2021年12月21日火曜日

気象予測の科学化とノーベル賞

 真鍋淑郎氏がノーベル物理学賞を受賞した。気象学は物理学なのかと驚いた方もおられるかもしれないが、気象学においてはこの「ノーベル物理学賞」受賞の意義は深いと思う。20世紀初頭まで気象学は、当時の物理学、化学、数学などと比べて科学とは見なされていなかった。本の「8-8-1 気象学におけるベーコン主義の破綻」で述べているように、大学に気象学部はなく、気象学として学位授与課程はなかった。気象学専門の先生はおらず、他分野の専門家が片手間に気象学を教えていた。気象学に明確な理論体系はなく、一部の熱力学的な法則を除くと、経験に基づく定性的な内容がほとんどだった。例えば、当時の気象予測の原理の一つは「天気は西から東へ移動する」だった。それから先の予報手法は経験ごとに予報者の数だけ異なった。

その状況を変えようとしたのはドイツの物理学者のヴィルヘルム・ビヤクネスだった。彼は電磁気学の研究者だったが、やはり科学者だった父親を手伝うために流体力学も研究した。その過程で彼は1897年に「ビヤクネスの循環定理」を発見した。これは流体力学の一般的な理論だったが、気象にも当てはめることが出来た。これをきっかけにしてビヤクネスは気象学へ足を踏み込んでいく。一方で、本の「9-1-3 ビヤクネスの気象学への転向」で述べているように、当時古典物理学から相対性理論・量子論への急激な変革が進んでいた物理学分野では、彼は評価されなくなっていった。

その彼が当時の気象学の状況を見て、1904年に唱えたのが「気象予測の科学化」である。これは本の「9-1-4 気象予測の科学化という目標」で述べているように、気象予測を物理学方程式を用いて行おうという壮大な考えだった。これは容易なことではなかった。なぜならば、仮に理論が出来たとしても予測を決定するためには、予測の対象時刻の前までに観測結果を用いた解析を終えて結論を出さなければならない。各地の観測結果を集めて膨大な計算を行って1日あるいは数日先の気象予測を行うのは、簡易的な手動計算機しかなかった当時は、事実上実現不可能だった。しかし、ヴィルヘルム・ビヤクネスはこれに挑んだ。1914年に彼はこう述べている。

誰しも直ちに達成できることだけを目的とするとは限りません。おそらく到達不能なほど遠い目的であっても、それにまっすぐに向かう努力は1つの針路を定める役目を果たします。

ヴィルヘルム・ビヤクネス
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%8D%E3%82%B9#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Bjerknes.jpg

ヴィルヘルム・ビヤクネスは、気象予報のための物理方程式群を作成するとともに、「大気力学でのソレノイド」で述べたように、気象予報に視覚的な手法を利用しようとした。ところが、イギリスのリチャードソンは、第一次世界大戦中に当時新しかった差分法という数学手法を用いて、物理方程式群を改良した独自に数値計算による気象予測の試算を行った。もし成功すれば、64000人の計算者からなる「予報工場」の設立を夢見ていた。しかし、リチャードソンが計算した予測値は実際の値と大幅に異なり、彼の試みは失敗に終わった。これは本の「10-3-3 数値予報の課題」で述べているように、気象予報は原理としては可能だったが、数値計算の過程で起こる問題点がよく解明されていなかったためである。

その後、第二次世界世界大戦後に、本の「10-2-3 数値予報への胎動」で述べたように、天才フォン・ノイマンが電子コンピュータを使った気象予報を推進し(フォン・ノイマンについて(9)数値予報への貢献1参照)、また「10-3 傾圧不安定理論と準地衡風モデル」で述べたようにジュール・チャーニーという数学に長けた気象学者が物理方程式を改良したおかげで、電子コンピュータを使った数値予報が実現された。そして、「気候学の歴史(7):気候モデルの登場」で述べたように、この気象予報モデルを利用して生まれたのが、地球大気の平均的な流れ再現する大循環モデルである。これを真鍋淑郎氏などが改良して、気候をシミュレーション・予測する気候モデルへと発展させた。これにより地球温暖化研究という分野が生まれて、気候学は実証可能な(と考えられる)科学となった。これが真鍋氏のノーベル賞受賞につながったと私は見ている。

これはもとはと言えば、ヴィルヘルム・ビヤクネスが当時学問としてはひ弱だった気象学に、気象予測の科学化という当時から見ると到達不可能な目標を敢えて設定したおかげである。彼が敷いたレールに沿って、彼の弟子たちが気象予測を長年かけて科学化することに成功した。そして、それから気候モデルが生まれた。ヴィルヘルム・ビヤクネスは5回にわたってノーベル賞候補に挙がったが、受賞するには至らなかった。しかしながら、今回の真鍋氏のノーベル物理学賞受賞によって、気象学は気候学を含めて世間からも名実ともに「科学」と広く認知されたのではないかと考えている。そういう意味で、気象学にとって真鍋氏のノーベル賞受賞は意義深いと感じている。

私は本の「9-2-8 ヴィルヘルム・ビヤクネスのその後」の中で「もしヴィルヘルム・ビヤクネスがノーベル賞を受けていたら、その後に気象学の発展に貢献した人たちの中からもノーベル賞を受けた人が出たかもしれない」と書いた。真鍋氏のノーベル賞受賞を機に、気象学の分野からさらにノーベル賞受賞者が出ることを期待したい。


2021年12月4日土曜日

天人相関説と気象学(2) 日本での天人相関説

 5 日本での天人相関説に対する考え方

5.1 律令制度での天人相関説

推古天皇の代の602年に、百済の僧「観勒」が日本にやってきて、暦本、天文地理書などの書を貢ぎ物として贈った。その頃に中国から日本に天人相関説とともに陰陽五行説や災異説も伝来し、7世紀の律令国家体制の形成時に、それらは政治的に利用される中で普及したとされている。しかし、中国のものをそのまま受け入れたのではなく、日本古来の神の思想や仏教の影響を受けて部分的な摂取や折衷が行われながら、あるいは独自の発展をしながら律令国家時代の日本に普及した [10]。

律令制度の下では、天人相関説の影響を受けた陰陽道を実践する朝廷の機関として陰陽寮」が設けられた。陰陽寮はいってみれば天文と統治者である朝廷との橋渡しをする政府機関だった。そのために、陰陽寮には陰陽、暦、天文、漏刻(水時計で時を計る)の部門に各博士がいた。そして占いの専門職として陰陽師6名がいた。なお、陰陽師という名前は日本独自で、当時中国では陰陽家と呼ばれた。

陰陽寮の公職としての仕事は、御卜(占い)、天文密奏(天体や気象などの観測をして、何か異変があれば天皇に奏上すること)、祈祷(陰陽道祭)、祓え(天皇が人形に息を吹きかけて陰陽師に渡し、お祓いをしてもらって川に流す)、反閇(へいばい。禹歩とも言う独特の歩き方による祓い)、身固(みがため。身体を丈夫にするための呪術)、日の吉凶を含む暦(具注暦)の作成、日時・方角の占定などであり [4]、その仕事は多岐にわたっていた。

5.2 平安時代の陰陽道

平安時代に陰陽師として有名になる安倍晴明(921~1005年)は、陰陽師の賀茂保憲(917~977年)の弟子であった。賀茂保憲は天文道を我が子に授けたかったが、安倍晴明の器量が遙かに上回っていたため、子の賀茂光栄には比較的易しい暦道を授けて、安倍晴明に天文道を授けたともいわれている [11]。陰陽寮の天文の部署に属していた安倍晴明はやがて頭角を現して、特に賀茂保憲の死後には天文に基づいて儀式を行う天皇や貴族にとって欠かせない人物となった。その後、賀茂家と安倍家が平安時代中期の陰陽師の2大宗家なった。安倍晴明が土御門大路近くに住んでいたことから、15世紀ころからその子孫は土御門氏を名乗るようになったようである [4]。賀茂氏は戦国時代に断絶し、土御門氏は江戸時代には全国の陰陽師の支配を任された。ただし、本の「7-1-2 日本での暦問題」で述べたように、当時の陰陽師は公職ではなく、一種の民間信仰に近い占いの実施者で、土御門家はその家元のような立場だった。

平安時代の陰陽師は天文観測を仕事として行っており、星々の細かな動きによる天変をいち早く知る立場にあった。そのため、陰陽師は天譴に基づいた政治と密接な関わりがあってもおかしくなかった。天変には天を動き回る惑星が恒星に異常に近づくこと(犯)が含まれている。特に木星は当時「歳星」と呼ばれ、天子や天皇の運命を表すと考えられていた。安倍晴明が陰陽師だった寛和2年(985年)6月22日の夜半に、花山天皇が突如として元慶寺に赴いて退位して出家し、一条天皇が即位するという大事件が起こった。これは「寛和の変」と呼ばれており、右大臣だった藤原兼家が孫の一条天皇を即位させるためのクーデターだったともいわれている。

実はこの日、木星が今日でいう天秤座のアルファー星に異常接近したことが現在の天文解析からわかっている。惑星はその名の如く地上から見ると一見不規則な運行をするが、天文を詳しく観測していた陰陽師は、12年に一度この日に木星が天秤座のアルファー星に異常接近することを知っていた。そのことは当時陰陽師が使っていた天文図にも記されている。そのことから、安倍晴明がこの日に歳星が犯を起こすことを藤原兼家に告げ、藤原兼家が天皇の退位にそれを利用したのではないかという説もある [12]。

安倍晴明
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Abe_Seimei.jpg

このように、平安期から鎌倉時代にかけても天人相関説は影響力があったと考えられている。1181年に超新星が現れた際には、九条兼実は人事が適切でないので天変が起こったと書き送っている。1245年の彗星と思われる現象が起こった際には、平経高は災害の下で譴責を行ったため、天の意に背いたと考えた [10]。1312年には花園天皇が天変や雷鳴を自らの不徳と捉えている[8]。また、その花園天皇は1317年の地震により文保に改元してもさらに地震が続いたため、物忌み(蟄居)を行った [4]。

一方で、9世紀後半から10世紀にかけては、災害や怪異を天の譴責ではなく神・怨霊の崇りと見なす傾向が朝廷内で強まり、天人相関説を含む儒教の理念は衰退したともいわれている。たしかに当時の災害や高官の死を、例えば菅原道真の怨霊の仕業と考えて、それを鎮めるために天神社の設立などが積極的に行われた。そしてその怨霊の祓いにも陰陽師が活躍した。しかし、その祓いには仏教(加持祈祷)や神道、あるいは民間信仰も加わって、それぞれがそれぞれのやり方でさまざまな要請に応えていったようである。

しかしながら陰陽道研究家の下村周太郎氏は、平安期から鎌倉時代にかけてさまざまな記録から、「天文道を掌る陰陽師の言説や貴族たちの中国典籍の参看を媒介に、朝廷社会で天人相関説に関わる心性が維持・再生産されていたと言えるだろう。」と述べている[8]。このようにさまざまな形で折衷しながらも天人相関説は平安時代以降も残っていった。しかし、天文現象(新星や彗星)と地上の気象災害は区別されて行ったようである。平安期以降、天文現象である天変(一部の地震を含む)は陰陽師の天文密奏(勘申)の対象として天人相関説に基づいて理解され続けたのに対して、自然災害や動植物の異変など他の災異はむしろ神祇官や陰陽寮の占い(卜占)の対象となった。安貞2年(1228年)7月22日に源頼経が遊興に出かけるのに翌日の天候を占わせて「曇り」とでたが、その通り翌日は曇りとなったので、占った安部泰貞は褒美をもらっている [4]。

5.3 日本での徳政について

天変などの天による譴責に対して朝廷がなすべき対応には、大きく分けると祈祷と徳政があった [10]。そして、天変の中で一番重要視されたものは彗星だったようである。彗星こそが「第一の変」と書かれている史料がいくつかあり、その際の対応は祈祷だけではなかった。公卿万里小路時房の日記である「建内記」には、永仁五年(1297年)の彗星の出現によって徳政が行われたことが記されている[8]。なお、徳政には「行事の中止」、「高官の謹慎」、「倹約」、「特赦」、「叙位」、「改元」、「譲位」が含まれる。「特赦」は、本来は徳政についての天に対する意思表示であったが、徐々に民衆に対する撫民という色合いが濃くなっていたようである。徳政による「改元」は承徳元年(1097年)など7回あったとされている。「譲位」については、彗星の出現をきっかけに土御門天皇の順徳天皇への譲位と後堀河天皇の四条天皇への譲位が行われている。しかし、実際には政治的要因も大きく、彗星の出現が譲位を正当化する名目に使われた可能性も高いとされている[8]。なお、祈祷や徳政などは天変以外の非常時、例えば蒙古襲来時などにも異国降伏のために行われた。

5.4 気象占いについて

奈良朝、平安朝を経て鎌倉、室町時代の気象現象に関する記述及記録は多く、三代実録、文徳実録等を始めとして、その数約3000とも言われる [13]。それらは中国などで史記天官書や、准南子等に見られる天人相関理論、陰陽五行説の考え方を基礎としている。そして「気象占い」も数多く行われた。この気象占いというのは、天候を占うのではなく、天候を使って物事を占うのである。司馬遷の史記の「天官書」には、天文占いとともに雲気や気候によって占う気象占いについても記されている [4]。

武家政治の時代になっても、武将たちは陰陽師を顧問として雇って、その気象占いにしたがって作戦を立てたり、政治判断を行ったりしていた。甲府の武田神社には、「運気書」と呼ぼれる気象占いの巻物が伝えられている。これは武田信玄の直筆とも言われているが、作成されたのはそれよりやや新しいとされている。この書物は、運気、すなわち気象によって合戦などの状況を占う方法についてくわしく書かれたものである。武田信玄の軍師であったといわれる山本勘助は気象占いをおこなった。山本勘助は、雲気・煙気といった気象のほかに、五音(五行思想にもとづいて分類された音)、三軍鳥(烏、鳶、鳩)などの自然現象や自然界に存在するものを用いて占っていたとされている [4]。武田信玄も自ら望気(星や風雲の状態から吉凶を占うもの)を学んでいたとされているが、信玄自身は占いを鵜呑みにせず、その時々の状況に依ってものごとを合理的に判断していたようである。


6 現代と天人相関説

近世になると、幕府には天変を天譴とする意識はほとんど見られなくなる。それは西洋近代天文学が入ってきて、幕府が「天文方」という組織を作るなどして天変観念自体が否定され、朝廷の天文占ですら懐疑的ないし合理的な内容へと変転せざるを得なくなったためと思われる。しかし、現在において、天人相関説は我々の暮らしと全く無関係かというと、そうとは言い切れない部分がある。

本来、史記の「天官書」では天変かどうかを天文観測の結果に依っていた。一方で、中国では古くから讖緯思想と呼ばれる疑似科学的な思想があり、それを用いた運命論や「縁起かつぎ」が行われていた。この考え方と暦算天文学の発達が結びついて、三世紀のころには天文観測を用いた宿命占星術のようなものが現れた。ところが暦学が進歩して惑星の位置などを観測せずに計算できるようになると、徐々に天文観測が行われなくなり、そういう手間がかかることを止めて簡便な方法がとられるようになった。例えば各日と惑星の位置との対応などから、暦にまつわる何らかの指標を机上で計算して暦に載せる暦註が作られるようになった。また惑星や太陽、月の位置に基づいた今後1年間の天候を予測した農事暦のようなものも作られるようになった。

