸の海洋気象台が発行していた北太平洋天気図を用いて霧の予報手法のための調査を行った [5, p7]。彼が苦心のすえまとめたアリューシャン列島西部の海霧予報のための法則は次のようなものであった [6, p6]。

  1. 北千島に濃霧がかかると、2日後にキスカ島が霧になる確率は9割以上である。
  2. 霧は低気圧の接近によって発生し、その通過後に晴れる。
  3. 霧が発生する時の風速は5~7 m/sが最も多く、風が弱いときは霧は少ない。
  4. 気温より水温が2℃以上高いと霧が発生しやすい。
  5. キスカの霧の季節は6月下旬から7月上旬までの間で、7月下旬になると霧の発生は減少する。

1.は「プラス2セオリー」と呼ばれた。なお4.は2.の低気圧接近時の南風との整合性を考えると、夏の時期は「気温より水温が2℃以上低い(気温が水温より2℃以上高い)」とする方が妥当と思われる。ただ霧はどちらの条件でも発生する可能性はある。

2.3 作戦の経過

第五艦隊では、キスカ島付近は7月10日夕方から霧が濃くなり、11日は霧または霧雨、12日は霧は少なくなると予想した。この予報に従って、第一水雷戦隊は11日を撤収予定日として7月7日に幌筵を出港した。

7月11日~12日

第一水雷戦隊では11日には高気圧が発達して霧が消えると予想し、途中海域で待機しながら突入を13日に延期した。実際に11日はキスカ島付近の天候は曇りだが視程は10~15 kmあり、夕方にはアメリカ軍の駆逐艦隊がキスカ島を砲撃した。キスカ島では作戦延期の知らせが十分でなく、沖合に見えたアメリカ艦隊に向かって発光信号を送ったり、誘導電波を送ったりなどの混乱が起こった [7, p336]。

第一水雷戦隊では突入を延期した13日の天候を、午後から霧が深くなるが低気圧の動きが遅ければ霧の発生は夜になると予測した。またアメリカ艦隊の警戒を厳重と見なして、突入を14日に延期した。この時期の第一水雷戦隊の天候判断は、第五艦隊司令部や第五十一根拠地隊の判断と異なっており、全般的にきわめて慎重であった [1, p617]。第一水雷戦隊が待機していた海域は終始晴れており、心理的に第一水雷戦隊の突入を難しくしたかもしれない。

7月13日~14日

キスカ島の第五十一根拠地隊の14日の予報は雨または霧で15日の夕刻より天候が回復するというものだった。しかし第一水雷戦隊は、戦隊付近の高気圧がそのままキスカ島付近へ向かうため14日も薄い霧程度で視界は良好と予測し、突入を15日に延期していったん反転した [1, p617]。ところがその後低気圧が東進してきたため、2100時に第一水雷戦隊の翌日14日の予報を予報を悪天に変えて、突入を14日に戻した [1, p618]。

しかしながら14日0125時になって、キスカ島での撤収作業が高波で困難であることが予想されたため、やはり突入を15日に延期した。実際のところ14日はキスカ島付近の天候は悪かったが、アメリカ艦隊がキスカ島のすぐ東方で行動していた [2, p483]。第一水雷戦隊は15日の突入を目指して、折しも発生した濃霧の中を14日1450時にキスカ島へと針路を向けた [1, p618]。

7月15日

低気圧は予想より早くキスカ島付近を通過し、15日0300時には曇りだが視程は10 km程度に回復した。さらに0600時の気象状況を待ったが、第一水雷戦隊付近では晴れ間もあり、視程は20~30 kmあった [1, p619]。キスカ島到着予定は1500時であったが、キスカ島での天候はさらに回復することが想定された。既に敵機の哨戒圏内であり、退避して再び待機することは燃料不足のため無理だった。0905時に第一水雷戦隊は撤収作戦を断念した [1, p619]。連合艦隊司令部は1521時に第五艦隊に決行の要望電を発信したが、結局撤収は中止となった [3, p318]。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北方方面海軍作戦.  朝雲新聞社, 1969. 第 29 巻.
[2] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北東方面陸軍作戦<1>-アッツの玉砕-.  朝雲新聞社, 1969.
[3] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊<4>第三段作戦前期.  朝雲新聞社, 1970.
[4] 徳田 八郎衛. 間に合わなかった兵器.  光人社, 2001.
[5] 半澤 正男. 若き艦隊予報官の霧予報的中. 海の気象, 24, 5, 海洋気象学会, 1989.
[6] 阿川 弘之. 私記キスカ撤退.  株式会社文藝春秋, 1988. 
[7] キスカ会. キスカ戦記.  原書房, 1980.

