5 日本での天人相関説に対する考え方
5.1 律令制度での天人相関説
日本では、推古天皇の代の602年に百済の僧「観勒」がやってきて、暦本、天文地理書などの書を貢ぎ物として贈った。その頃に中国から日本に天人相関説とともに陰陽五行説や災異説も伝来し、7世紀の律令国家体制の形成時に、それらは政治的に利用される形で普及したとされている。しかし、中国のものをそのまま受け入れたのではなく、日本古来の神の思想や仏教の影響を受けて部分的な摂取や折衷が行われながら、あるいは独自の発展をしながら律令国家時代の日本に広まっていった [10]。
律令制度の下では、天人相関説の影響を受けた陰陽道を実践する朝廷の機関として「陰陽寮」が設けられた。陰陽寮はいってみれば天文の状況を統治者である朝廷に報告する行政機関だった。そのために、陰陽寮には陰陽、暦、天文、漏刻(水時計で時を計る)の部門に各博士がいた。そして占いの専門職として陰陽師6名がいた。なお、陰陽師という名前は日本独自で、当時中国では陰陽家と呼ばれた。
陰陽寮の公職としての仕事は、御卜(占い)、天文密奏(天体や気象などの観測をして、何か異変があれば天皇に奏上すること)、祈祷(陰陽道祭)、祓え(天皇が人形に息を吹きかけて陰陽師に渡し、お祓いをしてもらって川に流す)、反閇(へいばい。禹歩とも言う独特の歩き方による祓い)、身固(みがため。身体を丈夫にするための呪術)、日の吉凶を含む暦(具注暦)の作成、日時・方角の占定などであり [4]、その仕事は多岐にわたっていた。
5.2 平安時代の陰陽道
平安時代に陰陽師として有名になる安倍晴明(921~1005年)は、陰陽師の賀茂保憲(917~977年)の弟子であった。賀茂保憲は天文道を我が子に授けたかったが、安倍晴明の器量が遙かに上回っていたため、子の賀茂光栄には比較的易しい暦道を授けて、安倍晴明に天文道を授けたともいわれている [11]。
陰陽寮の天文の部署に属していた安倍晴明はやがて頭角を現して、特に賀茂保憲の死後には天文に基づいて儀式を行う天皇や貴族にとって欠かせない人物となった。その後、賀茂家と安倍家が平安時代中期の陰陽師の2大宗家なった。安倍晴明が土御門大路近くに住んでいたことから、15世紀ころからその子孫は土御門氏を名乗るようになったようである [4]。
賀茂氏は戦国時代に断絶し、江戸時代には土御門氏が全国の陰陽師を支配するようになった。ただし、本の「7-1-2 日本での暦問題」で述べたように、当時の陰陽師は公職ではなく、一種の民間信仰に近い占いの実施者で、土御門家はその家元のような立場だった。
平安時代の陰陽師は天文観測を仕事として行っており、星々の細かな動きによる天変をいち早く知る立場にあった。そのため、陰陽師は天譴に基づいた政治と密接な関わりがあってもおかしくなかった。
天変には天を動き回る惑星が恒星に異常に近づくこと(犯)が含まれている。特に木星は当時「歳星」と呼ばれ、天子や天皇の運命を表すと考えられていた。安倍晴明が陰陽師だった寛和2年(985年)6月22日の夜半に、花山天皇が突如として元慶寺に赴いて退位して出家し、一条天皇が即位するという大事件が起こった。これは「寛和の変」と呼ばれており、右大臣だった藤原兼家が孫の一条天皇を即位させるためのクーデターだったともいわれている。
実はこの日、木星が今日でいう天秤座のアルファー星に異常接近したことが現在の天文解析からわかっている。惑星はその名の如く地上から見ると一見不規則な運行をするが、天文を詳しく観測していた陰陽師は、12年に一度この日に木星が天秤座のアルファー星に異常接近することを知っていた。そのことは当時陰陽師が使っていた天文図にも記されている。そのことから、安倍晴明がこの日に歳星が犯を起こすことを藤原兼家に告げ、藤原兼家が天皇の退位にそれを利用したのではないかという説もある [12]。
このように、平安期から鎌倉時代にかけても天人相関説は影響力があったと考えられている。1181年に超新星が現れた際には、九条兼実は人事が適切でないので天変が起こったと書き送っている。1245年の彗星と思われる現象が起こった際には、平経高は災害の下で譴責を行ったため、天の意に背いたと考えた [10]。1312年には花園天皇が天変や雷鳴を自らの不徳と捉えている[8]。また、その花園天皇は、1317年の地震により文保に改元してもさらに地震が続いたため、物忌み(蟄居)を行った [4]。
