2020年2月28日金曜日

フォン・ノイマンについて(11)戦略ミサイルと核戦争抑止

 フォン・ノイマンは「(6)経済学への貢献」で述べたゲームの理論を国防に応用すべきと考えていた。そして、対二次世界大戦後に東西冷戦が激しくなると「もし米ソ開戦が避けられないなら、ソ連が原子爆弾をもたないうちにやるべき」と主張した。これはソ連への先制攻撃を言い張る好戦派、タカ派という評判を彼にもたらした。

 しかし彼はハンガリー生まれのユダヤ人として、母国や同胞の過酷な歴史を知りあるいは体験していた。彼は精通している歴史の知識、深い科学知識、広い人脈と人を動かすための得意の説得力を総動員して、第二の母国であるアメリカがハンガリーの二の舞になって、自分や多くの民衆が迫害を受けることを避けるための最善の手法を考えていたのだと思う。

 彼は確かな将来の予見能力とそれを用いた構想力、論理的に明確な説得力と築いた人脈を通して、さまざまな顧問や委員会の委員を引き受けた。1950年には軍の武器体系評価グループ(Weapons Systems Evaluation Group: WSEG)と国軍特殊武器計画(The Armed Forces Special Weapons Project: AFSWP)の顧問を引き受けた [1]。

 トルーマン政権下の1951年から1953年にかけて、さらにフォン・ノイマンは国防関係の仕事として、①中央情報局(CIA)の顧問、②原子力エネルギー委員会(Atomic Energy Commission)に助言する総合諮問委員会(the General Advisory Committee)の委員、③核兵器の研究開発を目的として設立されたローレンス・リバモア研究所の顧問、④合衆国空軍の科学諮問委員会(Scientific Advisory Board of the U.S. Airforce)の委員を引き受けた[1]。

 空軍は改革推進の作業を加速するため空軍内の様々な委員会を整理統合することを計画し、その要となる委員会の長をフォン・ノイマンに委嘱した。これは通称「フォン・ノイマン委員会」と呼ばれ、空軍直轄の諸計画について空軍長官に助言するほか、軍事ミサイル関係の大型計画についても国防長官に答申する権限を持つ委員会だった[1]。これは彼にとって将来の国防計画に関与する絶好の機会となった。

 そして、1954年にフォン・ノイマン委員会は、ソ連が先行している核弾頭つき長距離弾道ミサイルのアメリカでの開発を答申した。弾道ミサイルの開発には相当な時間が必要である。1957年にソ連がスプートニク衛星の打ち上げに世界で最初に成功したように、当時弾道ミサイルの開発はソ連がかなり先行していた。

 しかしその後、このフォン・ノイマン委員会の答申によって開発に成功したミサイルのうち、ICBMと略称される大陸間弾道ミサイル(アトラス、タイタン、ミニットマン)と中距離ミサイル(ソア、ジュピター)と潜水艦発射のポラリスミサイルは、米ソ冷戦時の戦略バランスに大きな役割を果たした[1]。例えば核戦争の瀬戸際まで行った1962年のキューバ危機の海上封鎖の際に、最終的にソ連が手を引いたことは、これらミサイルによる戦略的効果を如実に物語っている。これは彼が如何に先見の明を持っていたかを示す例の一つかもしれない。

つづく

[1]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書

2020年2月17日月曜日

フォン・ノイマンについて(10)数値予報への貢献2


 「(8)電子コンピュータの開発」で述べたフォン・ノイマンが高等研究所で開発していたコンピュータ(IASマシン)が1951年に完成した。この新型の計算機は、ENIACで24時間かかった計算をわずか5分で終える能力を持っていた[1]。この高速の計算機を利用して、1952年にはチャーニーらは、傾圧モデルを用いて低気圧発達の再現に成功した。

