2019年12月31日火曜日

フォン・ノイマンについて(1)イントロダクション

 ジョン・フォン・ノイマン(John von Neumann, 1903-1957)は20世紀の天才である。彼は世界的に有名な科学者であり、さまざまな学問分野で第一級の業績を上げ、現在彼の業績をもとに発展している科学分野も多い。人類始まって以来の天才の一人と言えるのかもしれない。

 彼の業績の中で気象学への貢献は、彼の中ではわずかでしかないと思う。しかし、数値予報の歴史から見ると彼の業績は絶大である。現在の人々は、コンピュータを用いた数値予報という形で彼の恩恵を蒙っている。元気象庁長官である新田尚が気象学会誌で「コンピューター・サイドからの数値予報の歴史を明らかにすることも重要であることを特に強調しておきたい。」と述べている[1]が、本の「10-2 数値予報の試み」で触れているように、その黎明期はまさにフォン・ノイマンの独壇場であった。

 フォン・ノイマンの業績に触れた書は多いが、ある専門分野での業績に絞ったものが多く、彼の業績全体を網羅したものはそれほど多くないと思われる。その理由は、彼の業績の広さと深さにある。彼はいろいろな分野で最先端の業績を残した。それぞれの専門家が自分の専門分野での彼の業績を評価することは容易であろうが、あまりに幅広い分野での彼の奥深い業績を、あまねく評価できる人は多くないのではないか。

 そういう中でアメリカのノーマン・マクレイが書いた「フォン・ノイマンの生涯」(朝日選書、渡辺正、芦田みどり訳)は、フォン・ノイマンの業績を広く総括していると思う。これはマクレイが経済学を専門としたジャーナリストで、多くの人々に取材したからできたのだろうか?ここでは数回に分けて、この本を参考に他の文献なども合わせて、気象学だけでなくそれに影響を与えたと思われる彼の業績を広くまとめてみたい。

 まずフォン・ノイマンの業績の流れだけ記しておくと、彼は1920年代の純粋数学界に新風を吹きこんだあと、できたばかりの量子力学、理論物理学、応用物理学、意思決定理論、気象学、経済学にそれぞれの発展の方向性を決めるような大きな業績を残し、原子爆弾開発などの軍のプロジェクトにも参加し、また学問だけでなく第二次世界大戦後はアメリカ政府の核戦争抑止ための政策にも大きく関与した[2]。

 フォン・ノイマンが関わった学問分野としては、集合論、代数学、機能の理論、測度論、トポロジー、連続群、ヒルベルト空間論、作用素論、束論、連続幾何学、理論物理学、量子論、統計力学、流体力学、一次方程式と逆解行列、ゲーム理論、経済学、電子計算機の理論と動作、モンテカルロ法、ロボットの理論、確率理論、核エネルギーと核兵器の確立などがある[2]。彼には150編を超える論文がある。それらのうちの約60編は純粋数学(集合論、論理、位相群、測度論、エルゴード理論、作用素論と連続幾何学)に関して、約20編は物理学に関して、約60編は応用数学(統計、ゲームの理論とコンピュータ論を含む)に関するものである[3]。おそらくこれらのどれか一つの分野でも彼は一流の専門家として十分通用したであろう。そう考えると彼は鬼才だったとしか言いようがない。

 なお、1940年代に原子爆弾の開発に大きく貢献した4名のほぼ同年代のハンガリー人がいる。レオ・シラード(1898–1964)、ユージン・ウィグナー(1902-1995)、フォン・ノイマン(1903-1957)、エドワード・テラー(1908-2003)である。彼らは、19世紀末から20世紀初めにブダペストの同じ地区に生まれ、同じ学校に通ってアメリカで活躍した[4]。当時のハンガリーの教育システムが卓抜していたのだろうか?ノイマンはその一人でもある。また偶然かもしれないが、この時代はハンガリーがやはり世界的に有名になった同年代の指揮者を続々と輩出した(フリッツ・ライナー、ジョージ・セル、ユージン・オーマンディ、アンタル・ドラティ、ゲオルク・ショルティ、フェレンツ・フリッチャイ)ことでも知られている。

つづく

[1] 新田尚-2009-1 数値予報の歴史―数値予報開始50周年を迎えて―, 天気, 56, 11, 894-900.
[2]Gass S. I. (2006) IFORS' Operational Research Hall of Fame: John von Neumann. International Transactions in Operations Research, 13 (1): 85-90.
[3] P. R. Halmos, (1973) The Legend of John Von Neumann, The American Mathematical Monthly, 80, 4, 382-394.
[4]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書

2019年12月17日火曜日

これまでのタイトル(1~60)の整理

これまで書いたブログ(1~60)の目次を一度整理しておきます。
俯瞰してタイトルを見て、目的のブログにアクセスすることができます。

1 いまさら歴史?
2 数学者オイラー
3 地球環境の長期監視の重要性
4 科学と技術
5 学会と気象観測
6 「天気の子」と気象改変
7 大気力学でのソレノイド
8 前線のその後
9 歴史と新たな発想
10 ペリーとレッドフィールド
11 初めての風力計
12 嵐の構造についての発見
13 インターネットの発展と文献
14 ムンクの「叫び」とクラカタウ火山
15 ロバート・フックと気象観測
16 ケッペンについて1
17 ケッペンについて2
18 古代中国での気象学(1)初期の考え方
19 古代中国での気象学(2)天人相関思想
20 古代中国での気象学(3)気象観察
21 古代中国での気象学(4)二十四節気
22 リヒャルト・アスマン(その1)
23 リヒャルト・アスマン(その2)
24 テスラン・ド・ボール
25 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1) 概要
26 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(2) 初期の気球観測 
27 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(3) 本格的な観測の始まり
28 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(4) 無人気球による観測の問題点
29 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(5)初めての無人探測気球観測
30 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(6) ドイツのアスマンによる観測
31 時代と民族を超えて気象の解明に尽力した人々の記録
32 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(7) ヨーロッパでの組織的観測
33 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(8) テスラン・ド・ボールによる発見
34 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(9) ドイツのアスマンによる発見
35 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(10) 成層圏存在の認知
36 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(11)成層圏の存在と原因の広がり
37 高層気象観測の始まりと成層圏の発見(12)成層圏発見の意義
38 ウィリアム・ダインス(1)家系と彼の若い頃
39 ウィリアム・ダインス(2)テイ鉄道橋大惨事について
40 ウィリアム・ダインス(3)風速計の調査
41 ウィリアム・ダインス(4)新たな風速計の開発
42 ウィリアム・ダインス(5)高層気象学への貢献
43 ヨーロッパでの竜巻研究についての補記
44 気象観測と時刻体系
45 雪の観察
46 「気象学はこうして生まれ発展してきた」
47 気候学の歴史(1) 気候(気象)観測の始まり
48 気候学の歴史(2) 当初の気候観測と人間生活の関わり
49 気候学の歴史(3) 気候学研究の始まり
50 気候学の歴史(4) 気候統計とデータ処理
51 気候学の歴史(5) 気候データの保管
52 気候学の歴史(6):気候学の変革
53 気候学の歴史(7):気候モデルの登場
54 気候学の歴史(8): 気候モデルと日本人研究者
55 気候学の歴史(9): 気候モデルとコンピュータ
56 気候学の歴史(10): モデル技術を用いた気候再解析
57 世界規模観測網(レゾー・モンディアル)と国際政治
58 気温測定の難しさ
59 気温のトレンド(長期変化傾向)把握のためのデータセットについて
60 フンボルトとコロンブス

2019年11月27日水曜日

フンボルトとコロンブス(Humbolt and Columbus)


フンボルトについては本の5-1-1アレクサンダー・フォン・フンボルトについて」でその生涯と業績、および気候図の作成についてまとめているが、少しその補足を行っておきたい。

フンボルト
ドイツの博物学者、探検家であるアレクサンダー・フォン・フンボルト(Alexander von Humboldt, 1769-1859)は、若い頃言語学、解剖学、地質学と天文学を含む幅広いさまざまな研究分野をハンブルグ、イェナとフライベルクの大学で勉強した。卒業の後、1792年にプロシア政府の鉱山の調査官となった。彼は鉱山の調査だけでなく植生の調査も行い、この仕事によって彼は自然研究者でもあった著名な詩人ヨーハン・ウォルフガンク・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe)の注目を受けた。

フンボルトはゲーテによって多くの科学者や知識人との知遇を得た。フンボルトの探検時以外の人生の多くはサロンなどでの知的議論に費やされることになった[1]。それにはドイツの詩人、歴史学者、思想家フリードリヒ・シラー(Friedrich von Schiller)とアメリカの海洋学者、地質学者、古生物学者ルイ・アガシ(Jean Louis Agassiz)、アメリカの作家・思想家・詩人・博物学者ヘンリ・デイヴィッド・ソロー(Henry David Thoreau)、イギリスの自然科学者、地質学者、生物学者チャールズ・ダーウィン(Charles Robert Darwin)など当時の主要な知識人の多くとの議論を含んだ。

フンボルトと親友の植物学者ボンプラン(Aimé  Bonpland)はスペインの首都マドリッドに行った際に、スペイン国王カルロスIV世からアメリカ大陸スペイン領の探検の許可を得た。この後、1799年から1804年まで中南米スペイン領とアメリカ合衆国を延べ1万キロメートルにわたって旅行した。そしてその結果を「Le voyage aux régions equinoxiales du Nouveau Continent, fait en 1799–18041799-1804年に行われた新大陸の回帰線地域への旅行)」に発表した。彼の探検は、ラテンアメリカに対する世界の一般的な見方が変わるほどの成果を得た。
フンボルトの探検ルート(https://es.wikipedia.org/wiki/
Archivo:Mapa_del_viaje_de_Alexander_Von_Humboldt
_en_el_Continente_Americano.png
より
フンボルトは探検時に高度、温度と磁場を測定し、地質を調査し、岩、植物と動物の標本を集めた。彼はデータや標本を取得する際に注意深く科学的に行い、特別な注意を払って測定場所や標本の取得場所をきちんと地理的に特定して記録した。これらのフンボルトによる探検のやり方はそれまでの一般的な探検の手法とは異なっており、科学的な資料収集と分析という点で探検のやり方に革命をもたらした。

