2023年7月31日月曜日

独ソ戦における長期予報(3)

独ソ戦の開始と気候への理解

ヒトラーは1941年6月22日にソ連への侵攻を開始した。この開始は当初は5月の予定であったが、想定外のユーゴスラビア政変による侵攻によって、最初から遅れたものとなった。当初に立案された作戦計画は、初戦時の数回の会戦でソ連軍を圧倒し、長大な補給線を必要とするモスクワまで最大120日程度で一気に達するという甘い見通しに立ったものだった [1]。

これはフランスで行ったような電撃戦を想定していたものだったが、ソ連領内は道はほとんど舗装されておらず、当然ガソリンスタンドもほとんどなく、フランスでの電撃戦と同じように行かないことは明白だった。補給は主に列車に依るしかなかったが、ドイツ内とソ連内では軌道の幅が異なっており、列車による輸送も困難を抱えていた。ドイツ軍というと機械化部隊のイメージが強いが、後方の輸送は人馬が主体であり、駅からの補給の多くは人馬に依った。さらに、急速に進撃したドイツ軍の背後に取り残されたソ連軍による補給線への攻撃も補給を困難にした。

1941年6月に進撃するドイツ軍
https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Barbarossa#/media/File:Wehrmacht_Panzergruppe_3_%D0%BF%D0%B0%D0%B4_%D0%9F%D1%80%D1%83%D0%B6%D0%B0%D0%BD%D0%B0%D0%B9_1941.gif


ドイツではソ連領ヨーロッパ(東ヨーロッパ)の気候に関する研究はわずかしかなかった。その研究の一つには、融解期の土壌の湿潤に関するものがあった。この地域は春と秋に大地が泥と化し、この時期は「泥濘期」と呼ばれた。泥濘とは、文字通り一面が泥と化すもので、場合によっては人間の腰付近までぬかるんだ。そうなると、移動は著しく困難になる。しかし、この研究は泥濘期について不十分なもので、泥濘期を春季に限定し、秋季の泥濘期には言及していなかった [4]。

ロシアの泥濘
https:/commons.wikimedia.org/wiki/File:Bundesarchiv_Bild_101I-289-1091-26,_Russland,_Pferdegespann_im_Schlamm.jpgより

8月にドイツ陸軍戦況図調査部が作成した報告書によると、降雨によって道路の通行が不能に陥る可能性があることを指摘していたが、その最悪の時期は8月を予想していた。確かに降水量だけ見ると8月が最大だったが、蒸発量を加味すると、泥濘は春季と秋季に起こった。そのことをドイツ軍は知らなかった。しかも、ドイツ軍ではこの報告書さえ十分に注目していなかった。

ドイツ軍は中央軍集団の第2装甲軍を南下させ、9月に南北からキーウを挟み撃ちにしたキーウ会戦で、緒戦に引き続きソ連軍に大勝した。しかし、それは比較的補給が良好だった同装甲軍を、さらに補給が困難になる東進ではなく南下させることしか出来なかったためとされている [1]。戦いで勝利はしたものの、それによってモスクワ侵攻が遅れて泥濘期に入ってしまい、後で大きな代償を払うこととなった。

一方で、ソ連ではこの泥濘期を十分に理解していた。7月31日、米国のルーズベルト大統領の特使であったハリー・ホプキンスは、クレムリンでスターリンと会談した。 その会話の中でスターリンは、「大雨が降り始める9月1日以降、ドイツ軍が攻撃的に活動するのは困難であり、10月1日以降は地盤が非常に悪くなるため、守勢に回らざるを得なくなるだろう」という自信に満ちた意見を述べた [4]。

泥濘による作戦の遅滞

ドイツ軍は10月2日にモスクワへの突入のための「タイフーン作戦」を開始した。しかし、スターリンの予測は的中した。1941年の泥濘期は雪が降り始めた10月10日から始まった。雨・雪と蒸発率の低さによって、ソ連領内の道路や野原は泥沼と化した。

ドイツ軍の戦車、大砲、機械化部隊の大部分は泥濘のために動けず、補給トラックも積載量を減らしてゆっくりとしか進めなかった。タイヤの車両はキャタピラーを持った車両で牽引しないと進めなくなったが、牽引のためのチェーンが不足した。食糧運搬車は立ち往生し、歩兵は膝まで沈む中を徒歩で行軍した。最終的には、馬が引く車両だけがなんとか移動でき、軍幹部の乗る自動車でさえ沼地につかまると、軍馬や人力で引き上げるしかなかった [7]。

