2021年10月11日月曜日

正野スクール:正野重方と日本の気象学者

 1 正野スクール

2021年にノーベル賞を受賞した気象学者の真鍋淑郎博士については、「気候学の歴史(8): 気候モデルと日本人研究者」でその業績を紹介したが、東京大学では正野重方教授の学生だった。そして真鍋博士を含む正野重方から教えを受けた気象学者たちは正野スクールと呼ばれている。

一般に、ある特定の指導者を中心にその人が開発した発想や手法をベースに研究を行っている研究者たちを「・・・学派」と呼ぶことがある。気象学でもヴィルヘルム・ビヤクネスを中心としたベルゲン学派(ノルウェー学派)、ライプチッヒ学派、ロスビーを中心としたシカゴ学派などが有名である。この学派という言葉は英語の「スクール」を訳したものである。そして日本では、1950年代から1960年代にかけて東京大学の気象学講座教授だった正野重方(1911 - 1969)が育てた気象学者たちのグループを「正野スクール」と呼ぶ。正野と正野スクールについては、本の「10-6 日本での数値予報の開始」で述べたが、今回、正野スクールについて補足する。

これは個人的な推測だが、正野重方が育てた大勢の気象学者のグループが「正野学派」ではなく「正野スクール」と呼ばれているのは、彼の薫陶を受けた気象学者たちがある特定の研究スタイルを取っているのではなく、かつ気象学の多くの分野に数多くの気象学者を輩出しているため、「学派」という呼び名では括れないからではないだろうか。

正野重方は将来に対する卓越した洞察力と数理物理学の豊富な知識を持っていた。ただ、それを活かした大気擾乱の理論化については、後述するようにアメリカの優れた気象学者チャーニーに先を越された。しかしながら、傑出した統率力と優れた教育手腕とによって、大勢の優れた気象学者を育てた。彼は57才という比較的若い年齢で亡くなったため、気象学者以外にはあまり名前が知られていないのではなかろうか。アメリカの気象学者レウィス(John M. Lewis)は正野のことを、あまり評価されておらず知られていない教育者「uncelebrated teacher」と呼んで、もっと国際的な評価を受けて然るべきだと述べている [1]。

正野スクールの気象学者たちは、日本だけでなく世界で活躍している。その中に今回ノーベル賞を受賞した真鍋淑郎氏も含まれている。真鍋氏のノーベル賞受賞には、同氏の卓越した能力と努力の結果であることは間違いない。しかし、科学の発達には研究資金や機材だけでなく、直接的あるいは間接的に師による薫陶や人材育成が大きく影響を及ぼすことが多い。正野が育てた気象学者たちは、戦後の日本と世界の気象学の発展と不可分の関係にある。


真鍋淑郎博士
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Crafoord_Prize_EM1B0732_(42329290061).jpg

2 正野重方と彼の研究

正野重方は東京帝国大学理学部で物理学を学び、その後同大学で地震波の研究を行い、1940年に博士号を得た。しかし、彼は寺田寅彦との交流によって気象学に強い関心を抱いていた。また日本の気象学の父、岡田武松にも興味を持っていた [2 ページ: 503]。当時、東京帝国大学には気象学教室はなく、彼は中央気象台(現在の気象庁)に就職した。

中央気象台で彼は、地震波に関する知識を活かして大気波の擾乱の研究を行った。1944年に東京帝国大学に気象学講座が開設されると、彼は中央気象台職員の身分を兼務したままその助教授に就任した。ちなみに当時の教授は中央気象台長の藤原咲平だった。

本の「10-3-2 傾圧不安定理論の確立」で述べたように、アメリカのジュール・チャーニーが、低気圧の発達の仕組みと関係が深い大気擾乱の傾圧不安定についての理論化を行い、1947年に論文として発表した。この論文は遅れて1949年に日本に入ってきた。この論文を見て、彼は地球物理学教室の研究室に駆込んできて、「見ろ!この論文は気象学を近代化している!」と興奮して叫んだ [2]。チャーニーによる成果は、コンピュータを使って気象予報を行う数値予報への新たな扉を開くものだった。それは正野が目指していたものでもあり、チャーニーに先に達成されてしまって彼は深く落胆した。しかし、彼は1949年に専任の教授となり、1950年に大気擾乱に関する一連の研究によって学士院賞を授与された。また1961年にはアメリカ気象学会の名誉会員にも選出されている。また現在、日本気象学会では正野賞を設けて「気象学及び気象技術に関し貴重な研究をなした若手研究者に対する顕彰」を行っている。

