2023年8月2日水曜日

独ソ戦における長期予報(4)

 ドイツ軍の1941/42冬季の長期予報

独ソ戦が始まった直後、ドイツの中央気象グループ(ZWG)では、ソ連の冬についての研究を始めた。ドイツ軍では驚くべきことに、それまでソ連の冬の状況についてきちんとした調査は行われていなかった。その調査にはナポレオンが冬将軍のためにロシアから敗退した1812年から13年のデータが含まれていた。それらを用いた調査の結果、日最低気温の単純な積算が寒さの指標となることがわかった。例えばソ連のレニングラードとZWGがあるドイツのポツダムでの指標を比べて、現状や今後の推移の状況が判断された [4]。

当初ヒトラーらは、ソ連を冬までに打倒できるから、ソ連で戦争に従事する全軍に冬装備は必要ないだろうと考えていた。しかし、秋になって泥濘期によって進軍が滞り始めると、ヒトラーとドイツ軍参謀本部は戦争が冬季にまで長引きそうなことに気づき、ソ連の冬の気候について関心を持ち始めた。そして、この冬の長期予報の提供をバウアーに要請した。バウアーは10月末に地域気候学的な要素と太陽黒点と気候の関係を考慮して冬季の予報を提出した。

その予報は次の冬を「平年並みか暖冬」とした。その主な根拠は、気候史上、厳しい冬が3回以上続いたことはないという理由だった。 1939/40年と1940/41年の冬は2年続いてヨーロッパでは厳冬だった。過去150年間遡っても3年連続の厳冬はなく、彼は1941/42の冬は厳冬にはならないと予想した [4]。これが作戦に大きな影響を与えたとされている。

一方で、ZWGの気象学者たちは、9月下旬から子午線面循環のブロッキング傾向の兆候を発見していた。この現象は1939/40年にかけても発生しており、その冬の厳冬の原因となっていた。

一匹狼のバウアーとZWGは必ずしも一枚岩ではなかったようである。ZWGはバウアーの予報を疑問視し、ソ連の戦域では再び寒い冬が予想される文書を作成して、10月下旬にドイツ空軍総司令官ゲーリングに提出した。しかしゲーリングはこれを見て、テーブルに拳を叩きつけて「ロシアでは-15℃より寒くなることはない。戦争は続くのだ!」と叫んだという [4]。この文書はこの時はヒトラーへ提出されなかったとされている。

ZWGの調査結果は、早ければ寒波が11月初めにはやってくると予想していたが、その通りとなった。11月初めに寒波が到来し、そのために泥濘が凍ったことによりドイツ軍は進軍を再開した。ZWGの調査結果は、ベルリンで真冬の気温が0℃前後となるとモスクワでは-7℃~-10℃になることを指摘していたが、ドイツ軍ではそのことをあまり真剣に受け取っていなかったようである。

1942年12月からの状況

中央軍集団に属していたラインハルトの第3装甲軍は、凍結により固まった道路を通って北西からモスクワに迫り、11月28日にはモスクワまで35 kmを切った。また、北方軍集団のヘプナー率いる第4装甲軍は、モスクワまで20 km余りに迫った。12月1日、中央軍集団の第4軍はモスクワに向けて東に進軍していた。しかし補給が限界に達していた。キーウから北上していた中央軍集団のグデーリアン率いる第2装甲軍は、進軍速度が1日に数kmに落ち、11月20日にはもう限界に達していた [7]。

1941年12月初めに、ZWGのソ連の冬季の気象の調査結果がヒトラーに提示された。 以前に述べたように、その結果にはナポレオンが退却した1812/13年のデータが含まれていた。しかし、ヒトラーはナポレオンが敗退した1812/13年の冬について言及することを許さなかった。そういう中で12月4日からモスクワ付近に異常寒波が襲った。4日にはモスクワでは気温が-17℃以下、郊外のトゥーラ付近では-35℃まで下がった。

NOAAの再解析による1941年12月4日の地上気圧と850hPa(高度約1500m)での気温(www.wetterzentrale.deによる)。モスクワ西方上空に、北西から南下した-24℃の寒気の核があることがわかる。

ドイツ軍は適切な防寒装備を持っていなかったため、凍傷や凍死が続出した。ドイツ軍の武器、戦車、機械化車両の多くは、耐寒装備がなかったため寒波の中で潤滑油が凍るなどして作動しなくなった。ドイツ軍の機関車の多くも-15℃以下では故障して動けなくなり、輸送量は半減した。さらに吹雪になると列車は全く停止した [4]。12月5日には、第2装甲軍と第3装甲軍がモスクワへの攻勢を中止した。