 これを受けて、本の「10-5-2 現業運用での数値予報の開始」で述べているように、現業運用のための数値予報モデルの開発のために、1954年にアメリカでは空軍気象局、海軍気象局、アメリカ気象局の三者が「合同数値予報グループ(Joint Numerical Weather Prediction Unit: JNWPU)」を設立した。これは後に、現在アメリカで数値予報を行っている国立環境予報センター(National Center for Environmental Prediction: NCEP)となっていった。
IAS マシンとフォン・ノイマン(右)。左はオッペンハイマー

 1956年にはシカゴ大学の気象学者ノーマン・フィリップス(Norman Phillips, 1923- 2019)が、大気大循環モデルの計算実験を行った。大気大循環モデルとは、気象予測のようなある一定時間後の波の運動の予測ではなく、長期積分によって平均的な大気循環を調べるものである。本の「10-7-2大循環モデルの発明」で述べているように、彼は準地衡風モデルを約30日間走らせることによって、地球上の大気の典型的な気候学的循環パターンの再現に成功した(「気候学の歴史(7):気候モデルの登場」参照)。

 この大気大循環モデルの成功によって、地球の気候を力学的、熱力学的に調べることができる可能性が出てきた。その将来性に気付いたフォン・ノイマンは、早速大循環モデルのその後の発展のために「Application of Numerical Integration Techniques to the Problem of the General Circulation」と題する会議のお膳立てをした。しかし、がんが進行していたフォン・ノイマンは、1957年に亡くなってしまう。

 数値予報のようなコンピュータを用いた技術開発は、純粋科学の研究を目的としていたプリンストンの高等研究所では必ずしも評価が高くなかった。そのためフォン・ノイマンが亡くなると、気象プロジェクトは高等研究所でのコンピュータプロジェクトとともに終了した。
 
しかしながら、それまでに十分に基盤は作られていた。これらのモデルは本の「10-5 数値予報の現業運用化」と「10-7 気候科学の発展」で述べているように、現業の数値予報モデルと気候モデルとして発展していった。現在、毎日の天気予報にはこの数値予報モデルを発展させたものが使われているし、IPCCなどで議論されている地球温暖化の将来予測は、大循環モデルを発展させた気候モデルあるいは地球システムモデルで行われている。

 気象予測モデルは、観測結果の入力から予測の計算結果の導出までにかかる時間が、気象の発現時刻(予測時間)より速くないと意味がない(予測に使えない)という特殊事情がある。フォン・ノイマンは自身でコンピュータを改善して(プログラム内蔵などにして)数値予報が実用化できるほどにコンピュータを高速化しただけでなく、コンピュータ開発のために気象プロジェクトを立ち上げて主導した。

 当時の気象学の分野は小さかったうえに、伝統的な気象学者にとって、全く新しい電子コンピュータを用いた偏微分方程式の数値的解法は、異次元の分野だった。もしフォン・ノイマンがいなければ、数値予報の開発のために人とお金を集めた大規模なプロジェクトを立ち上げることはできなかっただろう。数値予報の開発は、彼が気象予測のための偏微分方程式の数値的解法と、電子コンピュータ技術の両方をよく理解していたからこそできたことだった。もし彼がいなかったら、数値予報の開発は、実際よりはるかに遅れていたに違いない。

つづく

 [1] Shumann G.F. (1989) History of Numerical Weather Prediction at the National Meteorological Center Weather and Forecasting 4 American Meteorological Society 286-296.

2020年2月10日月曜日

フォン・ノイマンについて(9)数値予報への貢献1

 フォン・ノイマンは1942年に海底鉱脈の仕事に関わった際に、シカゴ大学の気象・海洋学者であるカール=グスタフ・ロスビー(Carl-Gustaf Rossby, 1898-1957)と知り合いになった[1]。ロスビーは、本の9-5高層の波と気象予測」で述べているように、上層の長波(プラネタリー波またはロスビー波)の導出を通して大気力学と気象予報を改革した卓越した科学者だった。