大気擾乱の理論化については先を越されてしまったが、本の「10-6日本での数値予報の開始」で述べたように、彼は日本の気象学のリーダーとして数値予報のために、大学や気象庁の有志による数値予報グループ(NPグループ)を組織して日本での数値予報の実現を推進した。そしてそれは日本での数値予報の実現に大きな役割を果たした。彼はそれらの活動を通して、気象力学に関連した多くの研究を体系化、総合化して気象力学を数理物理学に匹敵する数学的秩序と厳密な学問にしようとした [2 ページ: 505]。また、多くの若手と関わりを持つことによって、多くの優秀な気象学者を育てることにもなった。


3 正野スクールのメンバー

ここでは正野スクールのメンバーを [3]に従って紹介する。彼らは気象学界の中では有名な方々ばかりである。ただし、ひとえにメンバーと言っても正野との関係は様々である。

  • 磯野謙二(雲物理学):名古屋大学
  • 藤田哲也*(トルネード):北九州工科大学→シカゴ大学
  • 井上栄一(乱流):農業技術研究所
  • 小倉義光*(大気乱流):MIT→東京大学→イリノイ大学→東京大学→海洋研究所
  • 岸保勘三郎*(気象力学):プリンストン高等研究所→気象研究所→気象庁→東京大学
  • 増田善信(数値予報):気象研究所→気象庁→気象研究所
  • 村上多喜雄*(気象力学):気象研究所→ハワイ大学
  • 荒川昭夫*(大気大循環):気象研究所→カルフォルニア大学
  • 大山勝道*(ハリケーン):気象庁→ニューヨーク大学
  • 松本誠一(気象力学):気象研究所→気象庁→気象研究所
  • 森安茂雄(海洋学):気象庁→気象研究所→気象庁
  • 伊藤宏(数値予報):気象研究所→気象庁
  • 佐々木嘉和*(トルネード):テキサスA&M大学→オクラホマ大学
  • 笠原彰*(気象力学):クーラン研究所→テキサスA&M大学→シカゴ大学→米国大気科学研究所(NCAR)
  • 駒林誠(雲物理学):名古屋大学→気象大学校→気象庁
  • 加藤喜美夫(航空気象学):全日空
  • 栗原宜夫*(気象力学):気象庁→気象研究所→GFDL→海洋科学開発研究機構
  • 都田菊郎*(気象力学):シカゴ大学→東京大学→GFDL
  • 相原正彦(気象力学):気象研究所→気象大学校
  • 真鍋淑郎*(大気大循環):GFDL→海洋科学研究機構→GFDL
  • 武田喬夫(雲物理学):名古屋大学
  • 新田尚(気象行政):気象庁→WMO→気象庁
  • 柳井迫雄*(熱帯気象学):気象研究所→コロラド州立大学→東京大学→カルフォルニア大学
  • 松野太郎(気象力学):九州大学→東京大学→北海道大学→海洋科学開発研究機構
  • 廣田勇(気象力学):気象研究所→京都大学
  • 田中浩(気象力学):電波研究所→名古屋大学
  • 山岬正紀(熱帯気象学):気象研究所→東京大学→海洋科学開発研究機構
  • 近藤洋輝(気象力学):気象庁→世界気象機関(WMO)

*はアメリカに一時的でも移住した人たちであり、その多くはいわゆる頭脳流出組と呼ばれることがある。ただし岸保勘三郎については、研究拠点をアメリカに移したというよりも、2年間アメリカの気象プロジェクトに参加したため*印がつけられていると思われる。

正野重方はどちらかというと控えめで物静かな性格だったとされているが、誠実で親しみやすいだけでなく、弟子の研究テーマについては自由に考えさせて個人の自発的興味を大切にしていた [2]。正野の弟子への対応について、前述のアメリカの気象学者レウィスは藤田哲也の例を挙げている [2]。藤田は北九州の明治専門学校(現在の九州工業大学)を出ており、正野の学生ではない。藤田は自分の強い興味から明治専門学校で助教授をしながら雷雨の研究を行っていた。彼は自分の研究報告を自分で英訳してシカゴ大学の気象学者ホレス・バイヤースに送り、彼から招聘を受けた。しかし、留学のためには博士号が必要だった。彼はそのために毎週週末に正野の指導を乞うて、博士論文を完成させて博士号を得た。これはいわゆる通常の大学院の博士課程を出て博士号を取るコースではなく、当時としては異例のことと思われる。これは正野の懐の深さと面倒見の良さを示している。

