2020年1月28日火曜日

フォン・ノイマンについて(7) 電子コンピュータの開発

 本の10-2-2「電子計算機の出現」述べているように、アーサイナス大学の物理学教授ジョン・モークリーは電子工学に強い興味を持っており、1941年頃に太陽黒点周期の気象への影響を調べるために、調和解析機(Harmonic Analyzer)という一種のアナログコンピュータを開発していた。彼はペンシルバニア大学電気工学科のムーア校にいた優れた電気技術者だったプレス・エッカートと知り合いになった。彼らは相互のアイデアを交換して電子式微分解析機を共同で開発することにした。

 この開発は、計算機を砲弾の弾道計算に使いたい陸軍によって、ペンシルバニア大学ムーア校のプロジェクトとして認められることになった。陸軍は支援のために数学者ハーマン・ゴールドシュタインをムーア校へ派遣し、1944年に彼らによって初の汎用の電子式計算機ENIAC(Electronic Numerical Integrator and Computer)が産声を上げた[1]。しかし、ENIACの大きな欠点はプログラム内蔵の機能がないことだった。つまりこの装置において、プログラムの役割は外部配線が担っていたので、新しい計算をするたびに操作者はケーブルをつなぎ換え、スイッチを入れ直し、ダイヤルをいじり、周辺装置を組み替えなければならなかった。

エニアック
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d3/Glen_Beck_and_Betty_Snyder_program_the_ENIAC_in_building_328_at_the_Ballistic_Research_Laboratory.jpg

 19448月に、フォン・ノイマンはアバディーン駅のホームでゴールドシュタインと偶然に知り合いになった。その際に彼はゴールドシュタインからENIACのことを初めて聞き、その瞬間にENIACに夢中となった。彼は高速での計算が可能になれば、さまざまな分野の非線形偏微分方程式を数値的に解くことができると考えていた。そうなれば、さまざまな分野に全く新しい革新をもたらすことを彼は知り抜いていた。

 フォン・ノイマンは素早く電子コンピュータの本質を理解し、ENIACの演算回路の改良とともに、次に計画されていた計算機EDVACの性能を格段に上げるため新しい構想を練り上げた。彼はENIACを知ってわずか2週間でプログラム内蔵型コンピュータの概念を作り上げ、翌年3月にはコンピュータの改善について有名な「EDVAC報告書の一次稿」を書き上げた。それには現在のコンピュータの基本となっている中央計算部、中央制御部、メモリ部などの構成が整理され、プログラム内蔵の考えが完全に確立されていた[2]

 ところが、フォン・ノイマンは名誉や金銭的な欲得に薄く、科学の進歩のためには新しい情報を多くの研究者と共有すべきと考えていた。そのため、電子コンピュータの開発を自負して特許を取得しようとしていたエッカートとモークリーとは袂を分かつこととなった。エッカートとモークリーはムーア校を去って会社を興してUNIVACの開発を開始し、ゴールドシュタインは、高等研究所のフォン・ノイマンの元へ行った。

 完成したENIACはペンシルバニア大学からアバディーンにある軍の弾道研究所へ移送され、その際にフォン・ノイマンが内蔵メモリを部分的に追加するなど多少の改修を行ったという。そして1945年末にロスアラモス研究所からの依頼によって、原子爆弾の改善を図るための初めての実用的な計算に使われた。このENIACは、本の10-4-2「順圧モデルを使った初めての数値計算」で述べるように、後にフォン・ノイマンが組織した気象プロジェクトでも使われることとなる。

 フォン・ノイマンは、1945年にプリンストンの高等研究所(IAS)でENIACの後継の独自の新型コンピュータ開発のためのプロジェクトである電子コンピュータプロジェクト(Electronic Computer Project: ECP)を立ち上げた。これは初めて2進法を用いてプログラム内蔵方式で条件付きループが使えるコンピュータを製作するという画期的なものだった。この夢のようなプロジェクトのために、彼は持ち前の説得力でたちまち高等研究所と軍などから30万ドルという莫大な資金を獲得した。これはフォン・ノイマンだからこそできたことだった。この時の電子コンピュータの開発目的には、原子爆弾の改良と気象予測が含まれていた。

 フォン・ノイマンは、1946年から1951年までの電子コンピュータプロジェクトに関する報告書を全て公開した[3]。先ほどの「EDVAC報告書の一次稿」も公開され、この報告書に基づいて、1949年にイギリスのケンブリッジ大学がEDSAC(Electronic Delay Storage Computer)を完成させたのをはじめとして、世界各地でこの報告書に基づいた電子コンピュータが次々に産声を上げることとなった[2]。

