2023年9月5日火曜日

バルジの戦いの予報

 前回まで独ソ戦におけるドイツ軍の予報について述べたので、ついでに1944年12月のバルジの戦いにおけるドイツ軍の予報についても述べておく。この作戦の成否は天候が鍵を握っていた。

バルジの戦いは、アルデンヌ攻勢とも呼ばれることがある。これは、連合国軍にドイツ国境付近まで追い込まれたドイツ軍が、1944年12月に制空権がない中で航空機が飛べない曇天を利用して、アルデンヌの森を越えて、アントワープとリエージュ=アーへン方面に向けて起死回生の大攻勢を行ったものである。

ドイツ軍によるアルデンヌ攻勢(バルジの戦い)の作戦計画と実際の進出域の図。
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これは連合国軍にとっては、珍しく戦略的規模の奇襲を受けることとなった。この連合国軍が奇襲を受けたのには暗号解読が関係していた。イギリスはドイツ軍のエニグマ暗号を解読しており、それによってドイツ軍の戦略的な動きは、第二次世界大戦を通して概ね事前にわかっていた。

ところが、1944年7月にベルヒテスガーデンでヒトラー暗殺未遂事件が起こったことにより、ヒトラーは軍を信用しなくなっていた。そのため、軍の反対が予想されるバルジの戦いの準備の指示には、ヒトラーとその司令部はエニグマ暗号を用いた無線を使わず、有線電話や伝令を用いて指示を行っていた。一方で連合国軍はエニグマ暗号をすっかり信頼しており、他の情報からドイツ軍が動き出す兆候を感じていたものの、これに関する暗号通信がほとんどなかったため、大規模な攻勢とは考えていなかった[1]。

この作戦の成否は天候にかかっていた。当時ドイツ軍は制空権を失っており、この戦いで成功するためには、地上のドイツ軍が連合国軍航空機による空からの攻撃を受けないこと、つまり雲底の低い曇り空が長期間継続する期間に、迅速に作戦を実施できることが前提だった。

作戦開始の都合の良い日を探すため、ドイツのZWG(中央気象グループ)に、その予報が課された。彼らが軍から求められた条件は、アルデンヌを含むライン川の西方で作戦開始後5日間曇りになる期間を2日前に予報することだった。作戦の成功には最低でも1日前に向こう3日間の飛行が困難となる気象条件の期間を予見することが必要とされた。

これは、当時の気象学の水準からすると実質的に不可能に近い任務だった。1940年5月、当時のZWGのチーフだったディージングは、「特異期間(singularities)」という考え方を使って、同年5月10日から西部ヨーロッパが数日間晴天になることを予測し、ドイツ軍の電撃戦を成功させていた。しかし、1944年12月には、ケルンより西の気象観測所は、既に連合国軍に占領されて、高層気象や地上気象の観測データがなかった。実質的に1日より先の正確な予報は無理だった。

ディージングが亡くなった後、ZWGのチーフとなっていたシュベルトフェーガーと部下の気象学者フローンは、過去の12月の天気図を調べて、そういう曇天が続く条件にあう気象がどの程度起こったか調べた。その結果、5日間続いた例はなく、4日間も怪しく、3日間がわずかにあっただけだった[2]。

12月1日から、シュベルトフェーガーはドイツ空軍司令部とヴォルフスシャンツェ(狼の巣とも呼ばれたヒトラー司令部)に、毎日気象予測の状況を報告し続けていた。それは「まだ条件が揃う見込み無し」というものだったが、それには連合国軍がライン川を渡る前には、そういう状況が来るかもしれないという根拠のない希望を添えていた[2]

ところが12月14日になると、驚いたことに動きの鈍い北海の低気圧に向けて、南西からの湿った風が当該作戦地域に吹き続けるという、曇天の条件を満たす気象になる可能性が出てきた。翌日昼に改めて確認すると、西ヨーロッパが少なくとも16日から2日間は雲をもたらす湿った暖かい、風の弱い気団に覆われることが予見された[2]。

シュベルトフェーガーは15日の昼に、「16日から18日にかけて雲底の低い雲か霧によって当該地域の下層の視程が悪くなることが予想される」という予報を出した。この予報に基づいて12月16日からバルジの戦いの作戦が開始された。

NOAAの再解析による1944年12月16日18:00時の850hPa面の気温と地上気圧。ドイツ西部からベルギーにかけて暖気が南西から入っていることがわかる(www.wetterzentrale.deによる)。

予報は当たり、当日から曇天が続いた。ところが予想外なことに、曇りの天候はこの3日間だけでなく、4日目の午後にはやや雲に隙間が出来てわずかな航空機が活動できたものの、5日目も再び厚い雲に覆われて強風が吹いた。12月にこのような気象状況が5日間も続いたことは、それまでの記録にはなかったことだった[2]。連合国軍では、ドイツ軍と天候が共謀していると嘆いたとも言われている。

この曇天の継続は、この作戦にとってこれ以上ない理想的な条件となったと思われる。ドイツ軍は、この天候を利用して連合国軍を破って70km程度西のセル付近まで侵攻した。しかしそれが限界だった。

ベルギーでドイツ軍機甲部隊の迎撃に向かう連合国軍のM36対戦車自走砲。1944年12月20日。https://ww2db.com/image.php?image_id=6931

6日目には暖気が後退して天候が回復した。するとドイツ空軍は連合国軍の航空部隊に圧倒され、多数の機甲師団を含むドイツ軍は連合国軍の空からの攻撃によって壊滅していった。また、ドイツ軍は攻勢開始後にエニグマ暗号を使った無線による指示を再開したため、ドイツ軍の意図は連合国軍に筒抜けとなった[1]。そのため、この戦いはバストーニュという都市を巡る攻防という局所的な戦いに矮小化されていった。

包囲されたバストーニュに物資を空中から投下する連合国軍の輸送機(C-47)
https://ww2db.com/image.php?image_id=6937

連合国軍総司令官だったアイゼンハワーは、ドイツ軍に防備を固めた国境沿いに籠もって抵抗されるよりは、ドイツ軍が西方の開けた空間に出てきた方がむしろ叩きやすいと考えたようである[3]。最終的にドイツ軍は、戦車800台、飛行機約1000機を失い、死傷者10万近くを出して国境付近まで退却した[3]。これによって最後のまとまった戦力を失ったため、ドイツの崩壊が早まったとも言われている。

バルジの戦いで防戦したアメリカ軍第82空挺師団の装甲ジープ
https:/ww2db.com/images/vehicle_jeep31.jpg

この作戦の成否は別として、この長期にわたる曇天を予測できたことは、ドイツの気象学者にとっては栄誉になったと思われる。この予報の成功によってZWGのチーフだったシュベルトフェーガーは大佐に昇進している[2]。

(このシリーズ終わり。次は「成層圏突然昇温の発見とその解明(1)」)

参照文献

[1]ウィンター・ボーザム, 1978: ウルトラ・シークレット,早川書房
[2]Schwerdtfeger, W., 1986: The last two years of Z-W-G (Part 3). Weather, 41, pp. 187-191.
[3]アントニー・ビーバー, 2015:第二次世界大戦1939-1945(下), 白水社
[4]グリーンフィールド, 2004, 歴史的決断(下), 筑摩書房