一方で、9世紀後半から10世紀にかけては、災害や怪異を天の譴責ではなく神・怨霊の崇りと見なす傾向が朝廷内で強まり、天人相関説を含む儒教の理念は衰退したともいわれている。たしかに当時の災害や高官の死を、例えば菅原道真の怨霊の仕業と考えて、それを鎮めるために天神社の設立などが積極的に行われた。そしてその怨霊の祓いにも陰陽師が活躍した。しかし、その祓いには仏教(加持祈祷)や神道、あるいは民間信仰も加わって、それぞれがそれぞれのやり方でさまざまな要請に応えていったようである。
しかしながら陰陽道研究家の下村周太郎氏は、平安期から鎌倉時代にかけてさまざまな記録から、「天文道を掌る陰陽師の言説や貴族たちの中国典籍の参看を媒介に、朝廷社会で天人相関説に関わる心性が維持・再生産されていたと言えるだろう。」と述べている[8]。このようにさまざまな形で折衷しながらも天人相関説は平安時代以降も残っていった。
しかし、天文現象(新星や彗星)と地上の気象災害は区別されて行ったようである。平安期以降、天文現象である天変(一部の地震を含む)は陰陽師の天文密奏(勘申)の対象として天人相関説に基づいて理解され続けたのに対して、自然災害や動植物の異変など他の災異はむしろ神祇官や陰陽寮の占い(卜占)の対象となった。安貞2年(1228年)7月22日に源頼経が遊興に出かけるのに翌日の天候を占わせて「曇り」とでたが、その通り翌日は曇りとなったので、占った安部泰貞は褒美をもらっている [4]。
5.3 日本での徳政について
天変などの天による譴責に対して朝廷がなすべき対応には、大きく分けると祈祷と徳政があった [10]。そして、天変の中で一番重要視されたものは彗星だったようである。彗星こそが「第一の変」と書かれている史料がいくつかあり、その際の対応は祈祷だけではなかった。公卿万里小路時房の日記である「建内記」には、永仁五年(1297年)の彗星の出現によって徳政が行われたことが記されている[8]。なお、徳政には「行事の中止」、「高官の謹慎」、「倹約」、「特赦」、「叙位」、「改元」、「譲位」が含まれる。「特赦」は、本来は徳政についての天に対する意思表示であったが、徐々に民衆に対する撫民という色合いが濃くなっていたようである。徳政による「改元」は承徳元年(1097年)など7回あったとされている。「譲位」については、彗星の出現をきっかけに土御門天皇の順徳天皇への譲位と、後堀河天皇の四条天皇への譲位が行われている。しかし、実際には政治的要因も大きく、彗星の出現が譲位を正当化する名目に使われた可能性も高いとされている[8]。なお、祈祷や徳政などは天変以外の非常時、例えば蒙古襲来時などにも異国降伏のために行われた。
5.4 気象占いについて
奈良朝、平安朝を経て鎌倉、室町時代の気象現象に関する記述及記録は多く、三代実録、文徳実録等を始めとして、その数約3000とも言われる [13]。それらは中国などで史記天官書や、准南子等に見られる天人相関理論、陰陽五行説の考え方を基礎としている。そして「気象占い」も数多く行われた。この気象占いというのは、天候を占うのではなく、天候を使って物事を占うのである。司馬遷の史記の「天官書」には、天文占いとともに雲気や気候によって占う気象占いについても記されている [4]。
武家政治の時代になっても、武将たちは陰陽師を顧問として雇って、その気象占いにしたがって作戦を立てたり、政治判断を行ったりしていた。甲府の武田神社には、「運気書」と呼ぼれる気象占いの巻物が伝えられている。これは武田信玄の直筆とも言われているが、作成されたのはそれよりやや新しいとされている。この書物は、運気、すなわち気象によって合戦などの状況を占う方法についてくわしく書かれたものである。
武田信玄の軍師であったといわれる山本勘助は気象占いをおこなった。山本勘助は、雲気・煙気といった気象のほかに、五音(五行思想にもとづいて分類された音)、三軍鳥(烏、鳶、鳩)などの自然現象や自然界に存在するものを用いて占っていたとされている [4]。武田信玄も自ら望気(星や風雲の状態から吉凶を占うもの)を学んでいたとされているが、信玄自身は占いを鵜呑みにせず、その時々の状況に依ってものごとを合理的に判断していたようである。