 そして1951年に完成した高等研究所の電子コンピュータ(IASマシン)は、既に開発されていた他のどのコンピュータより速かった[3]。後述するように、ENIACで実質24時間かかった順圧モデルを用いた予報のための数値計算は、このIASマシンだと5分以内に終わる計算だった。この高速の計算は、気象学の分野では数値予報と気候モデルという全く新しい分野をもたらした。

 フォン・ノイマンの人望に基づいた説得力によって、電子コンピュータプロジェクトに必要な高額の開発資金を得ることができ、彼の数理学的能力によってこのプロジェクトで新しい論理回路を開発することができた。現在のコンピュータは、この「フォン・ノイマン・アーキテクチャー」と呼ばれている基本構成の延長線上にある。

つづく


 [1] ENIAC誕生60周年--2人の科学者が作った怪物コンピュータ(https://japan.cnet.com/article/20096729/CNET Japan
[2]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書
[3]Electronic Computer Project, Institute for Advanced Study, https://www.ias.edu/electronic-computer-project

2020年1月25日土曜日

フォン・ノイマンについて(6) 経済学への貢献

 この分野でのフォン・ノイマンの業績は、大きく分けて二つが知られている。一つは1932年にプリンストンの高等研究所での数学セミナーで行った「経済学の方程式いくつかと、プロウェルの不動点定理の一般化について」という講演が端緒となったものである。それは1937年にウィーンでの経済学セミナーの論文集の中で出版され、1980年代になって線形計画法・非線形計画法などの数理経済学を開花させた。

ノイマンがその論文で作ったモデルは「一般経済均衡モデル」と呼ばれ、やがて「フォン・ノイマンの経済成長モデル」という名前がついた。彼が開発した手法から多くのノーベル経済学賞受賞者がでることとなる。フォン・ノイマンはそれまでの経済学を一変させてしまった[1]。

 もう一つは、ドイツ生まれでアメリカで活躍した経済学者オスカー・モルゲンシュテルンと1944年に書いた大著「ゲームの理論」である。これは、彼が1928年に書いた「社会的ゲームの理論について」でのミニマックスの法則が発端となっており、経済学で「意思決定理論」と呼ばれている最も利潤を出すための行動を、ゲーム戦略や組み合わせ理論などを使って定量的に考察するものである。

このゲームの理論は東西冷戦時のアメリカの戦略にも応用された。ゲームの理論での汎用性を持った公理的な考え方は、現在いろんな形で受け継がれてさらに発展し、経営学、政治学、法学、社会学、人類学、心理学、生物学、工学、コンピュータ科学などにも広がっている。

 しかしフォン・ノイマンは、経済学の理論については既存の数学を不十分・不適切につかったところで、その根本にあるあいまいさは追放できないと考えていたようである。数理経済学を深めるには、ニュートンによる微積分の考案に匹敵するような新しい数学の言語が必要であるというのが彼の考えだった[1]。

つづく

 [1]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書

2020年1月21日火曜日

フォン・ノイマンについて(5) 戦争への協力

 戦争では砲弾や爆弾が使われる。それらは爆発さえすれば目標になんらかの損傷を与えることはできるが、その威力は単純に爆薬量だけに依存するわけではない。威力は爆発方法や弾体の形、構造などによっても大きく異なる。そして、その威力を十分に発揮させるには、爆発時に瞬間的に発生する衝撃波―つまり乱流や擾乱―の振る舞いをはっきり掴む必要がある。

 フォン・ノイマンは、1930年代半ばからこの流体の擾乱の不可思議さに興味を持った。爆発時に衝撃波がどのように発生するかは、流体力学の非線形偏微分方程式を何らかの手段で解く必要がある。天気を支配している大気の運動もやはり流体力学の非線形偏微分方程式に従っており、天気予報を行うためにはこれを解く必要がある。この共通性が別の回で述べるように彼が気象学とも関わりを生むきっかけとなった。

 非線形の偏微分方程式は一般的に解析的には解けない。つまり方程式を変形して解を求めることができない。しかし、適切な数値計算を行うことができれば、膨大な計算量にはなるが近似的に解を求めることができる。原子爆弾を含む爆弾・砲弾を効果的に爆発させることと気象を予報するという数値計算の必要性が、後にフォン・ノイマンによる電子コンピュータの開発を後押しした。

