2020年12月23日水曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(7)数値予報と地球環境問題への取り組みとまとめ

 数値予報への貢献

 ロスビーは戦後になって、第二次世界大戦中に知られるようになったジェット気流の研究も行った。また、シカゴ大学で洗い桶(dish pan)と呼ばれた回転水槽を使った波動研究の開始にも携わった。彼は1947年に母国スウェーデンに戻った。そこで、ストックホルム大学に気象研究所を設立して、各地からボリン、エリアッセン、ヒンケルマン、ホフメラーなどの錚々たる優秀な研究者を集めて数値予報の研究を行った。ボリンは後にIPCCの初代議長にも就任している。この研究の結果、スウェーデン王国空軍気象サービスは1954年12月から世界初の現業気象予報を開始することができた(本の10-5-2 現業運用での数値予報の開始参照)。

 ジュール・チャーニー(Jule Charney)は、大気力学の定式化、数値予報への取り組みなどを通して気象学に多大な貢献を行った研究者であるが、学生時代には理論物理学を目指していた。気象や気象学には興味がなく、受けた気象学の授業にも全く関心が湧かなかった。しかし、彼はロスビー方程式を見て、初めて大気力学に興味を持って気象学の分野に入ったと言われている [1]。彼は後にロスビーと極めて親しくなり、ロスビーからさまざまな啓発を受けている。

ロスビーの肖像写真。1939年にアメリカ気象局へ移った頃。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Carl_G._A._Rossby_LCCN2016875745_(cropped).jpg

地球環境問題への取り組み

 ロスビーは気象学をもっと化学や地球物理分野に広げる必要があると考えていた。そして、大気を粒子や化学物質の運搬体とみなし、それらは地球との相互作用を通して地球規模でバランスしていると考えていた。彼は地球環境問題に警鐘を鳴らして、1950年代に二酸化炭素の増加による地球温暖化の問題にも懸念を示した [9]。また大気中の化学物質の挙動、特に酸性雨にも強い関心を示し、それらの観測、研究にも関わった [9]。そしてヨーロッパ大気化学観測網(European Air Chemistry Network)の設立にも貢献した [10]。しかし、彼は翌年1957年に心臓発作を起こして帰らぬ人となった。

まとめ

 ロスビーは、気象学の問題に対する優れた研究者であっただけでなく、航空気象のための組織を初めて立ち上げるなど、ウッズホール海洋研究所、MIT、アメリカ気象局、シカゴ大学、ストックホルム大学気象研究所などで研究所の組織化や活性化を巧みに推進した。また、彼は特定の研究場所や分野にこだわることなく、活動拠点を次々に移しながら研究分野を新しく広げていった。彼にとって地球の大気と海洋は、数メートルという細かなスケールの現象から数千キロメートルの地球規模の現象まで、隔てることのできない一つの現象として考えていたように思える。それには大気や海洋の力学も、航空気象も、総観気象学も、気象予測も、地球化学や地球環境問題も関係なかった。また同様に学究的な理論なのか、それとも実用的な技術なのかも関係なかった。

 彼はある分野で優れた業績を上げても、そこに深く関わり続けることをむしろ避けていたようにも見える。それは自分自身を活性化するためだったのかもしれない。彼は気象のあらゆることに興味を持ち続け、その広い視野に基づいて気象学の発達のために才能を発揮し続けた人物といえるだろう。

 最後にロスビーの科学者としての役割について触れておきたい。20世紀最高の哲学者の一人と言われているホセ・オルテガは、有名な著書「大衆の反逆」の中の「専門化の野蛮性」という章の中でこう述べている。(科学者とは)「思慮のある人間になるために知っていなければならぬことのうちで、特定の科学だけしか知らず、その科学のなかでも、自分が活発に研究している一握りの問題だけをよく知っているのである。」[11] オルテガは、専門家のことを「無知な知者」と呼んでいる。オルテガの指摘のように、科学者は自分の専門を深く追求するあまり、他の分野のことをほとんど知らない場合もある。

 そしてオルテガは「科学は、その発達の過程で有機的に調整されるために、ときどき再編成される必要があるからであり、それには、まえにいったように、総合の努力が要請されるからである。」[11] と述べている。科学の発展は専門分野の深化だけでは難しい。この再編成のための総合化の努力には、科学の深い知識とともにそれを広く俯瞰する能力が必要である。ロスビーはそれができる数少ない真の科学者の一人だったといえるのかもしれない。

(このシリーズ終わり。次は大気圏核実験に対する放射能観測(1)

