(このブログは 「気象学と気象予報の発達史 」の一部です。)
戦争において気象情報、特に気象予報は、輸送や作戦に直接影響するため極めて重要な情報となる。連合国軍では、航空機による爆撃や作戦を進める上で、ヨーロッパ大陸の正確な気象予報が必要だった。そのためには、ドイツが占領している地域や広大な北大西洋にも気象観測網を展開する必要があった。特にドイツが占領している地域で気象観測網を構築するには、現地のレジスタンスなどの協力を得る必要があった。
これらの活動には暗号の解読も絡んでいた。気象観測結果は暗号で通信される。もし敵の気象観測地点の近くで観測を行うことが出来れば、観測結果は似たようなものになる。暗号化された敵の気象報告と近くの実際の気象観測結果がわかれば、それらを比較することで敵の暗号を解読するのに役立つ可能性があった。
ベルギーでの気象観測所網
ベルギーのブリュッセルにある王立気象研究所の職員だったアルベルト・トゥーサンは、ベルギーがドイツに降伏すると、もう一人の相棒と海峡を越えた160 km先のイギリスへ向けて、無謀にも小型ボートで出発した。しかし、幸運なことに途中でイギリス軍のダンケルクからの撤退を行っていたイギリス海軍の掃海艇に救助された。
当時イギリス特殊作戦局は、パラシュートで諜報員を送ってレジスタンスと共にイギリス空軍の爆撃機部隊に気象情報を送る観測網の構築を計画していた。イギリスに到着したトゥーサンの人柄や素性を審査した特殊作戦局は、気象学者である彼がベルギーにパラシュートで降下すれば、そこで気象情報を送るネットワークを組織するのに役に立つかもしれないと考えた。トゥーサンは特殊作戦局が計画する極秘の諜報活動に身を投じた。彼による気象観測網構築の作戦は、小型の狩猟猟犬にちなんで「ビーグル」というコードネームで呼ばれるようになった[1]。
トゥーサンと2人の無線技師はベルギーにパラシュート降下することになった。2人の無線技師はベルギーのレジスタンス組織「ゼロ」(Amicale Zero)と接触するのが目的だった。ちなみこのレジスタンス組織は、墜落した連合国軍航空機の搭乗員を多数救出したことでも知られる。1942年8月23日午後10時頃に、3人は特殊作戦局が用意した双発機に搭乗した。しかしパイロットは、降下予定投下地点リエンヌから約60kmも離れたフランスのヘスダン付近に誤って彼らを投下した。3人はパラシュートを埋めて装備を整えてから、ベルギーのリエンヌに徒歩で向かい、レジスタンス組織「ゼロ」に接触した。
リエンヌでは、トゥーサンは見習い時計技師を装って、時計技師の夫人が経営する宿屋に滞在した。トゥーサンは時計店で、秘密の気象観測網の構築の案を練った。時計技師の家族も彼に協力した。また物理学者マックス・コジンズの協力も仰いで気象観測網を構築した。
1942年11月1日、トゥーサンはイギリス空軍(Royal Air Force)のために最初の観測結果を送った。それは、ブレッチリー・パークで解読され、ダンスタブルのイギリス気象局に転送された。観測結果が他の場所で測定されたものと矛盾がなく、その有効性が評価されたため、トゥーサンの報告はイギリス空軍の爆撃機部隊が使用する天気図に組み込まれることになった[1]。
トゥーサンらは、毎日午後2時に気象情報を送信した。彼らは通信機を宿屋の屋根裏に隠していたが、これは危険な仕事だった。ゲシュタポと無線探知車が常に巡回していた。もしゲシュタポが来たら、宿屋の夫人が棒で天上を叩いて知らせることになっていた。トゥーサンは気象観測網を拡大した。その観測結果はイギリスで傍受されたドイツ軍の気象観測と比較され、ドイツの暗号を解読するのにも役立ったようである。
トゥーサンは戦後にイギリスから殊勲賞を贈られた。なお気象観測活動「ビーグル」の存在は極秘となっており、連合国側の文書ではほとんど言及されていない[1]。
