フランスの気象学者テスラン・ド・ボール(Teisserenc de Bort)は、農務大臣を父に持つ資産家の家に生まれた。彼は病弱だったため、南フランスのカンヌに滞在した際に気象学に興味を持った。本の6-2-3「ルヴェリエによるフランスでの天気図の発行」に書いたように、1878年にマスカール(Eleuthère Mascart)を長官とするフランス中央気象台(Bureau Central Météorologique)ができると、彼は直ちにそれに参加し、一般気象サービスの責任者となった。そこで彼は地球物理学の全球規模での理解を得るために、フランスの植民地や船などで気象観測を行った(Fonton, 2004)。
テスラン・ド・ボール |
彼は大気循環や総観規模気象に興味を持ち、数々の解析を行って1886年に気象の活動中心(centers of action)という概念を生み出した。これは年平均気圧からの月偏差などを調べることによって、海陸分布や地形などによる長期間持続する特徴的な気圧分布を示したものである。例えばアゾレス高気圧やシベリア高気圧、アイスランド低気圧などがこれに相当する。これは、後年アメリカで活躍したスウェーデンの気象学者ロスビー(Carl-Gustaf Rossby)などによる長期予報のための考え方に影響を与えた。
地球規模の高層風を調べるため、国際気象機関(International
Meteorological Organization: IMO)が、1896年から2年間の国際雲観測年(International Cloud Year: ICY)を開始すると、テスラン・ド・ボールは私財を投じて、パリ郊外の丘陵トラペス(Trappes)に3ヘクタールの広大な敷地を持つ気象力学を解明するための観測所(Observatoire de météorologie dynamique)を設立した。彼は構内に写真機付きの経緯儀2台を離して配置し、電話線で結んで雲の高度や動く速度・方角を観測したりした。さらにIMOがICYの観測結果を出版する際に、資金がなかったためその経費を負担した(Encyclopedia.com,
2008)。この高層風の観測結果は、本の8-3「地球規模の大気循環」に記したように、それまで知られていた大気循環による地球の熱収支に大きな問題を投げかけることになった。
1898年にテスラン・ド・ボールはそこで高層気象観測を開始した。当初は自記記録装置の回収が容易な凧を用いたが、フランス中が結果を知りたがった有名な「ドレフュス大尉のスパイ事件」の裁判の日に、凧のピアノ線が電信線を切る事故を起こした(Ohring, 1964)ためか、途中から探測気球による観測に変わった。彼は高層気象観測にさまざまな工夫を凝らした。
当時ドイツのアスマンらが気球の材質に重いゴールドビーター皮や加工絹を使ったのに対して、テスラン・ド・ボールはワックスなどを塗った軽くて安価な紙を用いた。彼はファンによって換気を行う洋銀製のきわめて敏感な温度計を造った。それは温度の変化にとても敏感ではあるが、衝撃には強く、急速に温度が換わる層を通過する探測気球に十分に適応した(Rotch, 1900)。
当時ドイツのアスマンらが気球の材質に重いゴールドビーター皮や加工絹を使ったのに対して、テスラン・ド・ボールはワックスなどを塗った軽くて安価な紙を用いた。彼はファンによって換気を行う洋銀製のきわめて敏感な温度計を造った。それは温度の変化にとても敏感ではあるが、衝撃には強く、急速に温度が換わる層を通過する探測気球に十分に適応した(Rotch, 1900)。
それまで他の観測所では屋外で気球にガスを充填して放球していたため、少しでも強い風が吹くと高層気象観測ができなかった。彼は敷地内に大きな回転する充填庫を作って、屋内で気球に水素を充填できるようにした上で、風向に応じて充填庫から屋外に気球を出す向きを変えることができるようにした。
トラペスでの気球放球の様子
(http://www.meteo.fr/interdso/Implantation/Trappes/Historique/ima-Hist/ballon1nb.jpg)
(http://www.meteo.fr/interdso/Implantation/Trappes/Historique/ima-Hist/ballon1nb.jpg)
それと安価な紙製の気球によって、他の観測所に比べて観測頻度が格段に向上した。また、気球が遠くに風で流されないように、一定時間後に下部の気球からガスを抜いて上部の気球をパラシュート代わりにして落下させる装置なども考案した(Fonton, 2004)。
彼は1902年に高度10 km以上で等温層を発見したことを発表し、1908年にはそれを成層圏と名付けた。彼はその後もオランダに高層気象観測所を設置したり、1905~1906年にかけて大西洋上で貿易風の観測を行ったり、1907~1909年にかけては北極圏キルナ(Kiruna)での観測を精力的に主導したりした。1908年にはイギリス王立気象学会から成層圏の発見に対してサイモン・メダルを授与された(Shaw, 1913)。彼はフランスを高層気象観測の先端国に育てたが、1913年に亡くなった。
(次は、高層気象観測の始まりと成層圏の発見(1))
参照文献
- Fonton-2004-Clouds, sounding ballons and stratosphere; Teisserenc de Bort: a life in Meteorology, http://www.meteohistory.org/2004polling_preprints/docs/ abstracts/fonton_abstract.pdf
- Encyclopedia.com-2008- Assmann, Richard, Complete Dictionary of Scientific Biography https://www.encyclopedia.com/science/dictionaries-thesauruses-pictures-and-press-releases/assmann-richard Assmann.
- Ohring-1964-Bulletin of the American Meteorological Society, 45, 1, 12-14.
- Rotch-1900-Sounding the ocean of air. Six lectures delivered before the Lowell Institute of Boston in December 1898. - London: Soc. for Promoting Christian Knowledge.
- Shaw-1913-LEON PHILIPPE TEISSERENC DE BORT, Nature, No.2254, Vol.90, 519-520.
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