2024年5月9日木曜日

国際政治における気象観測網

インフラストラクチャとしての気象観測網

現在、気象観測は世界中で行われ、その結果はほぼ即時的に見ることが出来る。正午のニュースで午前中の最高気温や最低気温が報じられることもある。また大雨が降るとどこでどの程度の雨量があったかがすぐにわかる。世界で起こった異常気象も報じられることがある。もちろん、観測結果は天気予報(数値予報)にも用いられており、我々の生活基盤としてのインフラストラクチャの一部となっている。

これは当たり前のように見えるかもしれないが、実は画期的なことである。各地に気象測定器を置いただけでは、観測網にならない。それらは統一的な測定基準で運用され、同時に観測され、何らかの即時的な通信手段で結ばれなければならない。また測定器の故障の際の修理や維持管理のための定期的な保守も必要となる。気象観測は今では防災のための重要な情報となっており、気象台の職員は、気象台内で予報や観測を行っているだけでなく、アメダスなどの観測所を定期的に巡回して、測定器だけでなくその観測環境も含めて点検している(地震計の維持管理も行っている)。

しかし、本当にすごいのは、ここから先である。気象観測地点は世界各地に展開され、観測網を構築している。この世界中を結んだ気象観測網は、歴史的に見てグローバルなインフラストラクチャの最初の一つとなった。そのため、当初は種々の問題にぶつかり、それを一つ一つ解決して行った。そして、それはインターネットを初めとする現代の様々なグローバルなインフラストラクチャの構築にも貢献した[1]。加えて気象独自の問題として、統一されたグローバルな観測が必要という問題があった。

この共通の統一的な測定基準による同時(同期)観測は、今では世界中のほとんどの国々で行われている。世界中が統一された規範に基づいた同一の作業を一斉に(つまり決められた世界標準時に)行っている。世界中の観測結果は各国の気象機関で瞬時に共有されている。それは、アメリカやヨーロッパだけでなく、ロシアでも、ウクライナでも、北朝鮮でも、中国でも、アジアやアフリカの諸国でも同じである。

現代社会における国家間のさまざまな軋轢やいざこざを見れば、これは驚くべき事である。別な見方をすれば、17世紀のウェストファーリヤ条約以来、最高主権をもっているとされている国家をも、その規範に従えていることになる。 こんなことが出来ている分野は他にないだろう。

これは一夜にして出来上がった仕組みではない。100年以上かけて少しずつ関係者が努力を積み重ねていった結果である。なぜこうことが可能になっているのか、簡単に経緯を述べておきたい。

 気象観測網の発展

気象はただ1か所で観測しても、その意義は薄い。他の地点の観測値と比較することで、他の観測地点との違いやこの観測地点の特徴がわかる。いくつかの測定器の開発や実験的なものを除いて、組織的な気象観測網の構築は、17世紀から始まった。それはそのための測定器の開発も並行して行ったものだった。それには、イタリアの実権アカデミー、イギリスの王立協会が気象観測を行った、そして、パリだけではあったがフランスの王立科学アカデミーなども気象観測を行った。

しかし、当時は観測手法や結果の比較に関する科学的な概念は確立されておらず、測器較正や観測環境を含む観測手法が異なる、あるいはわからないため、現在データは残っていても、その結果を同一の観測網の中といえども正確に比較することは出来ない。また、気象観測は長期間の継続が重要であるが、1日に何度も観測することを毎日継続するための労力は大変なものだった。そのため、王立協会を除いて観測は長くは続かなかった。

観測手法の統一をおそらく初めて唱えたのは、王立協会のロバート・フックだった。彼は1663年に王立協会で行っていた気象観測に「気象誌の作成方法(A method for making the history of the weather)」を提案した。これは観測手法の統一のために画期的なものだったが、いくつかの要因により王立協会内でも徹底しなかったようである。

