2019年1月10日木曜日

古代中国での気象学(2)天人相関思想

 儒学者の董仲舒(紀元前176年-紀元前104年?)は、君主の専制的権力を意義づけるために、「天人相関思想」に基づく災異説という新しい統治のイデオロギーを提示した。これは君主によって政治が悪化すれば、天はそれを咎めて災害を起こすというものである。

 天変はその前兆とされたため、統治者は常に天を観察して、天に何か異常があると前兆としての意味を読み取って、厄災を免れるために謹慎や読経、厄払い儀式など政治にそれを反映させる必要があった。つまり、天への働きかけによって厄災を免れることができると考えられたのである。そのため、天の意思である天体の動きを観測してその位置や食などの異常の有無の確認と、異常の際のその解釈は為政者にとって重要な仕事となった。

 これは一種の占星術であった。君主は何かあると神官や占星術者に相談してその意見にしたがって政治的決断を下した。天文学者や占星術者は、極めて力を持つ政治顧問となった [1]。


董仲舒
 前漢の武帝の時代に仕官、太史令となった司馬遷は、紀元前91年に史記「天官書」を編纂した。天官書には、雲の色、風向、雨、気温などの状態、月、惑星の運行を使って干ばつや作物の豊凶占う方法 [2]とともに、天の異常の際にそれがもつ意味が詳細に記述されている。もし天体に異常があると、それに対応する職位や地域に影響があると考えられ、それを特定して回避するための祈祷や祭祀が行われた。

 そのようにして気象を含む自然の動向の解釈や占いは、現実の政治と深く関わっていった。そのような祭司は政府の中で天文や気象を司る担当者の大切な仕事となった [2]。また、天人相関思想によると、天が人に影響するだけでなく人の気も天の気に影響すると考えられ、それが雨乞いなどの原理となった [3]。

 これは徳治政治という考え方の元ともなった。日本でも天人相関思想に基づいた徳治政治の影響を受けて、平安時代の頃まで天災により飢饉などが発生すると、朝廷は加持祈祷を行い、天皇は自身の徳を示すため恩赦などを行った。これらも引いては天人相関説に基づいている。

司馬遷
 時代が下ってくると、占星術の解釈の一部は天体の状態などの実体をも離れ、「暦注」などで予め決めておく簡便法がとられるようになった。そうすると天体を観測する必要もなくなり、もはや占星術からも離れて俗信や迷信となっていった部分もあった [1]。

 先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口を表す六曜もそういった暦注の一つである。これらの考えは近世になって西洋の科学的な考えが入ってくるまで長く続いた。今日でもこのような暦注を記しているカレンダーがあり、人によっては行動に影響を及ぼしている。

つづく

(なお、天人相関説については「天人相関説と気象学(1)中国での天人相関説天人相関説と気象学(2)日本での天人相関説」でさらに詳しく述べている。)

[1]中山茂. 占星術 その科学史上の位置. 東京 : 朝日新聞社, 1993. ASIN: 4022607602.
[2]田村専之助. 中国気象学史研究下巻. 三島市 : 三島科学史研究所, 1981.
[3]荒川紘. 天の思想史. 出版地不明 : Shizuoka University REpository, 2001. ページ: 22, 人文論集. 51(2), p. 1-22. doi.org/10.14945/00000405.

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