2023年7月9日日曜日

気象学の歴史から見た大気の川

大気の川とは

人間の手が届かない上空では、今日でも何が起こっているかを常時監視することは難しい。そのため、ほんの数百メートル上空でもあまり知られていないことが起こることがある。

近年、大気中の水蒸気輸送に「大気の川(atmospheric river)」という表現が使われることが多くなった。例えば2022年3月24日にNHKのコズミックフロントで「アマゾンの“空飛ぶ川” 見えてきた地球規模の水循環」という題のドキュメンタリーが放映された。これは大気の川を取り上げたものである。

この大気の川とは高度数百メートルから数キロメートル程度の大気の低層において大量の水蒸気が輸送されている状態を指している。この状態は世界的にいろんな呼ばれ方をすることがあり、日本では「湿舌」という表現が使われることもある。

そしてこの低層での大量の水蒸気の輸送は、集中豪雨や線状降水帯とも関連している。水は物質であり、突然湧いて出ることはない。大量の雨が降るためにはどこからかその分の水蒸気が輸送されてくる必要がある。2015年の関東・東北豪⾬や2020年の熊本県人吉の豪⾬でも大気の川による水蒸気の供給が関係していたのではないかと言われている。


左図。湿舌を示す水蒸気画像の概念モデル。黒横線域は暗域(乾燥域)、白抜き域は明域(湿潤域),黒矢印は上・中層の流れ、白矢印は暗域の動きを示す。右図。概念モデルと似た状況が起こった高知豪雨時の水蒸気画像(1998年9月23日12UTC). Ds, Dnは暗域を表す。 [1]


世界的に大気の川に関心が向いたきっかけの一つは、南米ブラジル中部での雨だった。本来赤道を挟んだ南北緯度20°付近の亜熱帯では雨が少ない。これは、この付近では地球規模のハドレー循環と関連して亜熱帯高圧帯が発達して下降気流が卓越するため、雨をもたらすような上昇流が起きにくいためである。そのため、南北アフリカやオーストラリアでは、その付近に砂漠が多い。

ところが、同様の緯度でも南米ブラジルは比較的雨が多い。これは気候学的に見ると通常のパターンとは異なる。ここで雨が多いのは赤道付近のアマゾン川上空の湿った東風が、アンデス山脈にぶつかって、南に向きを変えるためと考えられている。これによって長さ2000km以上にわたって幅数百km狭い範囲で強い水蒸気輸送が起こっていることがわかってきた。これはアマゾン川に匹敵する水を運んでいると考えられている。そしてこれを1990年代頃から、これを大気の川と呼ぶようになった [2]。

そして、このような現象が実は世界各地で起こっていることがわかってきた。日本付近の湿舌だけでなく、ハワイ周辺から北米にかけての水蒸気輸送帯は「パイナップル・エクスプレス」と呼ばれて、これが引き起こす大雨を「熱帯水蒸気輸出(tropical moisture export)」イベントと呼ぶこともあった。

そして2000年代に、そのメカニズムがわかるにつれて、「大気の川」という表現が徐々に世界的に使われるようになった。また、これはこのブログの「前線を伴った低気圧モデルの100周年」の「6. 前線に沿った地表大気の上昇」で説明したウォーム・コンベヤー・ベルトとも力学的、熱力学的な特性が共通している部分があることがわかっている。

大気の川の歴史

この大気低層の水蒸気輸送の発見は、それほど新しいものではない。実は「カール=グスタフ・ロスビーの生涯(5)」で示したように、ロスビーが1937年に等温位面解析によって、このような水蒸気輸送があることを示しており、彼はそれを「湿舌(moist tongue )」と称した(合わせてdry tongueも示している) [3]。彼が当時解析したアメリカ大陸上の大規模な湿った空気の流入は、今日の「大気の川」を示していると考えられている [2]。



1936年9月11日の315Kの等温位面の例。実線は等比湿線で、2g/1kg間隔で描かれている。破線は等高線で0.5km間隔で描かれている。H、L、M、Dは高気圧、低気圧、湿潤、乾燥を表す。 [3]より。

温位とはその空気塊が持つ潜在的な熱エネルギーで、その空気塊を断熱的に高度1000hPaに持てきたと仮定した際の温度である。このため、エネルギー保存則により、断熱的な運動をする限り、空気塊はこの温位面上を動くことになる。上図では、メキシコから高い比湿を持った湿潤な大気がアメリカ中央部に向かって温位面に沿って流れ込んでいることがわかる。

ロスビーは等温位面解析(等エントロピー面解析と呼ばれることもある)という手法を編み出し、このような大規模な湿潤大気の流れ込みがあることを明らかにした。これは当然大雨などの予報に有用な情報だったが、電子コンピュータがなかった当時は面的に広域にわたって温位を計算するには時間がかかるため、この解析手法は予報の現業では主流にはならなかった。

前線を伴った低気圧モデルの100周年」で述べたように、1970年頃から前線付近のウォーム・コンベヤー・ベルトという概念が出てきた。そして、大気の川と湿舌とウォーム・コンベヤー・ベルトの3つの現象は、低層での強い水蒸気輸送という共通の特徴と相互に関連しており、特定の状況下では、それらはすべて同じものと考えられている [2]。

そして、大雨の原因となるこの大量の水蒸気輸送を事前に捉えようと、現在さまざまな取り組みが行われている。しかし、日本の場合は海上から高度数百メートルという低層で水蒸気が輸送されてくることが多い。海上に固定観測点を設置することはできず、衛星観測でも発見しにくいため、これを捉えることはまださまざまな困難が伴っている。

科学的新発見のようなものでも、部分的には過去の発見の再発見だったというようなことはよくあることである。大気の川の発見もロスビーによる湿舌の発見の再発見といえるかもしれない。しかし、湿舌の形成過程や特定の地域に大雨をもたらすメカニズムなどが完全に解明されたわけではない。この現象が注目されることによって、大雨に対する防災のためにこれのさらなる解明が進むことを期待したい。

参照文献

[1] 鈴水和史, “水蒸気画像で観測された湿舌の特徴,” 気象衛星センター, 2001.
[2] R. Mo, “Prequel to the Stories of Warm Conveyor Belts and Atmospheric Rivers,” BAMS, American Meteorological Society, 2021.
[3] Rosbby and Coauthors, “Aerological evidence of large-scale mixing in the atmosphere,” Eos, Trans. 18, 30, American Geophysical Union, 1937.




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