そして、本来は天体の位置によって決まっていた宿命としての運勢を、天体の位置を用いて計算することさえも止めて、定期的に繰り返す簡便な指標を暦の暦註に載せて、それで代用する方法に変わっていった [11]。そしてこの簡便な方法は、印刷による暦の普及とともに、一般の人々もその日の吉凶などの身辺事の運勢を暦註で間に合わせることが広まった。先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口という六曜もそういった暦註の一部である。

現在、結婚式や葬式などの日取りには六曜が参考にされることが多い。しかしそれだけではなく、登記や契約の日も大安などが選ばれて、そういう日は役所や銀行の窓口が混雑するそうである。暦註も元はといえば天人相関説と密接な関係にあり、現代でも人々の中に天人相関説の残滓が残っていると言えるのかもしれない。

(このシリーズおわり)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] (編集)串田久治 (2020) 天変地異はどう語られてきたか. 東方書店.
[2] 田村専之助 (1977). 第五章気象予察. 中国気象学史研究下巻. 中国気象学史研究刊行会.
[3] Wang Pao-Kuan (1979) Meteorological Records from Ancient Chronicles of China. American Meteorological Society, Bulletin of American Meteorological Society, 313-318.
[4] 荒川紘 (2001) 天の思想史, 人文論集, Shizuoka University REpositor, 51, 1-22.
[5] 深川真樹 (2014) 董仲舒の天人相関論に関する一考察. 東洋文化研究, 16, 59-85,.
[6] 石平. 政治権力を正当化する「御用思想」としての儒教. PHPオンライン衆知. (オンライン) PHP研究所. https://shuchi.php.co.jp/article/4735?.
[7] 小林春樹 (2002) 古代中国の気象観・気候観の変遷と特色.東洋研究, 大東文化大学東洋研究所, 143, 61-92.
[8] 村田浩 (1991)  『准南子』と災異説. 中国思想史研究, 京都大学, 14, 65-86,.
[9] 下村周太郎 (2012) 中世前期京都朝廷と天人相関説. 史學雜誌, 史學會, 121, 6, 1084-1110.
[10] 菅原正子 (2011) 占いと中世人, 講談社.
[11] 中山茂 (1993) 占星術 その科学史上の位置, 朝日新聞社.
[12] NHK (2020) いにしえの天文学者安倍晴明. コズミックフロント☆NEXT. 2020月11月26日放映.
[13] 藤原咲平 (1951) 日本気象学史.岩波書店.

2021年11月29日月曜日

天人相関説と気象学(1)中国での 天人相関説

中国で始まった天人相関説は、政治を含めて当時の人々に大きな影響を与えた。そのことは「古代中国での気象学(1)初期の考え方」や「古代中国での気象学(2)天人相関思想」で簡単に説明した。しかしそれだけではなく、天人相関説は日本にも伝わって今でも日本人の生活に影響を及ぼしている。

古代から中世にかけての中国や日本の思想史に関する書物は数多くあり、ここで改めてそれらの思想を網羅するつもりはない。しかし、当時の気象災害などに対する考え方は当時の思想とも強く結びついており、上記の「古代中国での気象学(1)・(2)」と一部重複するかもしれないが、気象災害や天文現象が天人相関説などと結びつけられてどう捉えられていたのかを見てみたい。

なお、天人相関説では上記ブログで説明したように、天と地上(人間界)が双方向で影響し合う。しかし「アリストテレスの二元的宇宙像」でも述べたように、西洋の古代ギリシャ自然哲学では、人間を含む地上界は天上界に影響を及ぼすことはない。その後のキリスト教では、自然災害は人間の行為に対する神による罰や試練と捉えられることがあった。その場合は神が自然をそのように操作しているのであって、神と自然は別物であった。東洋では自然神という言葉があるように、影響を及ぼす主体である天は自然は明確には分けられず、渾然としているようである。

1 漢時代より前の災害に対する考え方

1.1 古代

人類が農耕生活を始めるようになって以来、農業生産をはじめとして人間の生活は天候状態に左右されることが極めて大きくなった。古代中国では天文の動きから天候の推移を予測しようとした。そしてそれは天文を利用した占いへと発展した。経書の一つ「周易」は、天文観測の結果にもとづいて今後の吉凶を説いた占いの書である [1]。当時の異常気象による不作は即飢饉へとつながったので、これから雨が降るかどうかというようなことは、当時の人々にとって極めて重要な問題だった。そのため、洪水や干ばつの予測のためにさまざまな自然現象に基づいた占いによる天候予測が試みられた。天候予測は収穫の豊凶占いでもあった [2]。

また、古代中国の音楽は12の音階で出来ていた。この音階は律管という竹でできた楽器が出す音律(音色)に基づいており、この12律が定まるのは天地の風気が正しい時のことと考えられていた。そのため、この音色で天気や気候を占ったり確かめたりすることも行われた(律管候気) [2]。また、この音律の数と暦が融合して24節季ができたという説もある。

古代の気象占いは動物の骨や亀の甲羅に碑文の形で残っている。 多くの場合、これらの碑文は雨がたくさん降るかどうかなどが神への質問の形になっている [3]。日本でも古くから太占(ふとまた)と呼ばれた鹿の骨を使った占いや亀卜(きぼく)と呼ばれる亀の甲を使った占いが行われ、遺跡からその跡も見つかっている [4]。

1.2 殷・周時代

古代中国では「天」は意思を持ち、その子である「帝」は神として、雨を降らことも干ばつを起こして飢饉をもたらすこともでき、自然と人事にたいして絶対的な権力を持っていた [4]。その古代中国の王朝「」で信仰されていた帝は、自然神の一つでありながら別格の存在であり、殷の王はその直系の子孫であるとされた [4]。

前1027年に殷を滅ぼした「」王朝は、帝に代わって「天」を信奉した [4]。周では殷の王権を奪ったことを正当化するために、殷の滅亡を天によって下された命とした。そして、天は徳のない統治者から位を奪い、有徳者に位を与えて統治者とすることを唱えた。これが天命説となった [4]  [5]。つまり、天は自然の万物、万象の絶対的支配者であり、天は人間の世界から誰かを自分の「子」として選び、その子が「天子」として人間世界を支配するということである。そしてその天からの支配権の委譲が「天命」と考えられた。

しかし天は直接には語らない。そのため、洪水や干ばつなどの天変地異は、天が地上における有徳の政治が失われた状態を見てそれらを引き起こしたと考えられた [4]。つまり天命とは、天命を受けた者は統治者となるが、その統治者に倫理的・政治的な過失があれば、天は災異によって警告する。統治者がそれを改めなければ天は最終的に統治者の命を奪って滅亡させ、別な有徳者に天命を授けて次の統治者となすというものだった [5]。これは「易姓革命」とも呼ばれている [6]。

また周王朝の「周礼」では、当時既に自然現象に基づいた占いが行われたとされている。日食、月食、五惑星(木星・火星・土星・金星・水星)の会合などの天文現象から吉凶を占うだけでなく、気象(雲や風や虹、太陽の周囲に現れる暈)からも水害や干ばつなどを予測し、諸国の農作物の豊穣・凶作を占うことが行われた [1]。

2 災異説

しかし、天は王朝の交替をも決定するという思想は諸刃の剣であり、「天命」は徳ある者に政権を付与するが、徳を失った統治者からは政権を奪うことを正当化した。天は、統治者の権力の根拠であると同時に、それを制限する根拠ともなった [4]。例えば中国においては治水によって河川の氾濫による被害を防ぐことが統治者の大きな課題だった。そのため、後漢時代の辞書である「説文解字」によると「政治」という言葉は「正しい治水」から来ているとも言われている [1]。このため、洪水の発生は統治者が民を正しく治めることができなかった証拠とも見なされた。そのため天変地異が発生すると、それは正しい政治が失われたためと解釈された。この考えは「災異説」となっていった。 

上記の災異説の一つの典型的な考え方は、統治者が立派な徳を身につけて正しい政治を行えば、天はその徳を感じて雨、陽光、暖、寒、風という天の恵みを地上にもたらす。逆に統治者の徳を失って悪政を行うと、天は長雨や干ばつ、あるいは冷夏や暖冬などの天候不順、地震や水害・虫害・疫病などの災害異変を起こすというものである [1]。災異説は儒教に取り入れられたため広く流布し、後述するように前漢の董仲舒によって政治へと反映されていくことになる。

3 陰陽説

古代中国で広く信じられていた自然観は陰陽説である。これはいろんな物を陰と陽に分類し、両者の生成消滅のバランスで世界が成り立っているという考え方である。陽を代表するものには天、男、太陽などが挙げられ、陰を代表するものには地・女・月などが挙げられる。両者は対等で物事の裏表であり、優劣があるわけではなく、またどちらかだけでは世界は成り立たない。四季の循環もその陰陽説で生まれるとされており、草木は陽気の兆す春に芽吹き、陽気の最も盛んな夏に生育し、陰気と陽気とが交わる秋になると実を結び、陽気が衰えて陰気が満ちる冬に枯死する。そして、それらは絶えず繰り返されると考えられた [1]。

これに、中国戦国時代の思想家だった鄒衍が、世界は木、火、土、金、水の五つの要素から構成されるという五行説を加えて、「陰陽五行説」が完成した。この考え方は儒教に大きな影響を与えた。

陰陽説を表す太極図

4 漢時代前後の災害に対する考え方

天人相関説は災異説、陰陽五行説などと融合して儒教の一部となり、その儒教は当時の政府に取り入れられ、いわば「国教」となった。当時の天人相関説に関する代表的な書物や人物の考え方を紹介する。

4.1 呂氏春秋

呂氏春秋」は、秦の丞相であった呂不韋(? ~紀元前235年)が編纂して紀元前239年に完成したとされている。これは各季節をさらに「孟」、「仲」、「季」の順に3分してその気象や気候を記した12の「紀」からなっている。ただし夏至や冬至は真ん中の「仲夏紀」と「仲冬紀」に含まれており、現在の季節とは1か月程度ずれている。呂氏春秋によると、季節は陰陽五行説に基づいて陽気と陰気とが1年周期でその勢力が交代するために起こる。しかしその交代は因循的、規則的なものではなく、その時々の状況、特に夏至と冬至の頃の状況がその後の両者の勢力の度合いに影響して、続く冬や夏の動向が決まるというものであった。そしてその状況には天人相関思想に基づいて人間の振る舞いも含まれていた [7]。そのため、統治者はその頃の振る舞いに特に注意しなければならなかった。

4.2 淮南子

淮南子」は、高祖の孫で淮南王となった劉安(紀元前179年~紀元前122年)が、学者を集めて編纂させた思想書である。淮南子では災異説に基づいて統治者は天に従わねばならない。それを怠ると天に異変が生ずるとし、人間の行動は天すなわち自然にも作用すると考えられた。天地自然と人間との間は、「気」を通して相互に作用することで、天は統治者が人々に対して正しい政治をしているかどうかを判断するとされた。

例えば、「淮南子」の「天文訓」では、

人主之情,上通於天,故誅暴則多飄風,枉法令則多蟲螟,殺不辜則國赤地,令不收則多淫雨.

(統治者の感情は天に届いているので、暴力的な罰は多くの風を引き起こし、無駄な法律は多くの昆虫の害を引き起こし、罪のない人々を殺すことは国の荒廃をもたらす。そしてそれらを受け入れなければ多くの雨が降ることになる。)としている。

しかし、淮南子では災異に関する説話を引用しているだけで災異説を論理的に細密に構築しているわけではない [8]。淮南子での考えは陰陽思想に基づいており、清陽と重濁の気、つまり陽と陰の気が上下に分離、凝縮して天と地が形成されたとしている。そして、雨、雷、雪などの気象も天と地の気に起因する。洪水や早魅も陰陽の気の生み出す現象とした [4]。また、人間は自然にも作用するとしたため、ここに、雨乞いの原理がある。また、「淮南子」に既に二十四節気が記されていることは注目される。

4.3 董仲舒

前漢の儒学者、董仲舒(紀元前176年? ~紀元前104年?)は、統治者である皇帝の専制的権力を正当化するために、天人相関説という新しい統治のイデオロギーを提示した。その元となった考え方は災異説である。つまり、自然界の陰と陽とがバランスしているならば、雨は然るべき時に然るべく降り、風は然るべき時に然るべく吹く、その結果農作物は豊かに実る。ところが災害異変が発生して農作物に被害が出るのは、地上での悪政に天が鳴らした警鐘であるというものであった。つまり異常気象は政治を行う統治者に原因があるとするものである。

董仲舒は「春秋繁露」で次のように述べている。そもそも災害異変はことごとく国家の失政によって生ずるものである。国家に失政の兆しがあると、天は災害を起こしてその国に警告する(天譴)。天が譴告しているのに天の意を理解しようとしない場合、天は次に怪異を示してその国を威嚇する。それでも非を改めようとしなければ厳罰を下して国を滅ぼす[6]。

これは天は統治者の政治を監視して、統治者(とその側近)によって失政や悪政が起これば、天はそれを咎めて天変地異(天譴)を起こして、国家の存亡を警告するという政治理論となった。彼の天人相関説は、秦の始皇帝が苛烈な専制政治によって大勢の民を苦しめた後、わずか数十年で滅亡したことを踏まえて、統治者の権力が暴走することを防ぐためとも考えられている [1]。 

この天人相関説のため、統治者は天のもたらす自然現象にたえず注意して、天の意思にかなった政治に努めることが必要になった。そしてその天の意思をまず示すものは、彗星や新星などの天体の異常とされた。そのため、天体観測は統治者にとって重大事となった [4]。逆に彩雲などの祥瑞は、善政を布いた統治者への称揚と考えられた。また董仲舒は、人間の気は天の気へ影響するため雨を降らせることも止めることも人間の行為によって可能であると考えていた [4]。

4.4 天人相関説に基づいた漢時代の政治

前漢の時代は、董仲舒の災異説の影響を色濃く受けた政治が行われた。しかし、天の監視対象は統治者だけではなかった。漢の正史である「漢書」には

『人君』は『心』を正して『朝廷』を正し、『朝廷』を正して『百官』を正し、『百官』を正して『万民』を正し、『万民』を正して『四方』を正す。

とある [9]。つまり、君主は一人で政治を行うのではなく、有能な臣下を組織してその助けを得て政治を行うと考えられ、逆に言うと、天譴や災異は臣下の行動にも関連すると考えられた。

前漢の武帝の時代に太史令となった司馬遷は「史記」の「天官書」に天の異常現象のもつ意味を詳細に記述した占星の記事を収めた [4]。そのため、漢時代以は天に異変が起こると、その意味を天官書に従って調べて報告したり、対処したりする役職が置かれた。

前漢の考え方は後漢にもひきつがれ、天についても董仲舒の思想が正統的な位置を維持した。しかし、その思想の核にあった災異説は、五行説と融合してより神秘性の強い考え方となっていった [4]。例えば、災異を木火土金水の五行の循環を用いて解釈し、自然と人間の未来を予言しようとするものなどである。それは一種の宿命占星術のようなもので、怪しいものも含めていろいろな形で広がっていった。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] (編集)串田久治 (2020) 天変地異はどう語られてきたか. 東方書店.
[2] 田村専之助 (1977). 第五章気象予察. 中国気象学史研究下巻. 中国気象学史研究刊行会.
[3] Wang Pao-Kuan (1979) Meteorological Records from Ancient Chronicles of China. American Meteorological Society, Bulletin of American Meteorological Society, 313-318.
[4] 荒川紘 (2001) 天の思想史, 人文論集, Shizuoka University REpositor, 51, 1-22.
[5] 深川真樹 (2014) 董仲舒の天人相関論に関する一考察. 東洋文化研究, 16, 59-85,.
[6] 石平. 政治権力を正当化する「御用思想」としての儒教. PHPオンライン衆知. (オンライン) PHP研究所. https://shuchi.php.co.jp/article/4735?.
[7] 小林春樹 (2002) 古代中国の気象観・気候観の変遷と特色.東洋研究, 大東文化大学東洋研究所, 143, 61-92.
[8] 村田浩 (1991)  『准南子』と災異説. 中国思想史研究, 京都大学, 14, 65-86.
[9] 下村周太郎 (2012) 中世前期京都朝廷と天人相関説. 史學雜誌, 史學會, 121, 6, 1084-1110.




