2023年7月29日土曜日

独ソ戦における長期予報(2)

 フランツ・バウアーについて

独ソ戦において長期予報を行った気象学者フランツ・バウアー(Franz Baur, 1887-1977)は、1887年にミュンヘンに生まれた。父親も軍人であったため、バウアーも高校卒業後にミュンヘン陸軍大学に入り、卒業後に野戦砲兵中尉に任官した。第一次世界大戦中に彼は乗馬事故に遭い、精神的な後遺症が残ったとされている。この後遺症がその後の彼の孤高な人格に影響を与えたのかもしれない。

1918年に第一次世界大戦が終わると、彼は他の多くの人たちと同じように軍を離れた。彼はミュンヘンとフライブルクの大学で物理学、数学、地理学、気象学を学んだ。彼は1921年にフライブルク大学で博士号を取得した。バウアーの最大の関心は長期予報だった。

この興味は、有名な気象学者アウグスト・シュマウス教授のミュンヘンでの講義の中で、「長期予報は、おそらく不可能だろう」と述べたことに対して、疑問を持ったことにあるようである [2]。シュマウス教授は気候の特異点(singularity)の研究で有名であり、ドイツ気象学界の重鎮だった。なお気候の特異点という考えは今ではほとんど顧みられないが、暦に縛られた気温の特殊性と言えようか。日本で強いていうならば、気温ではないが11月3日の晴れの特異日などがそれに近いかもしれない。

バウアーは在学中に、シュヴァルツヴァルト(黒い森地方)のサン・ブラジエンにある医学・気象学研究所の責任者になった。彼は1923年3月に気温の長期予報を発表し、その科学的根拠と説明を同年末にドイツの気象学会誌に掲載した。

気温の長期予報は農業(植物の生育)と関連するため、この予報は農業気象に大きな反響をもたらした。バウアーはドイツの正統な研究者であることを示す論文モノグラフを書く準備を進めたが、長期予報を本格的な気象学の対象外とみなす正統派気象学会の反対を受けた。彼はやむなく1926年に「ドイツの季節別気温予報の基礎」という本の形でそれを出版した。それ以来、長期予報(季節予報)は正統な気象学の対象外と考えていた気象学界において、彼は物議を醸す存在となった [3]。

バウアーは農業分野におけるその人望を利用して農務省を説得し、1929 年にフランクフルトに小規模な長期予報研究センターを設立し、その所長となった。彼は1932年から戦争が始まるまで、定期的に5日および10日先までの中期予報を作成した。彼はその根拠を、統計と総観気象の組み合わせたものであることをアメリカの論文誌に発表している。しかし、他国と同様に10日予報の精度は必ずしも良くなかった。

また、彼はフランクフルト大学でも教鞭をとり、統計学を教えていた。彼の講義はレベルが高く、ほんの一握りの学生しかついて来れなかったようである。そのときの彼の弟子にH.フローンがいた。フローンは後にドイツの中央気象グループ(ZWG)で働くようになる。当時の師弟関係は良好だったが、フローンはバウアーの長期予報に対しては懐疑的だった [4]。フローンは戦後にバウアーが戦時中に行った長期予報の記事を書き、これがきっかけでバウアーが行った長期予報に対する議論が起こることとなる。

バウアーは、1937年に「大規模気象研究入門(Einfuhrung in die Grosswetterforschung)」という本を出版した(これは1944年に「長期天気予報法入門」という題で日本でも翻訳出版されている)。彼はグロスベッター・ラーゲ(大規模気象状況)という概念を持っており、気象を空間的・時間的に大規模に見ることで、長期間の気象の推移に統計的に有意なパターンを見出すことができると考えていた [5]。彼の手法は世界でも注目されていたようである。

彼の考え方はベルゲン学派が唱えた気象のセンターズ・オブ・アクション(活動中心)という概念に近いものだった。日本付近だと、シベリア高気圧が卓越する冬季の西高東低の気圧配置や太平洋高気圧が発達する夏型の気圧配置がこれに相当するかもしれない。これは持続するので、発現すればおおまかな中・長期予報をすることが出来る。

1938年に戦争の気配が濃厚となると、ドイツはポツダムに中央気象グループ(ZWG)を設立して、ドイツ国防軍最高司令部(Wolfsschanze)とドイツ空軍司令部(Kurfürst)に天気図と気象予報を提供するようになった。第二次世界大戦が勃発すると、バウアーの長期予報研究センターは、彼の抗議にもかかわらずZWGの気象局の下におかれて、軍に長期予報を提供するようになった [2]。独ソ戦で行ったバウアーの長期予報については後述する。

戦後、バウアーはわずかな研究費を元手に中・長期予報の研究を発表し続けた。1947年には「ヨーロッパの主な気象パターンの代表例」、1948年には「大規模気象知識入門」、1956-58年にかけて、「気象と天気予報の基礎としての物理統計法則」2巻を出版した(何れもドイツ語) [6]。

バウアーと長期予報はドイツの気象学界の中で、人格的にも学問的にも孤立していた。フローンは、具体的な記述をしてはいないものの、乗馬事故による心理的ダメージによるバウアーの病的な不信感に言及している。

バウアーは1977年に亡くなったが、フランクフルト大学でバウアーの講義を受けたことがあるアメリカ気象局長官、ヘルムート・ランズバーグは、彼の追悼文の中で「バウアーと気象学の仲間たちとの関係は一般に対立していた。ドイツの気象学の権威者たちは彼を敬遠していた」と述べて、彼を「悲劇の一匹狼」と呼んでいる [3]。

独ソ戦における長期予報(3)へ続く)


参照文献(このシリーズ共通)

[1] 大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.
[2] R. Wiuff, "Was Franz Baur's Infamous Long-Range Weather Forecast for the Winter of 1941/42 on the Eastern Front Really Wrong?," Bulletin of American Meteorological Society, JANUARY 2023, pp. 107-125, 2023.
[3] H. E. Landsberg, "Franz Baur, 1887-1977.," Bulletin of American Meteorological Society, 59, 310-311, 1978.
[4] Neumann and Flohn, "Great Historical Events That Were Signiticantly Affected by the Weather: Part 8, Germany's War on the Soviet Union, 1941-45.I. Long -range Weather Forecasts for 1941-42 and Climatological Studies.," Bulletin of American Meteorological Society, 68, 6, 620-630, 1987.
[5] R. M. Friedman, APPROPRIATING THE WEATHER, Cornell University Press., 1993. 
[6]  H. E. Landsberg, "Necrology Franz Baur 1887-1977," Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.



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