2023年5月24日水曜日

地球化学の先駆的女性科学者 猿橋勝子(3)

 5 オゾン層の研究

気象研究所での彼女の最初の研究対象は、成層圏のオゾン層だった。当時、観測によって赤道付近上空のオゾン量は少なく、緯度が増加して極域になるとオゾン量が増えることが知られていた。しかし、オゾンは太陽光で生成されるにもかかわらず、太陽光が強い赤道付近(夏半球)で少なく、太陽光が少ない極域(冬半球)で多いという、直感とは反する結果となっていた。オゾン層の世界的な研究者であるドブソンは、赤道から極域に向けての成層圏での子午面循環でこれが説明できるという仮説を唱えていた。また、わずかな成層圏での水蒸気の観測から1949年にはブリュワーがそれを裏付ける論文を発表していた [2]。しかし、まだ不明な点も多く、明確な定説とはなっていなかった。

三宅泰雄と猿橋は、1951年にこのオゾン層の季節変化と地域的変化を説明するためにオゾン層の光化学反応を入れた理論モデルを構築した。そして、年間を通してオゾンの総量は変わらないが、季節によってオゾンが子午面輸送されて夏半球で少なく冬半球で多い、という季節変化の結果を手回しの計算機で導出した。そして、成層圏の子午面循環を直接測定した観測はなかったため、このブログの「成層圏準二年振動の発見」で述べたような成層圏での東西方向の風の変化から、計算結果が子午面循環の存在と矛盾しないことを示した [3]。

この論文は、ある程度ブリュワーの説を定量的に裏付けるものだった。しかし、英文の要約を含んでいたものの和文で書かれているためか、あまり国際的な認知を得られなかったようである。このオゾン分布をもたらす夏半球から冬半球に向けて成層圏の子午面循環は、上記のブリュワーに加えて1956年にドブソンも再び提唱した。これは1970年代に理論的に支持されて、現在ではブリュワー・ドブソン循環として定着している [4]。 

ニンバス7号衛星が1980から1989年にかけて観測した成層圏オゾン分布に、ブリュワー・ドブソン循環を模式的に重ねたもの。赤いほど濃度が高い。赤道上空では少なく両極の上空で多いことがわかる。https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Nimbus_ozone_Brewer-Dobson_circulation.jpg

6 海洋中の炭酸物質の研究

彼女は物理学を指向していたが、オゾン層の研究を通して、化学反応の重要性に関心が湧いたようである。三宅に化学分析の基礎を指導してもらった。実験して分析を行うにしても物理学と化学では、そのセンスは大きく異なる。私は物理学出身であるが、私の家内は化学出身である。皿洗い一つにしても、私の洗い方はなっていないと家内からは注文が出る。おそらく用具の扱い方や洗い方からして、物理実験と化学実験では目の付け所が全く異なるようである。猿橋は改めてく化学実験・分析の基礎を三宅からきちんと指導を受けて身につけた。これがその後の地球化学の分析に大きく役立つこととなる。

1950年頃に三宅は猿橋に、海洋中の全炭酸を測定することを提案する。全炭酸とは、海水中の二酸化炭素と炭酸物質の総量のことである。当時、まだ二酸化炭素による地球温暖化問題は顕在化していなかったが、大気中や陸上に多量にある炭素が、地球全体の大部を占める海洋中でどうなっているのかを知ることは、地球上の物質の状態を知る上で重要だった。しかしそれを直接測定する手法はなく、アルカリ度の測定から炭酸イオンの量を間接的に推測するしかなかった。

彼女は、1952年に当時体中の有機窒素などの分析に用いられていた微量拡散分析法を、海洋中の全炭酸に応用した装置を開発した。これで海洋中の全炭酸を、世界で初めて直接測定することが出来るようになった。

しかし、世界中の海水をこの装置で分析することは容易ではない。そのため、彼女は分析を繰り返して、全炭酸の量を決めている塩素量、水温、pHごとに海水中の全炭酸量を表にした論文を発表した。つまり、比較的容易に測定できる塩素量、水温、pHがわかれば、いつでもどこでも海水中の全炭酸を算出できるようにした。これは画期的な成果であり、これは「サルハシの表」と呼ばれて海水中の全炭酸を算出する際の世界標準となった。

これに関する一連の論文で、彼女は東京大学から理学博士を授与された。東京大学理学部化学科から初めて女性に授与された理学博士号だった。 


実験中の猿橋勝子(写真提供:額田記念東邦大学資料室)

つづく

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 米沢富美子, 猿橋勝子という生き方, 岩波書店, 2009.
[2] 関口理郎, 成層圏オゾンが生物を守る, 成山堂書店, 2001.
[3] 三宅泰雄、猿橋勝子, "大気オゾンの年変化と子午線分布に関する理論," Journal of Meteorological Society of Japan, 第29巻, pp. 347-360, 1951.
[4] Butchart, "The Brewer-Dobson circulation," Rev. Geophys., 第52巻, pp. 57-184, 2014.
[5] Saruhashi, "On the Equilibrium Concentration Ratio of Carbonic Acid Substances Dissolved in Natural Water - A Study on the Metabolism in Natural Waters (II)," Papers in Meteorology and Geophysics, 第6巻, pp. 38-55, 1955. 



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