2019年2月5日火曜日

リヒャルト・アスマン(その2)

 ドイツ気象局にいたアスマンは、1892年に「航空学推進のためのベルリンドイツ協会(Deutscher Verein zur Forderung der Luftschiffahrt zu Berlin)」によって進められていた科学目的のための気球観測の計画を引き継いだ。ドイツでの有人気球観測は、1893年3月1日に始まった。搭載した測定器は水銀気圧計、毛髪湿度計、通風式乾湿計と単純な放射測定装置から成った。彼は1895年3月1日にドイツ皇帝(ヴィルヘルム II世)の視察の下で有人気球フンボルトに搭乗して高層気象観測を行った[1]。その後アスマンの強い提案によって、王立気象研究所の第4番目の部門として高層気象観測所が1899年にベルリンに設立された。アスマンは、測定器を搭載した凧と係留気球による定期的な上層観測を推進した[2]。一方で、ヨーロッパでの気球観測は1890年代後半には無人の探測気球(sounding balloon)による観測へとなっていった
気球「フンボルト」

 当時使われていた気球は、ニスやワックスを塗った紙や皮製の開口式定積気球で、高度が増加するにつれて上昇速度が小さくなり、一定高度まで上昇した後に揚力を失ってゆっくり下降した。しかし着陸までに時間がかかるため、風で流されて放球場所から極めて遠くに運ばれることも珍しくなかった。1886年にドイツの気象学者パウル・シュライバー(Paul Schreiber)は気球にはゴム気球を使うべきとの提案を行っていたが、それは忘れ去られてしまっていた。アスマンは1900年頃にドイツのゴム会社コンチネンタルとともに、薄くて軽く良く伸びるゴム製の気球を開発した[3]。
 
 アスマンの密閉式ゴム製の探測気球の特徴は、安価で使い捨てできたこと、平衡高度になることがないため膨張して破裂するまで上昇できることと、そのため同じ高度に留まることによる日射や換気不足の影響を受けないことだった。また、短時間で上昇して破裂するため風に流される距離が少なく、パラシュートを使って観測地点からそれほど遠くない地点で自記測定器を回収できた。これら数多くの利点があったことから、高層気象観測は定積気球に換わってゴム製気球によって世界各地で広く行われるようになり、それは今でも続いている[3]。
気象庁で行われている気球を用いた高層気象観測
(気象庁提供)


 アスマンは1900年以降は、ベルリンでこのゴム気球を用いた高層気象観測を行い、6回の観測が高度11 km以上に達した。1902年5月1日にアスマンはベルリンの科学アカデミーに、自身が発明したゴム気球に通風式乾湿計を搭載して、高層で暖かい気流を観測した証拠を示した[4]。これはテスラン・ド・ボールがパリの科学アカデミーに高層での等温層の観測を報告した3日後だった[3]。
 
 当時ベルリンで行っていた凧観測では、時折失敗した凧観測の壊れたロープが、電線や電話線、路面電車のケーブルの上に落下した。そのため、観測所をベルリンの南東およそ100 kmのリンデンベルク村の近くの小さい丘に移転させることになった。本の8-4-2「気球による高層気象観測」で述べているように、リンデンベルクに独立した科学機関として王立プロシア高層気象台(Das Königlich-Preußische Aeronautische Observatorium)が建設された。1905年10月16日にドイツ皇帝自ら立ち会いの下で開所式が行われ、自由大気の風、温度、湿度の鉛直分布の系統的な観測が行われた。そのような上層の気象情報は、科学的な要請だけでなく急速に発達しつつあった航空学の進展のためにも必要だった。そのため、航空機パイロットに対する無線を使った気象警報サービスがアスマンによって組織された。リンデンベルクにその本部を持つこの観測網は、25の測風気球観測地点と郵便局と電報局の600の雷雨の報告地点を持ち、1911年にその活動を開始した[2]。

 

1905年10月のリンデンベルクの高層気象台の開所式での気球室でのカイザー・ヴィルヘルム2世とアスマン教授(左上)。

 
 アスマンは1917年に夫人を亡くして非常に力を落としたが、ギーツェン大学はアスマンを名誉教授とした。彼は1918年5月28日にギーツェンで亡くなった。享年74歳だった。アスマンは、実用的な乾湿計、便利な高層観測用ゴム気球を発明し、それらは高層気象観測の信頼性や頻度を変えて、高層気象学の水準を向上させた。現在リンデンベルクの高層気象台はアスマンの功績を称えて、リヒャルト・アスマン気象台という名称になっている。

 また高層気象観測結果の解析を通して成層圏の発見にも大きな貢献を行った。本の9-4-1「日本の高層気象観測」で述べているように、日本の初代高層気象台長となった大石和三郎は、1912年からリンデンベルク高層気象台に留学してアスマンから親しく教えを受けた後、高層気象台を開設している。日本の高層気象観測はアスマンが元祖ともいえる。

(次はテスラン・ド・ボール

参照文献

[1]岡田武松-1948-気象学の開拓者、岩波書店、pp308
[2]Assmann, Richard, Complete Dictionary of Scientific Biography, https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/assmann-richard
[3]HOINKA, K. P.-1997-The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Zeitschrift, N.F. 6, 281-303
[4]Assmann-1902-Uber die Existenz eines warmeren Lufttromes in der Hohe von 10 bis 15 km. - Sitzber. Konigl. Preuss. Akad. Wiss. Berlin 24, 495-504.

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