それまでのように単にデータや標本を収集するだけなく、彼は収集したデータや標本の正確さやそれに付随する情報の正確さに重点を置いた[1]。彼は最初の全球の地磁気および気候地図を作成し、南米の地質学的断面図を描き、収集したサンプルをきちんと分類した。5-1-2「気候図の発明」に記した気候図をはじめとして、このような手法はその後新たな学問の手法を確立するための手法となっていった。
フンボルトが描いたチンボラソ火山の植物分布

これらをもとにフンボルトは「Relation historique du Voyage aux Régions équinoxiales du Nouveau Continent, etc. (1814–1825),(新大陸の回帰線地域への旅行の歴史との関係(1814-1825))」を出版し、これによってアンデス山脈の植物相と動物相を明瞭な気候学的で地形学的な背景を考慮しての社会の進化に潜在的に影響を及ぼす気候変動への人間の影響を説明した[1]

フンボルトとコロンブスとの比較

時代背景が異なるので同列に比較することは難しいが、探検によってアメリカ大陸を発見したコロンブス(Christopher Columbus, 1446-1506)と比較してみると時代の違いとフンボルトの立ち位置がよくわかるかもしれない。本の「2-3-1熱帯の横断と新世界」で紹介したように、コロンブスはアジア航路の開拓という名目で大西洋を西へ向かった。しかし彼には営利目的もあった。彼は探検前に巨額の探検費用の大半を負担するスペインのイサベル女王とサンタ・フェ契約を結んでおり、発見した土地の統治権とそこからの利益の1割を得ることになっていた。そのため、後述するように新大陸側から見ると彼は厄災を巻き起こすことになった。 
コロンブスの航路(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/38/Viajes_de_colon_en.svg

一方フンボルトの探検費用は自前であり、探検によって発見された資源の所有権は全てスペインに帰することになっていた。つまりフンボルトは世俗的な利益には興味がなかったことがわかる。おそらく科学的な発見やそれに基づいた人々との交流に悦楽を見出していたのではないだろうか。フンボルトが発見した知見は世界に科学的な恩恵をもたらした。

話は脱線するが、当時の多くの地理学者や探検家は、探検に政治的な境界(つまり国家利益の分岐線)を定めることにも興味を持っていた。つまり発見した土地とその資源は発見者の国の所有となるためである。当然その度合いに伴って発見者にもたらされる恩恵も多かっただろう。1494年にポルトガルとスペインとの間に結ばれたトルデシリャス条約(Treaty of Tordesillas)でヨーロッパより西側世界の領有権の境界が子午線に従って定められた(西側がスペインで東側がポルトガル)[2]

 1500年にポルトガル人カブラル(Pedro Cabral)が率いるポルトガル遠征隊が南アメリカ大陸(ブラジル)東端に漂着した。そこがトルデシリャス条約境界の東側であることがわかったため、それがきっかけで旧ブラジルはポルトガル領となった。これが南アメリカに(広大だが)ぽつねんとブラジルというポルトガル語圏がある理由である。

 スペイン領ではなかったため、フンボルトはポルトガル領ブラジルには行っていない。ただし、当時の「南北アメリカ大陸」は、ポルトガル領ブラジルと独立したばかりの北アメリカ東部のアメリカ合衆国を除いて、大半がスペイン領であったことには注意する必要がある。フンボルトはその広大なスペイン領を自由に探検する許可を得ていた。

ちなみに1529年にポルトガルとスペインとの間に結ばれたもう一つのサラゴサ条約(Treaty of Zaragoza)は、西太平洋の分割境界線(子午線)を定めており、これはヨーロッパ諸国が日本を含むアジアに進出するきっかけの一つとなった。大航海時代はヨーロッパにとって新たに発見した土地の自由な切り取り合戦をも意味した。これはデマルカシオン(世界領土分割体制)とも呼ばれる[2]。日本の戦国時代に送られた宣教師たちはそのための偵察・情報収集であった面もあった。ただし正確な経度測定の困難さとその後のヨーロッパ諸国の力関係の変化により、アジア各地域の領有は複雑な経緯を辿った。その影響は第二次世界大戦前までアジアの植民地や宗主国という形で残った。

閑話休題。フンボルトは、取得したデータやサンプルを自ら分析するだけでなく、データとサンプルの多くを共有にして、科学者間の国際的でオープンな議論を確立しようとした。彼の業績は科学的に高く評価されている。そのためかフンボルト大学、フンボルト海流、フンボルトペンギンだけでなく、地形や自然では湾、川、林、野生保護区、沼地、湖、山脈、山や山脈、森林、国立公園、滝、動物ではイカ、コウモリ、サル、スカンク、カタツムリ、甲虫、川イルカ、植物では顕花植物、マメ科植物、肉食植物、サボテン、樫、ラン、 ユリ、キノコ、宇宙にも月の海、二つの小惑星にフンボルトの名が冠されている[3]。さらに彼は自由と平等を唱え、奴隷制と搾取による植民地主義を非難し続けてもいた。

一方でコロンブスは新大陸発見では有名であるが、彼は金や植民地を得るためにアメリカインディアンを虐殺しアメリカインディアンに免疫のない伝染病をまき散らした面も大きい)、またアフリカ人を植民したことでも知られている。コロンブスの行った政策はその後の南米での植民地統治のモデルともなった。その後の厳しい植民地政策と伝染病により、南米・中米のマヤ、アステカ、インカ文明などは次々と滅んでいった。コロンブスは新大陸をアジアと主張したこともあってか、新大陸は後に探検したアメリゴ・ベスビッチにちなんで、アメリカ大陸と名付けられた。コロンブスの名前は南米のコロンビア共和国に残っているだけである。

ちなみにフンボルトの兄の言語学者ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(Wilhelm von Humboldt)は、大学を改革して近代的な大学のモデルとなったベルリン大学(Humboldt-Universität zu Berlin)を創設しただけでなく、後にプロイセンの教育相、内相まで務めている。

なお、フンボルトについては、その生涯や膨大な業績について多数の著書が出ているので、詳しくはそちらを参照していただきたい。

[1]Becker, T. W., and C. Faccenna (2019), The scientist who connected it all, Eos, 100, https://doi.org/10.1029/2019EO132583. Published on 11 September 2019.
[2]平川 新-2018-戦国日本と大航海時代, 中公新書, 中央公論新社.
[3]http://vincentdamiangabrielle.com/uncategorized/why-is-everything-named-humboldt-our-city-forest/

2019年11月10日日曜日

気温のトレンド(長期変化傾向)把握のためのデータセットについて(Data sets for temperature trend)

 気温のトレンド(temperature trend)は、地球温暖化の指標となるため、近年その重要度が増してきている。しかし、どの程度気温が上昇してきているのかを、きちんと算出することは難しい。それは、長い期間の間に測定器や測定環境が変化してしまう場合があるからである。特に観測初期の古い観測データについては、観測に関する情報(測定器の較正手法や頻度、観測場所の変遷、観測手法など)が十分に残されていない場合があり、そうなると気候変動を捉えるための1/10 ℃以下という観測精度を長期にわたって確保することは容易でない。

 標準化された温度体系を用いた定量的な気温観測は18世紀から始まっており、教養があり裕福な個人が残した気象日記(weather diary)の中には定量的なデータが含まれている場合がある。そのような初期のデータは気候変動の研究に利用できる場合がある。

 「気候学の歴史(5) 気候データの保管」では、世界気象記録(World Weather Records: WWR)に触れた。これは世界各地の気象観測データをまとめたものであるが、地点を限ればもっと古い系統的な気温データがある。

 そのような例として1600年代からイギリスで行われたいくつかの個人による測定値がある。それらによってブリストル、マンチェスターとロンドンに囲まれているほぼ三角形の地域の長い一連の気温データが残された。それらは観測に関するさまざまな情報を総合し、精度をクロスチェックした上で、Hadley Centre Central England Temperature (HadCET) datasetと呼ばれるデータセット[1]に編集された。この記録は月平均気温は1659年1月から始まっている。1722年からは日平均気温も整備されている[2]。

Hadley Centre Central England Temperature (HadCET) dataset

 単に残されたデータをデジタル化しただけでないことに注意していただきたい。測定手法や観測環境の変化もできるだけ考慮して、かなり手間をかけて科学的な品質評価を行った上で作成されている[3]。気温の長期トレンドの算定には、観測場所の移動や、測定器の交換、較正方法、観測頻度の変化などあらゆることを定量的に評価しなければならない。それでも、都市化などの周囲の観測環境の変化を厳密に考慮することは難しい。

 これらの影響を受けにくい気温トレンドの把握方法がある。それは高度が異なる2地点の気圧を利用するものである。それは本の4-8「測高公式の発見」で解説している層圧温度(thickness temperature)を用いる方法である。これは層圧温度なので、点ではなく層内の平均温度となる。これは逆に局地的な気温変化ではないというメリットにもなる。気圧計は、原理上温度計より較正を含む測定器の精度管理を行いやすく、観測誤差も一般に小さい。また気圧を見ているので、都市化や風通しの変化などの周囲の観測環境の変化の影響を受けにくいのでより正確な気温が算出できる。ただし、高度が異なる比較的近い2地点での観測結果が必要となる。


層圧温度の概念図(Concept of Thickness Temperature)
Tc<Tw
 世界で初めて層圧温度を用いた気温トレンドは、1965年から2016年までの富士山山頂とその近傍の地上観測所の気圧を用いたものである。地上の気温トレンドとも概ね整合しており、層圧温度を用いた気温トレンドの有用性が示されている[4]。

参照文献

[1]https://www.metoffice.gov.uk/hadobs/hadcet/
[2] D.E. Parker, T.P. Legg and C.K. Folland. 1992. A new daily Central England Temperature Series, 1772-1991. Int J Clim, 12, 317-342.
[3] G. Manley. 1974. Central England Temperatures: monthly means 1659 to 1973. Quart four Roy Meteor Soc, 100, 389-405.
[4]Tsutsumi,Y.-2018-Multidecadal Trends in Thickness Temperature, Surface Temperature, and 700 hPa Temperature in the Mount Fuji Region, Japan, 1965-2016, Journal of Climate, 31,20 , 8305-8312.

