2019年3月31日日曜日

ウィリアム・ダインス(1)家系と彼の若い頃 (William Dines 1: His family and young days)

イギリスの気象学者ウィリアム・ダインス(William Henry Dines, 1855-1927)は、気象測定器の優れた開発者であるとともに、それらを用いて得られた観測結果の解釈についての有名な気象学者である。しかし、彼の業績のイメージはあまり明確でないか、人によって異なっているかも知れない。それは本の4-4「風力計・風速計」8-2-5「異なる気流の接触という考え方の復活」に彼が出てくるように、彼の幅広い活動分野によって、彼の業績が絞りにくくなっているためかも知れない。しかし、彼の気象学における功績を大きく、ここでまとめてみたい。

ウィリアム・ダインス(William Henry Dines)

ダインスの家系

父のジョージ・ダインス
ウィリアム・ダインスの父ジョージ・ダインス(George Dines, 1812-1887)は優れた建築家であり、ロンドンで有名なレストラン、 ザ・トーマス・キュービット(The Thomas Cubitt)の建築などの主任建築士(Master Builder)を務めたり、英国王室の離宮であるオズボ-ン・ハウス(Osborne House)の建築に関わったりした。

しかし、建築物は気象の影響を受ける。信頼される建築物を作るためには、風や雨、湿度、結露などの建築物などへの影響を調べる必要があってか、父のジョージ・ダインスは気象の測定に強い関心があった。ジョージは、1864年にイギリスの王立気象学会のメンバーに選ばれており、「ロンドン地区の雨量(Rainfall of the London District) (1813-1872)」を出版した(Pike, 1987)

父ジョージ・ダインズの建築業は成功しており、ロンドンでいくつかの建物を所有していたため、これらからの安定した収入があった。これによって、父と息子のウィリアム・ダインスは、気象学に対する研究を熱心なアマチュアとして追い続けることができた(Pikes, 2005)。しかも、ウィリアムの子のうち、兄のLewen Henry George Dinesはケウ気象台(Kew Observatory)の技師となり、弟のJohn Somers Dinesはロンドン気象局の技師となった。大変珍しいことに、3代続いた気象学者の家系となった。


若い頃の経歴

ダインスは少年時代にはロンドン南西にあるウッドコート学校に学び、そこで数学に傑出した才能を示した。彼は有名なトリニティ・カレッジに進んだが、そこで彼独自のやり方を認めない数学教師と衝突したため、父は16才だった彼を自宅に戻した(Pikes, 2005)。

1873年から彼は南西鉄道会社の工場(The Nine Elm Works of the Southwestern Raiway)に見習エ(apprenticeship)として入社した。彼はそこで優れた製図技術を身につけ、後に彼がさまざまな革新的な気象測定器の設計図を作成する際に、それが大きく役に立つこととなった。また、彼はそこで風に興味を持ち、機関車のテスト走行時に彼が実際に乗って感じた風の速さや圧力の感覚は、後のテイ鉄道橋の大惨事後の風速の議論にも役に立った(Pikes, 2005)。

1877年にダインスは4年間勤めた鉄道技手を辞めて、ケンブリッジのコーパス・クリスティ大学(Corpus Christi College, Cambridge)の数学科に入学し、1881年に卒業した。彼はモーソン奨学金を受けるなど数学に才能を示したが、彼が在学中の1879年に起こったテイ鉄道橋の大惨事は、彼を気象学の道に進ませることとなった。

つづく

参照文献

Pike-1987- Master builder turned meteorologist; George Dines, 1872-1887, Weather, 42, 88-90
Pike-2005-William Henry Dines (1855-1927),Weather, 60, 308-315.


