2023年8月4日金曜日

独ソ戦における長期予報(5)

予報を巡る2つの出来事

このように、1941年のドイツ軍によるモスクワ侵攻の失敗は、補給に大きな問題を抱えており、厳寒を予測できなかった長期予報の外れだけが決定的要因とは言えない。しかし、長期予報が作戦に大きく影響していることは間違いない。当時の予報を巡る2つの出来事を見ていく。

「観測が間違っているに違いない」

12月8日頃、ZWGのチーフだったディージングは、軍の長期予報を担当していたバウアーに電話した。これは東部ヨーロッパで異常に低温になっていることについて、バウアーが以前に出した平年並みか暖冬という長期予報内容を継続するのかどうかについての問いだった。長期予報の内容を継続するかどうかは、その後の作戦に影響する可能性があった。

ディージングによるヨーロッパ東部で低温になっているという報告に対して、バウアーは「観測が間違っているに違いない」と答えたことになっている。これによって同僚らはバウアーに不信を抱くようになった [4]。

この件は、ディージングが予報の外れを責められたためか翌年体調を崩して死去し、後任としてZWGのチーフとなったシュヴェルトフェーガーが、フローンの話を元に戦後にこれを明らかにしたことで有名となった。この話は独善なバウアーが自己過信して事実でさえ受け入れなかった話としてわかりやすい。しかし、前後の文脈で話のニュアンスが大きく異なることもある。また気温の観測は局所的な観測環境にも大きく左右される場合がある。この種の話はそこだけ切り出して使わない方が良さそうである。

ソ連の予報

第二次世界大戦中にソ連水文気象予報センターは、3日後、「自然総観気象の期間」(7~10日後)、1か月後、3か月後までの予報を定期的に作成していた [4]。ただし、長期予報の精度は当時の世界的な気象学の水準から言って限界があったと思われる。しかし、数日後までの精度は良かったようである。

ドイツ軍がモスクワまで100kmの位置に迫っていた1941年11月初めに、ソ連は士気を鼓舞するためにモスクワで大規模な軍事パレードを計画した。しかしそのパレードは、ドイツ空軍がモスクワを空爆できないように上空に低層雲が広がる日を予測して、その日に実施する必要があった。予報当局は、11月7日は低い雲に覆われて雪が降ると予報した。実際にその予報は的中し、パレードはその日に行われた [4]。

1941年11月7日にモスクワで行われたパレード
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e9/Kuybyshev_battle_parade_1941_05.jpg

また、1941年12月の反攻開始の際も、反攻の計画段階と実行段階の両方において予報と実況が重要な役割を果たした。予報では、12月5~7日に寒冷前線の通過で気温が急速に低下して雲量が減少すると予報され、それによってソ連の航空隊による航空攻撃が可能になるこれらの期間が反攻開始日として決定された [4]。そして気象予報は当たり、この時期に反攻が開始された。

これからこの時点で、ソ連の気象当局が前線解析を行うベルゲン学派の気象学を既に採用していたことがわかる。日本の中央気象台がベルゲン学派の気象学を導入したのは戦後である。

攻撃するソ連軍兵士
https:/commons.wikimedia.org/wiki/Commons:RIA_Novosti/Battle_for_Moscow#/media/File:RIAN_archive_301_An_attack.jpg;

 まとめ

フランツ・バウアーは1941年10月に、ヨーロッパ東部の冬季は「平年並みか暖冬になる」とした長期予報をドイツ軍に提供した。それを信じたドイツ軍は十分な冬季の装備を整えずに侵攻を続けた。その結果、12月初めに厳冬にさらされたままソ連軍の反攻を受けて、多大な損害を受けて退却した。

バウアーは戦争中の自分の活動について、公には何も資料を残さなかった。しかし、彼の死後、彼が行った予報の開示と弟子であったフローンによる回顧録によってバウアーの予報は、人々に大きく批判されることになった。

そもそも泥濘期というヨーロッパ東部の気候をよく調べないままに侵攻を開始したドイツ軍は、補給についての甘い見通しもあってモスクワの早期の占領に成功する見込みは低かった。さらに、戦争が冬季まで長引きそうなことがわかっても、平年並みか暖冬を言う長期予報を信じて、冬季の備えを十分にしなかった。ドイツ軍首脳の意識は、最前線の戦力や作戦については重要視していたかもしれないが、補給や気候については、それほど重要視していない状態で独ソ戦を開始した。