2019年11月5日火曜日

気温測定の難しさ (Difficulty of atmospheric temperature measurement)

 温度計の目盛りの較正と標準化は18世紀から始まった。本書の4-3 「温度計の発達とその目盛りの変遷」で述べているように、例えばその統一された目盛りには、摂氏、華氏、レオミュール温度計などが使われるようになった。しかし、気温の正確な測定はそれだけで十分なほど簡単ではない。測っている気温がその地域を十分に代表しているかという問題もあるが、測っている値そのものが大気の温度なのかということにも十分な注意を要する。

 例えば、テレビなどで屋外で温度計を持って気温を示していることがあるが、厳密には気温といえない場合がある(体感としては近いかもしれないが)。屋外で直接人間が気温を測定すると、温度計感部が人間の体温の伝導熱、太陽光の放射熱、付近のアスファルト・建造物などの輻射熱などいろんなものを感部自身やその周りで拾う可能性がある。それらが合わさった温度は少なくとも気温ではない。

 17~18世紀当時は、気温は室内で測定されているものも多かったようである。暖房のない部屋が選ばれたようだが、それでも外気温とは異なるし、部屋が南向きか北向きかでも温度は異なったであろう。

 大気温度の測定方法の標準化、つまり測定環境への配慮がきちんと行われるようになったのは、19世紀に入ってからである。それでも問題は山積していた。屋外で測定されるようになって大きな問題となったのは、まず昼間の太陽放射の影響をどう防ぐかだった。当時は気温の測定者が各自それぞれ独自の工夫をしていたようである。

 18世紀前半に特にイギリスで広く使われたのが、イギリスの気象学者グレーシャー(James Glaisher, 1809-1903)が開発したグレーシャー・スタンド(Glaisher stand)と呼ばれる日よけ用の屋根がついたオープン型スタンドである[1]。これは彼がグリニッジ天文台の気象部長の時に考案した物で、温度計はスタンドの遮光板の裏側につけられていた。

グレーシャー・スタンドは
 http://www.waclimate.net/temperature-screens.html
の下段図を参照 )

 ただし北側といえども太陽光が射す場合があるので、このスタンドを回転させて温度計を常に太陽と反対側にしておく必要があった。そのため、一定時間ごとに人手で回転させねばならず、それを忘れるとあるいは位置をセッティングして次の観測までの間隔が長すぎると、太陽光が回り込んで誤データを観測する可能性があった。また、屋根はあるものの温度計は大気に暴露しているので、雨、霧、露の影響を受け、また地面からの太陽光の反射や熱輻射を受ける恐れがあった。

 それで考えられたのが、1863年にスコットランドの灯台設計者トーマス・スティーブ
ソン(Thomas Stevenson, 1818-1887)が発明した、スティーブンソン・スクリーン(Stevenson Screen)である。これは一種の2重のよろい窓を持った木箱で、太陽光を遮蔽しながら風通しも考慮された。日本では百葉箱と呼ばれている。スティーブソン・スクリーンは窓や換気法が順次改良されていった。イギリス気象学会(Britain’s Meteorological Society)で1873年に各種の遮光板や気象観測箱が比較検討された結果、スティーブソン・スクリーンが気温観測のための使用が推奨された[2]。それ以来世界で長年使われている。

 ところが、スティーブ
ソン・スクリーンの測定値に疑問を持ったのがスコットランドの気象学者ジョン・エイトケン(John Aitken, 1839-1919)で、彼はティーブソン・スクリーンを綿密に調査して、箱が持つ熱慣性の影響に気づいた(論文は死後の1921年に出版された)[3] 。箱の内部では壁の熱から出る長波放射によって温度計感部が影響を受けるのである。

 現在ではティーブンソン・スクリーンの利用は減って来ている(気象庁では百葉箱を既に使っていない)が、世界各地ではまだ使われている所も多い。現在では、放射の影響を小さくするために、内外の放射の影響を与えにくいハウジング材の利用、ハウジング本体の小型化、センサーの小型化、通風量の増大などが図られている。本書の4-5-3「乾湿計」や「リヒャルト・アスマン(その1)」で述べたようにアスマンが開発した通風式乾湿計もその一つである。
 
ティーブンソン・スクリーン(百葉箱)の外観
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Stevenson_screen_exterior.JPG

 なお、昔の気象学者は本書でもしばしば出てくるように、多くの専門を持っていることが多く、ここで出てきたイギリスの気象学者グレーシャーは、イギリスの王立気象学会の会長で気球観測における瀕死の冒険でも有名である。トーマス・スティーブソンは有名な灯台設計者である。エイトケンは、エイトケン粒子にその名を留めるエアロゾルや雲物理の高名な気象学者でもある。

[1] J. Glaisher-1868- Description of thermometer stand. Symons's Meteorol Mag, 3, 155.

[2] S. NAYLOR-2018-THERMOMETER SCREENS AND THE GEOGRAPHIES OF UNIFORMITY IN NINETEENTH-CENTURY METEOROLOGY, Notes Rec. (2019) 73, 203-221.
[3] J. Aitken-1921-Thermometer screens. Proc Roy Soc Edinburgh, 40, 172-181.

2019年10月14日月曜日

世界規模観測網(レゾー・モンディアル)と国際政治 (Global meteorological observing system and international politics)


 現在、気象観測網は原則的に各国が国内を自前で観測し、その観測結果を世界中で共有している。そしてそのための共有の仕組みを世界気象機関(WMO)が調整している。WMOが世界中で観測を行っているわけではない。しかし、気象は地球規模の現象なので、統一された一つの組織が世界中を観測すれば良いようにも思える。もしそれができれば、本の111「国際気象機関の設立」で述べているように、観測についての細かで複雑な調整も不要でより効率的になろう。だがそうではなく、現在の形になっているのには政治的・歴史的な経緯がある。

 19世紀に気象観測を国際的に調整するための組織である国際気象機関(IMO)ができた当初は、何度か独自に世界規模の気象観測網を構築しようとたことがあった。その最初は1872年にオランダ気象研究所所長でIMOの総裁だったボイス・バロット(Christophorus Buys Ballot, 1817-1890)が行った「地表の遠隔地や島での気象台設立のための国際基金(the formation of an International Fund for the establishment of Meteorological Observatories on islands and at distant points of the Earth's surface)」の提唱だったが、多くの賛同を得ることはできなかった[1]

 1905年のインスブルックで開催されたIMOの長官会議において、テスラン・ド・ボールが、「世界規模観測網(Réseau Mondial: レゾー・モンディアル)」と命名した世界規模の気象観測網を提案した。当時でも国や地域毎の観測方法の違いは大きな課題となっており、世界中の約500の気象観測地点で統一した観測を実施し、電報で観測値を一か所に収集することが計画された。そのためにIMO1907年に「世界規模観測網の専門委員会」を設立した。しかし、おそらく費用や各国の意向によりこの計画は縮小され、一部の観測地点からの報告を後日気候値としてとりまとめることだけになった。これは「気候学の歴史(5)で述べているように世界気象記録(World Weather Records: WWR)として発行され、現在は地球温暖化問題に対する歴史的な検証データの一部となっている。

 当時、もしIMOの「世界規模観測網の専門委員会」が主導して、電報を使った気象観測データの収集が実現していたら、その後統一された一つの国際的な気象観測網が実現していたかもしれない。しかし、実際は各国の独立性、独自性の主張は強く、それを侵すような仕組みを各国は容易に認めようとはしなかった。それどころかIMOは非政府間組織であったため、各国間の気象観測結果の統一化と共有化さえ困難を極めた。交通や産業の発展に伴って、気象情報の重要性が増していた。そのため第二次世界大戦後に国際条約に基づいた政府間組織である世界気象機関(World Meteorological Organisation)が設立された。その辺の経緯は本の11章「国際協力による気象学の発展」に述べているとおりである。

 現在は、WMOで調整された合意に基づいて各国で行われている「統一的な」気象観測結果を国際的に「共有・交換」することが行われている。この典型的な例は、本の11-6「世界気象監視プログラム」で述べているように、戦後に始まったWMOの世界気象監視プログラム(World Weather Watch)である。これはアメリカのケネディ大統領(John F. Kennedy, 1917-1963)が1960年に国連総会で行った演説がトリガーになっている。これによって、世界各地の気象観測データが統一的な形でほぼ即時的に世界各国で交換・共有されることになった。このような各国に決まった作業を強いる国際協力は、考えようによっては国際政治上の特異な例かもしれない。これが可能になった背景には1960年頃の衛星による気象観測とコンピュータを用いた数値予報の発達、そして皮肉なことに当時の東西冷戦が関係している[2]

 何れにしても、本の10-2-3「数値予報への胎動」で述べているように、地域で閉じた数値予報は実質的に不可能であり、現在の数値予報の基本は全球モデルであるため、その計算には世界中の気象データが必要になる。世界気象監視プログラムにおいて各国が少し譲歩して気象観測データの共有を可能にしたことが、実は各国に気象に関しての莫大な利点や利益をもたらしている(もし他国の気象データが手に入らなかったら、現在の気象予報や気象ビジネス、気候問題がどうなるか考えていただきたい)。世界気象監視プログラムによる世界規模の気象観測網は、いまや気象災害や気候問題に対する人類の安心・安全のための基本的なインフラストラクチャーとなっている。

 そして、1905年の世界規模観測網(レゾー・モンディアル)の提案は、現在の世界気象監視プログラム(World Weather Watch)に至る第一歩だと考えられている。世界的な気象観測網とその観測に強く依存する気候問題は、昔から国際政治の最先端の部分でもある。

(次は「気温測定の難しさ」)

参照文献

[1] H. Daniel-1973-One Hundred Years of International Co-Operation in Meteorology (1873-1973), WMO Bulletin.
[2] Edwards-2013-A Vast Machine: Computer Models, Climate Data, and the Politics of Global Warming, MIT Press.