2021年10月11日月曜日

正野スクール:正野重方と日本の気象学者

 1 正野スクール

2021年にノーベル賞を受賞した気象学者の真鍋淑郎博士については、「気候学の歴史(8): 気候モデルと日本人研究者」でその業績を紹介したが、東京大学では正野重方教授の学生だった。そして真鍋博士を含む正野重方から教えを受けた気象学者たちは正野スクールと呼ばれている。

一般に、ある特定の指導者を中心にその人が開発した発想や手法をベースに研究を行っている研究者たちを「・・・学派」と呼ぶことがある。気象学でもヴィルヘルム・ビヤクネスを中心としたベルゲン学派(ノルウェー学派)、ライプチッヒ学派、ロスビーを中心としたシカゴ学派などが有名である。この学派という言葉は英語の「スクール」を訳したものである。そして日本では、1950年代から1960年代にかけて東京大学の気象学講座教授だった正野重方(1911 - 1969)が育てた気象学者たちのグループを「正野スクール」と呼ぶ。正野と正野スクールについては、本の「10-6 日本での数値予報の開始」で述べたが、今回、正野スクールについて補足する。

これは個人的な推測だが、正野重方が育てた大勢の気象学者のグループが「正野学派」ではなく「正野スクール」と呼ばれているのは、彼の薫陶を受けた気象学者たちがある特定の研究スタイルを取っているのではなく、かつ気象学の多くの分野に数多くの気象学者を輩出しているため、「学派」という呼び名では括れないからではないだろうか。

正野重方は将来に対する卓越した洞察力と数理物理学の豊富な知識を持っていた。ただ、それを活かした大気擾乱の理論化については、後述するようにアメリカの優れた気象学者チャーニーに先を越された。しかしながら、傑出した統率力と優れた教育手腕とによって、大勢の優れた気象学者を育てた。彼は57才という比較的若い年齢で亡くなったため、気象学者以外にはあまり名前が知られていないのではなかろうか。アメリカの気象学者レウィス(John M. Lewis)は正野のことを、あまり評価されておらず知られていない教育者「uncelebrated teacher」と呼んで、もっと国際的な評価を受けて然るべきだと述べている [1]。

正野スクールの気象学者たちは、日本だけでなく世界で活躍している。その中に今回ノーベル賞を受賞した真鍋淑郎氏も含まれている。真鍋氏のノーベル賞受賞には、同氏の卓越した能力と努力の結果であることは間違いない。しかし、科学の発達には研究資金や機材だけでなく、直接的あるいは間接的に師による薫陶や人材育成が大きく影響を及ぼすことが多い。正野が育てた気象学者たちは、戦後の日本と世界の気象学の発展と不可分の関係にある。


真鍋淑郎博士
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Crafoord_Prize_EM1B0732_(42329290061).jpg

2 正野重方と彼の研究

正野重方は東京帝国大学理学部で物理学を学び、その後同大学で地震波の研究を行い、1940年に博士号を得た。しかし、彼は寺田寅彦との交流によって気象学に強い関心を抱いていた。また日本の気象学の父、岡田武松にも興味を持っていた [2 ページ: 503]。当時、東京帝国大学には気象学教室はなく、彼は中央気象台(現在の気象庁)に就職した。

中央気象台で彼は、地震波に関する知識を活かして大気波の擾乱の研究を行った。1944年に東京帝国大学に気象学講座が開設されると、彼は中央気象台職員の身分を兼務したままその助教授に就任した。ちなみに当時の教授は中央気象台長の藤原咲平だった。

本の「10-3-2 傾圧不安定理論の確立」で述べたように、アメリカのジュール・チャーニーが、低気圧の発達の仕組みと関係が深い大気擾乱の傾圧不安定についての理論化を行い、1947年に論文として発表した。この論文は遅れて1949年に日本に入ってきた。この論文を見て、彼は地球物理学教室の研究室に駆込んできて、「見ろ!この論文は気象学を近代化している!」と興奮して叫んだ [2]。チャーニーによる成果は、コンピュータを使って気象予報を行う数値予報への新たな扉を開くものだった。それは正野が目指していたものでもあり、チャーニーに先に達成されてしまって彼は深く落胆した。しかし、彼は1949年に専任の教授となり、1950年に大気擾乱に関する一連の研究によって学士院賞を授与された。また1961年にはアメリカ気象学会の名誉会員にも選出されている。また現在、日本気象学会では正野賞を設けて「気象学及び気象技術に関し貴重な研究をなした若手研究者に対する顕彰」を行っている。

大気擾乱の理論化については先を越されてしまったが、本の「10-6日本での数値予報の開始」で述べたように、彼は日本の気象学のリーダーとして数値予報のために、大学や気象庁の有志による数値予報グループ(NPグループ)を組織して日本での数値予報の実現を推進した。そしてそれは日本での数値予報の実現に大きな役割を果たした。彼はそれらの活動を通して、気象力学に関連した多くの研究を体系化、総合化して気象力学を数理物理学に匹敵する数学的秩序と厳密な学問にしようとした [2 ページ: 505]。また、多くの若手と関わりを持つことによって、多くの優秀な気象学者を育てることにもなった。


3 正野スクールのメンバー

ここでは正野スクールのメンバーを [3]に従って紹介する。彼らは気象学界の中では有名な方々ばかりである。ただし、ひとえにメンバーと言っても正野との関係は様々である。

  • 磯野謙二(雲物理学):名古屋大学
  • 藤田哲也*(トルネード):北九州工科大学→シカゴ大学
  • 井上栄一(乱流):農業技術研究所
  • 小倉義光*(大気乱流):MIT→東京大学→イリノイ大学→東京大学→海洋研究所
  • 岸保勘三郎*(気象力学):プリンストン高等研究所→気象研究所→気象庁→東京大学
  • 増田善信(数値予報):気象研究所→気象庁→気象研究所
  • 村上多喜雄*(気象力学):気象研究所→ハワイ大学
  • 荒川昭夫*(大気大循環):気象研究所→カルフォルニア大学
  • 大山勝道*(ハリケーン):気象庁→ニューヨーク大学
  • 松本誠一(気象力学):気象研究所→気象庁→気象研究所
  • 森安茂雄(海洋学):気象庁→気象研究所→気象庁
  • 伊藤宏(数値予報):気象研究所→気象庁
  • 佐々木嘉和*(トルネード):テキサスA&M大学→オクラホマ大学
  • 笠原彰*(気象力学):クーラン研究所→テキサスA&M大学→シカゴ大学→米国大気科学研究所(NCAR)
  • 駒林誠(雲物理学):名古屋大学→気象大学校→気象庁
  • 加藤喜美夫(航空気象学):全日空
  • 栗原宜夫*(気象力学):気象庁→気象研究所→GFDL→海洋科学開発研究機構
  • 都田菊郎*(気象力学):シカゴ大学→東京大学→GFDL
  • 相原正彦(気象力学):気象研究所→気象大学校
  • 真鍋淑郎*(大気大循環):GFDL→海洋科学研究機構→GFDL
  • 武田喬夫(雲物理学):名古屋大学
  • 新田尚(気象行政):気象庁→WMO→気象庁
  • 柳井迫雄*(熱帯気象学):気象研究所→コロラド州立大学→東京大学→カルフォルニア大学
  • 松野太郎(気象力学):九州大学→東京大学→北海道大学→海洋科学開発研究機構
  • 廣田勇(気象力学):気象研究所→京都大学
  • 田中浩(気象力学):電波研究所→名古屋大学
  • 山岬正紀(熱帯気象学):気象研究所→東京大学→海洋科学開発研究機構
  • 近藤洋輝(気象力学):気象庁→世界気象機関(WMO)

*はアメリカに一時的でも移住した人たちであり、その多くはいわゆる頭脳流出組と呼ばれることがある。ただし岸保勘三郎については、研究拠点をアメリカに移したというよりも、2年間アメリカの気象プロジェクトに参加したため*印がつけられていると思われる。

正野重方はどちらかというと控えめで物静かな性格だったとされているが、誠実で親しみやすいだけでなく、弟子の研究テーマについては自由に考えさせて個人の自発的興味を大切にしていた [2]。正野の弟子への対応について、前述のアメリカの気象学者レウィスは藤田哲也の例を挙げている [2]。藤田は北九州の明治専門学校(現在の九州工業大学)を出ており、正野の学生ではない。藤田は自分の強い興味から明治専門学校で助教授をしながら雷雨の研究を行っていた。彼は自分の研究報告を自分で英訳してシカゴ大学の気象学者ホレス・バイヤースに送り、彼から招聘を受けた。しかし、留学のためには博士号が必要だった。彼はそのために毎週週末に正野の指導を乞うて、博士論文を完成させて博士号を得た。これはいわゆる通常の大学院の博士課程を出て博士号を取るコースではなく、当時としては異例のことと思われる。これは正野の懐の深さと面倒見の良さを示している。

その後、藤田哲也はアメリカで竜巻強度のスケールであるフジタスケールを作っただけでなく、ダウンバーストというそれまで知られていなかった全く新しい現象を発見して、世界の空港にドップラーレーダーを配備するきっかけを作った。これによってダウンバーストによる航空機事故はほぼ根絶され、藤田は航空機の安全な運行に対して絶大な貢献をした [4, 27章 ダウンバーストを見抜く]。

正野はこのように誠実かつ親身に接しながら弟子たちの自主性を活かして育てた。また数値予報のような大規模かつ複雑な問題については、個人がそれぞれ研究するのではなく、グループで討論しながら研究した方が良いと考えて前述のようにNPグループを設立して指導を行った。これらが上記のような大勢の有名気象学者を育てたことにつながったと思われる。


4 正野と頭脳流出組

昭和30年頃から日本人若手気象学者がアメリカに渡り始めた。彼らはアメリカで素晴らしい成果を上げたため、「頭脳流出組」と呼ばれることがある。戦後すぐの日本は食べるだけでも精一杯で、優秀な若手研究者が大勢いても十分な研究環境が整っているとは言い難かった。当時アメリカは冷戦でソビエト連邦と科学技術を競っていた。その中でアメリカは気象改変という思惑もあり、気象分野にも多くの資金が投入されて研究環境が整えられていた。そういった政治の面は別としても、アメリカの豊かな研究環境は当時の日本の研究環境と比べると格段の魅力があった。

正野は若い研究者が海外へ出て研究することを後押しした。彼は若い研究者たちに対して、自分なりの経験をして独自の道を行って欲しいという思いと、日本人の気象学者たちに国際的な広い世界の中で育つことを期待していた [2 ページ: 508]。ちょうどそういう時期に正野は1954年に東京でユネスコによる台風に関するシンポジウムを開催した。これで出来たつながりなどをきっかけに小倉義光はジョン・ホプキンス大学へ行き、笠原彰と佐々木嘉和はテキサス A&M大学へ行った。

1960年にやはり東京で「国際数値予報シンポジウム」を開催した。このシンポジウムは数値予報の実現に向けて大きな進歩をもたらした。これに大勢の日本人の若手研究者が参加した。このシンポジウムは、日本人の若手研究者に初めて世界的なレベルの研究者たちと交流を持つ機会を与えただけでなく、アメリカの研究者も日本人研究者の優秀さに気付き始めた。

この国際数値予報シンポジウムの前後に、このブログの「気候学の歴史(8): 気候モデルと日本人研究者」で述べたように、大循環モデルの開発のために、地球物理学流体力学研究所(GFDL)のスマゴリンスキーは真鍋淑郎を招聘し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)のイェール・ミンツは荒川昭夫を招聘し、国立大気研究センター(NCAR)のフィリップ・トンプソンは既にアメリカにいた笠原彰を招聘した。他にも上記*印の大勢の日本人研究者がアメリカへと渡った。そして彼らは真鍋を初めとして気象学史に残る顕著な成果を上げている。

真鍋博士は米国国籍の取得理由の一つとして、「私には(他の多くの日本人のように?)協調を重んじる生き方はできない」とインタビューなどで述べられているが、私はこれを額面通りには受け取っていない。真鍋博士が渡米した頃のアメリカの研究所は、GFDLを含めて世界各地からいろんな人々を受け入れていた。アメリカのもともとのそういう風土もあって、研究所は厳しい競争社会だったのではなかろうか。しかし、GFDLのスマゴリンスキーは、真鍋博士を含む日本人研究者について、その勤勉さだけではなく研究者相互の協力や協調をGFDLで広げるのに貢献したと述べている [1]。日本人気象学者たちは、アメリカの研究所で他の研究者に協調性などについて影響を与えた。アメリカに渡った日本人気象学者たちは、気象学に対して国際的な貢献をしただけでなく、アメリカの研究所の雰囲気にも好影響を与えたのかもしれない。

ヨゼフ・スマゴリンスキー
https://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Smagorinsky

いわゆる頭脳流出組と呼ばれる人々について、正野重方は自身が第二次世界大戦とその後の研究環境の困窮を経験して、若い研究者にはそういう思いをさせたくないということと、若い貴重な時期にアメリカの自由な研究環境で思いっきり彼らの能力を開花させてあげたいと思ったのではなかろうか?正野重方は戦後期の東京大学の気象学講座の教授及び日本の気象学界のリーダーとして、自身の研究を発展させただけでなく、大勢の日本人研究者に機会を与えることによって世界の気象学の進歩に貢献したといえる。

今回の真鍋淑郎博士のノーベル賞受賞が、正野重方の再評価にもつながれば良いと思っている。

参照文献
[1] John Lewis (1993) Meteorologists from the University of Tokyo: Their Exodus to the United States Following World War II. Bulletin of the American Meteorological Society, 74, 7, American Meteorological Society.
[2] John Lewis (1993) 正野重方―The Uncelebrated Teacher― , 天気, 気象学会, 40, 503-511.
[3] 古川武彦 (2012) 人と技術で語る天気予報史. 東京大学出版会.
[4] 堤之智 (2013) 嵐の正体に迫った科学者たち. 丸善出版.