ドイツ軍は、大地が凍結する11月10日まで約4週間動けなかった。もともとか細かったドイツ軍の補給は泥濘でいっそう逼迫した。この遅れによってモスクワ侵攻が長引き、冬季にまでずれ込むことが明白となった。そのためドイツ軍司令部では冬季の長期予報に関心が起こった。

この泥濘期はソ連軍にも影響したが、この時期にソ連軍は主に防御戦を戦っており、輸送ルートも短く、高い機動力を必要としていなかった。 さらにソ連の戦車と輸送車はドイツ軍のものよりキャタピラの軌道幅と車輪幅が広く、接地圧力が低いため、ぬかるんだ地形により適応していた。

独ソ戦における長期予報(4)につづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1]  大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.
[2]  R. Wiuff, "Was Franz Baur's Infamous Long-Range Weather Forecast for the Winter of 1941/42 on the Eastern Front Really Wrong?," Bulletin of American Meteorological Society, 第 巻JANUARY 2023, pp. 107-125, 2023.
[3]  H. E. Landsberg, "Franz Baur, 1887-1977.",
Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[4]  Neumann and Flohn, "Great Historical Events That Were Significantly Affected by the Weather: Part 8, Germany's War on the Soviet Union, 1941-45.1. Long -range Weather Forecasts for 1941-42 and Climatological Studies.," Bulletin of American Meteorological Society, 68,  6, pp. 620-630, 1987.
[5]  R. M. Friedman, APPROPRIATING THE WEATHER, Cornell University Press., 1993.
[6]  H. E. Landsberg, "Necrology Franz Baur 1887-1977," Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[7]  田家康, 世界史を変えた異常気象: エルニーニョから歴史を読み解く, 日本経済新聞出版, 2011.



2023年7月29日土曜日

独ソ戦における長期予報(2)

 フランツ・バウアーについて

独ソ戦において長期予報を行った気象学者フランツ・バウアー(Franz Baur, 1887-1977)は、1887年にミュンヘンに生まれた。父親も軍人であったため、バウアーも高校卒業後にミュンヘン陸軍大学に入り、卒業後に野戦砲兵中尉に任官した。第一次世界大戦中に彼は乗馬事故に遭い、精神的な後遺症が残ったとされている。この後遺症がその後の彼の孤高な人格に影響を与えたのかもしれない。

1918年に第一次世界大戦が終わると、彼は他の多くの人たちと同じように軍を離れた。彼はミュンヘンとフライブルクの大学で物理学、数学、地理学、気象学を学んだ。彼は1921年にフライブルク大学で博士号を取得した。バウアーの最大の関心は長期予報だった。

この興味は、有名な気象学者アウグスト・シュマウス教授のミュンヘンでの講義の中で、「長期予報は、おそらく不可能だろう」と述べたことに対して、疑問を持ったことにあるようである [2]。シュマウス教授は気候の特異点(singularity)の研究で有名であり、ドイツ気象学界の重鎮だった。なお気候の特異点という考えは今ではほとんど顧みられないが、暦に縛られた気温の特殊性と言えようか。日本で強いていうならば、気温ではないが11月3日の晴れの特異日などがそれに近いかもしれない。

バウアーは在学中に、シュヴァルツヴァルト(黒い森地方)のサン・ブラジエンにある医学・気象学研究所の責任者になった。彼は1923年3月に気温の長期予報を発表し、その科学的根拠と説明を同年末にドイツの気象学会誌に掲載した。

気温の長期予報は農業(植物の生育)と関連するため、この予報は農業気象に大きな反響をもたらした。バウアーはドイツの正統な研究者であることを示す論文モノグラフを書く準備を進めたが、長期予報を本格的な気象学の対象外とみなす正統派気象学会の反対を受けた。彼はやむなく1926年に「ドイツの季節別気温予報の基礎」という本の形でそれを出版した。それ以来、長期予報(季節予報)は正統な気象学の対象外と考えていた気象学界において、彼は物議を醸す存在となった [3]。

バウアーは農業分野におけるその人望を利用して農務省を説得し、1929 年にフランクフルトに小規模な長期予報研究センターを設立し、その所長となった。彼は1932年から戦争が始まるまで、定期的に5日および10日先までの中期予報を作成した。彼はその根拠を、統計と総観気象の組み合わせたものであることをアメリカの論文誌に発表している。しかし、他国と同様に10日予報の精度は必ずしも良くなかった。