2019年10月7日月曜日

気候学の歴史(10): モデル技術を用いた気候再解析 (History of Climatology (10): Reanalysis based on Data Assimilation)


 気候の将来予測に欠かせなくなった気候モデル、地球システムモデルであるが、そのベースとなっている気象モデルの技術はこれまでの歴史的な気候データに対しても大きな変革をもたらそうとしている。本の11-5-6「プリミティブモデルの発達」で述べているように、過去数十年間の既存地点の観測値から、その期間の気象要素の全球格子点での気象データを、数学的な手法(データ同化手法: Data Assimilation)を用いて物理学的に合理的に推測することが行われている。

 これはいってみれば過去の気候の数値的な再現であり「気候再解析(Climate reanalysis)」と呼ばれている。気候再解析はこれまで観測値がなかった地域や上空を含めて、全球の格子点上の気象データを時間的・空間的にシームレスに推測する。こうやって算出した再解析値を用いれば、過去の気象や気候のイベントをあたかもタイムマシンを使ったように詳しく分析することが可能になる。気候再解析は新たな気候学研究を支えるようになってきている。

なお、このブログの「データ同化に革新を引き起こした佐々木嘉和」で、データ同化と彼の功績を補足した。

(このシリーズおわり:次は「世界規模観測網(レゾー・モンディアル)と国際政治」)

2019年10月4日金曜日

気候学の歴史(9): 気候モデルとコンピュータ (History of Climatology (9): Climate model and computer)


 気象学(数値予報)とコンピュータ発達の黎明期(ENIACなど)との関係は本の10-2-2「電子計算機(デジタルコンピュータの出現)」の所で記している。同様にコンピュータの発達は気候モデルとも密接に関連している。コンピュータ発達の初期段階では、一部の核兵器研究と高エネルギー物理学分野を除いて、気象モデルや気候モデルはコンピュータに一般的な利用者をはるかに凌ぐ計算能力を要求したため、それがコンピュータのさらなる発達を促した面がある。

 また当初のコンピュータは、ハードウェアとソフトウェアが一体となって開発されていたわけではなく、コンピュータ会社が納入したのはハードウェアだけの場合も多かった。そのため、気象や気候の研究者と研究所のスタッフは、場合によってはオペレーティングシステム(OS)を含めて必要なソフトウェア類を自らプログラミングする必要があった。気象や気候のモデル研究者は、気象や気候の専門知識だけでなく、コンピュータ動作の高度なプログラミング能力を求められることも多かった[1]。

NCAR Mesa Laboratory, Boulder, Colorado
 さらに気候モデルを走らせるためのスーパーコンピュータは、一時期日米のハイテク摩擦を引き起こした。1985年にアメリカの国立大気研究センター(NCAR)はスーパーコンピュータの入札を行い、NECSX-2が落札した。しかしアメリカ議会の圧力でSX-2を購入できず、NCARCray社のスーパーコンピュータCray-2を導入した。

 19941996年に、再びスーパーコンピュータを巡る日米のハイテク摩擦が再燃した。NCARは老朽化したCray社のスーパーコンピュータを更新するための入札を行ったが、落札したのはやはり日本のNECだった。NECのスーパーコンピュータSX-4は当時のどんなコンピュータよりはるかに高い性能を持ったベクトルマシンだった。この抜群の価格対性能比の高さは波紋を引き起こした。Cray社は米国商務省に対してNECが入札で「ダンピング」を行ったと訴えた。商務省はCray社に味方して、454パーセントの関税をNECに課した。このためNCARSX-4を購入することができなかった。

 この商務省の決定を、再び議会の圧力によるものと見た人も多かった。訴訟が起こされ、それは最高裁判所まで行ったが、1999年の最高裁判所の判決は商務省を支持した。NCARは、世界で最も高性能なベクトル・コンピュータを購入できないことを嘆いた[1]。気候科学といえども国際政治と無関係というわけにはいかないのである。

 ちなみに次世代のNECのスーパーコンピュータSX-5は、その圧倒的な価格対性能比にCray社はついていくことができず、Cray社は結局NECのSX-5OEM化して販売することになり、スーパーコンピュータを巡る日米のハイテク摩擦は終焉した。

つづく

参照文献

[1] Edwards-2013-A Vast Machine: Computer Models, Climate Data, and the Politics of Global Warming, MIT Press.

2019年10月3日木曜日

気候学の歴史(8): 気候モデルと日本人研究者 (History of Climatology (8): Climate model and Japanese researchers)

気候モデルの開発には、日本人研究者が大きく貢献している。その初期の代表格は以下の3名であろう。彼らによるモデル開発の内容は、本の10-7-2「大循環モデルの発明」と10-7-3「気候モデルへの発展」で詳しく述べたので、ここでは概略のみを記す。

真鍋淑郎

 GFDLのスマゴリンスキーは東京大学から真鍋淑郎をスカウトした。真鍋は東京大学の正野重方教授の弟子で、いわゆる「正野スクール」の一人である。地球大気の熱収支に重要な役割を果たす二酸化炭素に高い関心を持っていた真鍋は、二酸化炭素濃度が上昇していることを知って、それによって気候システムがどう変わるのかに興味を持った。それを調べるためには、熱収支に大きな影響を及ぼす水蒸気を含んだ数値モデルを開発する必要があった。

 彼は1967年に同僚のウェザラルド(Richard Wetherald)と一緒に計算量が比較的少なくて済む簡潔な1次元数値モデルを開発し、二酸化炭素濃度を当時の2倍(600 ppm)にして計算を行った。そして、平均的な雲量のもとで地球の平均気温が2.36℃上昇するという結論を出した [1]。また地表が温暖化するだけでなく、地球全体の放射バランスから成層圏が寒冷化することも示した。

 さらに真鍋らは、1960年代後半から3次元の大循環モデルを開発した。1975年にそれを用いて2倍の二酸化炭素濃度で2.93°Cの気温上昇を予測しただけでなく、水循環の活発化、放射量の変化による成層圏の寒冷化、積雪域や海氷の後退などによる極域でのより強い温暖化が起こる予測を示した [2]。このモデル計算によって、「放射強制力」 という指標を用いた温室効果の定量的な議論が可能になった。

 これらの気候研究は、気候変動についての国際的な関心を高め、政治家や民衆へも影響した。1979年には、アメリカ科学アカデミーが暫定委員会で気候モデルによる将来予測結果を検討し、気候モデルの予想する気温上昇が将来起きるという結論を政府に提出した [3]。さまざまな気候モデルを用いた地球温暖化の将来予測の研究結果から、世界気象機関(WMO)などの主導によって、1988年に「気候変動に関する政府間パネル(Intergovernmental Panel on Climate Change: IPCC)」が設立され、また1992年には地球温暖化防止のための「気候変動に関する国際連合枠組条約」の採択へとつながった。 

 地球の将来気候の予測には大きな比熱を持つ海洋と大気間の相互作用を取り入れる必要があり、そのためには大気と海洋を結合した数値モデルが必要だった。彼は1969年に海洋学者ブライアン(Kirk Bryan)と協力して簡単な大気海洋結合モデルを作った。その結果、実際に近い気温と水温の高度(深度)緯度断面の結果を示すことができた [4]。さらに1975年に彼らはより現実に近い海陸分布や水蒸気の循環を入れた大気海洋結合モデルを開発し、そのモデルは全球の平均的な気温分布、風の分布、蒸発域、降雨域などの基本的な特徴をおおむね正しく表現した [5]。これは数値モデルによって温室効果ガスなどが変化した場合の気候を予測できる可能性を意味した。現在、大気海洋結合モデルは、気候予測や地球温暖化予測において広く使われている。

荒川昭夫

 一方で、UCLAのミンツは日本の気象庁にいた荒川昭夫をUCLAに招聘した。数学に秀でた荒川は、それまでできなかったGCMでの長期間計算を安定して行える新たなモデル手法を開発した。これによってGCMは気候を数か月以上にわたって計算することが可能になった[6]。また雲の効果を数値モデルで扱うための一般的なモデルプロセス手法(Arakawa-Schubert スキーム)を開発して、これらは世界中の多くのモデルで使われた。また、UCLA気象学部出身の研究者は世界各地の研究機関に移って、そこでUCLAGCMを広めた。

 笠原彰

 笠原彰は1954年に東大地球物理学教室からテキサスA&M大学などを経て1963年にアメリカの気象学者フィリップ・トンプソン(Philip Thompson, 1922-1994)の招聘でNCARへ移った。彼はそこで同僚とともにGCMをコミュニティ化したコミュニティ気候モデルを開発した。コミュニティ化とは、モデル内の主な過程をモジュール化し、またモデルの中身について徹底した文書化を行って、複雑で大規模な気候モデルを大勢の研究者が比較的容易に利用、改修できるようにしたものである。これは今日でいうソフトウェアの「オープンソース化」という発想に似ているかもしれない。NCARは多数の大学から成る大気研究大学連合(UCAR)によって組織されており、彼らのモデルはその関連大学の多くで使われた。

 気温などの予測を行うことによって、GCMは実質的に気候モデルとなり、さらに化学物質の循環の組み込みなどを通して地球化学や生物科学(植生など)とも関わるようになった。これらに関連するような過程を組み込んだモデルは地球システムモデル(Earth System Model)と呼ばれている。地球システムモデルは、IPCCでまとめられている地球温暖化の将来予測など、近年の地球環境問題の研究に欠かせないものとなっている。

つづく

(真鍋淑郎博士のノーベル賞受賞を受けて、2021年10月6日に補筆した。)

参照文献

[1] Manabe and Wetherald (1967), Thermal Equilibrium of the Atmosphere with a Given Distribution of Relative Humidity. Journal of The Atmospheric Sciences, American Meteorological Society, 24, 241-259.
[2] Manabe and Wetherald (1975) The Effects of Doubling the CO2 Concentration on the climate of a General Circulation Model. Journal of Atmospheric Sciences, American Meteorological Society, 32, 3-15.
[3] 田家 康 (2016) 異常気象で読み解く現代史. 日本経済新聞社. ISBN-13: 978-4532169879.
[4] Manabe and Bryan, (1969) Climate Calculations with a Combined Ocean-Atmosphere Model. Journal of Atmospheric Science, American Meteorological Society, 26, 786-789.
[5] Manabe S., K. Bryan , M.Spelman, (1975) A Global Ocean-Atmosphere Climate Model. Part I. The Atmospheric Circulation, Journal of Physical Oceanography, 5, 3-29.
[6] Spencer Weart-The Discovery of Global Warming-Arakawa's Computation Device-https://history.aip.org/history/climate/arakawa.htm

2019年10月2日水曜日

気候学の歴史(7):気候モデルの登場 (History of Climatology (7): Advent of General Circulation Model)