Reference(このシリーズ共通)

[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.
[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. National Academy of Sciences.
[3] John D. Cox, (訳)堤 之智 -2013- 嵐の正体にせまった科学者たち-気象予報が現代のかたちになるまで, 丸善出版, 978-4-621-08749-7.
[4] Fleming Rodger James-2016-Inventing Atmospheric Science: Bjerknes, Rossby, Wexler, and the Foundations of Modern Meteorology. The MIT Press, 978-0262536318.
[5] M. J. Lewis-1996-C.-G. Rossby: Geostrophic Adjustment as an Outgrowth of Modeling the Gulf Stream. Bulletin of the American Meteorological Society, American Meteorological Society, 77, 2711-2718.
[6] 小倉義光-1978-気象力学通論. 東京大学出版会.
[7] 田家康-2016-異常気象で読み解く現代史. 日本経済新聞出版 978-4-532-16987-9.
[8] John Ross-2014-THE FORECAST FORD-DAY. Lyons Press.
[9] C.-G Rossby-1959-Current Problems in Meteorology. (編) Bert Bolin. The Atmosphere and the Sea in Motion, Scientific Contributions to the Rossby Memorial Volume. The Rockefeller Institute press, 9-50.
[10] John McCormick-2013-The Global Threat of Acid Pollution. Routledge, 978-0415845830.
[11] オルテガ,(訳)寺田和夫-2002-大衆の反逆,  中央公論新社(第12刷)



2020年12月16日水曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(6)戦争時代

 ロスビーがアメリカに来た頃に気象局の片隅で知り合ったライケルデルファーは、1939年にアメリカ気象局長官となった。ライケルデルファーは、気象局の改革のためにロスビーに対して長官補佐への就任を要請した。これによってかつてロスビーを追い出した気象局の人々は、ロスビーの下で働くことになった。気象局には既に彼の片腕だったバイヤースなどがおり、彼らの協力を得てロスビーは気象局へのベルゲン学派気象学の導入のための改革を行った。これによって、アメリカ気象局においてようやく前線などを用いた気象解析が行われるようになった [8]。

 気象局改革の目途を付けたロスビーは、1941年にはシカゴ大学へ移って大気波動の研究に取り組んだ。ちょうどその頃、アメリカは第二次世界大戦に参戦した。彼は国防長官の科学顧問となり、戦時の気象技術者養成のための体制の確立や教育プログラムの作成に尽力した。その結果、軍の機関だけでなく、マサチューセッツ工科大学(MIT)、ニューヨーク大学、シカゴ大学、カリフォルニア大学ロサンジェルス校(UCLA)、カリフォルニア工科大学(Caltech)で約8000名の気象士官が養成された [3]。また彼は自ら戦地を回って、そこで起こっている気象の問題の解決に貢献しただけでなく、それまでほとんど例のなかった熱帯での戦いのために、熱帯での気象予報を改善するべくシカゴ大学がプエルトリコに熱帯気象研究所を設立するのを支援した [2]。

 ロスビーは戦地を回りながら、気象予測の戦争への重要性やそのための軍独特の体制にも関心を抱いたのかもしれない。少し変わったところで、ノルマンディ上陸作戦に関連した話がある。この大規模な上陸作戦の実施は、潮の関係で1944年6月5日からの3日間に限られていた。この作戦は凌波性のない上陸用舟艇や風に流されるパラシュート部隊を用いるために、天候に極めて敏感に依存しており、気象予報の外れは作戦の大失敗と直結していた。

 しかも大規模な軍を緻密に動かすために、予定の24時間前には作戦を実施するかどうかの決断を求められ、いったん作戦が動き出すとこの多種の軍が連携した作戦を止めることは不可能だった。上陸作戦軍司令部の元には、イギリス海軍、イギリス気象局、アメリカ陸軍航空隊という出自が異なる3つの予報チームが置かれていたが、それらの予報が同じになることは稀だった。各将軍は身近な予報チームをひいきにしており、予報を巡る事情は複雑だった。

 総司令官アイゼンハワーに対して気象予測のとりまとめを行ったのは気象士官であるドン・イェーツ(Don Yates)大佐だった。彼は激しく論争する3チームを絶妙に差配し、他の将軍たちの同意を取り付けてアイゼンハワーの決断を支援した [8]。ノルマンディ上陸作戦は紆余曲折した結果、アメリカ陸軍航空隊予報チームの6月5日は好天という予報を退けて、予定より1日遅らせて6月6日に実施された。

