2020年10月31日土曜日

成層圏準二年振動の発見(2)発見

  1954年の一連の核実験とその被害を契機に、熱帯成層圏での気象観測が強化された。イギリス気象局のグレイストーンは、現在キリバス領になっているクリスマス島(2.0N, 157.4W)上空の16.8~30.5 kmでの10日平均の東西風を調べた。ところが、初期には上層で西風、低層で東風だったのが、調査の最後の期間では上層で東風、低層で西風に変わったことを初めて示した [4]。

 イギリス気象局のエブドンは、もっと広い熱帯成層圏の風を調べた。彼は「ベルソン西風」が見つかることを期待したが、観測されたのは東風だった。ところが、彼は50 hPa(高度約20 km)で1957年1月にほぼ赤道を一周していた東風が、1958年1月には西風に変わったことを発見した。彼はより長い観測結果が利用できるカントン島 (2.8 S, 171.7W)上空50 hPaのデータを調べると、1954年、1956年、1958年の1月は西風となっていたのに、1955年、1957年と1959年の1月は東風となっていたことを発見した。彼は成層圏の風向が2年周期で変わると結論した [4]。

 イギリス気象局のエブドンとベリヤードは、この研究を拡大した。彼らはカントン島上空50 hPaの1954年1月から1960年1月までの毎月の平均東西風の時系列を示して、25~27か月の周期での風向の逆転を示した。彼らはクリスマス島やアフリカのナイロビなどのデータを使用して、この変動が赤道帯に沿ってほとんど同時に起こっていることを示した。また、風向の変化が高高度から始まってだんだん下降してくることを発見した。彼らは、高度10 hPa(約30 km)での変化が高度60 hPa(約18 km)に達するのにおよそ1年かかると推定した [4]。 
赤道付近上空の東西風の成層圏準二年振動の例。縦軸は高度。横軸は年。赤い領域は西風、青い領域は東風を示す。年や高度によってばらつきはあるが、およそ2年で東風が西風に変わっていることがわかる(https://en.wikipedia.org/wiki/Quasi-biennial_oscillation#/media/File:QBO_Cycle_observed.svg)

 ほぼ同時期に、アメリカ気象局のリードも東風と西風の境界が高度30 km付近から下がってくることと、その周期が約2年であることを発見した。当初、この成層圏での周期的な風向変化の現象は「26か月振動」と呼ばれたこともあったが、アメリカ気象局のエンジェルとコーンショウバーは1963年に始まったより長い周期をもつ観測結果から、この現象に「準二年振動(Quasi-Biennial Oscillation)」という言葉を充てた [5]。現在では、略してQBOと呼ばれることが多い。その周期は実際には22か月から34か月で変動している。

 つまりクラカトア東風とベルソン西風は、それぞれQBOの東風時と西風時に観測されたものと推測される。なお、クラカトア火山噴火による噴煙の移流をジェット気流の発見のきっかけとしているものがある( [6]など)。しかし、クラカトア火山噴火の際の煙の移流は熱帯での東風によるもので、しかも成層圏の出来事である。ジェット気流は中緯度対流圏上層の西風の現象なので、クラカトア火山噴火による噴煙の移流は、ジェット気流の発見との関連はない。

(成層圏準二年振動の発見(3)赤道上空での波の発見 へとつづく)

Reference(このシリーズ共通)
[1] Kevin-2012-Sereno Bishop, Rollo Russell, Bishop's Ring and the Discovery of the Krakatoa Easterlies, Atmosphere-Ocean, 50, 2, 169-175. 
[2] Bishop-1884-The remarkable sunsets, Nature, 29, 259-260. 
[3] Bishop-1884-The equatorial smoke stream from Krakatoa, Hawaiian Monthly, 1, 106-110. 
[4] Maruyama-1997-The Quasi-Biennial Oscillation (QBO) and Equatorial Waves - A Historical Review, Papers in Meteorology and Geophysics, 48, 1, 1-17. 
[5] Baldwin et al.-2001-THE QUASI-BIENNIAL OSCILLATION," Reviews of Geophysics, 39, 2, 179-229. 
[6] Simon Winchester, A Tale of Two Volcanos. New York Times, 15, 4, 2010. 

