2023年3月22日水曜日

世界初の気象ジャーナリスト:ダニエル・デフォー(4)

デフォーによる「嵐」の執筆

嵐が襲ってきた頃、デフォーはニューゲート監獄から出たばかりで、まだ本調子ではなかった。しかし、この嵐が彼の隣人たちだけでなく、国全体の雰囲気に与えた影響に衝撃を受けた。そのため彼は、出獄後の最初の主要な仕事を、嵐の恐怖を永続する記録として残すことに決めた。彼は、「嵐(The Storm)」を書き上げ、その本の中で「これが世界が見た中で最も激しいテンペストであったことを後世の人々に納得させるために役立つことのみを記録する」と述べている。

ダニエル・デフォーの「嵐」の表紙
https://en.wikipedia.org/wiki/The_Storm_%28Daniel_Defoe%29#/media/File:The_Storm_by_Daniel_Defoe_cover_page.jpg

当時はまだジャーナリズムの黎明期だった。それまで、事実を体系的かつ客観的に報知するようなものはなかった。しかし、デフォーの時代の新聞記者たちは、17世紀後半に台頭してきた経験的科学に初めて触れて、それによって記事を書く際に、その裏付けとなる直接の事実を証拠として集める必要性を感じるようになっていた。

「嵐」の序文でデフォーが述べたように、彼の望みは「物語を作り上げること」や「真実に反する罪を犯すこと」ではなく、その夜の出来事を正確に伝えることだった。そして、そのためには信頼できる証拠の収集が必要だった [1]。彼は、ロンドンでの大嵐の間やその後の取材旅行で観察したことをまとめたが、自らの経験のみで書くには限界があった。嵐が去って数日後、デフォーはデイリー・コート紙とロンドン・ガゼット紙に、新聞社宛てに嵐の際に観察したことを送ってほしいと広告を出した [1]。

目撃証言の信頼性を評価する問題はまだ途上であり、当時新しく発展しつつあった科学の領域で議論されているところだった。1660年に「自然知識の向上のために」設立された王立学会は、隔月刊誌「哲学紀要(フィロソフィカル・トランザクションズ)」で論文や講演録を発表していたが、それらの多くは、国内各地から投稿された自然現象の報告だった。しかし、経験的・体験的な情報のための用語の基準や調査の方法が確立していなかったので、報告資料があってもそれを用いて現象を客観的・定量的に判断することは、まだ困難だった。

例えば、デフォーは「嵐」の中で、「昔、嵐として通用したであろう風は、フレッシュゲイル(強風)、あるいはブローイング・ハード(暴風)と呼ばれ・・・我々でいうところのハードゲイルが吹けば、彼らはテンペストと叫んだであろう。それは、特に過去の記録から、価値のある気象学的な比較を行うことは簡単にはできないことを意味する」と述べている。しかし、何が起こっていたのかを多くの人々の目を通して記録に残すことには価値があった。

広告を出した結果、状況を伝える約60通の手紙が送られてきて、それらは「嵐」に収録された。本の序文で彼は、目撃者の手紙の内容は変えていないと主張しているものの、「嵐」には彼が手紙に手を入れた部分が含まれているようである[1]。それでも、自らの体験に加えて広く第三者による観察を募集し、それを本の中に組み込んで出版したことは、当時としては画期的だった。これが広い地域の災害記録をまとめた文学の始まりとなった。

デフォーは、嵐の影響は1666年のロンドン大火よりもひどいと結論した。ロンドン大火による荒廃は小さな空間だけにとどまり、被害は裕福な人々だけだったが、今回の被害は特に英国南部で広く起こっており、その対象は多くの一般の民衆だったと述べている [1]。

タワーワーフ付近で船から見た1666年のロンドンの大火。オランダ派の様式で描かれているが、日付やサインはない(旧ロンドンブリッジや旧セントポール寺院などが見える)。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Great_Fire_London.jpg

嵐と宗教

ギリシャ神話では、自然界を神が支配していた。天空を支配するゼウスや嵐を巻き起こすポセイドンはもちろん、風だけでも十数人の神、女神、ニンフ、悪魔に役割が振り分けられていた。しかし、一神教であるキリスト教の台頭により、自然を支配する力は一人の神に集約され、嵐などの悪天候は、人間が罪によって神から招いたもののひとつとなった。キリスト教気象学では、雷がなぜ落ちるのか、なぜ高いものに落ちるのかなどが問題であり、それは神が教会の尖塔を破壊する特別な嗜好を持っているためと思われていた [5]。

