2020年2月5日水曜日

フォン・ノイマンについて(8) 原子爆弾の開発

 「5 戦争への協力」のところで爆弾の爆発のさせ方によって、爆弾の威力に大きな違いが出ることを述べた。アメリカは原子爆弾を開発するに当たって、その威力を最大限発揮させるにはどうすれば良いかを研究した。特にプルトニウムを用いた原子爆弾は、核分裂させて核爆発を起こすためにプルトニウムを適時に臨界量に持って行く必要があり、爆発させるには爆薬を用いて絶妙なタイミングでプルトニウムを圧縮するために、爆縮という困難な爆発制御を必要とした。

 「5戦争への協力へ」のところで述べたように、フォン・ノイマンは非線形の流体力学と衝撃波の専門家でもあり、指向性爆薬の爆発研究ではアメリカ(おそらく世界でも)で随一だったから、爆縮の開発に彼は最適任者だった。彼は原子爆弾開発プロジェクトであるマンハッタン計画を指揮していたオッペンハイマーに1943年にスカウトされて、開発拠点の一つであるロスアラモス研究所へ行った。当時は使える核物質の量や機密保持の観点から、原子爆弾の爆発実験を重ねるわけにはいかなかったので、彼は爆発の数値実験(シミュレーション)という考え方を用いた。

 フォン・ノイマンは1943年から1945年にかけて数学者のウラム(Stanisław Ulam)とIBM社のパンチカード集計機を用いて、爆縮の設計のため偏微分方程式の数値計算を行った[1]。本の「10-2-1気象計算の機械化」で述べたように、パンチカード集計機は、簡単な加減演算が手計算よりかなり速く正確に行えたため、気候統計などの大量計算にも用いられていた。彼は最終的に火薬と点火装置を32面体に配置して同時に点火し、内部のプルトニウムを圧縮するという「爆縮レンズ」という手法を編み出した。これによって、プルトニウムの圧縮は可能という目途がついた。


爆縮レンズの原理

 フォン・ノイマンはロスアラモスで爆縮の計算だけでなく、原子爆弾開発のいろいろな問題にも関与していた。当時原子爆弾の開発や製造には問題が山積していたが、問題解決に行き詰まった人々は、忙しいフォン・ノイマンが部屋から出たところをつかまえて廊下を歩きながら話を聞いてもらっていた。彼が行き先である会議室に到着するころには、問題の答えか、答えに行き着く道筋が見えていたという[1]。

 なお、広島に落とされたウラン型の原子爆弾は、爆発が確実なため実験は行われなかったが、長崎に落とされたプルトニウム型の原子爆弾は、爆縮の効果を確認するため1945年7月16日にニューメキシコ州アラモゴードで実験的に炸裂させて、核爆発することが確認された。それでも長崎で爆発したプルトニウム型の原子爆弾は、爆発のさせ方によっては威力はもっと大きかったとも言われている。

 フォン・ノイマンと一緒に核の連鎖反応のための中性子拡散の計算を行っていたウラムは、1946年に休憩時にゲームのソリティアをしていた。彼はソリティアを成功させるために、残ったカードの組み合わせの数を推定するより実際に成功する場合を計算機を使って数えた方が速いことに気づき、フォン・ノイマンに相談した。これは多数の確率実験を電子コンピュータを使って行うことによって、統計学的に答えを出すことができるというやり方だった。彼らは中性子拡散の計算にそのやり方を適用することにした。そして、ロスアラモス研究所の物理学者メトロポリス(Nicholas Metropolis)が、1947年にENIACを用いてこのやり方で連鎖反応を初めて計算することに成功した[2]。

 この多数回の試行から解の分布を求めるようなやり方は、カジノで有名な都市名に因んで「モンテカルロ法」と命名された[2]。現在、モンテカルロ法は物理現象の数理解析だけでなく、多重処理方式の電子計算機システム、交通・通信サービス施設のシステム設計や運用のためのシミュレーション、生産ライン、人員配置、在庫管理、建設計画等の生産企業諸部門の設計や運用など広範にわたって使われている。

つづく

[1]ノーマン・マクレイ、渡辺正、芦田みどり訳(1998)「フォン・ノイマンの生涯」、朝日選書
[2]Gass S. I. (2006) IFORS' Operational Research Hall of Fame: John von Neumann. International Transactions in Operations Research、 13 (1): 85-90

0 件のコメント:

コメントを投稿