2020年10月24日土曜日

成層圏準二年振動の発見(1) クラカトア東風とベルソン西風

 クラカトア東風

 気球が発明されると、19世紀初めから上層大気の調査が行われるようになった。しかし、このブログの「高層気象観測の始まりと成層圏の発見(3)」で述べたように、19世紀の有人気球を使った上層大気の調査は、一種の冒険だった。また同様に「高層気象観測の始まりと成層圏の発見(11)成層圏の存在と原因の広がり」で述べたように、成層圏の存在がわかった後も無人の気球を使った気象観測は行われたが、測定器の回収に数日から数週間かかることもあり、観測の範囲や頻度は限られていた。そのため、成層圏の状態や性質の詳しい解明は極めて困難だった。

 本の「9-4-3 世界のラジオゾンデの拡大」で述べたように、1930年頃にラジオゾンデが発明されると気球の回収の必要がなくなり、またリアルタイムで観測結果が手に入るようになった。そのため、「9-5 高層の波と気象予測」では高層大気の気象観測が注目を集めるようになったことを述べた。さらに第二次世界大戦後、「10-1-2高層気象観測の拡大」に書いたように、高層気象観測の場所や頻度の大幅な増加によって、成層圏で起こっていることが少しずつわかってきた。その一つが熱帯上空の成層圏で西風と東風が約2年程度の周期で入れ替わっているという奇妙な事実だった。しかし、この発見の事の始まりは19世紀末に遡る。

 赤道近くに位置するインドネシアのクラカトア火山(Krakatauであるが、世界的にクラカトア火山と広く呼称されているので、ここではクラカトア火山と記す)は1883年に大噴火を起こした。特に8月27日の朝の最終的な大爆発による津波は、およそ40,000名の犠牲者を出した。しかし、大規模噴火という大気中の特異な現象は、当時の大気の科学に対してさまざまな知見を提供した。これによる空の色の変化は、このブログのムンクの「叫び」とクラカタウ火山」で述べたように、絵画にも影響を与えた。

1883年のクラカトア火山の噴火の様子https://en.wikipedia.org/wiki/1883_eruption_of_Krakatoa#/media/File:Krakatoa_eruption_lithograph.jpg

 クラカトア火山の噴火の兆候は春からあったが、主要な噴火は1883年8月26日に始まった、そして、8月27日の現地時間午前10時頃に島の最終的な破壊的噴火が起こった。島の大部分は吹き飛んで、3つの小島が残された(その後新たな島ができて現在4つ)。この噴火によってジャワ島沿岸には最大で40 mの津波が襲ったという。

 当時世界規模の電報ネットワークが出来ており、また大規模で活動的な国際的な科学コミュニティがあったため、クラカトア火山の噴火に関連した出来事は、準即時的に世界中の至る所で追跡され、その科学的な調査が行われた。噴火の爆発音は3000 km離れても聞き取れた。そして、その超低周波の気圧波動は世界中の自記気圧計に記録された。その記録時間と島からの距離から、爆発時の衝撃による気圧波の水平速度は、330 m/sと推定された [1]。

 クラカトア火山噴火後の観測によるもう一つの気象学への貢献は、噴火によって成層圏に生成されたエアロゾル層の追跡だった。鉱物質のエアロゾルの大部分は噴火後の最初の数週間で落下するが、成層圏にいったん注入された気体の二酸化硫黄は、成層圏内の水蒸気と反応して非常に小さな硫酸液滴のエアロゾルとなる。これらの液滴は大規模でゆっくりした循環によって低層大気へ除去されるまで、約2年間程度成層圏中に滞在する。そしてこの液滴エアロゾルはその間に太陽光に対する光学現象を引き起こす。近年だと1991年に起こったピナトゥボ火山の大噴火によって同じような現象が起きた。

 クラカトア火山噴火による太陽光の異常に最初に科学的な観察を行ったのはハワイ・ホノルルの聖職者セレノ・ビショップ(Sereno Bishop)だった。彼はアマチュアの地質学者だったが、大気の科学にも興味を持っていた。彼は9月5日にハワイで夕日の残照を観察して、太陽の周囲に光輪のようなものを記録した。そして9月19日にクラカトア火山の大噴火のことを知って、その影響が9月5日にハワイに最初に現れたと分析した [1]。この太陽の周囲に光輪のようなものが見える現象は現在でも「ビショップ・リング」として呼ばれることがある。現在では、これは微小な硫酸液滴による太陽光の散乱によって起こることがわかっている。