ドイツ軍は長期予報を信じて、防寒対策を十分に施さない状態で異常寒波とソ連軍の反攻にさらされた。しかし「平年並みか暖冬になる」という長期予報は、[2]によるとバウアーが出した予報内容としては、正確ではないとしている。

バウアー自身の記録によると、「時間的にも空間的にも、平均して西・中枢ヨーロッパでも北・東ヨーロッパでも冬は厳しくはないだろう。特に北・東ヨーロッパでは、冬の平均気温が平年値を上回る確率の方が、寒すぎる冬になる確率よりも大きい。」という留保をつけていた [2]。 

バウアーは、確かに「平年並みか暖冬になる」という表現を使った。彼も人間である。寒い冬が続けば、次はそうではないだろうという思いがあったのかもしれない。彼がそういう表現を用いたのには、前回の冬が厳寒だったことも影響したようである。

バウアーが得意とした統計学からすると、気候の発現は独立事象なので前年の状況とは関係しない。サイコロで1が出たとしても、次に1が出る確率はやはり1/6である。彼は当然そのことを認識して統計的な留保もつけていた [2]。しかし、そういった留保は無視され、「平年並みか暖冬になる」という表現だけが一人歩きした観が強い。

また、仮にバウアーが10月末に冬季に厳冬になるという予報を出していたとしても、補給が逼迫していたドイツ軍では、前線に十分な冬装備を供給することは困難だっただろう。それでもそういう予報があれば、厳冬に対する兵士たちへの影響を少しは緩和できたもしれない。

しかし、いずれにしても長期予報の外れによるドイツ軍の敗退を、バウアーの責任にするのには無理がある。当時の長期予報は不確定なもので(今でもある程度そうだが)、そのことを十分に知っておれば、(補給を含めて)作戦計画を長期予報に全面的に依存するのは適切ではない。長期予報が使えないというわけではない。ただその利用方法としては外れた場合の備えも必ず必要となる。当時のドイツ軍が長期予報を信じて寒波に対する手を打たなかったとすれば、それは当時の気象学の水準を無視した長期予報への一種の過剰依存といえるだろう。

結局バウアーは、統計学を用いた心底からの中・長期予報研究者だったと言えるかもしれない。彼は生涯を通じて統計的手法を使った長期予報手法を一貫して追及し、一時的には世界的に注目されたが、その評価はまだ定まっていない。統計学は気候に有用な情報をもたらすことはあるが、その結果からは原因はわからず、また統計である以上当たらないこともある。彼はハンガリー気象学会からは賞を受けたが、母国からは業務に対する功労十字章を受けたのみで、科学的な栄誉は与えられなかった。

結局10日程度の中期予報は、現在では数値予報に完全に取って代わられているし、長期的な季節予報も確率を用いた慎重な表現が使われている。彼が行った長期予報は、統計的な部分が無視され、わかりやすい部分だけが使われたのかもしれない。それは彼の本意ではなかったろう。

当時長期予報を行える人は極めて限られていた。長期予報の学問的関心が短期予報に比べて相対的に低かったことや彼の性格から、彼は長期予報の中心的作業をほとんど一人で行っていたと思われる。そのため、その責任も結果的に一人で引き受けることになったのだろう。そういう意味では、彼は確かに「悲劇の一匹狼」だったのかもしれない。

(このシリーズ終わり。次はバルジの戦いの予報

参照文献(このシリーズ共通)

[1]  大木毅, 独ソ戦, 岩波書店, 2019.
[2]  R. Wiuff, "Was Franz Baur's Infamous Long-Range Weather Forecast for the Winter of 1941/42 on the Eastern Front Really Wrong?," Bulletin of American Meteorological Society, 第 巻JANUARY 2023, pp. 107-125, 2023.
[3]  H. E. Landsberg, "Franz Baur, 1887-1977.", Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[4]  Neumann and Flohn, "Great Historical Events That Were Significantly Affected by the Weather: Part 8, Germany's War on the Soviet Union, 1941-45.1. Long -range Weather Forecasts for 1941-42 and Climatological Studies.," Bulletin of American Meteorological Society, 68,  6, pp. 620-630, 1987.
[5]  R. M. Friedman, APPROPRIATING THE WEATHER, Cornell University Press., 1993.
[6]  H. E. Landsberg, "Necrology Franz Baur 1887-1977," Bulletin of American Meteorological Society, 59, pp. 310-311, 1978.
[7]  田家康, 世界史を変えた異常気象: エルニーニョから歴史を読み解く, 日本経済新聞出版, 2011.


 

 

 

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