2023年6月2日金曜日

地球化学の先駆的女性科学者 猿橋勝子(6)

 10    女性科学者の地位向上への努力

「国際民主婦人連盟」の国際大会での講演

冷戦がエスカレートしていた1958年に、女性の社会運動家で有名だった平塚らいてうは、自身が副会長を務めていた国際民主婦人連盟の国際大会で、被爆国として原水爆禁止による平和を訴えようと考えていた。そのため、1958年4月に日本でまだ少数だった女性科学者の団体を作って、「日本婦人科学者の会」を設立し、同年6月にウィーンで開催される「国際民主婦人連盟」の国際大会に代表を送ることした [1]。そして、その代表として放射能を研究している猿橋に白羽の矢を立てた。猿橋はそれを引き受けるとともに、自身もさまざまな学会に働きかけて資金集めに協力した。

猿橋は日本の放射能汚染の大部分はソビエト連邦の核実験によると主張していた。このブログの「大気圏核実験に対する放射能観測(4)」で述べているように、微気圧計を用いれば、核実験のおよその場所は特定できた。また風の流れを遡ることによって、日本で観測された放射能の起源も気象学的にある程度推測できた。しかし、米ソのプロパガンダ合戦の中で、日本の放射能汚染の大部分はアメリカによるものと信じる人々も多かった。それを信じた婦人団連合会や気象研究所の労働組合は、ソビエト連邦による影響を唱える猿橋の代表派遣に強く反対した [1]。当時のインテリ層には、親ソビエト路線をとる人が少なくなかった。

しかし猿橋はさまざまな妨害に屈することなく、ウィーンでの国際大会で、「核実験の人体に対する影響」と題して講演した。この講演は大成功に終わり、各国の代表から猿橋に強い激励と感謝の言葉が贈られた [1]。


1951年の第4回国際民主婦人連盟国際大会の様子
https://en.wikipedia.org/wiki/Women%27s_International_Democratic_Federation#/media/File:195104_1951%E5%B9%B41%E6%9C%8831%E6%97%A5%E5%9B%BD%E9%99%85%E6%B0%91%E4%B8%BB%E5%A6%87%E5%A5%B3%E8%81%94%E5%90%88%E4%BC%9A%E7%AC%AC%E5%9B%9B%E5%B1%8A%E7%90%86%E4%BA%8B%E4%BC%9A-%E4%B8%9C%E5%BE%B7.png

学術会議会員への出馬

当時、女性科学者の地位は低いものだった。1975年の国連の国際婦人年に合わせて、日本学術会議の中での女性科学者の地位向上のための小委員会が設立されたが、その委員の中に女性はいなかった。彼女は学術会議会員ではなかったが、運動した結果この小委員会への女性参加が認められるとともに [11]、彼女はこの小委員会に参加する女性の一人となった。この小委員会がとりまとめた女性地位向上の要望は、学術会議を通して政府へ提出されたが反応はなかったようである。

猿橋は、三宅の助言もあって自ら学術会議の会員に立候補することを決意する。学術会議の会員は、当時は投票権を持つ分野別の有権者による選挙で選ばれる制度だった。しかも、それまで女性が立候補したことはなかった。会員への立候補をしたものの、元来有権者に女性は少なく、仮に彼女の分野の女性有権者の全員が彼女に投票しても、当選できない状況だった。そういった状況にもかかわらず、選挙の投票の蓋を開けてみると、彼女の分野の会員30名の枠中の6位で当選した。彼女は、学術会議で初めての女性会員となった。

彼女は学術会議の中に「婦人研究者の地位分科会」の設置に貢献し、それによって女性研究者に関する報告書がとりまとめられた。彼女は1981年1月から1985年7月まで学術会議会員を務めたが、その後学術会議の会員は選挙ではなく、政府による任命制となった。
 


日本学術会議庁舎(出典:ウィキメディア・コモンズ)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0d/Science-Council-of-Japan-01.jpg/640px-Science-Council-of-Japan-01.jpg

猿橋賞の創設

猿橋は1980年に気象研究所の部長を最後に定年退職した。当時女性科学者は目立たない存在で、女性科学者同士が結束する手段もあまりなかった。そのため猿橋らが中心となって、彼女の退職記念パーティの際に集まったお祝い金を基に、「女性科学者に明るい未来の会」を創設した。この会は1990年に猿橋の私費や寄付金を投じて公益信託化して、税制上の優遇処置を受けられるようになった。この会の活動は、女性科学者という幅広い層を対象としているにもかかわらず、公的資金が全く入らないボランティアベースの珍しい事業となった。

そしてこの会の事業として、自然科学の分野で優れた業績を上げた50歳未満の女性を毎年表彰する賞の授与が決められた。この賞は三宅泰雄によって「猿橋賞」と命名された [1]。この猿橋賞の授与はマスコミに取り上げられることも多く、またこの受賞者はその後それぞれの分野の研究で中心的な役割を果たしている。
その後猿橋は、1981年にエイボン女性大賞を受賞、1985年には地球化学の三宅賞(日本地球惑星科学連合学術賞)を受賞、1992年には日本海洋学会から名誉会員に推され、1993年には日本海水学会から田中賞を受賞した。