その後、藤田哲也はアメリカで竜巻強度のスケールであるフジタスケールを作っただけでなく、ダウンバーストというそれまで知られていなかった全く新しい現象を発見して、世界の空港にドップラーレーダーを配備するきっかけを作った。これによってダウンバーストによる航空機事故はほぼ根絶され、藤田は航空機の安全な運行に対して絶大な貢献をした [4, 27章 ダウンバーストを見抜く]。

正野はこのように誠実かつ親身に接しながら弟子たちの自主性を活かして育てた。また数値予報のような大規模かつ複雑な問題については、個人がそれぞれ研究するのではなく、グループで討論しながら研究した方が良いと考えて前述のようにNPグループを設立して指導を行った。これらが上記のような大勢の有名気象学者を育てたことにつながったと思われる。


4 正野と頭脳流出組

昭和30年頃から日本人若手気象学者がアメリカに渡り始めた。彼らはアメリカで素晴らしい成果を上げたため、「頭脳流出組」と呼ばれることがある。戦後すぐの日本は食べるだけでも精一杯で、優秀な若手研究者が大勢いても十分な研究環境が整っているとは言い難かった。当時アメリカは冷戦でソビエト連邦と科学技術を競っていた。その中でアメリカは気象改変という思惑もあり、気象分野にも多くの資金が投入されて研究環境が整えられていた。そういった政治の面は別としても、アメリカの豊かな研究環境は当時の日本の研究環境と比べると格段の魅力があった。

正野は若い研究者が海外へ出て研究することを後押しした。彼は若い研究者たちに対して、自分なりの経験をして独自の道を行って欲しいという思いと、日本人の気象学者たちに国際的な広い世界の中で育つことを期待していた [2 ページ: 508]。ちょうどそういう時期に正野は1954年に東京でユネスコによる台風に関するシンポジウムを開催した。これで出来たつながりなどをきっかけに小倉義光はジョン・ホプキンス大学へ行き、笠原彰と佐々木嘉和はテキサス A&M大学へ行った。

1960年にやはり東京で「国際数値予報シンポジウム」を開催した。このシンポジウムは数値予報の実現に向けて大きな進歩をもたらした。これに大勢の日本人の若手研究者が参加した。このシンポジウムは、日本人の若手研究者に初めて世界的なレベルの研究者たちと交流を持つ機会を与えただけでなく、アメリカの研究者も日本人研究者の優秀さに気付き始めた。

この国際数値予報シンポジウムの前後に、このブログの「気候学の歴史(8): 気候モデルと日本人研究者」で述べたように、大循環モデルの開発のために、地球物理学流体力学研究所(GFDL)のスマゴリンスキーは真鍋淑郎を招聘し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のイェール・ミンツは荒川昭夫を招聘し、国立大気研究センター(NCAR)のフィリップ・トンプソンは既にアメリカにいた笠原彰を招聘した。他にも上記*印の大勢の日本人研究者がアメリカへと渡った。そして彼らは真鍋を初めとして気象学史に残る顕著な成果を上げている。

真鍋博士は米国国籍の取得理由の一つとして、「私には(他の多くの日本人のように?)協調を重んじる生き方はできない」とインタビューなどで述べられているが、私はこれを額面通りには受け取っていない。真鍋博士が渡米した頃のアメリカの研究所は、GFDLを含めて世界各地からいろんな人々を受け入れていた。アメリカのもともとのそういう風土もあって、研究所は厳しい競争社会だったのではなかろうか。しかし、GFDLのスマゴリンスキーは、真鍋博士を含む日本人研究者について、その勤勉さだけではなく研究者相互の協力や協調をGFDLで広げるのに貢献したと述べている [1]。日本人気象学者たちは、アメリカの研究所で他の研究者に協調性などについて影響を与えた。アメリカに渡った日本人気象学者たちは、気象学に対して国際的な貢献をしただけでなく、アメリカの研究所の雰囲気にも好影響を与えたのかもしれない。

ヨゼフ・スマゴリンスキー
https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Smagorinsky