フォン・ノイマンは、1945年頃ロスビーから気象予測が主観的な職人芸となっていることを聞き、気象予測のための非線形偏微分方程式(プリミティブ方程式)を電子コンピュータを使って数値計算すれば、職人芸ではなく客観的な予報ができると考えた。

 一方で、膨大な資金を必要とする電子コンピュータの開発には、資金集めのために人々にとってわかりやすい目的が必要だった。彼は実用的な気象予測と気象制御をその目的の一つに据えた。[1]。彼は例えば北極の氷を染めて反射するエネルギー量を減少させれば、アイスランドの気候をハワイのような暖かな気候に変えることができると考えていた[2]。もちろん、現実には気候はさまざまな要素と相互作用をするので、話はそう単純ではない。しかし、そういった気象の複雑性がわかってきたのは、もっと後のことである。

 本の10-2-3 数値予報への胎動」で述べているように、ものごとをとにかく前に進めることが得意なフォン・ノイマンは、さっそく1946年に海軍などを説得して資金を集めた。そして、電子コンピュータを使った数値予報を研究するために「気象プロジェクト」を立ち上げ、世界の主な気象学者を集めて会議を開いた。それまでばらばらだった予報に対する気象学者たちの考えを、偏微分方程式を数値的に解く数値予報の実現にまとめて、プロジェクトとして一歩前に踏み出させたことは画期的なことだった。

 しかし、本の9-3 リチャードソンによる数値計算の試み」で述べたように、これはイギリスの気象学者ルイス・リチャードソン(Lewis Richardson, 1881-1953)が第一次世界大戦中に手計算で行って失敗した予報の数値計算を、電子コンピュータに置き換えただけでうまくいくわけではないことははっきりしていた。そのためには本の「10-3-3数値予報の課題解決」で述べているように、解決すべき難問が横たわっていた。

 フォン・ノイマンは、プリンストンの高等研究所でコンピュータと数値予報のための気象学の改善を指揮しつつ、プリンストンからワシントンへ、ニューヨークへ、ロスアラモスへ飛んで、またプリンストンに舞い戻る忙しい日々を送っていた。そのため、気象プロジェクトにそれほど時間を割くことができずに、一時期気象プロジェクトは停滞した。

 その打開のために、1948年に素晴らしい数学的才能を持った若手のアメリカの気象学者ジュール・チャーニー(Jule Charney, 1917-1981)が気象プロジェクトに招かれた。本の10-3傾圧不安定理論と準地衡風モデル」10-4実験的な数値予報の成功」で述べたように、チャーニーによってリチャードソンによる失敗の回避が行われ、電子コンピュータを用いた数値予報のための手法が切り開かれていった。

 数値予報の実験は、当初ENIACではなくその後継マシンで行う予定であったが、後継マシン開発が遅れたため、本の10-4-2順圧モデルを使った初めての数値計算」で述べたように、1950年からENIACを使って、順圧モデルという気象の移流のみを予測する簡単化された気象予報モデルで、過去の気象の再現実験が行われた。この際に、順圧モデルを内部記憶装置が小さいENIACで計算できるようにするために、フォン・ノイマンがその手法を開発した。

この結果は、1950年に「順圧渦度⽅程式の数値積分(Numerical integration of the barotropic vorticity equation)」という題で論文に発表された。これは数値予報が実現可能であることを実証した気象学にとって記念碑的な論文となった。この論文の3名の著者の一人としてフォン・ノイマンも入っている。

つづく

参照文献

[1]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書
[2] P. R. Halmos, (1973) The Legend of John Von Neumann, The American Mathematical Monthly, 80, 4, 382-394.