また、彼はフランクフルト大学でも教鞭をとり、統計学を教えていた。彼の講義はレベルが高く、ほんの一握りの学生しかついて来れなかったようである。そのときの彼の弟子にH.フローンがいた。フローンは後にドイツの中央気象グループ(ZWG)で働くようになる。当時の師弟関係は良好だったが、フローンはバウアーの長期予報に対しては懐疑的だった [4]。フローンは戦後にバウアーが戦時中に行った長期予報の記事を書き、これがきっかけでバウアーが行った長期予報に対する議論が起こることとなる。

バウアーは、1937年に「大規模気象研究入門(Einfuhrung in die Grosswetterforschung)」という本を出版した(これは1944年に「長期天気予報法入門」という題で日本でも翻訳出版されている)。彼はグロスベッター・ラーゲ(大規模気象状況)という概念を持っており、気象を空間的・時間的に大規模に見ることで、長期間の気象の推移に統計的に有意なパターンを見出すことができると考えていた [5]。彼の手法は世界でも注目されていたようである。

彼の考え方はベルゲン学派が唱えた気象のセンターズ・オブ・アクション(活動中心)という概念に近いものだった。日本付近だと、シベリア高気圧が卓越する冬季の西高東低の気圧配置や太平洋高気圧が発達する夏型の気圧配置がこれに相当するかもしれない。これは持続するので、発現すればおおまかな中・長期予報をすることが出来る。

1938年に戦争の気配が濃厚となると、ドイツはポツダムに中央気象グループ(ZWG)を設立して、ドイツ国防軍最高司令部(Wolfsschanze)とドイツ空軍司令部(Kurfürst)に天気図と気象予報を提供するようになった。第二次世界大戦が勃発すると、バウアーの長期予報研究センターは、彼の抗議にもかかわらずZWGの気象局の下におかれて、軍に長期予報を提供するようになった [2]。独ソ戦で行ったバウアーの長期予報については後述する。

戦後、バウアーはわずかな研究費を元手に中・長期予報の研究を発表し続けた。1947年には「ヨーロッパの主な気象パターンの代表例」、1948年には「大規模気象知識入門」、1956-58年にかけて、「気象と天気予報の基礎としての物理統計法則」2巻を出版した(何れもドイツ語) [6]。

バウアーと長期予報はドイツの気象学界の中で、人格的にも学問的にも孤立していた。フローンは、具体的な記述をしてはいないものの、乗馬事故による心理的ダメージによるバウアーの病的な不信感に言及している。

バウアーは1977年に亡くなったが、フランクフルト大学でバウアーの講義を受けたことがあるアメリカ気象局長官、ヘルムート・ランズバーグは、彼の追悼文の中で「バウアーと気象学の仲間たちとの関係は一般に対立していた。ドイツの気象学の権威者たちは彼を敬遠していた」と述べて、彼を「悲劇の一匹狼」と呼んでいる [3]。

独ソ戦における長期予報(3)へ続く)


参照文献(このシリーズ共通)

[1] 大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.
[2] R. Wiuff, "Was Franz Baur's Infamous Long-Range Weather Forecast for the Winter of 1941/42 on the Eastern Front Really Wrong?," Bulletin of American Meteorological Society, JANUARY 2023, pp. 107-125, 2023.
[3] H. E. Landsberg, "Franz Baur, 1887-1977.," Bulletin of American Meteorological Society, 59, 310-311, 1978.
[4] Neumann and Flohn, "Great Historical Events That Were Signiticantly Affected by the Weather: Part 8, Germany's War on the Soviet Union, 1941-45.I. Long -range Weather Forecasts for 1941-42 and Climatological Studies.," Bulletin of American Meteorological Society, 68, 6, 620-630, 1987.
[5] R. M. Friedman, APPROPRIATING THE WEATHER, Cornell University Press., 1993. 
[6]  H. E. Landsberg, "Necrology Franz Baur 1887-1977," Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.