 フォン・ノイマンは1940年頃から衝撃波の理論構築を進め、平面だけでなく球面衝撃波の問題も研究した。1941年からは国防研究協議会(NDRC)の顧問、後に委員となり、爆発時の噴流を特定方向に集中させて威力を増す指向性爆薬(成形炸薬)の爆発も研究した[1]。炸薬を漏斗状に成形すると、爆発力が中心の空間に集中して厚い装甲板を貫通する効果は、ノイマン効果とも呼ばれている。

 これらの成果は対戦車バズーカ砲や魚雷の爆発に応用された。彼は個別の砲弾や爆弾の型を設計したというよりも、優れた能力と人柄で米軍の兵器に爆発計算という概念と手法を根付かせた点に、彼の本領があるのかもしれない。彼の爆発流に関する優れた研究手腕は、「(8)原子爆弾の開発」で述べるように、原子爆弾の爆発方法の開発につながった。

 ちなみに第二次世界大戦時に日本軍の戦車は米軍の携帯型対戦車バズーカ砲にやすやすと破壊され、それを持たなかった日本軍は米軍戦車を機動的には破壊できず、兵士が破甲爆雷を持って戦車に突っ込むという効率の悪い戦法で、結果的に各地で米軍戦車に蹂躙された。また開戦当初性能が悪かった米軍の魚雷は1944年頃から格段に高性能化し、日本の商船だけでなく装甲の厚い軍艦までも魚雷で次々に沈められることとなった(「台風による第4艦隊事件 (4)」参照)。

 爆発計算の専門家としてのフォン・ノイマンは軍内で有名となった。また彼は1942年に海軍兵器局へ行き、オペレーションズ・リサーチ(OR)を研究することになった[1]ORとは兵器の活用と敵の対抗手段を、物理学や統計学などを利用して、最も効果的な手法を定量的に探るものである。例えば機雷の効果的な敷設方法や海上護衛の効果的なやり方などはORと密接に関連している。

 物量にまさるアメリカやイギリスは、ORを駆使して大量の兵器を効率的・効果的に戦場に投入した。一方で戦備に劣る日本は効果的なORの研究を持たず、乏しい戦力をやみくもに投入するしかなかった。フォン・ノイマンはこのORの研究を通して、ORと関係が深い数値解析やゲームの理論とも関わることになった。

つづく

[1]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書

フォン・ノイマンについて(4) 量子力学への貢献


 19259月にドイツの物理学者ハイゼンベルク(Werner Heisenberg)、ボルン(Max Born)、ジョルダン(Pascual Jordan)の3人は、行列力学を用いて電子などの振る舞いを統一的に説明できる新しい数学的枠組みを完成させて、「量子力学」と名づけた。しかし彼らの斬新な発想に物理学者たちは皆納得したわけではなく、賛同した人もいたが新しい考え方に反発した人も多かった。

 オーストリアの物理学者シュレーディンガー(Erwin Schrödinger)もハイゼンベルクらの考えに反発した一人だった。シュレーディンガーは、フランスの物理学者ド・ブロイが1924年に発見した物質波という議論を使って、行列力学を使わなくても波動方程式で電子などの振る舞いを説明できると考えた。やがてシュレーディンガーが作った波動方程式も実験と合うことがわかり、量子力学は波動方程式を重んじる人々と行列力学を重んじる人々に分かれることになった。

 しかし、当時20歳そこそこだったフォン・ノイマンは、両者を見て実験結果に合うなら両方とも数学的に同じことを言っているはず、つまりヒルベルト空間内でのベクトル幾何学は、量子力学的状態と同じ数学形式をもつはずだという直感を持っていた[1]。彼はヒルベルト空間を用いて量子力学の数学的根拠を発展させ。1932年に『量子力学の数学的基礎』として出版した。彼はそこで量子状態をヒルベルト空間の状態ベクトルとみなし、シュレーディンガーとハイゼンベルクによる二つの一見相反しているように見える量子力学の定式化の橋渡しをした[2]

 彼の基本的な知見は、「(3)数学への貢献」で述べたように、ヒルベルト空間のベクトル幾何学が量子力学のシステム状態の構造と同じ形式の特性を持っているということである。そうなると、量子物理学者の研究と作用素を用いる数学者の研究との違いは、用いる言語と強調する場所の違いだけになる[3]。これは量子力学がさらに発展するための数学的基礎となった。

 また彼は量子力学の確率論的な振る舞いの裏にある実在を主張する決定論的な「隠れた変数」を否定し、量子力学の確率論的な振る舞い(非決定論)を多くの人に確信させた[2]。ただし、量子力学はまだ全てが決着したわけではないようである。

つづく

[1]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書
 [2] John von Neumann, Britannica Online Encyclopedia, https://www.britannica.com/biography/John-von-Neumann
[3] P. R. Halmos, (1973) The Legend of John Von Neumann, The American Mathematical Monthly, 80, 4, 382-394.