その後の18世紀のフランクリンによる雷は電気であるという発見は、神が引き起こすと信じられていた気象のほんの些細な側面に対する発見に過ぎなかった。19世紀の気象学者でさえ、自分たちの学問と信仰との折り合いをつけるのに苦労していた。気象が人間の文化、人間同士の相互関係、人間の魂の動きとはまったく無関係な自然の力の産物である、と人々が信じるようになったのは、20世紀に入ってからのことである。

そのため1700年頃の当時でも、自然現象は一般の人々にとっては神の領域だった。この嵐も当然神による啓示、あるいは罰として考えられた。デフォーは嵐を、その自然的な原因が何であれ、党派に分裂した国家に対する神の審判として、そして国教会の高位者たちの横暴に対する神の報いの行為として捉えていたかあるいは利用しようとした [1]。

彼は本の中で、トーリー党の政治家たちを、

異教徒の危険は叫んでも、フランス人の脅威には関心を示さない人たちである・・・。神は天から嵐の雷を落とし、我々の艦隊を破滅させ、船員を溺れさせ、世界で最も手の込んだ迅速さで我々を吹き飛ばすかもしれないが、彼ら(トーリー党の政治家たち)はこの事件が自分たちによる影響とは決して考えず、自分たちがこの国にひどい打撃をもたらす手助けをしたかどうかについて、自らの行為を決して見つめようとはしないだろう。

と述べている。

その後の彼の文学

彼の本「ペスト(A Journal of the Plague Year)」が歴史小説であるのに対し、「嵐」は現代でいうルポルタージュである。しかし、デフォーによる物語の構成方法はどちらも同じだった。事実や状況を冷静に積み重ねて証拠とし、それは場面を設定したり、行動を説明・解釈したり推測の対象を読者に提供するのに用いられた [1]。

「嵐」では、複数の物語が別々に語られながらも時系列的に並行して幾重にも提示され、デフォーは直接的な引用を行いながら状況的な創作との新しいバランスをとった [1]。それから10年から20年後、彼が他の小説を書くようになった頃には、この新しい技法は完璧なまでに発展していた。

例えば、「ペスト」でのロンドンは、「嵐」におけるロンドンと同様に、公的な災難を背景にした私的な苦悩の場面で満ちている。両書とも語り手は、乱れた街路を歩き、証拠を突き合わせ、悲劇の原因と結末について考察を加えている。両書とも語り手自身の実体験を詳細に語るとともに、他者によって書かれた資料の引用を行い、関与する観察者として組み込んでいる。彼は状況の証拠に基づいてリアリズムを展開しているため、その効果は描写力だけではなく、提供されている証拠が重要な役割を果たした [1]。

彼の「嵐」はベストセラーとはならなかった。嵐は人々にとって神による定め、あるいは決められた運命的なものと捉えられたため、嵐自体やその被害の実態が人々の興味を引くということはなかったのかもしれない。しかし、彼は嵐の原因が何であれ、これによって事実に基づいて社会を考察するという新たな方法を示した [4]。そしてそれはジャーナリズムとして引き継がれて、今日では被害に関する客観的な情報を集めて残すことは、その後の防災に資する重要な役割となることが広く理解されている。

(このシリーズ終わり:次回は「地球化学の先駆的女性科学者 猿橋勝子(1)」です)

参照資料(このシリーズ共通)

[1]    R. Hamblyn, aniel Defoe The Storm, Edited with an Introduction and Note, PENGUIN BOOKS, 2003.
[2]    Heidorn, "BRITAIN'S GREAT STORM OF 1703-2007," [オンライン]. Available: http://www.islandnet.com/?see/weather/almanac/arc2007/alm07nov.htm.
[3]    D. G. Clow-, "DANIEL DEFOE'S ACCOUNT OF THE STORM OF 1703," weather, 第 巻43, 第 3, pp. p140-141 , 1988.
[4]    J. J. MILLER, "Writing Up a Storm," 2011. [オンライン]. Available: https://www.wsj.com/articles/SB10001424053111904800304576476142821212156.
[5]    A. C. A. L. N. 23, "Talk About the Weather," 2015. [オンライン]. Available: http://www.newyorker.com/magazine/2015/11/23/writers-in-the-storm.