2021年7月6日火曜日

キスカ島撤収-「ケ」号作戦(1)

第二次世界大戦において、日本軍がキスカ島からの撤退に成功したのには気象が大きく関係している。 それについて述べたいと思う。キスカ島からの撤退に至る前後のことについては、姉妹ブログである「アリューシャンでの戦い」に詳しく書いたので、そちらを参照して欲しい。

1. 第一期キスカ島撤収作戦

連合国軍のアッツ島上陸により、日本軍はキスカ島の将兵約5600名を救出する必要に迫られた。聯合艦隊は北方を守る第五艦隊に対して1943年5月29日にキスカ島からの撤退である「ケ」号作戦を開始するように下令した。ガダルカナル島からの撤退作戦は「ケ」号作戦とされたが、キスカ島からの撤退作戦も同じ名称が付けられた。

しかしキスカ島は連合国軍の航空機、哨戒艇、潜水艦によって四方から厳重に封鎖されていた。そのため、「ケ」号作戦は主に潜水艦を使用してキスカ島の守備隊を撤収させるものだった [1, p565]。しかし、それでは全員の撤収には9月末までかかると考えられ、諸状況を考慮すれば、半分撤収できれば良い方と考えられた [2, p468]。

キスカ島近くのセグラ島を飛行するPBYカタリナ飛行艇
https://ww2db.com/image.php?image_id=17307

北方部隊潜水部隊は、作戦発令前の5月27日から潜水艦を使って、まず傷病者と軍属のキスカ島からの撤収を開始した。「ケ」号作戦には13隻の潜水艦が参加した。6月9日までに6回の撤収が無事に成功し、1回の救出数は60~80名と効率が悪かったものの、潜水艦を用いた撤収は順調に進むかのように見えた。

実は、この時期のアメリカ艦隊はアッツ島の作戦が一段落したため、基地へ戻って補給を行っていた。しかし6月10日頃になると、アメリカ軍によるキスカ島付近の哨戒網が再構築された。アメリカ軍の攻撃を受けて潜水艦「伊二十四」が6月11日に、そして潜水艦「伊九」が14日に消息不明となった。それらの被害を受けて「ケ」号作戦は中断された。

潜水艦を用いた撤収は、6月18日に4隻の潜水艦を用いて再開された。21日に最初にキスカ島の七夕湾に進入しようとした潜水艦「伊七」は、駆逐艦「モナハン」から霧の中でレーダーによる砲撃を受けた。砲弾が艦橋に命中して司令と艦長が戦死し、潜航不能となった。同艦は旭岬に擱座して応急修理を行った。翌日に応急修理を終え濃霧の中を横須賀に向かおうとしたところ、再び同駆逐艦からレーダー射撃を受けたためキスカ島へ戻ろうとしたが、被弾によって浸水が激しく付近の岩礁に擱座するに至った[1, p580]。この戦闘で乗組員80名が戦死し、同艦は後日暗号書とともに爆破された。

これにより23日に「ケ」号作戦のいったん中止が指令された。結局6月18日までに潜水艦でキスカ島からの撤収に成功したのは、主に軍属や傷病者の872名だった [1, p574]。

潜水艦「伊七」
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/4a/Japanese_submarine_I-7_in_1937.jpg

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北方方面海軍作戦.  朝雲新聞社, 1969. 第 29 巻.
[2] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北東方面陸軍作戦<1>-アッツの玉砕-.  朝雲新聞社, 1969.