2020年1月12日日曜日

フォン・ノイマンについて(3) 数学への貢献

 高校当時、フォン・ノイマンにとっての本来の興味は数学にあった。しかし、第一次世界大戦後のヨーロッパでは、数学で職を得るのは極めて困難だった。そのためフォン・ノイマンは1921年から2年間ベルリン大学で化学を学んだ後、スイス工科大学の応用化学科に進んだ。ハーバー・ボッシュ法による窒素固定法の発明など、当時の応用化学は最先端の実用的学問だった。しかし、彼本来の目的のためにブタペスト大学の数学科にも入学した。

 ゲッチンゲン大学の教授で、現代数学の父とも呼ばれる数学者ヒルベルト(David Hilbert)は、1920年代にカントルの集合論を含めた現代数学をまるごと公理化し直し、もっと厳密なものにしようとしていた。しかし、集合論の一部は厳密な公理からはまだ遠かった。フォン・ノイマンはスイス工科大学で応用化学を修得した後、本来の目的に戻り、ブダペスト大学でカントルの集合論の公理化を博士論文のテーマにした。1926年に23歳で博士の学位を得て、ゲッチンゲン大学のヒルベルトの下で1927年まで研究した。彼はヒルベルト空間の研究を続けて、ヒルベルト空間を初めてきちんと公理的に取り扱うことに成功した[1]。これによってヒルベルト空間は新たな数学的な道具として利用できるようになり、またこれは彼が量子力学の数学的な基礎付けに貢献することにもつながった。

 1930年からはアメリカのプリンストン大学の講師となり、翌年からは教授となったが、あまりの若さに彼はしょっちゅう学生と間違われたという。彼の講義は、黒板に次々に数式を書いては学生が書き写す前に消してしまうので、講義について行くのが大変なことで有名だった。しかし、学生からの問いに対しては、彼らしくどんな複雑な問題でも単純化してわかるようにした上で答えたという[2]。彼の考察の明解さは、他の誰と比べても桁外れだった
 
 1931年に、B. O.コープマン(B. O. Koopman)はエルゴード仮説についての正確な記述が公式化でき得る状況(context)の一つは、ヒルベルト空間上の作用素理論(theory of operators)であるという考えを発表した。これは、まさしくフォン・ノイマンが初期の量子力学を明確にするためにいくつかの画期的な論文を書いたテーマだった。コープマンの論文の出版のすぐ後、フォン・ノイマンは、現在ユニタリ作用素(unitary operators)のための平均エルゴード定理として知られているものを体系化して証明した[3]。これは、統計力学を初めて厳密な数学的基礎の上に位置づけることになり、その後ハーバード大学のバーコフ(G. D. Birkhoff)がこの定理を発展させる礎となった[2]。これらによって統計力学の理論ははるかに強化された。

 1933年にアメリカのプリンストンに高等研究所(Institute for Advanced Study)が設立されて、フォン・ノイマンはアインシュタインなどとともにそこの教授に招聘された。フォン・ノイマンはマレ(F. J. Murray)と共同でヒルベルト空間の研究を拡充し、作用素論(operator theory)作用素環(theory of rings of operators )というそれまでほとんど未踏の分野を新たに開拓した[2]。この作用素という概念は物理学の分野では演算子と呼ばれており、量子物理学の研究で最も強力な道具となっている。彼が見つけた方程式群は「フォン・ノイマン環」と呼ばれている[4]。

 ところで、フォン・ノイマンは、この高等研究所で学位取得のための研究をしていたイギリスの数学者アラン・チューリング(Alan Turing)と知り合いになった。この出会いはノイマンに生物学やコンピュータ、人工知能への分野への興味をもたらした。その後アラン・チューリングは、イギリスでドイツの暗号装置エニグマの解読に成功し、第二次世界大戦の帰趨に大きな役割を果たした。しかし、彼は同性愛的な傾向を疑われたため、悲劇的な死を迎えたことで知られている。

つづく

[1] ヒルベルト空間, Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%88%E7%A9%BA%E9%96%93
[2]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書
[3]John von Neumann (1903 - 1957), School of Mathematics and Statistics University of St Andrews, Scotland, http://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Von_Neumann.html
[4]John von Neumann (1903 - 1957), School of Mathematics and Statistics University of St Andrews, Scotland, http://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Von_Neumann.html