2019年3月11日月曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(12)成層圏発見の意義

当時上空に行けば行くほど気温が下がることは、物理理論と高度10 km程度までの実際の観測から揺るぎない性質と考えられ、それを阻むようなメカニズムがあるとは考えられなかった。そういう中で、気温の低下が止まる成層圏の発見は、それまでの科学常識を打ち砕く意外な発見だった。イギリスの気象局長官で気象学の権威だったショー(Sir Napier Shaw)は、成層圏の発見を「気象学の歴史上最も驚くべき発見」と述べた(Shaw, 1926)。また、大気物理学者のグーディ(Richard Goody)は「テスラン・ド・ボールがきわめて難しい誤差を持つ観測から重大な発見を可能にした注意力は、その慎重かつ頻繁な測定によって、この観測を気象学の歴史の中で最もすばらしいものの一つにした。」と述べている(Goody, 1954)。

エクマン

しかしこの発見の与えた影響は気象学に止まらなかった。この地球上に特性の異なる同心円状の層があるという考え方は、気象学以外の分野にも広がっていった。スウェーデンの海洋学者エクマン(Vagn Ekman)は海洋の層状構造を発見し、クロアチアの気象学者モホロビチッチ(Andrija Mohorovičić)は、地殻の層状構造の存在を明確にした。これは「モホロビチッチ不連続面」と呼ばれている。

モホロビチッチ
モホロビチッチ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Portrait_of_Andria_Mohorovicic.gif

さらに大気や海洋の層はその不連続面に沿って動くことから、ウェゲナー(Alfred Wegener)は大陸の地殻も長年かかって動くと考えて、1912年に「大陸移動説(continental drift theory)」を提唱した。しかしながら、当時はこの説は認知されなかった。本の11-5-2「IGYと南極観測」に書いたように、1950年代のIGYでの海底の観測などから1960年代にプレートテクトニクス理論が構築されてくると、ウェゲナーの大陸移動説が見直される結果となった。大陸移動説は、現在では地震を引き起こす原因の一つとして広く知られている。そういう意味では、成層圏の発見は気象学だけでなく、地球科学における発想の大きな転換点ともなった。

「高層気象観測の始まりと成層圏の発見」はこれで終わる。19世紀において高層大気は地球の辺境の一つではあったが、そのおおまかな構造はそれまでの知識から明らかと考えられていた。しかし、自然は往々にしてそれまでの人間の常識を覆すことがある。高層に温度が高くなる層があるという成層圏の発見はそういったものの一つである。こういったことは「19世紀末の知識が不十分だったから起こっただけ」とは言い切れない。現代においても、自然に対する人間の知識は限られており、これまでの常識とは異なることが起こり得る。このブログの「地球環境の長期監視の重要性」で述べたオゾンホールの発見もその一つである。成層圏の発見はそういう意味でも、人間の自然に対する姿勢を問う教訓の一つとなるのではなかろうか。

(このシリーズおわり。次はウィリアム・ダインス(1)家系と彼の若い頃

参照文献

Goody, R. M., 1954: The physics of the stratosphere. Cambridge, University Press, 187 pp.
Shaw-1926-Manual of meteorology, Vol. I. Cambridge, University Press, 343 pp.

2019年3月9日土曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(11)成層圏の存在と原因の広がり

1902年のテスラン・ド・ボールの報告では、高層大気に等温だったり気温が高くなったりする層があるだけでなく、等温層が始まる高度が高気圧の周辺では高度12.5  kmであったが、低気圧の中心付近では高度10 kmまで下がることも示していた。しかし、そのような等温層がどの程度の規模でどの程度継続するのか、あるいはその成因は何なのかは謎だった。彼は1904年に、上空の等温層は季節によらず通年で存在していることを明らかにした。その後ヨーロッパ各地での観測により、等温層は狭い局所的な現象ではなく、ヨーロッパ中に広がっていることが確認された。

高層での等温層のさらなる確認のために、高層気象観測が世界規模で行われた。1903年にはベルソンらが極域で観測を行った。1904年にはロッチによってアメリカでも探測気球観測が行われて、高層での等温層の存在がアメリカでも確認された。1906/1907年にはヘルケゼルと海洋学者でもあったモナコ王子(アルベール1世)が北極圏内のスピッツベルゲンで観測を行った。1907年からテスラン・ド・ボールは、北極圏ラップランドのキルナで調査を行った(結果は彼の死後に出版された)。1909年にはヘルケゼルは熱帯のスマトラで高層気象観測を行った。同年にテスラン・ド・ボールは、等温層が始まる高度が夏季に高く冬季に低く、また高緯度より低緯度の方が高いことを発表した。これで、成層圏の世界規模での特徴がおおよそわかった(Hoinka, 1997)。