 彼は他の地点の異常な夕陽も調べて、そのことをNature誌に発表した [2]。さらにもっと総合的な分析から、火山の煙が西に流されて、低緯度上空においておよそ10日で地球を1周したと考えた [3]。これは、秒速30 m/sに相当した。これによって赤道のはるか上空では東風が吹いていることがわかった。この煙を運んだような上空の東風は、この後「クラカトア東風(Krakatoa easterly)」として広く知られるようになった [1]。

ベルソン西風

 一方で、1908年にドイツの気象学者ベルソン(Berson)が熱帯アフリカで行った気球を用いた高層気象観測によって、高度およそ15 kmでの西風が明らかになった。その熱帯の上空の西風は、「ベルソン西風(Benson’s westerly)」と呼ばれた。以後ほぼ半世紀にわたって、熱帯成層圏では東風が吹き、成層圏の底部近くでは西風が吹いていると広く信じられた [4]。

 1946年から核実験がマーシャル諸島で始まったの契機に、熱帯の高層大気の調査が行われるようになった。これらのデータを用いて、1954年に成層圏下層の西風と上層の東風の間の遷移層での風が年や月によって異なっていることがわかってきた。そういう状況の下で1954年にビキニ環礁などで行われた一連の核実験では、広範囲にわたって想定外に散らばった放射性物質によって、日本の第五福竜丸などの放射能被害が起こった [4]。これらを契機に、熱帯成層圏の振る舞いをもっと詳しく知る必要性が起こってきた。

(成層圏準二年振動の発見(2)発見 へとつづく)

Reference
[1] Kevin-2012-Sereno Bishop, Rollo Russell, Bishop's Ring and the Discovery of the Krakatoa Easterlies, Atmosphere-Ocean, 50, 2, 169-175. 
[2] Bishop-1884-The remarkable sunsets, Nature, 29, 259-260. 
[3] Bishop-1884-The equatorial smoke stream from Krakatoa, Hawaiian Monthly, 1, 106-110. 
[4] Maruyama-1997-The Quasi-Biennal Oscillation (QBO) and Equatorial Waves - A Historical Review, Papers in Meteorology and Geophysics, 48, 1, 1-17. 

2020年10月5日月曜日

トマス・アクィナスによるアリストテレス自然哲学とキリスト教の調停

 アリストテレス自然哲学による二元的宇宙像は、バビロニアでの日食や月食などの現象が「地上の物体に作用する」という考え方と結びついて、地上界の出来事(法則)には必然的に天上界が作用するという考え方(ここでは「地上事象天因説」と呼ぶ)の基本となった(本の1-2「プトレマイオスによる天文学と占星学の始まり」と「アリストテレスの二元的宇宙像」参照)。地上事象天因説という考え方には占星術による運命決定論のようなものが含まれる。地上界のあらゆる出来事は天上界の動きによって予め決まっているという考え方である(「・・・の星の下に生まれた」という言い方はそのような考えに基づいている)。

 ところで、キリスト教にとっては自由意志を持つことは不可欠であった。地上事象天因説による「星の動きが自然の法則的必然性に従って人間の運勢や地上界の事象に影響を及ぼす」という考え方は、キリスト教から見ると全能のはずの神の働きを不当に制限するものであり、占星術による運命論・決定論は人間の自由意志と道徳的自律にも反することになった。

 そもそも神による奇蹟を認めるキリスト神教は、自然が自身の法則性にのっとって自律的に振る舞う古代ギリシャ自然哲学の世界観とは相容れない。4世紀から5世紀にかけてのキリスト教の聖人アウグスティヌス(Aurelius Augustinus)は、自然に対する知識欲を「目の欲」として現世の罪の一つに挙げ、知識欲は他の肉体的欲求と同様に克服すべき欲望と見なされ、自然の探求は禁止すべきとした。

 キリスト教会は、400年の第1トレド教会会議で「占星術や骨相学は信頼に価すると考える者は排斥される」と決議し、さらに561年の第1プラガ教会会議でも占星術を公式に否定した[1]。その後、ヨーロッパでは古代ギリシャ哲学の書物は、イスラム圏に流出したもの以外は教会の書庫の奥に眠ることとなり、その内容は次第に忘れ去られてしまった。そのため、この時期を科学の暗黒時代と呼ぶことがある。