11    晩年

男尊女卑の風習が色濃く残った戦中、戦後の時代における猿橋の活躍の背後には、三宅泰雄の熱意ある指導や助言があったと思われる。彼女の中央気象台への採用から化学分析手法の伝授、適切な研究テーマの提案と助言、自ら滞在したことがあるスクリプス海洋研究所への猿橋の派遣には、三宅が大きく関わった。そもそも彼女が活躍した放射能の研究、酸性雨の研究、海洋中の二酸化炭素分圧の観測などは、三宅が開拓あるいは主導した研究分野であり、彼自身も大きな業績を残している。猿橋の学術会議会員への出馬や「女性科学者に明るい未来の会」の設立にも、三宅は多大な助力を行った。

猿橋の研究者としての成功には、女性という枠に囚われない開明的な考えを持っていた三宅の存在も大きな影響があったと思われる。三宅との出会いが彼女の研究者運命を大きく変えたと行っても過言ではないだろう。明治期の優れた日本の指導者であった後藤新平は、「財を遺(のこ)すは下、仕事を遺すは中、人を遺すを上とす」と言ったと伝えられているが、三宅はまさに人を遺したのではないだろうか。そして、それは女性科学者を勇気づけることによって、猿橋にも受け継がれたと言えるかもしれない。

三宅は気象研究所を退職後、東京教育大学(現つくば大学)の教授をしていたが、63歳の時にがんがみつかり、自宅マンションで研究しながらの闘病生活に入った。既に両親や兄を亡くして天涯孤独となっていた猿橋は、三宅と同じマンションに部屋を購入して、闘病しながら研究する三宅を支えた。「年老いた父親と手厚く介護する娘」という雰囲気だったという [1]。三宅は1990年に82歳で他界し、彼の研究は猿橋が引き継いだ。彼女が70歳の時だった。

彼女は2001年に「女性科学者に明るい未来の会」の設立20周年を記念して、「My Life: Twenty Japanese Women Scientists」という本を英文で出版し、その中で猿橋賞の1回目から20回目までの受賞者を紹介した。この本は外国の図書館などに送られ、日本の女性科学者の活躍を海外に広く紹介するものとなった [1]。

東京女子医専の面接の際に、吉岡彌生から「私のようになりたいといったって、そうたやすくなれるもんじゃありませんよ」と言われた猿橋だったが、優れた研究業績と女性科学者の育成によって、吉岡に匹敵あるいは彼女を越えたと言えるのかもしれない。

彼女は2007年に肺炎のため87歳で他界した。気象研究所で後輩だった廣瀬勝己氏は、追悼文で次のように述べている。「このような大きな業績を残されたのは、三宅先生を生涯の共同研究者として、厳しい研鑽に励まれたからと推察されます。猿橋先生は、研究についても生活についても大変厳しい先生で、先生が現役時代、地球化学・海洋化学の分野の皆様には有名でした。」 [12]。

(このシリーズ終わり。次は「大気の川について」)

 参照文献(シリーズ共通)

[1]     米沢富美子, 猿橋勝子という生き方, 岩波書店, 2009.
[2]     関口理郎, 成層圏オゾンが生物を守る, 成山堂書店, 2001.
[3]     三宅泰雄、猿橋勝子, "大気オゾンの年変化と子午線分布に関する理論," Journal of Meteorological Society of Japan, 第29巻, pp. 347-360, 1951.
[4]     Butchart, "The Brewer-Dobson circulation," Rev. Geophys., 第52巻, pp. 57-184, 2014.
[5]     Saruhashi, "On the Equilibrium Concentration Ratio of Carbonic Acid Substances Dissolved in Natural Water - A Study on the Metabolism in Natural Waters (II)," Papers in Meteorology and Geophysics, 第6巻, pp. 38-55, 1955.
[6]     Saruhashi and Folsom, "A Comparison of Analytical Techniques Used for Determination of Fallout Cesium in Sea Water for Oceanographic Purpose," Journal of Radiation Research, 第4巻, pp. 39-53, 1963.
[7]     猿橋勝子、金沢照子, "降水のpH," 天気, 第25巻, pp. 784-786, 1978.
[8]     Reveller and Suass, "Carbon dioxide exchange between atmosphere and ocean and the question of an increase of atmospheric CO, during the past decades," Tellus, 第9巻, pp. 18-27, 1957.
[9]     猿橋勝子、杉村行勇, "大気・海洋間の二酸化炭素の交換," 天気, 第25巻, pp. 786-790, 1978.
[10]     吉川久幸, "温室効果ガス ―炭素循環研究に着目して―," 天気, 第54巻, pp. 765-768, 2007.
[11]     井野瀬久美惠, "日本学術会議改革と女性会員," 学術の動向, pp. 92-98, 2021.
[12]     広瀬勝己, "猿橋勝子名誉会員のご逝去を悼む," 地球化学, 第41巻, 2007.