1925年9月にドイツの物理学者ハイゼンベルク(Werner Heisenberg)、ボルン(Max Born)、ジョルダン(Pascual Jordan)の3人は、行列力学を用いて電子などの振る舞いを統一的に説明できる新しい数学的枠組みを完成させて、「量子力学」と名づけた。しかし彼らの斬新な発想に物理学者たちは皆納得したわけではなく、賛同した人もいたが新しい考え方に反発した人も多かった。
オーストリアの物理学者シュレーディンガー(Erwin Schrödinger)もハイゼンベルクらの考えに反発した一人だった。シュレーディンガーは、フランスの物理学者ド・ブロイが1924年に発見した物質波という議論を使って、行列力学を使わなくても波動方程式で電子などの振る舞いを説明できると考えた。やがてシュレーディンガーが作った波動方程式も実験と合うことがわかり、量子力学は波動方程式を重んじる人々と行列力学を重んじる人々に分かれることになった。
しかし、当時20歳そこそこだったフォン・ノイマンは、両者を見て実験結果に合うなら両方とも数学的に同じことを言っているはず、つまりヒルベルト空間内でのベクトル幾何学は、量子力学的状態と同じ数学形式をもつはずだという直感を持っていた[1]。彼はヒルベルト空間を用いて量子力学の数学的根拠を発展させ。1932年に『量子力学の数学的基礎』として出版した。彼はそこで量子状態をヒルベルト空間の状態ベクトルとみなし、シュレーディンガーとハイゼンベルクによる二つの一見相反しているように見える量子力学の定式化の橋渡しをした[2]。
彼の基本的な知見は、「(3)数学への貢献」で述べたように、ヒルベルト空間のベクトル幾何学が量子力学のシステム状態の構造と同じ形式の特性を持っているということである。そうなると、量子物理学者の研究と作用素を用いる数学者の研究との違いは、用いる言語と強調する場所の違いだけになる[3]。これは量子力学がさらに発展するための数学的基礎となった。
彼の基本的な知見は、「(3)数学への貢献」で述べたように、ヒルベルト空間のベクトル幾何学が量子力学のシステム状態の構造と同じ形式の特性を持っているということである。そうなると、量子物理学者の研究と作用素を用いる数学者の研究との違いは、用いる言語と強調する場所の違いだけになる[3]。これは量子力学がさらに発展するための数学的基礎となった。
また彼は量子力学の確率論的な振る舞いの裏にある実在を主張する決定論的な「隠れた変数」を否定し、量子力学の確率論的な振る舞い(非決定論)を多くの人に確信させた[2]。ただし、量子力学はまだ全てが決着したわけではないようである。
(つづく)
[1]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書
[2]
John von Neumann, Britannica Online Encyclopedia, https://www.britannica.com/biography/John-von-Neumann
[3] P. R. Halmos, (1973) The Legend of John Von Neumann, The American Mathematical Monthly, 80, 4, 382-394.
[3] P. R. Halmos, (1973) The Legend of John Von Neumann, The American Mathematical Monthly, 80, 4, 382-394.
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