2021年10月8日金曜日

近年の秋の気温上昇について

 歴史とは異なるが、近年の気温状況を少し見てみる。

10月7日に気象庁は、2021年の10月9日から10月15日までの予想気温を発表した。それによると、平年と比べて気温が高くなる可能性を、以下の図のように全国どこでも紫の70%以上と予想した。しばらくまだ平年より暑い日が続きそうである。

気象庁が2021年10月7日発表した10月9日~10月15日の予想気温(平年より高くなるか低くなるかの確率)
https://www.jma.go.jp/bosai/map.html#5/34.5/137/&elem=temperature&pattern=P1M&term=1&contents=season(2021年10月8日現在)

地球温暖化が叫ばれているが、近年秋になってもなかなか涼しくならないと実感されている方はいないだろうか?それで最近56年間(1965~2020年)の日本の15地点の季節別の気温上昇率を調べてみた[注]。これらの地点は気象庁が発表している日本の平均気温の計算に用いられている地点である。

最近46年間(1965~2020年)の季節別の日本の15地点の気温の上昇率(℃/10年)
赤矢印は15地点の平均

その結果、図に示すように各地点で気温は確かに上昇しているが、秋の気温だけ上昇率が高い地点が多いことがわかる。また、それぞれの季節の右端の赤色の「平均」の赤の棒グラフ(矢印)を見ると、平均の気温上昇率は他の季節は0.25℃/10年程度であるが、秋だけ0.31℃/10年であることがわかる。これは秋の時期に夏に近い気温の期間が長くなってきていると言えるかもしれない。また体感的にはいろいろな感じ方があろうが、一つの感じ方として秋が短くなってきているということになるかもしれない。皆さんはそう感じたことはないだろうか?

実はこれを裏付けるように、Urabe and Maeda (2014)も1999~2012年の平均で見て9月と10月の気温が、平年値より0.2~0.3℃高くなっていることを示している[1]。この高まりは6月を除いて他の月では見られない。彼らの論文はこの期間に「夏と秋の気温」と「冬と春の気温」の差が大きくなっていると指摘している。これは日本付近だけの状況のようである。

この気温差が大きくなる原因について、Imada et al. (2017) は、数値モデル計算のアンサンブルによって、12月から5月までは東ユーラシアから日本にかけての低気圧が気圧をより下げることによって寒気の流入が増えて温暖化を抑え、6月から11月までは東アジアから北アメリカにかけての高気圧がより発達することによって温暖化を高めている可能性を示唆している[2]。これらは他の様々な要因の一部である可能性もある。

いずれにせよ、近年秋がこれまでより涼しくなくなってきていることは事実のようである。

[注]計算には気象庁がホームページで公表している月平均気温を用いた。規定の観測要件を満たないためにフラグがついたデータもそのまま用いている。上昇率の計算にはnon-parametric Sen’s slopeを用いた。

参照文献

[1] Urabe, Y., and S. Maeda, (2014) The relationship between Japan’s recent temperature and decadal variability. SOLA, 10, 176−179, doi:10.2151/sola.2014-037.
[2] Imada Y., et al., (2017) Recent Enhanced Seasonal Temperature Contrast in Japan from Large Ensemble High-Resolution Climate Simulations. Atmosphere, 8, 57; doi:10.3390/atmos8030057.




2021年9月9日木曜日

1783年のラキ火山噴火の大気への影響(6) 浅間山噴火の影響と全体のまとめ

 6 浅間山噴火の影響と全体のまとめ

6.1 浅間山噴火の影響

ラキ火山噴火が起こった1783年は、日本では「夏のない年」と言われ、夏が非常に涼しくて湿っていたため稲作などに歴史的な大凶作をもたらした。これは天明の大飢饉として知られている。全国で92万人が餓死し、人肉相食んだとも言われるが、各藩は幕府に窮状を知られたくないために実情を隠したとも言われ、正確な数字はわからない。

日本では、18世紀後半には験温器や寒暖計という名称でオランダから日本に温度計が持ち込まれていたが、幕府の天文方が天文観測用に測定器を用いた気象観測を開始したのは、本書「7-1-3 江戸後期の気象観測」で述べたように19世紀に入ってからで、それ以前の系統的な観測記録はない。しかし、長年記録された諏訪湖の凍結日と後年の江戸の気温のデータの関係から、1784年から1785年にかけての冬季の気温は、1768年から1798年の冬季の平均気温より1.2°C低かったと推測されている [14]。

天明の大飢饉の絵(Wikimedia Commonsより)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Great_Tenmei_famine.jpg?uselang=ja

日本の長野県にある浅間山は1783年5月から8月にかけて断続的に噴火し、特に8月の爆発的噴火は大きかった。この噴火が日本での冷夏などの異常気象の一因となった可能性が示唆されている。しかし、この噴火によって成層圏に注入された硫酸エアロゾルは3.5 Mt [15]、降下堆積物の量は0.17 km3 [16]と推定されている。これはラキ火山のそれぞれ約100 Mtと0.4 km3に比べると遙かに小さく、またそれによる成層圏エアロゾルの光学的厚さも気候に影響を与えるほどではなかったと推定されている [15]。そのため、浅間山の噴火による気候への影響は大きくなかったと考えられている。

6.2 火山噴火によるリスク

しかしながら日本は有数の火山国である。噴火のタイプはラキ火山とは異なるかもしれないが、三宅島の噴火では雄山が2000年から2004年にかけて1日あたり最大で0.01~0.05 Mtの二酸化硫黄の火山ガスを放出し続けたことがあった。夏季には南風に乗って関東の内陸で硫黄臭騒ぎもあった。2014年の御嶽山のように火山噴火との直接の遭遇による被害も怖いが、火山は噴火によってはこれまで記述してきたように、さまざまな被害を長期にわたって広範囲に起こし得る。

ラキ火山噴火による気候への影響についても、未だにまだよくわかっていない部分がある。例えばラキ火山が噴火した後、1783年の夏はなぜヨーロッパで猛暑になったのか?それはヘイズと関係があったのか?あったとすれば、 ヘイズのエアロゾル成分は日射に対してどう影響(吸収それとも反射)したのか?大規模なヘイズは放射への影響を通して地球規模での大気循環パターンに影響を与えたのか?などである。大規模な火山噴火はこれからも起こるかもしれない。ラキ火山噴火の自然への影響は決して過去のものではない。

1.初めに」で述べたように、ヨーロッパの各国政府は、ラキ火山噴火のような噴火が発生した場合のリスク軽減に関心を示している。噴火による気候や大気循環への影響を推定できれば、人間の健康、農業、生態系、航空便に対するラキ型噴火の影響をある程度評価することができる。そして、その中には事前や事後に速やかな対策を講じることによって影響をある程度緩和できるものもある。そのためか、ヨーロッパを中心に現在でも1783年のラキ火山噴火に関する研究発表は多い。

自然界のメカニズムは複雑でかつつながっており、さまざまな所に及ぶ火山噴火の影響の全容は必ずしもわかっていない。例えば1991年のフィリピンのピナトゥボ火山噴火の際には冷夏になっただけでなく、それによって生成された成層圏エアロゾルによって成層圏オゾンに変動が見られ、また直達日射は減ったものの散乱日射が増えたため、通常は陰になっていた葉の光合成量が増えて、自然界における二酸化炭素の吸収が増えたとも言われている。

6.3 最後に

1991年のピナトウボ火山噴火の当時とは異なり、現在はエアロゾルや大気汚染に関する世界規模の観測網が構築されている。設置場所は離散的であるが、都市域には大気汚染の観測地点が設置され、またSKYNETやAERONETのように上空のエアロゾル全量や鉛直分布を地上から光学的に推定する測定器が世界規模で展開されている。逆に宇宙からMODISやCALIOPなどの衛星に搭載されたセンサーで大気中のエアロゾル全量や鉛直分布が光学的に推定されている。

宇宙からの衛星観測は地域的に見ると連続的ではないが、場所を変えながら地球を周回するので、1か月などの平均をとると全球の観測が行える。衛星による観測は地上での直接観測と組み合わせることによって、その精度を上げることが出来る。過去の噴火状況を調べることも重要であるが、この後もし大規模な噴火が起これば、その気候への影響のメカニズムに関する知識は現在より大幅に進展すると思われる。

火山噴火ではないが、私は1997年秋のエルニーニョによって起こった東南アジアでの大規模森林火災発生時に、インドネシアに滞在したことがある。その時は森林火災によるヘイズ(煙霧)で地上でも物が霞んで視程は1 kmもなく、空は晴れているのに太陽がときおりぼんやり薄く見える状態だった。しかし何より困ったのは、呼吸する際の焦げ臭い匂いであった。ヘイズは数千kmという広域に広がっているので、逃げることも出来ずマスクをしてもほとんど防ぎようがなかった。おそらくラキ火山のような大規模火山噴火が起これば、日本でも同様な状態になる場合があるのではないかと思っている。

1997年のインドネシア森林火災時のヘイズ(カリマンタン島のバンジェルマシン空港にて筆者撮影。1997年10月24日)

火山については、数十年から数百年、あるいは数千年に一度という活動頻度のものも多く、その活動についてまだよくわかっていないことが多い。日本でも今後大規模火山噴火がないとは言い切れないので、火山活動による大気の影響について知っておくことは有用だと思われる。

【2023年11月追記】過去2000年間の人類に危機的な影響を与えた火山噴火(西暦540年代、1450年台、1600年台)では、成層に注入されたエアロゾルはこれまで推定の約半分だったという論文が発表された。これは成層圏エアロゾルの気候への影響がこれまで考えられていたものより大きく、特に成層圏へ火山ガスが上がりやすい高緯度の火山噴火では、気候に複雑な影響を与える可能性を指摘している[17]

1783年のラキ火山噴火の大気への影響(1) 」でフランクリンが指摘したように、火山噴火による気候への影響には時間差があるので、ある程度対策が可能である場合がある。今後も特に高緯度での火山噴火には注意を払う必要があると思われる。

(このシリーズ終わり)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 田家 康(2016)異常気象で読み解く現代史. , 日本経済新聞社.
[2] Demaree R.G., Ogilvie E. J.A.(2001)Bons Baisers d'lslande: Climatic, Environmental, and Human Dimensions Impacts of the Lakagfgar Eruption (1783-1784) in Iceland. (編) Jones D.P., ほか. History and Climate Memories of the Future?, Springer Science+Business Media, LLC, 219-246.
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[4] Thorvaldur Thordarson and Stephen Self(2003)Atmospheric and environmental effects of the 1783-1784 Laki eruption: A review and reassessment, American Geophysics Union, Journal of Geophysical Research (D1), 108.
[5] Grattan J. et al.(2005)Volcanic air pollution and mortality in France. Comptes Rendus Geoscience, 7, 337.
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[7] Dawson G Alastair, Kirkbride P Martin, Cole Harriet(2021)Atmospheric effects in Scotland of the AD 1783-84 Laki eruption in Iceland, SAGE Publications, The Holocene, 31, 5, 830-843.
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[14] Barbara M. Gray(1974)Early Japanese winter temperatures, Royal Meteorological Society, Weather, 29, 103-107.
[15] Zielinski G. A. et al.(1994)Climatic Impact of the A.D. 1783 Asama (Japan) Eruption was Minimal: Evidence from the GISP2 Ice Core.  the American Geophysical nion, Geophysical Research Letters, 21, 22, 2365-2368.
[16] 安井真也, 小屋口剛博 , 荒牧重雄(1997)堆積物と古記録からみた浅間火山1783 年のプリニー式噴火, 日本火山学会, 火山, 42, 4, 281-297.
[17] Andrea Burke et al., (2023) High sensitivity of summer temperatures to stratospheric sulfur loading from volcanoes in the Northern Hemisphere, PNAS, 120, 47, https://doi.org/10.1073/pnas.2221810120



2021年9月4日土曜日

1783年のラキ火山噴火の大気への影響(5) 噴火の社会への影響

5. 噴火の社会への影響

5.1 同時期の災害

ヨーロッパにおいては、1783年は自然災害について異常な年だった。以下に示すさまざまな自然現象が起こり、人々に対して自然に対する関心の高まりと混乱をもたらした。

ヨーロッパの地震

1783年2月5日19時頃にシシリー島のメッシーナやイタリア南部のカラブリア州を中心とした大地震が起こった。この地震による家の倒壊などにより約2万人が亡くなったとされている [2]。このニュースは当時の新聞を通じて全ヨーロッパへ誇張気味に伝えられた。さらにナポリ近くのベスビオス火山や地中海のブルカノ島とストロンボリ島の火山も同時期に噴煙を上げたため、何かの大災害がさらに起こるのではないかと人々は恐れた [2]。人間はいつの時代も未知の現象に遭遇すると、その不安を和らげるためにその原因を知ろうとする。もちろん当時は地震の科学的なメカニズムなどはわからないので、同時期に起こった火山の噴火や激しい雷雨などがこの地震が起こった原因の憶測として飛び交った。

同年の7月6日に、今度はフランス西部からスイスにかけての地域、フランシュ=コンテ、ブルゴーニュ、ジュネーブで地震が起こった。7月30日には北アフリカ地中海沿岸のトリポリで地震が起こった。8月7日から8日にかけて今度はアーヘンなど北フランスを中心とした地域で地震が起こった [2]。これらの地震は大きくなくそれほど被害はなかったが、イタリア南部の地震の記憶がまだ生々しかった時期だった。しかも、この頃には既にヨーロッパをヘイズが覆っていたがアイスランドの火山噴火はまだ伝わっておらず、その原因は全く不明なままだった。ヘイズの原因としていろいろな憶測が流布しており、後述するようにヘイズの原因の一つとしてこれらの地震も挙げられた。

流星

この年は流星が多発したことで知られている。頻度だけでなく、いくつか大きな流星も出現した。その一つは1783年8月18日のもので、イギリスのシェトランド諸島からドーバー海峡までイギリス上空を太陽とほぼ同じ大きさの光彩を持った隕石が長い尾を引いて通過し、その後に爆発して7-8個に分裂した[2] [9]。さらに10月4日の午後7時過ぎにも月とほぼ同じ大きさの赤い輝きをもった流星が観察された [9]。中世からこういった現象は悪いことが起こる予兆と捉えられることが多く、その後科学の進歩で少しずつ天体のことがわかってきていたが、まだ中世的な考えは払拭されていなかった。これらの流星の出現は、人によってはさらに悪いことが起こる予兆として捉えられた。

1783年8月18日に現れた流星の絵
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Meteor_of_August_18th,_1783_as_it_appeared_from_the_North_East_corner_of_the_terrace_at_Windsor_Castle.jpg

アイスランド南西沖での火山噴火

ラキ火山噴火と連動しているかどうかはわからないが、同じ年の1783年5月にアイスランド南西の海洋上で海底火山(Reykjaneshryggur)の噴火が起こり、激しい噴煙が上るとともに島が一時的に形成されたようである。この噴火と島は1783年5月22~24日頃に船員が目撃している [2]。この噴火は8月15日まで続いた [6]。アイスランドの住民も4月20日頃から遠くの海洋上での噴火を目撃していた [2]。

疫病

当時はこの本のコラム「ヒポクラテスの生気象」で述べたように、ギリシャの哲学者ヒポクラテス以来の病気は天候や地理によるものという考えが広まっており、病気(家畜の病気を含む)と気象との関係を研究するため、パリ医学アカデミーやオランダの医療通信学会が気象観測網を構築していた。しかし、これらは必ずしも観測基準や観測手法の統一がなされておらず、あまり精度の良いものではなかったようである。

1783年の夏にヘイズが広がるとこの大気現象と病気との関係が注目された。当時の気温と死亡者数に関する研究によると、夏季の高温のピークと死亡者数のピークとの関係には1か月程度の時間差があり、熱波による熱中症などの直接的な死者はそれほど多くはなかったと考えられている。むしろ高温によって蠅、蚊、シラミなどが増加して、赤痢、腸チフス、マラリアなどの感染症が蔓延したり、肉が腐敗しやすくなった結果、徐々に死亡者数が増加したと考えられている [6]。