2020年2月5日水曜日

フォン・ノイマンについて(8) 原子爆弾の開発

 「5 戦争への協力」のところで爆弾の爆発のさせ方によって、爆弾の威力に大きな違いが出ることを述べた。アメリカは原子爆弾を開発するに当たって、その威力を最大限発揮させるにはどうすれば良いかを研究した。特にプルトニウムを用いた原子爆弾は、核分裂させて核爆発を起こすためにプルトニウムを適時に臨界量に持って行く必要があり、爆発させるには爆薬を用いて絶妙なタイミングでプルトニウムを圧縮するために、爆縮という困難な爆発制御を必要とした。

 「5戦争への協力へ」のところで述べたように、フォン・ノイマンは非線形の流体力学と衝撃波の専門家でもあり、指向性爆薬の爆発研究ではアメリカ(おそらく世界でも)で随一だったから、爆縮の開発に彼は最適任者だった。彼は原子爆弾開発プロジェクトであるマンハッタン計画を指揮していたオッペンハイマーに1943年にスカウトされて、開発拠点の一つであるロスアラモス研究所へ行った。当時は使える核物質の量や機密保持の観点から、原子爆弾の爆発実験を重ねるわけにはいかなかったので、彼は爆発の数値実験(シミュレーション)という考え方を用いた。

 フォン・ノイマンは1943年から1945年にかけて数学者のウラム(Stanisław Ulam)とIBM社のパンチカード集計機を用いて、爆縮の設計のため偏微分方程式の数値計算を行った[1]。本の「10-2-1気象計算の機械化」で述べたように、パンチカード集計機は、簡単な加減演算が手計算よりかなり速く正確に行えたため、気候統計などの大量計算にも用いられていた。彼は最終的に火薬と点火装置を32面体に配置して同時に点火し、内部のプルトニウムを圧縮するという「爆縮レンズ」という手法を編み出した。これによって、プルトニウムの圧縮は可能という目途がついた。


爆縮レンズの原理

 フォン・ノイマンはロスアラモスで爆縮の計算だけでなく、原子爆弾開発のいろいろな問題にも関与していた。当時原子爆弾の開発や製造には問題が山積していたが、問題解決に行き詰まった人々は、忙しいフォン・ノイマンが部屋から出たところをつかまえて廊下を歩きながら話を聞いてもらっていた。彼が行き先である会議室に到着するころには、問題の答えか、答えに行き着く道筋が見えていたという[1]。

 なお、広島に落とされたウラン型の原子爆弾は、爆発が確実なため実験は行われなかったが、長崎に落とされたプルトニウム型の原子爆弾は、爆縮の効果を確認するため1945年7月16日にニューメキシコ州アラモゴードで実験的に炸裂させて、核爆発することが確認された。それでも長崎で爆発したプルトニウム型の原子爆弾は、爆発のさせ方によっては威力はもっと大きかったとも言われている。

 フォン・ノイマンと一緒に核の連鎖反応のための中性子拡散の計算を行っていたウラムは、1946年に休憩時にゲームのソリティアをしていた。彼はソリティアを成功させるために、残ったカードの組み合わせの数を推定するより実際に成功する場合を計算機を使って数えた方が速いことに気づき、フォン・ノイマンに相談した。これは多数の確率実験を電子コンピュータを使って行うことによって、統計学的に答えを出すことができるというやり方だった。彼らは中性子拡散の計算にそのやり方を適用することにした。そして、ロスアラモス研究所の物理学者メトロポリス(Nicholas Metropolis)が、1947年にENIACを用いてこのやり方で連鎖反応を初めて計算することに成功した[2]。

 この多数回の試行から解の分布を求めるようなやり方は、カジノで有名な都市名に因んで「モンテカルロ法」と命名された[2]。現在、モンテカルロ法は物理現象の数理解析だけでなく、多重処理方式の電子計算機システム、交通・通信サービス施設のシステム設計や運用のためのシミュレーション、生産ライン、人員配置、在庫管理、建設計画等の生産企業諸部門の設計や運用など広範にわたって使われている。

つづく

[1]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書
[2]Gass S. I. (2006) IFORS' Operational Research Hall of Fame: John von Neumann. International Transactions in Operations Research、 13 (1): 85-90