 結果は6月5日は強風・高波となり、とても作戦を実施できる状態ではなかった。予定通りに作戦を実施していれば、上陸作戦は大失敗になっただろうといわれている。もし作戦が失敗していれば大兵力の損失だけでなく、ドイツ軍の裏をかいたノルマンディへの奇襲上陸という企図も暴露するため、上陸地点の選定から大幅に作戦を見直す必要があった。上陸作戦が無事に成功したのは、イェーツ大佐の手腕に依るところも大きかった。そして、その彼を上陸作戦軍司令部の気象士官に推したのはロスビーだった [1]。

1944年6月5日(最初の上陸予定日)の天気図。イギリス南部からフランス・ノルマンディ地方へ比較的密な等圧線が外洋から延びており、強風が外洋から直接ノルマンディへ吹き込む状況にあったことがわかる。https://en.wikipedia.org/wiki/Sverre_Petterssen#/media/File:Ddayweather.jpg

 ロスビーは、1944年から1945年にかけてアメリカ気象学会の理事長を務めて学会を改革した。その際に、1944年にアメリカ気象学会のJournal of Meteorology誌、後のJournal of the Atmospheric Sciences誌を創刊した。また、後の1949年にはスウェーデンにおいてTellus誌も創刊している。こうやって多くの研究者の業績を残して、さらに発展させていくことにも尽力した。

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(7)数値予報と地球環境問題への取り組みとまとめへとつづく)

Reference(このシリーズ共通)

[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.
[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. National Academy of Sciences.
[3] John D. Cox, (訳)堤 之智 -2013- 嵐の正体にせまった科学者たち-気象予報が現代のかたちになるまで, 丸善出版, 978-4-621-08749-7.
[4] Fleming Rodger James-2016-Inventing Atmospheric Science: Bjerknes, Rossby, Wexler, and the Foundations of Modern Meteorology. The MIT Press, 978-0262536318.
[5] M. J. Lewis-1996-C.-G. Rossby: Geostrophic Adjustment as an Outgrowth of Modeling the Gulf Stream. Bulletin of the American Meteorological Society, American Meteorological Society, 77, 2711-2718.
[6] 小倉義光-1978-気象力学通論. 東京大学出版会.
[7] 田家康-2016-異常気象で読み解く現代史. 日本経済新聞出版 978-4-532-16987-9.
[8] John Ross-2014-THE FORECAST FOR D-DAY. Lyons Press.



2020年12月10日木曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(5)気象予報への貢献

 ロスビー波は、地上の気団や前線などを通して地上の気象にも影響を与えるため、その移動速度などを解析すれば数日先の天気を予測できると考えられた。そのためロスビー波の天気予報への利用が始まった。1930年代までは多くの気象学者たちは1~2日より先の気象を合理的に予測することはできないと考えていたが、ロスビー波を用いた手法は、アメリカの5日予報と1か月予報の理論的根拠となった。1940年にMITで始まった最初の現業運用の長期予報部門は、1941年にはアメリカ気象局内に設立されて、5日予報が週2回定期的に発表されるようになった。

 またロスビーは、MITにおいてイギリスの気象学者ネイピア・ショー(Napier Shaw)が20世紀初めに提唱した温位という概念の利用を提唱した。温位面は等エネルギー面でもあり、断熱下では物質は等温位面に沿って移動する。ロスビーはこの性質を利用して、水蒸気をトレーサーとする等温位面解析図を定期的に作成した。これは水蒸気輸送の解明に貢献し、気象の総観解析の重要な手段となっただけでなく、大気大循環についての重要な情報にもなった [2]

 さらに、ロスビーは1940年に順圧浅水系における渦管伸縮の考えを使って、「渦位(potential vorticity) 」を定義し、断熱的な流れの下での渦位保存則を示した。

 d/dt((ζ+f)/h)=0

  ここで(ζ+f)/hが渦位、ζ は相対渦度の鉛直成分、f はコリオリパラメータ、h は大気の厚さとなる。この式は、渦位が保存していると、大気が山などにぶつかって大気の厚さが変わると渦の強さが変わることを意味している。この渦位の考えは、1942年にドイツの気象学者エルテル(Hans Ertel)がより一般的な形で絶対渦度と静力学的安定度の積として定義した。

 渦位は空気塊の保存量として使えるため、それまでの温位や水蒸気量と合わせて等渦位線が大気の流跡線として使われるようになった。一般に成層圏大気は高い渦位を持っているので、成層圏性大気と対流圏性大気の区別に用いられることもある。ただ渦位分布の算出には複雑な計算が必要なため、当時はそれを広域にわたって迅速に計算するのは困難だった。電子コンピュータが発達した現代においては、等渦位線分布図が定期的に作成されて、予報などに使われている。

等温位面(315K)上の渦位分布の例(気象庁 量的予報技術資料  19  2014 年より)

 カール=グスタフ・ロスビーの生涯(6)戦争時代へとつづく)

 Reference(このシリーズ共通)
[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.
[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. National Academy of Sciences.