一方で、冬の厳寒による気温の低下は直ちに死亡者数の増加と結びついた。もちろん凍死なども増えただろうが、老人や虚弱体質者から肺炎、気管支炎、インフルエンザにかかりやすくなったと考えられている。あるいは人々が寄せ合って暖を取ろうとした結果、シラミを媒介する発疹チフスが広がったとも考えられている [6]。

5.2 人々の反応

この時代、いわゆる啓蒙思想が盛んになりつつある時代で、これに啓発された多くの一般の人々が自然現象を観察して記録し、科学界も活発な議論を行っていた [10]。長期にわたる広範囲のヘイズの出現は、西ヨーロッパの人々に環境と社会に関する大きな関心を引き起こした。自然科学者たちや一般の人々にとってこの長期にわたって持続するヘイズの原因は当時の議論の的になった。

ところが6月8日のラキ火山噴火がヨーロッパ各国に伝わったのは遅かった。噴火のニュースは9月1日にようやくコペンハーゲンに伝えられ、それは9月11日にスウェーデンのストックホルムへ伝わり、9月15日にドイツのブレスラウへ、9月20日にウィーンに、9月22日にブリュッセルとサンクトペテルブルグに、9月30日にパリへ、10月1日にベルン、ベニスへようやく伝わるという具合だった [2]。多くの地域ではそのニュースの到着はヘイズの発生から3か月以上経っており、しかもその時点ではヘイズの最盛期は過ぎていた。

そのため、この噴火はヘイズの原因となかなか結びつかず、ヘイズの原因についてさまざまな憶測が飛び交った。情報がない中で原因として有力視されたものの一つが、2月にイタリア南部カラブリア州で起こり2万人が死亡したとされる大規模な地震だった。それによって地中からの放出されたガス状の物質がヘイズの原因と噂された。

今日から見ると地震と大気現象であるヘイズはなかなか結びつかないが、当時はまだギリシャの哲学者アリストテレスによる自然哲学が有力視されていた。「気象予測の考え方の主な変遷(1)古代ギリシャ時代」で述べたように、自然現象を引き起こす原因の一つとして彼が提起したexhalation(蒸発気もしくは蒸発物と訳される)のようなものが、地震によって地中から立ち上って大気現象を起こしたと考えても、それほど違和感はなかったと思われる。

1755年11月1日の万聖節の日にポルトガルのリスボンで大地震(リスボン地震)が起こり、数万人が亡くなったとされている。当時敬虔なカトリック信徒が多いと言われていたリスボンの壊滅的な被害は、近代的な啓蒙思想のヨーロッパでの普及を後押ししたとも言われている。この地震の前にヨーロッパの一部でヘイズが起こったことが知られていた。このヘイズはたまたま1755年10月から始まったアイスランドのカトラ火山の噴火によるものである可能性がある [2]。しかし、リスボンでの大地震の原因も一部ではその前に起こったヘイズと関連付けて考えられていた。

それ以外にも、ヘイズの原因として夏の異常高温によって上部地殻から蒸発した物質によるものという説や、泥炭の燃焼、大気電気、流星の破片、彗星の尾の破片、太陽からの放出物などのさまざまな説が流布した [5] [8]。当時、アイスランド以外でヘイズの原因を初めてラキ火山の噴火と結びつけたのはフランスのモンペリエのロイヤルアカデミーで8月7日に講演した自然科学者マーグ・ド・モントレドンとされている [5]。

地球環境の長期監視の重要性」の所でも少し触れたが、何か異常現象が起こった際にその原因を的確に推定するには、平常時からのデータの蓄積が重要である。その上で、それに基づいて何がどう異常なのかを把握し、それを科学的な知識を総動員して合理的に原因を判断する必要がある。そうでなければ、いろんなあやふやな憶測が飛び交うことになる。現在、世界気象機関(WMO)が各国と協力して世界規模で地球環境の観測を長期にわたって継続している[13]。しかし、平常時にはその必要性についてなかなか理解を得られにくい場合がある。

5.3 フランクリンの活動

アメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンは自然科学者としても有名である。彼は当時駐仏アメリカ大使でパリ郊外に滞在しており、1783年夏のヘイズ(ドライフォッグ)を受けて、その原因について後述するようにいくつかの考察を行った。彼はこの持続する乾燥したヘイズの原因と影響について、イギリスの友人で医師であったトーマス・パーシバルに宛てに手紙を書いた。パーシバルは1784年12月22日にマンチェスター文学哲学協会(Manchester Literary and Philosophical Society)でこの手紙を読み上げている。その後この内容は、協会の定期出版物(Memoirs)の中で出版された。

この手紙の中でフランクリンはヘイズの原因についてアイスランドの火山噴火によって引き起こされた可能性を挙げるとともに、これによる乾燥した霧による日射の減衰が1783年から翌年にかけての厳冬の原因であった可能性を指摘している。彼は火山噴火が気候に影響して厳冬を引き起こす可能性があることを指摘した初めての人物だった。現在では1991年のピナトゥボ火山噴火によってその気候への影響がはっきりしたものの、当時において「火山の噴火が気候に影響を与える」という考えは極めて先見の明があった。そしてそれだけではなく、もしそうであれば、大規模火山噴火の翌年の冬は厳冬になるので、それに供えるべきという季節予報を用いた防災も提唱した。彼はこう述べている [9]。

歴史に記録されている厳しい冬に、今回と同様の持続的で広がった夏の霧があったかどうかを調べる価値はあるようである。 もしそうならば、ひきつづく厳しい冬と春の凍った川の融解によって起こるであろう被害を予想し、最後に起こる被害の影響を避けて自分自身を守るために、実行可能な措置をできるだけ講じることが出来るかもしれない。(拙訳による)

4.1 天候や気温への影響」で述べたように、1783年から翌年にかけて厳しい冬によって、飢饉や凍死が起こり、また大量の積雪や氷結した河川は1784年の春に一斉に溶融したため洪水が起こった。彼はそれらを事前に備えることによって防止できると述べている。

社会への影響の所でさまざまな原因説があったことを述べたが、実はフランクリンはヘイズの原因として、この年に多発した流星による隕石か彗星による影響の可能性も挙げている。これは地球外からの影響が気候変動の原因として考察されたおそらく最初の例とされている [9]。現在でも、例えば太陽から出る宇宙線が雲粒子の核になる粒子に影響を与えているのではないかという研究がある。そういった発想の先駆けとなるものであった。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 田家 康(2016)異常気象で読み解く現代史. , 日本経済新聞社.
[2] Demaree R.G., Ogilvie E. J.A.(2001)Bons Baisers d'lslande: Climatic, Environmental, and Human Dimensions Impacts of the Lakagfgar Eruption (1783-1784) in Iceland. (編) Jones D.P., ほか. History and Climate Memories of the Future?, Springer Science+Business Media, LLC, 219-246.
[3] Stothers B., J. A. Wolff, S. Self, and M. R. Rampino(1986)Basaltic fissure eruptions, plume height and atmospheric aerosols, American Geophysics Union, Geophysics Research Letters, 13, 725-728.
[4] Thorvaldur Thordarson and Stephen Self(2003)Atmospheric and environmental effects of the 1783-1784 Laki eruption: A review and reassessment, American Geophysics Union, Journal of Geophysical Research (D1), 108.
[5] Grattan J. et al.(2005)Volcanic air pollution and mortality in France. Comptes Rendus Geoscience, 7, 337.
[6] Oppenheimer C. and C. Witham(2005)Mortality in England during the 1783-4 Laki Craters eruption, Bulletin of Volcanology, 67, 15-26.
[7] Dawson G Alastair, Kirkbride P Martin, Cole Harriet(2021)Atmospheric effects in Scotland of the AD 1783-84 Laki eruption in Iceland, SAGE Publications, The Holocene, 31, 5, 830-843.
[8] Richard B. Stothers(1996)The Great Dry Fog of 1783, Springer, Climatic Change, 32, 79-89.
[9] Franklin Benjamin(1784)Meteorological Imaginations and Conjectures, Manchester Literary and Philosophical Society, Memoirs of the Manchester Literary and Philosophical Society, 2, 373-377.
[10] Gaston R. Demaree, E. J. Ogilvie, De'er Zhang Astrid(1998)Further Documentary Evidence of Northern Hemispheric Coverage of The Great Dry Fog of 1783, Springer, Climatic Change, 39, 727-730.
[11] Grattan J., Pyatt P. J.(1999)Volcanic eruptions dry fogs and the European palaeoenvironmental record: Localised phenomena or Hemispheric impacts? Global and Planetary Change. Aberystwyth University.
[12] Manley Gordon(1974)Central England temperatures : monthly means 1659 to 1973, Royal Meteorological Society, Quarter Journal of Royal Meteorological Society, 100, 389-405.
[13] 堤 之智(2017)新たなWMO/GAW実施計画:2016-2023について, 気象学会, 天気, 8, 64, 607-614.


2021年9月1日水曜日

1783年のラキ火山噴火の大気への影響(4)

 4 気候などを通した生活への影響

4.1 天候や気温への影響

本書の「3-3 学会の誕生と気象観測」に示したように、18世紀後半になると各地で測定器を用いた気象観測が行われるようになっていた。しかし、気象観測の正確さを長期にわたって保つのは容易ではない。当時はまだその手法が必ずしも確立しておらず、残されているデータの品質にはばらつきが多い。その中で観測結果に最も信頼を置けるものは、1780年から開始されたドイツのパラティナ気象学会によるものだった。

当時の各地の気象観測を分析した最近の研究によると、ラキ火山の噴火によるヘイズは北半球全体では1783年の夏の気温を下げ、翌年以降の冬季の厳寒に寄与したとする多くの論文がある。しかし地域によって状況は異なっており、後述するようにヨーロッパでは1783年の夏は高温になった地域も多い。また冬季の厳寒とラキ噴火との関係は必ずしも研究者によって一致していない。それでもおよその状況は掴めるので、それらを以下にまとめる。

雷と豪雨と干ばつ

西ヨーロッパでは1783年の夏に晴れた乾燥した日が103日間も続いた所があった。一方で、ヨーロッパ各地で雷雨により洪水が起こった記録が残っている [2]。スペインでも干ばつとなった。リスボンでは6月19日から8月27日までほとんど雨が降らず、またバルセロナで起こった長期にわたる少雨はヘイズによるものと思われた。アフリカでは渇水のためナイル川の水位が異常に低下し、穀物が不作となった。

一方でヨーロッパ中部では、ヘイズに覆われた時期に豪雨や雹を伴った雷雨が多発した [2]。イギリスでは雷がこれほどひどい年の記録はこれまでないという記事が雑誌に載った。人が雷の直撃を受けたり、雷で建物が崩壊しただけでなく、雷の恐怖で死んだり雷鳴で腸痙攣を起こした事例が記録されている [6]。地中海のマルタ島では、本来は夏の少雨の時期である7月1日にそれまでの記録にないような豪雨が降り、雷によって多くの被害が生じた [2]。一方でインドと中国の揚子江地域からは深刻な干ばつが報告されている [4]。

17世紀の稲妻の絵(ガスパール・デュゲ)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gaspard_Dughet_-_Paysage_a_l%27Eclair.jpg

熱波

一方で、ヨーロッパの西部では、1783年7月の気温は当時の30年平均より1.0~3.0℃高くなった [12]。ベルギーのアントワープでは、7月23日から熱波に襲われ、それは7月いっぱい続いた [2]。ルーマニアでは7月14日から8日間、硫黄臭のするヘイズに覆われて異常な熱波に襲われた 。ハンガリーでもヘイズに覆われた7月は例年より気温が高かった[2]

イギリスでは、1783年の夏は高気圧に覆われて数世紀間の中で最も暑い夏となった[8]。この暑い夏のヘイズは、時折稲妻や雷、強い雷雨や強風を引き起こした [7]。この時期にイギリスでは高頻度で南風が観測されており、これは1783年7月に中央または北ヨーロッパに高気圧が持続したという観測と一致している [6]。そのためこの高温の原因は、西ヨーロッパおよび北ヨーロッパに南からの暖かい気団が流入し続けたためである可能性がある。しかしながら、この時期のヨーロッパで高温が起こったメカニズムが自然変動なのかラキ火山噴火が関係していたのかははっきりしていない。

この7月の異常に高い気温が、イギリスでの1783年8月から9月の死亡者数のピークの原因として考えられている。高温により腸疾患が増加し、その後マラリアが蔓延した [6]。イギリスでは当時、腸チフス、赤痢、チフスなどの他の病気も流行していた。高温によって病気を媒介する動物や昆虫が繁殖したり、食物の腐敗が早まってこれらの病気の広がりを強めた可能性がある [6]。また、ちょうどこの時期に終結したアメリカ独立戦争からの帰還兵が、これらの病気をイギリスに持ち込んだ可能性も指摘されている。さらに、二酸化硫黄のガスとそれによるエアロゾルも直接的な健康への影響を引き起こした可能性がある [6]。

一方で、北半球の他の場所では1783年の夏の天候は異常に冷涼だった。夏は西ヨーロッパと北ヨーロッパで例年より-1.1℃低いという涼しい所があった [4]。ロシアとシベリアでは非常に不安定で比較的寒かった。6月23日にポーランドのジェシュフ周辺でかなりの雪が降り、7月にモスクワ近郊で大雪が報告されている [4]。中国でも全般に夏が寒かったことがわかっている [4]。

厳冬

1783~1784年の冬は、過去250年間でヨーロッパと北アメリカで記録された最も厳しい冬の一つであり、両地域から異常に長続きした霜が報告された [4]。平均気温の偏差は、ヨーロッパと米国東部で約-3°Cという極めて強い寒冷化を示した。

1783年から1784年の冬はアイスランドでは9月から10月の間という極端に早く始まり、その後非常に厳しい冬となった。スウェーデンなどの北ヨーロッパでは春の雪解けが遅く、川などが凍ったままで物資が輸送できず、穀物相場が跳ね上がった [2]。アムステルダムでは、人々が凍結したマルケル湖を馬車で横切ることができるほどの厳冬だった。ウィーンでもドナウ川が完全に凍りつき、すべての輸送を妨げた [4]。

ユトランド半島では4月中旬でもまだ1メートルの厚さの雪に覆われていた。そして春の雪解け時には、中央および南ヨーロッパのすべての主要な河川の水位が上昇して洪水が起こり、甚大な物的損害を引き起こした [4]。スコットランド東部でも1783年から1784年の冬は当時の10年平均気温と比べて、2.0℃から2.6℃低かったことがわかっている [7]。

イギリス中部エジンバラの気温は、1783年12月から翌年4月まで135年間の月平均値より1.9℃から2.9℃下回った。ひと月だけの月平均気温ではもっと寒い年もあったが、これだけ長く続いたのは珍しかった [7]。イギリスでの1784年1月~2月の死亡者数の増加は、この低温の時期と一致している [6]。1783~84年と1784~85年の冬は、アイスランドとグリーンランド周辺の海氷が最も発達した冬となった [7]。

多くの専門家はこの厳寒はラキ噴火の影響と考えているが、ラキ噴火とは関係ないという説を唱えている専門家もいる。この年の冬はヨーロッパだけでなく、ロシアや日本でも寒冬となった。自然変動としてはこの時期にNAO(北極振動)の指数が負で、またENSOとの関連を指摘する説もある [2]が、それらだけでこの寒冬を説明するのは困難なようである。逆にラキ噴火が影響していたとはっきりいえるほどの証拠が集まっているわけではない。