 


2023年3月20日月曜日

世界初の気象ジャーナリスト:ダニエル・デフォー(3)

1703年の大嵐

経過

11月中旬から連続的にイギリス諸島を嵐が襲った。これらは結果として26日の大嵐の序章となった。これらの嵐は、ロンドンの煙突を倒し、沿岸の船を沈没させた。実際、ロンドンの街を歩いていたデフォーは突然に煙突が倒れてきたため、危うく命を落とすところだった [2]。そして、26日夜半から27日にかけて、その頂点となる大嵐が襲来した。これは旧ユリウス暦なので、現在のグレゴリオ暦に直すと嵐は12月7日に発生したことになる [2]。この嵐は、歴史上英国を襲った最大の暴風雨と考えられている。

当時入手できたわずかな気象学的情報から、嵐の中心はスコットランドの北を通過し、南西には副低気圧が形成され、ウェールズ南部からハンバー河口まで英国を横断したようである。本の「4-2 気圧計の発達」で述べたように、この当時は既に較正された気圧計が普及していた。ウィリアム・デラム牧師が測定した当時の気圧は、エセックス南部で973 hPaに相当した。低気圧の中心はミッドランドを通過する際に950hPaまで低下した可能性があるとの指摘もある [2]。日本でいう台風並みの嵐だった。

イーストアングリアでは、風速は44 m/sを超えたと推定されている [2] 。おそらく竜巻も発生したのだろう、牛が巻き上げられて木の高いところに持って行かれた、あるいは少年が教区教会の尖塔を飛び越えたことを自慢した [3]という記述もある。

強い風のために家はガタガタと震えて、人々は家の倒壊を覚悟した。しかし、この揺れを地震と思った人も多かったという [3]。当時の人々の自然現象に対する理解や関心はこのようなものだった。外は家の上からレンガ、タイル、石が勢いよく飛んで来るため、人々は誰も外に出ようとはしなかった [4]。

被害

設計技師ヘンリー・ウィンスタンリーが1696年に建設したドーバー海峡最初のエディストーン灯台は、嵐によって跡形もなく破壊された。嵐の際に灯台にいたウィンスタンリーは行方不明となった [2]。

 

当時のエディストーン灯台
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Edystone_Winstanley_lighthouse_Smeaton_1813.jpg 

ブリストルでは、高潮がそれまでの満潮時よりも10フィート(3.3m)近くも高くなり、町を浸水させた。セヴァーン川を遡上した高潮は、モンマスシャー州とグロスターシャー州の間の橋を破壊し、モンマスシャー州の南の土地(ムーアと呼ばれる)は、約30 kmにわたって高潮洪水に襲われた。セヴァーン川沿いでは、15,000頭の羊が満潮時に溺死した [2]。

英国南部のワイト島では、塩が雪のように降り積もった。海岸から25 km離れたタイスハーストのような内陸部でも、生垣の葉がかなり塩辛かったという記録が残っている [3]。イギリスの田園地帯では風車の多くが、強風による羽根の高速回転によって摩擦熱で燃えるなどして、400基以上が破壊された [2]。

ポーツマスなどの沿岸の町は、デフォーが「敵に袋叩きにされたような、最も惨めにバラバラに引き裂かれたような」と表現するほどの大被害を受けた [2]。ボーンマスの東にあるニューフォレストだけでも4千本の木が根こそぎ倒れた。家屋800~900棟が破壊され、100棟以上の教会が暴風で大きな被害を受けた [2]。

ロンドンでは、ウェストミンスター寺院の重い鉛の屋根は、羊皮紙のように巻き上がって吹き飛ばされた。セント・メリーズ教会や聖マイケル教会など、街中のほとんどの教会の尖塔が被害を受け、無傷だった家屋はほとんどなかった。強風が吹き荒れ、建物が壊滅的な被害を受けると同時に、風が火をあおって瞬く間に火災が広がるという事態になったが、住民は風を避けて避難し、消火活動は行われなかった [2]。この暴風雨で英国内の陸と海の人命が失われた数は、8000から9000、おそらく15000人に達したと考えられている。

海上ではこの大嵐の前から暴風は続いていたため、沖合で遭難した船は多くなかった。船舶の被害は沿岸や河川に集中した。テムズ川では、ロンドン橋の下流にあるプールで700隻の船が押し潰されたとデフォーは報告している。ロンドン・ガゼット紙によれば、暴風雨が襲ったとき、500隻の船がグレート・ヤーマスの沖合にあり、その多くが遭難したり、沖に流されたりした [2]。

スペイン継承戦争に参戦していたイギリス海軍は、この時、ドーバー海峡で3つの艦隊がその猛威にさらされた。イギリス海軍の船は13隻以上が失われ、バジル・ボーモント少将を含む1500人の船員と将校が犠牲になった [2]。