ノーマン・フィリップス
 回転水槽での実験のように地球上の大規模な大気の流れが普遍的な力学法則に従っているのであれば、コンピュータを使ったモデル計算で地球大気の平均的な流れを再現してみようと考えたのが、アメリカの気象学者ノーマン・フィリップス(Norman Phillips, 1923- 2019)だった。彼は第二次世界大戦の間に、空軍士官として気象学を勉強した後、シカゴ大学で数値予報実験に関わっていたアメリカの気象学者ジョージ・プラッツマン(George Platzman, 1920- 2008)の下で経験を積んだ。フィリップスは1951年にノイマンらが主催していたプリンストンにある高等研究所(Institute of Advanced Study)の気象学プロジェクトに加わるとともに、19531954年にはスウェーデンのストックホルムでロスビーのグループにも加わった。そういう意味では彼は当時最先端の数値予報のモデル開発の中心部にいた。

 ところがフィリップスは、当時開発していた数値予報のための準地衡風モデルを用いて、上記のように地球上の大気循環の再現という全く別な発想をするに至った。それは数時間から数日先の気象がどうなるかではなく、モデルを1か月近く走らせて、モデル内の風が地球の大気循環の平均的特徴を実際に再現するかどうかを調べるものだった。本の10-7-2「大循環モデルの発明」に記しているように、彼が1956年に準地衡風モデルを用いて行った計算結果は、地上風、ジェット気流、赤道から極域までの熱の正味の輸送、風の帯状分布などの現実の地球大気の基本的特徴を一部再現した。

これは気象モデルを使った計算結果が数値予報だけでなく、地球大気の物理学的メカニズム、ひいては気候のメカニズムの解明に使える可能性を示していた。このように地球大気の流れを比較的長い期間計算する数値モデルは大循環モデル(General Circulation Model: GCM)と呼ばれる。このフィリップスのモデルは、最初の実用的なGCMと考えられている。

 フィリップスによる結果は、気象学者たちにたいへんな興奮を引き起こした。数値予報の開発を牽引していた天才ジョン・フォン・ノイマン(John von Neumann, 1903 -1957)は、この成果を受けて直ちにプリンストンで会議を開催することを決め、また地球規模の大気循環解明のための研究提案を作った(「フォン・ノイマンについて(10)数値予報への貢献2」参照)。ノイマンはまもなく亡くなったが、いくつかの研究所でGCMの改善とそのモデルを使った計算実験が始まった。

 コンピュータを使ったGCMは、気候学を地域気候の特徴に重点を置いた統計科学から、全球規模の大気変動に焦点を置いた実験的な科学に変えた。それだけではなく、GCMはこれまであまり交流のなかった気象学の主な3つの分野、気象予報、力学的理論気象学、経験的な統計気候学を再統一した。[1]。そのため、GCMのようなモデルを用いた研究を気候科学と呼ぶ場合がある。

 GCMの開発が始まったが、本の「10-7-2 大循環モデルの発明」で記したように、当時GCMの開発とモデル実験を行ったアメリカの主な3つの研究所は、数値予報モデルの開発に携わったアメリカ気象局のジョセフ・スマゴリンスキー(Joseph Smagorinsky , 1924-2005)が率いる地球物理学流体力学研究所(GFDL)、ヤコブ・ビヤクネスの弟子であるイエール・ミンツ(Yale Mintz, 1916-1991)を中心としたカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)、アメリカ気象局が1960年に設立した国立大気研究センター(NCAR)だった。そして、それぞれが特徴的な手法でGCMの開発を行った際に、その何れの研究所でも日本人研究者が大きな役割を果たすこととなった。

つづく

参照文献

[1] Nebeker-2013-Calculating the Weather, Academic Press.

2019年10月1日火曜日

気候学の歴史(6):気候学の変革 (History of Climatology (6): New evolution of Climatology)

 地球は、太陽から放射エネルギー(熱)を受けている。地球全体で見ると年平均気温はほとんど変わらないので、これは物理学の法則からみるとこの惑星が熱平衡状態であることを意味している。言い換えると、最終的に地球が太陽から受け取る熱と同量の熱を宇宙へ放射している。これは地球が熱平衡状態にある限り、たとえ地球温暖化が起こっても変わらない。

 ただし、地球が太陽から受け取る熱は熱帯や極域など地域によって異なっている。地球の気温分布を考えると、熱帯では宇宙に放射するより多くの熱を太陽から受領して、極域では太陽から受け取るより多くの熱を放射している。したがって気候システムは、熱力学エンジンとして、熱帯で受け取った余剰熱を極域へ運搬する役目を果たしている。

 それゆえ、地球の気温分布は基本的に地球の「エネルギー・バランス」で決定されている。したがって、気候を何らかモデル化することは、地球の「エネルギー収支」から始まる。この「エネルギー収支」から地球気温を計算するためには、太陽放射、地表アルベド(反射率)、大気の吸収と放射のような要素を考慮する必要がある。さらに気温分布を知るには、大気や海の流れによる熱輸送を動的に考慮する必要がある。 

 ハンの「気候学ハンドブック」以来50年以上変わらなかった気候学だが、コンピュータと数値モデルが出現すると、状況が全く変わった。その発想が変わるトリガーの一つとなったのは、本の10-7-1「回転水槽(洗い桶)実験」に記したように、回転水槽実験である。これは第二次世界大戦後にアメリカとイギリスで始まった。アメリカのシカゴ大学では実験に当初食器洗いの桶を使ったことから「洗い桶(dishpan)」実験とも呼ばれている。この実験はアナログ・モデルの一種で、地球に見立てた粘り気がある流体を満たした水槽(桶)を一定の場所を熱しながら(太陽熱に相当する)、水平に回転させる。そうすると回転速度と温度勾配の条件(つまり熱輸送の状況)によっては、地球の高・低気圧と関連するプラネタリー波に似た流れの蛇行が水槽内に形成される。

 この実験から、地球上の大規模な大気の流れは、地球独特のものではなく力学と熱力学の法則に従った普遍的な現象であることが明確になった。これは物理学を使った気候学へのアプローチ、つまり数値モデルを用いた気候研究が可能であることを示した。

つづく

2019年9月30日月曜日

気候学の歴史(5) 気候データの保管 (History of Climatology (5): Climate observations archives)

 気候図とは別に、整理した気象観測値の保管も始まった。1873年のウィーンでの第1回国際気象会議で、アメリカ代表は気候や気象変化の研究のために、世界規模での同時気象観測結果を収集して発表するという提案を行って賛同を得た。そのためアメリカの陸軍信号部(Army Signal Office)では、1875年から各国からの報告をまとめて「国際同時観測報告(Bulletin of International Simultaneous Observations)」を出版した。その後、各国で観測された観測データの流通・交換を促進するため、1879年の第2回国際気象会議で国際気象機関(International Meteorological Organization: IMO)が設立された。ただし、当時は単に観測データを交換してもほとんど使えなかった。それは観測手法や時刻、単位が異なっていたからで、そのままでは他国と自国とのデータとの比較は困難だった。本の11-1「国際気象機関(IMO)の設立」で述べているように、IMOはその後この問題と長年格闘していくことになる。

 1905年に、フランスの気象学者テスラン・ド・ボール(彼については、このブログのレオン・テスラン・ド・ボールで紹介)は、全世界を代表する気象観測地点から観測データを組織的に電報で集めることを主唱した。これはレゾー・モンディアル(Reseau Mondial:世界規模観測網)と呼ばれた。これは賛同を集めて、IMOにレゾー・モンディアル委員会ができた。ところが、当初の壮大な計画は、既存の気象観測所から郵送等で集められた観測データを統計してその気候値を発表することに縮小された。しかし、あちらこちらに散在している気象データを1か所に集めて、整理する仕組みが整えられたことは画期的なことだった。

 各々の地点は統計値(例えば月平均値)を計算して、その結果を担当機関に送った。この整理作業は賛同する機関の協力の下でIMOのレゾー・モンディアル委員会が担当した。IMO1923年の会議で世界気象記録(World Weather Records: WWR)を発行することを決めた。これは1800年代初頭からの世界の観測所での月平均での気温、降水量、気圧の観測データをとりまとめるものだった。しかし、この作業は委員会では荷が重すぎたため、本の6-2-2「ヘンリーによる電報を使った気象観測網の誕生」で詳しく説明しているアメリカのスミソニアン協会(Smithsonian Institution)が、この作業を引き受けた。1927年にはWWRの第1巻が発行され、それ以来約10年毎に発行された。WWR 1959年に米国気象局に引き継がれ、現在は米国海洋大気局(NOAA)が担当している。このデータは今日ではデジタル化されて地球温暖化による気温の歴史的上昇を評価するための貴重な基礎データの一部となっている。

 近年では地球温暖化の関心の高まりを受けて、アメリカの国立大気研究センター(Center for Atmospheric Research : NCAR)と二酸化炭素情報分析センター(the Carbon Dioxide Information Analysis Center : CDIAC)が、気候変動の解析のために1992年から、6039地点の品質評価された地上気温観測データを用いたthe Global Historical Climatology NetworkGHCN)というデータベースを発行しており、WWRとあわせて多くの気候研究に使われている[1]。

つづく

参照文献

[1] Peterson and Vose-1997-An Overview of the Global Historical Climatology Network Temperature Database, Bulletin of the American Meteorological Society, 78, 12, 2837-2849

2019年9月28日土曜日

気候学の歴史(4) 気候統計とデータ処理 (History of Climatology (4): Climate statistics and data processing)


 18世紀後期と19世紀初期には革命などを経て一定の領域を統一的に統治する「国家」という理念が明確になってきた。国家はその維持や繁栄のために、国家の基礎となる国家人口、農業種の構成、課税対象物の生産量、国民の健康状態、人種構成、国民の富の分布のような新しい情報を必要としたため、そのような基礎統計の作成と提供を熱心に行うようになった。そして、そのような統計の対象に気象(気候)データも含まれていた。[1]

 このようなデータの統計作業には膨大な手間がかかる。そのためにそれを軽減する工夫が行われた。アメリカの発明家ハーマン・ホレリス(Herman Hollerith, 1860-1929)は、固い紙上のあらかじめ定義された位置の穴の有無で情報を保管、処理するパンチカード(punch card)とその集計機(Tabulating machine)を発明し、1890年の米国の国勢調査で初めて使用された。彼はそれをもとに後にIBM社となる会社を興した[2]
パンチカード