6 現代と天人相関説
近世になると、幕府には天変を天譴とする意識はほとんど見られなくなる。それは西洋近代天文学が入ってきて、幕府が暦作成のために「天文方」という組織を作るなどして天変という観念自体が否定され、朝廷の天文占ですら懐疑的ないし合理的な内容へと変転せざるを得なくなったためと思われる。しかし、現在において、天人相関説は我々の暮らしと全く無関係かというと、そうとは言い切れない部分がある。
本来、史記の「天官書」では天変かどうかを天文観測の結果に依っていた。一方で、中国では古くから讖緯思想と呼ばれる疑似科学的な思想があり、それを用いた運命論や「縁起かつぎ」が行われていた。この考え方と暦算天文学の発達が結びついて、三世紀のころには天文観測を用いた宿命占星術のようなものが現れた。
ところが暦学が進歩して惑星の位置などを観測せずに計算できるようになると、徐々に天文観測が行われなくなり、そういう手間がかかることを止めて簡便な方法がとられるようになった。例えば各日と惑星の位置との対応などから、暦にまつわる何らかの指標を机上で計算して暦に載せる暦註が作られるようになった。また惑星や太陽、月の位置に基づいた今後1年間の天候を予測した農事暦のようなものも作られるようになった。
そして、本来は天体の位置を観測して決めていた宿命としての運勢を、観測どころか天体の位置を計算することさえも止めて、定期的に繰り返す簡便な指標で代用して、それを暦に暦註として載せる方法に変わっていった [11]。そしてこの簡便な方法は、印刷による暦の普及とともに、一般の人々もその日の吉凶などの身辺事の運勢を暦註で間に合わせることが広まった。先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口という六曜もそういった暦註の一部である。
現在、結婚式や葬式などの日取りには六曜が参考にされることが多い。しかしそれだけではなく、登記や契約の日も大安などが選ばれて、そういう日は役所や銀行の窓口が混雑するそうである。暦註も元はといえば天人相関説と密接な関係にあったわけで、現代でも人々の中に天人相関説の残滓が残っていると言えるのかもしれない。
(このシリーズおわり)
参照文献(このシリーズ共通)
[2] 田村専之助 (1977). 第五章気象予察. 中国気象学史研究下巻. 中国気象学史研究刊行会.
[3] Wang Pao-Kuan (1979) Meteorological Records from Ancient Chronicles of China. American Meteorological Society, Bulletin of American Meteorological Society, 313-318.
[4] 荒川紘 (2001) 天の思想史, 人文論集, Shizuoka University REpositor, 51, 1-22.
[5] 深川真樹 (2014) 董仲舒の天人相関論に関する一考察. 東洋文化研究, 16, 59-85,.
[6] 石平. 政治権力を正当化する「御用思想」としての儒教. PHPオンライン衆知. (オンライン) PHP研究所. https://shuchi.php.co.jp/article/4735?.
[7] 小林春樹 (2002) 古代中国の気象観・気候観の変遷と特色.東洋研究, 大東文化大学東洋研究所, 143, 61-92.
[8] 村田浩 (1991) 『准南子』と災異説. 中国思想史研究, 京都大学, 14, 65-86,.
[9] 下村周太郎 (2012) 中世前期京都朝廷と天人相関説. 史學雜誌, 史學會, 121, 6, 1084-1110.
[10] 菅原正子 (2011) 占いと中世人, 講談社.
[11] 中山茂 (1993) 占星術 その科学史上の位置, 朝日新聞社.
[12] NHK (2020) いにしえの天文学者安倍晴明. コズミックフロント☆NEXT. 2020月11月26日放映.
[13] 藤原咲平 (1951) 日本気象学史.岩波書店.
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