2023年7月27日木曜日

独ソ戦における長期予報(1)

 イントロダクション

気象は戦争に大きな影響を与える。それが明確に意識され始めたのは第一次世界大戦からである。当初は飛行船・航空機や毒ガスの運用のための低層の風と視程の予報に関心が集まった。しかし、大砲の射程が伸びるにつれて、命中精度を上げるための弾道計算に高層の風も重要になった。必要だったのは気象の現状把握か短期予報だった。そのため、第一次世界大戦から軍の気象部隊が大幅に拡充されるようになった。

第二次世界大戦になると、軍の近代化・機械化が進み、作戦も巧緻化した。しかし、最後に戦うのは人間である。そのため、短期予報だけでなく、作戦の準備段階から戦場において想定される気候がどうであるかも重要視されるようになった。

太平洋戦争時、1943年5月にアッツ島の上陸作戦を行った米軍は、気候の調査よりも作戦の秘匿を優先させたため、カリフォルニアで訓練していた兵士たちは気候にそぐわない装備のままで戦闘に臨むこととなった。5月のアリューシャン列島は曇天が多く、雪が残ってまだ寒い。米軍は凍傷などによって多数の負傷者を出し、その数は戦闘による死傷者を上回った(「アリューシャンでの戦い」)の7.4.3を参照)。

1941年6月から始まった独ソ戦(バルバロッサ作戦)においても、ドイツ軍は泥濘期というヨーロッパ東部の気候への注意が足らず、また冬季の気候予測が外れたため、大きな犠牲を払った。これまで1941年の独ソ戦は、ヒトラーの作戦への無理な介入と異常な寒波という天候が、勝敗を決定したような理解がされることもあった。これは独ソ戦開戦後、モスクワに向けて快進撃を続けていた軍に対して、ヒトラーが途中からコーカサスの油田とレニングラードの包囲・遮断を優先させたため、時間を浪費して異常な寒波に遭遇せざるを得なくなったというものである。

しかし、近年の研究によると、それ以前にドイツ軍には補給などに当初から多くの問題を抱えており、長大な補給線が必要となるモスクワへの急速な進撃は、そもそも無理だったともされている [1]。しかし、冬季の長期予報の外れによって多大な犠牲を出したことは間違いない。当時、ドイツ軍に長期予報を提供していたのはフランツ・バウアーという気象学者だった。ここでは、彼に焦点を当てながら、当時のドイツ軍の長期予報がどうであったのかを見ていきたい。

1941年の独ソ戦(バルバロッサ作戦)におけるドイツ軍の侵攻範囲(黄緑は1941年12月初めの範囲)

https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Moscow#/media/File:Eastern_Front_1941-06_to_1941-12.png

独ソ戦における長期予報(2)につづく)


参照文献

[1] 大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019. 

2023年7月9日日曜日

気象学の歴史から見た大気の川

大気の川とは

人間の手が届かない上空では、今日でも何が起こっているかを常時監視することは難しい。そのため、ほんの数百メートル上空でもあまり知られていないことが起こることがある。

近年、大気中の水蒸気輸送に「大気の川(atmospheric river)」という表現が使われることが多くなった。例えば2022年3月24日にNHKのコズミックフロントで「アマゾンの“空飛ぶ川” 見えてきた地球規模の水循環」という題のドキュメンタリーが放映された。これは大気の川を取り上げたものである。

この大気の川とは高度数百メートルから数キロメートル程度の大気の低層において大量の水蒸気が輸送されている状態を指している。この状態は世界的にいろんな呼ばれ方をすることがあり、日本では「湿舌」という表現が使われることもある。

そしてこの低層での大量の水蒸気の輸送は、集中豪雨や線状降水帯とも関連している。水は物質であり、突然湧いて出ることはない。大量の雨が降るためにはどこからかその分の水蒸気が輸送されてくる必要がある。2015年の関東・東北豪⾬や2020年の熊本県人吉の豪⾬でも大気の川による水蒸気の供給が関係していたのではないかと言われている。


左図。湿舌を示す水蒸気画像の概念モデル。黒横線域は暗域(乾燥域)、白抜き域は明域(湿潤域),黒矢印は上・中層の流れ、白矢印は暗域の動きを示す。右図。概念モデルと似た状況が起こった高知豪雨時の水蒸気画像(1998年9月23日12UTC). Ds, Dnは暗域を表す。 [1]


世界的に大気の川に関心が向いたきっかけの一つは、南米ブラジル中部での雨だった。本来赤道を挟んだ南北緯度20°付近の亜熱帯では雨が少ない。これは、この付近では地球規模のハドレー循環と関連して亜熱帯高圧帯が発達して下降気流が卓越するため、雨をもたらすような上昇流が起きにくいためである。そのため、南北アフリカやオーストラリアでは、その付近に砂漠が多い。