2020年1月9日木曜日

フォン・ノイマンについて(2) 育ちと性格

 フォン・ノイマンはユダヤ系のハンガリー人である。銀行家であった父親のマックスは、フォン・ノイマンが幼い頃から彼の兄弟とともに家庭で「セミナー」を開いていた。マックスはそこで家族めいめいがその日おもしろいと思ったテーマを発表させて討論させた。このさまざまな観点からの意見をぶつけ合う機会はフォン・ノイマンの成長にかけがえのない役割を果たした[1]。

 父親のマックスは、フォン・ノイマンのための高校にラテン語やギリシャ語をみっちり教えるブタペストのルーテル・ギムナジウムを選んだ。そこの校長はフォン・ノイマンの数学の才能をたちまち見抜き、高度な数学を学べるように取り計らった[1]。しかし校長は、フォン・ノイマンに数学だけに特化した教育を行ったわけではない。幅広い教養が必要と考えていた校長は、ほかの学科の教育にも十分に配慮した。ちなみに学校の1年先輩に、後に原爆開発に一緒に携わるノーベル賞物理学者ウィグナーがいた。

 また、フォン・ノイマンは歴史にも強い関心を持っており、ドイツの名高い歴史家ウイルヘルム・オンケンの「世界史」全44巻を隅々まで読んで、一部は年老いてもそらんじることができたという[1]。彼の歴史好きは一生続いた。彼が持つ歴史や一般教養の深い知識は、彼自身の人格や発想の幅を広げるのに不可欠の役割を果たしたことは間違いない。

  フォン・ノイマンの能力の特徴の一つは、頭の回転の速さと深い集中力であろう。彼は会話などによって何かアイデアのヒントを感じると、それを一足飛びにはるかかなたの新しい理論や実現可能なものに結びつける能力があった。彼のアイデアは単なる想像ではなく数理学的な裏付けを持ったものだった。そのため、その後彼自身や関係者がそれに沿って理論の肉付けを行って発展したもの、実現したものが数多くある。


 それが他の人から見ると、フォン・ノイマンは「誰かがひとつ提案をしようものならひっつかんであっという間に5ブロック先まで行ってしまう」とか、「彼の膨らんだ発想を理解するのに自転車で特急を追いかける気分だった」という感想となった[1]。オリジナリティというものとは少し異なるのかもしれないが、彼の発想がなければ発展しなかった理論や、実現するのにはるかに時間がかかったものも多かったのではないかと思われる。その価値はオリジナリティにひけをとらない。

 ところで、古今東西の天才的な学者で、自尊心を満たすために他人に対して攻撃的な人や、人付き合いが嫌いで内向的な人は枚挙にいとまがない。しかし、フォン・ノイマンは数理学的な解析に天才的な才能を持っていたにもかかわらず全く異なった。

 フォン・ノイマンは他人の尊厳に気を遣い、子供のころから言い争うことで他人を傷つけまいと固く心に決めていた[1]。おそらく理屈や頭の回転の速さでは彼は誰にも負けなかっただろう。しかし言い負かせば相手の尊厳は傷つくし、そのために相手の感情を損ねてしまうことも知っていた。人間は理屈だけでは動かない。彼は論争の先を見越していたとも言える。人生何が起こるかわからない。相手の感情を損ねれば、将来得られるかもしれない協力をも失ってしまうかもしれないというリスクを若い頃から熟知していた。

 それだけでなく、
フォン・ノイマンは人なつっこさと快活さを生涯持ち続けた。人間の猜疑心や自尊心が作り上げる険悪な場の空気を、とっさの冗談で一瞬にして和ませ周囲を親密な雰囲気に変える名人だったらしい[1]。それもあって年を経るに連れて彼に好意的に協力する人々が増えていった。明晰な頭脳に加えて多くの人の協力を得られれば、鬼に金棒である。

 しかも
フォン・ノイマンは科学だけでなく実務能力にも長けていた。沈滞した数多くの委員会やプロジェクトを活性化・機能化させ、大きな成果に結びつけた。そのため後に大統領直属の政府委員会の委員にもなった。彼は「人間」というものを熟知していたともいえるかもしれない。

 後の原爆開発プロジェクトでの爆縮レンズの研究、電子コンピュータや核戦争抑止のための戦略ミサイルの開発は、
フォン・ノイマンが確固たる理念を持ち、築き上げた広い人脈によって様々な分野の多くの研究者の協力を仰いで、彼らをうまくまとめ上げたからこそできた。私は数理学的な解析の天才でありながら、このように人間的に豊かな魅力を併せ持った人を他に知らない。

つづく

[1]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書