気温の鉛直分布(気象庁提供)
1906年のミラノでの第5回科学航空国際委員会で、ドイツのケッペンがこの高層気象分野の学問を「高層気象学(aerology)」と呼ぶことを提案し、この用語はただちに広まった。また、逆転層や等温層などとさまざまな名称で呼ばれていた成層圏も、テスラン・ド・ボールが1908年9月28日のドイツ気象学会の会合で「成層圏(stratosphere)」と命名したとされている。これはこの大気の温度構造が極めて安定した静力学平衡状態にあり、成層(stratification)している性質から名付けたものである。一方それより下の層は、同じくテスラン・ド・ボールによって、ギリシャ語の混合する層という意味の「対流圏(troposphere)」と命名された(Hoinka, 1997)。これから、雲などの顕著な大気現象は、対流圏内だけの限られた高度で起こっていることがわかった。

どうして上空に高温の層がある原因も謎だった。本の8-4-3「成層圏の発見」で述べたように、1909年にイギリスの気象学者ゴールド(Ernst Gold)とショーは、理論計算から二酸化炭素と水蒸気の放射・吸収から上空に温度が下がらない層がある可能性を指摘した(Gold and Shaw,  1909)。当時太陽スペクトルの観測や地上実験から、上空に二酸化炭素、水蒸気、オゾンの3つの気体が存在して太陽放射と地上からの長波放射を吸収することがわかっていたが、それらの鉛直分布はわからなかった。
つくば上空のオゾンの鉛直分布例
(気象庁提供)

二酸化炭素は高度100 km近くまで濃度はほぼ変わらず(それ以上では重力分離を起こす)、水蒸気は通常は地上近くに濃度のピークがある。本のコラム「成層圏オゾンの発見」で述べた観測から、現在ではオゾンの鉛直分布は高度20 kmから30 km付近にピークがあることがわかっている。実は上空の等温層に対するオゾンによる放射・吸収の影響も当時検討されていた(Gold and Shaw,  1909)が、鉛直分布がわからなかったため、オゾンの寄与は小さく見積もられた可能性がある。オゾンによって成層圏が暖まる理由とそれを引き起こす反応が一応わかったのは、1930年のイギリスの地球物理学者チャップマン(Sydney Chapman)による、酸素分子の光分解から始まる成層圏オゾンの光化学反応(チャップマン反応)の提案によってである。
チャップマン反応。Mは窒素などの第3の分子、hはプランク定数、νは波数、λは波長
この一連の反応での消滅と生成のバランスによって成層圏でオゾンが存在し、大気を暖めている。

つづく

参照文献
  • Gold and Shaw-1909-The isothermal layer of the atmosphere and atmospheric radiation. Proc. Roy. Soc. London (A) 82, 43-47.
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303


2019年3月6日水曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(10) 成層圏存在の認知

テスラン・ド・ボールとアスマンの発表によって、上空で気温の下降が止まることが研究者たちに明確に意識され始めた。テスラン・ド・ボールとそれを支持するアスマンの結果は、1902年5月20日のベルリンでの第3回「科学航空国際委員会(the International Committee for Scientific Aeronautics)」の会合で発表された(Rotch, 1902)。この会合にはドイツ、ロシア、フランス、アメリカ、イタリア、スペイン、イギリスから約100名の航空学の専門家も参加していた。

この観測結果は驚きを持って急速に科学界に広がった。テスラン・ド・ボールの報告は、アメリカ気象局の気象学者アッベ(Cleveland Abbe)によって英語に翻訳されたものが同年のMonthly Weather Review誌に、オーストリアの気象学者ハン(Julius von Hann)によってドイツ語に翻訳されたものがMeteorologische Zeitschrift誌に直ちに発表された。同誌にはアスマンの報告も掲載された(Hoinka, 1997)。

おそらく、テスラン・ド・ボールの報告がアスマンの発表よりわずかに早かったことと、アスマンがテスラン・ド・ボールの結果を自分の結果の支持に使ったことから、成層圏の発見をテスラン・ド・ボールの功績に帰している著作物が多いようである。しかし、テスラン・ド・ボールとアスマンの二人の功績と記しているもの少なくなく(Hoinka, 1997)、国の威信をかけた思惑もあってか成層圏の発見者に関する記述は統一されていないようである。