4.2 農作物への影響

この噴火が引き起こした動植物への影響によって、アイスランドでは数年間にわたって社会に壊滅的な飢饉が発生した。上述したように、この飢饉はアイスランドでは「霧飢饉」として知られている [10]。この飢饉の間に、アイスランドの人口の約4分の1(1万人以上)が、作物の不作、家畜や魚の死、フッ素中毒などのさまざまな病気の結果として亡くなった [8]。また、スウェーデンのストックホルムでも、いくつかの地方では餌となる穀物の収穫ができなかったため、家畜を減らした [2]。イギリスでも穀物と植物の被害の時期はヘイズの出現時期と一致している [6]。

1783年の夏は、北ヨーロッパでは冷夏の傾向だった一方で、ドイツ、オーストリア、エスニア、スロバキアなどの中央ヨーロッパでは果物や穀物が豊作になった [2]。7月のハンガリーとオーストリアではブドウの実が例年になく数多く実り、10月の収穫は多くの地域で期待以上になった。ルーマニア、ハンガリー、セルビアではあらゆる果物が豊作だった。ワルシャワでは、例年になく7月初めにはトウモロコシの収穫が始まり、エン麦や大麦が熟し始めた。ラトビアやエストニアでは、雨が少なかったため砂地の果物には悪影響が出たが、ヘイズによる弱い日射は夏の土地の乾燥を防いだため、湿った土地の小麦などの穀物には好影響を与えた [2]。また、アメリカでも記録的な豊作となった。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 田家 康(2016)異常気象で読み解く現代史. , 日本経済新聞社.
[2] Demaree R.G., Ogilvie E. J.A.(2001)Bons Baisers d'lslande: Climatic, Environmental, and Human Dimensions Impacts of the Lakagfgar Eruption (1783-1784) in Iceland. (編) Jones D.P., ほか. History and Climate Memories of the Future?, Springer Science+Business Media, LLC, 219-246.
[3] Stothers B., J. A. Wolff, S. Self, and M. R. Rampino(1986)Basaltic fissure eruptions, plume height and atmospheric aerosols, American Geophysics Union, Geophysics Research Letters, 13, 725-728.
[4] Thorvaldur Thordarson and Stephen Self(2003)Atmospheric and environmental effects of the 1783-1784 Laki eruption: A review and reassessment, American Geophysics Union, Journal of Geophysical Research (D1), 108.
[5] Grattan J. et al.(2005)Volcanic air pollution and mortality in France. Comptes Rendus Geoscience, 7, 337.
[6] Oppenheimer C. and C. Witham(2005)Mortality in England during the 1783-4 Laki Craters eruption, Bulletin of Volcanology, 67, 15-26.
[7] Dawson G Alastair, Kirkbride P Martin, Cole Harriet(2021)Atmospheric effects in Scotland of the AD 1783-84 Laki eruption in Iceland,SAGE Publications, The Holocene, 31, 5, 830-843.
[8] Richard B. Stothers(1996)The Great Dry Fog of 1783, Springer, Climatic Change, 32, 79-89.
[9] Franklin Benjamin(1784)Meteorological Imaginations and Conjectures, Manchester Literary and Philosophical Society, Memoirs of the Manchester Literary and Philosophical Society, 2, 373-377.
[10] Gaston R. Demaree, E. J. Ogilvie, De'er Zhang Astrid(1998)Further Documentary Evidence of Northern Hemispheric Coverage of The Great Dry Fog of 1783, Springer, Climatic Change, 39, 727-730.
[11] Grattan J., Pyatt P. J.(1999)Volcanic eruptions dry fogs and the European palaeoenvironmental record: Localised phenomena or Hemispheric impacts? Global and Planetary Change. Aberystwyth University.
[12] Manley Gordon(1974)Central England temperatures : monthly means 1659 to 1973, Royal Meteorological Society, Quarter Journal of Royal Meteorological Society, 100, 389-405.



2021年8月28日土曜日

1783年のラキ火山噴火の大気への影響(3) 

3. 噴煙の大気への影響 

3.1 ヘイズ(ドライフォッグ)や火山ガスによる大気汚染


ヘイズと硫黄性ガスの発現時期

ラキ火山噴火の噴煙は、割れ目の南と南東にあるアイスランドの農村地帯に対してヘイズ、降雨、酸性雨をもたらし、太陽の色を真っ赤にし、気温を低下させた。そして噴火した6月8日からおよそ2週間以内に北ヨーロッパの大部分で細かい灰の降下と、二酸化硫黄の火山ガスが変化したエアロゾルによる煙霧をもたらした。当時のヨーロッパの人々が驚いたこの持続的で広範囲に広がる硫酸エアロゾルによる煙霧は、「(グレート)ドライフォッグ(乾いた霧)」などと呼ばれた。ここではこれ以降ヘイズという呼称を用いるが、この現象は他にも「煙った太陽(スウェーデン)」、「上空の煙(ドイツ)」、「煙霧(アイスランド)」 [4]、「黄色や硫黄色の霧やヘイズ」と呼ばれたりすることもあった [7]。

火山灰の降灰は、まず噴火2日後の6月10日にイギリス北方のフェロー諸島とノルウェー北部で観測された [4]。6月14日頃から20日頃までにはスコットランド東部で大気中に浮遊する細かな火山灰が観測された [7]。スコットランド東部では、その後6月24日頃から火山灰ではないヘイズが観測された [7]。

ヨーロッパでは濃い持続的なヘイズが観測される前に、薄いヘイズが観測された。それは遅くとも6月13日にはロンドン近郊に、6月14日にはフランス東部のディジョンに、6月16日にはローマに現れた [8]。最初の濃いヘイズ(ドライフォッグ)は、6月16日にドイツ中部とチェコスロバキア西部で発生した。これを記録したのは、1780年に気象学会(パラティナ気象学会)による世界で最初の本格的な気象観測網を構築したヨハネス・ヘンメルである。彼は本書の「3-3-5 気象を専門とする学会による気象観測網」で述べたように、本職は司祭であったが気象学者、物理学者でもあり、気象学の農業への適用に興味を持っていた。6月17日には大規模な濃いヘイズがスイスとドイツのバイエルンに到達し、北東にはポーランドに出現した。 6月18日にはフランス全土とイタリア北部および中央部、6月19日にはイングランドとスコットランドに到達した。これらは当時の多くの書物に記録されている [8]。

この発生時期の地域による違いは、その時の気象状況の違いによって起こったようである。後述するように、この時期にヨーロッパで発達した高気圧内の下降流が上部対流圏か下部成層圏に滞留していた硫酸エアロゾル(ヘイズ)を地上に輸送して各地でヘイズを発生させたと考えられている [5]。この濃いヘイズは6月22、24、25日にオスロ、ストックホルム、モスクワに、6月23日にブダペスト、6月30日にシリア、7月1日にバグダッドと中国西部のアルタイ山脈に到達した [8]。

6月中旬以降、局地的な風の変化の結果として、ヘイズは西のアメリカに向かってもゆっくりと移動した。当時フランスにいたベンジャミン・フランクリンは、カナダ東北部のラブラドルの住人の日記やハドソン湾会社からの出版物を調査し、1984年5月以降に北アメリカの大部分でヘイズ(ドライフォッグ)が発生したという報告をしばしば引用している [9]。またアフリカ北西部のアゾレス諸島より北の大西洋やニューファンドランドでも目的された記録がある [10]。またヘイズはアルタイ山脈を越えて中国河南省にも到達し、正確な日時は不明だが煙霧で何度も空が曇ったという記録が残っている [10]。このように、ラキ火山噴火によるエアロゾルはおよそ35N°以北の地球の大半を覆ったようである。

ヘイズの光学的特徴

太陽や星の明るさと色の記録は、ヘイズの光学的厚さ(濃さ)に関する情報となる。アイスランドでは、1783年の夏には、太陽が正午でも光線がなく青みがかった白に見えたり、時にはおかしな「赤い球」のように見えたりした [8]。当時のヨーロッパの書物では、太陽は正午でもほとんど見えず、その後直接肉眼で見ることができるほどの光量になったと述べている [11]。7月4日にはパリでは熱いヘイズが大気を覆い隠し、太陽は冬季に霧が時々作り出すような鈍い赤い色となった。 霧はパリだけではなく、ローマやスペインからやってきた人たちも同様に濃くて暑かったと認めている [11]。ベンジャミン・フランクリンも、凸レンズで光を焦点に集めても、茶色の紙を燃やすことがほとんどできないほど太陽の光が弱かったと述べている [9]。

輸送のメカニズム

ヨーロッパ各地で目撃されたヘイズがラキ火山の噴火によるものであることを示すには、

  • アイスランドからヨーロッパへ輸送されるメカニズム
  • 高層ではなく低層(大気境界層内)にヘイズが存在するメカニズム
  • その濃度が十分に高かったこと(つまり拡散されていない)

を示す必要がある。

夏季にヨーロッパの広域でヘイズが観測されたメカニズムの一つの可能性としては次が考えられている。1783年の夏はヨーロッパで高気圧が発達したことが気圧の観測記録として残っている。ラキ火山噴火による火山ガスは上空の西風に乗ってヨーロッパ上空に到達し、輸送途中で生成された硫酸エアロゾルの一部はこの高気圧内の沈降する気流によって地表に向かって輸送された。 エアロゾルはヨーロッパ上空の高気圧内で渦巻き状に下降して、高度約1 kmの大気境界層上端に蓄積した。大気境界層内とその上の自由対流圏は一般的には容易には混合しない。しかし、日々の地表面の加熱と冷却によって駆動される空気の垂直混合によって、エアロゾルが大気境界層内へと輸送されていった可能性がある [4]。 これが、6月21日以降にヨーロッパ各地の広範囲にわたって地上で観測されたヘイズのメカニズムとして考えられている。 

ヨーロッパにヘイズをもたらしたメカニズム

3.2 人体や生物への影響

火山ガス

ヨーロッパ北西部でのヘイズによる青みがかったまたは赤みがかった色合いガスは、地上で硫黄臭、苦味、目と喉への不快感、2 km程度の視程の低下、植物や銅の表面での酸化による損傷を引き起こした。また、当時始められていた湿度計の測定により、非常に乾燥していることが示された。 当時既にヘイズは部分的に硫酸や硫黄のガスからなっていることが認識されていた [8]。

最初の3回の噴火エピソード(6月8~14日)では、ジェット気流の高度に十分な二酸化硫黄が流入し、そこで約60 Mtの硫酸エアロゾルが生成された [4]。これは、10 km以上の高度で積分すると、35°N以上の北半球全体の平均で約60 ppbの濃度に相当する。

ちなみに現在の日本の環境基本法による二酸化硫黄の健康基準は、1時間平均値で100 ppbを超えず、かつその1日平均値が40 ppbを超えないこととなっている。当時の記録によると、数か月間の長期にわたって地上の二酸化硫黄濃度は1000 μgm-3(350 ppb)を超えたかもしれないと推定されている [5]。また各地で記録された二酸化硫黄臭は、およそ500 ppbから1500 ppbに相当するといわれている [6]。これは明らかに呼吸器疾患、循環器系疾患に影響を与えて死亡率を上げた可能性が高い。また後述する1783年夏の高温(熱波)も人々の健康状態に影響を与えたと思われる。

エアロゾルなど

アイスランド南東部は、火山の爆発の際に「ペレーの毛」と呼ばれるマグマの一部が吹き飛ばされ空中で急速冷却し髪の毛のようになった細かい灰で覆われた。これは肺の奥にまで入る可能性があり、噴火の開始後8日から14日以内に大勢の人々が亡くなった [4]。

ラキ火山の噴火によって放出された二酸化硫黄は、その酸化によって大気中でかなりの量の硫酸エアロゾルに転化したと考えられている。その場合、細かいエアロゾル粒子(いわゆるPM2.5)の生成が主体となる [6]。これは肺の奥まで届くので、大きなエアロゾル粒子(PM10)より人体に有害とされている。

この二酸化硫黄のガスと硫酸エアロゾルを含んだヘイズは、人々に衰弱、息切れ、心臓の動悸を引き起こした。人を不快にさせただけで無く、眼の痛みや呼吸器系の問題を引き起こした [2]。フランスの記録に残っている症状は近年の大気汚染の症状と酷似しており、二酸化硫黄の濃度が人体に有害な濃度を超えたと思われている [5]。オランダでは、ヘイズが非常にはっきりとした硫酸臭をもたらし、6月23日から25日まで特に顕著だった。 同時に、多くの人が厄介な頭痛、呼吸困難、喘息発作を引き起こした [4]。ドイツのライン川下流ではシーツに硫黄臭が染み付いて取れなかったため、大勢の住民が家を離れたという記録もある [2]。

当時の死亡者数のきちんとした統計は少ないが、フランスの教区毎に記録された埋葬数でみると、前年の1782年の月埋葬数と比べて1783年8月から10月の埋葬数は、多い月は2倍程度となっている。一部イギリスを含めた総教区数で見ると、1783年8月から10月の月平均埋葬数は前年平均の1.38倍、1783年8月から1784年5月まで見ると1.25倍となっており、その増加数はフランスだけで16000人を超えると推測されている [5]。また、その影響のためか、1784年のその後の月平均埋葬数が1782年の月平均値より下がっていることも特徴となっている。これは弱者から死亡したとみることが出来るかもしれない。イギリスでも1783年8月から9月と翌年1月と2月に死者数が増加した。その増加は約3万人とされている [6]。

また火山ガスで有毒なのは二酸化硫黄だけではない。この噴火では7 Mtの塩素ガス、15 Mtのフッ素ガスが放出されたとみられている [5]。アイスランドでは噴火によって草類が火山性のフッ素に汚染されたため、家畜の牛の53%、羊の80%、馬の77%が死んだ。この結果家畜により生活している住人にも影響が出て、アイスランド住民の19~22%、約1万人が死亡したとされている [2]。そのため、アイスランドでは1783年から1784年にかけては「霧飢饉(famine of the mist)」と呼ばれている。

酸性雨

放出された二酸化硫黄は雨に溶けて酸性雨を引き起こした。降雨中の酸性度は、エゾノギシギシの葉を焦がし、動物や人間の皮膚に火傷を負わせるほどだった [4]。オランダでは6月25日の朝には、土地は荒廃して植物の緑は消え、葉はどこでも乾燥したようになり、葉の色は緑色から茶色、灰色、黒色へと変わった [11]。イギリスのノーフォークと南部のセルボーンでは、トウモロコシが枯れ、小麦の穂が黄色に変わり、霜で焦げたようになった [4]。同じくイギリス南部では、7月30日にエムズ川の木々の緑が一夜にして枯れてしまった。フランスのパドカレーでは一部でトウモロコシが枯れてしまった 。ノルウェー中部のトロンハイムでは、酸性雨のため木々の葉は一部焦げたようになり、ヘイズに触れた草はほとんど真っ黒になるほどだった [2]。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 田家 康(2016)異常気象で読み解く現代史. , 日本経済新聞社.
[2] Demaree R.G., Ogilvie E. J.A.(2001)Bons Baisers d'lslande: Climatic, Environmental, and Human Dimensions Impacts of the Lakagfgar Eruption (1783-1784) in Iceland. (編) Jones D.P., ほか. History and Climate Memories of the Future?, Springer Science+Business Media, LLC, 219-246.
[3] Stothers B., J. A. Wolff, S. Self, and M. R. Rampino(1986)Basaltic fissure eruptions, plume height and atmospheric aerosols, American Geophysics Union, Geophysics Research Letters, 13, 725-728.
[4] Thorvaldur Thordarson and Stephen Self(2003)Atmospheric and environmental effects of the 1783-1784 Laki eruption: A review and reassessment, American Geophysics Union, Journal of Geophysical Research (D1), 108.
[5] Grattan J. et al.(2005)Volcanic air pollution and mortality in France. Comptes Rendus Geoscience, 7, 337.
[6] Oppenheimer C. and C. Witham(2005)Mortality in England during the 1783-4 Laki Craters eruption, Bulletin of Volcanology, 67, 15-26.
[7] Dawson G Alastair, Kirkbride P Martin, Cole Harriet(2021)Atmospheric effects in Scotland of the AD 1783-84 Laki eruption in Iceland,SAGE Publications, The Holocene, 31, 5, 830-843.
[8] Richard B. Stothers(1996)The Great Dry Fog of 1783, Springer, Climatic Change, 32, 79-89.
[9] Franklin Benjamin(1784)Meteorological Imaginations and Conjectures, Manchester Literary and Philosophical Society, Memoirs of the Manchester Literary and Philosophical Society, 2, 373-377.
[10] Gaston R. Demaree, E. J. Ogilvie, De'er Zhang Astrid(1998)Further Documentary Evidence of Northern Hemispheric Coverage of The Great Dry Fog of 1783, Springer, Climatic Change, 39, 727-730.
[11] Grattan J., Pyatt P.J.(1999)Volcanic eruptions dry fogs and the european palaeoenvironmental record: Localised phenomena or Hemispheric impacts? Global and Planetary Change. Aberystwyth University.