2020年12月6日日曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)MITでの業績

 MIT准教授への就任

 この時期は、アメリカの航空は飛行船から飛行機へ拡大する過渡期にあり、海軍では飛行船や飛行機の安全な運航に必要な大勢の気象士官を必要としていた。1925年にアメリカ海軍の硬式飛行船「シェナンドー」が雷雨で墜落するという事故が起きた。これを契機に気象学の研究に注目が集まるようになり、マサチューセッツ工科大学(MIT)に気象学講座が設立されることになった。この航空気象を扱う講座を率いる人物としてロスビーはうってつけだった [5]

 1928年にロスビーはMIT航空学科の気象学の准教授になり、この講座は数年後にはアメリカ初の気象学科となった。そこにベルゲンへ留学させていたウィレット(Hurd Willett)を呼び寄せて、ベルゲン学派気象学の普及と熱力学の気団解析への応用研究を開始した [2]。また1931年からはウッズホール海洋研究所の研究員も兼ねて、そこで海洋上の大気境界層の研究を行い、気象学に初めて混合距離mixing length)や粗度(roughness)という概念を導入し、乱流の研究にも取り組んだ [2]

海洋学へ貢献

 ウッズホール海洋研究所では、アメリカ東部の湾岸流Gulf stream)の解明にも取り組み、そこの海洋学者スピルハウス(Athelstan Spilhaus)と共同で、水温と水圧の鉛直分布が測定できるバシサーモグラフbathythermograph)を開発した。これは、動く船から水温と水圧の鉛直分布を測定するもので、現代でも海洋の測定器として欠かせないものである [5]。そして、これを用いた観測と解析から、湾岸流の構造の解明に取り組んだ。さらに、その研究の延長から「地衡流調節」という概念を生み出した [5]。これは地衡流平衡にある流体のある部分に外から突発的なショックを与えると、流れは再び徐々に平衡状態に戻るが、その状態は初めの状態と異なることを定量的に説明したものである [6]。これは大気にも当てはめることが出来る。

ロスビー波の導出

 アメリカ中部では1930年代に入ると干ばつが頻発し、「ダストボウル」と呼ばれる砂塵嵐による気象災害が多発した。これは干ばつに加えて農民がトラクタという新しい機械を使ってむやみに広大な土地を耕したためと言われている [7]。このため、約50万人の農民が土地を放棄して移住するという事態に発展した。アメリカではこの対策のためバンクヘッド・ジョーンズ法が制定され、MITなどではその資金で数日前からの予報の可能性を調査することになった。ロスビーは高度5000 m位の上層の大気波に注目した。彼は、1939年に順圧大気の絶対渦度の鉛直成分の保存を使って、以下の有名な式を力学的に導出した。

c=U-βL2/4π2

ここで、cは波の位相速度、Uは背景風の速度、βはコリオリパラメータと呼ばれる緯度の変化率を近似したもの、Lは波長である。これは大気上層で蛇行する大規模な風を波として、その振る舞いを理論的に説明するものである。これはロスビー式とかトラフ式などと呼ばれることもある。

発生したダストボウルの写真

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d9/Dust_Storm_Texas_1935.jpg/800px-Dust_Storm_Texas_1935.jpg

 この大規模な上層波はロスビー波またはプラネタリー波と呼ばれている。この上層大気の波の動きはその波長と波がある緯度に依存するだけでなく、その影響は下層にまで及んだ。この波が伴う地上付近の暖気と寒気の移動は、地上での総観規模気象の原因にもなった。これによって、それまで地上での気象を引き起こす主要因と考えられていた気圧分布は、この波の動きの結果に過ぎないという2次的な要因へと位置づけが変わった [3]。実際のロスビー波は、翌年にナミアスJerome Namias)の洋上の観測を含めた大気解析によって発見された [本の9-5-3ロスビー波の定式化参照]