ポーランドでの気象観測所網
第二次世界大戦が始まると、ポーランドのレジスタンス組織は、1年以内にAK(Armia Krajowa)と呼ばれる国内軍に統合された。AKの最初の仕事は、ロンドンにあるポーランド亡命政府との信頼できる通信手段を確立することだった。
当初、イギリスのポーランド亡命政府との連絡は、ブダペストとブカレストにある大使館を通じて行うことができた。しかし、1940年にハンガリーとルーマニアが枢軸側に入ると、その連絡手段は閉ざされた。亡命政府とAKとの連絡や支援は、カルパチア山脈を越える危険な航空路に頼らざるを得なくなった。航空路の正確な気象情報が必要になったAKは、戦前のポーランド爆撃隊員で英国気象局員となっていたヴィクトール・ドブルザンスキー少佐を中心に、気象部門を設立することにした[1]。
ドブルザンスキーは、何人かの協力を得て、ポーランドに秘密裏に気象観測網を設立することに成功した。天文学者ヤン・ガドムスキがワルシャワ天文台から必要な観測機器を提供した。後には彼は移動観測所を配備し、必要な場所で観測結果を集めることも行った。そして主に女性が伝令役を務め、観測結果を隠された無線通信所まで運んだ。こうした活動は危険でもあり、捕まれば拷問を受けた後に恐ろしい強制収容所行きが待っていた。
この気象観測網の維持のためには、イギリスからの支援が不可欠だった。イギリス南東部の空軍基地からポーランドまでの距離は約1600kmある。イギリスは、武器、弾薬、無線機、諜報員をパラシュートで降下させてポーランドのレジスタンスを支援するために長距離爆撃機を用いた。しかしその支援機を会合地点に誘導するための航法支援システムがなかったため、月夜によく見える川や湖の近くが降下地点に選ばれた。
イギリスのBBC放送は、航空機による支援補給が予定される数日前に、あらかじめ決められた一連の曲をAKのために放送していた。気象学者を含む受領組織は無線・電話を持っており、支援の航空機が近づくと、気象学者が雲の高さ、風速、風向き、降水量などをパイロットに伝えた。1941年2月から1944年11月までに、補給のために858機が出撃し、345名の工作員と4143個のコンテナを届けることに成功した[1]。
またAKの通信部隊は、気象報告を含む暗号化されたドイツ軍の無線通信を傍受できた。1943年にはこの暗号通信はイギリスのブレッチリー・パークの暗号解読センターへ解読のために転送された。この情報はイギリス気象局がナチス支配下のヨーロッパの天気図を作成するのに役立ち、航空機を用いたAKへの支援だけでなく、ドイツ軍への爆撃などの作戦のために重要な情報となった。
まとめ
同様な気象観測網はオランダにも設立された。開戦から2年程度で、ブレッチリー・パークにあるイギリス情報部の暗号解読センターは、イギリス気象局に非常に質の高い気象情報を迅速に提供できるようになった。枢軸国占領下のヨーロッパでの地表と上空の天気図が描かれ、その精度は1941年頃から戦争が起きる前とほぼ同じように良好だったという[1]。
第二次世界大戦における気象戦 (1)~(3)を通してみると、第二次世界大戦において、まず気象観測結果の無線による報告が、暗号解読に大きな役割を果たしたことがわかる。また、困難を排してのグリーンランドや占領下のヨーロッパ大陸などでの気象観測が、作戦やレジスタンス支援などのためのヨーロッパでの気象予報に重要な役割を果たした。戦争となると華々しい会戦に目を奪われがちだが、その裏では気象情報やそれを用いた暗号解読という地道な活動が戦争を支えていたことがわかる。
参照文献
[1] John Ross, THE FORECAST FOR D-DAY, LYONS PRESS, 2014.
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