2021年8月22日日曜日

1783年のラキ火山噴火の大気への影響(2)

 2 ラキ火山噴火の特徴

2.1 一般的な火山噴火の大気への影響

2010年にアイスランドのエイヤフィヤトラヨークトル氷河の火山が噴火し、欧州を中心に世界中で航空機の運用がストップして、航空機を用いた旅客輸送に大きな影響を与えたことを覚えておられる方も多いのではなかろうか。しかし、これは火山噴火が引き起こす大気への影響のごく一部に過ぎない。

火山噴火の中で、最も長期にわたる影響が考えられるのが、気候への影響である。ちなみに、どんなに大規模な噴火でも噴火で噴煙が成層圏に入らなければ、それによる大気への影響はせいぜい数週間か1~2か月である。噴煙から放出された対流圏中の灰やエアロゾルは重力沈降で大気中から除去され、火山ガスも雲や雨や他の沈着過程で除去される。

しかし、二酸化硫黄などの火山ガスがいったん成層圏に入ると、そこで硫酸エアロゾルなどへ変質し、数年にわたって滞在する場合がある。そうなると成層圏の硫酸塩エアロゾルは、地表への太陽放射を反射や散乱して、地上へ到達する日射量を減らして気候へ影響を及ぼす。そのため、噴火によるさまざまな短期的な影響は別として、長期にわたる気候への影響が起こるかどうかは、火山ガスを含む噴煙がどの程度成層圏に入ったかが一つの目安となる。

火山噴火による気候への影響として、1991年のフィリピンのピナトゥボ火山噴火がある。それによる気候変化は冷害による平成のコメ騒動を引き起こし [1]、日本の食卓に大きな影響を与えたことを覚えておられる方も多かろう。

2.2 噴火の状況

ラキ火山の噴火は、1873年5月中旬にアイスランドのグリムスヴォトン火山による比較的穏やかな噴火活動から始まった。そのグリムスヴォトン火山の一部であるラキ火山の大噴火は1783年6月8日に始まった。これは27 kmという長さを持つ割れ目からの大噴火だった [2]。ヨーロッパではその直後から異常な大気状態が起こっていたが、当時は情報網が確立しているわけではなく、ヨーロッパ中心部から外れたアイスランドでのこの噴火の発生が、初めてヨーロッパに伝えられたのは9月1日になってからだった [2]。

ラキ火山と割れ目の一部(提供:Wikipedia)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Lakagigar_Iceland_2004-07-01.jpg?uselang=ja

ラキ火山の溶岩は流動性が強く、それほど圧力を貯めないので噴火による爆発の威力はそれほど大きくなかったようである。この火山噴火による噴煙の到達高度は最大でも15 km程度と考えられている [3]。これから放出された噴煙は、多くの火山噴火がそうであるように大量の灰、塵、およびエアロゾルを生成する火山ガス(特に二酸化硫黄)を含んだ。

熱帯であれば、噴煙の高度がこの程度の火山噴火で世界規模の気候変動を起こすことは少ない。しかし、このラキ火山の噴火が世界的な気候変動を引き起こした原因は2つ考えられる。一つはラキ火山が北緯65°付近と高緯度に位置していたことである。熱帯では高度18 km程度の圏界面(成層圏と対流圏の境界)は、この緯度だと高度10 km以下であり、噴煙に含まれる二酸化硫黄などのガスが容易に成層圏下部まで達したと考えられる。もう一つの原因は、この噴火が1784年2月まで長期にわたって大量の火山ガスを放出し続けたことである。

この噴火は、14.7 km3(4 Gt)の玄武岩質の溶岩流を放出し、その広がりは580 km2に及んだ [2]。これは東京都23区の面積よりやや狭い位の広さである。ちなみに1991年のピナトゥボ火山の噴火による噴出物量は10 km3程度と考えられている。また、ラキ火山噴火による落下した火山灰の体積は0.4 km3(110 Mt)と考えられており、これは1980年のセントヘレンズ山の爆発的噴火による量の2倍である [4]。

そして、6月から8月にかけてのラキ火山の噴煙柱の各地からの観測で得られた当時の推定では、噴煙の高さは9 kmを超えていたことが示されている [4]。その結果、ラキ火山の噴煙は成層圏下部に達するとともにジェット気流の高度にまで到達し、蛇行する北ヨーロッパ上空の風に乗って各地に拡散したと考えられている。しかし、噴煙は成層圏の中・上部までは達しなかったと考えられている。

2.3 放出された火山ガスの状況

ラキ火山噴火において、大きな噴火は一度だけでなく何度か起こった。最初10日間で起こった3回の大規模噴火で 40 Mt、次の3回の噴火で33  Mtの二酸化硫黄が放出されたと考えられている [5]。これらを含む初期の合計で10回にわたって起こった噴火によって98.5 Mt [4]または122 Mt [5]の二酸化硫黄、7 Mtの塩酸と15 Mtのフッ化水素 [6]が噴火で放出された。

初期の噴火の一部は高度13 kmを超えたと推定されているが、噴煙柱の観測によって最初の3か月間の噴火の大部分は9~13 kmの高度に到達した [4] [5]。アイスランド付近の圏界面は高度8~9 kmなので、噴煙の大部分は成層圏下部へ入ったと考えられている。この二酸化硫黄のガスは同時に放出された大量の水蒸気によって、成層圏で180 Mtの硫酸エアロゾルに転化したと考えられている [5]。このエアロゾルが、後述するように1783年6月から7月にかけて、気象状況に応じてヨーロッパ各地の地上でヘイズをもたらしたと考えられている。

噴火の威力がそれほど強くなく、火山ガスと火山灰の噴出物の注入は高度9~13kmと対流圏上部と成層圏下部に限定されたため、成層圏中のエアロゾル滞留時間の推定はおそらく1年未満だろうと推定されている。しかしその間に、継続的な噴火による二酸化硫黄の供給によって、25~30 Mtという大量のエアロゾルが成層圏下部で存在しつづけたと考えられている [4]。これは1991年に噴火したフィリピンのピナトゥボ火山の噴火による二酸化硫黄の放出量に匹敵する。ただしピナトゥボ火山噴火の場合は亜熱帯域であったために噴煙で生成されたエアロゾルは全球へと広がったが、ラキ火山噴火の場合はほとんど北半球に留まって、その分濃度が高くなったと考えられている [4]。

一方で噴火によるものだけではなく、ラキ火山から流れ出した溶岩からの脱ガスによって、25 Mtの二酸化硫黄が8か月間にわたって徐々に放出された。それらも1783年6月から10月にかけて北半球に広範囲のヘイズを引き起こしたと考えられている[4]。しかし、このガスは境界層内に直接放出されたので、高い乾性沈着率とレインアウト(雲中の除去)のために二酸化硫黄ガスとそれから生成されたエアロゾルの大気中の滞留時間は短かったと思われる。

ラキ火山の噴火の噴煙の移動イメージ図

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 田家 康(2016)異常気象で読み解く現代史, 日本経済新聞社.
[2] Demaree R.G., Ogilvie E. J.A.(2001)Bons Baisers d'lslande: Climatic, Environmental, and Human Dimensions Impacts of the Lakagfgar Eruption (1783-1784) in Iceland. (編) Jones D.P., ほか. History and Climate Memories of the Future?, Springer Science+Business Media, LLC, 219-246.
[3] Stothers B., J. A. Wolff, S. Self, and M. R. Rampino(1986)Basaltic fissure eruptions, plume height and atmospheric aerosols, American Geophysics Union, Geophysics Research Letters, 13, 725-728.
[4] Thorvaldur Thordarson and Stephen Self(2003)Atmospheric and environmental effects of the 1783-1784 Laki eruption: A review and reassessment, American Geophysics Union, Journal of Geophysical Research (D1), 108.
[5] Grattan J. et al.(2005)Volcanic air pollution and mortality in France. Comptes Rendus Geoscience, 7, 337.
[6] Oppenheimer C. and C. Witham(2005)Mortality in England during the 1783-4 Laki Craters eruption, Bulletin of Volcanology, 67, 15-26.

2021年8月20日金曜日

1783年のラキ火山噴火の大気への影響(1)

1. はじめに

これまでこの「気象学と気象予報の発達史」ブログでは「ムンクの「叫び」とクラカタウ火山」で、火山噴火が絵画に与えた影響と「成層圏準二年振動の発見(1) クラカトア東風とベルソン西風」で火山噴火が成層圏の循環を解明するきっかけとなったことを述べた。これらに限らず大規模な火山噴火が広域の大気に影響を及ぼすことは多い。

1783年にアイスランドで起こったラキ火山噴火はこの千年間に起こった最も注目に値する火山噴火の1つである。その理由は、噴火によって1783年のヨーロッパの広域での持続的なドライフォッグと呼ばれる煙霧(ヘイズ)が起こり、下部成層圏に大量に注入された噴煙によると思われる翌年の冬の厳冬が起こったと考えられているためである。そしてヨーロッパではその気候変動によると思われる死者数の大幅な増加も起こった。そのため1783年は畏怖の年「Year of Awe」とも称されている。

アイスランドのラキ火山の位置

この火山噴火は、1815年のタンボラ火山噴火や1991年のピナトゥボ火山噴火のような短期間の噴火と異なり、大きな噴火が7か月間にわたって続いた。そのため、ラキ火山噴火は大規模火山噴火の長期にわたる人間への影響という観点から、現在においても貴重な事例となっている。そのためイギリスでは、2012年の「市民の緊急事態のためのイギリス国家リスク目録(UK National Risk Register for Civil Emergencies)」の中で、可能性のある最も危険性のあるリスクの中の一つにこのラキ火山タイプの噴火が登録されている。また、この噴火はエアロゾルによる地球温暖化の緩和という観点からも近年になってその研究が再び注目を集めている。

1783年は特異な年で、この噴火以外にもイタリア南部での大地震、アイスランド南西沖での海底火山噴火、流星の頻発、疫病の蔓延など自然の事象や災害などそれまでにない事象が多発し、人々に深刻な不安や影響を与えた。この噴火による気象や気候の変動も当時のヨーロッパの人々に強い印象を与え、この様子は各地の気象観測記録、出版物、科学論文、雑誌記事、日記に記録された。ヨーロッパではちょうど測定器による気象観測が始まっており、観測の質にはばらつきがあるものの、気温への影響に関する定量的な議論を可能にした。

またこの噴火は、大気汚染や異常気象による人間への直接的な健康被害だけでなく、飼料・農作物への被害を通してアイスランドでは飢饉の原因にもなった。この噴火後の1973年から1784年の冬に起こった厳冬を受けて、ベンジャミン・フランクリンは火山噴火による気候への影響とその予知、つまり季節予報についての初めての科学的考察を行ったことでも知られている。火山国日本でも大規模な火山噴火はいつでもどこでも起こりえる。そのためラキ火山噴火によって、当時ヨーロッパを中心とする世界各国で何が起こっていたのかを知っておくことは、日本でも何かの役に立つかもしれない。なお、同じ年に起こった日本の浅間山の噴火と気候への関係についても最後に述べる。

(つづく)


2021年7月17日土曜日

キスカ島撤収-「ケ」号作戦(4)

 4. 気象予測の作戦への利用

天候は西から変わることが多い。日本はアメリカから見てアリューシャン列島よりさらに西に位置している。また日本軍は北方や西方に位置しているソビエト連邦の気象観測所からの気象暗号電報を解読していた [6, p53]。気象予測という観点では西方の気象データを利用できる日本軍の方が有利であり、アメリカ軍は日本軍がその利点を活かした戦術をとっていると思っていた [9, p19]。キスカ島撤収作戦においては、日本軍は霧が継続することを予測して撤収を成功させた。しかし、それは最後になって霧に特化した例外的かつ集中的な研究を行ったからだと思われる。「アリューシャンでの戦い」でも述べているように、アッツ島、キスカ島への輸送が天候の変化によるさまざまな影響によってたびたび失敗していることから、きめ細かな気象予測が作戦に活用されていたとは言いがたい。

気象予測を作戦に利用しようとすると、少なくとも日頃から気象観測結果を利用した分析を蓄積して、当該方面の気象的特徴を把握する必要がある。気象予測を十分に活用できなかったのは、当時の気象部隊が用いていた気象学のレベルの問題と、それを利用する運用側の意識の問題があったと思われる。当時最新のベルゲン学派(ノルウェー学派)気象学による前線解析は、風向風速の変化や天候の急変をある程度予測できた(ベルゲン学派より前の天気図に前線はない)。そのため、その発祥の地の緯度に近いアリューシャンでそれを活用していれば気象の予測精度がもう少し向上していた可能性がある。そうすれば、キスカ島より東に位置するアメリカ軍基地での天候回復のわずかな時差を利用した輸送などのきめの細かい作戦が行えたかもしれない。

アリューシャン付近の天気の例。2021年7月9日の天気図(上)と気象衛星赤外画像(下)
北太平洋のアッツ島とキスカ島の間に前線がある。気象衛星画像からは前線に沿って雲が連なり、千島から西部アリューシャン列島付近の海上では、薄い灰色から霧が出ていることがわかる。前線はベーリング海でTボーンと呼ばれる形を採っているようである(「前線のその後」参照)。
出典:気象庁ホームページ。
天気図(https://www.jma.go.jp/bosai/weather_map/)
気象衛星画像(https://www.jma.go.jp/bosai/map.html#5/34.5/137/&elem=ir&contents=himawari)


第五艦隊気象長竹永一雄少尉は、実はベルゲン学派の気象学を研究していた。ノルウェー出身のスベール・ペターセンというベルゲン学派気象学の新進気鋭の研究者が1940年に書いた「気象解析と予報(Weather analysis and forecasting)」という気象学の教科書を読んで前線解析を会得していた。彼は1943年2月に第五艦隊に赴任すると、それを用いた天気図を描いたが敵性天気図と叱責されてしまう。ところが、彼が乗った軽巡洋艦「多摩」は千島で時化に遭い、その時の天候の急変は竹永少尉が描いた天気図通りとなった。これを契機に彼はペターセンの本の解説書を作って海軍内に配布した [6, p14-25]。