成層圏の発見は、突然起こったことではない。当時有人や無人の気球観測が各地で行われて、その結果気球の構造や搭載測定器の改善が次々に行われることによって、困難な高層気象観測が安定して可能になっていった。当時の高層気象観測の問題として、測定器の安定した回収(発見は住民に依存した)、日射や放射の気温観測への影響、下層空気の持ち上げ、測定器感部の換気(応答の遅延)、記録器の凍結、着地状況によっての測定器や記録の破損などがあり、安定した正確な観測は容易ではなかった。

安定した観測を阻む上記のような要因があったため、高層での等温層はたびたび観測されていたものの、当初それらの結果は観測の誤りと考えられた。高層での等温層の発見を主張するためには、高層気象観測での誤観測を除いた安定した観測結果という質だけでなく、量によってその発見を確実に示す必要があった。

そういう面から見ると、テスラン・ド・ボールには最初の発表者というだけでなく、236回という注意深い多数の観測頻度にも発見の優位性があったと思われる。ただ彼の1902年の発表は、明瞭ではあるが文章による簡単な報告だけで、今日から見るときちんとデータを記載した3日後のアスマンの発表の方が説得力があるように思われる。テスラン・ド・ボールの功績には、その後の世界各地での精力的な観測や活動も大きく影響しているかもしれない。

さらに、ヘルケゼルの功績も評価する必要がある。彼はストラスブルクで自ら高層気象観測を行うだけでなく、科学航空国際委員会の委員長を務めて、国際的な確執-特にドイツとフランス-を緩和・仲裁した。そして、多数地点で一斉に観測を行う「国際高層気象観測日」を制定して、組織的な観測網としての高層気象観測を推進した。また、関係者を集めた会合を多数開催して、各地での観測の状況や結果などを集めるとともに報告書として後世に残した。


ロッチ
またアメリカの気象学者ロッチも1884年という早い時期にブルーヒル観測所を設立して、凧を用いた定常的な観測を行っていた。彼はテスラン・ド・ボールとアスマンの両者とも親しく、その経験から二人に対して高層気象観測に関する助言を行った。また彼はヨーロッパの高層気象観測結果や会合の内容を直ちに英語に翻訳して、アメリカの高層気象観測の発達にも大きく貢献した(Hoinka, 1997)。

つづく

参照文献
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303
  • Rotch-1902-The international aeronautical congress, Science, Vol. 16, No. 399, 296-301.


2019年3月4日月曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(9) ドイツのアスマンによる発見


「リヒャルト・アスマン(その2)」で述べたように、ドイツの気象学者アスマンは1900年ころにはドイツのゴム会社と共同で薄くて軽くよく伸びるゴム製気球を開発した。しかし、ゴムの性能のためか当初は高度15~16 kmで破裂して、それ以上の高度にはなかなか上がれなかった。それでも定積気球よりは高度10 km以上まで安定して観測できた。後年には改良されて高度30 km程度までは、上昇できるようになった。
アスマンによる観測結果(Assmann, 1902)
に基づいて作成したグラフ

アスマンは1901年の4月から11月まで、ベルリンでゴム製の探測気球を用いて6回の高層気象観測を行い、それらは高度12~17 kmまで達した。そして1902年5月1日にベルリンの科学アカデミーの会合において、高度10 km以上で大気減率が急速にゆっくりとなって等温層に達するかむしろ昇温が起こっており、高度10 kmから12 kmより高い高度で暖かい大気の流れがあることは疑いようがないことを示した(Assmann,1902)。また、その際には彼はテスラン・ド・ボールがパリで500回以上の観測を行っていることを示し、アスマンはテスラン・ド・ボールの観測も同じような結果を示していることを付け加えた(Assmann,1902)。

なお、アスマンのベルリンでの発表はテスラン・ド・ボールのパリでの報告の3日後だった。アスマンとテスラン・ド・ボールは、それぞれ発表を行うにあたって相互に事前に情報を交換していたとも言われるが、はっきりとはわからない。

