この観測結果は驚きを持って急速に科学界に広がった。テスラン・ド・ボールの報告は、アメリカ気象局の気象学者アッベ(Cleveland Abbe)によって英語に翻訳されたものが同年のMonthly Weather Review誌に、オーストリアの気象学者ハン(Julius von Hann)によってドイツ語に翻訳されたものがMeteorologische Zeitschrift誌に直ちに発表された。同誌にはアスマンの報告も掲載された(Hoinka, 1997)。
おそらく、テスラン・ド・ボールの報告がアスマンの発表よりわずかに早かったことと、アスマンがテスラン・ド・ボールの結果を自分の結果の支持に使ったことから、成層圏の発見をテスラン・ド・ボールの功績に帰している著作物が多いようである。しかし、テスラン・ド・ボールとアスマンの二人の功績と記しているもの少なくなく(Hoinka, 1997)、国の威信をかけた思惑もあってか成層圏の発見者に関する記述は統一されていないようである。
成層圏の発見は、突然起こったことではない。当時有人や無人の気球観測が各地で行われて、その結果気球の構造や搭載測定器の改善が次々に行われることによって、困難な高層気象観測が安定して可能になっていった。当時の高層気象観測の問題として、測定器の安定した回収(発見は住民に依存した)、日射や放射の気温観測への影響、下層空気の持ち上げ、測定器感部の換気(応答の遅延)、記録器の凍結、着地状況によっての測定器や記録の破損などがあり、安定した正確な観測は容易ではなかった。
安定した観測を阻む上記のような要因があったため、高層での等温層はたびたび観測されていたものの、当初それらの結果は観測の誤りと考えられた。高層での等温層の発見を主張するためには、高層気象観測での誤観測を除いた安定した観測結果という質だけでなく、量によってその発見を確実に示す必要があった。
そういう面から見ると、テスラン・ド・ボールには最初の発表者というだけでなく、236回という注意深い多数の観測頻度にも発見の優位性があったと思われる。ただ彼の1902年の発表は、明瞭ではあるが文章による簡単な報告だけで、今日から見るときちんとデータを記載した3日後のアスマンの発表の方が説得力があるように思われる。テスラン・ド・ボールの功績には、その後の世界各地での精力的な観測や活動も大きく影響しているかもしれない。
さらに、ヘルケゼルの功績も評価する必要がある。彼はストラスブルクで自ら高層気象観測を行うだけでなく、科学航空国際委員会の委員長を務めて、国際的な確執-特にドイツとフランス-を緩和・仲裁した。そして、多数地点で一斉に観測を行う「国際高層気象観測日」を制定して、組織的な観測網としての高層気象観測を推進した。また、関係者を集めた会合を多数開催して、各地での観測の状況や結果などを集めるとともに報告書として後世に残した。
ロッチ |
(つづく)
参照文献
参照文献
- Hoinka-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303
- Rotch-1902-The international aeronautical congress, Science, Vol. 16, No. 399, 296-301.
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