1703年11月26日 の大嵐でボーモント少将が行方不明になったダンケルク沖の艦隊。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Great_Storm_1703_Goodwin_Sands_engraving.PNG


デフォーの「嵐」には、倒れた樫の木についての言及が多い。彼は、ケント州の短い旅の間に、17,000本の倒れた樫の木を数えたと主張しているが、疲れすぎてそれ以上数え続けることができなくなった [1]。

デフォーが樫の木に関心があったのには訳があった。ホイッグ党寄りだったデフォーは、英国の大陸政策に高い関心があった。この政策を支えるのは英国海軍である。この嵐で壊滅した英国海軍の再建のために必要な、樫の木の状況が気になっていた。

無残な英国海軍は嵐によって二重の打撃を受けた。貴重な船が破壊されただけでなく、新しい船の建造に必要な樫の木も、この嵐によってたくさん倒れてしまった [1]。

つづく

参照文献

[1]    R. Hamblyn, aniel Defoe The Storm, Edited with an Introduction and Note, PENGUIN BOOKS, 2003.
[2]    Heidorn, "BRITAIN'S GREAT STORM OF 1703-2007," [オンライン]. Available: http://www.islandnet.com/?see/weather/almanac/arc2007/alm07nov.htm.
[3]    D. G. Clow-, "DANIEL DEFOE'S ACCOUNT OF THE STORM OF 1703," weather, 第 巻43, 第 3, pp. p140-141 , 1988.
[4]    J. J. MILLER, "Writing Up a Storm," 2011. [オンライン]. Available: https://www.wsj.com/articles/SB10001424053111904800304576476142821212156.

 



2023年3月16日木曜日

世界初の気象ジャーナリスト:ダニエル・デフォー(2)

 2. 当時のイギリスの状況

デフォーは時事問題に関するパンフレットの執筆者として活躍しており、嵐が襲った頃の彼の状況と背景は、1700年頃のイギリスの複雑な政治状況と絡んでいた。当時イギリスの政治勢力は、いわゆるトーリー党ホイッグ党に分かれて政権がときおり交代していた。国王が一方の党に肩入れすることも多く、一方が与党になると他方を弾圧することもあった。

それら2つの党の考え方の違いは国内外の施策と宗教にまで及んでいた。トーリー党は国教であるプロテスタントを厳格に守り、ホイッグ党はカトリックにも寛容だった。また、国際政策の考え方も両党で異なっていた。当時スペインのカルロス2世の死去により、1700年にフランスのルイ14世の息子がスペイン王フェリペ5世として即位した。これによりルイ14世にとっては、フランスとスペインの合併も視野に入ることになった。

それに反発したのがオーストリアとオランダと、ホイッグ党寄りだったウィリアム3世が国王だった英国だった。英国王ウィリアム3世はフランスの拡張政策に恐怖を感じ、強力なフランス・スペイン同盟に軍事力で対抗することを望んだ。ウィリアム3世は、オランダ連合州とオーストリア皇帝の指導者たちと、1701年にハーグ条約対フランス大同盟)に調印した。これがその後スペイン継承戦争へとつながった。ドーバー海峡に面した要塞を制圧したフランスの勢力拡大を抑えるために、イギリスは1701年2月にスペイン領オランダに進攻した。

しかしトーリー党は、スペイン継承戦争に関与するよりは国内政治を重視していた。1702年にウィリアム3世が死去してトーリー党寄りアン女王が即位すると、対フランス大同盟の構想に反対し、同時にウィリアム3世の他の政策、特にカトリック対する寛容な政策をできるだけ覆そうとした。こういう状況のもとで、英国は1703年11月の大嵐を迎えることになる。

アン女王の肖像画
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/5d/Closterman%2C_John_-_Queen_Anne_-_NPG_215.jpg


3. 当時のデフォーを巡る政治状況

当時デフォーは、国王ウィリアム3世の庇護の元でホイッグ党の評論者として活動しており、時にはトーリー党の政治家たちを攻撃するような論評を書いていた。そういう中で1702年に彼の庇護者であったウィリアム3世が亡くなり、今度はトーリー党寄りのアン女王が即位した。

彼は、1702年に匿名の執筆者が書いた風刺小冊子「The Shortest-Way with the Dissenters(非国教徒との最短の道])」を出版した。これはトーリー党の聖教者が書いたとされ、イギリスの安全のために唯一賢明な手段は、国教反対者を虐殺と追放によって追い払うことだと提案していた。しかし、アン女王はこの小冊子の執筆者の処罰を望んだ。この小冊子の作者が誰なのかは英国中の話題となった。そして、デフォーが風刺としてこの小冊子を書いたという噂が立つと、政府は「大罪と不敬」の罪名で彼への逮捕状を出した [1]。

