1 はじめに
猿橋勝子は日本の国際的な女性科学者の草分けの一人である。彼女は大気と海洋の地球化学の分野で大きな成果を上げた。また「女性科学者に明るい未来の会」を設立し、また猿橋賞を創設して日本の女性科学者の育成を推進した。彼女の活躍は国際的にも認知されており、2018年3月22日のGoogle検索のロゴには彼女の似顔絵が登場した。
彼女は気象庁の気象研究所の研究者であり、私も気象研究所にいたことがあるので、そういう意味では先輩である。ただし、私が気象庁に入ったときには既に彼女は退官されており、個人的な接点は全くない。
彼女が活躍した戦後すぐの時代は、広域の大気や海洋の化学を研究する地球化学という分野は草創期で、徐々に確立されつつある時代だった。その後、冷戦でエスカレートした大気中の核実験、あるいは産業の発展に伴う酸性雨、温室効果ガスなどの問題によって、地球化学の重要性にスポットライトが当たった時期だった。しかし、研究に限らず女性が男性と対等に活躍するのは困難な時代でもあった。
近年社会への女性の共同参画の向上が話題となっており、NHKが2021年12月16日にコズミック フロントというドキュメンタリー番組で彼女を取り上げるなど、彼女の成果や果たした役割を再評価しようという機運が高まってきているのではないかと思う。そういう観点から、今回はここで彼女の科学に対する功績を振り返ってみたい。
2 学生時代と就職
彼女は1920年(大正9年)3月22日に東京で生まれた。父は電気技師で9歳年上の兄がいた。幼い頃は引っ込み思案で、人前に出るのがきらいで甘えん坊で泣き虫の女の子だったようである。そんな彼女は小学校で担任だった女性教師たちに啓発されて、「一生懸命勉強して、社会に役立つ人になりたい」と思う学生となっていった [1]。その彼女が関心を寄せていたものは、「雨がどのようにして降るのか」ということだった。
彼女は小学校を卒業後、近代的な英才教育で知られる東京府立第六高等女学校へ進学した。この学校は運動も重視しており、彼女はもともと運動神経が良かったようで、そこではスポーツ万能の選手として活躍した。ところが英会話の授業では、私立小学校からきた同級生たちは英語が話せたのに、公立学校出身の彼女は英会話が出来なかった。このとき英語が得意だった兄から手ほどきを受けて、同級生たちに追いついた [1]。この高等女学校で出会った友人たちの一部は、彼女を支える生涯の友となった。
彼女は数学、英語、物理学が得意だった。しかし、社会に役立つ人間になりたいという夢は、彼女が医師になることに駆り立てた。彼女は東京女子医学専門学校(東京女子医専)に進学しようと考えた。ところが、親は当時の社会常識から当然就職してから結婚するものと考えていた。親の意見に逆らうことは良くないと思っていた彼女は、進学の意向を親に言い出せず、親戚が勧めた生命保険会社に就職した[1]。
(つづく)
参照文献(このシリーズ共通)
[1] 米沢富美子, 猿橋勝子という生き方, 岩波書店, 2009.
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