独ソ戦の開始と気候への理解
ヒトラーは1941年6月22日にソ連への侵攻を開始した。この開始は当初は5月の予定であったが、想定外のユーゴスラビア政変による侵攻によって、最初から遅れたものとなった。当初に立案された作戦計画は、初戦時の数回の会戦でソ連軍を圧倒し、長大な補給線を必要とするモスクワまで最大120日程度で一気に達するという甘い見通しに立ったものだった [1]。
これはフランスで行ったような電撃戦を想定していたものだったが、ソ連領内は道はほとんど舗装されておらず、当然ガソリンスタンドもほとんどなく、フランスでの電撃戦と同じように行かないことは明白だった。補給は主に列車に依るしかなかったが、ドイツ内とソ連内では軌道の幅が異なっており、列車による輸送も困難を抱えていた。ドイツ軍というと機械化部隊のイメージが強いが、後方の輸送は人馬が主体であり、駅からの補給の多くは人馬に依った。さらに、急速に進撃したドイツ軍の背後に取り残されたソ連軍による補給線への攻撃も補給を困難にした。
1941年6月に進撃するドイツ軍
https://en.wikipedia.org/wiki/Operation_Barbarossa#/media/File:Wehrmacht_Panzergruppe_3_%D0%BF%D0%B0%D0%B4_%D0%9F%D1%80%D1%83%D0%B6%D0%B0%D0%BD%D0%B0%D0%B9_1941.gif
ドイツではソ連領ヨーロッパ(東ヨーロッパ)の気候に関する研究はわずかしかなかった。その研究の一つには、融解期の土壌の湿潤に関するものがあった。この地域は春と秋に大地が泥と化し、この時期は「泥濘期」と呼ばれた。泥濘とは、文字通り一面が泥と化すもので、場合によっては人間の腰付近までぬかるんだ。そうなると、移動は著しく困難になる。しかし、この研究は泥濘期について不十分なもので、泥濘期を春季に限定し、秋季の泥濘期には言及していなかった [4]。
ロシアの泥濘
https:/commons.wikimedia.org/wiki/File:Bundesarchiv_Bild_101I-289-1091-26,_Russland,_Pferdegespann_im_Schlamm.jpgより
8月にドイツ陸軍戦況図調査部が作成した報告書によると、降雨によって道路の通行が不能に陥る可能性があることを指摘していたが、その最悪の時期は8月を予想していた。確かに降水量だけ見ると8月が最大だったが、蒸発量を加味すると、泥濘は春季と秋季に起こった。そのことをドイツ軍は知らなかった。しかも、ドイツ軍ではこの報告書さえ十分に注目していなかった。
ドイツ軍は中央軍集団の第2装甲軍を南下させ、9月に南北からキーウを挟み撃ちにしたキーウ会戦で、緒戦に引き続きソ連軍に大勝した。しかし、それは比較的補給が良好だった同装甲軍を、さらに補給が困難になる東進ではなく南下させることしか出来なかったためとされている [1]。戦いで勝利はしたものの、それによってモスクワ侵攻が遅れて泥濘期に入ってしまい、後で大きな代償を払うこととなった。
一方で、ソ連ではこの泥濘期を十分に理解していた。7月31日、米国のルーズベルト大統領の特使であったハリー・ホプキンスは、クレムリンでスターリンと会談した。 その会話の中でスターリンは、「大雨が降り始める9月1日以降、ドイツ軍が攻撃的に活動するのは困難であり、10月1日以降は地盤が非常に悪くなるため、守勢に回らざるを得なくなるだろう」という自信に満ちた意見を述べた [4]。
泥濘による作戦の遅滞
ドイツ軍は10月2日にモスクワへの突入のための「タイフーン作戦」を開始した。しかし、スターリンの予測は的中した。1941年の泥濘期は雪が降り始めた10月10日から始まった。雨・雪と蒸発率の低さによって、ソ連領内の道路や野原は泥沼と化した。
ドイツ軍の戦車、大砲、機械化部隊の大部分は泥濘のために動けず、補給トラックも積載量を減らしてゆっくりとしか進めなかった。タイヤの車両はキャタピラーを持った車両で牽引しないと進めなくなったが、牽引のためのチェーンが不足した。食糧運搬車は立ち往生し、歩兵は膝まで沈む中を徒歩で行軍した。最終的には、馬が引く車両だけがなんとか移動でき、軍幹部の乗る自動車でさえ沼地につかまると、軍馬や人力で引き上げるしかなかった [7]。
ドイツ軍は、大地が凍結する11月10日まで約4週間動けなかった。もともとか細かったドイツ軍の補給は泥濘でいっそう逼迫した。この遅れによってモスクワ侵攻が長引き、冬季にまでずれ込むことが明白となった。そのためドイツ軍司令部では冬季の長期予報に関心が起こった。
この泥濘期はソ連軍にも影響したが、この時期にソ連軍は主に防御戦を戦っており、輸送ルートも短く、高い機動力を必要としていなかった。 さらにソ連の戦車と輸送車はドイツ軍のものよりキャタピラの軌道幅と車輪幅が広く、接地圧力が低いため、ぬかるんだ地形により適応していた。
(独ソ戦における長期予報(4)につづく)
参照文献(このシリーズ共通)
[1] 大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.
[2] R. Wiuff, "Was Franz Baur's Infamous Long-Range Weather Forecast for the Winter of 1941/42 on the Eastern Front Really Wrong?," Bulletin of American Meteorological Society, 第 巻JANUARY 2023, pp. 107-125, 2023.
[3] H. E. Landsberg, "Franz Baur, 1887-1977.", Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[4] Neumann and Flohn, "Great Historical Events That Were Significantly Affected by the Weather: Part 8, Germany's War on the Soviet Union, 1941-45.1. Long -range Weather Forecasts for 1941-42 and Climatological Studies.," Bulletin of American Meteorological Society, 68, 6, pp. 620-630, 1987.
[5] R. M. Friedman, APPROPRIATING THE WEATHER, Cornell University Press., 1993.
[6] H. E. Landsberg, "Necrology Franz Baur 1887-1977," Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[7] 田家康, 世界史を変えた異常気象: エルニーニョから歴史を読み解く, 日本経済新聞出版, 2011.
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