 ところが12世紀ルネサンスの過程で、イスラム圏からの流入によって、ヨーロッパの知識人たちはアリストテレス自然哲学の地上事象天因説に基づく占星術を知ることになる。そしてアリストテレスの自然哲学が大学で教育され西欧の知識階級に浸透してゆく過程で、地上現象天因説に基づく占星術は一般の人々を広く魅了して浸透していった(本の「2-1-2古代ギリシャ哲学の復活」参照)。キリスト教は、一方的な禁止や弾圧ではアリストテレスの自然哲学を抑えきれなくなってきた。その危機に直面したキリスト教神学を救ったのが、13世紀のドミニコ会士トマス・アクィナス(Thomas Aquinas)である[1]。

トマス・アクィナス
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:St-thomas-aquinas.jpg

 問題は、天上界がどこまで地上界に影響を及ぼすのかだった。トマス・アクィナスは、「物体としての天体は物体としての人間の身体には作用するが、非物体としての人間精神や意志には直接作用することはない。」としてキリスト教と地上事象天因説を調停した。彼の神学思想は、死後一時異端と判断されたが、1322年に復権してキリスト教世界で公式に認められ、14世紀中期に正統神学の地位を確立した。1348年から翌年にかけてヨーロッパを襲ったペストにさいして、正統派キリスト教神学の総本山だったパリ大学は、ペスト発生の原因を天上界の影響として国王に報告した。つまりキリスト教は地上事象天因説を完全に認めた[1]。

 こうして、アリストテレスなどによる古代ギリシャ自然哲学は、公に研究できるようになった。ここを出発点として、アリストテレスやプトレマイオスの宇宙論も研究されるようになった。また占星術の隆盛は、より正確な天文知識を求める需要を引き起こし、天文学の研究を後押しした。これらは、引いてはいわゆる科学革命へとつながっていくことになった。アリストテレスの二元的宇宙像」では二元的宇宙像の科学への貢献を述べたが、そのためには、キリスト教の教義を乗り越える必要があった。神学者トマス・アクィナスはそれを可能にし、その後の科学の進歩に大きな影響を与えた。

(次は、成層圏準二年振動の発見(1) クラカトア東風とベルソン西風

Reference

[1]山本義隆、世界の見方の転換1 天文学の復興と天地学の提唱、みすず書房、2014.

2020年10月2日金曜日

アリストテレスの二元的宇宙像

 アリストテレスの二元的宇宙像については、本の1-1-2「アリストテレスの宇宙像」で触れた。この考え方は、その後の自然哲学、あるいは後世の科学、占星術に多大な影響を与えた。そのため、改めて整理しておきたい。

 アリストテレス自然学では、月下の世界は土・水・空気・火の四元素より成り、それらは相互に移り変わることが可能としている。この月より下の常に転化して生成・変化・消滅を繰り返す世界は「地上界」と呼ばれる。それに対して月とそれより先のエーテルよりなる世界では決して転化することがなく、生成や消滅は見られない。この不変の世界は「天上界」と呼ばれる。彼はそれぞれの世界は別な法則に従っていると考えた。この考え方は二元的宇宙像(論)と呼ばれている[1]。

アリストテレスの二元的宇宙像

アリストテレスの二元的宇宙像

 このアリストテレスによる二元的宇宙像は、バビロニアでの日食や月食などの現象が「地上の物体に作用する」という考え方と結びついて、「地上界の出来事には必然的に天上界が作用している」という考え方の基本となった。月齢による海の干満や曇りの日でも花が太陽の方向を向く植物などから、当時の人々から見ればこれは当然であった。これをここでは「地上事象天因説」と呼ぶことにする。ちなみに東洋では古くから「天人相関説」が有名で、これは易姓革命など人間の行為が天にも影響するため双方向性である。西洋での古代ギリシャ自然哲学は単方向で、地上界は天上界に影響を与えることはない。

 地上事象天因説の考えは、地上界の出来事の原因を天上界(つまり星の動き)に求める占星術(学)が隆盛するもとともなった。本の1-2「プトレマイオスによる天文学と占星学の始まり」や「気象予測の考え方の主な変遷(2)天文観測と占星学の登場」で書いたように、プトレマイオスはこの法則性を綿密に探るために彼の著書「アルマゲスト」で、将来の惑星の動きを(誤差は大きかったが)計算して予測できる宇宙モデルを初めて構築した。そして地上事象天因説の法則性を探ろうとした著書「テトラビブロス」では、気象と天体の動きとの関係についても述べている。これは占星気象学となって、やはり中世に大きな影響を与えた。ドイツの天文学者ヨハネス・スタビウスや医師カルダーノはテトラビブロスの気象予測の部分を高く評価していた[1]。