各国では、やがて自国の農業、経済、健康などに気象(気候)データが重要であることに気づいて、18世紀頃から、いくつかの地域で気象観測を行うようになった。その中で、測定器や観測手法を統一した本格的なものは、ドイツのマンハイムにあったパラティナ気象学会によるのものだった。この気象観測網では測定器やその較正方法、観測方法を統一した。それにヨーロッパ、地中海、アメリカ、ロシアなど37か所の観測所が参加し、気圧、気温、湿度、風向、雨量などを測定した。この測定結果は、後にフンボルトの気候図や、ブランデスによる初めての天気図の作成に用いられた。

当時、気象の観測結果は製本されて出版された。気候値として使うためには当然だったのだが、この伝統は今でも続いており、気象の観測結果は、世界中でほとんどがインターネットを通じて無料で公開されている。そしてそれには、衛星による観測や温室効果ガスやエアロゾルなどの環境関連物質の観測結果も同様に扱われることが多い。これもこの分野の特筆すべきことである。

気象観測の目的に大きな革新が起こったのは、電信の発明によってである。 それまで月単位で集計して郵便で運ばれていた各地の観測結果は、電信によって中央でリアルタイムに把握できるようになった。これによって嵐の来襲に対して港湾のなどの船に事前に警報が出せる可能性が出てきた。フランス、イギリス、オランダなどでは観測所を電信で結んで、警報体制を構築した。これが近代的な気象観測網の原型となった。警報と行っても予測理論があるわけではなく、気圧や雨・風、気温変化などの経験則に基づいた現在のナウキャストに近いものだった。

ところが、各国が自国内で整備した気象観測結果だけでは警報を出すのに十分でないことがわかってきた。そのため、1873年に世界気象会議が開催され、その議題の一つが観測網の標準化だった。気象観測の調整のための国際気象機関(IMO)が設立されたが、データの共有は進んでも標準化はなかなか進まなかった。各国が自国の観測手法を優先したためである。 他国のデータを用いようとすると、観測手法の調査やデータの変換に多大な手間がかかった。また各国の気象関係者も、国の政策的な制約を受けることを避け、科学的に独立した立場を優先した。第二次世界大戦まで、一部の関係者は標準化のための努力を行ったが、その進展はわずかずつだった。

国際政治と気象観測網

それが、進展し始めたのは、第二次世界大戦後に世界気象機関(WMO)が設立されたためである。 WMOは、国連の専門機関として政府間組織となった。つまり、決定事項は政府代表が集まって討議し、その結果には拘束力が付与された。

そして、コンピュータの発明と人工衛星の打ち上げによる数値予報と気象改変の可能性が、1961年のケネディ大統領による国連総会での各国の気象観測網をつなげた構想の演説を後押しした。これは各国から歓迎され、それを受けてWMOは「世界気象監視(World Weather Watch:WWW)」プログラムを設立した。この実施によって各国の気象観測網は一つにつながり、調整された規範に基づいた同一の作業による気象観測が実現された。

これには技術や社会制度の調整だけでなく、東西冷戦(衛星を利用した気象観測は宇宙からの軍事偵察を気象という平和利用で包んだ面があった)、長年の気象学の伝統と関係者の工夫・熱意が関係している。それが上記の世界中で統一された気象観測をもたらしている。

スタンフォード大学教授のエドワーズは、「気候変動社会の技術史」の本の中で、WMOなどの国連の組織自体が、各国政府の正統性に挑む権限を持っていたためにその主権を制限した、と述べている[1]。「世界気象監視」プログラムはまさに国家主権を超えたグローバルな通信インフラストラクチャという面を持っていた。さらに技術的にも後年のインターネットなどの先導役を務めた面があった。エドワーズは世界気象監視プログラムを現在のWorld Wide Webと対比させて、「最初のWWW」と呼んでいる。

参照文献

[1]エドワーズ、(訳)堤 之智、2023:気候変動社会の技術史(日本評論社)