なお、本書「9-2-4ベルゲンへの留学生」では、第五艦隊の気象長を前川利正少尉としたが、竹永一雄少尉の誤りである。前川氏は竹永氏と同様に中央気象台技術官養成所出身であるが、戦時中は樺太庁気象台や前橋測候所に勤務し、海軍に所属したことはない。

スベール・ペターセン
https://en.wikipedia.org/wiki/Sverre_Petterssen#/media/File:Sverre_Petterssen.png

ベルゲン学派気象学を用いた体系的な気象の研究がなされていれば、気象予測をもっと作戦に用いることが出来たかもしれない。ただし、この解析が当てはまるのは中高緯度なので、熱帯や亜熱帯の中部太平洋では利用できなかった。日本の中央気象台(気象庁の前身)が前線を用いたベルゲン学派気象学を利用し始めたのは戦後だったが、本書「9-6ロスビーの業績」で述べたように、アメリカ気象局でベルゲン学派気象学を導入したのは1930年代後半からだった。

ペターセンは、アメリカのマサチューセッツ工科大学の気象学科でロスビーの後継として教鞭を執っていたが、ドイツのノルウェー侵攻以降イギリス気象局へ移って、さまざまな作戦の予報に参加した。「10-1-1戦争中の予報」で述べたように、ノルマンディ上陸作戦での気象予報にも参加した。そこでは上陸日を延期させて、一つ間違えば荒天で破綻していたかもしれない上陸作戦を、見事に成功に導いたことに貢献したことでも知られている。

(このシリーズおわり)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北方方面海軍作戦.  朝雲新聞社, 1969. 第 29 巻.
[2] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北東方面陸軍作戦<1>-アッツの玉砕-.  朝雲新聞社, 1969.
[3] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊<4>第三段作戦前期.  朝雲新聞社, 1970.
[4] 徳田 八郎衛. 間に合わなかった兵器.  光人社, 2001.
[5] 半澤 正男. 若き艦隊予報官の霧予報的中. 海の気象, 24, 5, 海洋気象学会, 1989.
[6] 阿川 弘之. 私記キスカ撤退.  株式会社文藝春秋, 1988.
[7] キスカ会. キスカ戦記.  原書房, 1980.
[8] Navy U.S. The Aleutians Campaign June 1942-August 1943.  Naval History and Heritage Command, U.S. Navy, 2018.
[9] Wilder A. Carol. Weather as the Decisive Factor of the Aleutian Campaign, June 1942-August 1943.  Drake University, 1983.


2021年7月11日日曜日

キスカ島撤収-「ケ」号作戦(3)

3. 第二期第二次キスカ島撤収作戦

3.1 第一次撤収作戦失敗の後

第五艦隊による撤収作戦の中止に、聯合艦隊司令部は強い不満を抱いた。そして督戦の意味をこめて7月20日に第五艦隊司令部に参謀副長小林謙五少将を派遣した [1, p627]。また、多少の犠牲はやむを得ないと考えていた第五艦隊司令部も、第一水雷戦隊の慎重な行動を非難した [1, p628]。一方で、第一水雷戦隊では駆逐艦を多数失えば今後の戦局に重大な影響があるため自分たちの慎重な行動を当然と思っており、第五艦隊司令部による非難を心外と捉えていた [1, p630-631]。

第五艦隊と第一水雷戦隊では立場、考え方に違いがあり、そのため次回は第五艦隊司令部が軽巡洋艦「多摩」で第一水雷戦隊に同行して、第五艦隊司令部が現場で突入の判断を行うことになった [1, p631]。なお突入の判断の後、「多摩」はキスカ島へ突入せずに幌筵へ戻ることになっていた。また特設巡洋艦「粟田丸」は撤収艦隊から外された。

軽巡洋艦「多摩」。北海用の迷彩塗装をしている。1942年撮影
https://ww2db.com/image.php?image_id=7643

次の霧はなかなか発生しそうになかった。通常ならば北緯30度付近にある太平洋高気圧の中心が、この年は北緯42度付近にあったため霧が出にくかった [6, p65]。8月になれば霧の出現は期待できないと考えられていた。また重油も幌筵には艦隊行動でキスカ島までの往復1回分しか残されていなかった。竹永気象長は霧が出にくい原因まで叱責され、ノイローゼ気味となった。

1943年7月23日の天気図。太平洋高気圧が例年より北の三陸沖に偏っている。
原典:気象庁「天気図」、加工:国立情報学研究所「デジタル台風」


3.2 第二次撤収作戦の発動

7月22日にオホーツク海に低気圧が発生して幌筵付近は霧となった。この低気圧が東進してベーリング海に入ると、プラス2セオリーから25日頃に南風によって霧がアリューシャン列島に発生することが期待された。7月26日のキスカ島突入を予定して第二期第二次撤収作戦が開始された。巡洋艦3隻、駆逐艦11隻と補給艦からなる艦隊は、22日夜に幌筵を出港した。

7月23日~24日

第一水雷戦隊では26日の予報を曇り時々霧で見通しは良いと考え、突入日の27日への延期を第五艦隊司令部に具申した。しかし第五艦隊司令部はこれを認めず、26日の突入を変えなかった [1, p633]。

ところが、この低気圧は予想より速く進み、24日にはキスカ島を通過してしまい、その後キスカ島付近は晴れてしまった。一方で艦隊付近は連日の濃霧で隊形が混乱し、7月24日にた補給隊の油槽船「日本丸」と海防艦「国後」が隊列からはぐれてしまった。このため「多摩」の第五艦隊司令部は突入日の27日への延期を認めた [1, p633]。

この日の1500時に「木曽」は仮装備した陸軍の野戦高射砲の試射を霧の中で行ったところ、たまたまこの音を聞きつけた「日本丸」と合同することが出来た [1, p634]。作戦の途中で「日本丸」から重油の補給ができなければ、艦隊は作戦を継続できないところだった。しかし、補給隊のもう1隻である「国後」はまだ行方不明のままだった。

軽巡洋艦「木曽」1942年アリューシャン方面で撮影されたもの。
https://ww2db.com/image.php?image_id=7759

7月25日

この日敵潜水艦のレーダーを艦隊のすぐ近くに逆探知したため韜晦行動を行った。この韜晦行動により、キスカ島への突入日は28日もしくは29日に変更された [1, p634]。第一水雷戦隊では東北沖にある低気圧が北東進すれば、29日以降にキスカ島付近の天候が悪くなると予想した [1, p635]。

この25日から突入日までの韜晦行動に関して、第五艦隊司令部と第一水雷戦隊では考え方に違いがあった。第一水雷戦隊ではいったん南下して敵潜水艦から離れ、突入日に間に合うように北上すれば良いと考えていた。しかし第五艦隊司令部の指示は、突入の即応体制を取るためその付近で待機(往復運動)するというものだった。第一水雷戦隊は敵潜水艦に接近したままの指示に釈然としなかったが、これに従った [1, p636]。

7月26日

早朝に水雷戦隊は突入日を29日に決定して、第五十一根拠地隊から了承を得た [1, p636]。艦隊付近は引き続き濃霧のため、はぐれた「国後」以外は単縦陣で航行していた。ところが1744時に「国後」が霧の中から突如艦隊付近に現れ、軽巡洋艦「阿武隈」の右舷中部に衝突した。このため隊形が混乱し、駆逐艦「初霜」は駆逐艦「若葉」と「長波」に接触した [1, p636]。「若葉」と「初霜」は最高速度が12ノットに低下したため、「若葉」は自力で幌筵へ回航、「初霜」は「国後」の護衛に回ることとなった [1, p64]。「若葉」に座乗していた第二十一駆逐隊司令は、「島風」に移乗した。

一方で、キスカ島付近では20日以降24日を除いて連日晴天が続いており、敵機や敵艦隊の活動が活発だった。キスカ島の第五十一根拠地隊は霧の季節が終わったのではないかと危惧したが、これを逃すと二度と撤収機会の見込みは無く、キスカ島への突入を要望した [1, p640]。

海防艦「国後」。アッツ島旭湾(マッサカル湾)にて
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Japanese_escort_ship_Kunashiri_1942.jpg

7月27日

この日にオホーツク海に低気圧が発生して幌筵は霧となった。これに基づいて、7月27日0600時に第一水雷戦隊ではプラス2セオリーからキスカ島付近の29日の天候を霧と判断した。しかし、第五艦隊司令部では薄霧で敵機の飛行は可能と判断した [1, p640]。なお後述するように、この日の夜にアメリカ艦隊はキスカ島南方海域においてレーダーで探知した幻の目標に夕方から砲撃を加えていた。

7月28日

キスカ島では昨日オホーツク海で発生した低気圧が近づいてきて、予想通り早朝から霧となった。第一水雷戦隊では29日の天候を「西の風で曇りときどき霧」と判断した。第五艦隊では「南西の風、曇りで淡霧だが敵機の飛行は困難」と予測した。しかし、軽巡洋艦「多摩」の第五艦隊司令部は突入するかどうかで迷った [1, p642]。第一次撤収作戦では第一水雷戦隊の行動を批判した第五艦隊司令部だったが、現場で当事者になってみると机上で考えていたようには行かなかった。迷った司令長官河瀬四郎中将は、座乗していた「多摩」艦長で積極果敢な神重徳大佐に意見を求めたところ、ぐずぐずしていたら突入の時期を失するという意見に押されて突入を決断した [1, p642]。

1600時には艦隊はキスカ島へとコースを向けた。なお、幸運なことにこの日1010時から30分間だけ霧が晴れて天測により艦隊の位置を確認するとともに艦隊の隊形を整えることが出来ていた。夜になると霧は一層深くなっていった。

3.3 キスカ島での撤収

7月29日は、キスカ島では霧のため視程は1500 m程度と突入には絶好の天候となった。0700時に第五艦隊司令部が乗った軽巡洋艦「多摩」は、予定通り第一水雷戦隊から別れて幌筵に向かった。キスカ島の北側を時計周りに回っていた艦隊は、近くの岩礁などを避ける必要があったが、霧に閉ざされて正確な位置が不明だった。11時半頃に一瞬霧が晴れてキスカ富士を視認でき、これで艦隊の正確な位置を確認できた。キスカ島の東に回り込むとキスカ島から発信されるビーコンにより一挙に突入することが出来た [7, p404] 。

当日、キスカ島では朝から電探が敵機を上空に捕え、9時頃までに2回対空戦闘があった。ところが1000時頃から霧が深くなったためか敵機は戻っていった。同じく午前中にはキスカ島付近を哨戒する敵駆逐艦の音も聴音されていたが、同様に戻って行ったようだった [7, p358]。第一水雷戦隊では、入港直前の1150時にキスカ島から敵艦船の聴音の報告があり、また駆逐艦「島風」も高感度の目標を探知したため、会敵を予期していたところ、1300時に艦影を発見したため「阿武隈」が咄嗟に魚雷攻撃を行った。しかし、艦影に見えたものはキスカ島付近の小島だった [1, p644]。

第一水雷戦隊は1340時に無事キスカ湾に入った [1, p644]。キスカ島周辺は深い霧に包まれていたが、湾内の視界は良好だった。撤収作業は島内に残っていた大発と艦隊が搭載してきた大発を使って順調に行われた。全将兵は1時間以内に船に収容された。

1430時頃には撤収を終わり、艦隊は出港した。ところが1627時に「阿武隈」が距離わずか約2 kmでアメリカ軍の浮上潜水艦を発見してこれを回避した。艦隊は発見されたと思われたが、アメリカ艦隊と誤認したのか潜水艦から無線は発信されなかった [1, p646]。これは、アメリカ軍の巡洋艦に似せるために軽巡洋艦の煙突1本を白く塗った効果だったかも知れない。また、北方部隊では7月29日に艦隊が大湊に在泊しているような偽電を発信していた [3, p320]。

艦隊は7月31日から8月1日にかけて幌筵へ無事に戻った。こうして5186名が無事にキスカ島から撤収され「ケ」号作戦は成功した。この作戦の間幌筵の重巡洋艦「那智」で気象予測を行った竹永気象長は、それまでとは打って変わってみんなから感謝された。古賀連合鑑隊司令長官は、31日に慰労電を発信した。8月2日には大元帥である天皇陛下から撤収作戦に関して御嘉賞のお言葉を賜った [2, p492]。

3.4 キスカ島沖での幻の海戦

キスカ島からの撤収作戦の成功には、アメリカ艦隊の行動が大きく関係していた。哨戒していたカタリナ飛行艇は、7月24日にアッツ島南西150 kmに7隻の船をレーダーで感知した [8, p91]。北太平洋軍はこれを日本軍の増援と判断し、阻止するためにキスカ島の南西でキスカ島を封鎖していた駆逐艦2隻を含めて、艦隊をキスカ島南西の該当海域に向かわせた。7月27日の深夜、この艦隊の戦艦「ミシシッピー」、「アイダホ」、重巡洋艦「ウィチタ」、「ポートランド」がキスカ島の南西150 km海域でレーダーの反応を認めた [9, p93]。艦隊は直ちに、この目標に22 kmまで接近して約30分間にわたって砲火を浴びせた。ただし星弾(照明弾)を用いてもその目標を視認できなかった。夜が明けた28日に偵察機を飛ばしたが、いかなる残骸や漂流物も認められなかった [9, p93]。


戦艦「ミシシッピー」。1943年3月ハワイにて
https://ww2db.com/image.php?image_id=30917

艦隊のレーダー担当士官は、後にそのレーダーの反応が異常な大気状態による約180 km離れたアムチトカ島からの電波反射が原因だったかも知れないと示唆している [8, p91]。この戦いはピップスの戦い(The Battle of the Pips)とも呼ばれている。

このアメリカ艦隊の幻との戦いによって、日本艦隊がキスカ島からの撤収を行っていた29日頃、アメリカ艦隊はキスカ島付近には駆逐艦1隻だけを残して、キスカ島の南東200 kmの地点で消耗した砲弾や燃料の補給をしていた [2, p88]。これによって、この時だけアメリカ軍の封鎖網に隙が生じて、日本艦隊にキスカ島との航路が開けていた。もちろんアメリカ軍では、この一瞬の隙を突いて日本軍が撤収したことに全く気付かなかった。

(つづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北方方面海軍作戦.  朝雲新聞社, 1969. 第 29 巻.
[2] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 北東方面陸軍作戦<1>-アッツの玉砕-.  朝雲新聞社, 1969.
[3] 防衛庁防衛研修所戦史室. 戦史叢書 大本営海軍部・聯合艦隊<4>第三段作戦前期.  朝雲新聞社, 1970.
[4] 徳田 八郎衛. 間に合わなかった兵器.  光人社, 2001.
[5] 半澤 正男. 若き艦隊予報官の霧予報的中. 海の気象, 24, 5, 海洋気象学会, 1989.
[6] 阿川 弘之. 私記キスカ撤退.  株式会社文藝春秋, 1988. 
[7] キスカ会. キスカ戦記.  原書房, 1980.
[8] Navy U.S. The Aleutians Campaign June 1942-August 1943.  Naval History and Heritage Command, U.S. Navy, 2018. 
[9] Wilder A. Carol. Weather as the Decisive Factor of the Aleutian Campaign, June 1942-August 1943.  Drake University, 1983.