彼は逃亡したが、嵐の約半年前の1703年5月21日、匿名の情報提供者の裏切りによって、捕らえられた。彼は裁判で女王の許しが出るまでの収監と罰金と、7月29日から3日間にわたって3か所でさらし台にさらされるという判決を受けた。さらし台(Pillory)とは、広場やその他の公共の場所で、頭と両手を直立した木の檻に固定されて立たされるものである。1時間から2時間、集まった野次馬から、腐った果物、動物の糞、石ころ、レンガなど、どんなものでも受けなければならなかった。投げられた物によっては骨折したり瀕死の重傷を負うこともあった。

さらし台上の17世紀の偽証者タイタス・オーツ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:TitusOates-pilloried_300dpi.jpg

ところが、彼は獄中で「さらし台への賛歌(A Hymn to the Pillory)」という批判書を書いて、さらし台の日に合わせて出版した。これはさらし台にふさわしいのは自分ではなく裁判官であり、自分の唯一の罪は真実を書いて発表したことであることを仄めかした韻を踏んだ詩だった。この詩の出来映えがよほど良かったようで、彼はさらし台にさらされた3日間、聴衆から笑いと時折花を投げつけられる以外には何も起こらなかった [1]。

下院議長のロバート・ハーレイ(後のモーティマー伯爵)の計らいによって、デフォーは今後女王に協力するという条件で、11月初めに釈放された。そしてその直後の11月中旬から、ロンドンでは嵐の序章となる悪天候が続いた。そして11月26日にそのピークとなる大嵐を迎えた。

(つづく

参照文献

[1] R. Hamblyn, Daniel Defoe The Storm, Edited with an Introduction and Note, PENGUIN BOOKS, 2003. 

2023年3月15日水曜日

世界初の気象ジャーナリスト:ダニエル・デフォー(1)

 1. はじめに

ダニエル・デフォー(Daniel Defoe, 1660-1731)は、小説「ロビンソン・クルーソー(1719年)」、「ペスト(1722年)」、「モル・フランダース(1722年)」、「ロクサーナ(1724年)」などの多くの小説で知られるイギリスの有名な作家である。「ロビンソン・クルーソー」の執筆には、世界を周回した自然主義者(兼海賊)ウィリアム・ダンピアが絡んでおり、そのことは本書の「3-6-1 ウィリアム・ダンピア」の項でデフォーと共に説明した。

デフォーがまだそれらの小説を書く前の1703年11月に、英国史上まれに見る大嵐が英国を襲った。この嵐は、今日でも英国に嵐が襲うと1703年の嵐との比較が議論されるほどの被害を与えた。

デフォーはその時の各地の被害状況を調べて、1704年に「嵐(The Storm)」という重要な作品を書いた(正式の名称は「The Storm or a Collection of the Most Remarkable Casualties and Disasters that happened in the late Dreadful Tempest both by Sea and Land(嵐、あるいは恐ろしいテンペスト*によって起こった海と陸上での驚くべき死傷者と災害の記録)」である)。

デフォーの「嵐」はその手法から小説ではなく、災害を克明に記録した世界初のルポルータジュ(記録文学)と見なされている。そのため、これは嵐による状況や被害を多くの人々へ伝え、後世に残す貴重な文学となっている。

現代では災害が起こると、多くのジャーナリストが現地から災害状況の放送などを行なったり、被害状況をまとめたりすることを行っている。いつどこでどういうことが起こったのかということは、その時代においても後世においても重要な情報となる。

当時そういった概念がどの程度あったのかは定かでないが、デフォーはこの作品によって、いわゆるジャーナリストの先駆けの一人となった。彼がこの世界初の気象災害のルポルタージュを書いた背景や状況を解説する。

ダニエル・デフォーの肖像画
http://www.nmm.ac.uk/collections/displayRepro.cfm?reproID=BHC2648

なお、17世紀の英国では、ペストの流行ロンドン大火があった。ペストの流行では本の3-4-2 ニュートン力学の誕生」で述べたように、疎開先でニュートンが万有引力を発見した。ロンドン大火では、「3-3-3 イギリスの王立学会とフック」で述べたように、後に気象学者として活躍するジョン・フックが測量官として街の復興に活躍するなど、後の気象学と大きく関連する出来事が起こった時代だった。

*当時、当時の嵐の強さではテンペストは最強のランクと考えられている。

つづく