 毎日定時観測される多数地点の気象データを人手で統計処理するにも膨大な手間がかかる。そのためにやはり処理の機械化が考えられるようになり、20世紀に入ると大量の気象データの統計処理(つまり気候データ化)にパンチカード・システムが使われるようになった。

 イギリスでは船の航海日誌の風データを使って海洋上の風配図を作成するために、1920年頃からパンチカード・システムを用いた。するとオランダ、ノルウェー、フランス、ドイツなどが気候学のための気象統計にそのシステムを導入するようになった。1927年に、チェコの気象学者L. W.ポラック(L. W. Pollak)は、安価なカードパンチシステムを開発した。さらにチェコでは気象観測地点でパンチカードにデータを直接記録して中枢の表作成部門に送ることを可能にした[3]1930年代には、多くのヨーロッパの国家気象局は、気候統計のためにパンチカード・システムを導入した。このシステムは日本でも軍など一部では用いられたが、当時の中央気象台では金銭的な余裕がなく、少なくとも戦前は用いられなかった[4]

 パンチカード・システムを使った処理はそれまでの人手による計算によって起こっていた多くのエラーを無くし、それまでより多くのデータを誤りなく高速で処理することを可能にした。またパンチカード・システムは、パンチカードの高速での仕分けや作表、記録された欠落データや誤データの確認にも利用された。これによって大量の気象データが、迅速かつ正確に気候データへと整理できるようになった。このパンチカード・システムは気候値の作成だけでなく、後に数値予報の初期には気象データのコンピュータへの入力にも用いられた。

つづく

[1] Nebeker-2013-Calculating the Weather, Academic Press.
[2] Edwards-2013-A Vast Machine: Computer Models, Climate Data, and the Politics of Global Warming, MIT Press.
[3] Fleming-2005- Historical Perspectives on Climate Change, Oxford University Press.
[4] 荒川秀俊-1947-気象学発達史, 河出書房.

2019年9月26日木曜日

気候学の歴史(3)気候学研究の始まり (History of Climatology (3): Beginning of climate study)


 19世紀後半から増加した観測地点の結果を用いて、イギリスの気象学者アレキサンダー・バカン(Alexander Buchan, 1829-1907)は、18671869年に気圧についての初めての世界分布図「The Mean Pressure of the Atmosphere and the Prevailing Winds over the Globe for the Months and for the Year」を発表した。アメリカの数学者兼気象学者ジェームス・コフィン(James Coffin, 1806-1873)らは世界の3223地点の風のデータをまとめた「The Winds of the Globe」を1875年に出版した。

 1872年から1876年にかけてイギリスの軍艦チャレンジャー号は、ほぼ全世界を巡る有名な探検航海(Challenger expedition)を行った。その際に海洋学の調査だけでなく、気象や海流も同時に観測を行った。バカンは、チャレンジャー号の観測結果を整理して1889年に「Report on Atmospheric Circulation」を気候図として発表した。これは陸上だけでなく海洋上の観測データを含んだものとして大きな意義があった。

ユリウス・ハン
 オーストリアの気象学者ユリウス・ハン(Julius Ferdinand von Hann, 1839-1921)は1882年に「Handbuch der Klimatologie(気候学ハンドブック)」を発表した。これによって近代的な気候学が誕生した。彼はその本で気温の緯度などの惑星規模の物理学的特徴に重点を置き、気温が緯度によってどのように異なるべきかなどの研究を理論的に説明した。これは、今日の「地球のエネルギー収支」の考え方の元となるべきものである。それでもハンは、気候学の大半を統計的な研究とみなした[1]


 ドイツの気象学者ウラジミール・ケッペン(Wladimir Köppen, 1846-1940)は、本の5-1-2「気候図の発明」で述べているように、1884年に細かく気候区分を分類した世界気候図を作成した。これは植生分布と強く関連しており、何度も改訂されて有名な「ケッペンの気候区分」となって産業や農業などに広く利用されるようになった。

 気候学の内容はそれから50年間はほとんどハンの本の伝統のままで、言ってみれば地理学に近かった。1951年にはイギリスの気象学者C. S.ダーストは次のように述べている「現在行われているように、気候学は主に進展に重要である物理学的な理解の基礎を持たない統計研究である。」[2]

 20世紀に入ると、有用な気候図として1919年にはイギリス気象局から「Barometer Manual for the Use of Seaman」が発行され、アメリカの気象局や水路局(Hydrographic Office)は各海域の「Pilot Charts」を発行した。日本でも1931年に中央気象台が発行した「The Climate of Japan」の付図として「日本及隣邦気候図」が刊行された[3]

つづく

参照文献

[1] Edwards-2013-A Vast Machine: Computer Models, Climate Data, and the Politics of Global Warming, MIT Press.
[2] Durst-1951- Climate—The Synthesis of Weather. In: Malone T.F. (eds) Compendium of Meteorology. American Meteorological Society, Boston, MA.
[3] 中央気象台-1931-中央気象台欧文報告第4巻第2

2019年9月25日水曜日

気候学の歴史(2)当初の気候観測と人間生活の関わり(History of Climatology (2): The relationships between initial climate observation and human life)


 18世紀以降、イギリスの哲学者フランシス・ベーコン(Francis Bacon, 1561-1626)による「人間による自然の解明と利用」という考えが広まってくると、本の3-2「科学的な考え方への転換」に記したように各地の気象観測には、普遍的な自然法則を帰納的に導き出すためのデータの収集と蓄積という面が加わった。アメリカの政治家トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson, 1743-1826)など当時の大勢の人々は、法則性がわかれば土地の開拓が局所あるいは地域の気候を人間に有利に変えることができると思っていた[1]

 そういった蓄積された気象データに目を向けることによって、フランスの歴史家ジャン=バティスト・デュボス(Jean-Baptiste Dubos, 1670-1742)や思想家シャルル・ド・モンテスキュー(Charles-Louis de Montesquieu, 1689 -1755)は、本の3-3-4「医学や農業への気象データの利用」に記したように気候と人類文明発達との関係を考察した。またアメリカの自然科学者ベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin, 1706-1790)は、本の3-6-2「ベンジャミン・フランクリン」に記したように大規模な火山噴火が、その後の冷夏と厳冬という人間生活に大きな影響を与える気候変動を引き起こしているかもしれない、という画期的な考えを初めて示した。

 19世紀に入ると、それまでの地域的な気候と異なり、系統的に世界の気候を調べることが始まった。その代表的な研究者はドイツの博物学者アレクサンダー・フォン・フンボルト(Alexander, von Humboldt, 1769-1859)で、本の5-1-1「アレクサンダー・フォン・フンボルトについて」に記したように、彼は58か所の地点の気象データを用いて1817年に北半球の緯度・経度上に等温線を示した有名な気候図を作成した。1823年にアメリカの聴覚障害者の学校教師だったウィリアム・ウッドブリッジ(William Woodbridge, 1794 -1845))がフンボルトの協力を得て、それを海岸線を含めた全世界の図に拡張した。ドイツの気象学者でフンボルトとも親交のあったハインリッヒ・ドーフェ(Heinrich Dove, 1803-1879)は、1852年に900か所の観測所データを使って気候図を年平均値ではなく月平均気温の図にして発表した。

 また18世紀頃から人々は健康と気候との関係に注目し始めた。これはギリシア時代の医師ヒポクラテスの生気象の考えを復活させて、観測データを使って発展させようとする面があった。本の3-3-4「医学や農業への気象データの利用」に記したように、18世紀後半からドイツの医師カノルドやイギリスの医師アバースノットは気候と健康の知識の普及を図ったし、フランスの財務総監デュルゴーやアメリカ陸軍は、健康と気象との関係を調べるために気象観測網を作って観測を行った。また19世紀に正規分布という数学を使って平均的な人間像とそのばらつきを示して自然科学の統一を推進した「近代統計学の父」アドルフ・ケトレー(Adolphe Quetelet, 1796-1874)は、統計学を気候学に適用して、気候がどのように人間の健康に影響を及ぼすかを調べた。

 アメリカの海軍士官マシュー・モーリー(Matthew Maury, 1806-1873)は1852年に各海洋上で平均的な風向や海流を示した「Wind and Current Chart」を発表した。この情報は船の航海日数を格段に短縮することに貢献した。本の11-1「国際気象機関(IMO)の設立」で記したように、彼は1853年に海洋上の気象観測を共通の手法にするための国際会議をブリュッセルで開催した。これには10か国から代表が出席したが、ベルギーのケトレーを除いて他の出席者は海軍士官だったため観測手法の適用対象は軍艦と自発的に賛同する船に限られた。しかも各国で実際に行われた手法は必ずしも合意した手法とは限らなかったが、とにかくも海上で気象観測を行って結果を残すことが国際的に決められた意義は大きかった。

 19世紀後半になると気象観測結果を電報を使って集めて、嵐に備える警報が発表されるようになった。すると、従来の気候観測のための気象観測網に加えて、警報のための気象観測網が整備されるようになった。両者の観測内容は基本的に同じであるが、警報のためのデータは即時的に必要部分だけ使われたのに対して、気候のための気象データは手間と時間はかかったが各地の結果がきちんと整理され記録として残された。気候観測網は、気象観測網の発達の影響で一時期整理されかけたこともあったが、結局は多くの国で重複しながらも別々に維持された。気候学のための観測ネットワークは、1908年までに世界で2000以上の観測地点から成り、そのほとんどボランティアによって維持された[2]。

つづく

参照文献

[1] Fleming-1998-Historical Perspectives on Climate Change, Oxford University Press.
[2] Edwards-2013-A Vast Machine: Computer Models, Climate Data, and the Politics of Global Warming, MIT Press

2019年9月24日火曜日

気候学の歴史 (1)気候(気象)観測の始まり (History of Climatology (1): Beginning of meteorological observations)

 「気象学と気象予報の発達史」(以下「」)では、近代以降は主に天気予報に焦点を当てたため、気候に関する事項は、断片的になっている。そのため、ここで気候学の歴史を概要ながらまとめて説明しておきたい。

