2. 第二期第一次キスカ島撤収作戦
2.1 作戦計画
6月11日に第一水雷戦隊司令官として木村昌福少将が着任した。彼は温厚だが果断な人物であり、南洋ソロモン諸島での諸作戦に参加して実戦の経験は豊富だった。さまざまな検討が重ねられた結果、この任務には収容隊として軽巡洋艦「木曽」、「阿武隈」、駆逐艦「響」、「夕雲」、「風雲」、「秋雲」、「朝雲」、「薄雲」、警戒隊として駆逐艦「島風」、「五月雨」、「長波」、「若葉」、「初霜」、それに補給隊として油槽船「日本丸」と海防艦「国後」、応急収容隊として特設巡洋艦「粟田丸」が割り当てられた [1, p607]。その他に潜水艦11隻が偵察や哨戒、気象通報に参加した。
迅速な収容と万一の海戦に備えて、海軍は撤収する際に兵士は小銃を携行しないように要請した。また、アメリカ軍の巡洋艦に偽装するため、軽巡洋艦の3本煙突の一つを白塗りにして2本煙突に見えるようにした [1, p614]。また、軽巡洋艦「阿武隈」、「木曽」には効果的な対空兵器がないので、陸軍の7 cm野戦高射砲を仮設装備した [1, p614]。
この作戦は、敵に見つからないように霧を利用しながらも、霧が濃いと艦隊の航行に支障を来すという矛盾した側面を抱えていた。そのため、第一水雷戦隊に気象士官が配置された [1, p614]。軽巡洋艦の「阿武隈」と「木曽」には2号1型電探が装備されていたが、見張りの代わりに使えるだけで、射撃用の距離測定はできなかった [3, p315]。木村司令官の要望で距離測定ができる最新の2号2型電探を装備した新造の駆逐艦「島風」が、7月1日付けで第五艦隊の第一水雷戦隊に編入された [1, p614]。一方で、超短波用の逆探が全艦に装備されたが [1, p614]、アメリカ軍が1942年秋から装備していた極超短波を用いた新型SGレーダーには応答しない可能性が高かった [4, p97-98]。
2.2 作戦のための霧予報
この作戦を成功させるためには3日以上先のキスカ島の霧の発生の予報が必要だった。この霧予報の重大な責任を負ったのは、中央気象台附属気象技術官養成所出身で、まだ22歳の第五艦隊気象長竹永一雄海軍少尉だった。
気象予報のためにはまず北太平洋高緯度での気象観測データが必要だった。また、幌筵に停泊している船舶にもアリューシャン列島の霧の特徴を尋ねた。
気象データを入手できても、霧の予報を出すには予報手法を新たに開発しなければならなかった。彼は艦隊旗艦「那智」がアッツ島沖海戦で損傷したため第五艦隊司令部が移された「摩耶」が、4月に横須賀に回航された際に、霧予報のための調査を命じられた。彼は過去に船舶によって行われた北太平洋の気象観測の結果や神戸の海洋気象台が発行していた北太平洋天気図を用いて霧の予報手法のための調査を行った [5, p7]。彼が苦心のすえまとめたアリューシャン列島西部の海霧予報のための法則は次のようなものであった [6, p6]。
- 北千島に濃霧がかかると、2日後にキスカ島が霧になる確率は9割以上である。
- 霧は低気圧の接近によって発生し、その通過後に晴れる。
- 霧が発生する時の風速は5~7 m/sが最も多く、風が弱いときは霧は少ない。
- 気温より水温が2℃以上高いと霧が発生しやすい。
- キスカの霧の季節は6月下旬から7月上旬までの間で、7月下旬になると霧の発生は減少する。
1.は「プラス2セオリー」と呼ばれた。なお4.は2.の低気圧接近時の南風との整合性を考えると、夏の時期は「気温より水温が2℃以上低い(気温が水温より2℃以上高い)」とする方が妥当と思われる。ただ霧はどちらの条件でも発生する可能性はある。
2.3 作戦の経過
第五艦隊では、キスカ島付近は7月10日夕方から霧が濃くなり、11日は霧または霧雨、12日は霧は少なくなると予想した。この予報に従って、第一水雷戦隊は11日を撤収予定日として7月7日に幌筵を出港した。
7月11日~12日
第一水雷戦隊では11日には高気圧が発達して霧が消えると予想し、途中海域で待機しながら突入を13日に延期した。実際に11日はキスカ島付近の天候は曇りだが視程は10~15 kmあり、夕方にはアメリカ軍の駆逐艦隊がキスカ島を砲撃した。キスカ島では作戦延期の知らせが十分でなく、沖合に見えたアメリカ艦隊に向かって発光信号を送ったり、誘導電波を送ったりなどの混乱が起こった [7, p336]。
第一水雷戦隊では突入を延期した13日の天候を、午後から霧が深くなるが低気圧の動きが遅ければ霧の発生は夜になると予測した。またアメリカ艦隊の警戒を厳重と見なして、突入を14日に延期した。この時期の第一水雷戦隊の天候判断は、第五艦隊司令部や第五十一根拠地隊の判断と異なっており、全般的にきわめて慎重であった [1, p617]。第一水雷戦隊が待機していた海域は終始晴れており、心理的に第一水雷戦隊の突入を難しくしたかもしれない。
7月13日~14日
キスカ島の第五十一根拠地隊の14日の予報は雨または霧で15日の夕刻より天候が回復するというものだった。しかし第一水雷戦隊は、戦隊付近の高気圧がそのままキスカ島付近へ向かうため14日も薄い霧程度で視界は良好と予測し、突入を15日に延期していったん反転した [1, p617]。ところがその後低気圧が東進してきたため、2100時に第一水雷戦隊の翌日14日の予報を予報を悪天に変えて、突入を14日に戻した [1, p618]。
しかしながら14日0125時になって、キスカ島での撤収作業が高波で困難であることが予想されたため、やはり突入を15日に延期した。実際のところ14日はキスカ島付近の天候は悪かったが、アメリカ艦隊がキスカ島のすぐ東方で行動していた [2, p483]。第一水雷戦隊は15日の突入を目指して、折しも発生した濃霧の中を14日1450時にキスカ島へと針路を向けた [1, p618]。
7月15日
低気圧は予想より早くキスカ島付近を通過し、15日0300時には曇りだが視程は10 km程度に回復した。さらに0600時の気象状況を待ったが、第一水雷戦隊付近では晴れ間もあり、視程は20~30 kmあった [1, p619]。キスカ島到着予定は1500時であったが、キスカ島での天候はさらに回復することが想定された。既に敵機の哨戒圏内であり、退避して再び待機することは燃料不足のため無理だった。0905時に第一水雷戦隊は撤収作戦を断念した [1, p619]。連合艦隊司令部は1521時に第五艦隊に決行の要望電を発信したが、結局撤収は中止となった [3, p318]。
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