ロスビー波の模式図

 ロスビー波の式は、1940年にアメリカに滞在していたドイツ人気象学者ハウリッツ(Bernhard Haurwitz)によって球面体での厳密な理論に拡張された。しかし、それでもロスビー波の理論は2次元の順圧大気で使われ続けた。それはロスビー波が、2次元の順圧大気でも大気の本質的な重要性を捉えていたからである [1]。ロスビー波を用いた順圧モデルは初期の数値予報においても使われて、その発達に重要な役割を果たした (本の「10-4 実験的な数値予報の成功」参照)

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(5)気象予報への貢献へとつづく)

Reference(このシリーズ共通)

[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.
[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. National Academy of Sciences.
[3] John D. Cox,
(訳)堤 之智 -2013- 嵐の正体にせまった科学者たち-気象予報が現代のかたちになるまで, 丸善出版, 978-4-621-08749-7.
[4] Fleming Rodger James-2016-Inventing Atmospheric Science: Bjerknes, Rossby, Wexler, and the Foundations of Modern Meteorology. The MIT Press, 978-0262536318.
[5] M. J. Lewis-1996-C.-G. Rossby: Geostrophic Adjustment as an Outgrowth of Modeling the Gulf Stream. Bulletin of the American Meteorological Society, American Meteorological Society, 77, 2711-2718.
[6]
小倉義光-1978-気象力学通論. 東京大学出版会.
[7]
田家康-2016-異常気象で読み解く現代史. 日本経済新聞出版 978-4-532-16987-9.

2020年12月2日水曜日

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(3)航空気象への貢献

航空気象への貢献

 当時アメリカは民間航空の振興に力を入れており、それに必要な気象の知識を持った人物を探していた。ライケルデルファーは、ロスビーを当時アメリカで航空の振興に尽力していたグッゲンハイム(Harry Frank Guggenheim)に紹介した。ロスビーのスウェーデン・アメリカ基金による留学資金が尽きた後、グッゲンハイムはロスビーにアメリカ滞在のための奨学金を提供した [1]。

 ロスビーは、その頃航空界の発展に尽力していたチャールズ・リンドバーグを支援した。リンドバーグは、1927年にスピリット・オブ・セントルイス号でワシントンからメキシコシティまでの無着陸飛行に挑んだ際に、当たらない気象局の予報の代わりにロスビーに航空予報を依頼した。リンドバークは大成功を収め、新聞もロスビーの予報を賞賛した。しかしロスビーは気象局に無断で予報を行ったため、気象局長官の怒りを買ってワシントンの気象局から追い出された [3]。気象局の人々は、これでベルゲン学派気象学を奨励するロスビーの気象局での見納めになったと思ったに違いない。しかし後述するように、人生は何が起こるかわからない。


スピリット・オブ・セントルイス号の前でポーズをとるリンドバーグhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:LindberghStLouis.jpg

 ちょうどその頃、アメリカに定期旅客航空路が開設されようとしていた。グッゲンハイムは、ロスビーを政府の航空気象委員会の常任の委員に任命した。ロスビーはロサンゼルスに移り、ロサンゼルスからサンフランシスコまでのアメリカ初の定期旅客航空路の試行のために、グッゲンハイムの支援で航空気象用の観測体制と予報体制を組織した。彼は後にシカゴ大学の教授となったホレス・バイヤース(Horace Byers)とともに、専任の観測員を持つ30の気象観測地点を新たに設立した [1]。なおバイヤースは、シカゴ大学で後に竜巻やダウンバーストの研究で有名になる藤田哲也を招聘した人である。

 この定期旅客航空路の試行は、気象による事故がなく絶賛された [3]。ロスビーはこの試行での全く新しい予報のやり方を、1928年に国家安全協議会において「航空路での安全な飛行のための気象サービス組織」という報告書にまとめた。気象局は、この報告書の手法に基づいて旅客航空路のための航空予報を引き継がざるを得なくなり、この航空予報の体制は全米各地に拡大していった [1]。

カール=グスタフ・ロスビーの生涯(4)MITでの業績へとつづく)

Reference(このシリーズ共通)
[1] Norman Phillips-1998-Carl-Gustaf Rossby: His Times, Personality, and Actions. American Meteorological Society, Bulletin of the American Meteorological Society, 79, 1097-1112.
[2] Horace Byers-1960-Carl-Gustaf arvid Rossby 1898-1957. National Academy of Sciences.
[3] John D. Cox, (訳)堤 之智 -2013- 嵐の正体にせまった科学者たち-気象予報が現代のかたちになるまで, 丸善出版, 978-4-621-08749-7.