ところが、同様の緯度でも南米ブラジルは比較的雨が多い。これは気候学的に見ると通常のパターンとは異なる。ここで雨が多いのは赤道付近のアマゾン川上空の湿った東風が、アンデス山脈にぶつかって、南に向きを変えるためと考えられている。これによって長さ2000km以上にわたって幅数百km狭い範囲で強い水蒸気輸送が起こっていることがわかってきた。これはアマゾン川に匹敵する水を運んでいると考えられている。そしてこれを1990年代頃から、これを大気の川と呼ぶようになった [2]。

そして、このような現象が実は世界各地で起こっていることがわかってきた。日本付近の湿舌だけでなく、ハワイ周辺から北米にかけての水蒸気輸送帯は「パイナップル・エクスプレス」と呼ばれて、これが引き起こす大雨を「熱帯水蒸気輸出(tropical moisture export)」イベントと呼ぶこともあった。

そして2000年代に、そのメカニズムがわかるにつれて、「大気の川」という表現が徐々に世界的に使われるようになった。また、これはこのブログの「前線を伴った低気圧モデルの100周年」の「6. 前線に沿った地表大気の上昇」で説明したウォーム・コンベヤー・ベルトとも力学的、熱力学的な特性が共通している部分があることがわかっている。

大気の川の歴史

この大気低層の水蒸気輸送の発見は、それほど新しいものではない。実は「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(5)」で示したように、ロスビーが1937年に等温位面解析によって、このような水蒸気輸送があることを示しており、彼はそれを「湿舌(moist tongue )」と称した(合わせてdry tongueも示している) [3]。彼が当時解析したアメリカ大陸上の大規模な湿った空気の流入は、今日の「大気の川」を示していると考えられている [2]。



1936年9月11日の315Kの等温位面の例。実線は等比湿線で、2g/1kg間隔で描かれている。破線は等高線で0.5km間隔で描かれている。H、L、M、Dは高気圧、低気圧、湿潤、乾燥を表す。 [3]より。

温位とはその空気塊が持つ潜在的な熱エネルギーで、その空気塊を断熱的に高度1000hPaに持てきたと仮定した際の温度である。このため、エネルギー保存則により、断熱的な運動をする限り、空気塊はこの温位面上を動くことになる。上図では、メキシコから高い比湿を持った湿潤な大気がアメリカ中央部に向かって温位面に沿って流れ込んでいることがわかる。

ロスビーは等温位面解析(等エントロピー面解析と呼ばれることもある)という手法を編み出し、このような大規模な湿潤大気の流れ込みがあることを明らかにした。これは当然大雨などの予報に有用な情報だったが、電子コンピュータがなかった当時は面的に広域にわたって温位を計算するには時間がかかるため、この解析手法は予報の現業では主流にはならなかった。

前線を伴った低気圧モデルの100周年」で述べたように、1970年頃から前線付近のウォーム・コンベヤー・ベルトという概念が出てきた。そして、大気の川と湿舌とウォーム・コンベヤー・ベルトの3つの現象は、低層での強い水蒸気輸送という共通の特徴と相互に関連しており、特定の状況下では、それらはすべて同じものと考えられている [2]。

そして、大雨の原因となるこの大量の水蒸気輸送を事前に捉えようと、現在さまざまな取り組みが行われている。しかし、日本の場合は海上から高度数百メートルという低層で水蒸気が輸送されてくることが多い。海上に固定観測点を設置することはできず、衛星観測でも発見しにくいため、これを捉えることはまださまざまな困難が伴っている。

科学的新発見のようなものでも、部分的には過去の発見の再発見だったというようなことはよくあることである。大気の川の発見もロスビーによる湿舌の発見の再発見といえるかもしれない。しかし、湿舌の形成過程や特定の地域に大雨をもたらすメカニズムなどが完全に解明されたわけではない。この現象が注目されることによって、大雨に対する防災のためにこれのさらなる解明が進むことを期待したい。

参照文献

[1] 鈴水和史, “水蒸気画像で観測された湿舌の特徴,” 気象衛星センター, 2001.
[2] R. Mo, “Prequel to the Stories of Warm Conveyor Belts and Atmospheric Rivers,” BAMS, American Meteorological Society, 2021.
[3] Rosbby and Coauthors, “Aerological evidence of large-scale mixing in the atmosphere,” Eos, Trans. 18, 30, American Geophysical Union, 1937.