イントロダクション
気象は戦争に大きな影響を与える。それが明確に意識され始めたのは第一次世界大戦からである。当初は飛行船・航空機や毒ガスの運用のための低層の風と視程の予報に関心が集まった。しかし、大砲の射程が伸びるにつれて、命中精度を上げるための弾道計算に高層の風も重要になった。必要だったのは気象の現状把握か短期予報だった。そのため、第一次世界大戦から軍の気象部隊が大幅に拡充されるようになった。
第二次世界大戦になると、軍の近代化・機械化が進み、作戦も巧緻化した。しかし、最後に戦うのは人間である。そのため、短期予報だけでなく、作戦の準備段階から戦場において想定される気候がどうであるかも重要視されるようになった。
太平洋戦争時、1943年5月にアッツ島の上陸作戦を行った米軍は、気候の調査よりも作戦の秘匿を優先させたため、カリフォルニアで訓練していた兵士たちは気候にそぐわない装備のままで戦闘に臨むこととなった。5月のアリューシャン列島は曇天が多く、雪が残ってまだ寒い。米軍は凍傷などによって多数の負傷者を出し、その数は戦闘による死傷者を上回った(「アリューシャンでの戦い」)の7.4.3を参照)。
1941年6月から始まった独ソ戦(バルバロッサ作戦)においても、ドイツ軍は泥濘期というヨーロッパ東部の気候への注意が足らず、また冬季の気候予測が外れたため、大きな犠牲を払った。これまで1941年の独ソ戦は、ヒトラーの作戦への無理な介入と異常な寒波という天候が、勝敗を決定したような理解がされることもあった。これは独ソ戦開戦後、モスクワに向けて快進撃を続けていた軍に対して、ヒトラーが途中からコーカサスの油田とレニングラードの包囲・遮断を優先させたため、時間を浪費して異常な寒波に遭遇せざるを得なくなったというものである。
しかし、近年の研究によると、それ以前にドイツ軍には補給などに当初から多くの問題を抱えており、長大な補給線が必要となるモスクワへの急速な進撃は、そもそも無理だったともされている [1]。しかし、冬季の長期予報の外れによって多大な犠牲を出したことは間違いない。当時、ドイツ軍に長期予報を提供していたのはフランツ・バウアーという気象学者だった。ここでは、彼に焦点を当てながら、当時のドイツ軍の長期予報がどうであったのかを見ていきたい。
1941年の独ソ戦(バルバロッサ作戦)におけるドイツ軍の侵攻範囲(黄緑は1941年12月初めの範囲)
https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_Moscow#/media/File:Eastern_Front_1941-06_to_1941-12.png
(独ソ戦における長期予報(2)につづく)
参照文献
[1] 大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.
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