しかし彼はハンガリー生まれのユダヤ人として、母国や同胞の過酷な歴史を知りあるいは体験していた。彼は精通している歴史の知識、深い科学知識、広い人脈と人を動かすための得意の説得力を総動員して、第二の母国であるアメリカがハンガリーの二の舞になって、自分や多くの民衆が迫害を受けることを避けるための最善の手法を考えていたのだと思う。
彼は確かな将来の予見能力とそれを用いた構想力、論理的に明確な説得力と築いた人脈を通して、さまざまな顧問や委員会の委員を引き受けた。1950年には軍の武器体系評価グループ(Weapons Systems Evaluation Group: WSEG)と国軍特殊武器計画(The Armed Forces Special Weapons Project: AFSWP)の顧問を引き受けた [1]。
トルーマン政権下の1951年から1953年にかけて、さらにフォン・ノイマンは国防関係の仕事として、①中央情報局(CIA)の顧問、②原子力エネルギー委員会(Atomic Energy Commission)に助言する総合諮問委員会(the General Advisory Committee)の委員、③核兵器の研究開発を目的として設立されたローレンス・リバモア研究所の顧問、④合衆国空軍の科学諮問委員会(Scientific Advisory Board of the U.S. Airforce)の委員を引き受けた[1]。
空軍は改革推進の作業を加速するため空軍内の様々な委員会を整理統合することを計画し、その要となる委員会の長をフォン・ノイマンに委嘱した。これは通称「フォン・ノイマン委員会」と呼ばれ、空軍直轄の諸計画について空軍長官に助言するほか、軍事ミサイル関係の大型計画についても国防長官に答申する権限を持つ委員会だった[1]。これは彼にとって将来の国防計画に関与する絶好の機会となった。
そして、1954年にフォン・ノイマン委員会は、ソ連が先行している核弾頭つき長距離弾道ミサイルのアメリカでの開発を答申した。弾道ミサイルの開発には相当な時間が必要である。1957年にソ連がスプートニク衛星の打ち上げに世界で最初に成功したように、当時弾道ミサイルの開発はソ連がかなり先行していた。
しかしその後、このフォン・ノイマン委員会の答申によって開発に成功したミサイルのうち、ICBMと略称される大陸間弾道ミサイル(アトラス、タイタン、ミニットマン)と中距離ミサイル(ソア、ジュピター)と潜水艦発射のポラリスミサイルは、米ソ冷戦時の戦略バランスに大きな役割を果たした[1]。例えば核戦争の瀬戸際まで行った1962年のキューバ危機の海上封鎖の際に、最終的にソ連が手を引いたことは、これらミサイルによる戦略的効果を如実に物語っている。これは彼が如何に先見の明を持っていたかを示す例の一つかもしれない。
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