 もともと気象を観測する目的は、湖の水位や川の流量などの水文学と関連することもあったが、その地域の平均的な気象(気温や風、雨量)つまり気候を得ることにあった。平均的な気温や雨量などを示す気候から、その土地に向いた農作物などを知ることができた。本の3-3「学会の誕生と気象観測」に記したように、17世紀のイタリア、トスカーナの「実験アカデミー(Accademia del Cimento)」やイギリス、ロンドンの「王立協会(Royal Society)」は、気象測器を開発して、各地の気候を知るための国際規模の気象観測網を構築した(各気象要素の測定器の開発は本の4章「気象測定器などの発展」に詳しい。これは後の物理や化学の発展の礎を築いた)。後の様々な組織による気象観測網を含めて、各地の気候を知る目的には気象の法則を知ろうとしただけでなく、その地域の気候を知る目的も含まれていたと思われる。

 観測された気象データは本の中で表にして刊行されたが、日々蓄積している膨大な数値を目で見て理解して利用することは容易ではなかった。そのため17世紀頃から観測結果をグラフ化することが始められた。オックスフォード大学の自然研究者ロバート・プロット(Robert Plot, 1640-1696)は,1684年に気圧値を線グラフ化して王立協会の「哲学紀要(The Philosophical Transactions of the Royal Society)」に発表した。オランダの科学者ペトルス・ファン・ミュッセンブルーク(Pieter van Musschenbroek, 1692-1761)は1729年に出版した『実験物理学・幾何学論考(Dissertationes physicae experimentalis et geometricae de magnete)』の中でやはり気圧のグラフを示した。これは気象学におけるグラフの普及に影響をおよぼした[1]。その前後から観測結果を各地でグラフ化して分析することが行われるようになったようである。


「実験物理学・幾何学論考」中のウルトラジェクティナ州の気圧の変化(1月)。
Dissertationes physicae experimentalis et geometricae de magneteより

 また本の3-4-1「広域で定常的に吹く風の発見に記したように、16世紀頃からの大航海時代に積み重ねられた大西洋や太平洋、インド洋上の風の知識から、17世紀頃には恒常風と呼ばれるほぼ年間を通して向きが変わらない風があることもわかってきた。これらの風の情報は帆船での航海を安全かつ効率的にすることに貢献した。

 この地球規模の風が持つ規則性に注目した人々がいた。ハレー彗星で有名なイギリスの天文学者エドモンド・ハレー(Edmond Halley, 1656-1742)はセントヘレナ島へ行った際の経験などから、17世紀に貿易風やモンスーンの原因を考察した。彼は、本の3-4-2「ハレーによる貿易風の説明」に記したように赤道域の太陽によって熱せられた空気が上昇する領域が、時刻が移ると太陽とともに西に動くため、低層で東風が吹くと考えた。これは今日から見ると間違っているが、多くの書物に取り上げられて、19世紀まで広く信じられた。なお彼は赤道域の卓越風の風向図も1688年に哲学紀要に発表した。彼は磁気の等偏角線の図も発表しており、これが等値線を地図にするという考え方の始まりとなった。この等値線を描いた地図はフンボルトの気候図などに引き継がれていった。

 王立協会の気象観測網からのデータ整理を担当していたイギリスのジョージ・ハドレー(George Hadley, 1685-1768)は18世紀にハレーの説を否定して、本の3-4-3「ハドレーによる大気循環の説明」に記したように、熱帯域で上昇した空気は上層で高緯度へ向かい、やがて下降して赤道に戻る。その際に低緯度の方が地球自転による速度がより速いため、低緯度に向かう空気は赤道域で東風になることを示した。彼はこの大気の流れを「循環(circulation)」という言葉で表した。それ以降、今日に至るまで地球規模の大気の流れは「循環」という言葉を使って表されている。彼の説は19世紀になってから、ハレーの説に変わって取り上げられるようになった。

つづく

参照文献

[1] 濱中 春-2017-面と線の意味論 : ゲーテと1820年頃の気象学のダイアグラム, 社会志林, 64-, 3, 41-67, http://hdl.handle.net/10114/13821

2019年7月28日日曜日

「気象学はこうして生まれ発展してきた」

月刊「望星」(東海教育研究所)は8月号で「天気は悪くありませんー気象予報の2000年」という特集を組んだ。私は編集部から取材を受けて、その内容はその特集の中で「気象学はこうして生まれ発展してきた」というタイトルの記事になった。

記事の中身は特集の中の「天気予報ことはじめ」とあわせて「気象学と気象予報の発達史」の概要を知るには格好の内容となっている。(一部は立ち読みコーナー参照)。「望星」編集部には感謝を申し上げたい。

また、この特集には他にも田家 康氏が「そのとき、天気は動いた?」という題でやはり記事を出されている。同氏は人類と気候との関係に多数の著書を出されている専門家で、人間と気候との関係に興味深い記事を書かれている。また他にも天気と病の関係などの記事もあるので、興味のある方には参考になると思う。

 (次は「気候学の歴史(1) 気候(気象)観測の始まり」)


2019年7月13日土曜日

雪の観察 (Observation of snow crystals)

雪の結晶(snow crystals)は美しいものが多いが、6角形(hexagon)になっているものが多い。そのことに最初に気づいたのは中国の前漢の詩人韓嬰(Han Ying, ~BC200-BC130)とされている。彼が紀元前135年に書いた詩集「韓詩外傳(Han Shi Wai Chuan)」には雪の花には6つの花弁があることが記されている [1]。しかしながら西洋においては、少なくとも記録に残っている限りでは雪が6角形であることに気付くのは遅かった。ドイツのケルンの神学者アルベルトゥス・マグヌス(Albertus Magnus, 1193-1280)は、1260年頃に雪片について星形の記述を残し、スウェーデンの聖職者であったオラウス・マグヌス(Olaus Magnus, 1490-1557)は、1555年に6方の雪のスケッチを残した [1]。

西洋の文献において雪の結晶が6角形であることを初めて主張したのは、1611年にヨハネス・ケプラー(Johannes Kepler, 1571-1630)が書いた「6角形の雪片について(Strena Seu de Nive Sexangula)」とされている。彼はその観察の際にレンズを使った拡大鏡を使ったようである[1]。また、1665年にはロバート・フック(Robert Hooke, 1635-1703)が「顕微鏡図譜(Micrographia)」において六方晶系の雪の結晶を精密に描いて、軸から分岐した小枝はすべて隣の軸と平行していることを発見した(彼については「ロバート・フックと気象観測 」を参照)。1681年にはイタリアの数学者ドナト・ロセッティ(Donato Rossetti, 1633-1686)が初めて雪を5種類に分類した [2]。

日本においては室町時代後期の公卿である三条西 実隆(Sanjonishi Sanetaka, 1455-1537)が肉眼で観察した雪の結晶を記録して六花と表現した[3]。また江戸時代の蘭学者で浮世絵師でもある司馬江漢(Shiba Koukan, 1747-1818)は顕微鏡を使って絵を描いたが、その中に雪の結晶もある。さらに江戸後期にヨーロッパの訳書から雪の結晶に興味を持った大名がいた。それは私の本の3-6-3「ヘンリー・ピディントン」で紹介した古河藩主土井利位(Doi Toshitsura, 1789-1848)で、天保8年(1837年)に「大塩平八郎の乱」を鎮定したことでも知られている。彼はオランダの教育者ヨハネス・マルチネット(Johannes Florentius Martinet, 1729-1795)が書いた「格致問答(Katechismus de Natuu)」という子供向けの教科書に書かれた雪の結晶図を、通訳である猪俣昌之の訳で知った。それを参考にして自ら雪の結晶を顕微鏡で20年間観察して描いたものを、天保3年(1832年)に「雪華図説(Sekka Zusetsu)」、天保11年(1840年)には「続・雪華図説(Zoku-Sekka Zusetsu)」として刊行した [4]。


浮世絵の着物の柄に使われた
雪花模様

これは私家版として刊行されたためあまり知られなかったが、後に雪国の生活を描いて有名になった「北越雪譜」にその一部が取り入れられたため、広く知られるようになった。「雪華図説」に描かれた雪の模様は、土井家の着物や調度品の模様として使われただけでなく、描かれた雪の模様の美しさは当時の一般の人々の関心を引き、当時の着物や櫛の柄や千代紙の模様などに幅広く使われた。この雪の模様は、歌川国貞や歌川豊国などの浮世絵の中で女性の着物の柄などにも使われている。


セシリア・グレーシャーによる
雪の結晶のスケッチ
イギリスの有名な気象学者グレーシャーの夫人であるセシリア・グレーシャー(Cecilia Glaisher, 1828-1892)も、夫と協力して1855年に151種の雪の結晶を精巧にスケッチして「On the Severe Weather at the beginning of the year 1855: and on Snow and Snow Crystals(1855年初期の顕著気象について:また雪と雪の結晶について)」に発表したことで知られている。このスケッチの素晴らしさは、北海道大学理学部教授で雪の研究の権威だった中谷宇吉郎(Nakaya Ukichiro, 1900-1962)が、著書「雪」の中で触れている。


雪の観察には19世紀末から顕微鏡写真の技術が使われるようになった。雪の結晶に魅せられたアメリカの農夫ウィルソン・アルウィン・ベントレー(Wilson Alwyn Bentley, 1865-1931)はパーキンスとともに「雪の結晶の研究(A Study of Snow Crysitals)」で雪の写真を初めて広く紹介した[1]。彼は生涯に6000種類もの雪の結晶の顕微鏡写真を撮り、その一部は1931年にアメリカ気象学会から「雪の結晶(snow crystals)」という題で出版され、世界的に有名となった。
ベントレーが撮影した雪の結晶
(From A Study of Snow Crysitals)

ナカヤ・ダイアグラム

前述した中谷宇吉郎は、雪の研究で世界的に知られている。彼はベントレーの研究に啓発されて雪の研究を開始し、世界で初めて実験室で人工的な雪を作り出した。またさまざまな実験から、降ってきた雪の結晶の形からその結晶が成長した大気状態が推定できることを発見した。この大気状態と雪の結晶の関係を示した図はナカヤ・ダイアグラム(Nakaya Diagram)として知られている。雪の結晶から上空の大気状態を推定できることから、彼は有名な言葉「雪は天から送られた手紙である」を残した。しかし、この言葉は中谷自身も触れているように、1611年のケプラーによる「雪片は、天国から降りてきて、星のように見える」と述べた研究を踏まえたものである。

(次は「気象学はこうして生まれ発展してきた」

参照文献

[1] Nakamura and Cartwright-2016-De nive sexangula - a history of ice and snow - part 1., Weather, 71, 291-294.
[2] 中谷宇吉郎. 雪. 青空文庫. (オンライン) (引用日: 2018年1月18日.) http://www.aozora.gr.jp/cards/001569/files/52468_49669.html.
[3]Nakamura and Cartwright-2017-Cultural history of the snow crystal, a history of ice and snow - part 3, Weather, 72, 272-275.
[4]. 雪の華-『雪華図説』と雪の文様の世界. 古河歴史博物館. 1995年.

