アリストテレス自然哲学による二元的宇宙像は、バビロニアでの日食や月食などの現象が「地上の物体に作用する」という考え方と結びついて、地上界の出来事(法則)には必然的に天上界が作用するという考え方(ここでは「地上事象天因説」と呼ぶ)の基本となった(本の1-2「プトレマイオスによる天文学と占星学の始まり」と「アリストテレスの二元的宇宙像」参照)。地上事象天因説という考え方には占星術による運命決定論のようなものが含まれる。地上界のあらゆる出来事は天上界の動きによって予め決まっているという考え方である(「・・・の星の下に生まれた」という言い方はそのような考えに基づいている)。
ところで、キリスト教にとっては自由意志を持つことは不可欠であった。地上事象天因説による「星の動きが自然の法則的必然性に従って人間の運勢や地上界の事象に影響を及ぼす」という考え方は、キリスト教から見ると全能のはずの神の働きを不当に制限するものであり、占星術による運命論・決定論は人間の自由意志と道徳的自律にも反することになった。
そもそも神による奇蹟を認めるキリスト神教は、自然が自身の法則性にのっとって自律的に振る舞う古代ギリシャ自然哲学の世界観とは相容れない。4世紀から5世紀にかけてのキリスト教の聖人アウグスティヌス(Aurelius Augustinus)は、自然に対する知識欲を「目の欲」として現世の罪の一つに挙げ、知識欲は他の肉体的欲求と同様に克服すべき欲望と見なされ、自然の探求は禁止すべきとした。
キリスト教会は、400年の第1トレド教会会議で「占星術や骨相学は信頼に価すると考える者は排斥される」と決議し、さらに561年の第1プラガ教会会議でも占星術を公式に否定した[1]。その後、ヨーロッパでは古代ギリシャ哲学の書物は、イスラム圏に流出したもの以外は教会の書庫の奥に眠ることとなり、その内容は次第に忘れ去られてしまった。そのため、この時期を科学の暗黒時代と呼ぶことがある。
ところが12世紀ルネサンスの過程で、イスラム圏からの流入によって、ヨーロッパの知識人たちはアリストテレス自然哲学の地上事象天因説に基づく占星術を知ることになる。そしてアリストテレスの自然哲学が大学で教育され西欧の知識階級に浸透してゆく過程で、地上現象天因説に基づく占星術は一般の人々を広く魅了して浸透していった(本の「2-1-2古代ギリシャ哲学の復活」参照)。キリスト教は、一方的な禁止や弾圧ではアリストテレスの自然哲学を抑えきれなくなってきた。その危機に直面したキリスト教神学を救ったのが、13世紀のドミニコ会士トマス・アクィナス(Thomas Aquinas)である[1]。
問題は、天上界がどこまで地上界に影響を及ぼすのかだった。トマス・アクィナスは、「物体としての天体は物体としての人間の身体には作用するが、非物体としての人間精神や意志には直接作用することはない。」としてキリスト教と地上事象天因説を調停した。彼の神学思想は、死後一時異端と判断されたが、1322年に復権してキリスト教世界で公式に認められ、14世紀中期に正統神学の地位を確立した。1348年から翌年にかけてヨーロッパを襲ったペストにさいして、正統派キリスト教神学の総本山だったパリ大学は、ペスト発生の原因を天上界の影響として国王に報告した。つまりキリスト教は地上事象天因説を完全に認めた[1]。
こうして、アリストテレスなどによる古代ギリシャ自然哲学は、公に研究できるようになった。ここを出発点として、アリストテレスやプトレマイオスの宇宙論も研究されるようになった。また占星術の隆盛は、より正確な天文知識を求める需要を引き起こし、天文学の研究を後押しした。これらは、引いてはいわゆる科学革命へとつながっていくことになった。「アリストテレスの二元的宇宙像」では二元的宇宙像の科学への貢献を述べたが、そのためには、キリスト教の教義を乗り越える必要があった。神学者トマス・アクィナスはそれを可能にし、その後の科学の進歩に大きな影響を与えた。
(次は、成層圏準二年振動の発見(1) クラカトア東風とベルソン西風)
Reference
[1]山本義隆、世界の見方の転換1 天文学の復興と天地学の提唱、みすず書房、2014.
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