3 科学者への転向
両親の意向に沿って就職した猿橋だったが、進学した同級生たちの動向を知るようになると彼女の夢が再燃した。卒業後4年経っていたが、両親へ東京女子医専(現東京女子医科大学)への進学を希望した。兄の口添えもあって、両親は受験を許した。
東京女子医専は名門であり難関校だった。彼女は卒業後のブランクをものともせずに見事に筆記試験に合格した。ところが当時は入学のための面接があった。彼女の面接に臨んだ一人は、当時70歳だった校長の吉岡禰生だった。彼女は明治の中頃に苦労して女医になり、さらに自身で女性のための医学専門学校を設立し、それを苦労して日本一の名門にまで育て上げた女傑だった。彼女は、日本での女性の高等教育の確立に活躍した教育者の一人として評価されている。
猿橋はそういった彼女に憧れており、面接の際に「先生のような立派な女医になりたい」と答えた。ところが、これに吉岡はカラカラ笑って、50歳近くも年下の猿橋に向かって「私のようになりたいですって。とんでもない。私のようになりたいといったって、そうたやすくなれるもんじゃありませんよ」と答えた [1]。彼女は驚くとともに、この面接中に吉岡に対する尊敬の念がみるみる消えて、こんな学校へは行きたくないという考えに変わった。結局、東京女子医専に合格したものの、彼女は発表を見に行くことさえせず、代わりに父親が行ったほどだった。彼女の意志の強さがうかがえる。
大きな期待が絶望に変わった彼女は、東京女子医専の校門を出る際に1枚のビラを手にしていた。それは帝国女子理学専門学校(帝国女子理専:現東邦大学理学部)が、その年の4月に開校するというものだった。彼女は、両親に医専には行かない、新設の帝国女子理専に行くと宣言した。名門医学校への進学を捨てたものの、彼女の数学や物理学の素養からして、結果としてこの選択の方が良かったのかもしれない。
4 三宅泰雄との出会い
彼女は1941年4月に帝国女子理専(現東邦大学理学部)の物理学部に入学した。上級生になると、ほとんどの学生は夏休みの間に実習生として大学や研究所に派遣された。担任の教授は、彼女の幼い頃からの「雨がどのようにして降るのか」という興味を知って、実習先に先輩である三宅泰雄がいる気象研究所を紹介した。猿橋が後日述懐しているように、三宅との出会いが、猿橋の科学者としての将来に大きな影響を与えた。
三宅泰雄は、東京大学理学部化学科卒業後、中央気象台(後の気象庁)の研究部にいた。彼は当時確立されつつあった地球化学分野パイオニアの一人だった。地球化学とは、地球の大気や海洋、陸域の構成物質やその動向を化学的な手段を用いて研究する分野である。地球化学は気象とも大いに関係する。その分野を開拓した三宅は、平等主義でリベラルな考えを持った人だったようである。猿橋は三宅の科学者としての言動に感銘を受けたと述べている [1]。
猿橋は実習生として研究部へ派遣される時、きっとビーカー洗いのような作業をさせられるのだろうなと内心考えていた。ところが彼女が研究部へ行ってみると、驚いたことに女子の一実習生に対して「ポロニウムの物理化学的研究」という一人前の研究テーマが与えられた[1]。ポロニウムはキュリー夫人が発見した放射性元素である。
彼女はこれに感激した。彼女はその実験に精力的に取り組み、結果を解析して卒業論文とした。そして帝国女子理専の学生は、戦争のため国策として1943年9月に繰り上げ卒業させられ、猿橋はそのまま中央気象台の研究部に就職した。彼女のこの研究は、その後の放射能汚染の研究にもつながった。
1946年2月には中央気象台の研究部の中に気象化学研究室が発足し、翌年には研究部は気象研究所となった。彼女も研究官としての一人前の地位を与えられた。当時から気象研究所にはリベラルな雰囲気があったようである。私が気象研究所にいた1990年前後には、まだそのような雰囲気が残っていた。また5~6名の女性研究者もおり、その中には後に博士号を取得した人もいた。そういう雰囲気とリベラルな性格の三宅泰雄による指導が組み合わさって、気象研究所は猿橋にとって絶好の研究環境だったのではないかと思う。
(つづく)
参照文献(このシリーズ共通)
[1] 米沢富美子, 猿橋勝子という生き方, 岩波書店, 2009.
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