 この影響を受けた研究者として、16世紀のデンマークの有名な天文学者チコ・ブラーエがいる(本の3-1-2「ティコ・ブラーエの占星気象学と天体観測」参照)。彼は占星学の研究者でもあった。彼は精巧な天文観測装置を作ったことで有名だが、その動機の一つとして、天上界の地上界への影響の法則を正確に捉えられないのは観測精度が足らないと考えたことも動機となっている。そして地上事象天因説の影響が最も現れるものの一つとして気象を取り上げた。彼は天文観測しながら1582年の10月から1597年の4月まで、15年間にわたってヴェーン島で気象観測の記録を残している。これは占星気象学の検証のためと思われている[3]。

 チコはこうも述べている。「太陽は四季の循環をもたらし、月の満ち欠けにともなって・・・、潮の満ち干が生じる。・・・経験を積んだ観測者は、惑星の配置が天候に大きな影響を及ぼすことを知っている。火星と金星が天のある場所で会合するとき雨や雷が生じ、太陽と土星の会合では大気が濁り不快になる。太陽と恒星は毎年おなじように動くが、惑星はそうではないために、天候は年ごとに異なる。」[1]

 こういう考えをもっていたのは、決してチコだけではない。フランス出身の神学者ジャン・カルヴァンは「天の影響はしばしば暴風、旋風、また種々の天候、長雨の原因となるからである。」と述べている[2]。ヨハネス・ケプラーは占星術者としても有名だった(本の3-1-3「占星気象学者ケプラーによるケプラーの法則の発見」参照)。彼の占星術的予言はもっぱら自然占星術であり、その大部分が気象予測であった[3]。彼の著書「第三の調停者(Tertius Interveniens)」でも1592 年から1609年までの16 年間にわたって気象観測を継続して、その間に観測された星相と天候異常の関係の実例をいくつも記している[3]。また著書「世界の調和(Harmonices Mundi)」の中でも「ひたすら天候を観察し、そういう天候を引き起こす星相の考察をしたからであった。すなわち、惑星が合になるか、一般に占星術師が弘布した星相になると、そのたびに決まって大気の状態が乱れるのを私は認めてきた。」と述べている[3]。

 この地上事象天因説のもととなっている「天上界」と「地上界」という考え方が終焉するのは、ニュートンによる万有引力の法則の発見によってである(本の3-2-4「ニュートン力学の誕生」参照)。この法則によって天上界と地上界とに同じ法則が適用できることがわかった。この法則は天上界と地上界の区別を消し去り、これが彼が発見した万有引力(universal gravitation)にわざわざ「万有」と断わり書きが入っている理由の一つである。

 ところが、占星術は天上界による地上界への影響がはっきりしないまま、星の動きを「未来を指し示す予兆」と捉える星占い(ホロスコープ)として、幅広く民衆に広がっていった(本の2-1-3「占星気象学の普及」気象予測の考え方の主な変遷(3)ローマ時代と中世を参照)。他方、この人々に広がった星占いは、そのためのエフェメリス(天体暦)やアルマナック(生活暦)という惑星を含む天体の正確な運行という強い需要を喚起し(これがないと星占いが出来ない)、チコやケプラーによるその後天文学の発展を推進する動機ともなった。これは結果として、いわゆる科学革命へとつながっていった面があった。

このようにアリストテレスの二元的宇宙像は、後世に大きな影響を与えたのである。

(次はトマス・アクィナスによるアリストテレス自然哲学とキリスト教の調停

Reference

[1]山本義隆、「世界の見方の転換1 天文学の復興と天地学の提唱」、みすず書房、2014年、ISBN 978-4-622-07804-3 C1340.

[2]山本義隆、「世界の見方の転換2 地動説の提唱と宇宙論の相克」、みすず書房、2014年、ISBN 978-4-622-07805-0 C1340

[3]山本義隆、「世界の見方の転換3 世界の一元化と天文学の改革」、みすず書房、2014年、ISBN 978-4-622-07806-7 C1340