アスマンは、ベルリンの科学アカデミーの会合において「高層に暖かい大気の流れがある」と主張した。これは高層で気温が上昇する逆転層を、彼が静的なものではなく動的な大気の流れとして捉えていたためである。「テスラン・ド・ボール」のところで述べたように、1896年から1897年に行われたICYの観測結果では否定されたものの、当時赤道域で暖められて上昇した大気が、
高層で低緯度から高緯度に向けて定常的に流れているとまだ広く考えられていた。彼が「暖かい大気の流れ」と表現したのは、このような赤道域からの暖かい大気が、観測された高層での逆転層と関連している可能性を考えていたためである(Assmann,1902)。

つづく

参照文献
  • Assmann-1902-Über die Existenz eines wärmeren Luftstromes in der Höhe von 10 bis 15 km, Sitzber. Konigl. Preuss. Akad. Wiss, Berlin 24, 495-504.Thomas Birner, 2014の英訳による)

2019年3月2日土曜日

高層気象観測の始まりと成層圏の発見(8) テスラン・ド・ボールによる発見

テスラン・ド・ボールの略歴については「テスラン・ド・ボール」に示したとおりである。彼は無人気球で高層気象観測を行っていたが、1898年4月の夜間観測で初めて高度10 kmで昇温する層を観測した。同年6月8日早朝の観測でも高度11.8 km以上で-59°Cの等温層を観測した。しかし彼は温度が下がらないという測定結果を疑って、科学アカデミーへの報告では高度13 kmで-71°Cに気温を下げる補正を行った(Ohring, 1964)。

彼は1899年1月8日の夜間の観測でも上層で等温層を観測した。彼は測定器カバーからの放射を疑い、温度計をカバーの外に移した。それでも結果は変わらずやはり等温層を観測した(Hoinka, 1997)。彼は同時に複数個の気球を上げて、確認のための比較観測を行ったりもした(Encyclopedia.com, 2008)。

テスラン・ド・ボールの紙製の気球は安価で観測頻度を稼ぐことができた。それにまだゴム製の気球がない時代に、彼の軽い紙製の気球は比較的高い高度まで達することができた。彼が1902年までにパリで行った観測では、236個が高度11 km以上に達し、そのうち74個が高度14 km以上に達した。ついに数多くの観測と注意深い確認により、彼は等温層を観測の誤りや一時的な現象ではなく、実在する定常的な現象であると考えた。

彼は1901年10月のベルリンでの飛行船協会の会合や1902年3月のフランス気象学会の会合でこのことに触れた上で、1902年4月28日パリの科学アカデミーの会合でこの等温層の発見を2ページの文書で報告した(フランス中央気象台長官マスカールが代読したことになっている)。彼は大気の状態によって、高度8 kmから12 kmの間で、温度勾配が極めて緩い等温層かむしろやや昇温する層の存在を明示的に示した。彼はこう記している。

「(1) 低い層からの高度の増加による温度の減少は、すでに調査された高度域では、平均すると乾燥大気の断熱的な変動とほぼ一致する。この減少は、人々が想像するように上昇するにつれてそのまま続くのではなく、最大を通り過ぎるとそれから急速に緩やかになり、平均すると高度11 kmでほぼ止まる。(2) 大気の状況によって様々な高度(8 kmから12 kmまで)から、温度減少が極めて遅い、あるいはわずかに増加する特徴を持つ高度が始まる。この領域の厚さを特定することはできないが、現在までの観測によれば、それは少なくとも数 kmに達するようである。これはこれまで無視された事実であり、きわめて真剣に受け取られるに値する。」(Teisserenc de Bort, 1902)

つづく

参照文献
  • Encyclopedia.com-2008- Teisserenc De Bort, L?on Philippe, Complete Dictionary of Scientific Biography, https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/teisserenc-de-bort-leon-philippe
  • Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303.
  • Ohring-1964-Bulletin of the American Meteorological Society, 45, 1, 12-14.
  • Teisserenc de Bort-1902- Variations de la temperature de l' air libre dans la zone comprise entre 8km et 13 km d'altitude. - Compt. Rend. Seances Acad. Sci. Paris 134, 987-989.(フランス語から英語への翻訳にGoogle翻訳を利用した)