さらにドイツ軍が寒波のために攻勢から守勢に転向しようと配置を転換し始めた12月5日から6日にかけて、ソ連軍の将軍ジューコフが準備し指揮したソ連軍が新型のT-34戦車を含む大規模な反攻を開始した(ジューコフはノモンハン事件でも指揮したことで有名である)。ドイツ軍にとっては最も脆弱なタイミングとなった。

この年は11月下旬から天候が悪く、ソ連軍の攻勢のための兵力、戦車、装備、物資の集結を、ドイツ軍は空から偵察できていなかった。スターリンは日本にいたスパイであるゾルゲからの報告で日本がソ連を攻撃する意図がないことを知って、日本に備えていた防寒装備が整った東シベリアの師団も動員していた [4]。攻勢の限界点に来ていた上に寒波への供えがなかったドイツ軍は、全くの不意を突かれた形となり、各地で重装備や車両を捨てて退却した。

ドイツ軍が放置していった車両
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:RIAN_archive_697_Nazi_vehicles_abandoned_near_Moscow.jpg


12月7日にドイツ軍最高司令部は東プロイセンでヒトラーと会談した。ソ連領内の気象状況が会議の主題となり、ヒトラーは「(寒波の襲来を)もっと早く知っていれば」と繰り返したという [4]。

モスクワとスモレンスクの朝の気温(℃)、1941年11月15日~12月15日 [4]より。

ドイツ軍司令部はソ連軍の反攻を受けて、12月8日に「厳冬が驚くほど早めに到来したために、モスクワ攻略を中止して守勢に転じる」ことを指示した。ドイツの12月8日のラジオ放送は、ソ連軍の反攻には触れず、ソ連にいるドイツ軍に異常な寒波が襲来したことと、日本軍の真珠湾攻撃によりドイツも米国に対して宣戦布告したことを告げた [1]。

ソ連軍の反攻を受けて、ドイツ軍は約100 kmから250 km後退した。ドイツ軍は深刻な危機感を抱き、ヒトラーは1941年12月16日に、現在地を死守せよとの要求を発した。ドイツ軍司令官たちは、ヒトラーの許可なくして退却命令を出せなくなった。この方針に反対したグデ-リアン上級大将やルントシュテット元帥などの高級軍人たちは解任された。

一方で反攻を行ったソ連軍部隊は、十分な兵器や装備を持たなかった上に、新たに編成された経験の浅い部隊だった。1942年1月7日、スターリンは全戦線にわたって攻勢を命じたが、これは過大な要求となった。ソ連軍は突破口を開いたにもかかわらず、先鋒部隊に充分な兵力を後続させて、戦果を拡張することができなかった。モスクワ西方での攻勢は、竜頭蛇尾の結果に終わり、ドイツ軍は壊滅を免れた [1]。

しかし、当時それはヒトラーによるドイツ軍への死守命令が功を奏したためと考えられた [1]。陸軍総司令官ブラウヒッチュ元帥は辞任し、代わりにヒトラーがそのポジションに就任した。これによるヒトラーの軍内の権力強化によって、ドイツ軍は翌年の再攻勢へと進んでいった。

独ソ戦における長期予報(5)につづく)

参照文献(このシリーズ共通)

[1]  大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.
[2]  R. Wiuff, "Was Franz Baur's Infamous Long-Range Weather Forecast for the Winter of 1941/42 on the Eastern Front Really Wrong?," Bulletin of American Meteorological Society, 第 巻JANUARY 2023, pp. 107-125, 2023.
[3]  H. E. Landsberg, "Franz Baur, 1887-1977.", Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[4]  Neumann and Flohn, "Great Historical Events That Were Significantly Affected by the Weather: Part 8, Germany's War on the Soviet Union, 1941-45.1. Long -range Weather Forecasts for 1941-42 and Climatological Studies.," Bulletin of American Meteorological Society, 68,  6, pp. 620-630, 1987.
[5]  R. M. Friedman, APPROPRIATING THE WEATHER, Cornell University Press., 1993.
[6]  H. E. Landsberg, "Necrology Franz Baur 1887-1977," Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[7]  田家康, 世界史を変えた異常気象: エルニーニョから歴史を読み解く, 日本経済新聞出版, 2011.

0 件のコメント:

コメントを投稿