2019年6月26日水曜日

気象観測と時刻体系 (Meteorological observation network and time system)

今では時刻は生活とは切っても切れない重要な役割を果たしているが、産業や物流が発達する前は、その精度は今ほど重要ではなかった。正午とは文字通り太陽がその土地での子午線を通過する時刻だったので、正午は経度によって異なっていた(地方時)。時刻は教会や寺の鐘、あるいは大砲などで知らせており、ほとんどの人にとってはその聞こえる範囲が同じ時刻を共有している範囲と言えた。

人や物の移動速度が遅い時代には、それぞれの地域が地方時を使っていてもそれでほとんど問題は起きなかった。しかし、19世紀半ばからのヨーロッパやアメリカでの鉄道網の発達は、地方時の問題に焦点を当てることとなった。当時はほとんど単線であり、列車は予め
決まった時刻に決まった地点で脇線に待避してすれ違う必要があった。それぞれの列車が出発地点の地方時を用いると、単線上で衝突する恐れがあった。鉄道網の拡大にともなって事故が多発するようになると、これが大きな問題となった。各鉄道会社は線路に発明されたばかりの電信線を引いて、独自の統一した標準時刻体系を整備して衝突を回避するようになった。

一方で、瞬時に情報を伝達する電信の普及も各地の時刻の違いをクローズアップするようになった。電信を使った電報によって起こるようになった問題の一つは、広域で行われる気象観測の時刻だった。19世紀半ばまでの気象観測は気候を目的としており、気候は主に日射によって駆動されることを考えると、気候のための観測時刻はむしろ太陽高度角同期(つまり地方時)の一定時刻の方が都合が良かった。ところが警報のために各地の気象観測の結果が電報で収集されるようになると、それに基づいた天気図の作成は同時刻の観測である必要があった。そうでないと例えば同じ低気圧が天気図上であちこちに現れることとなる。そのため、気象観測(地上実況気象通報)は共通の時刻を用いて各観測所で一斉に行う必要があった。


この問題に最初に取り組んだのはアメリカだった。本の「6-2-5 アッベによるアメリカでの国家気象機関の設立」で書いたように、アメリカの国家気象局であった陸軍信号部の気象学者クリーブランド・アッベ(Cleveland Abbe, 1838-1916)は、全米各地の気象観測所の観測時刻を統一することを考えた。しかし、彼は気象観測網内の時刻の調整ではなく、この際にアメリカ国内の時刻体系を整備しようと考えた。彼は鉄道会社や電信会社の協力を得て報告書を出し、1883年にはアメリカの総合時刻会議が開催されて、子午線を基準に1時間の時差を定義する全米の時刻体系が決定された。


さらに1884年にワシントンで国際子午線会議(International Meridian Conference)が開催され、イギリスのグリニッジ子午線を標準時とする1時間単位の時刻体系を全世界で採用することが決まった(世界標準時)。この時のアメリカ代表は陸軍信号部のアッベだった。これで全世界の時刻が子午線に基づいておおむね1時間単位で揃うこととなった。気象観測は世界の時刻体系の決定に大きな役割を果たした。ただし、肝心の気象観測は、アメリカ以外では20世紀に入ってもなかなか世界標準時に統一されなかったようである。

気象観測時刻の同期の問題は日本でも起こった。本の「7-3-3警報のための諸準備」の所で述べたように、1883年に日本で電報による気象観測の収集が始まると、それまで地方時で行われてきた各地の測候所の観測時刻を統一する必要が出てきた。日本で気象観測体制を作って暴風警報を開始したドイツ人エルヴィン・クニッピング(Erwin Knipping, 1844-1922)は、統一した観測時刻に京都時を採用した。これは京都は経度的に見て日本の中央に近く、また江戸時代まで天皇が住んでいて日本人に馴染みがあったためのようである。


当時の気象観測は内務省が行っており、国際子午線会議に基づいて1886年に日本標準時の基準を明石市を通る東経135度に選んだのは、内務省の気象観測が京都時を採用していたことも一因となったようである。時刻制度は国の根幹となるインフラストラクチャーの一つである。気象観測は日本の時刻制度の構築にも影響を与えた。

 (次は「雪の観察」)

2019年5月29日水曜日

ヨーロッパでの竜巻研究についての補記 (Supplement for tornado studies in Europe )

20世紀初めの有名な気象学者ウェーゲナー(Alfred Wegener, 1880-1930)のヨーロッパの竜巻に関する調査に光を当てた論文[Antonescu et al., 2019]が出たので、それをもとにヨーロッパでの竜巻研究について補足しておきたい。気象学者ウェーゲナーについては、ケッペンについて2で述べたが、改めて紹介する。

彼はドイツの気象学者で北極圏の探検者でもあり(グリーンランドの探検中に遭難して亡くなった)、むしろ近年は大陸移動説(continental drift)を最初に唱えた人物として有名である。彼の専門は幅広く、その研究分野は気象学、地質学、地球物理学、古気候学、流星学にまで及ぶ。気象学もその中で雲物理、熱力学、大気成分の鉛直分布、大気光学の論文がある。さらに彼の竜巻に関する本(Wind- und Wasserhosen in Europa, ヨーロッパにおける竜巻)がこの論文[Antonescu et al., 2019]で紹介されている。

ウェーゲナーは、1906年からのデンマークによる北極探検隊に高層気象観測者として参加した。その際にグリーンランドのビスマルク岬(Cape Bismarck)から竜巻(watersprout)の集団発生を目撃して竜巻に興味を持ったようでである。ウェーゲナーはヨーロッパ各地の竜巻報告を収集して分析することにより、竜巻の気候学と一般的な性質の解明を行った。そして1917年に彼は上記の本を出版した。私は「気象学と気象予報の発達史」(以下、私の本)の中で、「ヨーロッパでは発達した低気圧による被害はあっても、ハリケーンや竜巻に直接襲われることは少ない。」と書いたが、不正確であったようである。ウェーゲナーは本の中で、ヨーロッパで毎年少なくとも100個の竜巻発生を推定している([Antonescu et al., 2016]によると2000-2014年のヨーロッパでの竜巻発生は平均すると毎年242個だそうである)。ヨーロッパの竜巻は決して少ないとはいえない。ここで訂正しておく。

ヨーロッパでの竜巻に関する最初の詳細な研究は、フランスの物理学者ペルチェ(Jean Peltier, 1785-1845)による。彼は異なる金属を接合して電流を流すと、接合点で熱の吸収・放出が起こる「ペルチェ効果」の発見者として知られており、この効果を使った機器は現在いろいろな所で使われている。ペルチェは1456年から1839年までの竜巻の報告を集めて研究し、1840年にこれを電気現象と結論した[Antonescu et al., 2019]。私の本の6-1-6 「アメリカ暴風雨論争」で述べたように、この頃、アメリカではペンシルベニア大学の化学の教授であるヘア(Robert Hare, 1781-1858)は、嵐の原因を電荷に対抗する電流が引き起こす現象と主張しており、大気現象に電気が関わっているという説は、特殊なものではなかった。

ちなみにペルチェが15世紀からの古い竜巻の記録を収集できたのは、私の本の2-2-3 「印刷技術などの発達とその影響」で書いたグーテンベルクによる活版印刷技術の発明(1445年頃)が関係していると思われる。読みやすい活字による本の大量印刷は、各地での知識の集積と保存を可能にし、図書館などを通した知識へのアクセスを劇的に改善することで、科学などの発達に大きく貢献した。ペルチエの研究の後、ドイツの数学者ライエ(Theodor Reye, 1838-1919)は、1872年に地表加熱が竜巻の原因と唱えたが、ウェーゲナーは、ペルチェとライエの説を否定し、竜巻はガストフロントの渦の一部(vortex filaments)であると主張した。

ウェーゲナーは第一次世界大戦に従軍しており、最初は歩兵として2度負傷した。1916年からは彼は気象士官となって西部戦線近くの軍の気象観測所で従軍した。戦況によって場所を移動しながらではあったが、気象観測所では落ち着いて調査と執筆が行えたようである。彼は上記の竜巻に関する本を1917年に出版した。

私の本の9-2-1 「ノルウェーの危機とビヤクネス」で書いたように、ノルウェーの気象学者ヴィルヘルム・ビヤクネス(Vilhelm Bjerknes, 1862-1951)は戦時の物資不足と多くの部下の戦死によりドイツでの天気予報の理論研究を断念し、ノルウェーに戻ってからは祖国の食糧危機を救うべく実践的な天気予報を開始した。9-3-2 「戦場下での数値計算」では、イギリスの気象学者リチャードソン(Lewis Fry Richardson, 1881-1953)は、やはり西部戦線で救急車を運転しながら、気象予測の数値計算を行ったことを書いた。リチャードソンは砲撃下の運転で戦後にストレス障害に悩まされた上に、イギリス気象局が軍の管轄に入ると、毒ガスへの利用を恐れて自身の気象研究を全て破棄した上で気象局を辞めた。戦争は当時の気象学者たちにも大きな影響を与えたのである。

なお、ケッペンについて2 で書いたように、ウェーゲナーは1925年にオーストリアのグラーツ大学の地球物理学と気象学の教授となったが、1930年に3度目のグリーンランド探検の途中で遭難し消息不明となったままである。

(次は「気象観測と時刻体系」)

参照文献

  • Antonescu et al.-2019-100 YEARS LATER Reflecting on Alfred Wegener’s Contributions to Tornado Research in Europe, BAMS, DOI:10.1175/BAMS-D-17-0316.1
  • Antonescu et al.-2016-Tornadoes in Europe: Synthesis of the observational datasets. Mon. Wea. Rev., 144, 2445.2480, https://doi.org/10.1175/MWR-D-15-0298.1.