いわゆる頭脳流出組と呼ばれる人々について、正野重方は自身が第二次世界大戦とその後の研究環境の困窮を経験して、若い研究者にはそういう思いをさせたくないということと、若い貴重な時期にアメリカの自由な研究環境で思いっきり彼らの能力を開花させてあげたいと思ったのではなかろうか?正野重方は戦後期の東京大学の気象学講座の教授及び日本の気象学界のリーダーとして、自身の研究を発展させただけでなく、大勢の日本人研究者に機会を与えることによって世界の気象学の進歩に貢献したといえる。

今回の真鍋淑郎博士のノーベル賞受賞が、正野重方の再評価にもつながれば良いと思っている。

参照文献
[1] John Lewis (1993) Meteorologists from the University of Tokyo: Their Exodus to the United States Following World War II. Bulletin of the American Meteorological Society, 74, 7, American Meteorological Society.
[2] John Lewis (1993) 正野重方―The Uncelebrated Teacher― , 天気, 気象学会, 40, 503-511.
[3] 古川武彦 (2012) 人と技術で語る天気予報史. 東京大学出版会.
[4] 堤之智 (2013) 嵐の正体に迫った科学者たち. 丸善出版.

2021年10月8日金曜日

近年の秋の気温上昇について

 歴史とは異なるが、近年の気温状況を少し見てみる。

10月7日に気象庁は、2021年の10月9日から10月15日までの予想気温を発表した。それによると、平年と比べて気温が高くなる可能性を、以下の図のように全国どこでも紫の70%以上と予想した。しばらくまだ平年より暑い日が続きそうである。

気象庁が2021年10月7日発表した10月9日~10月15日の予想気温(平年より高くなるか低くなるかの確率)
https://www.jma.go.jp/bosai/map.html#5/34.5/137/&elem=temperature&pattern=P1M&term=1&contents=season(2021年10月8日現在)

地球温暖化が叫ばれているが、近年秋になってもなかなか涼しくならないと実感されている方はいないだろうか?それで最近56年間(1965~2020年)の日本の15地点の季節別の気温上昇率を調べてみた[注]。これらの地点は気象庁が発表している日本の平均気温の計算に用いられている地点である。

最近46年間(1965~2020年)の季節別の日本の15地点の気温の上昇率(℃/10年)
赤矢印は15地点の平均

その結果、図に示すように各地点で気温は確かに上昇しているが、秋の気温だけ上昇率が高い地点が多いことがわかる。また、それぞれの季節の右端の赤色の「平均」の赤の棒グラフ(矢印)を見ると、平均の気温上昇率は他の季節は0.25℃/10年程度であるが、秋だけ0.31℃/10年であることがわかる。これは秋の時期に夏に近い気温の期間が長くなってきていると言えるかもしれない。また体感的にはいろいろな感じ方があろうが、一つの感じ方として秋が短くなってきているということになるかもしれない。皆さんはそう感じたことはないだろうか?

実はこれを裏付けるように、Urabe and Maeda (2014)も1999~2012年の平均で見て9月と10月の気温が、平年値より0.2~0.3℃高くなっていることを示している[1]。この高まりは6月を除いて他の月では見られない。彼らの論文はこの期間に「夏と秋の気温」と「冬と春の気温」の差が大きくなっていると指摘している。これは日本付近だけの状況のようである。

この気温差が大きくなる原因について、Imada et al. (2017) は、数値モデル計算のアンサンブルによって、12月から5月までは東ユーラシアから日本にかけての低気圧が気圧をより下げることによって寒気の流入が増えて温暖化を抑え、6月から11月までは東アジアから北アメリカにかけての高気圧がより発達することによって温暖化を高めている可能性を示唆している[2]。これらは他の様々な要因の一部である可能性もある。

いずれにせよ、近年秋がこれまでより涼しくなくなってきていることは事実のようである。

[注]計算には気象庁がホームページで公表している月平均気温を用いた。規定の観測要件を満たないためにフラグがついたデータもそのまま用いている。上昇率の計算にはnon-parametric Sen’s slopeを用いた。

参照文献

[1] Urabe, Y., and S. Maeda, (2014) The relationship between Japan’s recent temperature and decadal variability. SOLA, 10, 176−179, doi:10.2151/sola.2014-037.
[2] Imada Y., et al., (2017) Recent Enhanced Seasonal Temperature Contrast in Japan from Large Ensemble High-Resolution Climate Simulations. Atmosphere, 8, 57; doi:10.3390/atmos8030057.